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前回からの続き。 セスの話はいよいよ死の真相を解き明かす。何度も先んじて紹介したが、人間は死にはしない。ただ、唯物論に染まっている人は、唯物論から死をつくっているのである。というのも、人間の意識はあらゆる創造が可能だからで、死をつくるからである。 つまり、死ぬと思えば死ぬわけで、想念の問題なのである。勘違いして欲しくないのは、ここでいう「死」とは、肉体から離れるという意味のもので、意識がなくなるわけではない。 だから、「死ぬ」と信じる意識は、意識の活動を自ら抑制しているわけである。俗に自分で自分の首を絞めているのに気づいていない。 これと同じようにやたらと自分だけの正義を振りかざす意識は、その正義の奴隷となっているわけで、意識の活動を自らで制限しているのと同じである。固定観念ほど恐ろしいものはない。 いまのアメリカ動物園の園長(大統領)のアホが、その典型である。そのうちまた戦争するために、性懲りもなく米国憲法違反をやらかすだろう。一体、いつになったら米国は、真の戦犯者である歴代の憲法違反大統領を裁判にかけるのだろうか? 一刻も早く、ワシントンの「他国に干渉せず」という建国の精神に立ち返ってほしいものである。 では、セスの話を続ける。 第9章 セッション535……1970年6月17日(水曜日)午後9時 第2部第9章を始めたいと思います。この章は「『死』の体験」と題することにいたします。 死の瞬間には何が起きるのでしょう。 この問いは、この問いに答えるよりも遥かに簡単です。この問いの「死」の意味での「瞬間」というものは、基本的には存在しません。それはたとえ突発事故による死であっても同じです。 しかし、貴方がたが「現実にある」と考えている、この問いに対し、私はできるだけ現実的な答えを出すよう心掛けたいと思います。一般の人々にとって、この問いが一体どのような意味をもつのかと申しますと、つまり次のようなことでしょう。 自分の肉体がもはや息をしなくなったとき、何が起きるのだろう。 自分は何を感じるのだろう。まだ私のままでいるのだろうか。私を生へと駆り立てている思いは、ずっと同じように在り続けるのか。天国や極楽や地獄はあるのだろうか。そこで私を出迎えてくれるのは神様や仏様か、それとも鬼や悪魔だろうか、生前憎しみ合った人たちなのか、それとも愛し合った人たちだろうか……。 そうした問いの大半が意味するものは、自分は死んだ後も現在の自分のままで、自分が大切に思う人々を思い出せるのか、というものです。 それならば、私もそうした見地からお答えすることになりますが、その前に生と死の本質に関して、一見、現実的(事実)でない見解がいくつか横行しているようですので、まずそれらに対処しておく必要があります。 たったいま述べた事実を最初に検討していきましょう。独立して存在するような、不可分で特定的な「死の瞬間」というものはありません。 生とは「何かになろうとしている状態」で、死とは、その「何かになろうとしている状態」である「生の一部」なのです。 貴方は、いま生きておられ、意識は自らを認識しています。貴方は、その生において、死んだり、死の間際にある細胞の残骸に囲まれながら、認識される存在として光り輝いているのです。 肉体の原子や分子は、死と再生を繰り返しています。つまり貴方は、極微の死に囲まれながら生きている、ということになります。要するに、自らの実像の一部が刻々と崩れ去り、その度に、その一部がとり替えられているのですが、貴方自身がそれを意識することはおそらくないでしょう。 従って、いまこうしている間にも、ある程度は自身の死の最中で生を営んでいる、と言う事ができるのです。物質的見地からしますと、貴方は己の肉体で無数の死と再生が繰り返されているにも関わらず、生きています。 一方から言えば、貴方の生は、そうした死と再生に支えられている、とも言えるのです。 もし肉体の細胞が死んで、そのつど補填されなければ、貴方の物質的実像は存在し続けることができません。そのため、ご存知の通り、貴方の意識は絶えず変化を続ける身体像のまわりで明滅しているのです。 貴方の既知の意識は、多くの点において蛍(ほたる)の発光に譬えることができます。なぜなら、貴方の意識も絶え間なく連続しているように見えますが、そうではないからです。意識もまた蛍の発光のように明滅しており、これまで述べてきたように、完全に消え失せることはありません。 それでも意識の焦点は、貴方がたが考えておられるほど不断のものではないのです。貴方にその自覚がなくても、自身の無数の小さな死の真っ只中に実際生きているわけで、また己の意識が煌く生の最中にあってもしばしば「死んでいる」のです。 私は、貴方がたの言葉を用いています。従って「死んでいる」という言葉は、ここでは物質的現実から完全に焦点を外した状態を意味します。 極めて単純に申しあげますと、いま貴方がたの意識は、物質的に生きて、物質に適応している時間の長さと同じ分だけ、実は物質的に生きておらず、物質に適応していません。 貴方がたを混乱させてしまう可能性もありますが、私たちはこの点を、願わくばできるだけ明確にしておきたいのです。意識は振動しており、波動を形づくります。しかし貴方がたは、そのことも認識してはいないでしょう。 次の比喩を考えてみてください。意識には、物質的現実に焦点を合わせている「生」の瞬間があります。そして次の瞬間には、既に意識は完全に別の場所の別の現実体系に焦点を合わせています。 貴方がたの考え方では、後者は生きていない、あるいは「死んでいる」瞬間と見なすことになります。 そしてまた、その「死」の次に来る瞬間が、再び「生」の瞬間で、貴方がたの(物質的)現実に焦点が定まっています。しかし貴方がたは、「生」の瞬間と次の「生」の瞬間の狭間に現われる「死」の状態には気づいていません。 従って、自分が連続的な存在である、という感覚は、全て意識の波動の1つおきの「うねり(パルス)」の上に成り立っている、と言うことができます。理解されましたでしょうか。 これはあくまで比喩であることをお忘れにならないでください。ですから「瞬間」という言葉にしても、あまり字義通りに受け取ることのないようにしてください。意識には、意識の裏側と呼べる部分があるのです。 さて同様に、原子や分子も、貴方という体系のなかで「死んでいる」、もしくは不活性な状態と、生き生きとした、活性化した状態とを、繰り返しながら存在しています。 しかし、貴方は、こちら側に存在しない不活性な「死」の瞬間を知覚できません。貴方がたの物質的宇宙全体は肉体をはじめ、みな原子や分子で構成されています。それゆえ、私は、構築体としての宇宙全体が、意識と同様な在り方をしている、と申しあげているのです。 宇宙は明滅しながら存在しています。言い換えれば、宇宙はいわば呼吸のような一定のリズムをもって、明滅を繰り返しているのです。 宇宙全体にわたるリズムがあり、そのなかに個々のリズムのバリエーションが無限に存在します―その様子は、宇宙規模の新陳代謝に近似しています。 こうした角度から見ますと、貴方がたが、「死」と呼ぶものは、その振動の振れ、または波動の「うねり」のうち、貴方の認識しない部分で、そのうちの波長の長いものが、次の認識に繰り込まれた状態、と言うことができるのです。換言すれば別の次元での長い中休みなのです。 (最初の生よりも、次の生において活発化することで、間に死があったことがわかる。死は、ジャンプする前に屈むのと同じ。キリストの復活も同じ。キリストは、人は死なないことを教えにきた。) 肉体の死は、そうです。貴方がたの体系でご存知の生の過程の一部であり、「何かになろうとしている状態」の一過程にすぎないのです。そして、死んだ組織の只中から、ご存知のように「新たな生」が生まれるのです。 意識―ここでは人間の意識を言いますが―は肉体には依存していませんが、たとえ微々たるものであっても、その顕現に関与しないものは存在しません。例えば貴方の個としての意識が、これから説明させていただく方法で、肉体を離れた場合、原子や分子などのそれほど複雑でない意識は、消滅せずに肉体に残り、存在し続けます。 さて……貴方がたは現状において、自身が定めた唯一の身体像に依拠している、と独断的に思い込んでいます。つまり肉体をもってはじめて自分という存在が成立する、と考えているのです。 先にも述べましたように、貴方が自分であると見なす肉体は一生のうちに、部分的に死に続けてゆくので、現在の肉体には、10年前には(肉体を)形作っていた物質粒子はもはやただの1つも含まれてはいません。 今の貴方の体は、10年前のとは全く別ものなのです。10年前の貴方がたの体―読者の方々に慈しみを込めてお伝えいたしますが―それはとうに死んでいるのです。 しかし明らかに、貴方がたは自分が死んでいる、とは感じていません。貴方の目は完全に新しい構成要素から成っている、にも関わらず、いまこうして、この書を読めるのですから、それも当然でしょう。 それでも現在の貴方の瞳と「同一の」瞳は、10年前には存在していませんでした。しかしながら、一見、貴方がたの視覚には、これまでに大きな変化や切れ目がなかったように思えます。 それはおわかりの通り、こうした過程が極めてスムーズに進行するため、貴方がたに自覚されることはないからです。先に述べた波動の「うねり」あるいは振動の「揺れ」の長さが極端に短いゆえに、貴方の意識はそうした切れ目を軽々と飛び越えていきます。 しかし、波動の「うねり」が長いリズム(振動)が生じると、貴方の物質的な知覚力では、その間隙を埋めることができません。そこで貴方は、そうした長い切れ目を「死」として認識するのです。 従って、貴方が知りたいことは、自分の意識が、物質的現実とは別の方向を目指していて、どのような肉体像をまとえばよいのか歴然としない時、一体どうなるのか、ということになります。 極めて現実的に申しあげますと、貴方がた一人一人が既に「個の存在」なのですから、答えは1つだけではありません。概して言えば、勿論、「個の存在」のなかに、この「死」の体験の主題に迫る答えを見つけることは可能です。 しかし、この「死」には、意識がくぐりぬけることになる体験が大きく関与してきます。また、意識自体がどれだけ進化しているか、そして意識が己の体験をどう扱うか、という点で、意織が採択する方法全般の特徴が関わってきます。 「何を現実と思うか」などの考えを含め、貴方の保持する概念は、死後の体験を大きく特徴づけることになります。それは、自らの信念に照らし合わせて体験を解釈しようとするからです。 今でさえ、貴方がたは日常生活を分析する際、何が可能で何が可能でないか、という概念に従って解釈を試みていることは周知の事実です。貴方がたの意識は、様々な変動要因のもと、ゆっくりと、もしくは駆け足で肉体を去ることになります。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月31日
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前回からの続き。 セスの話からわかることは、唯物論の弊害と、食事や睡眠のとり方の問題である。食事も睡眠も、短時間に頻繁にとることで、全体量を抑え、更に頻繁に、この世とあの世を交互に何度も旅することで、あの世の情報を、この世にもたらし、睡眠中の自我と、覚醒時の自我の統合をはかることが、現代人の課題といえる。 すると、人は死なないことがわかる。というのも、意識に、死などないからである。現代人はなんと愚かで、自分で自分を洗脳しているのだろう。洗脳を脱却するために、セスの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 以前この章のなかで、睡眠時間に関わる習慣について提案をさせていただきましたが、それを実生活に取り入れることは、そうした意識のリズムを自然に活用することでもあります。 意識活動のピークも、ずっと頻繁に体験できるようになるでしょう。集中力が増し、周囲の問題が明確になり、学ぶ素質もより有効に活用されるようになります。 さて……覚醒状態にある意識に割り振られた「休息のない徒長した」時間に、血液中に、化学物質の増加が見られます。それらの化学物質は、睡眠中に排出されるのですが、肉体から活気を奪い、意識の集中を妨げます。 意識をクリアにするために、更に、すっかり習慣化している長時間に及ぶ夜の睡眠時間が必要になってくるのです。 かくして悪循環が形成されます。この悪循環によって、夜間の肉体が過剰な刺激を受けることを余儀なくされる上、睡眠時間が引き延ばされた挙句、夜中じゅう連続して肉体の浄化作用が行われるため、肉体の仕事を増やす結果になってしまいます。 この浄化作用にしても、理想的には、それよりも短時間の休息で充分賄えるものなのです。自我は、この引き延ばされ、免れることのできない「賜暇(しか)」に恐れを抱き、睡眠を警戒するようになっていき、それゆえ、夢見状態に対して防御壁を打ち立てるのです。こうした境界の多くは極めて作為的なものです。 (長時間睡眠が不眠症につながる。) その結果、見せかけの二元性が生じ、同じ自己の一部同士の一方が、他方に対して不信感を抱くことになります。その過程で、非常に実際的な価値をもつ創造的な情報などが大量に失われることになったのです。 (自我の分裂。夜の自我と昼の自我の争い) しかし、ここで開示した(睡眠時間の)方法により、そうした情報を再び手に入れる可能性が大きく膨らみ、また覚醒状態の自己も今以上に活気づくことになります。 更に、夢に現われる象徴もかなりの明瞭さを見せるようになり、例えば貴方の現在の睡眠時間を経ても、忘失することがなくなります。筋力も恩恵を得ることになるでしょう。血液の浄化も効果的になされます。 しかし最も大きいのは、「何ものにも脅かされることはない」という感覚が増した自己の「主部」と、最初に創造の煌きを見た自己の「末端部」との間に、遥かに好ましい意思疎通が交わされるようになることです。 聡明で取り乱されることのない、頼もしく力強い意識が、その力を維持して現実を的確に解釈し続けるためには、頻繁な休息をとる必要があります。さもなくば、知覚結果を歪めることになってしまいます。 治療として休養や睡眠をとる場合、なかには非常に長い睡眠時間が治癒の助けになる場合もありますが、それは長い睡眠そのものが有益なのではなく、体内に多くの毒素が蓄積されていた分だけ、長時間の睡眠時間を要した、ということなのです。 現在の貴方がたの習慣をそのまま放置したなら、確実に学びの過程が害されるでしょう。なぜなら、意識には、学びに同調しやすい一定の時間が必要なのにもかかわらず、貴方がたは、意識の周期を見極めることができず、意識の活動が最小レベルにある時でも、意識に対して学ぶことを強要しようとするからです。 創造力や超自然的能力は、この人為的な区分が存在するために、背景へと追いやられてしまうようになります。その結果、活動の全てを左右する二元性が生じてしまうのです。 場合によっては、貴方がたの意識活動が、最大レベルに達するような時に、自らに睡眠を強制していることもあります。ついでに言えば、それは夜明け前の時間帯にあたります。 (日が昇る時に起きるべき) 午後には意識の活動が低迷する特定の時間帯があり、本来、休息が求められるところですが、そうした時間帯の存在は否定されています。 (夕食後に仮眠をとるべき) 現在、睡眠中の意識状態については研究されていますが、もし覚醒時の意識状態に関しても同様な研究がなされることがあれば、貴方がたが薄々感づいている以上に、遥かに意識活動の大きな振幅が確認されることでしょう。 意識状態の推移については、現在、完全に見落とされているものがあります。多くの点において、意識は、実は明滅し、その集中度は様々である、と言うことができます。意識は、むらのない一条の光線のごときものではないのです。 セッション534……1970年6月8日 (月曜日)午後9時5分 意識には沢山の特質があり、勿論、そのなかには、貴方がたがご存知のものもあります。しかし、多くはそれほど明らかではありません。なぜならば現在の貴方がたは、知覚結果が、「真実」から相当異なって現われる方法で、自らの意識を使っているからです。 別の言い方をすれば、自分の意識を、肉体という媒体を通して認識している、ということです。ですから、主として肉体という媒体を通さずに働く時の意識、例えば体外離脱や、肉体と乖離した状態で働いている意識についてはほとんど認識していません。 貴方がたが肉体にある時も肉体の外にある時も、意識の特質は同様です。前に触れた意識活動の「山あり谷あり」に関しても、全ての意識に当てはまり、このことは死後の意識によって採択される形態をまとった時にも変わりません。 貴方がたの意織の本質は、現在の状態においても基本的には相違ないのですが、貴方がたはその性質の多くを自覚していない可能性があるのです。 例えば、気づきもされていないようですが、貴方がたの意識には現時点でもテレパシーや遠隔透視の能力があるのです。往々にして自分が無意識にあると見なしている睡眠においても、むしろ貴方がたの意識は、現時点より遥かに目醒めている可能性があります。 けれども睡眠時の意識は、単に覚醒時には、受け入れることがない意識の能力を使っているにすぎません。そのため、そうした能力を、自身の意識的な体験から締め出してしまいます。 私の意識や貴方がたの意識はもとより、どんな意識も時間と空間という両者からは、極めて独立した在り方をしています。そして貴方がたは死後になって、それまでともにあった偉大なる意識の能力について、完全に気づくのです。 意識の偉大なる能力は、言うまでもなく貴方とともにあるのですから、今ここでそれらを探しあて、その使い方を学ぶことは可能です。そうすることは、貴方がたの死後の体験を直に手助けすることにもなります。 もし、例えば自分の意識は肉体に封じ込められてなどおらず、思うそばから、肉体以外の自己の一部を創り出せる、ということを、死に先立って理解していれば、その時になって起きる自然な反動にも少しも慌てることはないでしょう。 肉体とともにある意識を「過度なまでに自分であると見なす」人々は、自ら創造した苦痛の種に理由もなく苦しめられ、肉体のそばにぐずぐずといつまでも居残る羽目になる可能性があります。 それはまさに、「自分は全く見捨てられ、他に行くところがない」と思い込んでいる霊のことを言っているのです。 以前にも申しあげたように、貴方がたは今既に霊なのです。そして、その霊には意識があります。ですから意識は霊に属しているわけですが、その二者は同じものではありません。霊は、自らの意識を作動させたり、止めたりすることがあります。 意識は、その本来の在り方ゆえに、明滅したり、振動したりすることがありますが、霊にはそのようなことはありません。 私は「霊」という言葉を特に気に入っているわけではありません。既に、その言葉には幾つかの含意があるからです。しかし、その言葉が「物質形態には依存しない在り方」を示唆している、という点においては、私たちの目的にかなったもの、と言うことができます。 意識は、睡眠時に自らの回復を期しているわけではなく、単に別の方向へと向きを変えているだけなのです。よって、そのとき意識は眠っておらず、たとえ動作が止められたとしても、電灯が消される、のとはわけが違います。 「動作を止める」ということは、スイッチを切ると電気の明かりが消える、のとは違い、意識が消滅する、ということではありません。このまま比喩を続けますが、もし、意識が貴方がたに帰属する、電灯のようなもの、であったとすると、たとえスイッチが切られても、そこには暗闇でなく一種の薄明かり、が残ります。 従って、霊は、意識が消えても無の状態になることはありません。その点の認識は極めて重要です。意識は消滅しない、ということを理解するのは、大変重要です‥…。 〔ここで、ジョーゼフ(筆記者)が、「実際に意識を失う」〕 ジョーゼフ(筆記者)、貴方は今夜、「意識は消滅しない」という情報の内容を、実際に実践に移していたのですよ。 さて……私たちの実践は、言うまでもなく、ご親切にもジョーゼフ(筆記者)に手をお貸りいただいたものですが、お伝えしたばかりの情報の内容を、実践に移していく際の幾つかの要点が示されました。 先に私は、貴方がたが自身の意識の特質のなかでも、慣れ親しんでいるのは肉体という媒体を通して使っているものだけである、と述べました。つまり意識が知覚した事柄を表現していく際には、肉体をあてにしているのです。貴方がたは、肉体を伴う意識の表現をより好んで認知する傾向があります。 私たちがお見せした実践では、ジョーゼフは自らの意識を後退させ、あるところまで意識の物質的表現を差し止めることを容認したのです。勿論、ジョーゼフはこの実践において、そうした体験を許諾していました。しかし、ジョーゼフ自身には許諾したことに関する意識的な自覚はありません。 それは、こうした実験が、単に覚醒状態の通常意識が前もって、それを把握していては、成立しない類いのものだからです。従って、仰天して当然なのです。私は意識が不鮮明になることについて言及しましたが、ジョーゼフはそれを体験してみたのです。 これは実は意識を扱う練習なのです。死に近づき、肉体という媒体を通した表現はこれ以上もはや不可能と意識が悟った時には、程度の差こそあれ、同様のことが生じます。 死にゆく人が、肉体にある意識こそが自分である、とあまりにも強く信じ込んでいる場合は、パニック状態に陥ってしまいます。それは、その人が表現手段の全てを断たれ、実際に自らの意識がまさに消滅寸前である、と思っているからなのです。 自分という存在が次の瞬間には確実に抹消されてしまうという、いわば消滅への信仰は、極めて苛酷な体験であり、その体験自体が幸先の悪い反動をもたらすことになります。代わりにできることは、まず、貴方の意識が少しも損なわれないこと、そして意識の表現がそれまでより遥かに自由であることに気づく、ということです。 ジョーゼフは潜在意識のなかで、自分が使っていた表現手段を乱すことを選択しました。それは、そうした障害に、注目を集めるため当然だったのです。 理解の援助となるに相応しいと思われる情報を開示したことで、私たちはこれから何章かにわたり、肉体の死後や、死の瞬間における存在の本質について、輪廻の周期の終わりにあたる肉体死に関する情報も織り交ぜて論じていこうと思います。貴方がたはそれに着手する前に、自らの意識の本質や作用について理解しておく必要があったのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月30日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ さて、単に貴方がたの区分の仕方や長時間にわたる肉体的活動の欠如、もしくは覚醒中の現実か睡眠中の現実かの一方だけに集中した間延びした意識の焦点などが原因で、多くの病気が引き起こされています。 (シュタイナーは、癌が、睡眠のとり方の問題からくることを述べている。) 貴方がたの通常意識にとって、睡眠とともに足を踏み入れる別の実在の領域(世界)を旅したり、休息をとったりすることはとても有益です。同様に、貴方がたのいわゆる睡眠中の意識にとっても、目を醒ましている状態へと頻繁に旅することが大きな利益となるのです。 (よく寝る子は育つともいう。この「よく寝る」は回数のこと。) さて……私がここでこのような事柄を取り上げたのは、こうした習慣的なパターンの変化が、間違いなく自己の本質についての理解を飛躍的に高めることに繋がるからです。 貴方がたにとって人格の「夢見の内部」存在が奇妙に映るのは、焦点の合わせ方が基本的に違うだけでなく、自分の24時間周期の覚醒意識からみえない部分を、そうした領域にはっきりと当てているからなのです。 (自我が自覚していない部分を、夢のなかにあてているせい。本当は自分のせいなのに、環境のせいにすることと同じ。) 貴方がたは、それら2つの部分を可能な限り区別しておこうとします。そうするうちに、自らの直感力、創造力、超自然的能力と、肉体的能力、処理能力、客観化能力とを、極めて首尾よく切り離してしまいました。 貴方が自分にどれだけの睡眠時間が必要だと思われているかは関係ありません。いずれの場合でも今より短い睡眠時間を何回かに分けてとることで、これまでよりずっと好ましい健康状態を保て、また、時には自分が実は今までよりずっと短い睡眠時間しか必要としていなかったことが実感できるでしょう。 一番長い睡眠は、夜間にとるようにします。しかし、再度申しあげますが、肉体活動のない時間が6~8時間を越えた時点で、睡眠の効果は薄れ、好ましくない状態が生じ始めるのです。(寝癖が起きるのは、肉体活動が必要なせいともいえる。) 肉体の活動時間の変化により、ホルモンや体内の化学物質の機能、なかんずく副腎の分泌機能が極めて効率的に働くようになります。肉体の摩耗や傷みも最小限にとどめられ、同時に再生力、蘇生力の全てが最大限に活用されるようになります。また、代謝の激しい箇所も穏やかな箇所も、むらなく利益を得ることになります。 霊性の中心も、これまでよりずっと頻繁に活性化され、当の人格存在(パーソナリティ)である自己全体も力を増し、より好ましい状態のもとに維持されることになります。 その結果、益々意識は流動性と柔軟性に富むようになり、意識の集中度にも更なる高まりが加わるでしょう。また、疲労の度合いも危険なレベルに達しない状態が常に保たれるでしょう。そして、ついには肉体と精神が美しい均衡を現わすようになるのです。 現代においては、そうした時間割の適用はとても容易に行えます。例えばアメリカ式勤務時間(午前9時から午後5時)で労働されている場合、個人的な生活のバリエーションに応じて毎日、夕暮れから4~6時間の(数回の)睡眠をとり、夕食後に仮眠をとるようにします。 できるだけ簡潔にお伝えしていくつもりですが、如何なる場合も6~8時間を越える連続した睡眠は、貴方とって決して好ましいものではありません。 10時間もの連続睡眠は、甚だ有害となる可能性があります。10時間も眠った後は、起きぬけであっても、それほど休息感がなく、エネルギーもかえって消耗しているように感じがちです。それは睡眠という仕事に精を出していなかったということです。 (長期遠征から帰還するようなもの) もし貴方がたが、眠っている間の意識が肉体を離れる、ということを理解していなければ、私がお話していることは全く意味をなしません。 さて、肉体を離れた貴方の意識は、ときどき戻ってきては体内がきちんと機能しているかどうか、あるいは原子や細胞のようなそれほど複雑でない意識―つまり肉体の意識―が、きちんと肉体とともにあり、肉体をもぬけの空にしているようなことがないかを確認します。 しかし、自己の「大いなる創造部分」は、眠っている時間の大半を肉体から離れて過ごすのです。 強度な神経症的な行動のなかには、貴方がたの睡眠に関わる習慣に起因する症例が幾つか存在します。夢遊病もある程度、こうした症例に関わってきます。夢遊病は、意識が肉体に戻りたいのに、肉体を目醒めさせてはいけないという暗示にかかっている場合に起こります。 すると神経に作用するエネルギーが過剰に肉体を席巻し、肉体の始動に向けて筋肉を呼び起こします。なぜなら、肉体の側は活動を欠いた時間が長すぎたことから、そうでもしない限り筋肉に容赦ない痙攣やこむら返りが起こることを知っているからです。 (長時間連続睡眠のせい。要するに寝すぎ。) 食事の習慣にも同様のことが言えます。貴方がたは肉体を過度に膨張させ、過度に収縮させることを交互に行っています。これは確実に、貴方がたの意識の本質、創造性、そして注意力の集中の程度に影響しています。 (だらだらと食事を長く摂ること。) この覚醒時に食べ過ぎるような路線を踏襲しますと、例えば、逆に、夜間に肉体を飢餓に投じることになり、この飢餓という長時間の飲食の否定をもって肉体の老化に加担することになります。こうした全ては、意識の本質や強靭さに反映されることになります。 食物の摂取は、眠っていない時間だけに限らず、24時間のなかで割り振られるべきなのです。 もし、私が提案させていただいた睡眠パターン(4時間2回の睡眠など)を取り入れられた場合、貴方がたは夜の時間帯にも食事を摂ることになりますが、その場合それぞれの食事での摂取量は、現行の「3食」を一度に食べるよりも遥かに少ない摂取量になります。 (夜間に適度に食事を摂れば、全体の摂取量が減り、肥満がなくなるそうだ。) 貴方がたが現在実行されている食事の回数と量の組み合わせよりも、少量をより頻繁に摂取するほうが、肉体、心、精神のどの観点からも利点が大きいのです。 (シュタイナーも、少量を頻繁に摂るほうが、脾臓を活発にし、人体のリズムをよくさせ、人体を活発にするようなことを述べている。) 睡眠のパターンを変えることは、自動的に食事のパターンを変えることにも繋がります。貴方がたは、自分が遥かに統合された存在であったことに気づくでしょう。遠隔透視やテレパシーの能力があることも飛躍的に明らかになるでしょう。 夢見状態の自己と覚醒状態の自己との隔絶が、現在感じているほど顕著ではなくなり、この2つの自己が疎遠であるという感覚が大幅に薄れてきます。 目下の貴方がたは、概して夜の時間に酷く不案内であるため、新たな睡眠パターンのもとでは自然を享受して楽しむ時間も長く多くなるでしょう。夢見状態のうちにもたらされる直感的な知識も大いに活用できるようになり、起こりがちな気分のむらも、いまほど露骨な反復を繰り返すことがなくなるでしょう。 全存在の領域(世界)において、貴方がたは安寧と無事を心から感じることができるようになるのです。 更に、刺激が、長時間にわたって、最小限度に抑えられることがなくなるため、老化の問題も減じていくでしょう。また、今や柔軟性が飛躍的に増した意識は、独自の喜びの感覚をより明確なやり方で知ることになります。 (意識には、適度な刺激が必要ということ。美を、衝撃として感じることからもわかる。) セッション533……1970年6月1日(月曜日)午後9時20分 さて……睡眠中にも意識の変動が見られることや、意識が敏感になる時間が存在することは既によく知られています。目を醒ました状態での幾つかの活動に取って代われるような、夢見状態での活動が展開する時間帯もあります。 しかしそのような意識の変動は、覚醒時の通常意識にも起こっており、意識の集中度が高い活動周期の後には、著しく少ない活動周期が続く、というリズムが刻まれています。 言うまでもなく、覚醒状態のなかにも睡眠状態に非常に近いものはあります。しかし、そうした状態の時間も、そうでない状態の時間にうまく溶け込んでいるため、周期の反復はしばしば気づかれずに起こります。 そうした意識の漸次的移行は、体内の変化を伴います。意識が目を醒ましていても活動が緩慢な時には、意識の集中を欠き、様々な度合いで刺激が遮断されます。また突発的な体の異変は増える傾向にあり、概して、体調はどちらかというと沈んだ状態にあります。 貴方がたには徒長した睡眠時間の後に、同じく徒長した覚醒時間が続くというパターンが根づいているため、意識のリズムをうまく活用できないでいます。また、意識の活動のピークがある程度抑え込まれてしまい、気づかれない場合さえもあります。 本来ならば目を醒ましている状態に備わっているはずの、鮮明なコンストラストと高度な能力は、ほとんど活用されないままです。 私が今ここでこうした情報をお伝えしているのは、全て貴方がたが現在の自分に備わる能力を理解し、使えるようになることをお手伝いするためです。貴方がたは、覚醒状態の時の通常意識に、多くを無理強いしすぎています。 そして、その意識活動に現われる山あり谷ありを平たく押しなべてしまうことで、そこにあるべきコントラストを消滅させています。また、意識活動が実際は最小レベルにある時にフル回転で事に当たろうとしたり、あるいは本来あるべき意識の壮大な流動性を抑制している場合もあるのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月30日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ さて、自我は、しばしば他の全ての知覚結果を堰き止めるダムのような働きをすることがあります。それは自我が故意にしているのではなく、そのような行動をとるのが自我の性質だからで、それが自我の主要な機能とさえ言うことができます。 しかし、それは単に、貴方がたが自我の目的について、発展的というよりも限定的であると教えられてきたからなのです。 実際、貴方がたが、自我は自己の極めて弱い部分である、と考えているために、遥かに強力で説得力があり、危険でさえある(自己の)他の領域から、自我は自らを防御する必要があると思っています。 (自我が勘違いしている。) また、貴方がたは自我に目隠しすることを教え込んできましたが、それは自我本来の傾向に、全く反しています。 自我は、物質的現実を理解し解釈を試みて、できれば順応したい、と思っています。しかも貴方の物質存在の存続を助けようとしているのです。しかし貴方がたは、自我に目隠しを強いることで、自我の知覚や生得能力の柔軟性を奪ってしまいます。 更にそうした理由で融通性に欠ける自我を指さして、これが自我の本来の機能で、性質なのだと言うのです。 (本当は知らないのに、知ったふりをする。) 自我は、貴方が、知覚を許していない現実には順応できません。自我は、自分の管理する場の嘘偽りのない状況を見抜くため、自己の能力を全て使うことを貴方が容認しない限り、自我は、貴方の存続を、いい加減に(中途半端に)援助することしかできません。 貴方がたは自分で自我に目隠しをしておきながら、自我の洞察力のなさを嘆いているのです。 (俗にいう火事場の糞力をもっているのに、それがないものと錯覚し、制限している。) 第8章 セッション532……1970年5月27日(水曜日)午後9時24分 睡眠時間がどれだけ必要かは人によって違います。如何なる薬を用いても、全く眠らずに暮らすことはできません。それは、睡眠状態のなかで多くの仕事がなされているからなのです。しかし、それらの仕事を効率的にこなすには、1回の長い睡眠よりも、短い眠りを2回とるほうがよいのです。 睡眠前に適切な暗示がなされていれば、ほとんどの人が1回3時間の睡眠を2回とれば充分のようです―この暗示とは、これから眠る人の肉体が完全に回復することを保証するようなものです。 多くの場合、例えば10時間もの睡眠時間は、結果的に心と体の不活性化に繋がるため、実際よいとは言えません。この場合、霊が肉体から長いあいだ離れすぎているため、筋肉の柔軟性が損なわれることになるのです。 (スポーツ選手は短時間睡眠が望ましいようだ。) 1日に、量の多い食事を3度とるよりも、何度も軽い食事をするほうが実際は好ましいように、過度に長い睡眠をとるよりも、短めの睡眠のほうが良い効果をもたらします。短い睡眠をとることの利点は他にもあります。 短い睡眠では、意識的自己が、夢境での冒険を当然ながら沢山思い出すことができ、それらは徐々に、自我が考える体験の完全性を拡大します。 短時間の睡眠を頻繁にとることで、意識の焦点のピークも高まることになり、肉体と精神双方の機能の蘇生がむらなく行われます。また、自己の多様な領域(世界)や次元レベル間の区別が、さほど明確でなくなります。 その結果、エネルギーの消費が節約されることになり、さらに栄養も効果的に行き渡ることになります。貴方がたが知る意識もまた、柔軟性や流動性を増すことになります。 このことで、意識やその焦点が鈍ることはありません。むしろ代わりに、意識の見事な柔軟性によって、意識の焦点を完全に集中させることが可能になります。目が醒めている自己と眠っている自己の間の、見かけ上は御大層な区別の存在にしても、主として機能の分業の結果なのです。 大きく乖離させられた、この2つの自己の、一方には大きな時間の塊があてがわれ、もう一方には更に大きな時間の塊があてがわれています。そのようにして2つの自己が引き離されたままでいるのは、貴方がたの時間の使い方に原因があるのです。 (この自我の分裂については、デュオニューソスやオシリスの分裂の伝説として語り継がれている。) 顕在意識で目を醒ましている貴方がたの暮らしは、原初、昼の明るさを頼りに営まれていました。現代では人工灯の発明によって、その必要はありません。更に、そのお蔭で、人類がまだ活用に至っていない有効な技を使う機会を得ることが出来ます。 それは昼間眠って夜働くといったことではありません。これでは、貴方がたの習慣を逆転させただけです。その技とは、一日24時間を従来とは違う方法で区切ってみることで、非常に効率のよい生活が期待できるというものです。 この技は、現行の体系より優れ、実際、多くのバリエーションがあります。理想的には1回5時間の睡眠が、睡眠の効果を最大限に引き出せ、それより長くなると、何時間眠っても同様の効果は全く望めなくなります。 (五行説にも通じる。) それ以上の睡眠が必要なら、加えて2時間の仮眠をとられるとよいでしょう。その他に、2回の4時間の睡眠に加えて、2度の仮眠をとる、という非常に効果的な方法もあります。 適切な暗示が与えられていれば、現在の睡眠に費やしている時間の半分で肉体は回復します。いずれにしても8時間から10時間という連続した時間を不活発な状態にあてるより、(短時間に複数回の時間で)活発な状態にあてるほうが、物質的肉体は遥かによく統合され、効率よく機能します。 貴方がたは、特定のパターンを意識が踏襲するように訓練してきましたが、それらは必ずしも意識にとって自然なパターンとは言えず、目を醒ましている自己と夢を見ている自己とが、それぞれ異質なものである、という感覚を増大させてしまいました。 貴方がたの体は、暗示によってある程度麻痺させられてしまうため、一定時間を連続した睡眠にあてねばならない、と信じ込まされているのです。動物は疲れれば眠り、ヒトよりも自然な状態で目を醒まします。 (睡眠中の自己と覚醒中の自己の統合が重要。) 現在の睡眠時間のパターンを変えることで、貴方がたは主観的体験の記憶を大幅に増やし、それらの保持が可能になる上、身体的にもより健やかになります。仮眠の時間はきちんと別枠でとることも含めて、睡眠時間の総計は6時間から8時間あれば充分です。 自分の睡眠時間はもっと長く必要だと、いま思っている人も、このパターンを試された後では、実はそうではなかったことに気づかれるでしょう。ただし、この6~8時間を、連続して一度にとらないことが大切です。この睡眠パターンは、肉体、観念、霊といった全ての機構に利益をもたらします。 自己のなかの区分が全く厳格なものではなくなります。肉体への働きかけ、あるいは精神の治療のための作業は容易になり、肉体にしても、休養と充電のために、一定の時間を規則的に何回も得ることになります。 すると通例では、状態の善し悪しに関わらず、少なくとも16時間ほどで効果がわかります。夢見の状態で生じる化学反応に起因する、その他の理由からも、肉体の健康の向上が期待できます。 また、この睡眠の特定の時間割は、精神分裂症の患者や抑うつ状態の問題を抱える人、あるいは精神的に不安定な人の状態を改善するのにも効果があります。 時間に対する感覚も、これまでほど頑なでも厳密でもなくなります。創造に結び付く能力は活気づき、多くの人々を悩ませる不眠症の問題も大かた克服されるでしょう。なぜかと言えば、往々にして人々は、あまりに長い睡眠時間のあいだ、自分が意識であると信じているものが断絶してしまうかのように見えることを恐れているからです。 (長時間の睡眠をとると、日常の覚醒意識を失うものと自我が錯覚してしまうため、眠るのが怖くなるのが不眠症の原因だという。 結局、唯物論に染まっていると、寝ている間に財産や獲得した物質を失うのではないか、という恐れの錯覚に陥るから、現代病の特質といえる。 株取引のディーラの不眠症なんかも、寝ている間に暴落するのではというのが原因なのだろう。つまり恐怖で眠れなくなる。だから唯物論は、なんらかの現代病の元凶となっている。) さて、目が醒めた直後には、軽い食事をとるようにしましょう。この食べ物の摂取は、様々な代謝関連の障害を乗り越える際に大きな助けになるだけでなく、超自然的、あるいは霊的能力の向上にも貢献します。 肉体的な運動は、夜間と昼間とでは肉体への影響が異なります。その理由は多々ありますが、理想的には、その両方の影響が必要です。 その例を挙げますと、夜間のある時間帯には空気中のマイナス(陰)イオンが昼間より強くなり、数量も増加します。この特定の時間帯に運動を行えば、健康管理という観点から非常に得るところが大きいのです。特に散歩や、それに匹敵する野外活動が効果的です。 現在、夜明け直前の時間帯は、重病人にとってしばしば危険な時間帯とされています。その時間帯は極めて長時間肉体を離れていた意識が肉体に戻る時なのですが、その際、当人の病態である肉体機構を扱うわけですから、帰還はそれだけ困難なものになります。 (飛行機の着陸と同じ。) 従って、患者が夜中に目を醒ますことのないように、と投薬を施す病院側の習慣は、有害と言う他ありません。肉体に戻ろうとする意識にとって、病んだ肉体を再びまとうことは、大変に過度の骨折りである場合が多いのです。 (肉体から長く離れていると戻るのも大変になる。) 同様にそうした投薬は、しばしば肉体の回復を助けるのに不可欠な特定の夢の周期を妨害するため、その結果として意識をかなり混乱した状態にさせます。従って、自己の異なる局面を隔てる区分は、根本的には無用の長物であり、習慣、あるいは便宜上からもたらされたものなのです。 過去(便宜上)の時代においても、電灯がまだ発明されていなかった時でさえ、当時の睡眠は決して長時間でなく、夜通し、連続してとられることはなかったのです。それは睡眠をとる場所が今ほど安全ではなかったからです。 例を挙げますと、石器時代以前の穴居人たちは、睡眠時間といえども捕食動物に対する警戒を疎かにできませんでした。洞窟の外に張り詰める自然の夜の神秘は、穴の中の人類をして、意識の一部は常に警戒態勢にあるよう仕向けたのです。彼らは夜中でも頻繁に目を醒まし、自分たちのねぐらやその周辺を見回ったのでした。 穴居人たちは、貴方がたのように長く連続した睡眠をとることはありませんでした。代わりに、黄昏時から夜明けまでの時間のなかで2~3時間が睡眠にあてられ、機敏な活動が可能な覚醒時間と、睡眠時間とが交互に訪れました。 (アトランティス時代を超えない古代の話に思われる。いわゆる旧石器時代。) 彼らには、捕食動物たちが眠っていると思われる時間に、ねぐらを後にし、食べ物を捜す必要があったのです。 そうしたことが、意識に流動性をもたらす結果となり、肉体の存続が確実に約束されることになりました。また、彼らが夢見の状態の時に感じた直感は記憶され、目が醒めている間に効果的に利用されたのでした。 ☆ ☆ ☆ 次に続く。
2013年08月30日
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前回からの続き。 セスの話をこれまで理解してきた人なら、人間に生も死もないことは明らかだろう。唯物論に染まっているせいで、まるで生死があるかのように自己を制限しているだけなのである。 単に、肉体を離れるだけなのに、そこに壮大な演出を加えているだけなのである。実は、毎晩、人は肉体を離れているのに、そのことにはあえて目をつぶっているのである。 つまり、唯物論のゲームをつくり、そのゲームに参加しているだけなのに、そのゲームが全てだと自己暗示しているのである。 もういい加減、唯物論ゲームはやめるべきで、金儲けもやめるべきである。 なぜ、相手を理解しようとせずに、打ち負かそうとするのか、打ち負かしたからといって、どうなるのか? そうやって、気に食わないことを攻撃することで、攻撃性がどんどん増していくことに気づいていない。攻撃は最大の防御とアホはいうが、一体全体、何を防御するのだろう。 防御するものなどは実は何もないことを知らないから、唯物論に洗脳されてしまうのだ! 物質は、目に見えない微少な波動の重ね合わせからできていることがわかれば、物質を破壊しようと、微少な波動はなくならないどころか、巡り巡って、自らに帰るだけである。 破壊により恐怖感をつくりあげると、その破壊という恐怖感が自己に押し寄せる。それはただ単に破壊ゲームをつくり、破壊ゲームのなかに埋没していくだけの存在となる。 キリストが、「一方の頬を打たれたら、他方を差し出せ」といって喩えたように、攻撃の無意味さ、攻撃とは結局、自分で自分を制限しているだけで、攻撃を生むものは、攻撃に滅ぼされる無意味さを知るべきなのである。 攻撃で自己を表現する、などは愚の骨頂で、全く低レベルで馬鹿らしい。そういうのは古代では粗野で野蛮人といった! 現代人はさしずめ野蛮人ばかりだ。どこぞの動物園の大統領が攻撃で自己顕示しようとしている虚しさ、あほらしさに加担してはいけない。 アメリカ動物園は、イラク戦争の嘘もあり、国連、いや人類から破門すべきではないのか? アメリカの馬鹿大統領たちは、米国憲法を度々無視して、戦争を誘発し、大量の人々を殺傷し、金儲けばかりをしてきたから、もうその顔は人間のものではない。 かのアホリンカーンは40歳になれば一人前の顔となるといったが、あのアホリンカーンこそ、最初の米国憲法違反者で、人類をサル化した第一人者である。あの顎鬚を蓄えたサル顔が世界にさらされている滑稽さったらない。アメリカ動物園の第一号である。 アホに加担すると、アホになるぞ! このような馬鹿で愚かな存在に埋没しないために、セスの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 現在の貴方がたも、一人きりの刹那的な意識の別の流れに気づく可能性があります。例えば、時おり自分の思考の文脈から全く外れた言葉を聞いたり、イメージを見ることがあるかもしれません。 貴方の受けた教育、信条、出身などによって、それらに対する解釈もまちまちかもしれませんが、そうした現象については、実際、複数の源泉から生じている可能性もあります。 しかし多くの場合は、無意織に別の意識の流れに同調したり、別の自己が存在している別の次元界の現実に通じる情報回路が一時的に開かれたことで生じたものと考えられます。 そうした現象のなかには、転生と呼ばれる過去の自己にお馴染みな歴史上の別の時代に焦点を当てた見解が関与してくることもあるでしょう。もしくは、貴方自身の知識への願望、好奇心、超自然的偶然への順応性、あるいは好みなどによって、自己が関与している、確率的に低いが起こり得る出来事を「拾い上げる」ことになるかもしれません。 言い換えれば、貴方が現在認識している現実よりも、遥かに壮大な現実に気づいたり、また、既に自分に備わっているとは思いもよらなかった能力を使えるようになる、ということなのです。 なおかつ、自らの意識と個としての在り方が、現在、貴方が第一義的な(関心の)焦点と決めている、この世界(物質界)には依拠していないことが、明確に理解できるようになるでしょう。 そのことが、かりに真実でないと言うのなら、私がいま本書をしたためていることはないでしょうし、貴方がこれを読まれていることもないでしょう。 さて、貴方のそうした別の存在たちは、貴方が起きていようが眠っていようが、かなり楽天的にやっていけるものなのですが、普段目を醒ましている間に、それらを無視してしまいます。むしろ夢見の状態での貴方のほうが、それら別の存在をずっとよく知っています。 しかし、夢には、終局というものがあり、その終局の知覚では、高密度の精神、もしくは超自然的な体験が繰り広げられます。通常、夢主の記憶に残るのは、残念ながら、この夢の終局について解釈が施された変形版なのです。 この終局では、基本的な体験ができるだけ物質的言語に近づくように置き換えられます。つまり、そこに歪曲が生じる、ということです。しかしこの「最後の仕上げ」とも言うべき変換は、自己の深層にある働きではありません。これは自己による認識よりも、遥かに意識の働きに近いものなのです。 これから指摘する些細な点が、ここで私が言わんとしていることを説明してくれるかもしれません。思い出したくない夢がある場合、貴方がたはとりわけ顕在意識に近いレベルで、その夢の記憶を、自ら抑圧します。 このような故意に、夢の記憶を抑圧する行為を自覚することさえも往々にして可能なのです。その「仕上げ(終局)」の変換は、抑圧とほぼ同レベルで起きますが、全く同じ、というわけではありません。 その終局では、夢のなかの基本的な体験に、たちまち可能な限りの物質的な装いがなされます。これは、貴方が、そうした体験を理解したい、と欲しているからでなく、根底において非物質的な状態のままでの受け入れを拒んでいるからなのです。 しかし、全ての夢が、こうした性質のものではありません。なかには夢自体が、貴方の日常活動と繋がる霊的、もしくは観念的な領域で展開するものもあります。そうした場合には、「仕上げ」の変換は不要になります。 ですが睡眠中の体験でも、極めて深いレベルに達しているもの―それらは、夢を研究する科学者たちによっても未だに取り上げられていません―については、そのなかで、貴方と貴方の別の「個の存在」と、それらが存在する現実との間に意思疎通が営まれているのです。 そこでの貴方は仕事や試みにも熱心に従事し、真剣に取り組みます。そうした仕事や試みは、既知の興味や関心事と繋がりのある場合も、そうでない場合もあります。貴方は学び、究め、そして遊びます。 つまり「眠る」という言葉から連想するようには、少しも眠っていない、ことになります。「眠っている」貴方がたは、極めて活動的な状態にあります。真の体験の核心にあって、前衛的な仕事に関わっているのです。 さて、ここで強調させていただきたいのは、貴方がたが睡眠中にただの無意織状態にあるわけではない、ということです。通常、そうした仕事が、朝には全く記憶に残っていないせいで、無意織であったように思われるだけなのです。 しかし、ある程度は、そうした夢境での活動に気づいている人々もおられますし、あるところまでなら、思い出す方法も実在します。 例えば、貴方がたが、いま本書を読まれているような意識状態の重要性を低く見るつもりは毛頭ありません。ですが、当然、貴方がたが目を醒ましている、と思われる時であっても、あらゆる意味において、夜の睡眠中のいわゆる無意識よりも、起きながら休んでいる状態が多いのです。 夜の無意識状態にある貴方がたは、自らの現実を広汎にわたって自覚していますし、昼間の貴方がたが否定したり、見て見ぬふりをしている能力を自由に使っているのです。 極めて単純なレベルにおいては、例えば、睡眠状態にある貴方の意識は頻繁に肉体を離れ、貴方の本当の自我が知る他の次元レベルの現実に在る人々と意思の疎通を図ります。しかし、それよりも遥かに創造的な方法で自分の物質形態を然るべき状態で維持し、なおかつそれに新たな活力を与えているのです。 貴方は日毎の体験を整理し、「未来」と見なすところへと投影します。そして、無数の確率的に起こりえる出来事のなかから、物質化させるものを選り抜き、それを物質界にもたらすための観念、もしくは意識過程を始動させるのです。 同時に貴方は、自身の別の「個の存在」全てに対して、各自がその情報を利用できるように取り計らっています。そして、全く異なる現実に暮らしている、そうした存在も、それに匹敵する情報を貴方にもたらしています。 (自己を統合したデータベースのような感じか?) 貴方は通常の覚醒状態の自己との繋がりをなくしたわけではなく、ただそこに焦点を合わせていないだけです。いわば、そこから意識を逸らした状態にあるのです。昼間、単に、その意識を逸らせる過程を、逆に働かせているにすぎません。 もし、貴方がたが、普段の自己を、他方(夢の世界)の見地に立ってご覧になったとしますと、さて、またここで比喩を用いることにしますが、貴方が、睡眠中の自己を観察するのと同じくらい、覚醒時の物質的な存在の自己が異様に映るかもしれません。 この比喩は、完全なものではありませんが、それは単に、貴方がたが得意気に思っている覚醒時の自己よりも、睡眠中の自己が、遥かに聡明であるからです。 (シュタイナーによれば、古代人の昼と夜はいまとは逆で、夢の世界が、日常世界だったという。) 睡眠と覚醒の外見上の区別は、恣意的なものでもなければ、強制でもありません。そうした区別の存在は、単に、貴方がたの現時点での進化に起因するものであり、徐々に変化していく性質のものです。 今でも多くの人々が、別の次元へと小旅行に出かけては、覚醒時の日常生活の一部として、別の意識の流れの中を、いわば泳ぎ進む体験をしています。そうした流れの水面から、時おり奇妙な魚が躍り出ることもあるのです。 さて、貴方がたの見地から見たとき、別の次元の現実をぬって、貴方がたのもとへと泳ぎ着き、己の存在次元よりもむしろ貴方がたの次元(三次元)を見守る私(セス)などは、明らかにそうした魚と映るに違いありません。 従って、精神、かつ超自然的体験全ての象徴的な大河の流れや、全ての意織の流れの間には情報回路が存在するのです。そのために、貴方がたの次元からも、私の次元からも船出が可能なのです。 さて、ルパート(霊媒)とジョーゼフ(筆記者)と私は、当初から同一の「存在」、あるいは同一の個の総体に属し、ともにその一部です。よって、象徴的に申しあげれば、私たちを結び付ける超自然的流れが存在するということになります。 こうした流れは全て、意識の大海に喩えられるものへと流れ込んでいきます。実際そこは、一切が湧き起こる源泉なのです。従って、どの意識から始めようとも、理論上、貴方がたは他の全ての意識と出会うことができるのです。 ☆ ☆ ☆ とにかく、いま我々一人一人にできることは、平和を愛する気持ち、思いやり、想念を全世界の人、宇宙の様々な生命に祈り、届けることです。セスの話によれば、みえない平和を愛する想念が、大きな平和を現実化させるようです。次回に続く。
2013年08月30日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ それでは再度、貴方が憧れの海辺へと送り出した自身の形態(観念的イメージ)を思い浮かべてください。その形態は、貴方のような肉体の感覚器官を備えてこそいませんが、その形態自体はある程度の知覚力を有しています。 (要するに、想念のこと。) 貴方自身は知らずに、自身のその形態(想念)を送り出しますが、そうした行為は極めて自然な法則によって行われているのです。送り出された形態は、密度の高い、強烈な願望という感情から構築されています。 その形態イメージは、独自の現実の法則に従い、貴方の意識より小さくはありますが、ある程度の意識を有しているのです。 さて……再び比喩を用いることにいたしますが、貴方は、物質的形態としての在り方を強く望む超自己(スーパーセルフ)によって送り出された存在です。貴方はこの超自己の傀儡などではなく、独自の進化の道筋を辿っており、ここで説明するにはあまりに難解ながら、その進化の方法もきちんとわきまえています。 貴方は超自己の体験の幅を広げることに貢献しています。それによって超自己の現実の本質は益々拡充するのです。更に、貴方がた自身の進化も確かなものとなり、超自己の能力を利用することも可能になります。 これまでの見解から、貴方を遥かに凌駕した存在という印象を与えていると思われる超自己ですが、貴方が超自己に呑み込まれるようなことは決してありません。貴方も存在しているということは、先に述べたと同様、独自の投影を行っている、ということです。 意識の現実には終わりがありませんし、物質化の方法にも限界がありません。更に、それぞれの意識にとっての進化の可能性にも極限は存在しないのです。 さて、もう一度、はっきりさせておきましょう。貴方がたが自覚している現在の自己の人格は決して「消えることはなく」、死を迎えた後も成長し進化し続けます。 私はこのことを、この議論の途中でもう一度繰り返すつもりです。貴方がたには決して迷子のような思いや、己の存在や価値が否定されるような思いはしていただきたくないからです。 私たちが論じている形態には、明らかに数えきれないほどの密度の段階、種類、タイプが存在します。 私たちの「超自己」から発されたエネルギーは、鮮烈な個性を伴う閃光であり、貴方の物質的な誕生をもたらすことになりました。それはまさに他に及ぶもののない生命力なのです。 そうした意味において、そのエネルギーには、古い概念での魂と類似点が多々あります。しかし、古い概念では、そのエネルギーの全貌のごく一部を含んでいるにすぎません。 貴方がたが個として存続し進化し続ける一方で、貴方がたの全体自己、または魂がもつとてつもない潜在力は、そのあまりの広大さゆえ、1つの人格存在を通してだけでは到底充分な発現がなされ得ないのです。このことは前のほうの章でもいくらか説明してきたと思います。 さて、感情を非常に強く集中させることで、貴方がたは形態を創造し、他者に投影しますが、それは投影した人に受信される可能性もあります。そうしたことを意識的に行うか無意識的に行うかは、思いのほか重要です。 これはアストラル体と呼ばれるものについての議論ではありません。アストラル体は、それとは全く別ものです。肉体はアストラル体が物質化したものを言うのです。 アストラル体はどんなに短い期間であっても、決して肉体を放棄したりしません。アストラル体は、先の海辺の比喩のなかで投射された類い(想念)とは違います。現在、貴方がたは、自らの物質的肉体だけでなく、貴方がたが「時間」と解釈している特定の波動の周波数にも焦点を合わせています。 歴史のなかの現代以外の諸時代も、同時に存在しています。そして、それらも現代同様に、確実な存在性による形態をもっているのです。現世以外の転生にある、貴方である自己の全てについても同じことが言えます。 繰り返し申しあげますが、貴方がたは単に(現在を除く)それらの周波数に同調していないだけなのです。 貴方がたは歴史上の出来事や、過去に起きた出来事を知ることができますが、それは貴方がたが受け入れているゲームのルールが、そのように定めているからです。貴方がたは、未来は無理でも、過去なら遡ることができる、と信じています。 しかし、もしそのゲームのルールが違ったなら、現時点において「未来の歴史」を紐解くこともできたはずです。おわかりでしょうか。 別のレベルの現実では、ゲームのルールが変わります。貴方がたの表現で言うところの「死後」において、知覚は極めて制限のないものになります。未来の出来事も、過去の出来事と同じように鮮明な現われ方をします。 死後についてさえ、過去は1つではないため、話は非常にややこしくなります。貴方がたは、特定の範疇に属する出来事のみを実在として受け入れ、そうでないものは却下します。 そうして貴方がたは、過去に起きた出来事には触れることはできますが、過去の確率的に低いが起こり得た出来事は、貴方がたが理解できる範疇の遥か外側に存在するのです。 貴方がたは、そのうちの特定の出来事だけを選択し、その出来事を唯一の可能性として、1つだけ掴み取ります。 しかし、その1つが、過去の出来事の無数の選択肢のなかから選り抜かれたものである、ということが見えていないのです。 そうしますと、確率的に低いが起こりえる未来や、確率的に低いが起こりえる現在も、当然(同時に)存在していることになります。 私はできるだけ貴方がたの言葉で論じるようにしています。 なぜなら、基本的には「過去」、「現在」、「未来」という言葉は、真の体験に関する限り、「自我(エゴ)」、「意識的」、「無意識的」といった言葉と同様、それほど意味のある言葉ではない、ということをご理解いただく必要があるからです。 セッション531……1970年5月25日(月曜日)午後9時22分 さて…… 貴方とは別に、個々に自分の現実に焦点を絞っている独立した自己があり、貴方はそうした自己の一部でもあるのですが、それだけではありません。そこには共感をベースとした相互関係が存在するのです。 この相互関係のお蔭で、例えば貴方の体験が物質的な知覚によって制限される必要がなく、他の独立した自己に属する知識も利用できるのです。貴方は物質的現実から焦点を外す方法や、新たな知覚の方法も学ぶことができます。 その結果、自らの現実の概念を広げ、自らの体験を大幅に拡大できるのです。 貴方がたが別の現実に目を投じようとしないのは、物質的な在り方が唯一の存在と信じているからです。 テレパシーや遠隔透視などの能力(虫の知らせ)は、別種の知覚能力の存在を知らしめる手掛かりの役目を果たしているのですが、貴方がたは平素の覚醒時にも、睡眠時にも、極めて限定的な体験のなかに浸りきっています。 いわゆる「意識の流れ」は、思考やイメージや感動などの1つの小さな流れで、それよりも遥かに深遠たる「意識の大河」の一部にすぎません。その「意識の大河」は、貴方自身の存在や体験が、如何に壮大かを表わすものです。 貴方はもてる時間の限りをつくして、この小さな流れを色々と吟味しますが、その間に、その清々たる流れに魅了され、その運行に耽溺するのです。それとは別の知覚や意織の流れも、貴方に気づかれることなく同時進行しています。 (世界全体が様々な光景を生み出しているのに、特定の自分の肉体からみえる光景しか目にしないこと。) しかし、それらは間違いなく貴方の一部であり、極めて確かな存在の局面や出来事、行為、そして感情を表わしています。貴方は別の現実の層にありながら、それらとも関わっているのです。 現在の貴方がたが、一番に焦点をあてている現実に対してそうであるように、それとは別の現実とも積極的かつ活発に関わり合っています。概して今の貴方がたは、単に自己の肉体と物質面のみを気にかけているため、それらに関係すると思われる意識の流れにだけ注意を傾けているのです。 しかし、それとは別の意識の流れも、貴方が知覚していない他の自己である形態と繋がっているのです。 肉体は、換言すれば、ある1つの現実において貴方が何者であるかという、1つの発現にすぎません。しかし、貴方は更に別の現実において別の形態をまとって存在しているのです。 どれだけ初歩的な意味においても、「貴方」はそうした別の意識の流れと切り離されているわけではありません。別の意識の流れや、それらが関与する出来事と貴方を分け隔てるものは、貴方が注目する焦点の他にはありません。 もし、貴方が自分の意識の流れを無色透明なものとして見るのなら、その向こう側や下方にある別の水底に横たわる別の現実を見つけることを学ぶでしょう。さらに現在の意識の流れを超越し、また比喩を用いれば、貴方の意識の流れと平行に進む別の流れの知覚を学ぶでしょう。 肝腎なのは、貴方の既知の自己が、自己を、その既知の自己に限定されたままである、と考えていたり、その自己が、「個の存在全てを内包する全体自己」から、大きくかけ離れていることに気づいていない場合は、いつまでも既知の自己に限定されたままである、ということです。 貴方がたは、今でも頻繁に、そうした自覚のないままに、意識の別の流れに同調しています。再び繰り返すことになりますが、そうした流れも、貴方がたのなかの「自己の存在」という同じ流れの一部なのです。よって、全ては繋がっているのです。 いかなる創造的な仕事も、その共同作業の過程において貴方を必要としています。貴方はそうした過程にあって意識の別の流れに浸かりながら、平素の既知の狭い意識の流れから生じる自己よりも、遥かに多くの次元を知覚できる能力を獲得した上で、そこからの浮上を学ぶことができます。 偉大な創造というのは、それゆえ多次元性を帯びているのです。また、その発祥源は、ただ1つだけでなく多数の現実に及んでいるため、そこに、多様な発祥の「現われ」を見て取ることができるのです。 偉大な創造とは、純粋に物質的な実質や局面よりも、常に壮大な何か、多様性を感じさせるものです。そして、いわゆる平凡とは対照的に、不意に飛び込んでくるような感覚や、はっと息をのむような驚きを観察者にもたらすものです。 このような創造性は、個々の人々に、反射的に多次元的現実の記憶を思い起こさせる働きがあります。 よって「汝自身を知れ」という箴言(しんげん)は、これまで大多数の人々が考えてきた以上に意味深い言葉なのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月29日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 鮮烈な(強い)思索行為は―思念であれ感情であれ―如何なるものでも、物質、もしくは疑似物質的な構築をなすだけでなく、それを抱いた人の印影や痕跡を、ある程度帯びることになります。 そのようなイメージが発端となる、先駆的、もしくは潜在的な形態は沢山存在します。私の話をイメージしやすくするには、幽霊、もしくは幻影のようなものを想像していただければよいでしょう。しかし、これはあくまでも類推を促すためです。 そうした形態は、例えば、貴方がたの知る物質的現実として完全に出現するのではなく、物質のすぐ「背後」にありながら物質的構築を行なうのに充分な鮮烈さ(強度)を欠くものなのです。もし貴方がたに、それらが見えたなら、完全に実在するものにみえるでしょう。 貴方がたの一人一人が実際に、おのおのに生き写しの複製イメージを頻繁に外に送り出しています。しかし、その物質化の程度はまちまちで、あるものは他と比べて実体のない、影のように希薄であったりします。 そうした形態は単なる投影、つまり「平面的」なイメージではなく、周囲の状況に確実に影響を及ぼし得るものです。形態は、かなり説明し難い方法で、自分たちの「占有場所」を確保しますが、ときには物質として、その形態と共存したり、自らを、その形態に強引に重ね合わせてしまうこともあります。 そうした場合は、確実に相互に影響が出ます。すなわち、物質的知覚の「背後」でのやりとりが起きるのです。 遠く隔たった、貴方のよく知る、お気に入りの海辺に佇みたいと、突然、しかも強烈に念じたとしましょう。その絶大なる願望は、貴方自身の心からエネルギーの核のようなものを外に向けて放ち、それに貴方の形態が与えられます。 そして、その形態は貴方が思い描いた場所に引きつけられ、それがたちどころに、その場所に佇むことになります。こうしたことは、極めて頻繁に起こっているのです。 (オカルトでいう生霊のこと。霊に生死はないのだから、「生霊」というのもおかしい。肉体を伴う霊というべきか。「死霊」は、肉体を伴わない霊となる。) 平素の状況では、こういう現象は観察されません。しかしながら、願望が相当に鮮烈で、エネルギーの核も強大である場合には、貴方の意識の流れの一部が、その形態に伴うため、貴方は一瞬、自分の部屋にいながらにして潮風の香りを感じるなど、疑似イメージが佇んでいる海辺の環境を、何かしら不意に知覚する場合があるのです。 (イメージ形成力が強いと、テレポートできる。一種の幽体離脱。) そういった知覚の範囲は、この現象においては非常にまちまちです。そもそも、貴方がたの物質的形態(肉体)は、強烈な感情が集約した結果です。精神の途方もなく膨大なエネルギーは、貴方がたを形づくるだけでなく、それを然るべき状態に維持します。 物質的肉体は、維持されている間は永続不変的に見えるかもしれませんが、不断のない状態で連続して在るわけではないのです。肉体は絶えず「振動」しており、エネルギーとその構造的性質ゆえに、実際は明滅している状態で存続します。 (スポーツ選手に、イメージトレーニングが有効なことがわかる。) さて、これは、甚だしく説明が困難な事実で、振動しながら存在する理由を、貴方がたに理解していただくことは、目下、私たちの目的を遂げるための必須項目ではありません。しかしながら、貴方がたを、物質的に見た場合でも、それを自覚するのと同じくらい頻繁に、貴方がたが「今、ここ(物質界)に在るわけではない」のです。 (実際は、物質界しか知覚できないと想定しているので、意識が、時間という概念を作り出し、物質界が継続しているようにみせかけている。だから、生死も意識がつくりだしている。 つまり、意識が、物質が時間に従って動いているように、進化論を基につなげ、見せかけている。だから、卵が先か、鶏が先かの議論が生じる。 この議論で有名な禅の考案の、旗が揺れるのは、風が旗を揺らせているのでなく、旗が風に揺れているのでもなく、意識が旗を揺らせている、のと同じ。 同じく、鈴木大拙の考案の、泳げない人が水に溺れなくなるには、泳げないという意識、もしくは溺れる意識をもたないこととも同じ。) 貴方がたの感情の強烈度と集中度が、その物質的肉体の他にも、形態を創造しています。それらの持続期間や物質化の度合いはと言えば、当初の感情が如何に鮮烈であったかに左右されることになります。 従って、貴方の空間は、発端になる形態、それも相当鮮明なイメージで満たされていますが、それらは貴方が知覚可能な通常の構築体の「背後」に存在しているのです。 実際に、そうしたイメージ投射は休みなく送り出されています。貴方がたが現在使っている以上に洗練された科学計測機器があれば、投影された形態の存在だけでなく、エネルギーの強さにおいて、様々な波をもつ振動が、貴方がたが知覚している物質を取り巻く様子をも、はっきりと示すことができるでしょう。 (ハイゼンベルグの不確定性関係を超えるような計測器があればの話。) このことをより明確にするために、貴方の目の前にあるテーブルを、どんなものでも結構ですのでご覧になってください。テーブルは物質で、固体なため、知覚はいたって簡単です。 さて、では比喩として、そのテーブルの背後に、それと全く同一でありながら、それほど物質的でないテーブルがあると想像してください。 そして、その背後にまた同じテーブル、更に、その背後にもまた同じテーブルがあると想像してください。後ろにあるものほど、物質性が希薄になり、見えにくくなります。 さて、今度は、最初にご覧になったテーブルの手前にも、それと全く同じテーブルがあると想像してください。その手前のテーブルも、「物質」のテーブルより少しだけ物質性が希薄な「現われ」をしています。 ……手前の方向にもテーブルが連なり、手前のものほど徐々に物質性が希薄になっていきます。つまり、同じことが、最初のテーブルの両サイド(前後)にも起きています。 (物質とは、波の重なり合いから成立していることの説明のようである。) さて、物質的な「現われ」をもつ全てのものには、貴方がたには知覚できない別の形態も存在します。貴方がたは、それらが特定の「振動数」に達し、縮退(波束として収縮)の末に、物質化したようにみえる、その瞬間の現実だけを知覚するのです。 しかし、それらの物質性が希薄な波動は、別次元のレベルにおいては、極めて確実な存在性をもっています。 (プランク長に固定波が現われたときに、物質性を想定した意識が、素粒子と知覚する。実際は、プランク長に固定されない無数の波動が蠢いている。摂動論からわかる現象である。このことは、例えば、海の波面や川の水面と同じで、波としてみえない部分にも波はある。) 現実のなかには他にも、貴方がたの現実より「存在性の強い」ものがあります。あくまでも比喩であることを前提とした上で比較してみますと、例えば貴方がたのみる物質のテーブルのほうが、逆に、先ほど想像していただいた物質性の希薄なテーブルのように、存在が希薄に見える、ということです。 (物質は、物質性に限定されて物質界に現われるから、物質面しかみていない。極論すれば、物質性をもつ固定波は、誰にでもわかる存在だから、馬鹿でもわかるので、低次元な存在ということ。 例えば、幽霊がみれないというのは、古代では馬鹿な奴ということになる。ある意味で、現代の金儲けしか頭にない馬鹿と同じ。そういう意味では、古代人は過去未来を現在に透視してみていた。) そうした見地からすると、ある種の「超テーブル」(波長が巨大なテーブル)が存在している、ということになります。従って、貴方がたの(三次元)体系が最も密度の高いエネルギーによって創られた現実体系というわけではありません。 (三次元では波動が小さくても、別の次元では、波動が大きいから。物質界はただ視野が狭いだけ。) 貴方がたは、単にその体系の一部に入り込んでいるにすぎず、故にそれを知覚しているということです。 従って、貴方が意識の上では気づいていない貴方の一部が、超体系(スーパーシステム)とも呼べるような現実に存在しています。超体系では、意識は、密度の高いエネルギーを知覚し、その取り扱いや、貴方がたの体系とは全く性質の異なる「形態」の構築を学んでいます。 貴方がたにとっての空間とは、何も知覚できない場所を意味しており、その空間の概念は誤り以外の何者でもありません。なぜなら、空間には明らかに、あらゆる種類の不可視の現象で満たされているからです。 しかし、そうした現象は、貴方がたの知覚に如何なる痕跡も残すことはありません。貴方がたは今でも、時おり様々な方法で、そうした別の現実に同調できます―それは、(物質的感覚からすれば)かなり突発な世界です。 しかし多くの場合、それらの体験は物質的な登録がなされていない、という理由から、記憶に残らないのです。 ☆ ☆ ☆ このようなセスの話から、平和を望めば、平和が得られることがわかる。平和を望むことは愛することである。意識や宇宙は無限なので、有限を占有するための闘いなんて必要ない。 現代人は、全く馬鹿らしく愚かなことに血眼になっている。現代人は、サル以下の知性の持ち主といえる。金儲けのために戦争をする米国人などはサル以下の恥的存在といえる。 米国は、アメリカ動物園と名を変えるべきである。キリストの、「一方の頬を打たれれば、他方の頬を差し出せ」も理解できないアホなのである。その動物園の持ち主の英国やバチカンはサル山動物園と名づけるべきだろう。 次回に続く。
2013年08月29日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ さて、魂は収縮することはありません。それは魂のどの一部の自己であっても同じです。 魂を、貴方がたもまた、その一部である(電)磁気エネルギーの場である、と考えることも可能です。そうした見方をするのなら、魂は、活動が凝縮し、集中した場である、とも言えます。 つまり魂は、外に向けて確率的な偶然性をもって発現することを求め、また、その活動の発生源なのです。あるいは、非物質ではあるものの、個としての自己を知る意識のまとまりが存在する場なのです。 それを、このようにお考えください。私は、この若き女性(霊媒)を通して話をしていますが、この女性は、次のような自作の詩をうたいましたので、ここに引用したい、と思います。 「私のなかの原子たちは話すことができ、私の名を呼びます。」 現在の貴方がたの体は、いわば特定の形態を伴ったエネルギー場です。それでも、誰かに名前を尋ねられたら、貴方の唇が、それに応じます―しかし貴方の名前は一語一語答えを発する唇を構成する原子や分子のものではありません。 名前は貴方だけに対して意味をなすものです。貴方は、その肉体のなかに、自己という存在を指し示すことはできません。もし、貴方が体内をもれなく探査できたとしても、自己というものがどこにいるのかを突き止めることはできないでしょう。 それでも貴方は、「これは私の体」、「これは私の名前」と言うのです。 もし貴方という個性を、貴方自身の手でも自分の体のなかに見つけられないとなると、体の全ての細胞や臓器を自分のものであるとして繋ぎとめている、貴方にとっての「自己」は一体どこにあるのでしょう。 自己という存在は、確かに貴方の体と何らかの関連があります。それは、貴方が他人の体と自分の体を容易に区別できることからもわかりますし、椅子と―貴方がいま腰かけておられるような椅子と―自分の体を難なく区別できることからもわかります。 広い意味では、魂にとっての自己もまた同じような見地から見ることができます。魂は一体自分が誰であるかを知っており、肉体の自己が自身を確実なものと思う以上に、魂は自身を真に揺るぎないものと確信しているのです。 しかしながら、この電磁気エネルギー場の一体何処に、そのような魂の存在を見出すことができるのでしょう。 魂は、その一部である分身を再生させ、その分身である貴方に固有の自己認識を賦与します。そして、「貴方は一体誰なのか」と尋ねられた時には、ただ「私は、私であるところのものです(エヘイエ、アシェル、エヘイエ)」と答えるでしょう。それは、貴方についての答えでもあるのです。 現在の貴方がたが理解する心理学的な観点から見ると、魂を根源的自己と考えることもできます。つまり魂自体が、他の多くの個別意識のゲシュタルト(集合体)であるということです。魂は限界をもたない自己でありながら、なおかつ、あらゆるやり方や形を使って自分を表現できるのです。 (唯一神は、自己という意識を与えている存在。聖書にも、神は、人を、自身に準えてつくったとある。) しかも同時に、自己認識としての「私であること」を維持できる一方で、その「私であること」が、別の「私であること」の一部であるという可能性も開いているのです。 さて、貴方がたにとって、当然ながらこれは思いもよらぬことでしょうが、事実はこうです。比喩的に申しあげますと、この「私であること」は、そうした別のエネルギー場と合流したり、そこを通って進む場合にも、そのまま維持されるのです。 言い換えれば、魂、もしくは「存在」と、無限の可能性との間には、双方の進化と拡充を前提とした対等のやりとり(ギブ・アンド・テイク)が成り立っているということです。重ねて申しあげますが、魂は閉じた体系ではありません。 貴方がたが、自己への定義というものに、そうした容赦のない苛酷な制限を課しているのは、現在、1つの狭い領域に過度に焦点を集中させた在り方をしているからにすぎません。 だから、貴方がたの魂の概念にも、同等な制限が投影されている、というわけです。 貴方がたは物質的な存在である自分を気にかけるあまり、いま以上の知覚情報がきても、それらを扱いきれないとか、個としての自分を維持できなくなるのではないか、との恐れから、知覚の拡大に自ら限界を設けているのです。 魂は、自分という存在に怯(おび)えることはありません。 魂は、自身を完全に信頼しています。魂は、常に探求し続けます。魂は、体験や知覚したものに圧倒されることを恐れません。もし、貴方が自分という存在を完全に理解しているならば、例えばテレパシーを恐れることもないでしょう。 なぜなら、その不安の背後にあるのは、他者の暗示や意図によって、自分という存在が一掃されてしまうのではないか、という恐れだからです。 貴方がたの体系では全くそうではないように見えたとしても、閉じた精神体系や閉じた意識というものは存在しません。これまでも度々称されてきたように、魂は真の旅人です。 しかし同時に、魂はまた全ての体験や、貴方がたの言葉で言う、全ての「目的地」の創造者でもあるのです。いわば、魂は移りゆく世界の創造者である、と言うことができます。 さて、これが、貴方がたも、その一部でもあるところの、精神存在の真の本質です。先にも述べましたが、後ほど本書においても、貴方がたが、自身の深層にある、幾つかの能力に気づき、それらを自らの進化、喜び、そして学びのために使うことができるように、実践的な提案をさせていただくつもりです。 意識とは、現在の貴方がたが非常に気を揉んでいるような、善悪の教えに基づいて形成されるようなものではありません。魂に関してもその限りでないことは容易に推察できるでしょう。 これは、貴方がたの体系やどこかの体系では善悪に絡む問題が存在しない、とか、善が悪より好ましいわけではない、と言っているのではありません。ただ、善悪というのは、より壮大な現実(真実)の異なった「現われ」にすぎない、という意味なのです。 さて……いま一度強調しておきたいのですが、こうした口述全般は難解かもしれませんが、貴方がたが一体誰なのか、を自ら体験できるようになれば、全ては直感的に、ずっと明確にわかってきます。 もしも自分という存在を見出すために体内の探求ができないのなら、精神的な自己を探求すればよいのです。 この内側を見ていく過程では、貴方自身がそうした旅を始めるまでは、恐らく信じ難かった、多くの不思議を知覚することになります。貴方は、魂なのです。貴方は、魂のある特定の「現われ」であり、自らの存在の本質について、知らないでいい、と考えるのは、全く馬鹿げた話と言う他ありません。 一度、自分の内側への探求に乗り出せば、その体験は貴方のものになります。かりに貴方が自分の体験を明確に言語化できないとしても、そのことが、その体験の価値や存在を否定することには断じてなりません。 貴方は実際、こうした探求行為をどんな言葉で呼ばれるでしょう。精神の探求、心理の探求、あるいは霊の探求……貴方にとって好ましい呼び方をあてられてかまいません。 貴方は、自分の魂を見つけ出そうとするのではありません。そうした意味では見つけるべきものは何もないからです。魂は、どこぞに迷い込んでしまったわけではなく、貴方という存在にしても、迷子になったわけではないのです。 貴方の言葉では、その違いを言い表わすことはできないかもしれませんが、貴方の意図においては、確実な違いをもたらすことができるのです。 第7章 セッション530……1970年5月20日(水曜日)午後9時19分 貴方がたは、自分には知覚可能な1つの物質形態しかなく、それ以外は存在し得ないようにみえます。同様に自分の形態は、ある決められた時間には1カ所にしか存在できない、と考えます。 ところが、貴方には知覚できない貴方の形態が確実に存在し、目的に応じて、自ら、様々な形態を創り出しているのです。しかし貴方自身は、そうした形態を物質的に知覚することも叶いません。 貴方にとって最重要な「自己」という感覚は、物質的肉体と結び付いています。そのため、自分が肉体を失ったり、離脱したりなど、如何なる形であれ肉体との繋がりが断たれた状態を想像することは極めて困難なのです。 形態はエネルギーが集中し、凝縮した結果です。その形態を決定する原盤となるのは、鮮烈さ(強度)をもった感情、もしくは霊的なイメージです。そこでは鮮烈さ(強度)が非常に重要になります。 例えば貴方が、ある場所にいたい、という願望を、とても鮮烈に抱いていたとしましょう。すると、その願望を意識的に自覚していなくとも、貴方と全く同一の疑似物質的形態が、貴方の望む場所に出現することがあります。貴方自身は、そうしたイメージや、その場所での出現に気づかなくても、願望は、貴方の人格やイメージの印影を運ぶのです。 普通ならこういった観念的イメージが他の人から見える、ということはありませんが、将来的には科学計測機器によって感知される可能性は充分にあります。また、現在でも、「内なる知覚」の発達した存在なら知覚される可能性があります。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月28日
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前からの続き。 ☆ ☆ ☆ さて、魂の能力は、自覚とは無関係に作動するものなのですが、貴方がたの意識的な協力のもとに作動するというよりは、貴方がたの意に反して作動することが少なくないようです。 (例えば、脅えたりした瞬間に、その脅えを物質化することなど。オカルトではエクトプラズムと呼ばれる。) 貴方がたは、自分が、魂の能力を実際に使っていることに気づくと、しばしば酷く驚き困惑し、狼狽してしまいます。 貴方がどのように教えられてきたかはともかく、もともと知覚とは、普段使われているような意味での肉体的な事柄ではないことを理解しなければなりません。貴方自身に肉体の感覚器官以外を通じて情報を知覚する体験が起きた暁には、知覚というのは実は、本当は、このようになされる、ということを受け入れる必要があります。 貴方がたの現実に対する概念があまりに限定されているために、自分の概念の枠に収まらない体験を知覚してしまった場合、そのことに脅えきってしまうという例がよくあります。 いま、こうして私がお話している知覚は、単に漠然と「超感覚的な知覚(ESP)」と言われている知覚についてだけではありません。そうした体験が非日常的と映るのは、貴方がたが体の感覚器官を通さない知覚の存在をあまりにも長いこと否定し続けてきたからにすぎません。 いわゆる「超感覚的知覚(ESP)」と呼ばれるものは、「内なる自己」が基本的にどのような方法で情報を知覚するか、という点において、未熟で歪んだ見解を貴方がたに植え付けてきました。しかしながら、超感覚的知覚に関して打ち立てられた概念は、少なくとも真実に幾分近いところにあります。 そうした概念自体は、全ての知覚は基本的に物質的なものである、という見解を超えたところにあり、そこに進歩を見ることができます。 魂の本質を、知覚の本質と分けて論じること自体、不可能と言ってもよいほどです。 ごく簡単にいくつかの点を復習してみましょう。貴方がたは既に知る物質や世界を自分自身で創り出しています。体の感覚器官は、実際に物質界を創っていると言うことができます。 そのなかで、体の感覚器官は物質的範疇で役立てられるエネルギー場のみを知覚することを貴方がたに強制し、その現実の場において極めて特殊化した形態を強いています。体の感覚器官を使っているうちは、別の方法で現実を知覚できません。 そうした体の感覚器官が、「内なる自己」の特徴でもある、本質的で、束縛のない知覚力を変質させてしまうことは断じてできません。「内なる自己」とは、貴方のなかにある魂に他なりません。 その「内なる自己」は、魂と自分自身の関係をよく理解しています。「内なる自己」は、貴方がたの言葉で言う「現在」の人格と、魂との間を結ぶ伝令の役割を担っている、と言えましょう。 今1つ理解していただきたいことは、私が「魂」、「存在」、「内なる自己」、「現在の人格」といった言葉を用いるのは、あくまでも便宜上にすぎません。なぜなら、そのうちのあるものは別のものの一部でもあり、これはここから始まり、あれはそこまでで終わる、といった境界が存在しないからです。 そのことを理解しようとするとき、「自我」、「潜在意識」、「無意識」といった言葉が心理学者たちによってどのように使われているかを考えることで、理解が容易になるのではないでしょうか。 例えば、ある瞬間には潜在意識と思われたものが、次の瞬間には顕在意識と見なされるといったような具合です。無意識的な動機と思われていたものが、ある時点においては意識的な動機であるとも見なされ得るということがあります。 そうした立場においてさえ、実際の体験においては存在しない区分を言葉が作り出していることは、貴方がたの体験が教えてくれるはずです。 貴方の知覚は体の感覚器官が一見独占しているかのようですが、貴方は自己本位の「現実」の範疇をただ拡げるだけでよく、そうすることで、貴方の自我も極めて快く非物質的な情報の存在を受け入れることがわかるでしょう。 そうした暁には、それまで自我が信じてきた己の性質が自動的に変容し拡大します。なぜならば、自我の成長の足かせとなってきた制約を、自身で取り払ったことになるからです。如何なる知覚作用であっても、それは知覚者側に変化をもたらします。 よって知覚者と見なされている魂も変化しなければなりません。一見知覚されたように思われる事物と知覚者の間に、実質的な区別はありません。多くの意味において知覚された事物は、知覚者の「広がり」あるいは延長と言えます。 このことは奇妙に聞こえるかもしれませんが、すべての作用は観念的です。もし、それを貴方がたが霊的作用と呼びたいのであれば、それでもかまいません。 極めて単純化した説明をすれば、「思考が現実を創造する」のです。 そうして思考の創造者は物質を知覚するのですが、本人には一見自分と別々に在るように見えるその物質と、自分との繋がりが理解できないのです。 思考や感情を物質的現実のなかに具現化する特質は、魂に属しています。貴方がたの「今」という現実においても、思考は物質化しているのです。別の現実のなかでは、まったく違うやり方で思考の「構築」が行われているかもしれません。 従って貴方である魂は、貴方の思考や期待からなる想念の本質から、貴方のために、物質的な日常的現実を構築しているのです。 貴方がたの主観的感情が如何に大切であるかが、このことから容易におわかりかと思います。この貴方がたの宇宙が「観念による構築体」であるという知識が、身のまわりや環境を有益なる方向に変化させるための手掛かりを即座に与えてくれるでしょう。 魂の本質と、自らの思考や感情が、物質的現実を形づくっていることを理解しないうちは、自分に現実を変えていく力が備わっているなどとはとても感じられません。本書の後半の章において、貴方がたが実際の日常生活の構造や本質を、実践的に変えていくために役立つ情報をご紹介できればと考えております。 セッション528……1970年5月13日(水曜日 午後9時3分) 魂は、体験全てを直接知覚します。貴方がたが気づいている体験の大半は、物質的な包装紙に包まれています。そして、貴方がたはその包装紙を体験そのものと思い込み、その内側を見ようとはしません。 貴方がたの既知の世界というのは、意識によってなされた無数の物質化の1つであり、そのなかに存在根拠を有しています。 しかし、魂には物質的現実の一部である法則や原理に従う義務はなく、物質的知覚にも依存することはありません。魂の知覚というのは、いわば貴方がたが知る物質的事象の背後に存在する、観念的な行為や出来事の知覚を言います。 また、魂の知覚は時間に依存することがありません。なぜなら時間は物質的なカムフラージュであり、非物質的現実には当てはまらないからです。 さて、魂の直接的な知覚体験が、実際にどのように行われるか、を説明するのは困難です。それは物質的な知覚のように色、形、重さ、感触などといった装いや物質的な手掛かりがなく、知覚の全領域に及ぶからです。 言葉は体験を語る際に使われますが、言葉が表現する体験そのものでないことは明らかです。思惟的な言語に適応しない体験は心に抱くことがほぼ不可能になっているほど、貴方がたの主観的な体験は物質的で、言語による思考と深く関わっているのです。 さて、貴方がたが認識している個々の出来事は、既に(物質に)変換がなされた内なる出来事、すなわち霊的、または観念的出来事です。つまり、それらは直接、魂によって知覚された後、物質的に適応した自己の部分によって、物質的な感覚の言語に置き換えられたものなのです。 申しあげるまでもないことですが、魂は知覚のために肉体を必要とせず、その知覚も肉体の感覚器官に依存することがありません。 また、体験は貴方がたが現世を生きておられようと、別の転生におられようと継続します。 (死などは存在しない。唯物論に染まり、あまりにも肉体の感覚器官に囚われているために、死があると錯覚している。) 更に、いま貴方が本書を読まれている間にも、魂の基本的な知覚作用は貴方のなかに働いています。 また、物質体系での貴方がたの体験は、物質の形態や肉体の感覚に依存していることになりますが、それは、再度繰り返しますが、物質の形態や肉体の感覚が、現実を解釈し、物質データへと変換しているからです。 (魂を映写機と考えれば、よくわかる。) ですから魂が行なう直接の体験を知る手掛かりは、ほんの少しの間、肉体の感覚器官のスイッチを切ること、つまり、それらの知覚機能を使うことをやめて、別の方法に頼ることで獲得できます。 貴方がたは現在でも、これを夢見の状態で、ある程度はやっておられますが、そうした時でさえ、貴方がたは未だに多くの夢での体験を、幻覚まがいの物質的な言語に置き換えようとします。しかし貴方がたが記憶している夢の大半は、そうした性質のものなのです。 ところが、特定の睡眠の深さにおいては、魂の知覚が比較的妨害されずに作用します。言ってみれば、貴方がたは、純粋な水源である「知覚の泉」から水を飲むことになるのです。貴方がたは自己の存在の深層部分、つまり己の創造性の源と意思を通ずることになるのです。 そのように物質的変換のなされない体験は、朝まで残ることはありません。つまり、夢として思い出さないということです。 (睡眠が必要なのは、この知覚の泉を汲みだし飲むため。) しかし、私が「深層体験」と呼ぶ体験において獲得された情報から、後日の夜の夢が紡ぎ出される場合もあるのです。それらの夢は体験の「翻訳」としては正確でもなければ当の体験に近似するものでもなく、むしろ夢の喩え話といった性格のもので、当の体験とは、全く別物であるということです。おわかりになりますか。 ところで、この睡眠中に起こる意識については、貴方がたの科学者たちによる正確な位置づけがまだなされていません。 その意識では、夢見の状態自体を、可能にするエネルギーが生成されています。物質に適応した自己が、夢境においての現時の体験から情報を得たり、体験を消化して自分のものにできるというのは本当です。 しかしその体験は、その後、体験を構成した基本要素に戻ってしまう、というのもまた事実なのです。すなわち、その体験は、バラバラにされる、ということです。そして、部分的には「過去」の肉体の感覚データとして記憶にとどめられますが、全体としての体験は、まだ何も関与のなかった状態に還るのです。 従って、その体験は「永久に」、貴方の理解に不可欠な物質的装いから離れた場に存在することになります。魂が自らの実在性を、体験することを選択した際の1つの方法が、物質的な在り方でした。 換言すれば、貴方が暮らし、変化させていく世界を、魂が創造している、ということになります。それは新しい進化や、意識の新たな形態が生ずる可能性を秘めた、完全無欠な、魂の活動領域なのです。 ある意味では、魂が貴方を創造し続けると同時に、貴方も魂を創造し続ける、と言うことができます。 ☆ ☆ ☆ 次に続く。
2013年08月28日
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前からの続き。 ☆ ☆ ☆ セッション527……1970年5月11日(月曜日)午後9時12分 多くの人が、魂を、永遠不滅性を賦与された自我である、と思っています。それは貴方がたの知る自我は、本当の自己の小さな一部にすぎない、ということを、貴方がたが忘失しているからなのです。 よって、この人格の小さな一部が、いわばただ先へ先へと際限なく投射されるもの、と考えています。貴方がたが忘失しているからなのです。 貴方がたの現実の可能性がほとんど理解されていないため、貴方がたの概念も限定されてしまうのです。「永遠不滅性」を思いやるとき、どうも人類は、そのまま自我が(自動的に)発展していくことを望むようですが、そのくせ発展にはつきものの「変化」に関しては否定的です。 魂のなんたるかを自問することもなく、宗教心から自分には魂なるものがあると信じる人々もいます。魂を重要視している場合もしばしば見受けますが、そこでもまた、魂は自らの所有物と見なされています。 (魂をモノ的に捉えている。) さて人格は、たとえそれが貴方の既知の部分であっても絶えず変化しているのですが、それは必ずしも予測できる変化ばかりであるとは限りません。事実、思いがけない変化も起こります。 貴方がたは、自分の行動を通して織りなされる類似点に注意を集中することに固執します。そして、それらの類似点をもとに、これまでの自分の変化にはパターンがあり、むしろそのパターンを踏襲する、という持論を展開します。 (習慣の奴隷になっている。) そうした変化のパターンは、貴方がた本来の自己の探求を阻止します。しかも、貴方がたはこうした歪(ゆが)んだ見解を、魂の現実についての概念にまで投影します。つまるところ、魂を誤った概念のもとに見ているのであり、死を免れない自己についての本質さえも取り違えているのです。 おわかりでしょうか。死を免れない自己は、貴方がたが理解されているより遥かに素晴らしく、奇跡的とも言える部分で、思いもよらぬ絶大な能力を秘めているのです。 今のところ貴方がたは、死を免れない自己について取り上げても、「自ら」の知覚力さえも理解できていないのですから、ましてや「魂」の知覚力の理解にも到達できません。 魂とは、何よりもまず知覚し、創造するものなのです。 貴方がた自身が魂であることを、いまここで再認識してください。つまり、貴方の内側にある魂が、いまここで知覚を行っているのです。魂による知覚の方法は、現在も、貴方が物質界に誕生する以前も、また物質界から死去した後も、変わることがありません。 ですから、貴方の「内なる自己」である魂という代物は、基本的には肉体の死の後でも、その性質や知覚の方法などを急激に変化させたりはいたしません。 従って、貴方がたは、今ここでも魂の知覚力に気づくことができるのです。魂は、貴方がたの死を待って出迎えてくれるものでもなければ、損なってはならじと守ったり、購えたりできる性質のものでもありません。魂は、貴方がたが失うことのできないものなのです。 「魂の喪失」であるとか「魂の救済」といった表現は、ひどく解釈を誤ったか、あるいは歪曲された解釈の結果と申せましょう。なぜなら、魂とは貴方がたの一部であり、永劫不滅のものだからです。特にこうした概念については、本書でも宗教や神の概念を扱う章において、より深く掘り下げていきたいと思います。 貴方が知る自身の人格、つまり貴方自身が最重視し、最も自分らしい「唯一の我である」と考えている部分もまた、決して破壊や消失の憂き目に遭うことはありません。その自分も魂の一部であると同時に、決して魂によって食いつくされたり抹消されたり、意のままにされてしまうものではありません。 また、別の面から見ると、魂から「自分」が離れることも断じてないのです。しかし、「自分」は貴方がたの魂の一局面にすぎません。個としての貴方は、貴方自身がどう考えるにせよ、貴方の合意の内に存在し続けるのです。 個としての自己は絶えず成長し進化しているのですが、それには自らが他から識別可能な、個性ある独自の存在であることを自覚しつつも、一方では魂の1つの表現にすぎないことを理解しているかどうかが大きく関わってきます。 個としての自己が、このことをある程度理解してくると、創造性を開花させたり、自身に本来備わった能力を使うことを学び始めます。 今ここでは単に 「貴方がたの個性はそのまま存続します。それでよいことにしようではありませんか」と言うほうが、ずっと面倒がありません。それはそれなりにまあまあ理に叶った喩え話となるため、これまでもそうした特定の語り口が採択されてきました。 ところが、そうした喩え話のような単純化のなかにこそ、危険が潜んでいるのです。貴方の現在の人格、過去における人格、そして未来における人格―貴方がたが理解できる時間の概念に則した表現―は、全てみな魂、しかも他でもない貴方の魂の表出なのであり、紛れもない真実なのです。 (思い込みが自己をつくっている。) 従って、貴方の魂、貴方がその一部となる魂は、貴方がこれまで想像してきたよりも、遥かに創造性に富んだ奇跡的な現象なのです。しかし、そのことが明確に理解されていなかったり、先にも述べたように、そうした概念が簡略化の名のもとに骨抜きの状態になっていた場合には、魂の強靭な生命力を理解することは到底できません。 魂は、そうした他の全ての人格による体験の一部である叡知や情報や知識を有しています。 そこで貴方は、自らの現実の真の本質を自覚してはじめて、貴方の内にある情報に接することができるのです。 再度、繰り返して申しあげますが、そうした人格はそれぞれが自立し、魂の一部として、魂のなかに存在しています。そして、それぞれが何ものにも制約されることなく創造に励み、進化し続けているのです。 それでも、それら人格の間には内なる意思疎通が存在し、1つの人格の知識は他の全ての人格にも入手可能となります。それも死を迎えた後ではなく、貴方の今この瞬間にも可能なのです。 さて、先にも述べたように、魂そのものは静的なものではありません。魂は自らを構成するそれらの人格の体験さえも通して成長し、進化できるのです。しかもなるべく簡潔に申しあげるなら、魂とはそうしたあらゆる人格の総和以上の存在です。 さて、現実には、閉じた体系というものは存在しません。貴方がたは敢えて、付与された「場面」の範疇に焦点を合わせることを決めているため、その物質体系下では、貴方がたの知覚が、現実についての概念をある程度限定されたものにしています。 しかし意識は、根本的に決して閉じた体系ではあり得ず、そうした性質に登場する障壁は全て幻影なのです。従って、魂自体も閉じた体系ではありません。しかしながら、貴方がたが、魂に思いを馳せるとき、大抵は、不変の、霊的な、もしくは精神的な砦というような見方をします。 そこで貴方がたが思い描いているのは、侵入者を締め出すだけでなく、発展拡大や進化をも拒む砦に他ならないのです。 このように、魂については、言葉による表現が極めて困難な事柄が沢山あります。なぜなら、貴方がたは、自分という個性ばかりを気にかけるあまり、例えば、自らの魂が開いた体系であり、なおかつ、あらゆる方角に創造的エネルギーを放射している超自然的な動力源である、という概念について、それが真実であるにも関わらず、抵抗を感じているからです。 再度申しあげますので、忘れないでいただきたいのですが、貴方の現在の人格は断じて損なわれることはありません。さて、魂を表わす今1つの呼び名が「存在」です。 魂、すなわち「存在」についての定義づけを試みるのが決して簡単ではないことは、貴方がたにもおわかりでしょう。それは、その論理的意味で捉えられる時でさえ、精神的、霊的、あるいは電磁気的な観点からの理解や、意識や動きの本質についての基本的理解が要求されるからです。 しかし、貴方がたは、魂、あるいは「存在」の本質を、直感的に見出すことができます。そして直感的な知識こそ、多くの場合において他の如何なる種類の知識より秀でているのです。 魂を、直感的に理解しようとする時に不可欠な条件は、それを成し遂げたいという願望です。 もし、その願望が充分に強いものであれば、鮮烈で紛れもない自覚的知識に至る体験へと、無意識のうちに導かれていることでしょう。実際、それを可能にする方法は存在します。私は本書のおしまいのほうで、その方法を開示させていただくつもりです。 取りあえず今は、ここで非常に効果的で簡単な練習を1つ紹介させていただきましょう。この練習は、やり方を読まれてから目を閉じて行ってください。では、自分自身のなかに、呼吸や生命力が湧き出てくる、力の源があるのを感じてみましょう。 これを最初から上手になさる方々もいれば、少し時間をかけてうまくいく方々もおられます。内側に、この源の存在を感じることができたなら、次に、その源から力が外に向けて流れ出し、体全体を満たすのを感じます。 その力は、貴方という中心から指先や爪先、さらに体じゅうの毛穴を通って光となって放出され、四方八方に広がっていきます。放射された光線は弱まることなく周囲の緑を通って上空の雲に達し、一方では地球の核にも至るのと同時に、宇宙の果てにまで届くのです。 さて、この練習は単に象徴ではありません。まずは想像するところから始まってはいますが、これは真実に基づいたものです。貴方の意識の投射や、魂から発せられる創造性は、その練習通りに、紛れもなく外界に達しているのです。 この練習は、魂の真の本質、創造性、生命力についての概念を示しています。貴方は、魂から自己のエネルギーを引き出すことができるのです。貴方はまたそうした魂の個性であり比類なき一部でもあるのです。 さて……この議論は、貴方がたの日常生活に実際上あまり意味のない、秘儀の開示を意図したものではありません。貴方がた自身の現実について限定された概念を持ち続けている限りは、実際に自身の多くの能力を活用できない、というのが真実なのです。 同様に、魂に関して限定された概念を持ち続けているかぎり、自らの存在の源や創造性からの乖離(かいり)をある程度余儀なくされてしまうのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月28日
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前からの続き。 ☆ ☆ ☆ 思考から物質への変換をもたらす方法を真に理解することは、いわゆる先端技術の全面的刷新と、現行より遥かに耐久性に優れた建物や道路などの建造物を、貴方がたにもたらす結果となります。 物質の背後の超自然的現実が黙殺されている間は、実在するその方法を効果的に活用したり、そこから利益を引き出すことはできません。 貴方がたは、まず自己の超自然的現実に気づかずして、更には、自身が物理法則の上に依拠しているのではないことを認識せずして、自らの物質的存在の真の起動力である超自然的現実を理解することはできません。 よって、私が最初に掲げたい目標は、貴方がた自身も、その一部である「内なる自己」の存在に気づくようにし、なおかつ、自らの真の自由や潜在力を認識する上で障害となっている主知的な残骸や迷信的な残骸を取り除いていくことなのです。 貴方がたはその後で、真の自由や潜在力を、様々に利用する方法を学べるようになるでしょう。 第6章 セッション526……1970年5月4日(月曜日)午後10時 さて……これから短いセッションを行って、その後で新しい章の口述に入りたいと思います。 本書の主題(テーマ)である「魂が永遠であるということ」を論じるには、まだその背景となる情報が充分であるとは言えませんが、少なくとも論じ始める頃合いとしては決して早すぎることはないでしょう。 たとえ私たちが別の題材の探求中にあっても、内なる自己の多次元的側面には、常に光を当てていくつもりです。この点に関しては誤った解釈があとを断たたないため、まずは何よりも先に、間違った解釈を退けることが大切になります。 魂とは、貴方がたが所有している何かではなく、貴方がたの存在そのものを言います。 私は普通、「魂(ソウル)」という言葉より、むしろ「存在(エンティテイ)」という言葉を用いることを好みますが、その理由は単に、後者のほうにはそれほど特定の誤った解釈が結び付いていないことと、その言葉の含意に前者ほど組織化された意味での宗教色がないからです。 ここで一番問題にすべきことは、貴方がたが魂あるいは「存在」と言う時には往々にして何か完成した、よって発展性のないもので、貴方がた自身というよりは貴方がたに属しているもの、という捉え方をしていることです。 魂あるいは「存在」とは、換言すれば貴方がたの最奥にある、大きな力を秘めた「内なる自己」であり、それは絶えず、そして永遠に変化し続けます。それは大事にしまわれたまま代々受け継がれていく遺産などではなく、息吹き、応え、好奇の心に満ちているのです。そして貴方の知る肉体や世の中を形づくり、「何かになろうとしている状態」であるのです。 さて、貴方がたの自我(エゴ)が中心的な焦点を合わせている三次元的現実では、「何かになろうとしている状態」にあるためには、到着地点や目的地点が予め想定されていることが要求されます―つまり、その「何かになろうとしている状態」の結末です。 しかし、魂すなわち「存在」は基本的に三次元以外の次元に存在しているわけですから、それらの次元においては、「何かになろうとしている状態」が完成点に辿り着くことで成就をみるわけではありません。それは霊的な意味での成就であっても、そうでなくとも同じことです。 魂あるいは「存在」は、絶えず変化を遂げながら、常に学びつつある存在なのです。 また、時間や空間と連繋してではなく、主観的体験に連繋して発展し続けています。それは聞こえほど不可解なことではありません。 読者の方々は、「全体の自己」が間違いなく知っていることを、意識的な自我が素知らぬふりをするというゲームをさせられているのです。 自我というのは確実に「全体の自己」の一部なのですから、基本的にはそうした知識を把握していて当然です。けれども自我は極めて集中的に物質的現実に焦点を合わせているため、そうした情報が物質的見地からも利用できると踏むまでは、知らぬ、存ぜぬを通すことに決めているのです。 ですから、貴方がたには内なる自己に到達する術(すべ)があります。貴方がたは自らの魂あるいは「存在」から切り離されているわけでは決してありません。 自我は、物質的現実において時には時化(しけ)のように荒れ狂う海に、じかに挑むのが他の誰でもない貴方自身であるため、自分こそがいわば舵取りを任された船長であると思いたがるふしがあります。しかも、その船を意のままにする任務から注意を逸らされることをえらく嫌うのです。 精神的もしくは超自然的な情報回路は常在しており、そうした回路を通じて、情報があらゆるレベルの自己の間を行き交っています。そして人格存在の「内なる部分」からのデータのなかから、自我は自分に必要なものを疑問も抱かずに受け入れます。 実は広い見地から見れば、自我という立場は、内なるデータを無条件に受け取るところに依って立っているのです。貴方がたの自我―言い換えれば、貴方が自身であると考えている「外なる自己」ということになりますが―の部分は、自分の安全を確保し、一見自分を統率し続けているかのように見えます。 それはまさに、貴方自身の人格の「内なる部分」が絶えず自我を支え、肉体の機能を保ち、内と外の状況から指し向けられる種々の夥(おびただ)しい刺激との情報交換を怠らずにいるからに他ならないのです。 魂あるいは存在は、輪廻や、確率的偶然にみえる現実でのあり方や体験を通して、萎縮することなく次第に拡大していくのです.この確率的偶然にみえる現実に関しては、追って明らかにしていくつもりです。 貴方がたが自己の単独性に止まり、完結することを主張するのは、単に自己の存在について極めて制限された概念を抱いているからにすぎません。 自身の体内には無数の細胞があるにも関わらず、貴方がたはその肉体を1つの体と呼び、自己の所有物であると考えます。確かに肉体は内から外まで、貴方自身によって形づくられたものです。 しかし、あくまでも「生命体」で肉体を築いているのであって、その究極の最小粒子にさえも息づく意識があるのです。そのように見ていくと、凝集した塊があれば、そこに意識の塊(かたまり)があることになります。 そして個々の意識には、それぞれの目的、能力、および可能性があるのです。こうしたことからもおわかりのように、貴方という存在には際限というものがありません。貴方であるその魂あるいは「存在」が、自らを囲い込み、真の自由を否定するような境界を、どうして設定できるでしょう。 さて、私は魂がまるで宝石か何かのように見なされている場面にしばしば行き当たります。揚げ句の果てに神への贈り物として捧げられたり、かつての女性の処女性のごとく扱われる場合もあります。すなわち、魂が極めて価値の高い贈り物で、失うことが善とされ、その行為が受け取る側にとって至上の贈り物になるという意味です。 この種の思想は多くの処世学のなかに存続しています。そこでは、魂が最初に授けてくれたと見なされる存在のもとに返納されたり、あるいは存在と非存在の間のどこか曖昧な状況のなかに消失したりします。 しかし、何をさておき、魂は生み出す力をもつのです。魂についてはあらゆる角度からの議論が可能で、その性質もある程度は知り得るものです。 読者の方々も、十二分な動機のもとに重要な関心事として探求されるのであれば、大半の方々が独力で、魂の性質を見出されることでしょう。魂、あるいは「存在」はそれ自体、その動機の強さと、エネルギーと潜在力の規模において、どの宇宙にも類を見ない意識の1つなのです。 魂は、貴方がたにはとても信じられないほどエネルギーが集中した状態で、限りなき潜在力を秘めています。しかしながら魂は自己というものに取り組まねばならず、自分の世界を形づくらねばなりません。 魂には全ての存在に対する責任があり、貴方がたの理解を遥かに超えた人格的可能性を携えているのです。私の話は、全般的な魂、あるいは「存在」であると同時に、貴方の魂、あるいは「存在」でもあるということを、どうかお忘れにならないでください。 貴方とは、貴方自身の魂の1つの「現われ」なのです。貴方がたのうち幾人が、自らの現実、つまり現実全体を、現在の貴方に既知なものだけに限定したいと思っておいででしょう。 貴方の現在の自己が、貴方の人格全てであり、その自己は終わりなき永劫を通して変わることがないままだと思っておられる限りは、それをその通りに実行し続けることになります。 そのような永劫は死んだも同然のものです。多くの意味で、魂は神性の発端です。のちほど本書のなかで、神の概念についても論じるつもりでおります。いまは取りあえず、魂あるいは「存在」という、より大きな自己だけを見ていくことにいたしましょう。 魂、あるいは「存在」は、今のこの瞬間にも、読者の方々一人一人の体験の奥深い隠所から囁きかけています。私は本書のなかで、貴方がたの魂、あるいは「存在」が永遠であることを確信していただくにとどまらず、そのなかで生き生きと脈打つ現実を感じることができるようお手伝いしたいと思っています。 しかしながら、貴方がたは、はじめに自身の精神、かつ霊的な構造についての知識を、いくぶんなりとも得ておく必要があります。貴方がたが一体誰で、どのような存在なのかがある程度わかってくれば、私が一体誰でどのような存在なのかも、より明らかになってくるでしょう。 私は貴方がたに、自らの奥深い創造的な側面を熟知していただきたいのです。そうした知識を使うことにより、貴方がた自身の体験全てが拡充されうるのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月28日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 特異点とは、すなわちエネルギーの集中した点ということなのです。下位の特異点はごく普通に見られ、実際に貴方がたの日常的な出来事に影響を与えています。家屋他の建造物を建てるにしても、いわゆる建築に好ましい場所というものがあります。 たとえ他の条件が同じでも、そうした場所では良好な健康状態が保たれ、活力が増し、植物もよく育成繁茂します。またそこでは、あらゆることが有益な状況に収まるように思える場所でもあります。 (俗にいうパワースポット) 下位の特異点の近くにいることが、直感的にわかる人々もおられます。そうした場所は複数の特異点の間にできる、ある(位相)角度の内側(位相差の内部)に生じます。特異点自体は、明らかに物質的な存在ではありません。 つまり不可視である、ということですが、数学的な演算により推定は可能です。それで、かような場所はエネルギーが強い地点として感じることができます。 同じ部屋のなかでも、光などの必要条件は一切同じなのにも関わらず、他と比べて特に植物の生育がよい場所がある、ということがあります。貴方がたの空間には、全てにそうした特異点が行き渡っているため、みえない特異点同士の間に(位相)角度(位相差)ができている場合があるのです。 非常に単純化してお話しますが、特異点の間にできる(位相)角度(位相差)でも、他と比較して「はずれ」に位置するものもあり、その場所では、貴方がたの成長や活動に関わる全ての条件を好ましい形で満たしてくれるとは限りません。 こうした角度(位相差)についてお話するとき、私たちは三次元(ユークリッドの平面)的に取り扱っていますが、言うまでもなく、それらは多次元(リーマンの曲面)的なものです。 こうした角度(位相)の性質を述べることが本書の主要な題材ではないため、ここで細部まで説明しません。特異点には、その力が強まる時代とそれほどでもない時代がありますが、そうした差異が生じる理由は、特異点や時間の性質とは関係ありません。 特異点に影響を及ぼす要素は別に存在しています。ですが、それについては今ここで触れる必要はないでしょう。 そういったエネルギーが集中した時点または地点は、感情の鮮烈さの増大によって活性化されます。増大と言っても、貴方がたの正常域に充分収まる範囲です。特異点の存在に気づいていなくても、貴方がたの感情や思いは、特異点の活性化に一役かっているのです。 活性化された特異点は、当初の感情や思いに大量のエネルギーを付加することになり、エネルギーを与えられた感情や思いは、物質への投影が加速されます。さて、ここに関わってくるのは感情や思考の性質の如何(いかん)ではなく、その鮮烈さ(強度)だけなのです。 特異点は、言うなれば目に見えない発電所のようなもので、充分な鮮烈さを帯びた感情的な思いや思考が接触してくることで活性化されます。特異点に関しては、何によって活性化された場合でも、それ自体の増幅は極めて中立的に起こります。 この題材についての情報の口述は、幾分手間を要します。それはこの題材が新しいものであるため、主に、言語への置換ができるだけ的確に行われるように、取り計らうことからくるものです。 しかもルパート(霊媒)の側においては、できるだけ科学的背景の介在なしに翻訳がなされるよう望んでいます。私の側にも創意工夫が求められているのです。 さて極めて単純に申しあげますが、意臓による主観的体験は、いずれも(電)磁気エネルギーの塊(波)として反射的に外に示されます。それらは物質の領域の「下位」に存在しますが、「未だ物質として表出していない前駆粒子」という表現を好まれる方々もおられるかも知れません。 このエネルギーの塊(波)は全ての意識から自然に発せられており、あらゆる刺激への反応の結果として生じる、目に見えない形成体なのです。それらは滅多に遊離して存在することはなく、ある特定の法則下に結合しています。 (オカルトでは、エーテルと呼ばれている。) また、そうしたエネルギーの塊(波)は、自らの形状や振動を変化させることがあります。それらの相対的な「持続時間」は、後押しとなる当初のエネルギーの強度によります。つまり、それらを存在に導いた当初の思考、感情、刺激、あるいは反応の背景となるエネルギーの強度によって、持続時間が左右されるのです。 ここでもまた非常に単純に申しあげるのですが、一定の条件下において、エネルギーの塊(波)は凝結して物質となります。電磁気エネルギーの波のうち充分な強度をもつものは、既にお話してきたところの下位の特異点を、自動的に活性化できます。 そうした場合には、エネルギーの塊(波)の物質化がより加速推進され、貴方がたの言葉で言えば、強度の低いエネルギーの塊(波)に比べて、物質化の速度がかなり増すことになります。エネルギーの塊(波)にとって、分子はまるで惑星のように巨大なものとして映ります。 しかし原子も分子も、惑星も電磁気エネルギーの塊(波)も、それらを、エネルギーが生起したのと同じ原理の、異なった「現われ」にすぎません。そのことが到底ありそうもないことにみえるのは、貴方の置かれている位置が相対的なもので、見せかけの時間と空間のなかに意識の焦点を合わせているからなのです。 従って、個々の思考や感情は、一定の条件下では電磁気エネルギーの塊(波)として、あるいは、それらの複合体として存在し、しばしば特異点の助勢を賜っていることになります。 それらは物質を構成する、建築素材(ブロック)として出現するのです。ただし物質の顕在化は、思考や感情の性質に関わらず、中立的な「結果」として起こります。 従って、強烈な感情を伴う観念的なイメージは、青写真の役割を果たし、その青写真に対応する物質、もしくは状況なり、出来事なりが、貴方がたの言葉で言う、「具現化」することになります。 セッション525……1970年4月22日(水曜日)午後9時14分 感情、思考、もしくは観念的なイメージの鮮烈さ(強度)は、青写真の役割を果たすので、後に続く物質の具現化を決定づけるのに、究めて重要な要素になる。 このようなイメージの鮮烈さ(強度)は、(電)磁気エネルギーの塊(波)ができる時の核になりますが、貴方がたの表現をお借りすれば、核の強度が大きいほど、物質の顕在化も早く起きることになります。 このことは、恐怖に覆われた観念的イメージであれ、喜びに包まれたものであれ、いずれにもあてはまります。 さて、そこで重大な問題が起きてくるわけです。もし、貴方の気持ちが非常に強烈な状態で起こり、感情を伴いながら、明確な観念的なイメージをもって思考がなされる場合、それらは即座に物質的な事象として具現化されます。 そこで、もし貴方が極めて悲観的な性格で、潜在的に災いばかりに思考や感傷を巡らしているとしましょう。すると、そうした思考は極めて忠実に、現実において再現されることになってしまうのです。 従って、貴方の想像力や内なる体験の鮮烈さが大きいほど、その内なる体験を物質的に具現化する方法を、正確に把握していることが重要になってきます。貴方の思考や感情は、心に浮かんだ瞬間に、物質的な顕在化に向かう旅を始めます。 もし貴方が、私が先に述べたような異常に伝導性の高い特異点の影響を強く受けるような場所にたまたま住んでおられたとします。そして、もしも貴方に病気や災難ばかりが気になる傾向があるとすれば、そうしたものばかりが押し寄せてくるでしょう。 なぜなら、かような環境のもとでは、あらゆる思考が、大きな具現力を有するからです。反対に、もし貴方の感情や主観的体験がかなり均衡のとれたもので、なおかつ貴方自身、建設的な意味で、かなりの楽天家であり創造性豊かだった場合には、自分にとって望ましい想念が即座に具現化するため、並外れて幸運に恵まれているように思えるでしょう。 簡潔に申しあげますと、貴方がたの国内[アメリカ合衆国]において、特定の理由あって活性化に秀でた特異点の存在する場所は、西海岸、東海岸の一部、ユタ州、五大湖地方、シカゴ周辺、ミネアポリス周辺、そして南西部の一部などの地域です。 それらの場所では物事の具現化の速度が速く、従って建設的要素と破壊的要素のいずれの潜在性も高いということになります。 そうした特異点そのものは、譬(たと)えて言えば太陽が植物の成長を助けるがごとく、原子や分子の作用を活性化します。特異点は、原子や分子の生成を活性化し、それらの調和力を促進させます。言い換えれば、それらが調和した構造群や組織となるべく集まる傾向を促すということです。 特異点は、物質固有の機能や潜在的な自発性を強化、増大させます。それらは超自然的な生成装置として作用し、物質化を促進するのです。 さて、私には本書を専門書にする意向はありませんので、特異点の活動や作用や影響、あるいは、私がお話している、自然な、意識の放出物である(電)磁気エネルギー群(波)について、今ここで徹底して論ずることはいたしません。 しかしながら、現在まだ知られていないにせよ、思考や感情というものが、極めて確実な方法と確かな存在理由を有する法則によって、物質へと形づくられていくことを、貴方がたに知っていただくよう、強く望んでいます。 特異点や電磁気エネルギー群(波)についての疑問を追究されたい方々や、科学的見解に興味をお持ちの方々に対しては、セス情報(マテリアル)の別の箇所で明らかにしていくつもりです。 ここであえて触れておくことにしたのは、単に人格存在(パーソナリティ)の多次元的側面についての話が、特異点や(電)磁気エネルギー群(波)にまで及んだからにすぎません。特異点や(電)磁気エネルギー群(波)は、貴方がたが特定の主観的体験を、三次元の現実で具現化することを可能にします。 しかし、私がこの話題についての論及を終える前にぜひ強調しておきたいことは、そうした(電)磁気エネルギーは全ての意識から様々な程度で放出されているのであって、貴方がたの意識のみから放出されているものではないということです。 全ての意識のなかには当然ながら細胞の意識も含まれますから、(電)磁気エネルギー群からなる目に見えないネットワークは、貴方がたの環境の隅々まで行き渡っています。そして、そのようなネットワークから物質の粒子が形づくられていくのです。 (超弦理論から素粒子ネットワーク理論を構築できるのだろう。ファインマン図などは、そのことを示している。摂動をネットワーク化すればよい。宇宙トポロジー論に発展するだろう。) さて……この話題については、容易に一冊の本が書き上がってしまうほどです。例えば主要特異点や絶対特異点の「位置」についての記述は、莫大な利益を生むことも可能でしょう。 貴方がたは自分たちのテクノロジーや、長持ちする製品、建物、道路を造り出せることを誇りに思っておられるようですが、それらは「過去」の建造物と比較してみれば、取るに足らない自慢話にすぎない、ということも少なくありません。 (数千年経っても現存している古代遺跡をみれば明らか。) ☆ ☆ ☆ 次に続く。
2013年08月28日
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前回の続き 第5章 貴方がこのページを読まれる時には、そこから受け取る情報が、言葉自体からくるものではないことに気づかれると思います。情報は、印刷された言葉の文字列に内包されているものではありません。 文字列とは情報を運ぶものです。では、情報自体は、ページの上の言葉にないと言うのなら、運び伝えられる情報は一体どこに在るのでしょう。 貴方が新聞を読まれる時や、人と話をされる時にも勿論同じことが言えます。貴方がたの実際の言葉は、情報、感情、思考などを伝達しますが、その思考や感情と、言葉とは明らかに同じものではありません。 ページ上の文字は象徴記号(シンボル)であり、貴方がたはそれらに結びついた様々な意味に合意しているのです。象徴記号つまり文字は、それらが伝達しようとしている実質、すなわち情報や思考ではない、ということを、貴方がたは考えることさえしないまま当然であると思っています。 そこで私が申しあげたいのは、文字と同様に、物質もまた象徴記号であり、文字のように、物質も、意味(実質)を表象しているにすぎない、ということです。思考が、文字や言葉のなかに存在するのではないのと同じく、実際の情報も、物質のなかに在るわけではありません。 言葉は表現の手段であり、対象となる物質もまた、異なった伝達環境においては、制限をうける。貴方がたは自分を表現するために、言葉を通して、直接表現することに慣れてしまっています。 自分がしゃべる言葉を自分の耳で聞くことができますし、喉の筋肉の運動を感じ取ることもできます。更に注意深くなれば、話をするときに、自分の体に起きてくる無数の反応、つまり話す行為に随伴する運動も知覚できるでしょう。 対象となる物質は、言葉とは別種の表現による結果です。貴方がたは言葉を創造するのと同じほど確実に、物質を創造しているのです。私は、貴方がたの手、もしくは適切な製造過程を経て、物質を創作している、と言っているのではありません。 言葉を創造しているように、物質も、貴方がた人類の進化において、ごく自然の副産物であると言いたいのです。ここで少々、貴方がたの言葉の創造、つまり「話ぶり」についてどれだけご存知かを見てみましょう。 貴方は、自分が発している言葉を聞き取れますし、適切に話せているかどうか、を判断できます。それでも、貴方の気持ちの表現としては、正確さにおいて大凡という域を出ることはないでしょう。 言葉は、正確にいえば、貴方の気持ちではありません。ですから貴方の思いと、その思いを言葉によって表わしたものとの間には、隔たりがあって当然なのです。 貴方が話をされるとき、話し始める時点では、その文章をどう終えるかや、如何なる言葉をつなげて文章にしていくかなどを、当人である貴方でさえも厳密にはわかっていません。そのことに気づくと、熟知しているつもりであった「話しぶり」についての認識が徐々に怪しくなってきます。 膨大な象徴記号の蓄積(ピラミッド)をどのように操っているのか、つまり特定の思考を表現するために必要かつ的確な象徴記号を、如何にして、その蓄積から選び出しているのかを、貴方がたは顕在意識の上では知らないのです。 またそうした意味では、実際に自分が、どのようにして考えているか、をもご存知ないのです。 貴方がたは、自身がどのようにこのページにある象徴記号を思考に転換し、そのうえで保存し、自分のものにしているのかを知りません。 普段の話し方のメカニズムさえ、顕在意識レベルでは、ほとんどわずかしか知らないのですから、実際、それと同様に行っている更に複雑な仕事、例えば、貴方がたが意思疎通や表現手段として絶えず物質的環境を創り出していることについては、同じくらい無知だとしても何の不思議もありません。 物質的な事柄の真の本質は、このような見地からのみ理解することが可能です。貴方がたを取り巻く、付帯状況や時間、また環境からの、真の意味での独立を自覚するためには、この常なる思考や願望を、言葉ではなく、対象の物質へと変換する方法を、本質的に理解する以外にないのです。 私はこの章のはじめに、真に正鵠を得た比喩を思いついたのですが、それが読者の方々を、物質的な形態という強いられた束縛から解き放つと思うと、嬉しいのです。物質的環境を創り出すことが自らの表現手段であるのを理解できたとき、きっと人類は自己の創造性をはっきりと認識するでしょう。 さて貴方がたが自分の感情を、言葉や身ぶりなどの体を使った表現に変換しているということは、いとも簡単に納得できるでしょう。ところが感情や気持ちを象徴記号である言葉に置き換える時と同じくらい、そうと気づかずに努力なしに、自らの肉体で、形づくっていることに気づくのは、それほど容易ではないようです。 おそらく、これまでにも「環境は、住む人の人柄を表わす」といった格言を耳にされたことがあるでしょう。 このような格言は、実は象徴的なものではなく、全くの字義通りの、誇張のない事実なのです。このページにある文字の実態は、インクと紙です。それらが運び伝える情報は目には見えません。物体としての本書も、紙とインク(ブログなので、ディスプレイと電気)であり、情報の運搬手段にすぎないことになります。 されど本書とて、物質として生み出されたものであり、ルバートの頭から印刷製本された(ブログの)状態でそのまま飛び出してきたわけではあるまい、と反論される向きもあるかもしれません。 また、貴方は本書を買うか借りるか(閲覧)の立場におられるわけですから、「自分の言葉を話すように、この本(ブログ)を創っている、のではないことは確かだ」と考えるかもしれません。 しかしながら、基本的に言って、貴方がたの一人一人が、今ここで手にされている(閲覧)本書を創り出している、というのは正しく、なおかつ、貴方を取り巻く全ての物質的環境も、口をついて言葉が出てくるように、ごく自然に、貴方の内なる思いから表出したものなのです。 人類は己の呼吸と同じほど、無意識に、自動的に、対象となる物質を創り出しています。これらのことは、本書を読み終えるより前にきっとご理解いただけるでしょう。 セッション524……1970年4月20日(月曜日)午後9時18分 さて、貴方がたの物質界に独特の稀有な側面は、貴方がたの存在と、その側面に焦点(フォーカス)を集めることに依拠しています。固体性をもつ、例えば幅と奥行きをもつ物体(もの)は、必ず、物質的な宇宙に存在し、含まれています。 貴方がたが存在する世界の同じ「空間」には、貴方がたとは異なった種類の意識が共存しています。そうした意識の現実は、別のカムフラージュ(偽装)体系のもとに成り立っているため、物質の意識をそのまま知覚できません。 貴方がたはそれら別種の意識を知覚していませんし、それらも概して貴方がたを知覚していません。 しかし、これはあくまでも大まかな理論です。なぜならば、貴方がたがもつ複数の現実が、様々な地点、もしくは時点同士で、言ってみれば同じ空間を占めることが可能であり、実際にそうしたことが起きているからです。 それらの地点または時点は、「二重現実」とも言うべき、極めて巨大な潜在エネルギーを秘めた点です。また、それらは、まさに現実同士が交わる特異点(シングラーポイント)なのです。 しかし、それらの点が、そのような場所であることは、まだ貴方がたに認識されているわけではありません。その中でも主要特異点とされる場所は、純粋数学的にも想像を絶するようなエネルギーの源であり、それぞれ夥しい数の下位の特異点を従えています。 更に、全ての現実と交わる「絶対特異点」と呼ばれるものが、数にして四つあります。それらの特異点も回路として機能し、そこを通ってエネルギーが流れます。 そしてそれらは1つの現実から別の現実へと繋がるための見えない通路、あるいは現実間の歪(ひずみ)や捩(ねじ)として作用します。更に、それらの特異点は、変換器(トランスフォーマー)として機能し、貴方がたの表現をお借りすれば、継続的に創造をなすための生成エネルギーをもたらします。 (宇宙論でいうところの、ワームホールやホワイトホールみたいなもの。) 貴方がたの空間は下位の特異点で満たされており、後でおわかりになると思いますが、思考や感情が物質的な対象物へと転換する際、それらは極めて重要な役割を担います。 思考や感情が、エネルギー的に、ある程度の強度まで達すると、下位の特異点を自動的に引きつけるため、大々的に力を溜め込むことになります。そしてある意味では、大きさはそのままでの拡充がなされるのです。 下位の特異点は、貴方がたが時間、もしくは空間と呼ぶものに浸透しています。従って、(貴方がたの言葉での)時間や空間には、そうした特定の時点または地点があり、そこでは、他に比べて伝導性が高く、思考や物質がより大きなエネルギーを蓄えているのです。 実際的見地から見ると、そうした時点または地点に建つ建築物は、長持ちすると言えます。貴方がたの文脈で述べるなら、思考が、物質へと結び付くときに、特異点では幾分、不変性を帯びるようになります。古代エジプトのピラミッドは、まさにその好例と言えるでしょう。 特異点は―絶対特異点も、主要特異点も、下位の特異点も含めて―、純粋に、エネルギーの蓄積、あるいは痕跡を表わしています。このエネルギーは、大きさという観点では極微で、貴方がたの科学者たちが知る最小の粒子よりも更に微小ながら、純然たるエネルギーから成っています。 しかし、このエネルギーは今後、活性化させる必要のあるもので、それまでは不活性の状態にあります。だからといって、それを物理的手段で活性化するのは不可能なのです。 さて……ここに貴方がたや数学者の理解を助けるような手掛かりがいくつかあります。下位のものも含む全ての特異点の近辺には、常に極小規模の重力の変化が起きています。よって得意点付近では、物理法則と言われるものから導き出されるあらゆる値に、ある程度の変動が見られることがわかってくるはずです。 (重力でいうなら、ブラックホール) 下位の特異点は、全ての現実や表出を形成する未発見のエネルギーの網目構造のなかで、構造の強化を助ける役割も果たしています。全ての特異点が純粋エネルギーの痕跡あるいは蓄積である一方、そこから得られるエネルギーの量は、多種多様な下位の特異点、主要特異点、絶対特異点によって大きな差違があります。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月27日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ とりあえずは1日10分間の練習から始めれば充分でしょう。 本書の情報は、このトランス状態にある女性の「内なる知覚」を通じて、記述しています。こうした試みが可能なのは高度な調整を施された「内なる知覚」と訓練の結果です。 彼女が物質的環境に強く焦点を合わせている間は、私からの情報を受け取ることはおろか、それを翻訳したり解釈したりすることはできません。「内なる知覚」というのは、つまり、人格的存在の様々な次元の間に意思疎通をもたらす複数の情報回路なのです。 このような方法でも、情報は物質的言語に置き換えられるため、ある程度の錯誤が生じてしまいます。しかし、それを苦にしては、情報の知覚が全く望めなくなってしまうでしょう。 セッション523……1970年4月13日(月曜日)午後9時13分 さて……私はある程度時間をかけて、「私たち一人一人が自らの環境を創り出している」という事実を強調してきましたが、それは自らの人生と環境に対する責任は、貴方自身にあることを自覚していただきたいからです。 もし、その逆の、つまり、それは貴方の環境が、これまでの貴方の知識と体験全てを合わせた集大成である、と信じているとすると、貴方の可能性は制限されたものとなる。 環境は客観的なもので、貴方自身とは無関係に存在する、と思っている限りは、貴方は人生の大部分と環境について、それらを変えたり、見通したり、さほど明らかではないにしろ、別の選択肢を想像したりする力をもたない、と信じていることになります。 本書において後から、貴方がたが自らの環境を有益な形へと徹底して創り変えていくための、様々な方法についてお話するつもりです。 私は、輪廻転生を「環境」という見地から、論じてきましたが、それは多くの思想学派が輪廻の影響を過剰なまでに強調しているからです。そうした学派による学説では現世の「環境」を、断固として妥協を許さない輪廻の法則に律された「過去世」で決定された結果である、と説明しています。 もし貴方がたが、自らの手ではコントロールし得ない事柄によってなすがままにされている、と感じているのなら「環境」を変えようにも、世の中に影響を及ぼそうにも、現在の物質的現実を何かしら動かすには、自分があまりに無力であるかのように感じてしまうでしょう。 しかし、輪廻の法則への隷属を強いられる際に掲げられる理由にしても、長い目で見れば大したことではありません。なぜなら時間や文化の流れとともに、道理や常識も変化するからです。貴方がたはキリスト教でいう原罪によって、または幼児期の出来事によって既に判決を下されている身では決してないのです。 例えば貴方の人生は、貴方がそうあって欲しい、と願うほど充実した実り多きものではないかもしれませんし、これくらいあればと望みながら到底それには及んでいないかもしれません。 しかし、貴方がたの精神は、キリスト教でいう原罪や、フロイトの言う幼児期神経症[幼児期に受けた抑圧や精神的外傷(トラウマ)が原因で起きる精神障害]、あるいは過去世の影響による暗黒の帳(とばり)に覆われているわけでは断じてありません。 過去世の影響について、ここでもう少し明確に説明してみましょう。過去世の影響の現われ方は、他の体験による影響の現われ方となんら変わるところがありません。 時間は閉じたものでなく開いたものであり、例えば過去の1つの転生は、今世の自己や来世の自己と隔たった状態で、過去に埋もれているわけではないのです。 前にも説明しましたが、転生、あるいは芝居と呼んでおきましょうか、それらは全て同時に起きているのです。創造性と意識は、決して直線的に進歩するものではありません。貴方がたは、それぞれの転生で、自らの舞台である「環境」を、自身で選択しているのです。 そして今世においても自分の両親や、どのような幼児体験をするかなどといったことを、全て自らの手で選んでいます。他の誰でもない、貴方自身が脚本を書いているのです。 ジョークに登場する「ボンヤリ教授」さながらに、意識的自己はそうした全てを忘れています。そのため、脚本のなかで悲劇や困難や挑戦に行き当たるたびに、意識的自己は、それらを他の誰かや、他の何か、のせいにしようとします。 私は本書を書き終えるまでに、貴方がたがどのようにして一瞬一瞬の体験を創造しているのか、を明確に述べていくつもりです。そうすることで、貴方がたは顕在意織のレベルにおいても、創造に伴う真の責任と言えるものを、完璧とはいかないまでも、かなりの程度まで果たし始めることができるでしょう。 本書を手にしながら、貴方のおられる部屋を見回してみてください。机や椅子、あるいは天井や床は、いかにも本物らしく堅密にがっしりと、極めて不変的に感じられることでしょう。また同時に貴方自身の身の上は、それとは逆に、誕生と消滅の狭間に囚われた、このうえなく脆弱なものに感じられるでしょう。 貴方がたが死んで久しい未来にあっても、この物質的宇宙は変わることなく存続していることを思うと、嫉妬さえ感じる方もおられるかもしれません。 けれども本書を読み終わる頃には、貴方の意識の永遠なることや、現在それほど堅固で揺ぎ無く映る貴方の「環境」や、宇宙の物質的側面の非永続性について、はっきりと理解されていることを望んでいます。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月27日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 多次元的自己はこの現実(三次元)のなかで、それ以外の状況では出現し得なかった種類の創造性と発展性を生み出します。しかしその後、目下の体系(三次元)から、自らの一部としての三次元的自己によって演じられるまた別の舞台、つまり別の具現化へと自分を推し進めていくのです。 多次元的自己が、三次元状態の間は、三次元的に助けられる方法で他者を助けます。そうすることは、それ以外の次元では不可能なので、三次元的な自身のためになり、己の進化にも結びつくのです。 さて、従って芝居の意義は、貴方がたの内側にあることになります。演技に長けているのは、貴方が自覚している部分だけであり、それは作品の設定が及ぶ範疇内で、確信となっている部分です。 与えられた、どの転生に関しても、その目的は、貴方が知る表層的で意識的な自己の更に奥深くにある叡知を得ることにあります。それは貴方に可能なことです。様々な暗示や手掛かりもまた、貴方の手に入り得るものです。 そして自らの多次元的人格全体の知識も自由に使うことができます。貴方がたがそのことをはっきりと理解した時に、その叡知をもって問題を解決したり、努力目標を達成したり、またその成就を貴方がたの言葉で言えば「早める」ことが許されるのです。 さらに創造性の新たな境地を切り拓くことができ、それによって貴方の創作である芝居全体の内容が豊かになります。 従って、多次元的自己の叡知が意識的な自己へと流れ込むことをある程度容認すれば、容認した分だけ、貴方は、芝居の役柄を効率的に演じることができるだけでなく、この次元全体に新しいエネルギーと、更なる洞察力や創造性をもたらすことになるのです。 今の貴方は、勿論のこと、唯一貴方のみが、自己意識だと思っていることでしょう。なぜなら貴方は、この特定の舞台作品の役者である自己を自分と見なしているからです。しかし、貴方の多次元的人格の別の部分である、他の輪廻の芝居に出演している存在も、いまの貴方と同等に、自覚をもつ状態にあります。 なお、多次元的意識である「貴方」は、それらとは更に別の現実においても、やはり意識をもつのです。 貴方の真の自己である多次元的人格こそ本物の貴方であり、多次元的人格としての存在を、どの役柄においても自覚しています。 セッション522……1970年4月8日(水曜日)午後9時13分 多元的人格が演じる、様々な芝居、つまり「時間的(時系列の)ドラマ」は、全体として特定の目的をもっています。意識は、その本質から、自らをできるだけ多くの次元において顕在化しようとします。 なおかつ、自ら新しいレベルの理解や、新たな分枝を生み出そうとするのです。そうしていくなかで、意識は現実全てを創り上げていきます。常に現実が「何かになろうとしている状態」にあるというのは、そういった理由からなのです。 例えば、役者としての役割のなかで貴方が抱く思考や感情は、別の役柄では依然として思考され、感じられる可能性がまったくないもので、新たなる創造性へと貴方を導くものなのです。 意識のある特定の局面は、それ以外では如何なるやり方でも、その資質を充分に発揮することができないのです。 貴方がたが輪廻転生を考えるとき、時間軸に沿った外面的な一連の進化過程を思い描かれるのではないでしょうか。しかし、むしろ内なる自己の表出法から様々な転生が生じている、というのが本当なのです。 そうした転生は外部の働きかけによって貴方がたに押しつけられるものではありません。それらは貴方がたの意識が自ら開き、自身をできるだけ多くの方法で表現することによって起こる実質的進化なのです。 その進化は三次元での1つの転生や、三次元的存在のなかだけに限られているわけではありません。 進化が起こると、意識は多様な形をとるようになり、例えば蝶がその幼虫の青虫とは全く似ていないように、その時の形は、もはやそれぞれが似通っている必要もありません。 魂あるいは人格存在には完全に表現の自由が許されており、自分自身の表現に見合うように、自らの形を変えます。また、舞台の場面のように、自らの「環境」をも変えます。 そのようにして、自らの目的に適うように「世界」をつくり変えるのです。それぞれの場面設定が新たな進化を生み出します。 魂あるいは人格存在は、高度な個別化を遂げた精神、霊的エネルギーで、現在貴方がたがまとっているようなどんな肉体も創り出すことができます。また、貴方がそこから生命力を引き出していることからもわかるように、それは肉体的存続の背景にある原動力でもあるのです。意識がじっとしていることは決してなく、常に更なる創造の可能性を探し求めているのです。 つまるところ、魂は、二次元的な現実や、三次元的な自己に対して自らの特性を賦与している、ということになります。三次元的自己のなかに、魂の能力を見つけることは可能なのです。 三次元的な自己は役者となることで、賦与された魂の能力を、演じる際の情報から見つけ、魂の潜在力に通ずることができるのです。 そうした潜在力を使って魂との関係を再発見していくなかで、三次元的自己は目的の達成や理解、創造性のレベルを次第に高めていきます。そうして三次元的自己は、自ら知るところ以上の存在になるのです。 その過程において、力を増すのは魂だけではありません。三次元的存在のなかに具現化されている自己も、まさにその本質を増大させることになるのです。この地球での人生は、こうした創造性なくしては、貴方がたの言葉で言えば「常に」不毛であり続けるでしょう。 魂が肉体とそのなかの三次元的な自己に息を吹き込むのはそうした理由からです。そして、三次元的自己は、新たなる創造の分野を拓くという、自身の目標の成就に取り組むのです。 言い換えれば、人格的存在、あるいは魂は、三次元以外では実現の可能性のない現実へと至る道を開拓するために、自らの一部を送り出している、ということになります。長い間そのような現実の中に在る三次元的な自己たちは、自らの意識を、いま在る現実に完全に集中させていなければなりません。 「内なる理解」は、そうした三次元的自己たちに、エネルギーや力の源を与えてくれるのです。しかし、三次元的自己は、己の役回りから、究極的には、自らの役者としての役割が理解できねばならず、更には、それらとはまた別の理解を示す一幕を演じ終えた上で、自らの人格的存在へと帰還しなければなりません。 そうした芝居には、完全なる理解を得た状態で参加している存在もいます。そうした人格存在は、他の役者たちをさしあたり必要な自覚や進化へと導くため、己の役割を知った上で、進んでそうした役割を担っています。 そうした人格存在は、役者たちが自ら創り出した自己や、芝居の場面を超えた視点を獲得できるように導いてくれるのです。かような人格存在たちは、異なった存在レベルから来ており、いうなれば芝居全体を俯瞰したうえで、役者たちの間に自身の姿を現わすのです。 それらの人格存在の目的は、三次元的自己の別の現実体系(高次元)での更なる進化を可能にするために、三次元的自己のなかに、開きをもたらすような超越的手段を、開拓することなのです。 さて……貴方がたは共同創造者になる術を学んでいます。つまり現在貴方がたが理解している神々になることを学んでいるのです。そして「責任」を学んでいるところでもあります。 それは個性を与えられた意識としての「責任」という意味です。貴方は、貴方自身に他ならないエネルギーを、創造的な目的のために使いこなす術を学んでいるのです。 貴方がたは今後も、愛する人とも、憎しむ人とも深く関わっていくことでしょう。けれどもまた、憎しみや嫌悪を手放したり、消したり、晴らしたりすることも学ばれるでしょう。 憎しみさえも創造的に使っていき、好ましい結果へ向かわせ、最終的には愛へと昇華させてしまうことも学んでいくのです。私は、このことを後の章において、もっと明らかにしていくつもりです。 物質的環境に設定された場面、それは時には素敵な所持品に囲まれ、貴方がたの人生においては、既知の物質的側面ですが、それらは全てカムフラージュ(幻想)です。よって私は、敢えて貴方がたの物質的な現実を「カムフラージュ(偽装)」と呼びます。 しかし、そうしたカムフラージュも、宇宙の生命力から成るものには違いありません。山や岩石や土も息づくカムフラージュであり、貴方がたが、知覚し、見破ることのできない極微の意識によって編み重ねられた超自然的な網目状の組織なのです。 そのなかの原子や分子にも、貴方の体の原子や分子と同じように、それぞれに意識があります。 貴方がた全員が、物質的な環境づくりに参加しており、自身を肉体という物質的形態のなかに据えているため、体の感覚器官を使った場合は、その表面だけしか知覚できません。 その表面のなかに在る真実や、それを超えて存在する真実はいずれも捉えることができないでしょう。しかしながら、役者でさえも完全に三次元的存在というわけではないのです。役者自身も多次元的自己の一部なのですから。 カムフラージュされた場面を見抜いて、舞台の彼方を見ることのできる知覚力は、既に役者のなかにあります。役者はその内なる知覚力を絶えず使っているのですが、己の役者たる部分があまりにも芝居に深く入り込んでいるため、本人はそのことに気がつきません。 広い見地からすれば、体の感覚器官は、実は、それ自身が、それのみを知覚するように物質的現実を形づくります。体の感覚器官そのものも、カムラージユの役割を担っているのです。 しかし、それらは本物の「内なる知覚」を覆うレンズのようなもので、貴方がたに形而下の物質として通用し得る活動領域のみを「見る」ように強要するのです。そうすることによって体の感覚器官は、起こっている事象のほんの上辺を告げるだけで、貴方がたの信頼を勝ち取ることができています。 例えば、貴方は自分以外の役者たちの持ち場や、時計が示す時刻をきちんと把握することができます。しかし、その時刻自体がカムフラージュであることや、他の役者たちが意識によって創られていることや、貴方に見ることのできないでいる現実が、いまこれほど明白である物質的な実在物を超えたところに存在していることを、体の感覚器官は教えてくれません。 しかし「内なる知覚」を使うことで、芝居や、そこでの貴方の役柄とは別に存在する現実を知覚することができます。それをするには当然ながら、少なくともほんの束の間、絶えず起き続けている日常的活動から意識の焦点を外さねばなりません。いわば体の感覚器官のスイッチを切るのです。そして、これまで貴方が気づかずにいた事柄に意識を向けるのです。 非常に単純化した言い回しではありますが、そうすることで受ける影響を譬えて言うなら、眼鏡を取り替えた時のようなものです。眼鏡や補聴器が体にとって人工物であるように、内なる自己にとっての体の感覚器官は基本的には人工物なのです。それゆえ内なる知覚機能が、完全に意識的に使われることは滅多にありません。 例えば、もしある瞬間に貴方の慣れ親しんできた環境が消失して、まだ理解する準備さえできていない別の事実に取って代わられたとしたら、貴方は見識を失うだけではすまないでしょうし、貴方にとって非常に恐れるところとなります。 そのためにも「内なる知覚」からの多くの情報が、貴方の理解できる言葉へと置き換えられる必要があります。そうした情報は、貴方、換言すれば三次元的自己である貴方に、如何にしてか意味の通じるものでなければなりません。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月23日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 時間は瞬間が連続したものではないと、今ここではっきりと申しあげておきます。 椅子やテーブルが空間を占めているように、貴方が話す台詞や、演技は、時間の枠内で展開しているように見えます。しかし、そう見えるのは、貴方自身によって「前もって」設定したシナリオのせいなのです。しかも貴方はその芝居の間、それらを実在する本物として受け入れねばなりません。 例えば、「午後4時」という時間の指定は大変便利です。友達に「それじゃあ、あの場所(レストラン)に午後4時にね」と指定できます。そうすれば、飲みにいくにしても、話をするにしても、食事をするにしても、友達はいつどこで貴方を見つければよいのかを正確に知ることができます。 「午後4時」それ自体に意味がなくても、合意が成立している、という理由で、便利さが生じます。その「合意」を厳かに「紳士淑女協定」に置き換えてもかまいません。 さて、貴方が演じるために、午後9時に舞台へ行ったとしましょう。しかし、芝居の場面は朝であり、登場人物たちが朝食をとっている場面だとします。貴方はそのとき、芝居で設定された時間を受け入れます。貴方も、実際に朝であるかのように感じるのです。 貴方がた一人一人が、舞台よりも遥かに大規模な芝居の制作に関わっています。そこでは、芝居を成立させる枠組みとなる基本的な前提に合意しています。 その「基本的前提」とは何かと言うと、瞬間が次から次へと継続する時間に従うことや、自身の創造性や知覚からは完全に独立して存在する客観的世界を受け入れることや、人は与えられた肉体のなかに束縛されることや、人は時間と空間により制限されること、といったものです。 貴方がたが同様な理由で受け入れている基本的前提には更に、知覚全ては、体の感覚器官を通してなされること、言い換えれば、情報は全て自己の外側からくるのであって、内側から得られることはない、という概念も含まれます。 こうしたことからもわかるように、貴方がたは当の芝居の演技に極力集中することを余儀なくされているのです。さて、それら変化に富んだ芝居、すなわち時間進行による創造性豊かなドラマは、貴方がたの言う「輪廻(りんね)転生」を表わします。 それぞれの転生は、基本的に同時に存在します。「輪廻の存在たち」と題されるような極めて複雑に感情の交差するドラマという集中講義に、いつまでも拘っている人々にとっては、その転生の向こう側を見ることは困難なのです。 なかには、いわば芝居と芝居の狭間にあっても未だに芝居を演じるものたちと意思疎通を図ろうとする存在もいます。しかしそうした存在たち自身とて、舞台の袖にいるだけで、そこから眺めているだけにすぎません。 こうしたものとの意思疎通において、1つの芝居の前にまた別の芝居があった、というように見えるため、時間とは瞬間が繋がったものであり、思いがけない始まりから同様に予期できない終わりまでの一直線に沿って経過してゆく、といった誤った概念を強めてしまうようです。 このことは貴方がたを、個人的にも人類全体としても、極めて制限された進化論(ダーウィンの進化論)に基づいた思考をするように導くことになります。貴方がたのなかで、これまでに輪廻転生を探求の対象にしたことのある人々でさえ、「中世と比べて、人類は確実に進歩していなければおかしい。」と考えます。 しかし本心は、実際は進歩していないのかもしれない、という危惧を抱いています。あるいは技術の進歩のみに注目して、「我々は少なくとも、科学技術の面では、かなりの進歩を遂げていますよ」と言います。 おそらく貴方がたは嘲笑して、例えば古代ローマの元老院議員が、マイク片手に群衆に話をしているところや、その子供が父親の演説をテレビで観ているところなどを想像するのはほとんど不可能と考えるでしょう。 しかしこうした憶測全ては、貴方がたを誤った方向へと導きます。進歩は時間と同様に、貴方がたが考えるような視点で起きるものではないからです。 それぞれの芝居には、個人レベルでも全体レベルでも、異なる問題が設定されています。進化が起きたかどうかは、そうした問題が解決されたか否かによって、特定の方法にもとづいて判断されます。 いくつかの時代において、特筆すべき大進化が起きました。貴方がたの見地からは進化とは見なされない可能性もありますが、重要な人物の出現も、その1つの例なのです。 さて、いくつかの芝居においては、概して個々の役者の一人一人が、その芝居自体が解決しようとしている大きな問題のうち、一見取るに足らない小さな部分に取り組んでいます。 私は芝居という比喩を用いていますが、ここで言う「芝居」とは、役者たちが芝居という枠組みのなかに限っては、全くの自由が許されるという、極めて自発的なドラマを言います。そして、既に述べた基本的前提を認めることと引き換えに、リハーサル抜きの上演が行われるのです。 この書でも後で明らかになりますが、それらの芝居には観客もいます。傑作と言われる作品がいずれもそうであるように、それぞれの芝居には、全体の主題(テーマ)が存在します。 例えば、偉大な芸術家たちがある特定の時代に輩出した理由は、ただ単にその人たちがその時代に生まれただけであるとか、好都合な条件が整っていたからというわけではないのです。 (著者の注釈〔セスによれば、私たちは、自身の輪廻全ての「転生」において、生きる時代や場所を自分で決めているという。〕) その偉大な芸術家を輩出した時代(ルネッサンス)の芝居で重要だったのは、直感的な真実を、強烈かつ圧倒的な存在のなかにある創造性をもって、貴方がたが芸術と呼ぶ形へと具現化させることでした。このことによって、それぞれの役者の隠された能力の覚醒を助け、行動の規範となることができたのです。 ルネッサンス時代が精神的、芸術的な意味でも、そして霊的意味においても興隆をみた理由は、その芝居に関与していた人々の熱烈な内なる意識の焦点が、そのような時代の主題(テーマ)の完成へと向けられていたからなのです。 芝居ごとに挑戦課題や努力目標はまちまちでありましょうが、偉大な主題(テーマ)は全ての意識にとって光明となり、また模範(モデル)として貢献するのです。 進化は、時間とは一切無関係に起こります。おわかりになりますか。しかし、進化は精神、もしくは霊的な焦点に関係して起こってきます。それぞれの芝居は、それ以外の芝居とは全く別物です。 従って、今回の転生での貴方の行動が、その前の転生(前世)に起因しているとか、過去世(前世)で罪を犯したために今世でその報いや罰を受けることになるとする推測は正しくありません。すべての転生は同時進行しているのです。 貴方自身の多次元的人格は、体験の場数を踏みながらも自分という存在を維持できる資質を賦与されています。その存在が、出演している様々な芝居によって影響を受けていることは言うまでもありません。 そうしたなかには、瞬時のコミュニケーションと、望めば瞬時のフィードバックが得られるシステムが存在しているのです。 芝居は無目的に上演されることはまずありません。多次元的人格は、芝居のなかで自らの演技を通して学びます。行動パターン、姿勢、態度などの点で、際限のない試みがなされ、その「結果」、他者を変化させる可能性もあります。 この「結果」という言葉には、その前に原因がある、というような、自動的に因果関係を仄めかす性質があります。これは、現存する真実の歪曲の堅固さを示すもので、また、常に直線的な表現が要求される、という言語に従う思考に特有の障壁の小さな一例にすぎません。 (時系列ではなく、結果=原因ということもある。) 貴方がたはいわば、こうした激しい感情を伴う宇宙規模の芝居を創作し、それらに自分が出演するという、幾つもの配役をもった多次元的自己に他ならないのです。貴方が現在の役柄を、自己の完全な表出である、と見なしているのは、貴方自身が、その特定の役柄に焦点を合わせているだけにすぎません。 貴方には理由あって、自分自身にそうしたルールをあてがっています。意識は、常に「何かになろうとしている状態」にあります。ですから、私がお話している多次元的自己にしても、すべきことがもはや何もない完成した精神というわけではないのです。多次元的自己も「何かになろうとしている状態」にあります。 それは「何かになろうとする」、つまり実現化という技芸を学んでいるのです。多次元的自己はそのなかに、無限の創造性の源と際限のない進化の可能性を秘めているのですが、具現化の方法をまだまだこれからも習得していかねばならず、明かされていない被造物を実在へと導く方法を、自分自身の中に見出さなければなりません。 多次元的自己は、自ら、そのなかで動き変化していくための、変化に富んだ状況をそうした理由で創作するのですが、そのときに己に課する努力目標をも盛り込むのです。なかには、貴方がたの見地からすれば、少なくとも当初は失敗と見なされる運命にある努力目標もあります。 こうした試行錯誤は、多次元的自己が、新規の被造物を生むことのできる状況を、予め創り出す必要があるためになされるのです。そして、こうした全ては真の自発性と無限の喜びのなかで行われます。 (失敗は成功の素。) 従って、貴方がたは自覚しているより、遥かに多数の「環境」を創り出しているのです。さて、現在ある役柄を担って芝居に専念している個々の役者には、それぞれに内なる指針というものがあります。 よって、芝居が自作であることを忘れてしまっていても、誰も置き去りにされたり、見捨てられたりすることはありません。それは役者の誰もが、私が「内なる知覚」と呼ぶものを通してもたらされる知識や情報を持ち合わせているからです。 それゆえ、役者たちは作品という枠内で、厳格なる統制のもとに与えられる情報以外にも、さらに別の情報源をもっていることになります。それぞれの役者はそのことを本能的に知っています。そして芝居自体にも、役者たちが元気を回復したり充電したりするために、休むことが許される期間が設けられています。 そうした休息期間のあいだには、内なる知覚を通じて別の役柄についての情報ももたらされますが、いずれの芝居のなかの自分と比較しても、今の自分がずっと自分らしさを演じられると感じるのがこの期間なのです。 その期間にあれば、誰もが芝居の脚本が自作であることが理解でき、芝居のなかでの活動に積極的に関わる間に自分を拘束していた基本的前提からも自由になれます。そうした期間は言うまでもなく、貴方がたの睡眠や夢見の状況とも符合するものです。 また、それとは別に、役者の一人一人が芝居の設定に従っていることも非常にはっきり自覚でき、自分の視覚が広がり、現実と見えていた作品(芝居)を突如として突き抜ける時があります。 (芝居の役を演じきっているときよりも、演じきれていないときのほうが、芝居全体を見通すことができる。) これは芝居が現実ではないとか芝居を真剣に捉える必要がない、という意味ではありません。芝居の意義は、役柄を演じるところにあります。それも重要な役柄を、です。 しかし個々の役者は、芝居の作品や、そこでの自己の役柄の本質を自覚しなければなりません。そのうえで芝居の一場面という三次元的な範疇を超えて、自らを具現化しなければならないのです。 それほどにゆゆしき作品の背後には、壮大な援助と協力が控えています。そして、それぞれの役者は自分の役柄を演じるなかで、まずは三次元の枠内でみずからを具現化します。多次元的自己は、自らの一部を三次元で物質化するまでは、三次元的現実のなかでは活動できないのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月23日
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これまでのセスの話から、唯物論に染まりきったために、現代人は、「自我硬直」に陥っていることがわかる。 「自我硬直」とは、独房の一種で、3次元(物質)世界が全てで、そのなかで自己に都合よく構築される世界が全てだと錯覚、洗脳されてしまうことである。 後のセスの話にも出てくるが、我々は、意識を拡大するために、仮の3次元(物質)世界で、芝居を演じているだけなのである。それは、芝居を演じることで、割り当てられた配役の立場を理解するためである。 宇宙には無限の割り当て、配役がある。セスによると、どの人格も、同時に複数の配役を演じているという。だから、3次元世界だけに拘っていると、宇宙の変化についていけずに、支障をきたす恐れがある。 芝居に熱中するあまり、割り当てられた配役が自分だと錯覚し、芝居が終わっても、その配役になりきってしまうことになる。これでは、芝居の、配役の奴隷になってしまう。例えば、ヒーローとヒロインが芝居をひきづって結婚し、お互いの本当の人格を知って離婚するようなものである。 現代人のほとんどが、3次元世界での配役の奴隷となっているために、その芝居の終了、つまり死を恐れている。実は、それは恐ろしいことで、3次元世界でしか生きられなくなることで、例えば、複数あるTVのチャンネルのうちの、1チャンネルしかみないで、そのチャンネルしかないと思い込んでいるようなものである。 これでは意識の働きが停滞してしまう。意識は無限の可能性をもっているのに、例えば、3次元世界だけでも、様々な役割と人生があるのに、いまの自分の立場だけに固執、執着することを意味する。 少なくとも、なんのために、この3次元世界にきたのかもわからない。1つの芝居の1つの配役を続けることは、本当の人格にも支障をきたす恐れがある。だから、俳優や女優は1つの配役を続けることが困難なのである。 多種多様を理解するどころか、一つの立場をあくまでも堅持しようとする愚かな行為に埋没する。宇宙は無限で、常に移り変わっている。様々な世界があるのに、一つの世界しか見ようとしない、見れないのは、自分で自分を苦しめているようなもんである。 このような自我硬直から脱出するために、セスの話を、前回から続ける。 ☆ ☆ ☆ 環境は本質的に、意識が様々な形として映し出された、「思考による創造そのもの」なのです。 例えば、私は14世紀の探検が大好きで、それをとても楽しんでいます。しかし、貴方がたの物質界での見地からすれば、そんなことはできないことになります。 私は、それが、自身による観念的産物であることを深く承知しています。そして、机に座って、田舎の風景を眺めることが自分にとって非常に楽しいので、私はよくその物質的形態をとるのです。 貴方がたも居間に腰をかけて同じことをしているのですが、自分自身が何をしているのか、をよく理解しておらず、しかも、いま現在の貴方がたはやや制限されているようです。 私が同胞と出逢う時には、純粋な楽しみの実践として、ちょくちょくお互いの思いを様々な姿や形に投影して、その解釈を試みて遊びます。私たちにも、貴方がたがゲームと呼ぶようなものがあり、そこではちょっとした特殊技能が要求されます。 それは、ある与えられた思考を、両者のうちのどちらがより多くの形に置き換えることができるかを競う、というもので、やはり純粋な楽しみのためです。 全ての思考の本質に影響を及ぼしている微妙な特質、あるいは感情の漸次的変化というものが存在するため、全く同一な物体は存在しません……。 そして、ついでに申しあげますが、貴方がたの体系においても、形をもつ物体には完璧な複製(コピー)は存在しません。物質を構成する原子や分子も、それぞれが自らの存在をもっており、その存在が、形づくる物体に特徴や質を与えています。それはどのような物体であっても変わりません。 貴方がたは種類を問わず有形の物体を見たとき、そこに存続性と類似性を知覚として受け入れ、そこに焦点を合わせます。そして甚だ横柄なやり方で、与えられた現実から相違点を閉め出し、見てみぬ振りをします。 よって、貴方がたは極めて差別的で、特定な特質のみを受け入れ、他は無視しているということになります。例えば貴方がたの肉体に関して言えば、7年ごとにすっかり入れ替わるだけでなく、一呼吸するたびに不断の変化が起こり続けているのです。 (微妙な差異に気づかない) 肉体の内側では、絶えず原子や分子が死んで新しいものと入れ替わっています。ホルモンも常に動き、変化しています。皮膚や細胞の電磁気的な特性も、絶えず振動しながら変化を繰り返しており、自らを反転させてしまうことさえあるのです。 ほんの一瞬前まで貴方の体を構成していた物質と、いまこの瞬間に貴方の体を構成している物質とは、肝腎な部分で異なっているのです。 もし貴方がたが、自らの体の一見不変的な性質に注意を向けている時と同等な執拗さをもって、体内に起きている絶え間なき変化を見て取ることができたなら、自分がこれまで体というものを、多少なりとも一定不変で凝集性のある、1つの独立した存在であると見なしてきたことに対し、驚きを隠せなくなるでしょう。 貴方がたは主観的にさえ、相対的な不変性や持続性のある自己意識という概念を創り出してはばからず、それに焦点を合わせてきたのです。 そして「過去」の体験から「固有のもの」として想定された概念や思考の傾向を強調する一方で、かつて一度は「固有のもの」として存在し、今では消失してしまったものを完全に無視しています。 また、思考を1つの形態にとどめておくことができないという真実をも、貴方がたはすっかり黙殺しています。少し前に抱かれた思考は、貴方がたの言い方によれば、消滅することになります。 貴方がたは、いくぶん不変的で比較的長持ちする環境を維持するために、いくぶん不変的で比較的長持ちする肉体的な自己と主観的な自己を維持しようと努めます。従って、いつでも自分自身を、変化を無視する立場に置いているのです。 貴方がたが認めるのを拒んできたもの全ては、まさしく貴方がたに、現実の真の様相や個々の主観性、そして貴方がたを取り巻く環境についての、より正確な理解を促すことのできるものばかりです。 頭を離れた思考には、何が起きるのでしょうか。思考は、実はただ消え失せるわけではありません。思考のその後を追求する方法を学ぶこともできます。 しかしながら、貴方がたは三次元的な存在に合わせた自己の安定点を、そこから外して別の方向にもっていくことに、いつも怯えを感じているようです。思考が消滅するかのように見えるのは、そのためです。 また、貴方がたの主観においても、不可解で知られざる特質を持ち合わせているようですが、知的生活においてでさえ、知らぬ間に行き着く、ある種の落とし穴、あるいは、思考や記憶が落下して、そのまま無のなかに消えていくというような主観的な断崖絶壁をお持ちのようです。 そこで、そんな自分を守るために、あるいは自分の主観を、落とし穴から守るために、危険と思われる地点には様々な心理的な防護壁を張りめぐらしているのです。そのようなことをする代わりに、貴方自身の現実が、最初に認識した方向に加えて、更に別の方向にも広がっていることにただ気づきさえすればよいのです。 (唯物論以外の道を考える。) そうすれば、思考や感情の跡を辿ることができます。おわかりでしょうか。貴方の頭を離れた思考や感情は、貴方を新しい環境へと導くことができるのです。 思考がそこを境に消滅したかのように見える主観的な落とし穴とは、実際には霊的なひずみのようなもので、貴方がたが知るところの自己を、別の宇宙(次元)体験―象徴的な体系が生き、思考の可能性を否定されない現実―に繋げているのです。 そうした別の現実や、夢境での貴方の現実との間には意思疎通が存在し、それぞれの体系の間には常時やりとりがあります。 もし自分の意識が途切れたり、はぐれたりする地点、あるいは自分の意識が終わってしまう地点があるとすれば、それは貴方が心理的な防護壁を立てている地点である、ということを意味します。 そして、かような地点こそ、まさに貴方が探求すべき領域なのです。 さもなくば、貴方は、自らの意識から、活動が奪われ、抑圧された状態で、まるで脳のなかに幽閉されているかのように思い込み、また、忘失した個々の思考や記憶は、少なくとも象徴化されたレベルにおいては、矮小化した死のように見なしてしまうでしょう。それらにはいずれも、そのような制限はありません。 第4章 セッション521……1970年3月30日 (月曜日) 貴方がたの環境は、これまで貴方が信じてきたよりも、遥かに多くを内包しています。先に私は貴方がたの環境の日常の物質性や、それを取り巻く現在の関連性についてお話しました。その実情はより壮大で広範囲にわたり、貴方自身は、その環境のうちのほんのわずかしか気づいていないということです。 それでは、現在の貴方が、ある芝居に登場する役者であると考えてみてください。目新しい比喩とはとても言えませんが、この場に適切であることは間違いありません。舞台は20世紀という設定です。 そこで使う小道具や舞台装置、芝居のテーマなどは全て貴方が考え出すとしましょう。実際に脚本や演出や演技という芝居の制作全体が、貴方の手に委ねられます。そして貴方とその他の登場人物や裏方たちがみな総動員で、その芝居を上演するのです。 貴方は自分の役づくりに熱中し、すっかりそれになりきっているのはよいのですが、逆に自分で創作した芝居の現実にはまりすぎて、その特定の役が演じる課題だの挑戦だの、あるいは希望や悲しみなどにすっかり溺れてしまい、それらが自分の手による創作だったことを忘れてしまいます。 喜劇あり、悲劇ありで展開していく色濃い芝居は個人レベルで、そして全体レベルで、現在の貴方の生活や環境にも匹敵するでしょう。 けれども実のところ、その芝居の他にも別に同時進行している芝居が存在し、貴方はそれらのなかでも役柄を与えられているのです。どの芝居も、それぞれに舞台背景や小道具があり、異なる時代背景のもとに展開されています。 その1つは「12世紀での生涯」と題され、別のものは「18世紀での生涯」、更に「紀元前500年」であるとか「西暦3000年」などという題名のものもあるかもしれません。貴方はそれらの芝居も全て自分で創作し、そのなかで役を演じるのです。芝居の舞台背景は、貴方の環境を表わします。つまり、貴方の人格全体を取り巻く環境と言えます。 ここでは、あらゆる人格を統合した存在のうちの一部である貴方が、この特定の時間進行のもとで、舞台に出演しているのですが、その特定の進行のもとに、貴方は、現在繰り広げられている芝居に夢中するあまり、他にも貴方が出演している別の芝居があることに気づいていません。 貴方自身の多次元的現実を理解していないので、貴方が幾人もの存在として「同時に生きている」ことをこうしてお話ししても、とても異質で信じがたいことに感じられるでしょう。 同時に二ヵ所に存在しうるということも想像に難いのです。ましてや、二ヵ所よりさらに多くの場所だとか、いくつもの時代に同時に存在し得るともなれば、なおさらのことでしょう。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月23日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 私が貴方がたの環境に入り込む時には、自らの意識を、貴方がたの意識の方向へと切り替えることになります。ある意味においては、私である存在を、貴方がたがある程度理解できる事象に翻訳するということです。 どのような画家にしても、自分の存在またはその一部を絵という形態に翻訳する時には、かなり限られた形にせよ同じことをしています。そこには少なくとも何らかの類似性を喚起させるものがあります。 私が貴方がたの体系に入り込むとき、三次元的現実に立ち入るわけですから、そこで起きることは貴方がたの基本的前提に照らして解釈しなければなりません。貴方がたも、現時点では、ほとんどが気づいていないようですが、夢見の状態では、通常の意識での自覚がないままに、別の現実体系に足を踏み入れているのです。 (人間も、睡眠中に、別の世界へと足を踏み入れている。) 貴方がたの主観的体験のなかで、自分の物質性や行為を後に残し、時には確固たる目的と創造的な存在理由のもとに夢境において活躍しているのですが、目が醒めた瞬間にそのことを全て忘れ去っているのです。 貴方がたが己の存在目的を考えるとき、目醒めている日常生活での見地から行います。しかし、貴方は、それ以外の(睡眠中の)夢の世界でも目的をもって活動しており、そのおりには、貴方がた自身の存在の別の部分とも接触を果たしています。 それらの部分もまた、目醒めて生活している時と同じく、確かな存在理由をもつ仕事や試みに取り組んでいるのです。 従って、私が貴方がたの現実と交信する時は、まるで貴方がたの夢のどれかにお邪魔しているような感じです。ジェーン(霊媒)を通して、この本を口述する際、私は己をきちんと自覚していますが、その一方で、自分の環境にも同時に存在していることを自覚しています。 それは私が自分自身の一部をここに送ってきているからです。貴方も友達に手紙を出す時には、おそらく自分の意識の一部を手紙と一緒に送っているのではないかと思います。そのときは、私と同様に、自身がいる部屋についてきちんとした自覚があるでしょう。 私は手紙よりも、遥かに多くを送り出しています。なぜなら、私の意識は今ここで口述をしながら、その一部はトランス状態にある、この女性(霊媒)の内側にもあるからです。取りあえず、この比喩は、充分に当を得ているようです。 既に述べたように、私の環境は、貴方がたの表現でいうところの、亡くなって間もない環境とは違います。しかし、そうした死後という条件下では、どのような環境が待っているのかという点も、のちほどお話しするつもりです。 私の環境と、貴方がたの環境との最たる大きな相違点は、貴方がたは観念的行為、つまり思考を、形あるものとして物質的に顕在化させなければならないという点です。私たちは思考の現実というものを理解しており、思考の輝かしい効力を認識します。 私たちは思考をありのまま受け入れます。従って、それらを物質的に具現化したり、固定的な解釈に置き換えることを要求される段階を既に超越しているのです。 貴方がたの地球は、私にとっても愛しい存在でした。今ここで、自らの意識の焦点を地球に向かうよう変換することもできます。そして、もし選択するなら、貴方がたと同じように地球を体験することもできます。 しかし同時に、私は貴方がたの存在レベルでは不可能な多種多様なやり方で、地球を見たり感じたりすることもできるのです。 さて、この書を読まれている方々のなかには、私の言わんとしていることを、はなから直感的に把握できる人もおいででしょう。それは貴方がたが、事実を高度に歪曲しているにも関わらず、自らの体験をカラフルな虚飾レンズを通して見ていることに、薄々感づいているからです。 もし、物質的現実が広義な意味で錯覚であるとするなら、その現実は、壮大な現実から引き起こされている、ということも、どうか覚えておいてください。錯覚や幻影自体にも、目的と意味があるのです。 物質的現実は、現実がまとう1つの形態である、と申しあげるほうが、おそらく理に叶っているでしょう。しかし、貴方がたは自らの体系にあって、体験の1つの比較的小さな局面だけに、他よりもずっと強烈に焦点を合わせているのです。 (視野が狭すぎるという。) 私たちは無数の様々な現実を自由に旅してまわることができます。現時点での私たちの体験には、それぞれの体系での務めが全て包含されています。これは貴方がたの現在の人格や、物質的存在としての重要性を軽んじている、ということではありません。全くその逆です。 三次元での体験は、またとない貴重なトレーニングの機会です。現在貴方がたが、自己として認識している人格は、その記憶を保ちつつ存続していくでしょうが、それも貴方の全体自己の一部にすぎません。 (「貴方がた(複数形)」だと文脈がわかり難いので、「貴方(単数)」とした。) いわば、今の貴方がもはや子供ではないとしても、子供のときの貴方が、現在の貴方の人格において極めて重要な部分を成している、のと同じなのです。 貴方がたは引き続き進化成長していきます。そして幼少時代を過ごした家を後にするように、今ここ以外の、外の環境にも気づくようになります。しかし、環境というものは客観的性質を帯びたものではありませんし、貴方がたから独立して存在する客体を寄せ集めたものでもないのです。 そうでない代わりに、環境は貴方がたが形づくるものであり、まさに文字通り貴方がたの延長である、と言えます。つまり、貴方がたの意識から外に向けて拡張した、物質化した思考なのです。 貴方がたがどのように環境を作り出すのかを厳密にお話しします。私も同じルールに従って己の環境を創り出すのですが、貴方がたの場合は、その結果として形ある物体を生み出すことになり、私の場合はそうはなりません。 セッション520……1970年3月25日 (水曜日)午後9時9分 貴方がたの科学者たちは、すでに哲学者たちが何世紀も前から知っていたことを、今になってようやく学び始めたところなのです。 それは、思考が物質に影響を与えうる、ということです。 (量子力学の観測論のこと。) 科学者たちは、思考が創造し、物質を形づくるという事実を、さらに発見していかなければなりません。 (以下は、「貴方がた」を「貴方」にする。) さて、物質的見地からして、もっとも貴方に身近な環境とは肉体です。肉体は貴方を監禁するためのマネキンのようなヒト型でもなければ、貴方と別個に存在する外殻でもありません。 体が美しかったり醜かったり、健康だったり、恰好がよくなかったり、あるいは敏捷だったり、鈍かったりするのは、誕生時にただ無差別にそうした肉体をあてがわれたためではありません。 貴方の物質的形態、つまり個人の身体的な環境は、自身の思考、感情、解釈が、物質的に具現化したものなのです。 「内なる自己」は、まさに文字通り思考や感情を、それらに対応する物質の複製へと魔法のごとく変容させて体を創り上げます。体を成長させるのは、貴方自身に他なりません。 肉体の状態は、生涯のどの時期であっても、貴方の主観的状態を完全なまでに鏡のように映し出します。貴方は原子や分子を使い、基本的な構成要素を「自分自身である」と称する形に創り上げることで、自分の肉体を築いているのです。 貴方は、自身のイメージを自分で創り出しておきながら、そこから独立した存在であることを、内なる部分では直感的に気づいています。 (自分で作り上げた容姿なのに、親からの遺伝だと思い込むこと。) しかし、自分の思考や感情を物質へと駆り立てた結果、それを三次元世界へと放出し、広範な環境や、既知の物質界を、自身で創造していることは理解していません。 (原発の放射能問題などがわかりやすい。) それゆえ、内なる自己は、個としても、全体としても、自らの霊的エネルギーを外に向けて送り出しており、それが触手となって互いに結びつき、有形化していくのです。 感情も思考も、それぞれが全く独自の(電)磁気的な現実を有します。そうした(電)磁気的な現実には、貴方に含まれる多様なエネルギーの密度領域に応じて、別の特定の現実と結びつくような高度な仕組みが施されています。 三次元的物質がどのようにして形作られるかは、ある意味では、テレビ画面に像が映るのとやや似た点がありますが、大きな違いも存在します。また、もし貴方が、特定の周波数に同調していなければ、物質的客体を知覚することはできません。 貴方は、それぞれがトランスフォーマー(変換装置)のような役目を行なっています。そして極めて精巧な(電)磁気的な塊を、知らず知らずのうちに、自動的に形ある物質に変換してしまうのです。 貴方は「物質へと集中的に凝縮が生じる体系」の真っ只なかにいて、物質と呼ぶには密度が低く、希薄で、微弱な、貴方がおそらく「疑似物質」と呼ぶようなものが残存する領域に囲まれた状態にあるのです。 各々の思考や感情は、単純、もしくは複雑化した(電)磁気的な塊として、自発的に存在しています。ところで、科学者たちは今まだこのことに気づいてはいません。 (電磁気的な塊とは、量子力学の波動関数のことだろう。シュレディンガーの猫の観測論が、このことを波動関数の収束として説明している。) 思考や感情の顕在化である物質像の強さや永続性は、エネルギーの集中密度によって決まります。私の情報ではこの点を徹底して説明していますが、ここではただ、貴方が知る(3次元)世界が、内なる現実の反映である、ということを理解していただければ充分に思います。 貴方は基本的には、椅子、石、レタス、鳥などと同じ構成要素で出来ています。全ての意識が、壮大な共同試行のなかで、共に協力し合い、貴方が知覚するような形を創り上げるのです。 今やこのことは、私たちの知るところであり、なおかつ、私たちはそうした形の下位に存在する現実をも知覚できるため、自分たちの環境や物質的な形態を、少しも困惑することなく意のままに変えることができるのです。 (セスが、「私たち」と称するときは、別世界の人格存在を総称し、「貴方がた」と呼ぶときは、三次元世界の人類全般を意味するようであるので、「貴方」に統一するのをやめる。) 私たちは、全ての意識が常に変化しなければならないことを知っており、よって形態の不変性、あるいは永続性が幻想であることも明確に理解しています。私たちはまた、意識の流動性を理解しているため、貴方がたの言葉で言えば、複数の場所に同時に存在することができます。 さて、貴方が別の人格(をもつ)存在に感情的な思いを抱いた場合、貴方は、(エネルギーが)高密度の状態の物質の下位にあたる、それでも形態をもつ自己の写しを送り出します。 (一般に「念」と呼ばれる。) この写し(念)は、貴方の意識から外に向けて投射されたもので、貴方自身の注意力による統制から完全に逃げおおせることができます。 私が他の誰かに感情的な思いを抱く時にも、同じことをします。しかし、そのとき送り出される私の意識の一部は、自己の概念の範囲内にあり、意思の疎通も可能です。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月22日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 貴方がたの物質的環境が貴方がたの目に映るような姿で現われるのは、貴方がた自身の精神構造のせいです。貴方がたは時間の枠のなかを動く自己という存在に慣れ親しんだ結果、そこから個人としての連続性の感覚を得てきました。 しかし、もし自己の個人としての連続性の感覚を、基本的に、そこから連想可能な経過や関連性を通して獲得していれば、貴方がたは物質的現実を、これまでとは全く異なる様式で体験することになります。 つまり過去の物体も現在の物体も同時に見ることができ、それらの存在は、そこに連想可能な経過や関連性があることにより実証されるのです。例えば、貴方がたのお父上が生涯のなかで愛用されていた椅子が全部で八つあったとしましょう。 もし、貴方がたの知覚メカニズムが、はじめに時間の連続に沿ってではなく、直感に基づく経過や関連性の結果によって作動すべく設定されていたなら、その八つの椅子を同時に見ることになります。 また、そのうちの1つを見ただけで、あとの7つの椅子にも気づくでしょう。この例でわかるように、環境は分かれて別個に存在するものではなく、知覚パターンによる認識結果が、環境のなかに、区分を生んでいるのであり、しかもそうした知覚パターンは、知覚者の精神構造によって決定されるのです。 ですから、もし、貴方がたが私たちを取り巻く環境を知りたい、と思うのであれば、まず私たちがどういう存在であるのか、を理解する必要があります。それを説明するためには、まず意識の本質について概括的にお話しなければなりません。 その説明の過程にあっては、貴方がたについても非常に多くを語る結果となるでしょう。貴方という存在の内なる自己は、私がこれからお話することの多くを、既にもう知っています。 私たちの目的の1つは、貴方がたが長い間、無視し続けてきた、貴方がた自身のより大きな意識がもつ叡知を、貴方がたの一部の自我にお伝えすることなのです。 貴方がたは物質宇宙を見渡しながら、「外なる感覚器官」から受け取った情報に応じて現実を解釈しています。比喩的な言いまわしをさせていただくなら、私たちは、物質的現実に立ち、貴方がたに代わって、その内側を見ていきます。 そして、貴方がたが現時点では足がすくんで見ることのできない意識や体験的現実を描写していくつもりです。なぜなら、物質的現実にすっかり魅了されている貴方がたは、私の書を口述してくれている、この女性(霊媒)のように、深いトランス状態にあるからです。 貴方がたの全注意力は、高度に特殊化されたやり方で、1つの煌きの上に集中させられています。その煌く明るい点とは、すなわち、貴方がたが現実と呼ぶものです。 (この煌きとは明けの明星のルシファーのこと。つまり悪魔。) 貴方がたのまわりには、それ以外にも無数の現実があるのですが、貴方はそれらの存在を全て黙殺し、そこからやって来る様々な刺激も、全て完全に拭い去っているのです。 (聖書で記載されている、知恵の実を食べた状態。) 貴方がたがそうしたトランス状態に置かれていることには理由があります。貴方がたにも、いずれその理由がわかる時がくるでしょう。しかし、貴方がたは 徐々にトランス状態から目醒めねばなりません。 私たちの目的は、そうした貴方がたの内なる目を開くことなのです。 セッション518……1970年3月18日(水曜日)午後9時25分 私たちを取り巻く環境には、勿論、私たちが接触している他の人格存在たちもいます。コミュニケーション、知覚、環境を別々に語ることはできません。従って、私たちの環境を論じる場合、私や、私の同胞たちによって交わされるコミュニケーションが極めて重要になります。 次の章では、私たちの在り方、手がける仕事、私たちが存在する次元、切実にその成就を望む目的、そして何よりも、私たちの体験を築き上げる関心事について、できるだけ単純明快にお話するつもりです。 第3章 セッション519…‥1970年3月23日(月曜日)午後9時10分 さて、貴方がたの空間の概念は、非常に間違っています。私は貴方がたの活動領域において貴方がたと接触するために、霊界から物質界に立ち現れたスーパーヒーローのごとく、黄金にきらめく天空を滑ってみせたりはいたしません。 これについては後の章でもっと詳しくお話していきますが、空間は、実質的に貴方がたが知覚するようには存在していないのです。 空間についての誤解が生じた原因は、貴方がた自身の物理的な知識力にあるだけでなく、貴方が受け入れている思考パターンにも起因しています。その思考パターンは、貴方がたの体系で「進化」のある段階に達したとき、貴方がたの意識によって採択されたものです。 物質界に到達する時、あるいは姿を現わす時の貴方がたの精神が、体験を書き込まれる前の白紙である、というのは誤りです。それどころか、貴方がたは如何なるコンピュータでも遥かに及ぶことのできない記憶の貯蔵庫を、既に携えているのです。 貴方がたは、この惑星での初日を、既に備わった技術や能力をもって臨みます。しかし、実際にそれらを使うかどうかはわかりません。そうした技術や能力は、貴方がたの思惑とは違い、単なる遺伝の結果としてもたらされたものではないのです。 ここで比喩として、次のように考えてみていただけないでしょうか。自らの〈存在〉なり、魂なりが、神性によって動かされている、自覚ある息づいたコンピュータで、自らの存続と生涯とをプログラムとして作成していた、とします。 ところが、このコンピュータはとてつもない創造力を授かっており、コンピュータがプログラミングした多種多様な人格の一人一人が、俄かに意思となり、歌を奏で、それぞれが調和しながら現実を創り出すことができるのです。 そしてそれは、コンピュータ自身さえ夢にも考えていなかったことなのです。 しかし、そうした人格存在は、各々が生きて活動する場の現実についての概念をもともと持ち合わせており、その精神的な備えである知識に関しても、非常に特殊な環境にも合わせられるよう、かなり高度な適応が施されています。 その人は、取りあえずかなりの自由を手にしてはいますが、そこで存在するための文脈に沿うようにプログラミングされているため、その範囲内でしか生きていくことができません。 しかし、その人の最も深奥なる秘所には、コンピュータ全体に行き渡る叡知が凝縮された形で存在しています。私は、魂なり、存在なりがコンピュータである、と言っているのではありません。こうした比喩は、いくつかの点を明確にしたいため、あえて採用したものです。 個々の人格存在には、一定の環境-貴方がたの場合は物質的な現実ということになります-において、新たな世界での在り方を獲得する能力のみならず、自らの意識のまさに本質である部分を創造的に高めていく能力があります。 そして、このような試みをしながら、その特殊化した体系を懸命に突き進み、自分が知る現実の障壁を突破する能力があるのです。 そうしたことには全て目的があるのですが、それについても、また後ほど論ずることにいたしましょう。それでも、あえて私がここでこうした話題に触れているのは、貴方がたの環境が、貴方がたが思うような意味で、本当のものではないことをご理解いただきたいからです。 貴方がたは生を授かった時点で、すでに現実を特殊な形で知覚し、体験に関しても、濃密ながら非常に特殊な領域内で解釈を行うように「条件づけ」されているのです。 私自身の環境や、それ以外の現実体系についての明確な見解を示す前に、次のことを説明しておかなければなりません。私を取り巻く環境と貴方がたの環境との間には、空間であるとか、それらの環境を分断する物質的境界などは存在しないのです。 真に現実の話、貴方がたの体の感覚器官や科学的な計測器を通して見た現実、また推論を重ねた結果として導かれる現実の概念は、真実とは似ても似つかぬものです。しかも、その真実を説明するのは困難きわまることなのです。 貴方がたの宇宙にある無数の太陽(恒星)系は、時間的にも空間的にも、一斉に同時に存在しています。貴方がたが視覚あるいは機器を通して知覚し、認識している宇宙は、様々な距離にある恒星や惑星の銀河から構成されているか、のように見えます。 しかし、それは根本的に錯覚の賜物(たまもの)なのです。物質的被造物としての貴方がたの感覚機能と、実際の貴方がたの在り方が、貴方がたをして宇宙をそう知覚するようにプログラミングしているのです。 貴方がたが知る宇宙とは、貴方がたの三次元的な現実に物事が立ち入ってきたときに、貴方がたがそれをどう解釈したかという象徴にすぎないのです。 物質は、観念的な事柄なのです。これは例えば、物質界において、テーブルの上に本やコップやオレンジを置くことが不可能であるとか、惑星間の旅行が不可能である、という意味ではありません。 それでも、テーブル自身の性質としては、固体性をもっているわけではない、というのもまた事実なのです。 貴方がたの体系に入り込む時には、一連の観念的かつ霊的な事象のなかを進むことになります。貴方がたはそれらを、時間や空間に置き換えます。私はここでは自らの言語ではなく、貴方がたの言語を使わねばなりませんので、時間や空間といった言葉をかなり頻繁に使わざるを得ないのです。 基本的前提となっているのは、既にお話した、貴方がたに元々備わる現実についての知識です。それは貴方がたの存在という概念の基盤をなす合意事項なのです。例えば、時間と空間というのも基本的前提です。現実の体系はそれぞれに、かような合意事項の一式を有しています。 私が貴方がたの体系と交信する場合、その体系が基盤としている基本的前提を、理解したり使いこなしたりできる必要があります。 教師の仕事の一環として、私は数多くの類似した体系に存在し、そうした基本的前提に取り組むための、貴方がたが言うところの基礎トレーニングを受けていました。ただし私や同胞たちは、基本的前提とは言わずに別の言葉を用いていましたが。 存在、あるいは魂は、これまで貴方がたの宗教が認めてきた以上に、はるかに創造性に富み、複雑な性質を持っています。 魂には知覚認識する方法が無数にあり、また、意のままになる異なった種類の意識が沢山あるのです。 魂についての貴方がたの考え方は三次元的な概念によって極めて制限されています。 魂は、自らの意識の焦点を変えることができ、頭のなかで目を使うかのように、意識を使うことができるのです。 私は、私の意識と同一ではありません。 貴方がたには奇妙に聞こえるかもしれませんが、現在の私の存在レベルにあれば、そうした事実を、完璧に認識していられます。私の意識は、私によって使われるべき属性なのです。 これはその知識が覆い隠されていようと、読者の方々一人一人にも当てはまることです。従って、存在、または魂は、意識以上のものである、ということになります。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月22日
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前回の続き 唯物論が、人類を闘争的にしている、という現実に気づくべきで、そのために、セスのような、我々からすれば宇宙人のような存在が警告を発してくれている、と考えるべきだろう。 唯物論が人を闘争的、競争的にするのは、占有、所有という概念が基本となっているからであろう。つまり、「占有、所有」=存在としてしまうからである。 だから、「占有、所有」=存在ではなく、占有、所有の基本となる空間の概念も、唯物論から解放しないといけない。セスによれば、我々の存在は誰しも、宇宙の1なる確証的な完全の存在とつながっており、非存在となり、消えてなくなることはないそうだ。 それは、例えば、日常生活での現在の自分が、数分経つと自分でなくなることがないのと同じである。しかし、ミクロレベルでは絶えず変化しているのだから、唯物論的時間論でいうなら、数分前の自分は、自分ではないはずである。しかし、意識は、唯物論では存在しないはずの自分を、自分と認識できる。 この意識の認識力が存在する限り、物質変化について、揺らぐことはなく、生死についても、脅かされることもない。 唯物論から人類が脱皮できるために、セスの話の抜粋を続ける。 ☆ ☆ ☆ セッション515……1970年2月11日(水曜日)年後9時20分 さて、貴方がたが使っている感覚は、自ら知覚する環境を非常に現実的なやり方で創造します。体の感覚器官は、三次元的現実に見合う範囲の知覚力のみを要求します。しかし進化の度合いによらず、全ての意識が本来そうであるように、意識には内なる知覚力がしっかりそなわっています。 意識が特定の体系下で機能していくために、例えば肉体のように適用範囲を限定された形態を採択することがあります。かような場合、体の感覚器官に類するものを装う可能性があります。しかしながら、内なる受容体(内なる叡智)は、そうしたものから全く独立して作用するのです。 つまり、読者の方々にも、もともと内なる知覚力があるということです。そして常時それをある程度は使っているのですが、自我(エゴ)のレベルでそれに気がつかないだけなのです。 さて、私たちは内なる知覚力を、自覚した上でふんだんに使っています。もし、貴方がたもそうすることができれば、きっと私たちが在るところと同種の環境を知覚できるでしょう。その時の貴方がたに見えるのは、カムフラージュのない状態です。 よってそこでの出来事や形は変幻自在で、時間というゼリー状の鋳型(いがた)にはめこまれて身動きできないなどということはありません。 例えば家の居間の様子を、一見不変的に見える家具の集まりとして観察するだけでなく、焦点をずらして見ることで、部屋のなかの種々雑多な物体を構成する分子やその他の粒子の、終わりなき不断のダンスが見て取れるでしょう。 また、それら分子自身を構成する電磁的「構造体」(エーテル)のオーラである、燐(りん)光の輝きを見ることもできるでしょう。さらにもし望むのであれば、貴方の意識を一個の分子を通り抜けられる位まで小さく凝縮させて、分子の世界から、その部屋というべき宇宙を見たり、互いに関わりながら絶え間ない動きをする星々をちりばめた、壮大な銀河を観察することもできるでしょう。 このように意識の可能性により観察された対象は、全て本当の現実(リアリティ)を描写したものです。 貴方がたの(三次元の)現実(リアリティ)が他の現実(リアリティ)に比べて、より正真である、ということはありません。それはただ、貴方がたが知覚し得る唯一の現実(リアリティ)であるというだけです。 内なる知覚力を使うことで、私たちは自覚ある創造者または共同創造者となります。しかし、今の貴方がたはいずれにしろ、自覚のない創造者です。 もし、私たちの存在する環境が、貴方がたにとって存在しないように見えるとすれば、それは単に秩序の本質を理解していないからにすぎません。秩序の本質は、不変的な形態とは全く無関係ですが、貴方がたの見地からは一見して形態をもつかのように見えるのです。 (秩序が形態を必ずもつと考えるのは、唯物論の弊害。) 私たちの環境には、午後4時だの、夜の9時だのといった概念はありません。これはつまり、私たちが連続した時間に拘束されない、ということを言わんとしているのです。 しかし、もし連続した時間をあえて体験してみたいと思えば、私を引き止めるものは何もありません。私たちも貴方がたの言う時間に匹敵する性質のものを体験しますが、それは体験の密度に基づくもので、いわば時間の凸と凹を内包する精神とでも言えるものです。 この精神からなる時間は、貴方がたの感情に基づいた時間の感覚とどこか似ているかもしれません。時間が早く過ぎ去ったり、逆にゆったり流れるように感じることがあるでしょう。 しかし私たちの時間は、いくつかの肝腎な点で貴方がたの時間とは大きく異なっています。私たちの時間は、貴方がたの環境に準えた言葉を用いれば、部屋の壁に譬えることができます。しかしこの壁は、色、大きさ、高さ、厚み、幅の全ての要素において、絶えず変化しているのです。 私たちの時間は、事実を認識した上で利用しているという点で、貴方がたの時間とは異なっています。この精神からなる多次元的な時間は本来貴方がたにも備わっていますが、自我のレベルには馴染みのあるものではありません. (素粒子レベルでは多次元的な時間が理論的な主題となる。) 従って、私たちの環境が貴方がたの体の感覚器官では決して知覚できない多次元的性質を帯びているとしても、それはごく自然のことなのです。 私たちは、今ここでこの書を口述しながら、自らの現実の一部を、体系と体系の狭間にあって、比較的カムフラージュから解放された識別不能のレベルにおいて、(3次元世界に)投影しています。相対的に言えば、貴方がたの見地では、そのレベルは何もない領域(真空)になるでしょう。 貴方がたの物質界に基づく見方をするなら、その領域は地球の大気圏のすぐ上空の環境に喩えることができます。しかし、いまお話しているのは、精神、もしくは霊的な環境であることを忘れないでください。 その領域では、私たちのコミュニケーションが互いに理解されるように、ルバート(霊媒)の物質界に適応した環境からは充分に離れたところに存在しています。 そこは、ある意味、私たち自身の環境からも遠く隔たったところにあります。なぜかというと、私たちの環境では、物質的存在に即した表現で情報を説明するには困難が伴うからです。 理解していただきたいのは、いま「離れた」とか、「遠い」という「距離」について言及する場合、貴方がたのような物理的な空間を想定しているわけではない、ということです。 創造と知覚とは、貴方がたの科学者たちの考えが遥かに及ばぬほど、極めて密接に結び付いているのです。 貴方がたの体の感覚器官が知覚した通りに現実を創り出している、というのは本当です。1つの水でも、微生物、鳥、昆虫にとって、また木陰に立つ人間にとっては、まるで違った存在です。 これは単に異なって見える、という意味でなく、元々異なっているのです。貴方がたはこの木の現実を、高度に特殊化した一揃いの感覚器官をもって知覚します。それは貴方がたが知覚する形での木の現実の存在が、微生物や昆虫や鳥が知覚する形での現実の存在に比べて、より本質的である、ということではありません。 貴方がたは、極めて存在的根拠の確かなその木の現実を、貴方がた自身の文脈をもって知覚する以外にはできないのです。これは貴方がたの知る物理的体系下では、どんなことにも当てはまります。 (知覚以上の認識はできない。知覚は、知識により活動範囲を拡げるから、知識を受容する感覚器官の違いに帰せられる。) それはなにも、物質的現実が本物でないというのではありません。しかしながら、意識は様々なカムフラージュを通して自らを表現し、物質的様相というものも、無数に存在する、そうしたカムフラージュを知覚する方法の1つにすぎないのです。 (3次元知覚による認識も、高次元のうちの1つ。) 体の感覚器官は、自己の体験を物理的な知覚結果に変換するよう強制します。内なる知覚は貴方がたの知覚範囲を広げ、貴方がた自身の体験をもっと自由なやり方で解釈できるようにしてくれます。 さらに、貴方がたが新たな形態を創り出し、貴方がたや貴方がたと関わる意識たちが、自らを知るための新規の情報回路を開くことを可能にするのです。 意識とは、とりわけ自発的な創造の試みと見なすことができます。 貴方がたは現在、三次元的な文脈のなかで、自身の感情の状態や、精神、あるいは物質の状態から、様々な物質的な形態を創り出す方法を学びつつあります。貴方がたが霊的環境下で取り扱ってきたことは、自動的に物質的鋳型に刻印されています。 現時点での私たちの環境は、貴方がたの環境とは別の意味で、それ自体が創造的な在り方をしています。貴方がたの環境も、例えば木が実を結ぶことや、自給自足の原理が存在することや、地球自らが自身を養っている自己完結した在り方をしているなどといった創造性をもっている、と言えましょう。 こうした自然発生的な創造の側面は、貴方がたの「遥か太古」に成立したとされる人類の祖のなかの超自然的、霊的、そして物質的な性向が、顕在化したものであり、また人種や民族にまつわる霊的な叡知の貯蔵庫の一部でもあるのです。 私たちは自分たちの環境要素に、どう言ったらよいのか、既存の如何なるものより絶大な創造性を賦与しています。例えば、私たちには育む草花はありませんが、自らの精神性を凝縮したところの精神の強靭さ、あるいはその濃密さが、新たなる活動の場となる次元(以下、「活動次元」と言います)を創造します。 もし、貴方がたの三次元的世界において、絵を描く場合、その絵は平面に描かれることになるため、1つの完結した三次元的体験を、そこに挿入することは不可能であり、ただ暗示することしかできません。 しかし、私たちの環境では、如何なる次元でも望み次第で、実際に創り上げることができるのです。こうした能力の全ては、私たちだけに限られたものではなく、貴方がたにも同様に受け継がれています。 後ほど本書でも触れるつもりですが、貴方がたは実際に感じられるよりずっと頻繁に、目が醒めている時の通常意識とは別の意識状態において、内なる知覚力や多次元的能力を使っているのです。 私たちを取り巻く環境には、容易に定義できるような物理的あるいは自然科学的要素はありません。本書全体を通して、私たちの環境に関連する話題を少しずつ提供していきますので、その説明から、私たちの環境の性質を推し量っていただけるのではないかと思います。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月22日
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唯物論に拘束されている意識を解放するために、続けて、「セスは語る 魂が永遠であるということ」を抜粋紹介する。 その前に、一言いっておきたい。巷では、原爆に関する漫画の閲覧制限で議論沸騰しているが、著者は実際の被爆者であり、戦争の犠牲者の紛れもない一人で、自らの経験を通じての人類に対する悲痛な叫びであり、警告なのであり、一種の芸術作品といえるものなのである。 描写云々の話ではなく、漫画を馬鹿にしてもらっては困る。日本人のバイブルみたいなものなのであり、未来永劫語り継ぐべき話である。芸術作品にとやかくいう無神経さ、野暮さ、それも同じ日本人がいうことに、怒りを覚えるが、このような低レベルな議論が起こるほど、この国の教育は退廃していること、唯物論の行き詰まりを実感せざるを得ない。 それもこれも、作品を唯物論で解釈するから、制限が生まれる。作者が伝えたかったことを理解すること、つまり精神の問題である。被爆者の経験はもう充分だ!という悲痛な叫びを、唯物論でとやかく議論するからおかしくなる。全く低レベルでアホらしい。 戦争という過酷な状況に追い込まれると、人は鬼に変貌するということ、そのような状況に追い込んではいけないという、心の問題、思いやりの問題である。芸術を鑑賞できない人こそ醜いものはない。 その前には、アニメ映画での喫煙シーンなどが取り沙汰されたが、芸術作品の鑑賞を制限しようとする心の醜さこそを問題にすべきだ! なぜそのような唯物的な見方がでるのか、その制限しようとする心の狭さこそを議論すべきである。 さて、続けて抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第2章 (第2章から、セスは、自分のことを、「私」から、「私たち」と呼ぶようになったようだ。) セッション514……1970年2月9日(月曜日)午後9時35分 さて……私たち(セスの多様的な人格の表現?)は自分たちの存在が、形に依存していないことを承知していますし、望めばどのような形態も選べるわけですから、自らの在り方を変化させることを恐れていないのは、勿論のことです。 私たちは、貴方がたが「死」と呼ぶものも知りません。私たちの在り方は、数多くの別の環境へと誘(いざな)ってくれますが、私たちはいずれの環境にも(身振りをつけて)うまく溶け込むことができます。自分たちが置かれた環境に、形態を統べる決まりがあれば、それに従います。 今ここにいる私たちは、皆、教師です。ですから、学び手である人格存在が自らの現実に対して抱く多種多様な考え方を鑑(かんが)みたうえで、それが理解できるように、私たちの教授法もその都度適宜と思われるものに変えていきます。 既にお話しましたが、意識は形に依存しません‥しかし意識は常に形を作り出そうとします。 私たちは、貴方がたが知るところの時間枠のなかには存在していません。そこでは、秒、時、年といった単位にはもはや何の意味も魅力もなくなっています。 しかし私たちは、自分たちが存在する体系とは別の場所では、時間枠に左右される状況が存在することにはよく気づいていますし、かような場所とのコミュニケーションにおいては、時間枠を考慮に入れなければならないことも知っています。さもないと、私たちが言っていることが全く理解されないおそれがあるからです。 私は「異なる体系」という言い方をしますが、元々体系同士を分ける障壁などは存在していません。体系間に分断が生じるとすれば、それはただ、人格存在の間に、知覚力や知覚情報の処理能力に大きなバラツキがあり、そうさせてしまうのです。 例えば貴方がたにしても、自分たちの体系とは別の、数多くの現実体系の真っ只中に存在しているのです。ただ、貴方がたがそれを知覚していないだけです。 そのうえ、もし別の体系から何かが貴方の三次元的な存在に侵入してきても、それを説明することができません。なぜなら、他の現実体系から三次元の現実体系に出現するという事実そのものさえ、貴方がたの手で歪められてしまうからです。 私は以前、私たちが貴方がたのように「連続した時間」を体験しない、とお話したことがありました。私たちは、様々な量や密度のエネルギーのなかを旅してまわります。私たちの仕事、進歩、そして体験の全てが起きる場所を、私は「瞬間時」と呼びます。 いまここにある瞬間時に、小さな考えが実を結び、わずかな可能性が探られ、確率も周到に精査され、強い思いも淡い思いも考慮されるのです。「瞬間」について明確な説明を試みるのは困難ですが、私たちの精神的体験は、全てこの「瞬間」の枠内でなされています。 瞬間時では、連想的なパターンに従って、同時進行的な動きが自由自在に次々と展開していきます.例えば、私が仮に貴方のことを思ったとしましょう、ジョーゼフ。 するとその途端に、貴方(ジョーゼフ)の過去・現在・未来(貴方がたの見地から言った場合ですが)はもとより、これまでに貴方を支配したことのある、強烈な感情や、決意に錆びついた感情や刺激などを即座に、しかも十二分に体験することになります。 そして私が望めば貴方と手を携えて、それらを追体験する旅に出かけることもできるのです。私たちはある意織を有する存在について、その在り方なり形態なりの全てを辿ることができます。しかも貴方がたの言う「瞬(またた)く間」に。 1つの存在がそのように絶え間ない刺激に出会い続けながら、常時自らを安定した状態に保っておく術を学ぶまでには、そこに至るための学びや、進歩や、体験の積み重ねが必要です。 私たちの多くも道に迷い、なかには再び気づきに到達するまで、自分が誰であるかを忘れてしまうものも少なくありませんでした。私たちは、このような安定した状態を、今ではごく自然に得られるまでになっています。 意識の無限の多様性のなかで、私たちは実在する人格貯蔵庫の全容のうち、ほんのわずかを知っているにすぎません。私たちは「休暇のおりに、非常にシンプルな形で生命体が生息している体系を訪れ、そのなかに溶け込むこともあります。 私たちはこうした息ぬきや睡眠を、たっぷり堪能しています。そうしようと思えば、樹木として、あるいは別の現実上の単純な生命体として、百年ほど生きることもできるのですから。私たちの意識は、単純かつ些細な楽しみからも、大いなる喜びを見出すのです。 もうおわかりかと思いますが、私たちは森林を創り、その中で森林とともに成長していくこともできます。しかし平素は極めて活動的で目下、自分たちが手がけている仕事や新たな挑戦に、自らのエネルギーを精一杯集中させるのです。 私たちは自分自身の観念総体から、望めばいつでも別個の人格存在を創り出すことができます。そうして創られた人格存在には、生得の創造力を用いて、各々の優れた価値に見合った進化を遂げる義務があります。 しかし、進化に至る道筋は、彼らの自由な選択に任されています。いずれにせよ、私たちは決して軽々しく、この類いの創造を行動に移すことはありません。 さて……読者の方々一人一人が、それぞれの(存在)の一部であり、私の知る存在と同じ種類の存在に向けて進化しているところです。 子どもだった頃や、夢見の状態にある時には、個々の人格存在が、ある程度までなら、自らの内なる意識に属する「真の自由」があることに気づいています。従って私が述べる能力とは、個々の人格存在にとっても、それらの全体意識にとっても、元来備わった特質に他ならないのです。 これまでにもお話してきたように、私たちを取り巻く環境は、絶え間なく変化し続けています。貴方がたを取り巻く環境も、また同様なのです。にもかかわらず、貴方がたは直感的な知覚による真の認識からくる事実に対しても、合理的に説明しようとします。 例えば、貴方がいる部屋が突然小さく窮屈になったように感じられたとしましょう。しかし、貴方はその次元レベルの変化を気のせいにしてしまい、自らの感情がどうであろうと部屋そのものに何の変化も起きでいない、と考えてしまうのです。 しかし事実はこうです。かような状況下において、部屋は確実に、しかも非常に肝腎な点で変化している可能性があります。ただし、そうした変化は、物理次元での測定値を変えることなく起こります。その時には、部屋のもつ心理的影響力の全容が変化しているのです。 そうした変化による影響は本人以外でも感じることができます。こうした変化には、ある特定の出来事を引き寄せる傾向があり、また、貴方がた自身の精神構造やホルモンの分泌に変化をもたらします。 部屋の寸法には一見なんら変化がないように思われても、貴方がたがこうした部屋の変化に極めて物理的に反応することさえあるのです。 貴方がたは自らの姿、形や輪郭、身体や、身近な環境の雰囲気を間断なく変化させていながら、そうした不断の変化を懸命に無視しようと努めています。一方、私たちは、そうした変化をその赴(おもむ)くままにさせます。 それは私たちが、自発性と創造性に富む「内なる永続性」から動機を与えられていること、そして精神的かつ心理的主体性が創造的変化に依存していることを知っているからです。 よって私たちの環境は極めて精緻な不均衡から成り立っており、自由な変化が許されているのです。貴方がた独自の時間概念では、物質は全体的に不変である、という誤った考えへと貴方がたを導いています。 そのなかに置かれている貴方がたは、変化が常に継続していることにすっかり目を閉ざした状態なのです。貴方の体の感覚器官は、全身全霊を注いで貴方の知覚を、堅固に形式化した現実(リアリティ)のみに限定させようとします。 貴方がたは原則として、直感を使うとき、あるいは睡眠中に夢境にある間しか、自らまたは別の意識体の、歓喜に満ちた変幻自在な特質を知覚できません。 貴方がたに、この点に気づくよう促すのが、私の務めの1つです。その際、少なくともある程度、貴方がたに親しみやすい概念を用いなければなりません。そのために、貴方がたが自身と関連づけできる人格を、私たちの人格のなかから選り抜いて用いているわけです。 私たちの環境に「最果て」はありません。貴方がたの表現を用いれば、時間や空間に事欠くことはない、ということです。状況に応じて、適切な情報をもたず、進化を遂げていない意識体にとって、そうした事実はかえって多大な重荷になります。 (例えば、幽霊などがみえてしまうと、どう対処していいかわからないので、日常生活に支障をきたすことなど。このことは、例えば、寝ているときにみた夢を、日常生活に持ち込むことなどに似ている。) 私たちには逃げ込むことのできる、単純で便利な宇宙など1つもありませんし、自分たちの知る意識から遥かに遠くの、一瞬光を放つような、異なった見知らぬ現実体系についても、いまも油断なく気を配っています。 意識体の多様さは、物理的形態の多様さの比ではありません。 それら全てが異なる知覚パターンをもち、それぞれに固有のカムフラージュ体系のなかで暮らしているのです。しかし、全ての意識体は現実(リアリティ)の「内なる叡知」を有しています。 それがそこでどう呼ばれているのであれ、「内なる叡知」はいずれのカムフラージュ体系にも存在し、あらゆる現実(リアリティ)は「内なる叡知」によって成り立っているのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月22日
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前回の続き ☆ ☆ ☆ セッション513 1970年2月5日(木曜日)午後9時10分 この本という事実こそ、自我が人格の全体像ではないことの証しになるでしょう。なぜならば、この本が、文筆家として知られるジェーン(霊媒)以外の人格もつ存在によって書かれていることは、疑う余地がないからです。 そのジェーンは、人類という種全体が本来もたないはずの能力をもっているわけではなく、それを最小限に見積もっても、通常考えられているより多くの能力をもつことを認めざるを得ないでしょう。 私はそうした能力とは、どのようなものなのかを説明したいと思います。そして、一人一人がそうした潜在能力を解き放つために有効利用できる方法を開示していきたいのです。 人格というのは、常に変化する知覚結果のゲシュタルト(総体)であり、自己自身を知覚する部分です。しかし、私が自らの知覚結果を、口述者であるこの女性(霊媒)に押しつけることはありません。 また彼女の意識は、このコミュニケーションがなされる間、消されているわけではありません。逆に意織が拡大して、そのエネルギーは三次元の現実(リアリティ)を超えて投射されています。 意識を物理的体系へ集中させることからはずれた彼女の在り方は、ともすればその意識が抹消されているかのように映るかもしれません。しかし実際は抹消されるどころか、彼女の意識は一層豊かになっているのです。 現在私自身の現実(リアリティ)の場(高次元)から、自身の注意をこの女性に集中させていますが、彼女が話している言葉、つまりこの書にある言葉は、はじめから口頭で語りうる形をとっているわけではありません。 第一に、あなたがたの知るところの言語は、たいへん手間のかかる代物(しろもの)だと言わねばなりません。まず文字が数珠つなぎになって単語を作ります。また単語も一列につながって文を作ります。これらは直線的な思考パターンによるものです。 あなたがたの知る言語は、部分的に見ても文法的観点から見ても、あなたがたの物理的時間の連続の最終産物なのです。あなたがたが一度に焦点を合わせられるものは限られています。言語の構造は、複雑に入り組んだ物事が一斉に起こっている、といった体験を伝達できるようにはなっていません。 (2つ以上の同時刻の出来事を同時に伝達できない。) 私は直線的な体験とは種類の異なる、無限の多様性のうちに同時発生進行する出来事の全てに、一度に焦点を合わせて応じられるといった体験が、実際に存在することを知っています。 しかし、かような体験はルバート(霊媒)にはうまく表現できませんから、それを今ここで伝えたいと思えば、直線的表現にひらたく置き換えねばならないのです。 無数の同時発生進行の出来事をことごとく知覚し、そのどれもに反応していくという能力は、全ての全体自己すなわち(存在)に備わる、ごく基本的な特質です。従って、そうした能力が、私にだけ許された離れ技であるなどと主張するつもりは毛頭ありません。 現在、読者の方々はそれぞれの物理的形態に落ち着かれているわけですが、思うに(ユーモアをこめて)先ほど私がお話したように、自らのほんの微々たる部分について知っておられるにすぎません。 「存在」とは、その部分としての現われである人格の全てを含む、全体としての自己なのです。そしてそれは永劫の存在根拠をもち、それ自体また独立した部分でもあります。 したがって、ルバート(霊媒)の意識はこうしたコミュニケーション(憑依)において拡大しており、しかし同時に今こことは別の、ルバートの次元と私の次元の中間に位置する次元に焦点を合わせているのです。 その次元は比較的、意識の集中を妨げる要因の少ない場であると言えます。私はここで本人の許可と同意を得たうえで、ルバートに1つのある概念を植え付けています。その概念は中立的な性質のものではありません。なぜなら、全ての知識や情報は、それらを携えたり伝えようとする人格存在の性質を帯びてくるものだからです。 ルバートは彼自身の語り部としての知識を、私たちのために役立ててくれており、私たち二人はかなり機械的に、音声として発せられる様々な言葉をともに紡ぎ出すことができます。 意識の集中が妨げられる可能性もなきにしもあらずですが、それはいかなる情報でも歪められるおそれがあるのと同じです。しかし、私たちはこうした共同作業にはかなり慣れており、情報の歪曲はまず皆無であると言ってよいでしょう。 私のエネルギーもまたルバートを通して投射されているので、セッション中、今ここで私が話しているそばからも、彼(霊媒)と私両方のエネルギーが彼の物質的肉体の形状を動かすことがあります。他にも関連してお話したいことが多々ありますが、それらについては後日、取り上げたいと思います。 従って、ルバートが私の潜在意識の産物でないのと同様に、私はルバートの潜在意識の産物ではありません。また私は、ルバートの不安定な自我を徐々に弱らせようとたくらむ、ずるがしこい第二の自己といった存在でもありません。実際、ルバートの人格の全ては平生から恩恵を授かり、敬意を向けられ、常にその統合性が保たれています。 ルバートという人格存在にはいささか希有(けう)な能力があり、そのおかげでこうしたコミュニケーションが可能になっています。この能力について、できるだけ簡潔にご説明しましょう。 ルバートの魂には、透き通るほど薄い次元の歪に相当する部分があり、その部分を通して他の現実(高次元)を知覚できるという、開いた窓のような役目をしています。その開口部は多次元的性質を帯びており、物質への意識の集中によってもたらされる陰に暗く覆われてしまうことを、ある程度まぬがれた部分でもあります。 普通、体の感覚はみずからの概念像の範囲内でのみ現実(リアリティ)を知覚しますから、あなたがたにはそれらの開いた回路が見えなくなっています。 それゆえ、私はあるところまでなら、その時空間の心理的ひずみを通ってあなたがたの現実に入り込めるのです。この開いた回路がルバートの人格と私の人格を結ぶ、いわば通路(チャネル)のような役割をするために、双方のコミュニケーションが可能になります。 実在する次元間にこうした超自然的な心理的ひずみが在ることは決して珍しくありません。ただ、それらは知覚されることが滅多になく、利用されるに及んではいっそう稀なのです。 私はみずからの非物質的な在り方について述べたいと思います。それによってあなたがた自身の基本的個性もまた、私と同じような非物質的在り方であることを思い出していただきたいのです。 これで第1章を終わります。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月21日
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前からの続き ☆ ☆ ☆ 心理学者たちが考えるところの潜在意識というものを、私がどのように位置づけているかと疑問をお持ちの方々に申しあげますが、それは内なる自己と外なる自己の間にある、いわば待ち合わせ場所のようなところであると想像してください。 ここであなたがたに理解していただきたいのは、実際は自己そのものに区分などない、ということです。 それでも、私たちが自己にさまざまの部分があると仮定して話すのは、単に基本的な認識を明確にしておきたいからにすぎません。私たちは今ここで、自己というものを「自分が知るところの通常意識である」と見なす人々に向けて話をしており、あえてこれらの事柄を冒頭の章にもってきました。 なぜならば、ここで紹介する語句がこの本全体を通して用いられることになるということと、多次元的な人格存在が存在するという事実を、なるべく早いうちにお話しておきたいからです。 人格というものが意識の「今ここに」在る属性のみで成り立っているとする、限定された考え方を取り去らない限り、あなた自身を理解したり、私を独立した存在として受け入れることはできません。 私がこの事で物質的現実について述べるもののなかには、はっとさせられるような事柄もあるでしょう。しかし、私がまったく異なる見地から物事を見ているということを、どうか忘れないようにしてください。 現在のあなたがたは、みずからの現実(リアリティ)のなかだけに焦点を合わせており、その外側に何かあるとすれば、それは一体何なのだろうと考えています。私は外側に在って、かつて私が体験し愛した次元にほんの束(つか)の間、戻ってきています。 かといって、あなたがたの言う住人としてではありません。私には超自然的(サイキック)な「パスポート」がありますが、それでも言葉の翻訳に関する問題や、入国時ならぬ入次元時の不便によく出くわします。しかしそれはそれで、いた仕方ないことと考えています。 多くの外国人がエンパイヤステートビルを訪れる一方で、長くニューヨーク市内に住みながら、そこに行ったことのない人も少なくないと聞きます。それと同じように、物質界に住所をもつあなたがたが未だ気づこうとしていない、その現実体系に存在する摩訶不思議で驚くべき精神的あるいは霊的世界を、私が開示できるかもしれません。 しかし率直に言って私はそれより遥かに多くのことをしたいと望んでいます。私はあなたがたと手を携え、あなたがたが体験しうるレベルの現実を訪ね、そこをご案内したいのです。 また、あなたがた自身の精神構造のなかにある各次元をともに巡りながら、意識のあまり気づかれていない場所を開け放つことができればと思っています。つまり私は、単に人格という存在の多次元的側面を説明するにとどまらず、読者の方々一人ひとりに、本人さえも気づかない自身の並外れた在り方を垣間見ていただきたいのです。 あなたがたが知るところの自己とは、あなたの存在全体から見れば一部分にすぎません。けれども、そうした自己の各部分が、糸に通したビーズのようにひと繋(つな)がりになっているわけではありません。 どちらかというとタマネギのひと皮ひと皮であるとか、ミカンのひと袋ひと袋に似て、1つの生命の源からそれぞれが生まれ出て、さまざまな現実(リアリティ)へと成長していっている、というふうです。 私はなにも、人格をもつ存在をミカンやタマネギになぞらえたいわけではなく、全体自己の各部も、それらと同じように内核から外へ向かって成長していくことを強調しているのです。 あなたがたが観察できるのは事物の外側という一局面だけです。体の感覚は、あなたがたが事物の外観を知覚することのみを認め、あなたがたはそれに対して反応を起こします。 肉体的な感覚はこのようにしてあなたがたが現実(リアリティ)の外側を知覚するよう、ある程度仕向けるため、物質や形のなかに宿る生命力をさほどはっきりと感じ取れなくなっているのです。 たとえば、クギのなかにさえ意識は存在しています。しかし読者の方々のなかにそれを真に受けて、周囲を見まわし、柱にクギがささっているのを見つけて、クギに挨拶しようとはまず思わないでしょう。 しかしながら、そのクギの内部の原子や分子には、それら独自の意識があります。この本のページを形づくる原子や分子たちも、それら独自の意識レベルにおいて目覚めた状態にあるのです。 岩石も鉱物も植物も動物も、そして空気さえも、おのおのの独自の意識で満たされていないものは何ひとつ存在しません。 従って、あなたがたが不断のエネルギー的高揚にあっても、ある目覚めたエネルギー・ゲシュタルトの渦中にあっても、あなたがた自身は己の何たるかを自覚する、意識ある細胞たちによって、物質として構成されているのです。 【ゲシュタルトとは心理学用語で、全体があるまとまりをそなえた物事の枠組み。形態。】 意識ある細胞たちは、あなたがたの肉体という構造体を形づくることにすすんで協力しています。 私がここで述べたいのは、言うまでもなく、死んだ物質というものは存在せず、意識の関与なく形づくられた物体も1つとして存在しない、ということです。物質を形成する意識たちは程度の差こそあれ、それぞれの知覚力と創造力のなかに歓喜を讃えているのです。そのことを理解せずして、自分は一体何者なのかという問いに答えを出すことはできません。 あなたがたは、肉体のもっとも微細な部分の間で取り交わされる無数のコミュニケーションを不都合を理由に閉め出してしまいました。しかし、肉体をもつ生き物とはいえ、あなたがたはあるところまでは別の意識たちの一部でもあるのです。あなたという自己に限界はありません。そしてその潜在能力も際限がないのです。 しかし、自身の無知ゆえの人為的な制限を採択することも可能です。例えば外なる自己のみを自分自身であると認めることで、その結果、みずからの能力を己から切り離すこともできるのです。 あなたがたは真実を否定することはできても、それを変えることはできません。比喩的な言い方をすれば、多くの人間が頭の天辺(てっぺん)まで三次元の砂漠に埋もれてしまい、それ以外の次元は存在しないかのように振舞っていますが、人格をもつ存在は全て多次元的存在なのです。 私は決して外なる自己を軽んじているのではありません。むしろあなたがたがそれを過大なまでに評価しているのであり、その真の在り方を理解していないのです。 この点についてはまだ述べておきたいこともあるのですが、取りあえずこの場では、あなたがたの自分自身という存在感覚や存続の感覚は、外なる自己、すなわち自我に由来するものでない、ということを、よく理解していただければ充分でしょう。 私は外なる自己が関わる物質界を引き合いに出すおりに、ときどきカムフラージュ(偽装)」という言葉を使います。物理的な形態というものは、現実が選ぶカムフラージュの1つだからです。 カムフラージュ自体は実在するものですが、そのなかにはとてつもなく大きな現実(リアリティ)、すなわちその実在に形を与えた意識の力が存在しているのです。 あなたがたには、体の感覚器官を通してこのカムフラージュを知覚することが許されています。なぜならそれらの感覚器官が、きわめて特殊なやり方で、カムフラージュと同調できるようになっているからです。 しかしカムフラージュの内側に在るものを知覚するには、それとは別の種類の注意力と、体の感覚器官を通して可能な以上に洗練された巧みな手順が必要になります。 (霊的器官を必要とする。) 自我というのは妬(ねた)み深い神のようなものですから、ひたすら願望を満たすことを要求します。それゆえ自分自身にとって居心地がよく、理解の及ぶ範囲の現実だけに浸り、それ以外の次元や現実の存在は認めたがりません。 自我は、もともと補佐役となるはずだったものが、どこかで専制君主と化すことを許されてしまったのです。 (聖書の記述の知恵の実を食べたという逸話のこと。) たとえそうだとしても、自我というものは一般にそう信じられているより、遥かに容易に元来の性質を取り戻すことができるうえ、学びに関しても熱心です。しかも、見かけほど頑(かたく)なではなく、好奇心という極めて重要となりうる価値を携えているのです。 もしあなたが「現実(リアリティ)」の本質について限定された概念を抱いているとすれば、自我はあなたが受け入れている狭く閉ざされた現実の領域に、あなたをずっと留めておこうと全力を尽くすでしょう。 しかしその一方で、もしあなたの直感力や創造的本能が自由になったとしたら、そうしたものが、より崇高なる次元の何らかの叡知を、あなたの人格のなかで最も物質的な在り方に捕らわれている部分に伝えてくれることでしょう。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月21日
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前回の続き ☆ ☆ ☆ これは、それより他には現実(リアリテイ)が存在しないという意味ではありません。私はあなたがたの地球が形をなす以前から、意識として目覚めた状態にありました。 この本を書く時や、ルバートとのコミュニケーションを図る大かたの時には、私の過去の人格すべての記憶を保持する貯蔵庫から、妥当と思われる人格的特徴を借用しています。私のようにもはや物質や時間に執心のない人格存在は、他にも大勢います。 人間という存在の真の可能性に気づいておらず、みずからの限定された概念によって催眠状態に置かれているあなたがたゆえに、私たちのような在り方は不可解と映っていることでしょう。 私は概ね教師といったところですが、もの書きであったことはありません。また、私はおよそ「あなたが知るところの世界を創造するのは、あなた自身にほかならない」という言伝を携えた人格存在といったところです。 あなたがたは、この上なく素晴らしい「贈り物」を授かっているのです。それは、「あなたがたはみずからの思いを外に向けて投影することで、物質(もの)や形あるものを創造できる」ということです。 その「贈り物」には責任が伴います。あなたがたの多くは、人生で運よく成功を収めた時には自分の手柄とする一方で、失敗については神仏や運命や社会のせいにしたがります。 同様に、あなたがた人類はみずからの罪悪感や過ちを「父なる神のイメージ」のせいにしてしまう傾向があります。そんなふうでは、あまりの不平不満の多さに、聞かされるほうがウンザリしてしまって当然でしょう。 真実はこうです。あなたがた一人一人が各自の物質的現実を創り上げます。そして、地上で体験する繁栄も恐れも、あなたがた自身が「手に手をとりあって」創造するのです。みずからが創造者であることに気づくまで、あなたは創造することの責任を回避し続けるでしょう。 だからといって、もはや世界規模の不幸な厄難を悪魔や悪霊のせいにすることはできないでしょう。あなたがたも充分に教養を積まれて、魔物や鬼が自分自身の心の投影であることは、薄々気づいておられるようです。 しかしまだ、みずからにそなわった本来の創造力を建設的に使う術(すべ)を心得ているほど賢いというわけでもありません。 読者の方々のほとんどは「筋肉硬直」という言葉をご存知だと思いますが、あなたがた人類はむしろ「自我(エゴ)硬直」、すなわち精神が柔軟性を失って硬直し、自己の直感的認識力に長けた部分は否定されるか、見分けもつかないほど歪められてしまった状態にあるのです。 物質的現実に在るとき、私はいつもすがすがしい気持ちになります。こうしてルバートの協力のもとでこの書をしたためながら、私にはこの現実の比類なき魅力の真価を理解しようと決めたことが、やはり正しかったのだと思えてなりません。 セッション512……1970年1月27日(火曜日)午後9時2分 動物のことを話題にしたので、またここで少し触れておきます。動物たちもある種の意識をもっているのですが、あなたがたの意識に比べると、自由になる部分がそれほど多くありません。 ただし、人間の意識においてはある特質によってその潜在能力の実践がしばしば妨げられるのに対し、動物の意識では、その同じ特質が原因で潜在能力の実践に支障をきたすことはありません。 意識というのは、あらゆる次元の現実(リアリティ)を知覚する1つの手段です。 あなたがたの知るところの意識はその範囲がかなり限定され、特殊化しています。体の感覚器官の仕業で、あなたがたの知覚力の範囲は三次元世界に限られているのです。しかしまさにそうした感覚器官の性質ゆえに、三次元以外の等しく存在根拠の確かな次元(高次元)に対する知覚力を抑制することが可能になっているのです。 (幽霊などがみえないということ。だから、動物にはみえる。) ですから大半の人が日常的な物質界での自己を自分自身だと見なしています。あなたがたはよもや体の一部だけを自分であると認め、残りの部分を見捨てたりはすまいと思いますが、みずからの一部にすぎない自我が自分という重責を全て引き受けていると思い込むことは、そうしているのと同じなのです。 私がお話したいのは、あなたとは化学物質や自然要素の混合粉をまぶした骨や肉が無造作に投げ込まれた、ヒト型の動く袋などではないということ、そしてあなたの意識とは、化学物質の構成要素の相互作用のなかから火花のごとく形づくられた、単なる偶然の産物ではないということです。 (このような意味で、脳科学も間違いである。) あなたがたは決して見捨てられた物理的副産物などではなく、またあなたがたの意識も、吐息のごとくただ消えゆくものではありません。 それどころか、あなたがたは無意識の深層レベルにおいて、並外れた慧眼(けいがん)、奇跡と見まがうほどの明瞭さ、そして肉体を成す個々の小さな細胞に備わった意識されることのない深い叡知をもって、みずから知るところの肉体を自分自身で創造しているのです。これは決して象徴としての話ではありません。 あなたがたが知るところの意識は、そうした内なる活動に気づいていないため、いまここで、自分自身の内なる部分を確認できずにいます。あなたがたは、テレビを観たり料理をしたり仕事をしたりする自己の一部を、自分であると認識するほうを選んでいます。そしてその部分が、自分のしていることを把握していると思っています。 しかし実際は、あなたがたの無意識、つまりその字面では意識が無いはずの部分のほうがはるかに聡明であり、あなたがたという物質的存在部分は、その洗練された役割機能に完全に依存しているのです。 この部分こそ、目覚めであり、気づきであり、常に全てを見通すことのできる意識と呼ばれて然るべきなのです。 過度に物質的現実に焦点を合わせるあまり、その部分からの声を聞くことができず、物質中心的な在り方に倣う自分自身がとてつもない思考の力から生じたことを理解していない存在たち――それはほかでもない、あなたがたのことなのです。 私は、その字面のみでは意識が無である部分と見なされかねない無意識を、それが内なる活動を指揮することを踏まえた上で「内なる自己」と呼びます。内なる自己は体の感覚器官を通してでなく、それらとは別の、内なる伝達回路(チャンネル)を通して知覚された情報同士を、互いに関係づける働きをします。 それは三次元を超えた現実(リアリティ)を感知できる、内なる知覚者と言うこともできます。内なる自己は、あなたがたが過去に存在したことの記憶の全てを保持しています。また、内なる自己は、実際は広大無辺である主観的次元をも見通しています。一切の客観的現実は、それら主観的次元から湧き出ているのです。 あなたがたに必要な情報は、全てあなたがたの内なる伝達回路を通じて与えられます。そして、あなたがたが瞬く間にも、指をパチンと鳴らす間にも、この一文を読む間にも、想像を絶するほどの内なる活動が展開されているのです。 あなたがたのこの内なる自己は、本来、遠隔透視能力やテレパシーの能力をもっています。ですから、意識的に情報やメッセージを受け取るかどうかにかかわらず、災禍の警告は実際にそれが起きる前に受け取ることができ、コミュニケーションは言葉が発せられるより早く交わされるのです。 「外なる自己」と「内なる自己」は、共に機能しています。一方はあなたがたの知る世界での管理を可能にしてくれる部分であり、もう一方は繊細な内なる知覚力をもたらす部分であって、これなくして物質的存在はみずからを維持することができません。 そこにはさらに、あなたがたの内なる自己と外なる自己の両方を創り出している、いっそう奥深い存在たる部分があります。それはあなたが、今ここに物質的存在として在るということを決定した部分です。 これこそがあなたという存在の核であり、超自然的(サイキック)な種子であり、そこからあなたが生じたのです。なおかつその核は多次元的な人格存在であり、あなたはまさにその一部なのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月21日
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唯物論が広く浸透してしまったために、人類はこの物質世界だけが全てだと思い込んでいるが、そのような低レベルな意識状態が、「セスは語る―魂が永遠であるということ」という本のセスが語る「自我硬直」であることを、紹介してきた。 セスが語るように、人類の一人一人の意識を変えるためには、とにかく唯物論による死の概念を変えないといけない。 問題なのは、この死の概念は本来個人的なもの、つまり一人一人の意識の発達度で異なるために、統一概念などがないからである。 唯物論では、肉体が機能しなくなった、とくに脳死といわれるものが判定となっているが、脳内の個々のニューロンまで言及されているわけでもない。唯物論でいうところの人体は、細胞の組織体なので、人体のうちの細胞の何割が死んだら、死といえるのか、というところにも言及すべきはずなのだが、それすらもしていないほど全く安易な死の概念といえる。 このような安易な唯物論での死の概念とは対照的に、オカルトでは、霊魂を取り扱うので、肉体から、霊魂が完全に抜け切った状態を、概念的な死にしている。物理学風にいうなら、3次元(物質)世界に戻る意識を完全になくした段階といえる。 つまり、霊魂が、もはや当の肉体をまとって経験する必要がなくなる段階のことで、霊魂が肉体をまとうこと、つまり3次元物質世界にくることを「受肉」といい、もはや、受肉の必要がなくなったのが死である。必要なくなるという意味は、新たな出発の意味である。 だから、喩えを持ち出すと、いわば科学者が仮説を実験で証明する必要がなくなったことにあたり、仮説が真実だと立証されたこと、つまり、意識が自身の特定の能力を認識した段階が死といえる。 意識は、想念を物質化することで、認識するようである。だから、想念を物質化するに相応しい肉体に受肉する。 さて、このようなオカルトの死の概念を紹介してくれた、「セスは語る―魂が永遠であるということ」という本の内容を、途中までだが、抜粋紹介しているサイトをみつけたので、以下に個人的に重要に思う部分を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ セスは語る―魂が永遠であるということ http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/seth/mokuji.html 第一部 セッション511……1970年1月21日(水曜日)午後9時10分 (セッションは、ジェーンがセスの霊媒となり、行なわれたそうだ。) セスの話す英語には独特の訛りがある。訛りの種類を特定するのは困難だが、これまでにもロシア、アイルランド、オランダ、イタリア、そしてフランスまでが候補にあがっている。かつてセスがユーモアをこめて話してくれたが、彼の話し方は、実際に体験したいくつもの人生を通して培われたもので、彼自身の「全世界的背景」に起因しているとのことだった。 第1章 (以前、紹介した内容と重複するが、再度紹介する。) さて、ゴーストバスターのことは聞いたことがあるでしょう。私(セス)は文字通りのゴーストライターと呼ばれそうですが、私自身はこの「ゴースト」という言葉があまり好きではありません。確かに、私は物質的見地からは見ることのできない存在ではありますが。 実は「霊(スピリット)」という言葉も、あまり好きではないのです。それでも、もしあなたがたが「霊」という言葉に、肉体のない人格存在(パーソナリティ)という定義をあてているなら、私は自分がその定義にあてはまることを認めざるを得ないようです。 私は、大いに親しみを感じている一人の女性(霊媒)の援助のもとで、この書をしたためています。私がその女性に「ルバート」[男性名である]を用い、男性代名詞(he)をあてていることを妙だと感じる人もおられるでしょう。 しかし事実はこうなのです。私は彼女のことを、別の時代に別の場所で、別の名前で呼んでいたのです。彼女はこれまでに男性であったことも女性であったこともあり、それらすべての転生を、それぞれ別個の生として生きてきました。しかし、彼女のあらゆる転生の全体である、より大きな存在があるのです。そしてルバートという名は、その全体の存在を指していう名に他なりません。 いずれにせよ名前というものは、さほど重要ではありません。私は「セス」という名です。名前はただ単に何かを指し示すためにあり、記号にすぎないのですが、あなたがたにとっては取りあえず必要なものですから、私も用いているまでです。 私はルバートの協力のもとでこの本を書いています。私に代わってルバートが、私の言葉を話してくれます。今回の転生で、ルバートは「ジェーン」と呼ばれています。そして、ジェーンの夫であるバート・バッツが彼女による口述を、逐一紙面に記録しています。私は彼を「ジョーゼフ」と呼びます。 読者の方々は、自分は物質から成る被造物であり、肉体に拘束され、骨や肉や皮膚という牢に監禁されていると思っておられるかもしれません。もしも自己という存在が肉体像に依存すると信じている場合、肉体が消滅する恐れをいやでも味わうことになります。肉体とその形状は、永遠にそのままではないからです。 若かりし頃の容姿がいかほどでも、老齢にあって同等の活力なり魅力なりを保ち続けることは何人たりとも不可能です。若さや美しさ、あるいは知性や業績などをみずからの存在価値とするならば、そうした属性がとこしえでなく、やがては失われることを知るようになり、絶えずそれはあなたがたを苦しめることになるでしょう。 しかし、どうか安心してください。本当はそうではないのです。私はあなたがたにそのことを告げるために、この書をしたためています。もともとあなたがたは、私がそうでないのと同様に、物質的存在ではありません。そして私自身もこれまでに、枚挙に尻込みするほど夥(おびただ)しい数の肉体を脱いだり着たりしてきました。実在しない人格存在が、書物を著すことはありません。私は肉体像には少しも依拠しておらず、あなたがたもまた同様なのです。 意識は形あるものを創造します。しかしその逆は成り立ちません。 (意識は、量子力学でいうところの演算子のような働きをする。) 人格存在のすべては、物質に依存してはいません。あなたがたは日常の雑事に振りまわされているため、みずからの本来の能力が、実は普段意識しているものより、遥かに卓越したものであることに気づかないのです。そればかりか、そのことを知る内なる部分が、自分自身のなかに存在していることさえ知らずにいます。 あなたがた自身もまた一人ひとり、今とは別の存在として多くの転生を重ねてきました。他の生で得た蘊蓄(うんちく)は、たとえあなたがたの意識に上ることはなくとも、いま現在のあなたがたの内に存在しています。私はこの書を通して、読者の方々の内なる自己である、研ぎ澄まされた直感の宝庫たる部分を解放し、各人にこの上なく役立つであろう無比の洞察能力を、意識の最前面に押し上げるお手伝いができることを願っています。 私は、非常にうまくルバートの体に意識の焦点を合わせることができています。この女性(霊媒)に私の口述をしてもらうということは、それほど単純なことではありません。そのために必要な手順や心理的調整が、事前に充分に行われます。ルバートと私の間には、「精神の架け橋(サイコジカル・ブリッジ)」と私が呼ぶ結び付きが確立されるのです。 ところでこの書を読まれる時は一体私が何者なのかを問うよりも、あなた自身が何者なのかを自問するほうが賢明であると思われます。なぜなら、あなた自身が人格存在であることの本質や意識の特質を理解しないうちは、私という存在を理解することは不可能だからです。 あなたがたの意識は脳の内側にかたく拘束されたまま、どこへも抜け出ることはないと信じていますか。あなたがたの意識の果ては、肉体という境界線までだと思いますか。もしあなたがそう考えておられるなら、それはみずからを過小評価していることになります。 そして、私という存在に関しても、きっとひとつの幻として片付けようとするでしょう。しかしながら私という存在は、あなたという存在が幻でないのと同じだけ確実に、幻ではないのです。これはあたかも人を罠(わな)にかけるごとき宣告と聞こえるかもしれませんが。 読者の方々一人ひとりに向けて、私は正直なところをお話しましょう。あなたがたが認める「年齢」という言葉の意味に則して言えば、私はあなたがたよりずっと歳を重ねた存在です。 ですからかりに、もの書きの適性を年齢で競う場があったとしたなら、金メダルを獲得するのは私でしょう。言うなれば私は人格を有するエネルギー存在であり、もはや物質に心を奪われることはありません。かような存在としての私には、あなたがたの多くが忘れ去ってしまったかのような、いくつかの真実が見えます。 それらの真実があなたがたのもとに帰するようにと、私は願っています。私は、あなたが自分自身であると考えている部分よりも、むしろあなたが知らない自分、つまりあなた自身がある程度まで否定したり忘れたりしてしまっている部分に対しておもに話しかけます。 実は、あなたがたの「知っている自分」がこの書を読んでいる今も、あなたがたの「知らない自分」には、すでにこの書の内容がわかっているのです。 私は神仏や超越的存在を信じている人にも、信じていない人にも話をします。また存在の本質についてはすべて科学が解明してくれると考える人にも、そうは考えない人にも話をします。あなたが未だかつて学んだことのなかった自分自身という存在の本質を学んでいくうえで、一助となる手がかりを提供できればと思っています。 あなたがたに理解しておいていただきたいことがいくつかあります。あなたは瓶に封じ込められた蝿のように、時間のなかに閉じ込められているわけではありません。瓶のなかの蝿にとって、羽はもはや無用の長物です。現実(リアリティ)の真実に関して知りたいとき、あなたがたの肉体的感覚器官を信用することはできません。 体の感覚器官は嘘が素晴らしく上手です。もっともらしい気のきいた話にうまくのせられてしまい、あなたがたは疑うことさえしようとしません。あなたがたは目を醒ましている時よりも、むしろ夢を見ている時のほうがずっと聡明で創造性にあふれ、加えてはるかに博識なのです。 こうした話はあなたがたにとって、相当疑わしく聞こえるかもしれません。しかし、あなたがこの書を読み終える頃には、本書が事実の羅列にすぎないことがわかっていただけるよう願っています。 これからお話することは、忘れ去られてしまうたびに再びまた語られるというように、何世紀にもわたり繰り返し人類に語られてきた事柄です。私はそうした長い年月の間に歪められてしまった真実を、ここで明らかにしていくつもりです。また、これまでなされてきた解釈に対し、私独自の解釈を試みます。認識された物事あるいは情報が、真空のごとく存在することはあり得ません。 言い換えれば、それらのすべては、それを認識した人格存在の解釈の仕方や偏見に色づけされたうえで、保持されたり、語り継がれたりするのです。したがって、私も必然的に自分自身が認識している現実(リアリティ)の在り方なり、幾重にも層をなす多次元での体験なりを描写していくことになるでしょう。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月21日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ あなた方に理解しておいて欲しいことが幾つかあります。 それは、あなたは瓶(びん)の中に閉じ込められた蝿のように、時間の中に閉じ込められているわけではないということです。つまり瓶の中の蝿にとって、羽はもはや使うことのない無用の長物です。それと同じく、時間という瓶の中に閉じ込められていると信じている者にとっては、あなた方の肉体的感覚器官にそれほど意味があるとは思えないはずです。したがってあなた方はそれについて疑うこともありません。実はあなた方は、目を覚ましている時よりも、むしろ夢を見ている時のほうがはるかに聡明で創造性にあふれ、博識でもあるのです。 こうした話はあなた方にとって、かなり疑わしいことかもしれません。 しかしあなた方がこの書を読み終える頃には、書かれている内容が事実の寄せ集めであることに気がついてもらえるようにと願っています。私がこれからお話することは、悠久の昔から忘れ去られてしまうたびに、再びまた語られるというように、何世紀にもわたって繰り返し人類に語られてきた真実であり、事実の事柄なのです。私はそうした長い年月の間に歪められ、隠蔽され、葬られてしまった真実について、ここで明らかにしていくつもりです。 それについてこれまで為されてきた解釈に対し、私は、私独自の解釈を試みるつもりです。その意味は、誰かに認識された物事や情報というものは、真空のごとくどこかに浮かんで存在することはあり得ないということです。言い換えるならば、それらのすべては、それを認識した存在の解釈や考え方に色づけされることで保持され、語り継がれたりしていくものなのです。ですから私も必然的に、自分自身が認識しているリアリティや、多次元における体験などを通して描写することになるでしょう。しかしそのことは、それよりほかにはリアリティが存在しないという意味ではありません。 私は、あなた方の地球が形を成す以前から存在しており、意識として目覚めた状態にありました。そしてロバート(記録者)とコミュニケーションをとる時には、私の過去を織り成すすべての人格が保持する記憶の貯蔵庫から、ふさわしいと思われる人格的特長を用いています。私のようにもはや、物質や時間に執心することのない人格的存在は他にもたくさん存在しています。あなた方は未だ、人間という存在の真の可能性に気づいてはおらず、自らが創り上げ限定された概念によって催眠状態に置かれているがゆえに、あなた方にとって、私たちのような在り方は不可解としか思えないことでしょう。 私は、「あなた方が認識している世界を創造するのは、あなた自身に他ならない」という「知らせ」を携えてきた人格的存在といったところです。あなた方は本来、この上なく素晴らしい「贈り物」を内に携えている存在です。私は、そのことを忘れてしまったあなた方に、その事実を知らせ、思い起こさせたいのです。それは、「あなた方は自らの思いを外に向けて投影することで、物質や形あるものを創造できる」力を持っているということです。 しかし本来、あなたが内に携えているこの「贈り物」にはそのゆえに責任が伴います。 あなた方の多くは、人生でうまくいったり望みが実現したりした時には、それを自分の力や手柄とするものですが、もし失敗してうまく行かなかった時には神を呪い、運命を呪い、社会や他人のせいにしたりします。そして一般的にあなた方人類は気軽に、自らの罪悪感や過ちを「神」のせいにしてしまう傾向があります。 つまりその真実はこういうことです。 あなた方一人ひとりが、自分自身の物質的現実を創り上げているのは確かなことです。また地上で体験する豊かさも窮乏も、あなた方自身が「手に手を取り合って」創造しているのも確かなことです。しかしながらあなた方は、未だそれらを創造したのが自分たちであることに気づくことができないために、創造の責任を取ることができず、自らが創造者であることに気づくまで、責任を回避し続けるでしょう。 あなた方も十分に教養を積まれているので、だからといってもはや世界規模の不幸や災厄や災難を、悪魔や悪霊のせいにすることはできないはずです。そして自分自身を怖れさせる魔物や鬼といったものが、実は自分自身の心の投影であることも、うすうす気づいているようです。しかしながらまだ、自らに備わった本来の創造力を、建設的に使う術(すべ)を心得ているほど賢いというわけでもありません。 あなた方のほとんどは、「筋肉硬直」という状態を知っていると思いますが、あなた方人類はむしろ「自我硬直」、つまり精神が柔軟性を失って硬直した状態にあります。そのために、自らの直感的認識力というものは否定され、それがどういうものであるかも認識できないほどに自分の中で歪められてしまった状態にあるのです。 ☆ ☆ ☆ セスからすれば、人類は、金儲けや戦争などといった、遥かに低レベルなことに日常生活を費やしていることになる。その形態は、まるで、サル山と変わりはない。しかし、高レベルにいるセスも、人類と変わらない低レベルだったこともあるわけで、その経験があるからこそ、いま、高レベルでいられるわけでもある。人類は、独力で、この低レベルを克服していかなければならない。それは一人一人の意識上のハルマゲドンである。
2013年08月21日
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前回までに巷でいわれる色々な陰謀論を抜粋紹介してきたが、「チベット永遠の書」に記述された真の隠者の発言のように、結局は、心の問題であることに気づかされる。 この世に悪魔が蔓延るのは、悪魔を誘き寄せる人類側の問題でもあるからだ。シュタイナーは、現代医学の問題について、例えば、感染症をウイルスや病原菌のせいにして、それらを誘き寄せる人体側の問題を全く考えないことにあるのを、以下の簡単な喩えで指摘しているが、これも結局、人間の心の問題であることがわかる。 部屋が散らかっているため、害虫やネズミなどが住み着くのは、その部屋の生活者が掃除をしないせいなのに、害虫やネズミのせいにして、それらを取り除いても、第2、第3の侵入が繰り返し起こるだけである。 結局、生活者が掃除をしない限り、何度も同じような展開が繰り返されるだけである。このような展開を繰り返すと、それは一種の悪癖という慣習や法則が成立してしまう。唯物論上での法則というのは、このようなものなので、一方を他方に入れ替える対処しかできないので、根本的な解決には決して至らない。 つまり、唯物論では、このような問題を解決できない。人類が愚かなのは、いまだに、心の問題を、唯物論で解決しようとしていることにある。 しかし、心をどう扱うか、が人間が生きる目的といえるのではないだろうか? 心に映ったことが、そのまま現実化していることにそろそろ気づく段階にきている。心を掃除するには、心を良く知らなければいけない。オカルトでは、心とはいわないが、意識と呼んでいる。そう、全ては一人一人の意識に関わる問題なのである。 意識をどう扱っていくかが、オカルトの主題である。従来の唯物論の物理学に、オカルトを加えた、超物理学を探求し、意識を道具として扱うことを主題とすべきだろう。その際、量子力学的な解釈(観測論)は、意識を非常に見通しよくする。 カエサルは、「人は自分の見たいものしか見ない」という言葉を残しているが、この言葉は、量子力学の観測論を端的に表現している。意識とはそのような性質をもつ。 また、特に「チベット永遠の書」の真の隠者が語ることは深い箴言を含んでいるので、そのなかで印象的なものを以下に再掲する。 ☆ ☆ ☆ 「戦争は、人間の利己心、悪念の産物じゃ。多くの者は心のなかで戦争を起こしている。彼らは絶えず色々な方法で隣人と戦いながら、同時に平和を語る。戦争が怖いという理由で戦争に対抗するのであれば、そのような抵抗に何の価値があろうか。症状に立ち向かってはならない。心を変化させることだ」 ☆ ☆ ☆ この隠者の発言の真の意味を解き明かしてくれる本に最近遭遇した。それは、「セスは語る―魂が永遠であるということ」である。 この書は、この宇宙がどうなっているのか、生とは、死とは何か、を教えてくれる。 例えば、上述の「戦争が怖いという理由で、戦争に対抗する」のなら、そのこと自体が一種の心の戦争である。この悪魔の計略に陥ってはならない。 「セスは語る」で、セスは「戦争を憎む世代によって、平和がもたらされることはありません。 平和を愛する世代によって、平和はもたらされるのです。」と語っているが、戦争が悪い理由は、人々に憎しみを誘発することだとわかる。 つまり、「愛」を「憎」に変えることが悪なのである。しかし、このことから、意識の上で、つまり心のなかでは、愛と憎が同じものであることがわかる。だから、今度は、憎から愛へと変えることが重要となる。 そのことを、セスは、キリストの説いた「一方の頬を打たれたら、他方の頬を差し出しなさい」の本当の意味を解説することで、解答を与える。 この真の意味は、頬を打つ攻撃は結局、自分を破壊していることだと当人に気づかせることで、憎に対しては、愛を捧げるのが重要ということである。他方の頬を差し出すことで、差し出した方は、自分の意識(心)を神の愛に向け、汲みとることになるから、意識(心)が神の愛に満たされることになる。 つまり、頬を打たれたことが切欠となり、頬を差し出す愛情により、かえって神の愛を知るが、対照的に、攻撃した者は、攻撃に意識(心)を向けることになるので、結局、そのやり場に困ることになる。 一方は、与えることで、神の精神に近づき、他方は、奪うことで、悪魔の精神に近づくことになる。創造行為と破壊行為のどちらに意識(心)を向けるかの違いである。修行不足者は、奪うことに意識を向けがちなだけなのである。自分だけが得をしたい、などという発想は、その典型である。 「意識(心)が、現実をうつし出している。」とセスは説く。神にチャンネルをあわせるのか、悪魔にチャンネルをあわせるのかは、人間の自由に委ねられている。だから、宇宙は無限の可能性を秘めている。 愛するのか、憎むのか、は本人の自由である。しかし、愛が現実となれば天国だが、憎が現実となれば地獄となる。天国も地獄も本人の意識(心)次第なのである。そのことを確認するために、この物質世界に人間はやってくる。この世界は、人間の意識(心)の実験の場である。 例えば、セスは、死について次のように説いている。 人間の肉体のミクロの部分では、細胞の死などの循環で、絶えず死を経験しているはずだが、人間の意識は生が継続しているように感じている。これは、意識が、細胞の死などを一々認識していないせいである。 また、ほとんどの人が睡眠中は無意識で、次の日起きると意識が前の日から継続しているように錯覚しているが、実は、睡眠中の意識が、次の日に現実になっているにすぎない。このことは、前の日にできなかったことが、次の日にできるようになることからわかる。つまり、睡眠中に、技術を学んでいるのだ、という。 だから、セスは、オカルトでいわれているように、意識がこの3次元(物質)世界にないことを、死と呼ぶなら、睡眠中、人間は死んでいるのである。重要なのは、3次元も、高次元も、同じ空間(空間という言葉は正確ではないらしい)で、意識がどこにチャンネルをあわせているか、にあるという。 だから、意識にとっては生も死もない。ただ、意識(心)を無限の宇宙空間のどこにあわせ、創造活動、つまり愛する行為を行なっていくか、でしかない。 だから、立派な人間とは、どれだけ多くの人を愛せるか、ということになる。 このようなセスが説く内容を、うまくまとめているサイトをみつけたので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ セスは語る―魂が永遠であるということ http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/seth/seth-1.html 人間には「創造する能力」が与えられている 多くの人々は、自分は物質からなる被造物であって、肉体に拘束され、骨や肉や皮膚という牢獄に監禁されていると思っているかもしれません。そして自己という存在が肉体に依存すると信じている場合、そのゆえに肉体が消滅する恐怖をいやでも味わうことになります。そして若さや美しさや、あるいは知性や業績などを自らの存在価値と考えるならば、当然そうした属性は永遠のものではなく、やがては失われることを知り、それは絶えずあなた方を苦しめることになるでしょう。 しかしどうか安心してください。 実は、本当はそうではないのです。私はそのことをあなた方に伝えるためにここに来ています。あなた方はもともと、私がそうではないのと同様に、物質的存在ではありません。そして私自身もこれまでに数え切れないほどの転生を繰り返して来ており、そのたびに肉体を脱いだり着たりして来ました。私は姿こそ見せませんが存在しており、実在しない人格的存在が考えを伝えたり、それを書物として著わすことはありません。私は肉体に少しも依存することなく、そしてあなた方の本質もまた私と同じなのです。 意識というものは、形あるものを創造します。 しかしながらその逆は成り立ちません。ですから人格的存在のすべては、物質に依存してはいないのです。あなた方は日常の生活の雑事に浸り、あるいは振り回されているために、自らに備わる本来の能力が、実は自分が意識しているよりもはるかに卓越したものであることに気づくことがありません。それだけでなく、そのことを知る内なる意識が自分の中に存在していることも知りません。 あなた方一人ひとりは、今とは別の存在として多くの数え切れない転生を重ねてきました。そして他の人生で得たものは、たとえ今のあなた方の意識に上ることはなくとも、今現在に生きるあなた方の内に存在しています。私はこの書を通じて、これを読む人々の内なる自己である、研ぎ澄まされた直感の宝庫を解放し、あなた方にとってこの上なく役立つはずの洞察能力を、意識の前面に押し上げるお手伝いができることを願っています。 このロバートという女性に私の口述をしてもらうということは、それほど単純なことではありません。私は彼女と電話で話すようにして伝えているわけではありません。ロバートと私の間には、「精神の架け橋」と私が呼ぶ結びつきが作られる必要があり、精神の延長と意識の拡張状態が電話の代わりにコミュニケーションに利用されます。それがどのように創られ、維持されるかについては後で説明します。 ところでこの本を読まれるあなた方は、いったい私が何者なのかと問うよりも、あなた自身が何者であるかを自問することのほうが賢明であると思われます。なぜなら、あなた自身が自らを人格的存在であるとする、その本質や意識の特質を理解しないうちは、私という存在を理解することは不可能だからです。 もしかして、あなた方の意識は、脳の内側に固定されて拘束されたまま、どこへも抜け出していくことはないと信じていますか? またあなた方の意識は、肉体という境界線を超えていくことはないと思っていますか? もしそう考えているなら、それこそが自らを過少評価していることなのです。そのゆえに私という存在に関しても、ひとつの幻として片付けようとするかもしれません。しかし私という存在は、あなたと言う存在が幻でないのと同じだけ、確実に幻ではないのです。 私の正直なところをお話すると、あなた方の「年齢」という言葉の意味で言えば、私はあなた方よりもずっと歳を重ねた存在です。私は今では人格を有するエネルギー存在であり、もはや物質に心を奪われることはありません。このようにして存在する私には、あなた方の多くが忘れ去ってしまったかのような、いくつかの真実が見えています。それらの真実があなた方の元に帰るようにと、私は願っています。 私は、あなた方が自分自身であると考えている部分ではなく、むしろあなたが知らない部分、つまりあなたがある程度まで否定したり忘れてしまっている部分に対して主にお話します。しかしながら実は、あなた方の「知らない自分自身」は、すでにこの書に書かれている内容がわかっています。私はさまざまな宗教や超越的存在を信じている人にも、そうでない人にもお話しします。また科学だけが存在の本質を解明してくれると考える人にも、そうでない人にもお話しします。そうしてあなたが、未だかつて聞いたことも学んだこともなかった、自分自身という存在の本質を学んでいく上で、助けとなる手掛かりを提供することができればと思っています。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く
2013年08月21日
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更に、銀の生成については、他の天体に妨げられない主に月の影響との親和性を認識する必要がある。今日(1920年)の文献を読むと、銀と月の親和性を、古代の人々が、月を、銀色に輝くものとして見ていた、という外見的な由来に求めているが、この現代人の偏見は大きな間違いである。 個々の金属に関する古代の研究の本質が、実際には現代よりも緻密だった事実を知るなら、上記のような迷信(誤り)に屈することはない。とはいえ、これまで述べてきた金属と天体の関係から、その他の物質の生成についても、(天体の配置から)充分な機会が提供されている事実がわかる。 これまで挙げてきた鉛、錫、鉄、銅、水銀、銀は、非常に傑出した代表的な物質(金属)だが、天体の作用が互いに競合しあうことで、例えば、土星の作用領域に、火星などの作用領域が入り込むことで、代表的な金属以外の他の金属の生成機会が与えられる。 (錬金術とは、天体による地球上の金属の生成についての関係を解き明かしたものである。) 様々な天体の作用による複合により、代表的な金属以外の副次的な金属が生じるが、いずれにせよ、地球の鉱物のなかに、地球外の様々な天体の影響の成果を探求する必要がある。金属の生成過程のなかに、天体の作用を探ることで、特定の関係から、金属として現われる過程が、植物のなかの過程と結びつけられる。 というのも、鉛、錫、鉄という鉱物薬による治癒過程を探求すれば、地表より上方で生じる植物の花-種子に関する植物薬の治癒過程(燐の過程)も同時に獲得できるからである。また、銅、水銀、銀に関する治癒過程は、植物の根に関する治癒過程(塩の過程)でもある。 更にまた、当然のことながら、鉱物の調停者の水星とは別の調停についての探求も必要となる。というのも、水星は、地球と、地球外の天体との間の、いわば物質の調停者だが、この宇宙全体が、そもそも霊に浸透されているので、物質の調停とは別の霊の両極(対極)性も成立するからである。 地上と、地上を超えた宇宙のなかに、光と重力との対立が発見できるが、これは表面上の均衡の発見にすぎない。また別の均衡、すなわち地上と宇宙を一様に貫く霊と、地上と宇宙の全物質との均衡、つまり、霊と物質との均衡も発見できる。 物質のどの一点においても、霊との均衡が保たれている。霊と物質の均衡は、宇宙でも成立する。宇宙のなかの、地球から最も近い、霊と物質の均衡を保つ領域は、太陽である。太陽は、宇宙の霊と物質との均衡を保っている。 (物質は霊が凝縮したものと考えればわかる。アインシュタインは空間の歪みで表現した。) 従って、太陽は、太陽系の秩序を保つ宇宙霊に従っているが、同時にまた、この秩序は、物質体のなかに入り込む様々な天体の形成力によっても引き起こされる。以前、その特徴を述べたように、個々の天体と金属の関係と同じ様に、太陽と黄金の関係も確定できる。 しかし、太陽と黄金の関係について、古代人たちは、物質のアーリマン(悪魔)的な価値(高価という意味)から、黄金を尊重したわけではなく、太陽と黄金の霊的な関係から、つまり、霊と物質の均衡に関係するために、黄金を尊重した。 さて、地球上での、人間のなんらかの思考や行為によって、人間が分離し、外に出したものは、自然では、何らかの形で結合される、という事実に注目すべきである。 つまり、人間は、思考のなかで、光の担い手となる燐の過程、つまり光を生じる傾向をもつ過程から、更に、この両者の均衡に従う水銀の過程から、重力に従う、塩の形成への傾向をもつ過程を分離している。 (人間は思考することで、燐の過程や水銀の過程から、塩の過程を分離している。) しかし、逆に、自然は、人間のように塩の過程を分離するのではなく、(人間により)分離された過程を互いに結びつけ、組み合わせ、非常に精巧な組織構造を形成する。この精巧な組織構造は、黄金の光輝のなかに見つけられる。霊は、黄金を通じて、直接、外界を覗き込み、光輝により物質と結び付いている。 いま特に注意すべきことを、括弧に入れて述べたい。『古代の文献から得られる示唆を、近代の文献に役立てることができる。もし、例えば学位請求論文を作成するなら、古代の文献の正しい理解さえできれば、多くの示唆が獲得できる。』 古代の文献の理解から、非常に重要なことがわかる。すなわち、古代の文献から、どの物質のなかにも、塩、水銀、燐もしくは硫黄の3つの原理全てが様々に組み合わされ、この3つの原理を何らかの物質から分離しようと、古代人が苦心していた事実が理解できる。 (錬金術のこと。) つまり、古代には、次のような見解があった。 「鉛は、これまで述べてきたように土星が優位な配置から生じるが、黄金や銅と同様に、鉛も、3つの原理の、塩-水銀-燐の過程全てを含んでいる」、という見解である。 「そして、3つの塩-水銀-燐の過程によって、人間を治療するには、3つの原理が結びついている金属から、何らかの方法で、塩、水銀、燐の過程を分離することが肝要となる。」 古代の化学では、3つのうちの、特定の過程の分離について、究めて周到な注意が払われていた。この分離は、黄金の場合、最も困難を極めた。 従って、「黄金を壊すより、黄金をつくる方が易しい」というローマの箴言(”Facilius est aurum facere quam destruere.”)は、実際、古代の叡智の賛美に通じる。 なぜなら、黄金では、塩、水銀、燐の過程という、3つの自然の原理が密接に結びつき、この3つの原理を分離するのは、黄金が、最も困難に思われていたからである。
2013年08月20日
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(神秘的な)瞑想をはじめて学ぶ人や、霊視力を発達させようとする人にとって、例えば、次のような修行は非常によい。 真っ暗な部屋に身を置き、外からの光を完全に遮断して(夜の暗闇、もしくは両目を閉じることでもよいが)、自身の内的な(精神)力によって、徐々に、光のイメージを形成すること。 光のイメージを十分に形成できるようになると、次第に明敏になり、ついには光を感得するようになるが、それは物質光(電磁波)ではなく、当人の内的な(精神)力により、自ら生み出した力(エネルギー)なのである。 これは叡智に浸透された光であり、この光の中に創造する叡智が現われる。この光がアストラル光と呼ばれる光なのである。 (仏教では霊光というようである。精神「忍耐」力によりつくられる光。) 瞑想を通じて内(精神)的な光を生み出すことができるようになる。この光は、人間がいつの日か(物質的な視覚ではなく、もっと精妙で霊的な感覚器官によって)見えるようになる霊的な存在の先触れである。その光は、実在する、エロヒムのような霊たちの衣装である。 正しい方法で修行すれば、高次の存在たちとの関係を結ぶ手段となる。自らの経験から霊界について知る人たちは、このような正しい瞑想を行なってきた。 (釈迦の八正道など。) 後で述べる別の方法でも、自らの内(精神)的な力により、周囲を光で照らし、叡智に囲まれるだけでなく、周囲から音楽が聞こえてくる、という境地にまで到達できる。古代ピタゴラス哲学では、天球の音楽について伝承されていた。 この《天球》という言葉は、宇宙空間、つまり天体の運動を意味している。この言葉も、仮想上の、想像上のイメージなどではなく、詩的な比喩でもなく、1つの真実なのである。 秘教の導師の指示に従って十分に修行を積むと、明澄な、光輝に満たされた空間や、叡智が顕現した光の空間を内的に観るだけでなく、宇宙空間に漲る天球の音楽を聞き取ることを学ぶ。空間が鳴り響き始めると、当人は天国、いわゆる神界(Devachan)にいる、と言われる。 天国では、空間が音楽を奏でるが、この音は空気中で生じる物質音ではなく、霊の音で、ずっと高次の精妙な実(媒)質のアーカーシャの中で生じる音なのである。空間は絶え間なく、このような音楽に満たされ、この天球の中に、ある種の基調音がある。 (アーカーシャとは真空のゼロ点振動エネルギーのことに思われる。) さて、再び、「天球の音楽」という言葉から考えてみる。今日の数学者、天文学者たちが、神秘学のなかの惑星について伝承されていることを、妄想と見なすことは明白だが、このことは揺るぎ無い真実なので、問題ではない。 これまで述べてきたように、この地球は繰り返し段々と進化してきた。地球のこれまでの受肉についても述べたが、地球は最初、土星、それから太陽、更に月、そして現在は地球となったが、その後には、木星、金星、バルカン(ウルカヌス)星となっていくだろう。 さて、次のような疑問が生じる。今も空には土星があるが、今日のこの土星は、地球の最初の受肉状態の(原始)土星と一体どういう関係にあるのか? 今日、星空を観察すると、公によく知られている諸惑星が見える。これらの惑星の名称は、恣意的に選ばれたような、つまり近年の慣例になっているような、例えば、その星の発見者の名前などの特定の人物にちなんでつけられたものではなく、その天体の本質についての深遠な叡智から授けられた意味深い名称なのである。 今日の人々はもはや、そのような叡智による命名とは無関係に、例えばウラヌス(天王星)は近年発見されたため、正しい名ではない。今日、天に「土星」として観ている天体は、地球がまだ土星状態にあったときと同じ段階にある。 公の「土星」は、地球を、いわば老人とすれば、少年のような関係にある。老人が、傍らに立つ少年から育ったのではないように(老人もかつては少年だったわけだが)、この地球も、傍らにある今日の土星から進化したわけではない。 今日の空にある土星も、またいつかは《地球》となってゆき、いまは一種の青年期の段階にある。他の天体も同様で、太陽は、かつての地球の「太陽紀」のような天体だが、ただその状態がいわば《進化した》[avanciert]状態なのである。 人間の世界も、老人の横に少年がいる、といった具合に、様々な年齢層が共存するように、天界においても様々な天体が様々な進化段階にあって共存している。その一部(土星、太陽、月)は、いま第4の受肉状態にある地球が既に完了した進化段階であり、また他(木星、金星、バルカン星)は、これからとることになる進化段階である。 (地球紀の前半を火星紀、後半を水星紀という分け方もある。火星紀は対立、闘争の歴史で、水星紀は均衡、和解の歴史といえる。) これら7つの天体は、互いに正確に一定の関係にあり、神秘学者は、この関係を今日の天文学者が行なうのとは別の形で表現する。 既知のごとく、太陽系の惑星は一定の速度で太陽の周りを運動している。しかし、これらの惑星は神秘学者たちによって正確に探求された、また別の惑星運動も行なっている。その探求により明らかにされた事実は、太陽は、ある霊的な中心点の周りを運動し、従って各惑星の軌道は、太陽の軌道を正中線とする螺旋を描く、ということである。 (DNAの螺旋構造と似ている。) 各惑星の軌道を運行する速度は、互いに全く一定の調和した比例関係にあり、この比例関係が、聞く者にとって、音響として、1つのシンフォニーを構成する。これがピタゴラス学徒によって天球の音楽とみなされた。 この共鳴、この音楽は、宇宙的な出来事の模像であり、ピタゴラスの学院で教授されたものは、想像上の創作ではない。古代の神秘学者たちは次のように述べた。 この星天は、一見静止しているように見えるが、実際は動いている。霊的な中心点の周りを、百年ごとに一度ほど進む速度で回転している。 (以下の本はお勧め。 タンパク質の音楽 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E8%B3%AA%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E6%B7%B1%E5%B7%9D-%E6%B4%8B%E4%B8%80/dp/448004230X フランスの物理学者ステルンナイメール博士は、量子力学と分子力学の成果をもとに新しい理論を展開、生体と音楽の間に潜む謎を解き明かした。研究の成果である「タンパク質の音楽」の効果を確かめるために、南西フランスの野菜畑でいくつもの実験を積み重ねた。その間、約20年。こうして生まれた「タンパク質の音楽」は、誰も足を踏み入れたことのない領域であり、私たちが世界を見るまったく新しい視点を与えてくれる可能性がある。-ブックレビュー社 一部以下に抜粋。 「ジョエル・ステルンナイメールは素粒子の質量分布に関する問題を研究しているとき、いろいろな素粒子の質量がある音階に従って分布していることに気づいた。その音階というのは、主に平均律音階である。これは、素粒子の振動数の中に互いに倍音の関係になっているものが存在することを意味する。 彼は、量子物理学の理論的研究に長い間没頭した結果、彼の言う《スケーリング波動》の存在を予言し、間接的ながらも実際にそれが存在することを証明した。このスケーリング波動は素粒子から放射されるが、生物の細胞にあっては特にアミノ酸から放射され、その振動数は音としては耳に聞こえないぐらいの大きな値である。彼が計算によって振動数を求めたこうした波動の存在により、分子間のある種の反応や、さまざまな分子の振る舞いが説明できるかもしれない。) さて、各惑星の速度は、互いに次のような関係になっている。 土星の速度=木星の速度の2×5(=10倍) 木星の速度=火星の速度の5倍 火星の速度=太陽、水星、金星の速度の2倍 太陽の速度=月の速度の12倍 この場合、土星の速度は月の速度より1200倍速く、(霊的な中心点の周りを百年に1度なので)年に12度前進する。 (上記の天体の速度については、霊能者でないので、はっきりとはわからない。)
2013年08月20日
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(神秘学の)図形や記号を正しく用いる指針を少しずつ獲得すると、それは次第に霊界の認識へと導き、霊視力を獲得させる手段を与える。例えば、五芒星に従って瞑想する人には、体内のエーテルの流れによる道筋が感得されてくる。 (五芒星が、万物を見通す目、つまり霊視獲得の手段となる。第3の目とも呼ばれる。仏像の「白毫」のこと。だから、本当の霊能者は金持ちなどにはならない。逆に釈迦やキリストのように、ホームレスになるはずである。本当の出世とは俗界(世)から出ること。) これらの記号の恣意的な意味を色々と考え出すのが目的ではない。瞑想の際に、これらの記号と関われば、―ただ忍耐強く行なう必要があるが―秘められた真実に導かれる。これらの神秘学の形象や記号は秘教の基本理念に深く根ざすものなので、神秘学と同様に、様々な宗教的な古文献の中に見つけられるものなどにも、瞑想法を用いることができる。 だから、預言者や宗教家が、光について語り、光によって叡智を表わすとき、単なる思いつきや、才気煥発であろうとして、その表現を用いた、というように考えてはならない。神秘学者は、才知に富むことは度外視し、ただ事実に立脚し、真実であろう、としているだけにすぎない。 神秘学者は、無秩序な思考をする習慣を捨て去らねばならない。すなわち、恣意的に結論を引き出したり、判断を下してはならず、一歩一歩、霊的な事実を手掛かりに、正しい思考を発達させていかねばならない。 光についての形象にも極めて深い意味があり、それは1つの霊的な事実である。このことを認識するために、再び人間の本質に目を向けてみる。人間の本質の第3の構成要素はアストラル(体)であり、それは喜びと悲しみ、歓喜と苦悩、衝動や熱望と激情といった人間の内的で魂的な体験の担い手である。 植物にはアストラル(体)がなく、従って人間や動物のような喜びや悲しみは感じない。今日、自然科学者が植物の感情について語るなら、感情の本質についての完全な誤解に基づいて語っていることになる。アストラル(体)の正しい表象は、時代の経過とともにアストラル(体)の遂げてきた進化を追求するときにのみ獲得できる。 以前、大宇宙(マクロコスモス)での進化との関連から、人間(ミクロコスモス)の進化を考察した。その際、人間の物質体が、人間本性の最古の最も複雑な構成要素であり、エーテル(体)はそれほど古くなく、アストラル(体)はもっと若く、自我にいたっては人間本性のなかで最も若いものであることを述べた。 その理由は、物質体はその進化において既に地球の過去の4つの惑星状態(土星紀、太陽紀、月紀、地球紀)を経てきたからである。私たちの地球が以前、土星状態と呼ばれる受肉状態にあったとき、すでに物質体は原基の状態で存在していた。 (太陽系は、土星紀⇒太陽紀⇒月紀⇒地球紀と進化してきたそうである。) その当時、遥か昔だが、地球はまだ固体ではなく、人間もまだ今日の形態をとっていなかった。ただ、その土星上には物質体の原基はあったが、エーテル(体)、アストラル(体)といった他の構成要素はまだなかった。 (体温だけの温度分布のような体だったという。) 地球の第2の受肉状態の太陽上ではじめて人間にエーテル(体)が付与された。当時、人間のエーテル(体)はきわめて明白に五芒星の形態をもっていた。後に、第3の受肉状態の月上でアストラル(体)が付加されることで、幾らか修正され、更に月から地球へと変わり、以上の3つの構成要素に加えて、自我が登場した。 (構成要素は、人間より上位の存在が上へと進化するにつれ、必要なくなって、人間に与えられる。土星紀の物質体は座天使により与えられ、太陽紀のエーテルは主天使により与えられ、月紀のアストラルは、力天使により与えられ、現在の地球紀の自我は、エロヒムと呼ばれる能天使に与えられ、キリストもこの能天使に所属するらしい。長男の服が次男に使われるのと同じ。) さて、これらの構成要素は、人間に受肉する前は一体どこにあったのか、例えば、太陽上で物質体の中に組み込まれたエーテル(体)は、その前の土星上ではどこにあったのか? エーテル(体)が何処かからかきたことには違いないから、これは当然の疑問である。実はエーテル(体)は、今日の地球の周囲に大気があるように、当時は土星の周囲にあった。後になって人間に組み込まれる前には、既に(原始)土星の周囲の気圏内にあった。 同様に、(原始)月上で、人間にはじめて組み入れられるアストラル(体)は、その前の太陽紀において、周囲にあった。なので、原始の太陽を次のようにイメージできる。原始太陽は今日の地球のような鉱物、植物、動物から成立していたのではなく、2つの自然領域からなっていた。 原始太陽上に(霊視で)見つけられる存在は、例えば、人間はどうにか人間のような植物といった感じで、この植物のような人間と共に、鉱物の一種も存在した。しかし、この原始太陽を、現在の太陽と混同してはいけない。 原始太陽は、流動する厚いアストラルの外被に取り巻かれていた。原始太陽はいわば、アストラルの大気の覆いに囲まれ、このアストラルの外被は光輝いていた。原始太陽上の舞台は、こんな具合だった。 今度は再び、物質体、エーテル(体)、アストラル(体)と自我をもつ今日の人間を考えてみる。さて、この自我がアストラル(体)に働きかけ、より一層、知的に、道徳的に、霊的な関連から浄化すると、このアストラル(体)から霊我ないしマナスが生じる。 遥かな未来、今日においてはいまだほとんど手づかずのアストラル(体)の浄化が完了されたときには、このアストラル(体)が「物質的に」輝きを発する。植物が既に自らの内に新しい生命の萌芽を宿しているように、アストラル(体)も既に光の萌芽を宿している。 いつか人間が自らのアストラル(体)をもっともっと純化し、浄化しきった暁には、この萌芽が宇宙空間へと光を発することになる。そのとき、この地球は、別の惑星へと変容する。今日の地球は暗い。外部から観察したら、地球はただ太陽の光を反射して明るく見えるだけにすぎないことがわかる。 しかし、いつか地球自体が光輝くようになる。そのときには、自らのアストラル(体)を変化させた人間により光輝くだろう。全ての人のアストラル(体)が光となって、総体的に、宇宙空間へと光を放つことになるだろう。 原始太陽もそのような状態だった。原始太陽の住人は、現在の人間たちよりも高次の存在たちで、これらの存在は光輝くアストラル(体)を持っていた。聖書において、非常に正確に、「光の霊」、あるいは「エロヒム」と呼ばれた存在たちは、そのアストラルの本性を宇宙空間に放射していた。 さて、人間が自らのアストラル(体)に組み入れるものは何なのか? と問うなら、その答えは、「善、聡明さ」と呼ばれるもので、それを通して人間は自らのアストラル(体)を高貴にする、ことができる。 いまだ食人種の段階にあり、あらゆる激情に盲目的に従う野蛮な人間などを観察し、そのような人間と、高度に進化した人間とは、何により区別できるか? と問うなら、次のような回答を得るだろう。 高度に進化した人は自らのアストラル(体)に、「善、聡明さ」などを通じて働きかけてきたが、野蛮で未開な人はいまだそうすることができていない、という点で区別できる。 自らの激情や衝動などには従ってはいけないが、善、聡明さなどには従って良い、というように、自らに言い聞かせるほどに把握できる人は、道徳的な概念や理念を形成する。つまり、これがアストラル(体)を変化させ、高貴にすることになる。 人間は受肉(輪廻転生)を重ねながら、アストラル(体)に働きかけることにより、益々一層、光輝く存在へと自らを高めていく。これは《叡智の働きかけ》と呼ばれる。アストラル(体)の中に叡智が増すほどアストラル(体)は光輝を増す。 原始の太陽上に住んだ存在のエロヒムたちは完全な叡智に貫かれていた。人間の肉体と魂の関係は、丁度この光と叡智の関係と同じなのである。光と叡智の関係は仮想の、想像上のイメージではないことが分かるだろう。 光と叡智の関係は、将来の人間の肉体と魂の関係の意味で、1つの事実に基づいており、1つの真実なのである。光は事実上、叡智の肉体なのである。このように、宗教的な古文献が、光を、叡智の顕現として記述する、本当の意味を理解できるようになる。 (光は、神々の肉体なのである。だから、人間は神々の肉体を通じて認識している。だから、嘘をつけば、光を失い、認識できなくなる。)
2013年08月19日
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前回は、Vサインの神秘的意味を紹介したが、この際、復習の意味で、シュタイナーの「神秘学の記号と象徴」の講義を要約したものを抜粋紹介するのがよいと思い、続けて、紹介する。 現代は、あまりに唯物的な価値観が浸透しすぎたために、生命とはどういうものか、という問いに対し、真剣に考えない人が増加しつつあるためである。 金銭や地位があれば、この物質世界では、確かに比較的に楽に暮らせるかもしれないが、生命には必ず死があり、つまり物質は必ず滅びる宿命にあることを忘れてしまっているからである。 金持ちが天国に行くのは、らくだが針の穴を通るよりも困難だ。 とキリストは述べたが、その言葉を忘れてしまっている輩がいかに多いか、殺伐とさせる現状である。人類は反省しないといけない。 これから紹介する話は、いうなれば、量子力学のプランク長以下の世界の話であり、地球外のマクロ宇宙の話であることで、日常生活ではないことに注意して欲しい。 ☆ ☆ ☆ ここシュトゥットガルトで、これから行なう講義は、幾分、秘教的な性格を持つことになると思う。何といっても大部分の方々は神智学協会に属し、既に長年に亘って神智学の基本理念に親しみ、従ってこの分野の秘教的な題材に精通したいとの希望をもっているからである。 講義で扱うのは、アストラル界及び霊界に関する秘教(オカルト)の形象と記号で、一連の秘教の象徴と形象の深い意味を述べるつもりである。その際、はじめの講義では、幾らか奇妙に聞こえることがあっても、先に進めば、完全な理解が獲得できることに注意してほしい。 秘教に関する性質上、そのような経緯を辿ることになる。神智学の講義は、唯物主義的な方法により、単純な要素の上に組み立てられる他の講義とは違い、最初はどうしても不明瞭な点があり、それが次第に明確に理解できるようになっていくはずである。 アストラル界及び霊界と関連する秘教(オカルト)の形象と記号 形象や記号は、通常の物質界のみならず、神智学的な世界においても、ただ1つの《意味》を表わし、多少とも恣意的なものである印象を与えるが、そのように捉えるなら間違いである。そのような形象や記号について既に聞いたことがあるだろう。 例えば、宇宙の様々な惑星を記号で示すことなどである(下図)。 また、神智学のアレゴリーにおいてよく知られた記号は、いわゆる五芒星(ペンタグラム)である。更に、ご存知のように、様々な宗教において、光というものは、「叡智」や、「霊的な明澄さ」の意味で言及されている。 さて、このような事柄の意味を問えば、色々なことがいわれているのを聞いたり読んだりするだろう。例えば三角形は高次の三位性を表わす云々などである。神智学の著作や講演でも、度々神話や伝説が解釈され、「これは○○のことを意味する」と言われる。 この連続講義の課題は、感覚の背後の本質、真の意味に至り、このような形象の背後の真実を認識することである。これがどういうことか、1つ喩えを挙げて説明してみる。 形象や記号は、神秘学では、感覚において、1つの意味を表わすものではなく、人間が通常意識する感覚の背後の真実を意識するための鍵となるもので、五芒星(ペンタグラム)や、光、三角形等が代表である。 では、五芒星(ペンタグラム)を考察してみる。ご存知のように五芒星については色々詮索され解釈されているが、神秘学においては明らかである。神秘学者が五芒星について語るのを理解するためには、まず人間の本質の7つの基本要素を思い起こす必要がある。 ご存知のように、人間の本質は、7つの基本要素―物質体、エーテル(体)、アストラル(体)、自我、更に霊我、生命霊、霊人(神智学文献では後3者は「マナス」、「ブッディ」、「アートマ」とも呼ばれる。)―から成る。 (「体」とすると、物質のように境界が明確だと思われるので、通常は、「体」を用いない。) いま手で触ることのできる物質的な物質体は除外する。ここでとりわけ考察の対象になるのは、エーテル(体)である。エーテル(体)は既に物質的な感覚では隠され、いわゆる「オカルト(秘教)」に属する。通常の視覚ではエーテル(体)を見ることはできないからである。 エーテル(体)を知覚するには霊視的な方法が必要で、実際にエーテル(体)を見ることができたら、物質体とは全然違うことがわかる。エーテル(体)は大抵の人が想像するような物質が希薄になった、一種の微細な霧の塊というようなものではない。 エーテル(体)の特徴は、人体に浸透する様々な流れから構成される。エーテル体は実に物質体の建築家、形成者なのである。氷が水から形成されるように、物質体はエーテル(体)から形成される。このエーテル(体)はあらゆる面に向かって、海のように流れに貫かれている。それらのうち、主な流れが5つある。両手両足を開いて立ってみれば、人間の身体は次の絵のように表わされる。 星型に、反時計回りに巡る図(この流れのように物質化している。TVでいえば走査線の運動。) この5つの流れを人間は1人1人自らの内に隠し持っている。これらの流れが矢印に示された(図参照)方向にエーテル(体)を貫き、いわば人間のエーテル(体)の骨格を形成している。これら5つの流れは、絶え間なく、エーテル(体)を通過し、当人が動いているときも変わらない。 どんな姿勢をとっていようと、常に1つの流れが、額の中心、眉間の一点から発して、右足へ下り、そこから左手へ、更に右手へと、それから左足、そして、そこから再び額へ戻る。 (眉間⇒右足⇒左手⇒右手⇒左足⇒眉間で、五行説と同じ。) 五芒星と呼ばれる流れが、エーテル(体)の中で、人間の物質体のように内的に活動している。だから神秘学者(オカルティスト)が、五芒星を、人間の図形として語る場合、仮想の事柄を言っているのではなく、解剖学者が骨格について語るのと同じなのである。この図形は、現にエーテル(体)の中に存在する1つの事実なのである。 このようなほんの僅かな知識から、ある記号の実際の意味がわかる。神秘学で出会う記号や形象は全て、このような真実に導いてくれるものである。五芒星は、エーテル(体)の活動の《骨格》であり、それ故、人間の図形(設計図)なのである。これがこの記号の真の意味である。
2013年08月19日
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さて、光を探究するなら、(天動説において)太陽の上位にある天体、つまり、火星、木星、土星に由来する力に注目しないといけない。そして、地球上で起こる事象全般は、ある意味、地球外の天体の力によるので、宇宙で起こっている事象の影響を、地上のなかに発見しなければならない。 このような天体の働きは、今日(1920年)の原子物理学、もしくは分子-原子化学が行なっているような地上の物質の構造上の配置や凝集状態などに根拠を求めるような、抽象的、空想的な手法では発見できない。 近代の原子化学では、物質の構成内部を覗き込み、いわば不可視の働きに対して、原子や分子などについて、ありとあらゆる都合のよい予測を考え出し、更には、今日(1920年)では減ったが、数十年前では、非常に誇らしげに語られていたが、物質の構造内部で生起する働きを、天体の軌道のように考える、いわゆる「天文学的認識」について語られていた。 数十年前では、次のような知見が語られていた。以前、公開講演(1)で述べたように、今日(1920年)では、原子の写真を撮影する。心霊主義的なグループも、写真を撮影するが、その場合は、霊の写真である。 (1)1920年3月24日の「人智学と現代の諸科学」という講演。 今日、自然科学者は、霊の写真を信用しない傾向があるので、原子も、霊も、同じ存在であることを見通している人たちが、原子の写真も、霊の写真と同等に信用できないことを認識させなければならない。なぜなら、結局、原子の写真も、霊の写真と同じ影響下にあるからである。 (現代でいえば、量子力学の観測問題のことになる。観測者がイメージした形で現れる。事象をどのように認識するかは、当人の知識力に負う。例えば、外国語などの見たことがない文字は、見知った母国語を通じて認識するから、外国語と母国語に共通したものを認識することになる。だから外国語を勉強することは、外国語のなかにある母国語を勉強することにもなる。) 植物のなかに発見できる過程は、原子や分子内の結合力によるのではなく、地球の外から作用し、地上の物質に影響を与えている力によるものである。従って、地上の物質の構造を想定するなら、このなかで作用する原子や分子といった小さなデーモンたちの力を想定するのではなく、外から作用する宇宙の力を想定する必要がある。 つまり、地球の外で、ある天体の配置が成立する場合、例えば、土星が地球のある1点に特別優位に作用するような太陽系の配置が成立する場合を考える。 土星が優位に作用する配置とは、土星の影響の領域から、他の天体の影響の領域が遠く離れ、例えば、下図のように、中心に位置する地球に、土星が作用する場合で、すなわち、太陽や火星他の力が、土星の軌道内や、土星の軌道近くに無く、遠く離れ、土星だけが優位に影響する場合である。 このような土星優位の配置が成立すれば、中心にある地球の特定の場所は、土星以外の他の天体が遠く離れている原因により、地球のある場所が土星に占有されるため、その場所では、土星以外の天体の力は微々たる影響となり、土星の力が特定の場所に優位な配置が成立し、土星に占有された地上の物質のなかに、土星特有の関係が生じる。 同様に、例えば、火星優位の配置による影響は、土星とは全く異なる構造をもち、火星優位の特定の場所に引き起こされる。(下図参照) 地上の物質のなかに発見できる特質は、まさしく天体の共同作用の産物に他ならない。 (土星の影響が強いと、鉛ができる。木星は錫、火星は鉄、太陽は金、月は銀、金星は銅、水星は水銀と錬金術でいわれてきた。) 従って、以上のように土星の影響を分析してみた場合、つまり、土星が地球のある特定の場所に優位に、かつ長期間にわたって作用する場合、その場所に、鉛を発見することで、土星の影響が、鉛という産物のなかで明らかになる。 以上が、地上の物質、特に金属が、地球外の宇宙の配置と関係づけられる理由である。 今日の研究や人智学が提供できる知識を、再発見でしか本質的に理解できない太古の叡智との対比に導くことが、唯一可能なことである。というのも、古代の文書は、今日の化学や物理学を基に思考する現代人にとっては、実際、根本的に読解不可能だからである。 以下の例は、そのことを端的に教えてくれる。北欧のある非常に聡明な学者が、錬金術の歴史を書き記したが(2)、彼によれば、錬金術は、「今日(1912年)の化学的概念からすれば全く意味不明な過程を挙げ、その過程からは、何も発見できない。」と記している。 (2)Theodor Svedberg、スウェーデンの化学者。おそらく、「物質[Die Materie]」(1912)という著書。1914年にドイツ語に翻訳出版された。 彼の主張はもっともである。錬金術が挙げた過程とは、上述の土星による鉛の過程である。しかし、この善良な人物は、鉛の過程が、植物における種子の過程を説明したもの、であることを知らなかった。 彼は、鉛の過程を、現代の実験室内での鉛の精製過程の説明だと誤って考えた。そのように考えるなら、当然の如く、意味不明な過程となる。 古代の用語は、現代とは全く異なる別の世界に適用すべき言語で、表現によっては、全く異なる意味を考えなければいけないことを、この人物は知らなかったため、彼にとって、錬金術の鉛の過程は意味不明なものとなった。彼は現代の意味では正しいが、同時に、古代の意味では間違っていた。 錬金術が記述するように、地上の物質を、地球の周囲から地球に働きかける様々な天体の力に関係づけることができる。特に、金属の研究、つまり錬金術を、これから講義のなかでも示唆していくが、人智学的な方法で行なうなら、金属の研究から、まさに特定の関係が明らかになる。 つまり、例えば、鉛は、他の天体に妨げられない主に土星の影響と関係づける必要があり、錫は、主に木星の影響、鉄は、主に火星の影響、銅は、主に金星の影響、今日の化学でも、水銀[Quecksilber]と呼ばれる金属は、主に水星の影響と関係づける必要がある。 水銀は、主に水星の力から生成されるので、古代の人々は、水星[der Merkur]と、水銀[das Merkur]を同じ名で呼んだ。 (水星は、神秘学的用語では、均衡、両性具有を意味する。)
2013年08月19日
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Vサインが少し調べてみて、あるサイトに興味深いことが載っていたので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 五芒星…星条旗の星。米国防総省。アメリカを表わす。数字の5は「V」。Vはローマでは5を表し、アダム・ワイスハウプトはイルミナティの中では「5の法則」に使った。カバラの中では「ヘブライ語のV(Van)の意味は爪」。「爪め」はサタニスムのブラザーフッドの中においてのサタンの秘密の肩書きの1つ ☆ ☆ ☆ シュタイナーは5を悪の数と述べている。例えば、病気になって5日目、5週目、5ヶ月目、5年目が、回復に向かうか、死に向かうのかの目安の時期になるという。その話を以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 5は悪の数で、人間を考えれば、このことがはっきりする。人間は4元性へと、創造的な存在へと進化してきたが、地球上で5番目の器官の霊我の兆しが現われる。 (土星紀で1元、太陽紀で2元、月紀で3元、地球紀で4元) 人間が4の数にとどまっていたら、常に上から、神々によって善導されていただろう。すなわち、決して独立した存在へと進化することはなかっただろう。人間は地球上で5番目の器官の霊我への萌芽を手に入れたことにより、神々から離れ、自由になった。 これによって人間は悪をなす可能性も得たが、同時に独立性も手に入れた。5の数とともに現われなければ、悪をなすことはできない。だから、悪と遭遇する場では常に-実際、悪として有害な影響を及ぼすが-五元性が関わり合う。 この事実は、外界でも同じで、人間はただその事実を無視しているにすぎない。しかも、今日の唯物主義的な世界観は、宇宙をこのようにみること、つまり、この事実について、全く理解できていない。1つの例を挙げれば、5の数に出くわす場では常に、何らかの意味で、悪に言及する可能性が生じることがわかる。 医師がこの事実を理解して、この事実に従って、病気の経過を観察してみれば、大変実りの多い結果を得るだろう。つまり、病気が、発病から5日目までにどのように進展するか、1日のなかでは、深夜0時から5時までに、更には第5週目には、どうなったかを調べるとよい。 というのも、最も効果的に、医師が介入できる時期は、常に5という数字が支配するからである。それ以前の時期では、自然の経過に委ねる以外あまり多くのことは期待できない。しかし、5の数の法則に気づくなら、救済の処置もできる。5の数の原理は外界にも浸透しているからである。 この原理が害を与えるので、悪の原理と呼ばれるのももっともである。このように多くの領域で5という数が、外界の出来事にとって大きな意味を持つことがわかる。 例えば、人生には大まかに7つの成長段階がある。第1の段階は生まれる前、第2の段階は歯の生え替わる頃まで、第3は性的成熟まで、第4はおよそ、その7~8年後まで、第5はおよそ30歳頃と続いていく。これらの段階に何が問題となるのか、例えば第5の段階に、何に近づき、何を遠ざけるべきか、がわかるようになれば、加齢とともに適度な成長を準備できるようになり、様々なことがわかってくる。 第5の段階いかんで、残りの人生に対して善いこと、あるいは悪いことの影響が及ぶ。比較的、初期の段階、数の法則に従って、教育を通じて多くのことを行うことができるが、人生の第5の段階に、後の人生全体にとって決定的な転換点がやってくる。 この人生の第5段階の転換点は、少なくとも完全なる確信をもって社会の荒波へと送り出される前に通過すべきである。今日の主流をなす、あまりにも早く社会の荒波へと送り出してしまう習慣は、大変、害がある。 このような古代の神秘学的な原則に注意を向けることは、大きな意味をもつ。なので、古代では、人生の数の法則について知っていた人々の命により、「親方」と認められる前に、いわゆる修業時代と遍歴時代を卒業しなければならなかった。 (修業時代が博士課程前期、いわゆる修士課程、遍歴時代が博士課程後期、いわゆる博士課程の源流になったようである。) ☆ ☆ ☆ というように、5は悪の数といわれ、非常に重要であることがわかる。このような神秘思想について、面白いサイトをみつけたので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-1734.html 神秘思想へようこそ。『日本人はなぜ狐を信仰するのか』 松村 潔 日本人はなぜ狐を信仰するのか (講談社現代新書) 松村 潔 講談社 2006-02-17 by G-Tools 著者はタロットやスーフィー、カバラなどを専門にする西欧神秘研究家であり、この本は日本的なもので狐信仰を説明したものではない。 日本的なもので稲荷信仰、狐信仰を説明すれば古代天皇や豪族がおおく出てきて、エリアーデや井本英一のように自然信仰の本質的なことが語られなくなるという欠点はあると思う。この本では狐を切り口にした西欧神秘思想の物理観が多く語られた印象があって、狐はなんだったんだとあとで?となった。 わたし(このブログの著者)は死と再生に興味があるのだが、これは性的なもので説明できると思っていたが、物理的なものを語っていると指摘されていて自分の浅学を恥じた。 この世界は「力」と「形」の要素でできており、平田篤胤式にいうと「幽」と「顕」である。「力」というのは形が定まらず、振動密度が高い状態を指し、「形」というものは静止したもので、動きがない。 振動密度が高いものは神、天使、人…植物、鉱物と順番になっていて、高位のものは振動密度が高く、物質密度が低いので人の目で見ることができない。 イザナミとイザナギは「ナミ(波)」であり、「ナギ(凪)」であり、振動的なものと静止したものの関係である。黄泉の国というのは振動的な領域(幽の世界)のことである。「形なき力のみの世界」である。サルタヒコの醜さ、ヒルコの立てない赤子は、形が崩れ、力へと変容しつつある姿をあらわしているのではないか。 古代人は大地のへこんだところ、穴のあるところに大地の性器や子宮をみていたと思っていたが、神秘思想解釈ではそれは圧縮化、物質化する力であり、形化へと向かう力である。サルタヒコの赤い鼻は男根の象徴だけではなく、形から力へと開放されたがっている、力化へと向かう力ではないのか。 (ペンタグラムでいうところの右回り) この物理観というのはチャネリングによって語られた世界観と似ている。「仏教、ニューエイジ思想の認識論、世界観」 チャネリングによってラムサという存在に語られた物理観 「物質とは、思考を最も大きく変容させることによってつくり出される思考の低レベルのものなのだ」 「すべての物質は光によって囲まれている。皆の世界にいる科学者たちも、光の周波数を下げる、あるいは減速してやると、どうも固体物質になるらしいとの感触を持ち始めている。では、この光はいったいどこからやってきたのか? 思考である。つまり神だ。ある想念を持ち、感情の中にこれを抱くとき、その想念は光の波長を持つ波動へと拡大していく」 ラムサ―真・聖なる預言 ラムサ 川瀬 勝 角川春樹事務所 1996-06 by G-Tools つぎもチャネリングのセスという存在に語られた物理観 「環境はあなたが形づくるものであり、まさに文字通りあなたの延長であると言えます。つまり、あなたの意識から外に向けて拡張した、物質化した思考なのです」 「あなたがたは言葉を創造するのと同じほど確実に、物体を創造しているのです」 「すべての物質的な「現われ」を有しているものには、あなたがたには知覚できない別の形態も存在します。あなたがたには、それらが特定の「振動周波数」に達し、凝集結合のすえ物質化したと思われる、その瞬間の現実だけを知覚するのです」 セスは語る―魂が永遠であるということ ジェーン・ロバーツ ロバート・F・バッツ 紫上 はとる ナチュラルスピリット 1999-06 by G-Tools このチャネリングの物理観の正否は、わたしには判断できないとさじを投げているのだが、量子力学のミクロの世界では物質と非物質のあいだはあいまいで、混沌としている。 グルジェフ=ウスペンスキーもこのような物理観・宇宙論を展開しているのだが、わたしの頭ではよく噛み砕けなかった。 奇蹟を求めて―グルジェフの神秘宇宙論 (mind books) P.D.ウスペンスキー 浅井 雅志 平河出版社 1981-02 by G-Tools 日本神話はこのような物理観で新しい解釈も可能になるのではないか、ということだ。ところで狐はなにかとなるのだが、この本は狐を導き手とした神秘思想の案内かもしれないな、と思うのである。 狐というのはむこうの世界とこちらの世界の境界の位置する生き物であって、神や穀霊をひきつれてくる導き手であったり、向こうの世界と交信する媒介であったということになるだろうか。この本も狐が神秘思想の導き手である。 チャネリングやニューエイジというのはあまりにもアヤしいので、現実とのかね合いでこの世界のことはすこし封印気味だったのだが、思わずこの世界に出会ってしまった。自然信仰、古代信仰について語る自体、すでにアヤしいことで、わたしはべつにそれを信仰しているわけではなくて、古代の世界観の妙にふれて感心しているだけなのだが、もっとアヤしい世界にふみいれそうだ。 この世界のなりたち、起源を説明するには物理世界のありようを説明しなければならないわけで、信仰や神話にはそれが語られていたということだ。 ☆ ☆ ☆ これらの思想に共通しているのは、生命の樹とペンタグラムである。量子力学では、プランク長以下では、観測問題が効いてくることがわかっているが、それは思考の世界、つまり、イザナミの世界で、振動密度が高い世界のことを意味する。 以前、ミクロの世界は、マクロの世界に通じる「尻尾をくわえた蛇」の図を紹介したが、プランク長以下の世界は、宇宙の世界に通じることを意味する。そのことを古代人は、生命の樹や曼荼羅の図などで、説明したものと思われる。
2013年08月16日
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前回からの続き ☆ ☆ ☆ 世界中で熟読玩味される『シオン長老の議定書』 彼らの論法は以下の通りである。 「『シオン長老の議定書』は反ユダヤ勢力による反ユダヤ宣伝のために捏造された偽書である」との結論がまず先にあり、次のその結論を証明するために、ジョリの著作と議定書が似ているという唯一のネタをもとに、論点をずらし、話を小さくし、それからやりたい放題の嘘八百を並べていく。最後に、スイスの裁判所が一審で「議定書偽書説」を勝訴させたと大宣伝して終わりにする。 しかし、スイスの裁判所が二審では「議定書偽書説」を告訴したユダヤ人側被告に「敗訴」の判決を下していることは隠蔽する。 (この手口も、双頭戦略で、ヘーゲルの正反合の弁証法を利用している。日本の官僚の手口も同じで、あらかじめシナリオができている。) 条件の許す国では、イルミナティ世界権力は『シオン長老の議定書』を発行禁止処分とし、さらにその出版、所持のみで刑法上の囚人として投獄する。1917年のロシア革命政権は、「議定書」の所持のみで死刑としている。つまり、議論や思想的論争の次元ではなくて、むき出しの悪魔的ルシファー的暴力によって批判を抹殺するぞという。 しかし、ユダヤ・イルミナティのでっちあげたソ連共産帝国が6千万人を大虐殺したあげくに自己崩壊すると、そのあとにロシアの軍内部の愛国派民族が胎動し、今では『シオン長老の議定書』は公然とロシア社会に流布され、熱心に読まれている。 それのみでなく、米国の最も有名な反ユダヤの思想家デーヴィッド・デュークはロシアで大人気だ。その著作『ユダヤ至上主義』のロシア語版は大ベストセラーになっている。 そのためロシア内のシオニスト・ユダヤ勢力が、ロシアの司法当局に対してこのデュークの著作ロシア語版を「反セム(反ユダヤ)主義」として発行禁止処分にするよう告訴したところ、ロシア検察庁は、「問題の書はユダヤ至上主義についての事実を論述しているものであって、なんら反セム主義文書ではない」として、ロシア・ユダヤ陣営の請求を却下したという。 全世界13億人のイスラムの30以上の国々では、もちろん『シオン長老の議定書』は合法的に頒布されているのみならず、むしろそこに描かれている通りの存在がユダヤであり、イスラエルであるとの見方が常識であろう。 今後、この『シオン長老の議定書』に書かれている叙述が日本民族有志の常識となるほどに消化される日の来ることを切に期待する。 ●ミニ解説● 四王天延孝陸軍中将による『シオン長老の議定書』の原訳を太田龍氏が今日的用語に手直しされた本の解説部分です。議定書の内容を読みますと、世界を金の力によって実質支配していると思われる勢力が、既に100年以上も前から綿密な世界人間牧場計画をもっていて、その内容を中枢となるメンバーの間で共有化していたことがわかります。そして、今日の世界がまさにこの議定書の内容通りに進行していることに戦慄を覚えます。 書籍はまだアマゾン等でも購入できますので、関心のある方はぜひ議定書全文に目を通していただきたいと思います。なお当サイトでは、議定書の一部を抜粋して「なわのつぶや記」で3~4回に分けてご紹介していく予定です。 (なわ・ふみひと) ☆ ☆ ☆ 偽ユダヤの双頭戦略は、前回紹介したVサインをイメージさせるが、この戦略が、いまでも日本に使われている話を以下にあるブログから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ nk2nk2の日記 http://d.hatena.ne.jp/nk2nk2/20120912 90年代初頭以降、20年間も日本の国際競争力が低迷したままなのは、なぜか 筆者が技術経営(MOT)の観点から個人的に関心をもってきたのは、90年代初頭に日本が世界一の国際競争力を達成したのに、その後、急転落し、2012年初頭まで20年間低迷し続けている点です。 この20年間、日本国民は一生懸命働いてきたのに、なぜそれが報われないのか。 これは筆者の長年の疑問ですが、日本の国際競争力をせっせと弱体化している勢力が国内に存在するのではないかという仮説をずっと持ち続けています。本ブログのテーマ・悪徳ペンタゴン日本人こそ、日本を劣化させている元凶ではないかと今では確信を持っています。 この悪徳ペンタゴンを構成するのは米国人ジャパンハンドラーを筆頭に、日本の政官財およびマスコミに跋扈する日本人(愛国心のかけらもない日本国籍人)です。 日本人でありながら、日本を不幸にすることに一生懸命努力する、その神経が信じられません。 日本の転落の原点は1985年のプラザ合意にある 筆者は90年代以降、今日まで続く日本の低迷の原点は1985年のプラザ合意にあると信じます。これは世界的寡頭勢力(欧州寡頭勢力および米国戦争屋を筆頭とする米国覇権主義者)による強制的な日本抑圧政策でした。 簡単に言うと、日本の輸出競争力を弱体化させるため、強制的な円高誘導が行われたのです。その結果、85年に260円/ドルの為替相場が87年末に120円/ドルまで円高にさせられたのです。 当時、筆者はIHIの造船・プラントエンジニアでしたが、この強制円高が日本の造船業界を直撃、86年秋、筆者はIHIを自願退職する羽目になりました。まさに世界的寡頭勢力に筆者の人生は狂わされたのです。 (イングランドに侵略されたアイルランドと同じ) 財務省・日銀官僚による日本の弱体化 周知のように、80年代後半より円高とともに日本でバブルが発生、不動産が高騰しましたが、90年代初頭、一転、バブルが崩壊し、日本は構造不況に突入しました。それ以降、2012年の今日に至るまで、日本の国際競争力は弱体化の一途であり、2010年には遂に、GDPにて中国に追い抜かれてしまいました。 80年代後半から90年代初頭にかけての大蔵省・日銀は米国政府の教唆によって、計画的にバブルを創出して、計画的にバブルを破裂させています。米国政府の言うままに政策金利を下げたり上げたりすれば、バブルが起き、バブルが弾けるとわかってやっています。 この当時の大蔵省・日銀は米国専門家の言いなりになったために、結果的に日本政府は経済的自殺行為を行なったに等しいと米国の反骨経済学者・マイケル・ハドソンが述べたのは有名な話です。 当時の大蔵省・日銀官僚は自分たちの政策金利操作にて日本経済が弱体化することを放置し、米国政府の恫喝に従うことを何より優先していたのです。 許せないことに彼らはそれを知ってやっていたのです、バカではないですから・・・。 この頃から、米国覇権主義者のジャパンハンドラーはまず、日銀総裁人事に対する介入を行なって、米国FRB(中央銀行)の言いなりになる人間が昇進する道を開いたのです。要するに、米国から評価の高い官僚が出世するような官僚人事環境をまず日銀につくり、その後、他の官庁に拡げていったと思われます。 日本政府のトップ官僚人事が乗っ取られた 90年代初頭における米国ジャパンハンドラーの対日攻略が大成功して、日本は長期の構造不況に陥ります。これに味をしめた米国ジャパンハンドラーは図に乗って、日本政府のトップ官僚人事に口をはさむようになったと思われますが、その手段として日本政府のエリート官僚が米国に国費留学した際、彼らを巧みに手なずけ、その人物が昇進するよう日本政府に推薦するインフォーマルな仕組みが出来上がったと思われます。これぞまさにジョセフ・ナイ(ハーバード大学教授、米国戦争屋ボスの懐刀、米国ジャパンハンドラーのひとり)のいうソフトパワー戦略そのものです。 こうして、今の日本政府のトップ官僚は軒並み、米国の言いなりになって、日本の弱体化に邁進し始めたのです。ただ、米留学したエリート官僚全員が親米化した訳ではなく、例外もあります。そのひとりが元通産エリート官僚・小林興起・現民主党衆院議員です。彼は国費留学先のペンシルバニア大・ウォートンスクールMBAを持っていますが、彼は米国ジャパンハンドラーの懐柔に乗らなかったのです。彼はTPP反対デモの先頭に立っていました。 このような例もあって、後に、エリート官僚の国費留学先としてMBAビジネススクールは除外されています(笑)。 許せないのは日本の国益より米国の恫喝を優先する輩 客観的に見て、米国覇権主義者が日本の台頭に脅威を抱いて、日本の国際競争力をあらゆる手段で抑圧しようするのは、彼らが日本の国益より自国の国益を優先するからです。この行動は彼らにとって当然の行動です。許せないのは、彼らの恫喝に屈して、日本の国益を損なう政策を平気で実行する輩、すなわち悪徳ペンタゴン日本人です。 こういう連中が政官財とマスコミにウヨウヨ蠢いている限り、日本が健全な国になれるはずがありません。 サッカーの国際試合を応援する日本人サポーターがよく“ニッポン!ニッポン!”と絶叫しますが、それは日本チームが勝って欲しいからでしょう。 こういう人たちは、日本国内に日本が負けるようオウンゴールを放ち続ける日本国籍人がウヨウヨ蠢いていることに腹が立たないのでしょうか。 ☆ ☆ ☆ 問題は、日本のなかにいるトロイの木馬で、このトロイの木馬を利用してトロイの木馬をつくることにある。つまり、双頭戦略の反双頭戦略を立て、正反合の合に対する反合を立て、合の合で、ホメオパシーの原理を用い、正に戻すことが肝要に思われる。裏の裏は表となる。
2013年08月16日
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コールマンの本を基に、鬼畜米英の英国が中国と米国を裏で支配し、日本を走狗として、世界支配を目論んでいる、という陰謀論を紹介してきた。 その手口が何度となく繰り返され、現在の米国の圧力による日本の状況が、かつての英国(イングランド)のアイルランドへの侵略と弱体化に酷似していることを紹介した。アイルランド人の多くが職と生活を失い、アメリカ大陸へと流れていったそうである。残念だが、日本人には流れていく新天地はない。 この手口は、「ユダヤの双頭戦略」とも呼ばれているが、その危険について、日本人のなかでは、大正10年前後から四王天延孝陸軍中将らが警鐘を乱打しつづけたそうである。 何度もいうが、「ユダヤ」とはニセモノのユダヤ人(ホンモノは聖書のアブラハムを祖とする民)で、ハザール人のことである。白人の源流はコーカサス地方にあるらしく、アッシリアが拡大したときにユダヤ教に改宗したアシュケナージユダヤ(アッシリアによる改宗のユダヤ)のなかに、白人がいたのを拡大解釈したもので、だから白人のユダヤ人はニセモノになる。 「虚空と君のあいだに」のブログの著者によれば、「ユダヤ」とは古代の金貸し業に使われる名称みたいなものだった、という話もある。だから、自称霊能者と同じ位に自称ユダヤ人というのもほとんどがニセモノというわけである。 さて、その「ニセモノユダヤの双頭戦略」というのが遥か昔から、この国をターゲットにしてきたそうで、その警鐘をならしたのが、四王天延孝たちだったというのだが、メーソンの革命が明治維新だったので、その後の大正時代に気づいても、どうも手遅れという感がなきにしもあらずだが、一応、抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ シオン長老の議定書 http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/hitokuchi034.html 不気味に進行中!! イルミナティの世界征服計画 四王天延孝・原訳 太田龍・補訳・解説 成甲書房 2003年刊 解説 ―― 太田龍 『シオン長老の議定書(プロトコール)』は、原文はフランス語とされているが、それを帝政ロシアの諜報機関が入手し、20世紀初頭(1901年)、セルジュス・ニールスによってロシア語に翻訳出版された。ニールスのこのロシア語版は1905年、ロンドンの大英博物館に収蔵されているが、原本のフランス語版は現存していないようである。 1917年のロシア・ユダヤ共産革命事件によって、ニールス訳のこの本は一躍全世界の有志に注目されるところとなり、英語はもちろんのこと、広く各国語に翻訳出版された。日本への最初の紹介は大正8、9年を嚆矢とする。これは久保田栄吉氏のロシア語からの訳本であり、大正末から昭和初年にかけて広く流通し、一部の日本人に熱心に読まれた。 『シオン長老の議定書』全24議定の根本思想は何か。それは、この著作に多用されている「ゴイ」「ゴイム」というヘブライ語の語源であろう(ゴイムはゴイの複数形)。数えてみると、実に合計110回出てくる。 ヘブライ語では「非ユダヤ人」の意味。そしてタルムード的に「家畜人」「人間家畜」「獣」「動物」「野獣」との意味にも使われる。この語はGoy(Goyim)として英語の辞書にも入っている。 (ここでいうユダヤ人とは、自称ユダヤ人のことである。) 日本の敗戦は、すなわち世界ユダヤの勝利、シオニスト・ユダヤによる完璧な日本占領と支配制圧である。米国シオニスト、ユダヤ・イルミナティ世界権力の日本占領軍は、敗戦前から日本民族の対ユダヤ・フリーメーソン心理思想戦争の業績の徹底的な破壊と抹殺を実行した。 この米国シオニスト、ユダヤ・イルミナティ占領軍の手先と化した日本の国家権力と学者・マスコミなども、また大正末から昭和20年の敗戦までのユダヤ・フリーメーソン批判を跡形もないまでに抹殺し続けている。その結果、今や日本は、国家民族まるごと米英イスラエル・シオニストに売り渡されようとしているのである。 敗戦後の日本人の「議定書」観は、すべて第2次世界大戦下にナチス・ドイツの指導者を裁いた「ニュルンベルグ裁判」に由来する。この「裁判」の判事団の主力は米・英・ソ連である。 しかし、裁判の「表舞台」に登場しない本当の主役は、国際ユダヤ陣営である。彼らはナチス・ドイツの反ユダヤ性そのものを「人道に対する犯罪」として告発する。そして、ヒットラーとナチス・ドイツがユダヤ人絶滅政策と「600万人ユダヤ人ホロコースト」を実行するに至る主要なイデオロギー的根拠として、悪名高き偽書『シオン長老の議定書』が決定的な役割を果たしたと称する。 第二次世界大戦後の世界情勢は次の3点を土台として構築された。 (1)ナチス・ドイツとヒットラーの悪魔化。 (2)その悪魔化されたヒットラーとナチス・イデオロギーとしての「反ユダヤ思想」の悪魔化。 (3)その「反ユダヤ思想」のネタ本としての『シオン長老の議定書』の偽書説、そして偽書としての「議定書」の悪魔化。 ニュルンベルグ裁判期、日本はイルミナティ悪魔主義米英占領軍の暴政暴圧下にあり、ドイツで行なわれたこの「裁判」と自称するサタニスト・イルミナティ世界権力のペテン劇の実相は誰も知らされていない。しかし、その結論はその後、有無を言わさず日本人に押しつけられた。 かくして、『シオン長老の議定書』はユダヤ人を迫害するためにでっちあげられた偽書であり、ナチス・ドイツによる600万人のユダヤ人をホロコーストするために利用された悪魔の書、ということになる。このことは疑うことを許されない絶対的真実であるというふうに、敗戦後の日本人に対して刷り込まれた。 しかし、いったい『シオン長老の議定書』とはいかなるものなのか。「議定書偽書説」を言い立てる世界ユダヤ人陣営は、それではこの「偽書」を誰がでっちあげたとするのか。それは帝政ロシアの官憲だと言う。 しかも単なる憶測や推定ではなくて、ロシア人女性の有力な証言があると言う。この“証人”なる人物のいかがわしさと、口からでまかせの嘘八百ぶりについては、四王天延孝著『猶太思想及運動』の中で詳述されている。 1920年、「自動車王」ヘンリー・フォードが、国際ユダヤの陰謀に気づいて、ユダヤに対する綿密な調査に基づく批判を独自の新聞を通じて大々的に展開し始めた。この連載記事は『国際ユダヤ人』(全4巻)として1920年から22年にかけて続々と出版される。そしてこの中で、フォードは『シオン長老の議定書』も取り上げたのである。 これによって「議定書」は一躍全世界の心ある有志の必読の参考文献ナンバーワンになったのである。フォードはその後、世界シオニスト・ユダヤ陣営の猛烈な包囲攻撃に耐えかねて、ユダヤ批判キャンペーンからやむなく撤退する。だが『国際ユダヤ人』は今でも米国内で流通している。 「議定書偽書説」は敗戦後、ユダヤ米英イルミナティ世界権力の手先と化した日本人工作員によって無数にばらまかれているが、もっとも最近のものとしては「別冊歴史読本――世界に広がる『ユダヤ・聖書伝説』」(2004年3月)の「ユダヤ陰謀論を読む」などがある。しかし、この種の陳腐な論説を相手にしても始まらない。 最近では「議定書」への反論もいろいろと工夫されている。その“傑作”の一つが、マイケル・ベイジェント他著『聖なる血と聖杯』(邦訳『レンヌ・ル・シャトーの謎』柏書房刊)である。それは、「議定書」の発行母体はユダヤではなく、メロヴィング王朝の血統を世界の王たらしめることを目的とする秘密結社「シオン修道院」である、とする説である。 そして、そのメロヴィング王朝はなんとイエス・キリストの血統である、との説を展開している。こちらの方は実にスマートに、くるりと話を逆転させてしまう。ある種の手品、魔法である。 「彼ら」の目的は、首尾よくゴイムを家畜人間として世界人間牧場に駆り立て、誘導していくことであるという。「彼ら」は、その秘密の行動計画(アジェンダ)を公衆の面前で暴露されることを好まない。それは「彼ら」の立場からすれば当然であろう。しかし、「彼ら」によって世界人間牧場にゾンビ人間として収容監禁されてしまうかもしれない我々非エリート一般大衆としては、座視しているべきではないだろう。 対ユダヤ思想戦の系譜 敗戦後の日本は、戦勝国である米国およびソ連共産主義勢力の占領下に置かれた。そして、この戦勝国による日本占領は、講和条約締結によって終結するどころか、その後も現在に至るまでずっと継続しているのみならず、その占領政策はますます苛酷の度を強め、日本滅亡、日本亡国へと陥れつつある。 この事実は、現在一部の日本人有志にはある程度理解されているだろう。しかし、この程度の理解水準ではイロハのイにも達していない。 資本主義(自由主義、民主主義)と共産主義の対立、闘争という。しかし、この闘争は、実は国際ユダヤが彼らの世界征服綱領を実現するために、国別に演出した八百長芝居に過ぎない。 資本主義も共産主義も、ユダヤがゴイム(非ユダヤ人、人間家畜)をペテンにかけて、世界人間牧場に誘導するための両建て双頭作戦なのだ。そこのところが理解できないと、ナイーブな日本人は昔も今も、そしてこれからもずっと「複雑怪奇」な世界情勢に翻弄され続けるであろう。 日本民族の一部の先覚者が、ユダヤの正体、そしてユダヤの双頭作戦の事実に初めて気づいたのは、第一次世界大戦時、そしてその最中に突如として発生したかに見える1917年のロシア革命を通じてである。この先覚者の一団のその最先頭に、四王天延孝陸軍中将がいた。 四王天中将に続く人物は、ロシア語専門家としてロシアに長期滞在した久保田栄吉や、陸軍関係の将校でロシア語教授を務めた北上梅吉(筆名)などであろう。とりわけ久保田栄吉は、ロシア共産革命の惨状をつぶさに見て、『シオン長老の議定書』を含む相当数のロシア語関係文献を日本民族有志に紹介した。その功績は大きい。 こうした人々の努力によって、ソ連共産革命なるものが、労働者階級の革命とは真っ赤な嘘で、実はニューヨーク・ウォール街ユダヤ国際金融資本の資金援助を受けたユダヤ人共産主義革命による、ロシア人民皆殺し、ロシア民族根絶やしの大殺戮計画であることが徹底的に暴露された。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月16日
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前回は、影の政府の一員と目される連中が、Vサインやコルナを合図に用いることを紹介し、このサインが、下向きの進化、つまり退行を意味することを述べた。つまり、この退行に従うと、人類は、獣、例えばサルになってしまうことを暗示する。 チャーチルは、このVサインを広島と長崎の原爆投下に擬えた、という説もあるそうだ。まさしく悪魔チャーチルである。コ-ルマンは、チャーチルとルーズヴェルトがいなければ、世界大戦は起きなかった、とまで豪語しているほどである。 つまり、この悪魔のVサインの2つの指(角)は、チャーチルとルーズヴェルトそのものを意味しているようにみえる。 考案者とされるアレスター・クロウリーによれば、Vサインの正式な名称は、「アポフィスとタイフォンのサイン」らしい。「アポフィス」は、古代エジプトの悪魔の化身のことで、「タイフォン」は、タイフォーン(台風)の語源にもなり、砂漠の悪神、つまり破壊力を表わすようである。 まさしく、悪魔チャーチルと、悪神ルーズヴェルトを表わしているようである。 このVサインをネット検索していて、興味深い話をみつけたので、以下に抜粋紹介する。この話は、「黄金の夜明け団」という古代魔術の研究組織の教則本からのものらしい。 ☆ ☆ ☆ Z-4と名付けられた「黄金の夜明け」団の予備門位階、及び小達人位階の解説書も群を抜いている。彼は5=6位階がフリーメスンリーの第3位階マスター・メイスンの儀式と関連があるだけでなく、クンダリーニの開放とも密接に関連している、という極めて斬新なアイデアとともにZ-4文書を書き起こしている。彼は肉体に充満する生体エネルギーと儀礼の関連について言及する数少ないアデプトの一人である。 小達人位階での象徴解析では、お馴染みのL、V、Xのサインと黄道12宮の輪を関連させている部分が特に印象的である。後期5=6の文書であるマサースの「占星術的神託の真の技法」を更に昇華させた形で提示される彼の解説によれば、「殺されしオシリス」のサインを形成する達人の右手はAries(牡羊座)の0度、左手はLibra(天秤座)の0度に対応するという。 Lのサインを形成する達人の右手の頂点はCancer(蟹座)の0度に対応し、下げられた左手の指先はCapricorn(山羊座)の0度に対応する。 Vのサインを形成する両腕の頂点は、それぞれVirgo(乙女座)とTaurus(牡牛座)の0度に対応しており、達人はそれぞれ黄道12宮の円環を纏う。 「殺されしオシリスのサイン」は勿論春秋分点を、「嘆くイシスのサイン」は夏至冬至点を、「タイフォンとアポフィスのサイン」はTaurus(牡牛座)からVirgo(乙女座)(春の盛りから夏の終わり)までのホルスがセトに逆襲する期間を表し、最後の「蘇りしオシリス」=Xのサインによって四分点(春分点-夏至-秋分点-夏至)は均衡し、完全なる太陽劇の完成として成就する。この太陽神話と光の召喚こそが「黄金の夜明け」団を貫く「光の魔術」の基本原理である。 ☆ ☆ ☆ イマイチ意味がわからない。以下のウイキの黄道12宮の解説と図を参照するとよいかもしれない。 ☆ ☆ ☆ 黄道十二星座 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%81%93%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%98%9F%E5%BA%A7 ☆ ☆ ☆ 余計混乱してしまうかもしれないが、どうやら瞑想法のようである。瞑想法というともっとわからなくなってしまうかもしれないが、簡単にいえば、循環論と思えばよい。 五芒星を基にした循環論は、五行説が有名だが、それに左回りと右回りの陰陽を加えると、陰陽五行説になる。右回りが右目、左回りが左目と考えられる。オカルトから、左目が物質をみる視覚、右目が非物質の精神をみる霊視と考えられる。 上記に「ホルスがセトに逆襲する期間」とあるが、古代エジプトでは、ホルスは、オシリスとイシスの子で、太陽(陽)と月(陰)を両目にもつとされた。一方のセトは、オシリスの弟だが、オシリスの敵対者で、オシリスを殺してしまう(カインとアベルの話に通じる)。オシリスを殺されたホルスは、セトに復讐し、左目を失うが、セトとの戦いに勝利する。 この左目が、有名なプロビデンスの目で、月(陰)の目にあたり、物質をみる視覚のことを意味するように思われる。 上図(数値は1/2、1/4…で、1/2nの数列になっているが意味は不明)とペンタグラム(五芒星)とをあわせると、左回りの循環論が想定できる。これは、五行の循環論からもわかるが、現代で言えば、エネルギー(火)⇒気体(空気)⇒液体(水)⇒固体(土)の相転移を表わすものと考えられる。 波動力学でいうなら、振動数が安定し、固有化されていく循環を表わすようにみえる。例えば、量子力学では、電子のスピンは1/2という確率状態で換算されるが、光子⇒電子(左向き)と電子⇒光子(右向き)の2つの状態があると考えられる。 シュタイナーは「電子は光が凝縮したもの」ということを述べているが、このペンタグラム(五芒星)の循環論からも単純におおまかなアプローチができる。しかし、以下の図からもわかるが、東洋の五行説には右回りしかない。 日本では昔、右利きを尊ぶ風習があったが、これは五行の右回りからきているではないだろうか? また、右回りの方が力が入りやすいので、ネジなどはしめやすいように右回りになっているそうだ。 話がVサインから逸れてしまったが、Vサインというのは逆転の意味をもつものに思われる。だから、革命的思想や、左翼は、左回りの性質をもち、イルミナティが悪魔なのは左回りを基本としていることからもわかる。 しかし、多くの人は、極右を右翼と勘違いしているが、4次元では、右にいけばいくほど、左から帰ってくるので、極右は、3次元世界の外見は右翼だが、中身は左翼なのだ! ヒトラーも、チャーチルも、ルーズヴェルトも、自らの名誉のために、多くの人命を犠牲にしたことに変わりはない悪魔なのである。
2013年08月15日
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コールマンの書から、恐ろしいことに、世界が、戦争屋によるヤクザの縄張り争いと似たような状況になっていることがわかる。英国王室とバチカンが筆頭で、そこから米国に指令が通達され、英国主導の経済的な陣取り合戦が行なわれ、完全制覇が人類家畜化計画というところなのだろう。 そのことは、コールマンの書に載っている英国の歴史を読めば一目瞭然である。前回にも紹介したが、 「忘れてならないのは、17世紀から19世紀にかけて、そして20世紀の始めの英国の戦争のほとんどが経済的敵対国を払拭するためのものだった、という点である。こうした政策がどのように実行されたかを検証するだけで、一連の戦争のすべてで、不当な力が行使され、弱小国が叩きの召されたことが明らかとなる。」 コールマンの書によれば、この英国(イングランド)の大義名分のない経済侵略は、エドワード3世のときのアイルランドへの侵略からはじまり、その手法が現代でも大規模に繰り返されているようである。アイルランドから全てを略奪し、英国のモノを買うように強制し、酒や麻薬に溺れさせ、アイルランドからモノづくりを奪ったようである。昨今の米国の経済侵略の手口と酷似している。 英国のブラックジョークに、なにかとアイルランド人を嘲笑するものが多いのも、その略奪手段を正当化するものに思われる。英国という国や歴史自体がブラックジョークに思われる。 このエドワード3世をワイキで調べると、面白いことに気づく。 エドワード3世 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%893%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B) 上記のウイキの解説に「1333年にスコットランドを制圧」とあるが、1333年は、1と333で、333は、悪魔の数666の半分でもあり、スコットランドを制圧したことが、悪魔の象徴の年となっている。1は「はじまり」という意味。 また、「アーサー王伝説に登場する『円卓の騎士』にあこがれ、1348年にガーター騎士団を創設した。」とあるが、このガーター騎士団というのが、明治天皇が入るのを拒んだ、といういわくつきのものである。 ネットで色々調べても核心はわからないが、以下の2つの話は、ガーター騎士団が、「The Order of the Garter,KG」と呼ばれていることの参考になるかもしれない。「The Order」とは、度々出てくる秘密結社の総称で、恐らく影の世界政府のなんらかの階級を表すものと思われるからである。 ☆ ☆ ☆ 【キリスト教と皇室】 宮内庁はイギリス聖公会の信者が多いそうで(中略)宮廷の半数をクリスチャンで固めているとも聞きます。(中略)平成天皇が皇太子だったころ、家庭教師にヴァイニング夫人というクエーカー教徒を選んでいますし、お后には雙葉、聖心と一貫してキリスト教系の学絞で学ばれた方を選んでいます。 (中略)侍従にはクリスチャンが多く、常陸宮は無教会派のクリスチャン侍従の影響でクリスチャンになったといいます。(中略)浜尾実侍従の弟・浜尾伺郎は現在バチカン市国の大司教をしており、かつて天皇陛下にラテン語のご進講をしました。 (中略)現在の皇太子の音楽教師もカリスマ派のクリスチャンが務めていました。 (中略)明治天皇の側近には、オランダ系米国宣教師フルベッキ(メーソンでフルベッキ写真で有名)がおり、明治天皇の和歌には信仰がなければ歌えない歌が数々あるといわれています。昭和天皇、平成天皇皇后両陛下は、牧師を招いて聖書講義を受けています。 ☆ ☆ ☆ 連中がキリスト教を使ってカースト制度的な世界支配を目論んでいることは、イエズス会からも明らかである。続いて、以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ そもそも、昭和天皇が、英国のガーター騎士団員であるとはどう言うことか。 この問題は、ジョン・コールマン博士が「300人委員会」(KKベストセラーズ刊)の中で、記述して居る。 筆者は、このことを、何十回となく、色々な機会に述べて居るが、にも拘わらず、今に至るまで日本人にはピンと来て居なかった。 日英同盟締結によって、日本は、日露戦争を辛勝し得た。と言うことは、大ていの史書に書かれて居る。しかしこれは、歴史の真相のほんの表面であるに過ぎない。狡兎死して走狗煮らる。日本は、この走らされた走狗であった。 日露戦争後、米英イルミナティは、走狗日本を、煮殺しにかける。そして、このイルミナティの日本処分作戦に於て、イルミナティは、昭和天皇を、最大限に利用した。 日露戦争後、英国は、明治天皇に、ガーター勲章を与えようとしたところ、明治天皇は拒否権を発動しようとしたにも拘わらず、日本政府首脳部は、よってたかって明治天皇を押さえ込んでガーター勲章を受けるようにさせた。 大正天皇は、何の反対もなく、英国からガーター勲章を受けた。 昭和天皇は、、大いに喜んでガーター勲章を受けた。 つまり、英国ガーター騎士団員としての昭和天皇は、本来の日本人ではない!! 彼は、大英帝国の臣下の一人なのだ。 今の平成天皇も、英国へ行ったときにガーター勲章を与えられた。バーガミニの大著「天皇の陰謀」は、西洋人が書いた著作としては、もっとも深く日本現代史の真相に迫っているにも拘わらず、事態の核心の一歩手前で停止している。昭和二十年八月を境として、昭和天皇の前半生と後半生は、丁度半分ずつ、きれいに分けられる。 しかし、昭和天皇は、この劇的変化を平然と、何事もなかったかのごとくに生きた。 その秘密は、昭和天皇が、大英帝国=イルミナティサタニスト世界権力のガーター騎士団員であると言うところに存在するのである。 私はイルミナティについて色々調べているうちに、イルミナティに入っているか否かが一目で判断できる方法があるのを知りました。それは、イルミナティへの忠誠を表し、仲間である事の確認のために使われているサイン(手で狐のような形をつくる)です。 そのサインは、サタンの角を指で表現していて、『 悪魔の「 ヤギのヘッド 」合図 』とも『 イルミナティの悪魔手信号 』とも呼ばれているもので、正式名をコルナ(corna)というそうです。 この手の形のサインが、『 悪魔の「 ヤギ( 山羊 )のヘッド 」合図 』とも『 イルミナティの悪魔手信号 』とも呼ばれているもので、コルナ(corna)というそうです。が、この手の形は「 I Love You 」を顕す手話の形に似ています。 しかし、この形のように「 サタニスト・サイン 」を誤魔化す時に親指を立てる事もあるのですが、親指を畳んだ形が正式なコルナ(corna)と言えるのかもしれません。 イルミナティの悪魔崇拝の儀式。この儀式に見られる手の形を確認して下さい。 イルミナティのシンボル。悪魔崇拝を表しています。 ☆ ☆ ☆ コルナについては、以下のウイキにも載っている。 コルナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%8A 上記の解説文に、「この指の形で三つの6 (666) を表現できる事から、悪魔崇拝を意味するとも言われる。」とあるように、恐らく、悪魔召還の黒魔術の儀式に使われるものか、と思われる。 その理由は、以下に紹介する話のように、有名なVサインは、アレスター・クロウリーが、ペンタグラムの魔術を応用して考案したとされているが、コルナが、ペンタグラム(五芒星)のウイキの解説から、逆ペンタグラムを現わすことがわかるからである。 ☆ ☆ ☆ 「Vサイン」がある。 今はすっかり有名になったこのサインは、第二次世界大戦中にウィンストン・チャーチル首相が初めて使用したものである。そして実際、連合軍の士気を高めるのに多大な効果をあげた。 この「Vサイン」=「アポフィスとタイフォンのサイン」を生み出したのは自分である、とクロウリーはその著書で主張している。「Vサイン」はペンタグラムの魔力を応用したものだ──というのだ。 (左)公の場で「Vサイン」を初めて使ったのはウィンストン・チャーチル首相であり、しかもそれには魔術的な意味があった。(右)魔術で使用される「Vサイン」。シルエットが「悪魔」になる。 五芒星 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%8A%92%E6%98%9F 古代西洋 歴史的に確認されているもっとも古い五芒星の用法は、紀元前3000年頃のメソポタミアの書物である。シュメール人はこれをUB(ウブ)と呼んだ。さらに下向き五芒星を「角・小さな空間・穴」などの意味を表す絵文字とする。エジプトでは子宮を表わしていたことから性的意味合いがあるとも言われている。 バビロニアでは、図形の各側面に前後左右と上の各方向を割り当て、それぞれ木星・水星・火星・土星、そして上に地母神イシュタルの現れとされた金星を対応させた。五芒星に五惑星を対応させる考え方は、後のヨーロッパにも見受けられる。 また、火・水・風・土の四大元素に霊を加えた5つのエレメントにもそれぞれの頂点が対応させられ、それは現在でも魔法などのシンボリズムに使われている。 ☆ ☆ ☆ 上記のウイキの五芒星の解説から、「Vサイン」や「コルナ」が、下向き(逆)五芒星を表わし、「角・小さな空間・穴」などの意味を表わすことがわかる。つまり本来は、「唯一神ホア=プロビデンスの目」のことなのだが、穢れたメーソン、つまりイルミナティでは堕ちた天使ルシファーの目を意味するのだろう。 というのも、ペンタグラム(五芒星形)は、人間のエーテルの形を表わすので、逆ペンタグラムは、人間を逆さに吊るす格好になるので、下向きの進化、つまり退化を意味するからである。
2013年08月15日
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昨日だかの日刊ゲンダイに載っていた、ある歴史家のコラムは面白いと思った。それは新撰組と民主党が似ているという話だった。確かに、新撰組の成り上がり意識と、民主党の嘘つき成り上がり顛末は良く似ていると思う。 八切氏の説く新撰組を私は支持しているのだが、それによれば、新撰組は、水戸藩の別働隊として京都朝廷への諜報工作活動のためにつくられたようで、芹沢鴨はその中心人物で、元々武士の出を中心とする尊皇攘夷の隊だったが、途中から、非武士の近藤、土方らの出世志向の成り上がり勢力に隊内の討幕派が排除され、公武合体の会津藩に乗っ取られた時点で風向きが変わり、薩長に攻め滅ぼされた。 八切氏によれば、巷に流されている大河ドラマ等の新撰組のイメージのほとんどは虚飾で、よくよく調べてみると、芹沢鴨がいなければ新撰組はなかったと思われる。近藤らは、町人相手の剣術指導では、食い扶持が足りないので、幕府の将軍護衛の浪士隊に応募しただけで、清河八郎が、浪士隊を使って勝手に清河幕府を開こうと画策したときは、路頭に迷い、芹沢に拾ってもらった感じで、新撰組を結成したからである。 芹沢が殺されるまでは、水戸藩からの資金で新撰組は運営されていたそうだ。また、芹沢がやらかしたとされる町民への恐喝等は、実際は近藤らのものだったそうである。近藤らの出世のために、芹沢に罪をなすりつけたようだ。 それでも近藤を少し買い被ってみるなら、八切氏によれば、多摩の部落出身の出とも思われているので、幕府の隠密だった可能性もあるかもしれない。近藤も土方も、どうも農民ではないらしく、土方は目薬屋で行商をしていたらしいから、農民なら土地に縛られ、旅行などできないからだ。 また近藤が反仏教なのも、部落の出を思わせる。家康が部落の出だと知っていたのかもしれない。対して朝廷は仏教保護派で、近藤らが屯所を本願寺に移転させようとし、仏教徒に嫌がらせをしていたことをみかねて山南が反発し、土方らが理由をつけ殺したという。 つまり、近藤が反仏だから、仏教保護の朝廷の天皇を担ぐわけがないので、近藤の尊皇攘夷は、公武合体の将軍に従うことになる。尊皇攘夷は、水戸藩なら、藩主を将軍にすることであり、長州藩なら、毛利候であったわけだ(実際に、明治政府は長州政府となっている)。そのための朝廷工作で、水戸藩の芹沢の新撰組だった。水戸藩は水戸幕府を狙ったので、井伊による安政の大獄で斉昭、慶喜共々失脚させられた。 ちなみに、当時の剣術とは、武士の槍ではなく、捕り物(警察官)が使う棒術のことで、十手が進化した棒で刀ではない。刀は、戦国時代は、矢避けの盾や、敵将の首を取る道具だった。だから、刀では戦わず、戦国武将は槍で戦ったそうだ。幕末では、刀で戦うよりも、棒のほうが実用的なので、棒術が流行ったわけである。だから、当時の武士は町人が習う剣(棒)術を馬鹿にしていた。 八切氏によれば、当時、刀は滅多矢鱈に抜いてはいけないことになっていて、抜くだけで罪になったそうで、だから赤穂浪士の浅野内匠頭の殿中での抜刀なども全くの出鱈目で虚飾であるそうだ。柳沢吉保の陰謀だという。赤穂浪士についてはここでは省く。 このような知識がなくても、新撰組の顛末は、確かに、民主党とよく似ている。 芹沢鴨は、小沢氏とよく似ているし、土方の仲間裏切りの出世志向などは、菅や前原とよく似ている。近藤は、意見が日替わりメニューだった宇宙人鳩山といったところか。野田という大嘘つきのアホもいたが、こんなアホは新撰組の名誉のためにも、新撰組にもいなかった、というべきだろう。 歴史は繰り返すというが、日本史をよくみると、似たような人物が現われてくるのは不思議でもある。 高次元の歴史的な大きな流れのなかで、浮き沈みする3次元の舟が、われわれの人生なのかもしれない。 いずれにしても、日本人はえらく視野の狭い民族になってしまったようである。多民族でありながら、単民族的に考える日本人という思考が根本的に誤っているのかもしれない。 どうも昨今の日本が新撰組のようにみえてくるから恐ろしい。革命思想の吉田松陰を崇拝するアホがなにかをやらかしそうで恐ろしい!
2013年08月14日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ 原爆投下だけでなく、東京空襲についても不当のように書いている。 「空襲の理由は「戦争を短くするため」。とはいえ、この空襲がそのようなものだったと言えるだろうか? 戦争を終わらせたかったのであれば、他に道があったはずだ。爆弾など投下しないで、野蛮かつ無慈悲な「無条件降伏」を唱えたりしないで---日本に条件を提示する用意があったのだから---妥当な幸福条件を受け入れればよかったのである。 ところが、現実にはそういうことはなされなかった。アメリカは何千トンもの焼夷弾を投下する道を選んだ。焼夷弾は着火されたら最後、容易には消し止められない。日本家屋には木材、紙材が多用されているから、東京は、飽くことを知らない「破壊魔」ルーズヴェルトに、焼夷弾の威力をみせつける恰好の機会を提供した。東京は空襲に対してまったく無防備であり、爆撃機の損失が大きくなることはない、カーティス・ルメイ将軍はルーズヴェルトに請け合った。」【本書より】 カーティス・ルメイ将軍・・・もしもアメリカが戦争に負けでもしたら、自分は間違いなく死刑だっただろうと、のちに語ったらしい。東京だけでなく、ドイツでもやってたみたいね。 (ルメイといい、スティムソンといい、日本人を何百万人も殺した、このような悪魔に勲章を与える皇室も人道的意味でもどうかしている。戦争屋と戦争会社を賞賛するようなものだ!) 「ドイツ戦闘機の部品製造工場のような軍需施設(レーゲンスブルクおよびシュワインフルトにあった)については、その防備も行き届いていたうえ、英・米空軍も---逆に、大型で低速の爆撃機は迎撃に遭うため---手出しできずにいた。 そこでカーティス・ルメイ将軍はドイツ人労働者の家屋を爆撃するよう、命令を切り替えた。航空エンジンを製造する工場を爆撃することと、民家を爆撃することのちがいが、ルメイ将軍にはわからなかったのである。この方針はアメリカ国民にはひた隠しにされた。「戦略爆撃」という言葉によって反対意見が生じる虞れがあったからだ。 」【本書より】 最終的に勝利さえ手にすれば、何をやってもとがめられない。 (この世では確かに良心が隠れているから、とがめられないが、あの世に行くときに良心が顕わになるので、限りなくとがめられる。天国に行く資格を失う。悪魔に勲章をもらうのだから、仕方ない。) さて、本は終盤に入り、歴史と並んで日本降伏、ダグラス・マッカーサー将軍の登場となる。 この本に書いてある限りでいえば敗戦直後を取り仕切った人がマッカーサーであったことを不幸中の幸いだと感じた。 マッカーサーの行動は、本に書いてあることにならうと日本にとってまるで神の救いの手のような表現だ。 この点については、いずれ他のものも読みたいと思う。 ともあれ、日本にとってかなりラッキー的な存在のマッカーサー。しかし当時のアメリカ大統領トルーマンにとってマッカーサーの行動は想定外だったよう。 「日本と日本国民を破壊し、農耕国家に変えるという意図のもとに定められた「指針(ガイドライン)に従わないマッカーサーに苛立ち、狼狽させられていた。が、大衆から大きな支持を得て日本での任務を成功させているマッカーサーに、なんの対抗手段も打ち出せずにいた。 ところがトルーマンは---ルーズヴェルトやモーゲンソーに勝るとも劣らない復讐心をいだいていたから---時機を見計らってマッカーサーを解任した。衝撃的なまでに不当きわまりない解任だった。」【本書より】 (マッカーサーは朝鮮戦争を米軍有利に進めていたので、38度線を越えて侵攻したため、かえって連中の利益を脅かす存在になりつつあったという説もある。恐らく、ロスチャとロックの協定みたいなものだろう。飼い犬に噛まれる恐れがあった。ヒトラーと同じ。) マッカーサーが従うことを拒否した「指針(ガイドライン)」には、日本の完全非武装、および産業基盤と社会、政治、経済秩序の完全崩壊が求められていて、行政府、実業界の要職にある人々、自治体指導者など約18万人をその職場から粛清(パージ)すること大手銀行を破綻に追い込み、事業を続けられなくすることなども要求されていたらしい。 日本と日本国民を破壊、かぁ。人間の欲は底知れないね。戦争に負けたとしても、戦後処理をまかされた国がアメリカでよかったと前々からわたしは思っていたが、この本に書いてあるとおりならば全権をまかされたのがマッカーサーでよかった、ということだな。 しかし、マッカーサーはなぜ連合国のガイドラインに従うことを拒否したんだろう。マッカーサーは先見の明がある、という書き出しで拒否した理由が書かれているが、それを理解する力がわたし(抜粋紹介しているこのブログの著者)には不足している。 このあたりに書かれていることは、フィクションであってほしいね。しかし、巻末にある「監訳者解説」を読むと更に不気味といってもいい話が書いてある。日本人にとってはわかりにくい力によって、世界が動かされている、みたいなね。 それにしても、この本に書かれている内容は著者を危険に曝すんじゃないかなぁ。本にするには、結構やばいですぜ。苦笑 プロフィールを読んでみると、やはり様々な攻撃を受けている模様。この本を読んだおかげで、次から次にアマゾンでの注文が増え、今月はかなーり痛い出費になりそうだが、カラダをはって書かれているともいっていいような感じなので、この際、懐具合はしばし忘れて、戦争モノにもう少しハマってみるかなぁ。 ☆メモ 全ての戦争は、元をたどれば経済戦争である。いつの日か、1941年1月26日がアメリカによって日本に宣戦布告されて実質的(バーチャル)な開戦日と見なされることだろう。 国際政治においては、偽善的要素が常に大きく存在する。極東における日本の貿易拡張計画および、その中国進駐をめぐって、アメリカが日本にとった態度などその一例だ。英国のアヘン政策にしてもそうだ。英国は、中国の大反対をものともしないで、中国と三度戦争をおこなって反対の声を鎮めた。 英国の中国に対する汚い外交政策はあまりに長い歴史があるから語れば紙面がなくなってしまう。 (中国人が反英でなく反日なのは英国人の誘導によるものだろう。日本人が人が良すぎて、英国人に利用されているのに気づかないのも問題なのだが。日本人への嘲笑のジョークの多くが英国製なのに気づくべきである。) 排斥運動の高まりに強く挑発され、7万人の日本人兵士からなる侵略軍が上海に上陸した。中国がMI6(英国軍事諜報部第六部)の代理人に扇動され、仕組まれた経済的排斥運動として日本に戦いを仕向けなければ、日本による軍事活動も、中国侵略もなかったと考えるのが妥当である。 1940年、日本では近衛文麿が首相に選ばれ、新政権を発足させた。9月26日、アメリカはなんの前ぶれもなく、西半球以外(英国を除く)への屑鉄の輸出を停止した。7月26日には、日本の在米資産が---ルーズヴェルト大統領に署名された大統領命令によって---全て「凍結」された。 これに追従するかたちで、英国もマレーから日本へのゴムの輸出を禁じるとともに、日本の在英資産全てを凍結していた。日本へのこうした敵対行為はどう見ても、事実上の宣戦布告だった。読者の方々にぜひ知っておいていただきたいのは、いわゆる「大統領命令」は合衆国憲法によって禁じられていて、なんの価値もない紙屑同然のものだった、ということである。 (英国が中国を扇動し、米国が日本を焚きつける構図。) あれほど極限的状況に追い込まれたら、どのような国家であっても正しい対応はできなかっただろうが、日本は、開戦に踏みきるよりはむしろ、世界規模での外交攻勢に打って出るべきだった。どの角度からみても、パールハーバーの攻撃はまちがっていたし、おこなわれるべきではなかった。 大ざっぱにいえば、「東の風、雨」の「東の風」はアメリカを意味し、「雨」は両国間の外交関係の完全な断絶を意味していた。 極東地域における英国の独占貿易が日本によって危うくなってきたとき、世界規模の中傷運動が開始され、日本人は極悪人に仕立てあげられた。いわゆる「レイプ・オヴ・ナンキン」および中国人に対する日本兵の非道行為についての話は情報宣伝(プロパガンダ)だと判明した。 英国軍が南アフリカでボーア人にしたことのほうが、日本軍が中国でしたことよりよほど凄まじい。 忘れてならないのは17世紀から19世紀にかけて、そして20世紀の始めの英国の戦争のほとんどが経済的敵対国を払拭するためのものだった、という点である。こうした政策がどのように実行されたかを検証するだけで一連の戦争の全てで不当な力が行使され、弱小国が叩きのめされたことが明らかとなる。 が、ドイツだけは容易に打ちのめされなかった。 ルーズヴェルトにとっては、卑劣すぎる手段など存在しなかった。目的達成のためなら、どのような代償が求められようと、紳士にあるまじき振る舞いをすることも厭わない、幾度となく、彼は満足げにそう語っている。 水・陸どちらの戦場にあっても、日本兵は必要とあらば屈服するより死を選ぶと、実に見事に心を決めていた。日本人兵士のそうした信念は硫黄島の戦いで実証されている。 パールハーバーの悲劇の責任の所在を明らかにするために8つの査問会が組織された。残念なことに、こうした査問会で進められたことは真相の解明ではなく、反ルーズヴェルト派、つまり反戦派と、ルーズヴェルトおよび干渉主義を支持して行動した人々の間の綱引きでしかなかった。一連の査問会の最大の犠牲者は真実だった。 トルーマン大統領はマッカーサー将軍による日本とアメリカの関係修復策にことごとく反対した。そしてなんと言っても、この大統領の名は1945年8月6日の広島への原爆投下を決定した大統領として(3日後には長崎への投下も決定している)記憶にとどめられるにちがいない。どちらの都市への原爆投下も日本政府が降伏文書に調印することを同意したあとのことだった。 主にアメリカ空軍(USAF)によって日本に与えられた被害について説明しておこう。119の都市が全壊し、220万の家屋が瓦礫と化し、900万人が家を失った。 【ラニカイ号事件】軽武装の海軍小艦隊をルーズヴェルトは日本の海運ルートのまん中に派遣。撃沈されれば、日本との開戦理由になると考えた。 (尖閣諸島でも似たような手口が使われた。実際、捕まった連中は工作員だったという噂。) もちろん日本人は、こうした米国史のイロハ、本物の米国史の初歩的常識を何一つ、教えられてはいない。要するにお話にならない無知蒙昧、幼稚である。それは何故か。明治以降の日本の米国問題専門家(外務官僚、学者、マスコミ界、宗教人、作家その他)が米国の表面しか知らない。【監訳者解説より】 「ユダヤの双頭戦略」の危険については、大正十年前後から四王天延孝陸軍中将ら先覚者たちが警鐘を乱打しつづけたが、残念ながら日本人にはそれが分からない。にもかかわらず、パールハーバー大陰謀はユダヤ・イルミナティのこの両建て戦略を見抜かない限り、日本人には永遠に闇の中であろう。【監訳者解説より】 ☆ ☆ ☆ 米国の持ち主が英国王室で、米国の資産管理がバチカンであることがよくわかる。つまり、英国が米国と中国を乗っ取り、互いに戦わせ、英国王室とバチカンで利益搾取してきたわけである。そろそろ世界中の人々は気づくべきときがきているのではないだろうか。 本当の悪魔とは誰なのか?を
2013年08月14日
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コールマンの本から、ときの権力者が憲法を無視しはじめることが、戦争のはじまりとなる話を紹介してきた。 リンカーンの米南北戦争、マッキンリーの米西戦争、ウイルソン(ルーズベルト)の第1次世界大戦、そしてルーズベルトの第2次世界大戦を調べてみると、全てに共通しているのが、憲法の無視である。 コールマンによれば、もし、米国憲法を遵守していたら、これらの戦争に米国は参加することなく、実際に、米国民の多くが参加に反対だったが、英国王室の秘密機関により、米南北戦争ではフォートサムター、米西戦争ではメイン号、第1次世界大戦ではツィンメルマン電報事件、そして、第2次世界大戦の真珠湾攻撃のヤラセと思われる出来事が起こされたことにより、戦争参加に巻き込まれたそうで、米軍さえ参加しなければ、大規模なものにはなっていなかったばかりか、事態が沈静化した可能性もあったという。 コールマンによれば、これらの大統領は米国憲法に違反しているという。その内容は、コールマンの「真珠湾 日本を騙した悪魔」という本で展開されているが、大まかにいうと、米国憲法は、ワシントンの退任演説以来、ヨーロッパには介入しないという中立性を保つことを基本にしているそうである。それは、他国の内政に干渉しない(内政不干渉)という国際法を基本として遵守したものであるという。 特にルーズベルトは、米国憲法違反者で、本当の戦犯であり、人類背徳の重大な犯罪者であるそうだ。 この米国憲法の理念に対して、悪魔の工作を行なったのが英国のダヴィストック研究所だったという。ダヴィストック研究所は、この米国の内政不干渉という憲法の中立の理念に対して、「孤立主義」と罵るような差別用語をつくり、民衆を洗脳し、扇動したという。 また現代でも、内政不干渉の原則からすれば、日本の領土に米軍基地があるのはおかしい。米国憲法の理念に外れた行為で、中国と日本が組まないように米英が監視し合っているようである。逆にいえば、中国と日本が組むと連中が困ることを意味し、田中と小沢が潰されたのはそのためで、親米派はアジア人の裏切り者ユダといえる。 このように憲法無視の現代の特に欧米指導者を先の大戦から告発しているこのコールマンの本を解説しているサイトに遭遇したので抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ http://kakuregasyosai.blog.fc2.com/blog-entry-24.html 真珠湾 日本を騙した惡魔/ジョン・コールマン博士 先に読んだロバート・B・スティネット「真珠湾の事実」と一緒に購入した。翻訳版・真珠湾関連2冊目ということになる。未知の分野で自分で選ぶとなると、せめて2冊は読まないとね。ネット買いすることがほとんどなので、比較しにくいこと1冊だけになると、偏ってしまう恐れがあること、が理由だ。 深く探求するほど時間がないので、2冊ぐらいが限度だな。といいながら、今後読む予定にしている原爆関連の本は7冊注文してしまった。約14000円なり・・・痛い><長崎生まれとしての意地ですな。苦笑 たまたまなのか、わたしが選ぶ戦争モノの本のほとんどが単行本でしかもUSEDでもよくて半値ぐらいにしかなっていない。USEDで1000円以上もするなら、新品買うわ!(これも意地? 自爆) 真珠湾関連2冊目ということもあり、ずいぶん読みやすかった。「ハル回顧録」で外交的な流れもおおまかにわかっているし。「真珠湾の真実」にも書いてあるように、日本軍による真珠湾攻撃は奇襲ではなかった、なぜなら暗号解読によりアメリカは攻撃を事前に察知していたから。加えて、対日開戦を国民に納得させるために、最初の一撃は日本から、というアメリカ側の作戦があった。 (米上層部が知る真珠湾攻撃を、米国民に内緒にしていたのは犯罪で、戦争にひきづりこむためだから性質が悪い。) そのために、ペリー来航から長きにわたって続いていた日米通商の一方的な破棄や日本が近隣から資源を調達していた国にも圧力をかけ入手困難にし、そこに、とうてい日本が受け入れるはずのないようなハル・ノートをつきつけ日本は追いつめられ宣戦布告をすることになるわけだがこれもまた計算づくだった、という内容についてはこの本にもほぼ似たようなことが書いてある。 パールハーバーを攻撃されたあと、その事態についてのアメリカ側の責任問題を追求するために何度となく開かれた調査委員会では、徹底的な隠蔽工作によりパールハーバーを生け贄にしたともいえる責任問題については解明が不十分に終わっているという見解も同じ。 しかし、この2冊には決定的な違いがある。ルーズヴェルトに対する見方、あるいは表現がぜんぜん違う。スティネットの本には、ルーズヴェルトをかばうような表現がみられたがコールマン博士は、ルーズヴェルトを徹頭徹尾叩いている。 「ルーズヴェルトは自らの権力の拡大と国際社会主義の進展のために、徹底的にアメリカ国民を欺いた。嘘つきで、裏切り者で、扇動者たる彼はこの国の人々を、そして世界を誤った方向に導いた。」【本書より】 そりゃー、すごいよ。 英雄視され続けている人を、これだけこきおろしますか、というほど。苦笑 そしてそれは、本全体に何度も何度も書かれている。 コールマンは、ルーズヴェルトをチャーチルともども「戦争屋」と呼び、この二人が始めなくてもいい戦争を始めた、それが第二次大戦だという。 彼らが親玉というわけではなく、バックがいるらしい。仕組まれた戦争、そのための罠だった真珠湾奇襲話は、わたしの思いもよらない方向へと進む。 タイトルにある「日本は騙されている」という点について、日本とアメリカ両国間の話かと思っていたんだけどそれ以上のことが、この本には書いてある。 「日本は、西洋世界において誤った光の中に描きだされ、その結果、大いに苦しめられた国家のひとつだ。中国を侵略して、その貿易利益、つまり頼みの綱の輸出を守ろうとしたとき、反日運動に拍車がかかった。そうした日本の利益に対して、英国が中国側の反発を引き出したのである。ほぼ三世紀にわたって、中国における貿易および政治を独占してきた英国にとって、日本はその立場を脅かす存在でしかなかった。」【本書より】 (中国と日本をケンカさせ漁夫の利を得るのがこの英国悪魔の手口で、ブラックジョークはこの手口を騙す芸当のうちだから、英国以外では笑えない。) 英国は日本が目障りだった。それ以上にドイツをたたき潰したかった。が、ドイツとの攻防に英国はおされ気味。なんとかアメリカを参戦させたかった。当時、アメリカ国民は、ヨーロッパでの争いに加わるつもりはなかったらしい。調査によれば、アメリカ国民の87パーセントは参戦反対さほど関心のない争いに派兵などもってのほか、と。 それをなんとか参戦しようとしたのがルーズヴェルトでチャーチルとの間に、密談がかわされたように本には書いてある。ルーズヴェルトもまた、かなりドイツがお気に召していなかったようで彼自身はドイツつぶしに乗りたい気分満々だったようだ。 なんとかアメリカ国民に対し、戦争を始めることを認めさせたい、そのために利用されたのが、日本軍による真珠湾攻撃だと。最初の一撃を日本から、という作戦のまずの目的は対日本ではなくドイツつぶしだという。 「忘れてならないのは、狙いはあくまでもドイツであって、日本ではなかったという点だ。ルーズヴェルトは、妄想にも似た、ドイツ国民への極度の嫌悪感に突き動かされて、アメリカをヨーロッパおよび極東の戦争に引き入れたのである。」【本書より】 いずれにせよ、このときルーズヴェルトが取った行動いわゆる大統領命令で戦争を始めることはアメリカの憲法に違反しており、反逆罪に相当すると著者は書いている。 アメリカ国民は騙された、とね。 うーん、自国を騙してまでも戦争を始めたかったか。とはいっても、日本は敗戦国だという史上的事実に変わりはない。次の文章を読むまではそう思っていた。 「日本軍および軍部司令官によって中国でおこなわれたいわゆる残虐行為、なかでも南京大虐殺はもっとも悪名高いはタヴィストック研究所によって捏造され、広められ、最終的には嘘が上塗りされ、幾重にも歪曲され、「事実」となった。このようなつくり話のプロパガンダ(情報宣伝)は今に始まったことではなかった。第一次世界大戦時には、ドイツが類似のでっちあげに苦しめられた。」【本書より】 (中国に紛れ込んだ英国人が仕掛けている。) えっ? そうなの? どこで注入されたか覚えていないけれど、南京大虐殺はあったことと認識していた。 特別に本を読んだわけではないので、学校かな? (学校では近代史を教えないのでメディアが元凶で電通の3S政策は有名。) もしも、大虐殺についてこの本に書いてある通りならば、わたし(抜粋紹介しているブログの著者)の記憶というか知識は間違っていることになる。 早速、本を読んでみようと「南京事件」について書いてある本を注文した。それと、そのダヴィストック研究所って何なのよ?と、同じくこれも本を注文。戦争の目的は勝利なわけで、そのためにいろんな手が使われるということについて、それがわたし的に、やりすぎだよ、とか卑怯きわまりないと思えてもそのときはそうだった、と受け止めるしかない。 しかし、のちに、それがでっちあげであったり事実と反していることだという証拠のようなものが出てきた場合は個人的な知識を上書きしなきゃいけない。たとえば、東京大空襲が過去に前例がないほど大虐殺だったことを、わたしの頭に上書きしたように。この本の大虐殺の意味は「生命を焼き尽くすこと」と書いてある。 「英国空軍とアメリカ空軍によるドレスデン空襲は、両空軍が町に降らせた焼夷弾による火事場風(ファイアーストーム)で、何十万人もの罪のない一般市民が焼き殺された「大虐殺」として記されて然るべきであり、ハンブルグの焼夷弾攻撃もやはり大虐殺の一例である。また、デヴィッド・コシュレが説くブランチ・デビディアン教会に対する襲撃で87名の男女そして子供の人命が失われたウェイコの悲劇も同じく虐殺である。」 【本書より】 日本軍による南京占領の歴史を十分に検証した結果、著者が達した結論は「南京大量殺戮」は三百人委員会の下僕たちによって丹生にでっちあげられた偽りでしなかない、ということらしい。 (尖閣諸島の例をみても、連中の工作員のヤラセに思われる。元MI6の著者が述べているのだから、諸悪の根源の英国王室-バチカンにある。) 三百人委員会・・・何度もこの本に登場する。 はじめのうちは、流して読み進んでいたんだけど、どうも気になる。 南京事件にも関わってくるとなると、なおさらね。読んでみるしかないな、これも注文、っと。自分の中で、わけのわからない警戒信号が発せられている。あんまり深入りするのもどうかと思うよ? みたいなね。苦笑 けどね、著者であるコールマンの見解として、こういうことが書いてあるのよね。 「原爆投下の必要性は断じてなかった。広島と長崎に原爆を投下したことには、非難を免れる余地も、申し開きをする余地もないはずだ。日本によるパールハーバーの攻撃より10倍は犯罪的である。」【本書より】 これは、わたしを大きく揺さぶったね。10倍ぐらいでいいのか?という気持ちはさておきわたしも必要性がなかったのではないかと思っている。なぜそう思うのか、それを見つけるために戦争モノを読んでいる。なので、コールマンの書く世界をもう少し覗いてみたい。 ☆ ☆ ☆ 日本ばかりでなく米国や英国の人類の裏切り者の歴史検証が必要である。憲法を破った者や本当の戦犯者を、人類の名の下に裁くべきだ! でないと戦争屋や戦争会社が暴利を貪り、戦争はなくならない。次に続く。
2013年08月13日
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ともかく、植物として分離され現われる過程や、人体の組織化の一面を決定する過程を、正しく見据えることが重要である。 以前、外の自然に特有な3つの過程に目を向けた。すなわち、塩の過程、水銀の過程、そして、燐や硫黄といった不可視の霊光を保持し、その担い手となる過程である。 1.塩→固体化 2.水銀→液体化 3.燐や硫黄→気体化 では、この3つの異なる内(エネルギー)的な過程の違いは、何なのか? 塩の過程、すなわち、塩の形成に通じる経過全般は、端的にいえば、内(エネルギー)的な経過を、重力の領域に移行させる経過である。古代の医学書を読みとくなら、「物質の塩化」と記述されている箇所を、次のように解釈すればよい。 「物質の塩化とは、塩の経過により、物質が重力の支配下に移行することで、塩とは反対の光(燐)の経過を用いれば、重力から、不可視の霊光を奪うことができる」と解釈できる。 つまり、光を、不可視の霊光の代理、もしくは代表者とするなら、外の自然においても常に一貫して、光と重力の闘い、すなわち地球外の天を目指す力と、物質を地球の中心へと向かわせる力の闘いを想定する必要がある。 自然界には、第一に、重力-光の対立がある。そして、重力と光との間を揺れ動きながら、絶えず均衡を求める経過が、水銀(液体)のなかに現われる。水銀に含まれる経過は、光と重力の間で絶えず均衡を求める経過に他ならない。 (水銀の経過は、和解という意味の「水に流す」を髣髴とさせる。) さて、重要なのは、塩、燐、水銀の対立を、実際、宇宙全体のなかに、つまり、重力、光のなかに、そして、この両者の対立や両者の均衡を求めるなかに置いてみることである。 この完全な対立のなかに独特な形で置かれているのが、人間の心臓の全活動である。 現代の自然科学の見解から、心臓に対して適用されているポンプの喩えを支持できないことは既に述べたが、この間違いを除いても、心臓が、あたかも人体の表面の皮膚により、外界に対して閉鎖された活動だけにとどまるかのように想定するのは、実際、恐るべき間違いである。 実際、心臓に対する今日の見解は、心臓を通じて生じる鼓動とだけ関係をもつかのように想定している。しかし、この見解は間違いで、人体の器官は、宇宙全体に組み込まれ、人間の心臓は、単なる人体の1つの器官でなく、宇宙全体の経過の一部でもある。 そして、植物に生じている経過、つまり、太陽より上位にある天体(火星、木星、土星)と太陽より下位にある天体(月、水星、金星)との共同作用は、人間にも起こり、心臓の運動(鼓動)のなかに発見できる。 心臓の運動には、人体に生じる事象が刻印(記録)されるだけでなく、外にある事象も刻印(記録)される。人間の心臓を詳細に探求すれば、根本において、宇宙全体の経過が反映している事実を発見できる。 (宇宙全体の進む方向が道徳で、道徳に合わないと、心臓が弱くなる。だから、善意の育成は心臓を強化し、悪意をもつと心臓が弱まり、脈が弱まり、自信を失う。古代エジプトでの死後の最後の審判に、心臓を天秤にかけたのは、光と重力の均衡の事実を理解していたからだろう。心臓は、獅子で象徴され、実際、ライオンの心臓は強いので、百獣の王と呼ばれた。) 本来、人間は霊-魂だけが個別化されている。人間は、宇宙全体の経過に組み込まれている。例えば、心臓の鼓動は、人体に生じる事象のみから現われるのではなく、全宇宙で起こっている光と重力の闘いから現われる、という事実により宇宙全体の経過に組み込まれている。 私(シュタイナー)は、一般大衆のために、上記のように、人間が宇宙のなかに置かれている事実を、次のような大まかな計算を用いて具体的な説明をよく行なう。 人間は、1分間に大体18回呼吸する。この呼吸数は、1日、つまり24時間では、25920回(18回×60分×24時間)となる。人生を1日から換算すると、1年は365日で、人間の平均的な寿命、つまり大体71歳まで生きる(長生きする可能性もあるが)と想定すると、人間の寿命の日数は、1日24時間の呼吸数と同じ、25915(365日×71年)という数になる(「5」の差は閏日のせい)。 (71歳は、古代では族長の年齢とされていたという。) 更に、黄道十二宮を巡る太陽の運行の1プラトン年、つまり太陽の春分点が、例えば、牡羊座から昇るとして、再び、牡羊座に戻ってくるまでに要する時間を考えると、25920年となる。 プラトン年 http://homepage2.nifty.com/SON/uranai/Aquariusage001.htm http://can.ifortune.net/wiki/wiki.cgi/astro/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E5%B9%B4 以上のように、人間と宇宙との関係を表わす、不思議な数の例証が与えられる。この例証は、人間の寿命の日数(25915)とほぼ同じ数を、太陽の運行の年数のプラトン年(25920)で示している。 この数の例証を明白に示せ、更に宇宙の存立に関わる特別な潜在意識までも暗示する。実際、人智学で強調されてきた事実に注目すればよい。つまり、人間が、夜、眠りにつくと、人間の自我とアストラルは、物質体とエーテルから離れ出て、再び、朝起きるときに入り込む、という事実である。 この事実を、物質体を通じての霊魂の呼吸の類として想定すれば、この1回の呼吸により人間の生存は1日となるが、人間が生存中に行なう、この霊魂の呼吸数は、(大体71歳まで生きると)、25915、あるいは、1プラトン年の25920となる。この5の差は閏日のために生じる。 更にまた、この同じ数に従って、宇宙のなかには、太陽の見かけ上の運行と関係する運動がある(太陽の春分点の移動)。この宇宙の進行のなかには1つのリズムがあり、このリズムは大いなる存在のなかに現われ、1人1人の人間の寿命のなかにも、人間の1日の呼吸のなかにも現われている。 (1日は、英語では、デイ「DAY」だが、語源は、神デウスからきている。聖書の記述では、世界は7日でつくられたとあるが、この「日」は、「神デウス」のことである。つまり1柱という意味になる。だから、世界は、7日でつくられたという過去形ではなく、7柱の神々によりつくられている、という現在進行形の意味となる。身近な喩えでいえば、日「太陽」、月、火星、水星、木星、金星、土星でつくられるという太陽系の運動を指すことになる。) 有史以前の世界では、遺伝的に受け継がれた霊能力から、ブラフマンの昼と夜という話で、すなわち、宇宙の呼吸について語っていたことも、もはや不思議とは思わないだろう。なぜなら、この宇宙の呼吸が、人間の日々の生の経過のなかで、ミクロコスモス(小宇宙)的な像となることに、気づいていたからである。 (マクロコスモスの運動が、人間を介して、ミクロコスモスの運動になることを、ブラフマンの喩えで表現していた。霊能力とともに、その知識が奪われてしまったので、占星術のようないい加減なものになる。現在は、大まかに晴れか雨かの天候により行動を決めているが、昔は、木星の影響が強いとか、天体の軌道により、行動を決めていた。だから、いまの天気予報は、昔でいえば占星術だった。日本では陰陽師がやっていたわけである。) このような事実がわかれば、共感や反感の感情ではなく、具体的な事例に基づく認識により、太古の叡智を真に賛美できるようになる。太古の叡智の真の意味を、頻繁に確認できなかったら、私(シュタイナー)はけっして太古の叡智の賛美者とはならなかった。 今日、人智学により獲得できた事実に照らし合わせることで、現代では消滅し、全く失われていた叡智、太古の叡智をもった賢者が知っていた事実を、非常に頻繁に再発見できるようになった。 真なる認識を目指し努力する人間が、太古の叡智の賛美者となり育成する叡智は、太古の叡智を目指して猪突猛進することから生じるのではなく、現代にも通じる具体的な関係の洞察から生じるのである。 (歴史の勉強も同じで、現代にも通じる具体的な関係から洞察できない歴史は嘘である。歴史は暗記科目ではない。)
2013年08月13日
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前回は、長崎原爆投下についてスチムソンの話から、米内-山本-井上が売国奴ではないか、という話を紹介したが、英王室との関係は謎である。それでも、ヨハンセングループの吉田茂がスコッティシュ・メーソンリーであった話から、巷でいわれているように、メーソン関係が濃厚だろう。 なにしろ、海軍の水交社とメーソンのつながりは有名だからである。米内とメーソンの関係をネットで探るうちに興味深い話に遭遇したので以下に抜粋紹介する。 カトリック(正)と反カトリック(反)をつくり、そして、ヘーゲルの正反合の弁証法のごとく、「合」でメーソン思想を植えつける洗脳の話が語られているからである。 ☆ ☆ ☆ 日本人が知らない 恐るべき真実 http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060913 ■山本五十六フリーメーソン説 戦後、通説とされた「陸軍悪玉・海軍善玉論」の真偽を検証した力作『米内光政と山本五十六は愚将だった』によれば、米内光政は、対米戦争に反対した平和主義者としてもてはやされましたが、実は日中戦争を拡大し、停戦の機会を失わしめた張本人の一人であり、悲劇の名将といわれる山本五十六は、ミッドウェー海戦で圧倒的戦力という戦略的優位と海軍機の高性能と搭乗員の高熟練度という戦術的優位がありながら、戦闘指揮の失敗で敗北した、つまり両人とも戦後の名声とはかけ離れた“愚将”であったとしています。 和平への道を誤ったり、戦勝の機をむざむざ逃したのは、単に両人の能力の欠如ゆえだったのでしょうか? 国際政経学会員であった渡部悌治氏は、山本五十六がフリーメーソン結社員であったと指摘しています。 渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』から引用。 山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた。 (略) 山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日独伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京麻布の狸穴にあった。この妾宅の若い女性は当時18歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。 (略) 山本が戦死した報を得て、須藤某が文書の遺稿でもと狸穴に訪ねた時には、すでにこの女性が一切を処理し終えた後であり、 (略) 戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属する事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく。 またこの縁辺の者のうちには、首相であった東条の鎌倉での生活苦を賄っていた者もあり、それらを取り巻く近親の者たちの言動から察知された国家機密が直ちに敵国に通報されていた事実も明白になっていた。 山本五十六は1919年5月~1921年7月までと、1926年1月~1928年3月までの二度、アメリカ勤務(大使館付武官)をしています。この他にヨーロッパへの長期出張が二度。同時期に駐米大使、駐英大使を歴任していたのが、戦前からフリーメーソンに加入していた松平恒雄でした。 吉田茂が駐英中にフリーメーソンに加入したように、山本も、松平に誘われ、フリーメーソンに加入していたことは十分に考えられます。 また、山本と米内は砲術学校時代には同じ部屋に起居している間柄であり、生涯に渡り二人は非常に波長が合ったと言われています。 フリーメーソンとは直接関係ないかもしれませんが、英米に取り込まれていた可能性があるのは山本や米内だけではないようです。 渡部悌治氏は、英米の対日工作費が右翼に渡されたルートとして、英米の対日工作費→張学民経由→キリスト教矯風会の子女→大川周明・赤尾敏 英米のエージェントであった巌本善治→正則中学校の今岡信一郎→関東国粋会の梅津勘兵衛 などを挙げています。 クーデターにはアメリカ、ユダヤから金がきていた。2.26事件には三井財閥の金も動いている。北一輝には三井の池田成彬から月々の手当てが出ていた。それで池田には行動決行の電話がいち早く届いている。5.15事件も、2.26事件も、他のクーデターも、いずれの場合も、第三国の金が動いたのである。 2.26事件の資金は、久原房之助から出ていた分のルートも分かっている。(略)久原の背後にあって久原に資金を調達していた者が誰か、ということも考えてみなければなるまい。 このように、いわゆる右翼なるものが必ずしも純粋に愛国的なもののみでなく、またその中核とも見られる国粋主義団体にまで第三国の対日工作資金が流れていたことは、日本の愛国運動史上きわめて不幸なことであり、それがまた日本の敗戦と解体を招いた原因となっていると考えられる。 ついでに『月間猶太研究』から山中豊吉氏の論文『キリスト教に隠れたユダヤ教の陰謀』から引用しておきます。 日本に対するユダヤとキリスト教の謀略を検討いたしますと、だいたい次のような四点に分けてこれを観察することができるように思います。すなわち1)日本プロテスタントを利用加勢してカトリックに対抗せしめること。すなわちフリーメーソン的キリスト教の前進2)これによりカトリックを刺激して、さらにカトリックの教勢を張らしめること。ローマ的キリスト教の前進3)かくして双方の競争的努力によって急速に、かつ手広く日本を変質せしめ、これをユダヤ化すること。分進合撃の戦法4)その結果、エホバ秩序、ないしキリスト教秩序の下に統一せられたるユダヤ世界の完成を期すること。イザヤ預言の新天新地の実現 山中氏は、プロテスタント≒フリーメーソンと考えていたようですが、この指摘は的確だと思います。 いずれにせよ、日本は、ユダヤ伝統の両建て戦術、「分断して、統治せよ」に見事に嵌っていたようです。 ☆ ☆ ☆ いずれにしろ、秘密結社には注意すべきであろう。連中は、秘密結社を通じて洗脳し、売国奴に仕立て上げるからだ!
2013年08月09日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ ところで、問題のシーグレイブ(山下の黄金のことか?)については鬼塚氏も真偽に判断をあぐねているようだ。これは私も同感である。鬼塚氏は、幾つかの資料を駆使し、昭和天皇の直接の父親が西園寺公の養子であり、大正天皇と同年代だった、西園寺八郎であると断定している。 これを裏付ける証言として、犬養毅元首相が「これは親父と息子の方角を違えたのかな、フウム」という当時の東京朝日に掲載された談話を証拠としているほか、八郎が東宮職御用掛を初めとして、幼少の頃から付き従っていることをあげる。実の息子の公一(きんかず)よりも、皇室を気に掛けることがおかしいというのである。 (田布施より適当な人材を連れてきたという説もある。) もとより病弱の大正天皇が何人も子供を授かったという話こそ、確かに信じがたく、昭和天皇の父親は誰か、西園寺公かはたまた・・・という議論があったことは私(アルル?)も知ってはいた。だから、これを読むと真偽のほどは分からないが、「ありそうな話」という判断が出来る。 なお、大正天皇の后であった九条節子(貞明皇后)は、鬼塚氏が引用している『昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫』によれば、「宮中某重大事件」(昭和天皇の后を決める際に山縣有朋が介入した件)において、山縣と画策して(アルル:この辺は疑問)、自分のかわいがっている秩父宮を皇位に付けるべく画策した、という。 アルル:この話は反山縣の皇室内クエーカー勢力だったはずの貞明皇后とするシーグレイブと違うし、皇后は他の宮中のグループと一緒に婚約破棄に反対したはず・・・。皇室のいわゆる「秘め事」の話は仲々難しい。 この部分はともかく、二子である秩父宮が、2・26事件の首謀者の安藤大尉に担ぎ出されて、直接、弘前にまで出向いた昭和天皇に説得されて、クーデター組に参加しないことを決めた、という記述も『笠原和夫』には出てくる。これは正しいのではないかと思う。 秩父宮が結核の療養として富士に行くのも「追放」だとする意見もなるほどと思った。しかし、秩父宮が『共和制・大統領制」を指向していたという笠原のコメントについては判断しようがない。 そんな人物をなぜ皇道派のクーデター将校が担ぎ上げるのだろうか。ただ、昭和天皇、三笠宮と秩父宮で勢力構図が分かれていたのではないか? とする鬼塚説は折に触れて参照したいと思った。 共同通信の報じた、皇室の隠し財産の記事、これは重要であるから、「佐賀新聞」のデータベースを使って調べて保存しておかなくては為らない。 結局、鬼塚氏もまた、中央銀行ネットワークであるBIS(国際決済銀行)に行き着いた。このBISは、戦時中も敵味方となく資金決済をしていた。だからこそ、アメリカのロックフェラー・スタンダードやロスチャイルドのシェルが、パナマ船籍という抜け道を使って、日本やナチスドイツに石油を輸出し続けた、という話になる。あるいは、赤十字の船という抜け道をつかったらしい。 原爆投下成功に大喜びした米内光政 1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。 国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。 私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。 従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」 (『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用) 原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。 日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。 ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され、国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。 (原爆開発前に何度も講和の機会はあったそうである。戦争会社が無視したそうだ。) 阿南陸軍大臣は自決する前に 「米内を斬れっ!!」 と言い残した。 戦争終結前の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)首相の「ポツダム宣言の黙殺」を鈴木首相に押しつけたのが米内だった (スチムソンは、原爆投下のために、黙殺をignoreやrejectと国策通信社に翻訳させたようだ。) 米内は単に親米派であるだけでなく、日本の中国大陸進出に対しては、むしろ徹底的に積極派・推進派だったと思える行動が多い 近衛首相の「国民政府を相手にせず」という有名な近衛声明をださせたのも米内だという。 だから、最後の最後で米内が裏切り者と気がついた、阿南(あなみ)陸軍大臣が、「米内を斬れ」と叫んで、そのあと自分は、責任をとって腹を切って死んだ。陸軍は海軍のトップの裏のある人間たちにずっと騙されて、3年半の血みどろの負け戦をアメリカとやったのだ。 (陸軍はいまでも悪者) 海軍からは、たったひとりの刑死者を出していない。海軍は誰も死んでいないのである。「リメンバー・パールハーバー」なのに! (日本人を大量に殺したことで、連中からすれば日本海軍は表彰ものなのだろう。戦後、中曽根のような海軍売国奴が出世していることでわかる。) 不思議なのは、米内が「アメリカ留学」もしていないのに、あの当時の日本で「米英の走狗」(今で言えばポチ保守に該当する言葉)と呼ばれていたことだ。 米内光政・山本五十六・井上成美(いのいえしげよし)については、阿川弘之という小説家が伝記小説を書いているが、この人物が戦後、ロックフェラーの資金でアメリカ留学をした男であり、現在の親米派の広告塔である前駐米公使・阿川尚之(あがわなおゆき)氏の父親である。 (日本の外務省が伏魔殿というのもわかる。) 米内については、阿川のフィルターを通した内容しか出回っていない。米内についての資料は、阿川氏によって一連の小説が書かれるに当たり、海軍善玉史観にとって都合の悪いものは全部処分されたのではないか。 ☆ ☆ ☆ 米内-山本-井上が売国奴になったのはロンドン-英王室との関係が怪しい。山本にはフランス人の愛人がいたという話がメーソンの解説本にもある。
2013年08月09日
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前回までは、戦争会社が頭の弱い奴を指導者に据え、憲法違反をさせ、多くの人々を戦場に送り、その犠牲により利益を上げ、その利益で、怪しい宗教などをつくり、神話などを駆使して、カースト制度を広めてきた話を紹介したが、祖国の裏切り者、つまり売国奴をつくる手口を今度は調べてみたい。 その前に連中の手口を大まかにまとめる。 コールマンによれば、第1次世界大戦は、ワンワールドによる新しい秩序の世界統一の思想をつくるために起こされたという。コーカサス地方の白人のハザール人が、聖書を利用するために、ユダヤ人に成りすます。そのうちにシオンの議定書がつくられたようである。 つづいて、第2次世界大戦は、天然資源獲得と、原爆を開発し、戦争による恐怖支配の統治を広めるために行なわれたようである。このために、各地にワンワールドの傀儡政権ができる。 重要なことは、ハザール人はニセモノのユダヤ人で、聖書の記述を誤解釈し都合よく利用していることにある。 前回までの話のなかで、気になるのは、2万人もの死者を出した長崎原爆投下の爆撃領域に捕虜収容所がありながら死者ゼロだった米国兵のことである。 鬼塚氏の話によれば、スチムソン(スティムソン)が、日本の海軍上層部と連絡をとり、捕虜兵を前もって避難させる手引きをしたとのことだった。 この海軍上層部とは、米内光政なのではないか、と思われる話をみつけたので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 鬼塚氏は、昭和天皇と同じカテゴリに、いわゆる「吉田反戦グループ」(ヨハンセン・グループ)や海軍大臣の米内光政を入れて、宮中グループとヨハンセン・グループとして理解する。 米内は、原爆投下を「天佑」だとはっきり述べている。 「しょうがない」という思いは、昭和天皇が1975年に発する前に、そして、思想的に複雑骨折を経ている戦後の(アホの)久間元大臣が誤解される形で、宮中グループとは別の意味で「しょうがない」と発言したよりも遙か前、戦争終結直前に米内によって表明されていた。 (米内の発言は確信犯で、久間のは無学故の自爆発言。) 米内と昭和天皇は、保守派の文春文化人にとってヒーローである。陸軍はたたくが、海軍は批判しないというプレスコードが未だに残っている。 (司馬史観もこの類で乃木は糞味噌だが、山本権兵衛-東郷は誉めている。色々調べると、陸海どちらも英王室に利用されただけ、日本人を多く殺したという意味では、乃木は英王室勲章ものだろう。だから、戦後は乃木が神格化され宣伝された。 ロシア帝国側にもメーソンがいたものと思われる。クロパトキンなどが怪しい。なぜなら、「2月革命の際に逮捕投獄されるが危険人物と見なされずにすぐに釈放されている」点などである。つまり、ロシア帝を崩壊させるために、わざと負けたとも考えられる。) このグループが、皇室の財産保全のために、日本赤十字や、スイス銀行を使った資金の移し替えを行っている傍ら、終戦工作に乗り出していた、と鬼塚氏は指摘する。 (真珠湾攻撃の前に、天皇が木戸にバチカンと交渉しろと命令を出した話は以前紹介した。) これを裏付ける、ポール・マニングという作家の記述や、共同通信が2001年と2002年8月13日が載せた記事もある。だからあながち否定できない。 さらに、このヨハンセンは、グルーやスティムソン陸軍長官から、何らかの形で広島に原爆を投下するという情報を察知していたとするのだ。この根拠として、広島には陸軍の元帥・畑俊六がおり、畑元帥は原爆投下時に「松本俊一(外務次官)父君の別荘」にいて、司令部には出勤していなかったために、難を逃れた不自然さを挙げている。 (長崎の捕虜収容所の件のことだろう。) 私(誰かは?)は、東京裁判に立ったこの畑元帥の8月6日の行動について、この鬼塚書で初めて知ったので、これ以上コメントできない。松本俊一は、いわゆる「シゲちゃん」こと松本重治とは関係ないようだが・・・ ここで、鬼塚氏の主張を私(?)なりに咀嚼すると、広島に原爆を落としたのは、抗戦派の陸軍の第2総軍を壊滅状態に置くという狙いがあったという。また、同じく第1総軍は、本部を東京に持ち、この指揮官の中に第12方面軍の田中静壱大将がいる。 鬼塚氏は、田中大将の45年8月24日の「自決」の時刻が、「森大尉が斬られた同じ時刻」である「午後11時すぎ」という、蓮沼侍従武官長の死の直前の回想記を根拠に、半藤が書く「森大尉殺害」の時刻は実際よりも2時間も遅れていた、つまり半藤は嘘をついていると書いた。 そもそも鬼塚氏は、この本の前半では違うテーマで書いていて、後半と前半で全く手法を変えている。つまり、この本のタイトルが示すように、本の目的は、半藤一利の「日本のいちばん長い日」(文春文庫、大宅壮一との共著と思われる)の嘘を暴くということにあった。 だから、本の3分の2は、半藤の本や、秦郁彦の本の矛盾点を、下村湖南(終戦時の情報局総帥)の終戦記録「終戦秘史」や、外国のレスター・ブルークスの「終戦秘話」、バーガミニの「天皇の陰謀」などの本を使って明かしていく。 文春などの週刊誌の回顧録の類も多用している。バーガミニはどの程度信頼できるか疑問だが、彼の主張のきっかけになったと理解すればいいのではないか。 要するに、鬼塚氏は、この本の中で、半藤一利が大宅壮一と共作した、「日本のいちばん長い日」というのは小説であり、皇室の関与を殆ど書いていない、というのだ。 この半藤の著では、クライマックスというか、話の中心に、8月15日の終戦を回避し徹底抗戦を天皇に向かって要望する青年将校の畑中少佐(陸軍省軍事課員)や椎崎中佐(陸軍省軍事課員)などの「小物」をけしかけた黒幕がいると語っており、これを「某中佐」というバーガミニ本の記述をきっかけに検証するという仕掛けになっている。 結論を言えば、この中佐とは、鬼塚氏は、塚本誠(戦後、広告代理店の「電通」に就職した)のことであり、この人物(情報将校)が終戦直前に台湾から呼び戻され、反乱の機運盛んな陸軍の青年将校たちをたきつけて、「宮城事件」というクーデターを起こさせたという。 この事件は、皇居に籠城して、「君側の奸」を排除し、天皇を目覚めさせて抗戦を要求することを目的にし、途中で天皇の「玉音放送音盤」を放送させないように奪い取るという「トレジャー・ハンティング」のイベントが加わったことになっている。 ところが、この録音盤捜索というのは「創作」である可能性すらあるらしく、宮内庁に入り込んだ数十名の将校の目的は、御璽(天皇の決済印)ないしは木戸内大臣を捜すことにあったというのだが・・・。 確かに、森大尉殺害と録音盤捜索のシーンは、映画プロデューサーでも関わったかのように、「嘘臭い位にリアルな描写」を半藤氏は行っている、と鬼塚著を読む前に急いで半藤の本を読んだときに感じた。要は半藤の本のは後の時代の「お化粧」である、というのが鬼塚氏の説である。確かに日本刀で森大尉(近衛師団長)を斬り殺す描写は「映画」的というしかない。 このクーデターを支援するように、阿南陸軍大臣に直訴した青年将校は、「軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐」。が、この中の井田大佐は、畑中、椎崎の二人と違って、自害もせずに生き残り、岩田と改名して、なんと「電通」に入社したという。 鬼塚氏が細部にわたって論証しているのは、少々うんざりもした。半藤氏の向こうを張って、自分なりの時系列でのドキュメントを書いた地に、解説編で資料分析をやった方が良かったのではないかとも思った。 が、いろいろの記述を読んだ結果、要点として、鬼塚氏は、「半藤本には、塚本中佐の話や、阿南陸軍大臣が終戦の前日の14日から15日の間、断続的に、皇族の一人である三笠宮と個人的に会って激しい議論をしていたことが書かれていない」ということが言いたいのだと理解した。 そして、下級将校にすぎない畑中、椎崎らがなぜ自由に皇居に入り込めたのか、という本質的な問題点を指摘する。確かに。これは鬼塚氏は、「皇族レベルの手引きがなければ出来ない話だ」というのである。 鬼塚説では、三笠宮は昭和天皇の名代である。要するに、跳ねっ返りの青年将校による「偽装クーデター」(無論、青年将校たちは真剣であるが)を演出するのは、皇室サイドをクーデターの被害者として演出し、効果的に陸軍抗戦派の志気をそぐという目的があった、ということである。 この構図は、『神々の軍隊』で浜田政彦氏が示した、「2・26事件」における青年将校の一人芝居ぶりと似ている。皇族はあくまでリアリスティックに自分たちと財産の存続を計るために、国際金融資本と交渉していたにも拘わらず、熱心な天皇崇拝者の青年将校が、勝手に理想の皇室像をプロパガンダによって描いてそれを信じていた。 (2・26事件後に南進が決まり、対米戦になる。) エリック・ホッファーのいうTrue Believerになっていたという、あの視点である。 文春や岩波系の文化人もこの等しく結局「天皇教」の呪縛から逃れられない、と鬼塚氏は前の「天皇のロザリオ」に引き続いて書く。 私(アルル)も、元来この天皇教信者だったようだが、「原爆しょうがない発言」でようやく、脱洗脳をしたと思っている。天皇は、あくまで普通の戦争指導者だったんだろうなあ、とこう思わないわけにいかない。 (三菱を通じて戦争会社に一枚噛んでいたという説もある。米内-五十六-三菱は鍵。) そして、やはり昭和天皇は、戦争の責任によって退位するべきが当然で、それをさせなかったアメリカは問題をこじらせたから悪い、ということになる。日本は総括させてもらえなかったということになる。これが今の戦争責任問題をめぐる不毛な「勝った、負けた」の論破合戦になっていると思うのである。 要するに天皇の身の保全はアメリカの戦争指導部によって保証されたわけだ。グルー大使とスティムソン陸軍長官が保証した、というのでいいだろう。マッカーサーが天皇の姿に感動したというのは、たぶんとってつけた話だろう。 (スティムソンは三菱を通じて流した石油や兵器の借金を返してもらうのに天皇の身は必要と判断したのだろう。) 「身を守ってくれたアメリカの実行した東京裁判も、原爆もこれは容認せざるを得ない。下手に突くと、やぶ蛇が出る」と昭和天皇は考えたのではないか。だから、富田メモのような靖国宮司批判をやったのではないか、というのが今の私(誰か?)の勝手な考え。 ただ、鬼塚さんたちに言いたいのは、この宮中グループというか、ヨハンセンの功績というのもある、というところ。 グローバリストのヨハンセン・グループは、吉田茂を初めとして、国際金融資本グループの「実力」を明確に理解していた。だから、憲法九条によって、戦争に巻き込まれることを避ける、という決断をした。 (英王室とバチカンが絡んでいるのだからね。天皇もどちら側なのか?) グローバルに「奴ら」の恐ろしさを本当に分かっていたからこそ、戦争放棄というウルトラCの憲法を逆用して、少なくとも軍事的には国際秩序に積極的にコミットしていくことを封じるという「妙手」を可能にしたのだろう。経済的にはむしられているけれども。 この当たりがヨハンセンのギリギリの遺産だったのだろうと思うのである。というのは甘い見方か? ☆ ☆ ☆ 米内-三菱と絡めて考えると、全て辻褄があってしまうんですね。次に続く。
2013年08月09日
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懲りない連中とは、何度も同じ手口で騙すアホです。その手口自体が、連中を自分でつくった罠に自分で嵌るような輪廻転生を続けさせ、退行への道へと進ませる罠ともなっているのに全く気づいていないのだから、自分をどんどん貶めて、サルになるしかないのだろう。 以前、太平洋戦争発端となった真珠湾攻撃が、米国南北戦争発端となったフォートサムターの攻撃に酷似している話から、リンカーンの憲法違反の徴兵制度が、連中の罠だったことを紹介した。 目的の(知能の足りない)人物に憲法違反をさせる、この罠は開戦のたびに、何度も繰り返されてきた連中の常套手段なのである。 リンカーンのときには戦争遂行合同委員会がつくられたが、これは今のアホ政権の立法府無視の憲法改正を意図した手口とよく似ている。その後のマッキンリーのときの米西戦争発端のメイン号事件の際も議会の機能を麻痺させ、大統領に権限を移譲する似たような手口が使われている。 行政府の権限が強化されたときは注意が必要である。戦争会社の役員が命令しているのだから当たり前といえば当たり前だ。 またこの手口は、第1次世界大戦のウイルソンのときにも使われた。コールマンによれば、ウイルソンは51回も米国憲法を侵害したという。 というわけで、憲法を守らない奴は、戦争企業に雇われた破壊者なのである。そもそも憲法は、人民の人権保障からなっているわけで、それを無視する奴は悪魔と思ってよい。 アホの顔にちょび髭がついていかにもヒトラーにみえてきた。アホはバチカンのスイス銀行にタンマリと資産があるという噂もあるし。 そもそもかえなくてもよいものをかえたり、屁理屈をもちだしたりするような奴はどんなルールであっても守れない極悪人なのである。国民の大半は憲法改正などどうでもよく、生活を楽にしてくれと願っているのだからね。 国民の大多数の声は届かずに逆に少数派の金持ちの意見が通るのは、金持ちが国家財政に寄生して、金銭を横取りしているからである。つまりカースト制度をつくりあげている。 憲法を違反した者の最後は、ウイルソン以外はほとんどが暗殺されて死んだことで明らかだろう。ルーズベルトも晩年痴呆症で、暗殺という説もある。 連中の見えすぎた手口が今度の不発地震で明らかになったので、御馴染みのサイトから、その話を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ ニュースの真相 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130808/1375952435#seeall 8月8日南海トラフ地震テロの不発と原爆の日 2013年8月8日16時56分ごろ、和歌山県を震源とした微弱な地震があったようです。 マグニチュード2.3の微弱な地震なのですが、なぜわざわざ取り上げたかというと・・・ こんな小さな地震なのに、関東地方まで大警報が響き渡っているからです。しかも、マスコミも大騒ぎして、おかしいなーと思ったら・・・ おやおや、どうやら大きな地震が起こる予定だったようですね?ずいぶん準備が良い事で(笑) それで、気象庁からマスコミから、全部準備して待ってたら、肝心の地震が不発だったようで? ▼参院選と不正選挙と人工地震 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130703/1372816869 そう言えば、8月5日は広島原爆の日、8月9日は長崎原爆の日でしたよね? で、2013年8月8日は、核を使った南海トラフ大地震の日にでもしたかったとか? ▼不正選挙の追求状況 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130730/1375143811 震源の深さは、いつものようにあり得ないぐらい浅い10km! (最近震源の深さも、やや深めに発表する場合もアリ♪) 地震波の発表が楽しみですねー。 ねえ、ユダヤ米国ちゃん(笑) なお、人工地震なんてあるの? なんてまだ言ってる方は、下記を参照の事。 ▼2013年4月13日淡路島の人工地震と311テロと元米国国家安全保障局の内部告発 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130415/1365995287 ☆ ☆ ☆ そろそろ自分たちの大罪に気づいてもいいころなんではないかな? 見え透いた手口にネット住民は皆気づいています。次の転生でサルの惑星に行くことになるよ。
2013年08月09日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ 鬼塚氏の本で、こいつらがアメリカの手先として協力し、畑が軍人を広島に集め、誰を生かし殺すかの生殺与奪の線引きを情報参謀第2部の有末中将(日本郷友会副会長)とともに決めていた描写がありありと書かれている。 この本を読むまで、自分は、広島に落とされたのは「軍港の呉つながりあたりなのかな?」とだけを思っていた。 しかし、読んでいくうちに、それだけじゃなく「終戦という目処をつける為に情報漏洩を最低限にするよう口減らし、損切りをしたんだったんだダダダ!」と、文字通り声を出して叫んでしまったよ。 どどどっドドどもってないよ。 鬼塚氏の本に載っていない目的、それこそが口減らしである。 そう、戦争中の相手国で観測をする役目は日本人スパイしか出来ない。 (仁科芳雄博士、データ集積→ABCCへ)、そいつらの動きの意味を追いかけると、同時に仲間の下っ端を広島に「主人からの集合命令ですよ」と集めて、文字どおり消滅させたのも鮮明に浮かび上がってくるのだと。 鬼塚氏は、原爆が落ちるのを知ってて殺す人間と生かす人間を見定めたとだけの見解だが、違う。その選別も何のためか? を考えれば簡単である。 日本という雑巾は右手と左手で絞られ、そして最後は雑巾自身はいらなくなる、捨てられるのだ。 それを実行したのが、畑俊六で陸軍、情報参謀第2部の有末中将とでもつながってる通り、戦後は、GHQ情報参謀2部(CIA)=ロックフェラー機関。これも本に出てくるよ。 さらには、畑が戦犯として一時的に収容された巣鴨刑務所では、その後の日本版CFRの重要人物、賀屋興宣と一緒にいたところまで本に出てくる。 鬼塚氏は、ロックフェラーではないロスチャによる長崎での原爆で、不思議なことに「アメリカ人捕虜は一人も死ななかった」とも書かれてるが、自分は、この証拠隠滅の為に広島に下っ端を集めて葬り去ったことのほうが大事であると自分は思う。 余談だが、長崎→反カトリック→ロスチャの仕業という話も信憑性が高い。 なぜなら、カトリックは有色人種意識が残ってるキリスト教で、本来ロスチャよりなはずだが、なぜか日本では四谷資金などの例を出すまでもなく、カトリックとGHQ情報参謀2部、反共カルト、純白人崇拝であるロックフェラーとの連携が多く見つかる。 本来、ロスチャ圏であるEU、そのイタリアのマフィアがロックフェラー系の動きに同調し、それにカトリックの一部も連携してることをなんとなく以前から意識してたので、そこらへんの流れが日本にもつながってるのかな?と思ってた。 それともカトリックマネー網とロック系でつながってる糸でもあるのか?ぐらいに考えていたけど、帰一教というロスチャの事情、それと原爆をロスチャが長崎に落としたとつながれば、そこから反共カルト化=ロックフェラー化したカトリックが日本ではいっぱいいることに「なるほどね」と頷かずにはいられないわけである。 ここらは、調べてまたわかったら教えるね。 →余談終了。 (イエズス会の日本支部は上智大学だそうで。) さて、そういうわけで広島の原爆は 政治的な陣頭支持をして後始末、プルサーマルを導入した福島県知事である佐藤雄平 それを担ぎ出した、GHQ情報参謀2部そのまんまの東京地検特捜部 (旧陸軍売国諜報機関の残兵が電通と東京地検に流れたらしい。恐らく北朝鮮とも絡んでいるよう。) イランで核物質の大量爆破を企画したモサドとつながるイスラエル国防企業もIAIの起爆装置管理システム-スタックスネット必要なし(イラン核施設を破壊したというコンピュータウイルス) 観測してデータを集積するために、われ先にやってきたイスラエルの医師団 そのお国らの指令で海で塹壕を掘っていた地球号 そいつらの情報統制をする大本営の記者クラブ・・・・ 彼らによって、福島に原爆は落とされ・・・ あれ? あらら、「終戦」と「開戦」がひっくり返ってしまいました。 忘れてください。 「まだ」状況証拠でしかないですから。 プルサーマルを導入した張本人なのに批判されないのと、戦犯なのに表舞台で暗躍しているというのも含めて「まったく同じ」というふざけた構図だがね。 イランでモサドとCIA、イスラエルとアメリカが核テロをやったというのを知ってるだけで、全部根拠のある状況証拠。 さて、日本に多数おられるCIAの手先の皆さんよ。 あなたが、どんなに忠誠を誓おうと、「裏切らないという保証」はどこにもないし、そんな確約を作ることは絶対に出来ない。 戦争の時、最後に口減らしをした。これは覚えとけ。 今の日本、TPPという命令をきかされ、ドル衰退という負け戦の中で、武器輸出までやらされようとしている。 しかし、それでもアメリカも含めて、ドルという通貨では負け戦にしかならん。 今はまだ真珠湾に近いが、本当に情勢が確定したとき、あんたらにも「集合指令」が届くかもね。 あんたらの代わりもいくらでもいるし、むしろ邪魔になるんだよ。 そのときは、おまえら自身を地震兵器の標的、もしくは某国からのミサイル攻撃とでもして一掃するかもね。 さらに、さすがにここは日本でしかも偽装事故なわけで、911のように「いらなくなった奴」までも片っ端から捕まえるようなことは、今はまだ出来ないからな。 俺も含めて邪魔な奴、すべてに対して、そういう手法にならざるを得ない。 あの国は自分自身の利益のためならなんだってやる。 ロスチャイルドが、白人ユダヤをアメリカに追い出したことで、純粋な白人だけが生き残るという思想の今のアメリカはナチス化している。 そしてそれが、ロスチャとロックフェラーの対立につながった。 白人だけが生き残るという思想の奴らにこき使われてるってことだ。 (ハザール人がユダヤ人に化けて、世界支配構造をつくろうとしている。) そんな奴らの命令をきく日本人。大部分は、単純に代えが効く、口減らし対象と考えていいだろう。 それ以上の、深くかかわりすぎて、代えがめんどくさいような手先としての重要人物は、子供は2人以上産まないほうがいい。 脅しの手法として、子供が2人いたら一人を薬漬けなどの重病、もしくは処分し、残った1人を絶対に失いたくないと思わせる強力な楔を作る。 これは人間心理学的にも脅しの手法としても実に理にかなった手法だから。 戦争のときは、原爆で証拠消滅は簡単だったろうが、今の偽装戦争の時代ではどうやってやるんだろうね? こいつら自身の口減らしのことも兼ねて、また自作自演のテロでも日本で起こして、俺みたいなのを逮捕できる体制にするのは十分考えられますね。 あ、そうそう、要らなくなった→口減らし、この「いらなくなった雑巾」という話は、冷戦構造が解消されてからの日本、今の人口削減モデル地区という状況そのものでもあるわけです。 嘘つきは人殺しの始まりです。 デッドマン、ウソツカナイ・・・・、しゃべれもしないけどな。 ☆ ☆ ☆ 連中は、日本を米軍の下請けにして、性懲りもなく同じ手口で、日中紛争を必死に演出しているようです。連中の改心を期待して待ってたら、人類が先にサル化してしまうかもしれません。サル化した人類に転生するのは連中なんですけどね。 サル化しなかった霊魂は、次のステージに進むので、まぁ、連中は墓穴を掘っているんですけど。連中の世界支配構造つくりは動物園のサル山をみればはっきりしているんですよ。あれが連中の将来なんです。悲しいですな。馬鹿らしいです。 下降する進化もあることをダーウィンが知らなかったせいですね。下降する進化は退行なんですが、だからルシファーは、肉体を持てないわけでね。持とうとすると下等になるからです。人にちょっかい出して蛇のように這いずり回るしかないわけです。人を見下し奴隷とすると、自分が見下され、奴隷化される存在になることは、カルマの法則で明らかなんですけどね。 何しろバランスにより、バランスするのが唯一神の働きですから。鏡の法則ですね。
2013年08月08日
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前回は、広島、長崎の原爆投下が、オプス・デイや統一教会を広めるために行なわれた可能性がある話を抜粋紹介した。 少なくとも、前回紹介したオプス・デイの聖書解釈は素人でも間違いであることは容易にわかる。 原罪は、神から人間が離れたことで生じる苦悩のことをいっているのであり、仕事とは、その罪滅ぼしなのだから、神から離れなければ、仕事などせずともよいのである。 ここで聖書が語ることは、神である宇宙法則から離れれば、その分、仕事が増える、ということである。 宇宙の法則に従えば、人間に仕事など生じないわけで、それは大海の流れに身を委ねれば、その波が運んでくれる、というようなものである。 つまり、同胞を支配しようとか、出し抜こうとか、自分だけ得しようとすれば、それが苦悩となり、仕事になる、ということである。 既に神により統一されている宇宙を統一しようとか、単なる人間を信仰するなどもってのほかで、そこから仕事が生まれてくるわけだ。 闘争や戦争が起こるのは、自分を誰よりも優先したいという我侭があるからで、そのような我侭が仕事をつくっている。利益が生じることを仕事というわけだが、利益とは我侭にすぎない。 大企業の利益のために何百、何億人の生命が犠牲にされてきたことは人類史が語るところである。宗教は生命を救うどころか、多くの人々に絶望を言い渡し、金儲けに勤しんでいるだけにすぎない。 考えてみればわかることだが、誰かが利益を受ければ、他の誰かが損をすることになる。だから、現代の仕事とは、すればするほど罪深いことになる。つまり、神の元に再び戻るには、なるべく仕事をしないに越したことはない。だから、仏陀もキリストもホームレスだったわけである。 聖書の創世記が語るのは、主なる神は、宇宙法則を守るように人間をつくったわけだが、人間はそれに背いたため、自分の足で歩かざるを得なくなるから、自分の成り行きを自分で運ばなくてはいけないから、運命が苦悩になる。 いずれにしても、以前紹介した「チベット永遠の書」の真の隠者の発言に優るものはない。以下に再掲する。 「天国を選ぶも地獄を選ぶもその人に選択権があり、その人の行い次第である。」著者:「では、なぜ他の人は求めるものを生命から与えてもらえないのですか? この世には僅かな食べ物にも事欠いて飢えている人たちがたくさんいます。お金にひどく困っている人たちがたくさんいます。それでも生命は食べ物もお金も与えてくれないではありませんか」 聖人:「友よ、生命は公平なのだ!。生命があるものを与えてくださらないときは、それが誤用される恐れがある場合か、さもなければしばらくの間、本人に受難の必要があると認められる場合なのだ。生命のためにではなく、卑小な自我のために全ての欲望を満たしてしまうことこそ、多くの人間にとっては最大の災いなのだ」 「人生のどのような事も相対的であること、絶対的な価値は何一つないことを忘れてはならない。善あるいは悪でさえ、実際には存在していないのだ。真に善なるもの、あるいは真に悪なるものは何一つもない。われわれが物事をどう扱うかにすべてはかかっているのだ。 ある修行をしたからといって若さを保てるわけではない。若さを保つために何を食べようと行おうと、心が老けていれば体の老いはすぐに始まるものだ。では、若さとはなんだろうか? それは偏見から自由でいること、習慣的な考え方、習慣的な生き方から自由でいることである。自発的で愛に富み、熱中している限り、われわれはいつまでも若いのだよ」 「(最初に取り組むべきことは)自分自身を理解することだ。自分を理解することと比べれば、人を理解する事の方がはるかにたやすい。あることに対して偏見を強め利己的な関心を増せば増すほど、それを理解するのがますます難しくなる。 自分ほど客観的に判断することの難しいものは無い。自分自身に完全に目覚めるよう人々に語ることだ。自分自身の動機を絶えず調べ、自分自身に率直になるように人に語ることだ。それが自分に欠けているものを知るための第一の条件であり、理解に向けての第一歩といえるだろう。 結局、とても簡単なことなのだよ。愛することだ。深く、深く愛することだ。そして愛が自己中心性という毒から自由になっていれば、それだけ深く理解することになるから、人に対して優越感を持ったりしなくなる。真の愛が理解を呼べば、この理解が ”霊的傲慢”という恐るべき落とし穴から人を救うのだ。」 というように、自尊心と利己心をなくすことが人生を楽に生きる鍵であるようだ。 さて、世の中にはいろんな宗教があるが、どんな宗教も妄信せずに、ほどほどがよいと思える。結局、宗教にすがるのは、自分がなんたるかがわかっていないからである。自信がない誤魔化しである。 どんな人のなかにも神はいるのに気づいていないだけ、人生を設定しているのが神なのである。聖書に限らず、宗教の経典を心底良心から読めば、誰にでもわかるはずである。わからなくても、人生の体験を通じてそのうちわかるようになる。 日本人は信じやすく騙されやすいとはいえる。会社に入っただけで、既に会社教になっているくらいである。外国人からみれば、仕事中毒になっている。つまり、宗教に対する免疫ができていない。だから、陰謀論を読み解くことで、宗教に対する免疫をつけるべきだと思う。 そういうわけで、長々と脱線したが、再び、広島、長崎の原爆投下についての話を、あるサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 虚空と君のあいだに http://www.mkmogura.com/blog/tag/%E9%AC%BC%E5%A1%9A%E8%8B%B1%E6%98%AD CIAの口減らし CIAの手先の皆様へ、子供を産むのなら1人までにしといたほうがいいよ。 終戦間際の日本に2発の原爆を落とされて終戦となったわけだが、なぜ広島と長崎だったのかが、なんとなく見えてきた。 「口減らし」だったんだね。 なぜなら・・・ おっと、食料のための人口削減という口減らしの意味じゃないよ。 情報漏洩を少なくするための口減らし。文字通り。 それが原爆の意味であり、それは今、311の後である「戦争中である今の日本」でも考えるべきことだったんだね。 ここらへんの考察の参考にさせてもらったのが、この本。 原爆の秘密 鬼塚英昭 isbn978-4-88086-232-3 国外編 isbn978-4-88086-233-0 国内編 鬼塚氏は、以前の本、天皇のロザリオでは、戦後はキリスト教を国教化した統治をしようとしたと言い張っていたわけだが、この本では長崎はカトリックの日本の聖地だから原爆が落とされたと、まるで手のひらを返したようになってしまっているが・・・。 (キリスト教化というよりは、メーソン化に近い。メーソンにとって、カトリックは敵ということがわかる。) まあ、それはよしとしよう。 自分も「長崎はカトリックだから原爆の落とされた」というのは同意である。 知ってのとおり、当時は既に今と同じ、帰一教=イルミナティ教であって、左翼的な日本国憲法やフィリピンの現状を確認するまでもなく「イルミというかロスチャはキリスト教を邪魔に感じてた」というのは、間違いないことだと自分も判断してるからである。 もちろん、キリスト教(カトリック)というネットワークの中にいたであろう走狗をついでに処分したというのもあるだろうね。 長崎については、このようにまだ不確定な予想だが、広島のほうは、もっと鮮明に理由が透けてくるのである。 今、考えるべきなほう、大事なのは広島だ。 知ってのとおり世界大戦はロスチャイルドとロックフェラーの共同作業である。 鬼塚氏は、こう説明している。 広島のウラン型は、ロックフェラー・メロン 長崎はプルトニウム型で、モルガン・デュポン こうであると。 前者がロックフェラー系で、後者がロスチャイルド系とも言い替えられるね。 鬼塚氏は、世界のウラン鉱山はロスチャが支配しているとともに、アメリカの「ウラン資源国ではない」という事情も含めて、ベルギー領コンゴから運ばれたウラン鉱石が、ロックフェラー製の原爆となって投下された事情を書き記してくれている。 ロスチャとウラン鉱山、アメリカのウラン事情ともどちらも最重要な着眼点で、そこを持って、この原爆製造について追求してる、というところは評価すべきところだ。 まあ、正直、それ以上の「本当に製造されたのか」などまでの深みまでは、調べなおさなきゃわからないというのが正直な感想だ。 しかし、この本を読んでいて、ああ、なるほどと感じたのが「口減らし」の部分である。 本に書いてないことが見えてくるのである。 さて、原爆を落とした理由は何でしょう。これを考える上で、絶対に間違いのない理由を探せばいい。そうすれば見えてくる。 まあ、諸説あるが、それ以前に「実験であること」は間違いないわけ。 既に敗戦国として確定していた日本人を使って原爆の人体実験をする。こんなスペクタルなことはない。それが落とした奴らの頭の中なわけね。 そう、「実験」。だからデータを取る必要があったわけ。 というか、絶対にデータは取りたかったんだよ。 その着眼点を持つと、広島の原爆というのが 後始末とデータ集積を誰がやったか? が見えてきて、鬼塚氏の本に書いてないことさえも、つながって見える。 実験なら、その時のデータを取る本当の協力者が絶対にいる、戦争が八百長であることを知ってれば、それは間違いないと確信を持って言える。 そいつらの存在が鬼塚氏の本で見えてくる。 具体的にいうと、 第2総軍司令官 畑俊六(軍関係の指揮・パリ平和会議代表や陸軍大臣など) 広島県知事 高野源進 (後始末する役) 二号研究→仁科芳雄博士(計測する役・のち河辺機関) こんなやつらね。詳しくは本読んで。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月08日
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前回抜粋紹介した話から、ようやく悪魔管轄の戦争会社が、広島、長崎に原爆を落とした理由がなんとなく漠然とわかってきた。前回の話を再掲する。 ☆ ☆ ☆ すでに、朝鮮半島に内乱を起こしつつあるのだ。ここを戦場にもっていけば、アメリカは救われるだろう。 (米国が英女王とバチカンの戦争会社であることを暴露する発言である。) 福岡、八幡、下関は、その戦争の後方基地となる。天皇には私たちから、そういう場合は協力してくれと申し上げている。彼は協力すると答えた。福岡と八幡は特に重要だ。 (天皇も一味であると告白している。) 私は福岡県と隣接する大分県別府市に一発の爆弾も落とすなと、ルメイ少将に命じたのをお前も知っていよう。朝鮮戦争のための慰安基地として、別府ほどに理想的な土地はないのだ。いいか、これも秘密だ。 もう1つ、長崎でなければならない理由がある。ローマ・カトリックはヒトラーの残党たちを南米に逃している。日本の真珠湾奇襲と同じパターンだよ。 (南米から真珠湾攻撃のような何かが起こるのか?) 「日本のローマ」である長崎の浦上に原爆を落とし、ローマ・カトリックに意趣返しをすることになっている。ローマ法王を震えあがらせ、俺たちが育てた「オプス・デイ」を内部に入れて、やがてローマ・カトリックを乗っ取るためなのだ。 (オプス・デイが連中の仲間らしい。) (中略) 「捕虜より得たる報告によれば『センターボード』の目標5都市のうち、連合軍捕虜収容所なきは広島のみ。返答待つ」 ハンディは、グローブズと簡単に電話で打ち合わせてから返電を書いた。グローブズは、陸軍長官が捕虜の件でかれこれ言わなかったのでほっとしていた。スパーツヘの返電は次のとおりであった。 「もし貴官の情報が確かと信ずれば、広島を最優先せよ」 スパーツには自分の得た情報が信頼できないと考える理由はなかった。こうして広島が目標のリストのトップに置かれることになった。 ☆ ☆ ☆ 以上の話によれば、次に朝鮮戦争を計画していたために、北九州一帯は重要な拠点となることと、広島には捕虜収容所がなかったため、ということになる。広島投下については、日本側の徹底抗戦派の口封じもあったようだが、次回に譲る。 そして、コールマンの、広島、長崎にはカトリックが多いという理由は、ローマ法王への恐喝で、オプス・デイがバチカンを乗っ取る目論見ということのようである。 しかし、日本のカトリックを破壊することが、なぜバチカンの脅威になるのだろうか? 単純に考えて、他のキリスト教、例えばプロテスタントの信者を増やすためだろうか? 家康以来、日本はイエズス会のせいで、カトリックは禁教とされたが、逆にオランダなどのプロテスタントは貿易と引き換えに大目にみられている。しかし、日本人の多くは、カトリックもプロテスタントも、同じキリスト教とみなしているから、カトリックを破壊することは、逆にプロテスタントの布教の増強になることは確かだろう。 実際に、イエズス会は、中国支配を狙う橋頭堡として日本の長崎を足場にした。 連中にとって、日本に思想の足場をつくることが奴隷支配に必然であることがわかる。このことに気づいていたのが、秀吉、家康であり、なにより西欧侵略を恐れていたのが孝明天皇だった。 連中は薩長を唆して、孝明天皇を弑逆した。そして、日本はキリスト教の侵入を許した。キリスト教といっても、実態はキリスト教を隠れ蓑にしたメーソンに近い。 と近代の日本の歴史のなかのキリスト教を非常に粗くみてみたが、そこにカトリックを破壊した答えはみつからない。 しかし、連中が次の朝鮮戦争を狙い、カトリックを破壊したことに的を絞って、現代から逆算して考えてみれば、自ずと浮かび上がることがある。 オプスデイの信者が多いのはいうまでもなくフィリピンであり、そして日本のキリスト教信者といえば、ほとんどが得たいの知れないプロテスタントで、なかでも多いのが統一教会である。 そこで、統一教会とオプスデイをネットで調べると、やはり関連が出てきたので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 超巨大カルト、バチカン研究:(10)オプス・デイの正体とネオコン 今まで日本ではほとんど知る人の無かったオプス・デイも「ダ・ヴィンチ・コード」のおかげでその名が多少は知られるようになった。しかしこの小説で描かれるような、裏社会で闇の権力を握る中世的な不気味さを漂わせた秘密教団のイメージでこの教団を見るならば、全くその正体を見誤ってしまうだろう。 確かにこの教団(創設1928年)の初期には、ヌメラリーと呼ばれる僧職あるいは独身を守る会員の中には、とげの付いた鎖帷子を身に付け自らの背中を鞭で打ってこの教団に忠実であろうと務め苦行する者たちもいたかもしれない。しかしその初期であっても教団の圧倒的多数を占める世俗会員たちがそのようなことをしたとは思えない。 現在オプス・デイの会員は世界に約8万4千人と言われるが、その中心になっているのは、スマートに着こなしてウオール街で仕事に励む証券マンやエコノミスト、重役室で経営戦略を練る銀行や企業の幹部、オフィスでてきぱきと依頼の処理に励む弁護士や会計士、ロビーとの折衝や外交に忙しく飛び回る政治家とそのスタッフ、その他、高級官僚、軍の幹部、マスコミの編集委員や作家・評論家、大学教授や学者といった、有能な社会エリートたちなのである。(超巨大カルト、バチカン研究:(5)「米国・バチカン同盟」の軌跡とオプス・デイ>を参照のこと。) しかしこの教団には正式な会員の他に「協力者」という名目のシンパたちが数多くおり、その規模や実体は必ずしも明らかではない。それは社会の有力者層に意外なほど幅広く浸透し非常に柔軟な構造を持っているように思える。 カトリックの僧職に就いている者は2千名余りだが、現在バチカンの実務を取り仕切って「実質的な教皇」と言われる広報室長ホアキン・ナバロ・バイュス、枢機卿の中で影響力の大きさを誇るフリアン・エランスとルイス・シプリアニは自他共に認める正式な会員だ。 そしてローマ教皇ベネディクト16世は先代のヨハネ・パウロ2世と同様にこの教団の重要なシンパであり、バチカン市国の国務長官アンジェロ・ソダノはオプス・デイに極めて親密で隠れ会員と目される。またカトリック・シオニストとしてイスラエルの信任が厚いクリストフ・シェンボーンもこの教団に近い。バチカンはすでに完全にオプス・デイに乗っ取られていると考えて構わない。 世俗社会でも、「EUの父」として知られるロベルト・シューマン、チリの元独裁者ピノチェット、元イタリア首相アンドレオッチ、ポーランドの労組「連帯」の委員長で後に大統領となったレフ・ワレサ、元スペイン首相アスナール、元イタリア首相ベルルスコーニなどが会員、あるいは極めて近いシンパと言われる。 またEU執行部と議会のほかに、イタリア、スペイン、フランス、ベルギーなどの国会議員や政府閣僚には会員が大勢いるし、スペイン国王フアン・カルロスを含む欧州各国の王族や貴族にも会員とシンパの層が広がっている。 また以前からバチカンと表裏一体のロスチャイルド系資本とのつながりは当然で、閣僚に会員を登用した英国首相トニー・ブレアはカトリック教徒である妻に引きずられてオプス・デイに接近していると言われ、英国聖教会との馴れ合い的な関係も疑われる。 レーガンとブッシュ父子といった米国大統領はこの教団には頭が上がらず、歴代のCIAやFBIの幹部にもオプス・デイ関係者は多いと噂されている。 「伏魔殿バチカンに巣食う薄気味の悪い秘密教団」のイメージでこのカルト組織を見ているととんでもない思い違いをしてしまうのだ。彼らは現実に世界を動かす巨大は実力をすでに身に付けているのである。 神学的な屁理屈はともかくとして、実際のオプス・デイからうかがわれることは、この教団こそまさに『キリスト教的な粉飾を施したある種の世俗的なメシアニズム』の典型と言える点であろう。 これは<超巨大カルト、バチカン研究:(7)「世界統一神権国家」への道のり(B)シヨンからオプス・デイへ>でも述べた理念からも解ることだ。一応『キリスト教的な粉飾』をほどこしているので、例えば「原罪」などの概念は持っているが、その位置づけは従来のカトリックと比較すると見えないくらいに水で薄められている。 ここでオプス・デイ自身のサイトからThe most important "business": the children(最も重要な「ビジネス」:それは子供作り)と題される文章を見てみよう。 キリスト教の地でさえ、人々はしばしば仕事を神から与えられた罰であるとみなしている。最初の親【アダムとイブのこと】が原罪を犯した後でエデンの園から追放されるときにヤーウェが言った言葉は十分に馴染み深いものである。 「お前たちは額に汗してパンを食べなければならない。」しかし多くの人々は次の神聖な命令を忘れる。「増殖しそして何重にも増やし、この地を満たして支配せよ。」主が男と女を自分に似た姿で作ったときのことである。 最初の「キリスト教の地でさえ【原文:Even in Christian lands】」は奇妙だ。旧来のカトリックは、アダムとイブが犯した罪の結果として人間は苦労して働き子供を産まねばならなくなった、という聖書の解釈をしているのだから、「キリスト教の地だから」ならば話はわかるのだが。 オプス・デイはキリスト教とユダヤ教をゴチャゴチャにしているのだろうか。ホンネがポロリとこぼれたのかもしれない。 また「増殖しそして何重にも増やし、この地を満たして支配せよ。【原文:Increase and multiply, fill the earth and subdue it,】」は日本語の旧約聖書では「産めよ増やせよ、地に満ちよ」となっていることが多い。 この文章の聖書から引用ではそれに「支配せよ」がくっついている。 まあこれが一神教の本質的な思想なのだろう。そしてこの論文では原罪の意味よりも増殖して地球を支配することが強調されている。これが人間にとって最も重要な「ビジネス」である、という主張なのだ。この点は面白いことに文鮮明の統一教会と全く軌を一にしている。 しかし何といってもオプス・デイの聖書解釈の特徴は「仕事」に関するものであろう。旧来のカトリック教会は旧約聖書創世記2:15を「主なる天主は、人間をとらえてエデンの園に置き、そこを耕させ、守らせた。」と解釈してきた。 オプス・デイの創始者ホセ・マリア・エスクリバー・デ・バラゲー(以下、エスクリバーで記述する)はこの箇所を「人間は働くために創造された」という意味であると説明する。 その上で旧来のカトリックが「人は苦悩のために、鳥は飛ぶために生まれた」を訳したヨブ記5:7を、エスクリバーは「人は働くために、鳥は飛ぶために生まれた」と解釈しなおした。 (完全な誤訳である。) 私はこれに関する神学論争に加わる気は無いが、原罪の結果として人間は苦しんで労働しなければならない運命を背負っている、と解説してきたカトリックの発想は大きく変えられ、オプス・デイにおいては「労働は聖性追求の特別の手段であり、われわれの内的生活―社会の中における観想生活―は、われわれ各人の外的な労働の生活のなかに、その源泉と推進力がある」というように、人間の労働は原罪による罰ではなく「聖性追求の特別の手段」とまで言われる。 もちろん歴史的にカトリックの中にはドミニコ会のように労働を聖性追求の手段としたグループもあった。しかし「特別の手段」つまり「最も優れた手段」とまで解釈した例はなかった。またカトリックのこのような労働観がカトリック諸国で資本主義の進展を遅らせた原因となったのかもしれない。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月08日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ グローブス将軍はスティムソン陸軍長官に依頼した。 「閣下、私は重大なミスを犯しました。捕虜は1000人以上います。長崎港の収容所だけだと思っていましたが、あの目標地に定めた三菱の中にもいます。閣下、閣下のルートでこの捕虜たちを救って下さい」 「グローブス将軍、最後の最後で難問にいたったが心配しなくてもよい。私は小倉の代わりに長崎を第1目標にしようと思っていたのだ。グルーを通じてさっそく交渉をしよう。最少限の捕虜が三菱で犠牲になるのは避けがたい。 しかし、長崎港にある収容所にいるのはほとんどがアメリカ人だ。爆弾を投下する前に、日本海軍の艦船かどこかに彼らを密かに移す。原爆が投下された後に、また彼らを収容所に戻す。 この収容所には何人も外から入れてはならない。そして、捕虜たちに将来にわたって沈黙を守れと言わねばならない。帰国前に誓約書を書かせろ。さもなくば、国家反逆罪で罪に落とすとな」 (このことから、日本海軍上層と、スティムソン-グルーが通じていることがわかる。) ウェラーの報告書は永遠に葬られたはずであった。ウェラーは記者として1番最初に長崎に入ったが、日本から追放処分になった。 しかし、彼は貴重な記録を残して死んだ。その息子がこの事実を伝えるまでに60年の年月が流れた。私の推測以外に別の推測はないし、事実があるならば、是非、公にしてほしい。どうして1000人の捕虜のうち8人しか死ななかったのか、を。 (日本海軍の上層部が三菱を介して敵であるはずの米国の上層と通じていたことを伺わせる。戦争を通じて、三菱が大きくなったことから、三菱が多くの日本人を殺したことは明らかである。三菱はグラバーのときからメーソンとのつながりが深い。 このこと1つをとっても、戦争を起こすのは国ではなく、大企業であること、大企業の役員であることが明白である。福島事故でも、東電の役員が無責任なのは、もしかするとあらかじめ知っていたのかもしれない。) スティムソン陸軍長官の7月31日(火)の日記の一部を記しておく。 「9時30分ごろジョー・グルーが、国務省所管の問題について私と話し合うためにやって来た。気の毒に、彼は上司が不在であるため、がたがたの国務省を運営することでいささか苦労してきたのだ。 そういうわけで相談することがたくさんあり、私は私の出張やS11(?)にかかわる出来事について最新の情報を彼に提供した。日本に対する取り扱いについて私が述べた見解を彼が全面的に支持していることがわかり、嬉しかった。」 このスティムソンとグルーの会話の中にグローブス将軍が加わっていたと私(鬼塚氏?)は考える。グルーは、全面的にスティムソンに協力すると約束したと思える。 『エノラ・ゲイ』の中に、「私(グローブス将軍)は、それ(捕虜収容所のこと)を情報として陸軍長官にみせることを話し、さらにそれは我々の責任であって、その責任を長官に預けるつもりはないことを付け加えた。私は、もしその気ならば長官が変えることもできることを取り立てて言わなかったが……」とグローブス将軍の記述がある。 「もしその気なら」とは、どういう意味なのであろうか。スティムソンが長崎をあきらめるということなのであろうか? それとも、私(鬼塚氏?)が先に書いたように、ステイムソンなら、日本のある支配勢力を動かして、捕虜を無事に保護しえると思ったのではなかったか。 それで、スティムソンは急いでグルーを国防総省に呼びつけた。グルーはスティムソンの意向を受け入れた。それがスティムソンの「日本に対する取り扱い」であり、「私が述べた見解」をグルーが承諾し、グルーは「全面的に支持」する、と述べたと考えられる。 ここに正直に告白する。私(鬼塚氏?)はウェラーのことを書いて、この章の終わりとした。そして床についた。その深夜(2008年1月16日朝近く)に、夢を見ている自分に気づいた。 夢の中で、7月31日のスティムソンの日記について誰かに語りかけている自分に気づいた。夢の中の私は、もう一つ別のことを誰かに語り続けていた。そのことも記すことにしよう。夢の中で、スティムソンが登場してきた。そして、思いもかけないことを語りだした。 (鬼塚氏は霊能者なのか??? ともかくも鬼塚氏の推測らしい。) グローブス将軍よ、小倉でなく長崎に私がこだわるには2つの理由があるんだ。1つは、戦後に朝鮮で戦争を計画していることだ。ホプキンスが2ヶ月前にスターリンと会見した。このときに、スターリンは朝鮮半島を南北に分断することに同意した。 私は駐ソ大使アヴェレル・ハリマンとポツダムで朝鮮半島問題について話し合った。マーシャル将軍も賛成していることなのだ。それは、絶対に秘密にしてくれ・・・。 第二次大戦が(ヨーロッパで)終わった今でさえ、兵士たちは就職難だ。あと数日でこの太平洋戦争も終結する。戦争がつくった大事業がすべてなくなる。分かるか? 私はバーンズを追っ払い、マーシャルを国務長官にするように工作しろとハリマンに言った。マーシャルなら、俺たちの言いなりだ。すでに、朝鮮半島に内乱を起こしつつあるのだ。ここを戦場にもっていけば、アメリカは救われるだろう。 福岡、八幡、下関は、その戦争の後方基地となる。天皇には私たちから、そういう場合は協力してくれと申し上げている。彼は協力すると答えたのだ。福岡と八幡は特に重要だ。私は福岡県と隣接する大分県別府市に一発の爆弾も落とすなと、ルメイ少将に命じたのをお前も知っていよう。朝鮮戦争のための慰安基地として、別府ほどに理想的な土地はないのだ。いいか、これも秘密だ。 もう1つ、長崎でなければならない理由がある。ローマ・カトリックはヒトラーの残党たちを南アメリカに逃している。日本の真珠湾奇襲と同じパターンだよ。 「日本のローマ」である長崎の浦上に原爆を落とし、ローマ・カトリックに意趣返しをすることになっているんだ。ローマ法王を震えあがらせ、俺たちが育てた「オプス・デイ」を内部に入れて、やがてローマ・カトリックを乗っ取るためなのだ。 (イエズス会と思っていたが、オプス・デイも同じ狢のようである。) さあグローブス将軍、君の名誉は守られる。君はあと十数日で、アメリカで永遠の名のつく英雄の一人となる。何も心配することはない。スパーツにすぐに返電しろ。心配するなとスパーツに言ってやれ。スパーツから具体的な内容の電報が入ってこよう。すぐに私のもとへ持ってこい。戦後、君はしばらく原爆関係の仕事をやれ。そして、モルガンの会社の重役になるよう私が手配している。 (レプタリアンの仲間入りということだろう。) 英雄・グローブス将軍よ、いよいよ最後の時がきた。何ら迷うことなく、ベストを尽くせ。 このスティムソンとグローブス将軍の会話の後の出来事を『エノラ・ゲイ』は次のように書いている。 その間にスパーツは、もう一本の極秘電をハンディに送っていた。それはこういう電文であった。 「捕虜より得たる報告によれば『センターボード』の目標5都市のうち、連合軍捕虜収容所なきは広島のみ。返待つ」 ハンディは、グローブズと簡単に電話で打ち合わせてから返電を書いた。グローブズは、陸軍長官が捕虜の件でかれこれ言わなかったのでほっとしていた。スパーツヘの返電は次のとおりであった。 「もし貴官の情報が確かと信ずれば、広島を最優先せよ」 スパーツには自分の得た情報が信頼できないと考える理由はなかった。こうして広島が目標のリストのトップに置かれることになった。 この『エノラ・ゲイ』の中に、原爆投下によりもたらされるであろう被害についてマーシャル参謀総長に提出した報告書が出ている。スパーツからの至急電報の少し前のある日のことである。甚大なる被害が出ることは次第にロスアラモスの研究所長オッペンハイマー博士によって報告されていた。間違いなく、オッペンハイマーの報告書であろう。 さすがのグローブスでさえも「スパーツの質問は答えやすい質問ではなかった」と認めざるをえなかった。彼は原爆の生産計画を知らせた参謀総長マーシャル将軍への先日の報告のなかで、原爆爆発の付近にいる人々すべての運命がどうなるかを鮮かに描き出していた。 「原爆が空中1800フイートの高度で爆発するとして、その爆発の直下の地上から計った場合、少なくとも半径1000フィート内では爆発の爆風は致命的である。2500フィートから3500フイートの間では、人間に対する爆風の効果はきわめて痛烈である。 熱と火焔との効果は約1500フィートから2000フィートの間では致命的である。爆心から10マイルの地点では、1秒の数千分の1の間、光は太陽を1000個寄せ集めたと同じであり、1秒目には太陽1個または2個と同じ明るさとなるであろう。 爆発を直視した者に対する効果は爆心から半マイルの地点では一生不治の視力欠損、1マイル地点では一時的盲目、10マイルないしそれ以上の距離でも一時的視力欠損を呈するであろう。全然遮断されていない者に対しては、3500フィート以内ではガンマ線の作用が致命的であり、約2000フィートまでは中性子の作用が致命的となる」 この文書は7月16日のプルトニウム爆弾の実験から得られた報告書である。長崎でこの爆弾が炸裂した。長崎では、グローブス将軍やオッペンハイマー博士の予想を上回る成果を上げた。 しかし、ここに奇跡が起こった。爆心地から近いところにいた捕虜収容所の人々はほとんど死なず(1000人中8人が死亡)、原爆病にもかからなかったのである。 私はこの奇跡が起きたことを記して、この章を終わる。次章は運よく原爆では死ななかったが、食糧や薬を与えられずに死んでいった人々について記すことにしよう。 鬼塚英昭 原爆の秘密[国内篇] 第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐であるp137-146 より (「鬼塚英昭」の本だったのか、できれば先に掲載してほしい。) 広島、長崎の人々は、ウラニウムで儲けながら支配しようという人間たちの、デモンストレーション・研究用実験動物にされたのであった。 協力した日本人がいるらしいことは、まことに情けない。今も同じようなものだが。 ☆ ☆ ☆ TPPに協力する奴がレプタリアンの仲間で、日中を衝突させようとしていることは明らかである。人類奴隷牧場の指令塔である戦争会社とそれを操る英国王室-バチカン-イエズス会やオプス・デイを解散させることが人類の平和につながる。
2013年08月08日
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悪魔崇拝の連中が第2次世界大戦を起こした真の理由は、悪魔の道具である原爆を開発するためだったことを、前回紹介した。 連中は、悪魔を手に入れるために戦争をした。連中には良心がないのだろう、良心があれば、とんでもない犯罪であることは明白である。良心の代わりに、優越心があるようだ。レプタリアン(恐竜)と呼ばれても仕方ないだろう。 原爆がこの世からなくならない理由は恐ろしいことに、連中のこの優越意識にある。そして、連中が人類を裏切る背徳者で、とんでもない選民思想の虜となっていることが伺える。 生まれたときから、カースト制度により上流階級にいるのだから、苦労知らずで思い上がってしまうのも仕方のないことかもしれない。しかし、肝心なことは、そのような思い上がった考えを改めることが、この世に生まれた連中の学びなのである。それは、この世のなかだけに死があるからだ。 この世でいかに帝王になろうが死を免れることはできない。そればかりか、王になるほど、死を恐れることになる。 釈迦は、王に生まれながら、王を捨てたから、かえって王になった! 真の王とは、与えられるものでないことは確かである。 与えられたものはいずれは奪われるのがこの宇宙の鉄則だからだ。 生命は神から与えられ、そして奪われるのが死だ。 原爆のために何百万人もの生命を奪った連中が行くところは地獄の苦しみであることは、原爆で死んだ人々の苦しみを、あの世で味わうことになることが宇宙の法則だからである。 奪ったものは奪われたものの苦しみを知るのが宇宙のカルマの法則だからだ。 善意とは、カルマの清算、均衡を計ることにある。 バランスにより、バランスをもたらすことである。 大いなる悪には、大いなる善が相対するだろう。 良くも悪くも、連中が改心しない限りは、恐らく、人類は滅亡へと向かうだろう。滅亡といっても、人間として生きられないという意味である。獣として生きる、というわけだ。 例えば、地を這いずりまわるだけの蛇や、それより幾分マシなカースト制度社会で生きるサルのような動物になるというわけだ。今の蛇やサルは、遥か昔は高度な霊魂をもつ人間だったそうだ。当時は恐竜と呼ばれたという。だから竜人である。いまはその影もない。 戦争会社を一刻も早く倒産に追い込み、解体すべきである。福島原発事故は連中の目論見だろうが、それを逆手にとった、神による警告のように思える。 さて、前回の抜粋紹介の続きをはじめたい。ついに、コールマンが言っていた、広島、長崎の原爆投下は、カトリック信者が多かったから、という理由の本当の意味をみつけたので、続けて抜粋する。 ☆ ☆ ☆ さてはてメモ帳 Imagine & Think! http://satehate.exblog.jp/m2008-07-18/ 原爆ホロコースト:長崎 ジョージ・ウェラー著、アンソニー・ウェラー編『ナガサキ昭和20年夏』(2007年)を見ることにしよう。この本には「GHQが封印した幻の潜入ルポ」という副題がついている。ジョージ・ウェラーが残した記録を息子のアンソニー・ウェラーが六十年を経て編集し、出版したものである。 ウェラーは、1945年9月6日から10日まで長崎に滞在した。彼の報告書は「シカゴ・デイリー・ニュース」に送られ、広くアメリカの読者に届くはずであった。しかし、その記事は東京のマッカーサー司令部の検閲官により破棄された。 ウェラーは自身で原稿の写しを残していた。彼は1945年9月10日から20日まで、大牟田の捕虜収容所を訪問している。その中で原爆との関係を語る兵士たちの声を採録している。 H・ディン戦車操縦士(ウォルバーハンプトン出身) 「この新しい爆弾のおかげで戦争が終った」 ジョージ・フラー戦車操縦士(スコットランド、ダンディー出身) 「原子爆弾万歳。干しぶどうの入ったプディングがもうすぐ食べられる」 ジョージ・アレン兵卒(ダービー出身) 「無慈悲な未開の野蛮人の手にかかった悪夢だった」 H・ジョーンズ伍長(ダービーシャー、チェスターフィール出身) 「原子爆弾が文明に吹き戻してくれた。三年半の地獄がついに終った」 T・ジャクソン兵卒(トーキー出身) 「人間をあんなにひどく扱えるものとは知らなかった。日本人は人間ではない」 ウェラーの「日本・長崎発。1945年9月7日(金曜日)午前零時」と書かれた記録がある。 その最初の部分を記す。 長崎港にある2つの連合軍兵士捕虜収容所にはおよそ1000人が収容されているが、みんな知りたいことはただ1つ、「原子爆弾はどういう仕組みになっているのか」ということだった。彼らはその威力は目にした。 日本軍は収容所の1つを三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置し、もう1つを長崎港の入り口に設置した。上陸部隊が進攻する際には、砲撃を避けられない場所である。 原子爆弾で、捕虜の指揮官をしていたキック・アールダー中尉(ジャワ、バンドン出身)を含む7人のオランダ人とイギリス人1人が死んだ。記者〔ウェラー〕は6日午後、彼らの収容所を訪れた。外部の人間が訪れるのは数年ぶりのことだ。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、オーストラリア人の国ごとに最大の関心事がそれぞれ違う。 読者はこの文章を読んで不思議に思わなかったであろうか。長崎港に1000人いた捕虜のうちで死亡したのは、たったの8人であった。しかもアメリカ兵は1人も死んでいない。 (911でユダヤ人の死者が少なかったことを思い起こさせる。) 長崎駅近辺・長崎港でもこう↑なった。この東の諏訪神社のあたりは、山に遮られて無事だったようだが。とにかく、なにか特別なことがなければ、捕虜は三菱の工場で働かされていたはずの時刻でもある。 「日本軍は収容所の1つを三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置」していたのである。ウェラーは「長崎の医療センターは、三菱の魚雷、ディーゼルエンジン製造工場や、造船所をなぎ払ったのと同じ爆風で、ほとんどの職員もろとも根こそぎ破壊されてしまった」と書いている。 また、彼は「2万1000人が死亡したが、これだけの被害は原子爆弾の放射線による即死だけでなく、上空を飛ぶ米軍機がはっきりと見えているのに、市民が出されていた警報を無視して防空壕に入らなかったのも原因と言える。 三菱の工場で死んだ人たちも、工場群のなかに収容所があった連合国軍人の捕虜たちを含めて、上空に敵機がいるにもかかわらず三菱が仕事を続けるよう命じたがために死んだ」と記している。 (三菱は戦争で儲けを出していた極悪企業の代表である。レプタリアンの一員だろう。) 幾度も引用したゴードン・トマスとマックス・モーガンHウィッツの『エノラ・ゲイ』の中に、長崎の捕虜収容所について書かれた文章がある。 1945年7月31日--ワシントンDC その23名の捕虜から7000マイルの距離のところにグローブズがいた。それは7000光年の距離にたとえてもよかったであろう。彼はグアム島のスパーツからの緊急電報の写しをじっと読んでいた。それには日本にいる別のアメリカ人捕虜についての質問で、次のような電文であった。 「8月5日以後に予定される『センターボード』長崎攻撃に関する件。捕虜より得たる情報によれば、写真による実証なきも、長崎市中央より1マイル北に連合軍捕虜収容所ある由。この事実は『センターボード』の最初の作戦目標選定に影響するや? 至急返答待つ」 グローブズはこの電報に「心配」した。それは数百名の連合軍捕虜の生命が危険にさらされるからというより、他の理由があった。 「当時スパーツと私とが利用していた諜報が細かい点で明らかに不正確であったからである。その諜報が正しければ、捕虜収容所は長崎湾の西側にあるはずだった。しかしどうもその反対側のほうが可能性が大きいように思われた。 捕虜たちは造船所で働かされているということだったが、反対側(東側)のほうが造船所に近いからである。しかしどっちの位置が正しいにせよ、原爆爆発の時には、おそらく彼らは造船所付近で働いており、当然原爆の危険にまともにさらされるのは免れないようにみえた」 〔中略〕 グローブズは長崎の捕虜が、どうみても行き場を失い、おそらくは死ぬことを知っていた。彼はこの時初めて、マンハッタン計画についての責任の一切を取ることを望まず、ハンディ将軍(スパーツに爆弾攻撃を許可する「書付け」を与えた将校)と相談した。ハンディ将軍は、三巨頭会談から帰ったばかりのスチムソンに、この質問の件を知らせるべきだと考えた。 グローブス将軍はスティムソン陸軍長官に会い、この質問書を見せる。スティムソンはグローブス将軍に「返電をする場合にはすみやかに見せろ」と言っている。グローブス将軍が、「しかし、どっちの位置が正しいにせよ、原爆爆発の時には、おそらく彼らは造船所付近で働いており、当然原爆の危険にまともにさらされるのは免れないようにみえた」と書いている。 しかし、7月31日から10日後の9日に長崎に原爆が投下される。そして、長崎港の捕虜収容所にいた1000人のうち、たった8人しか死ななかった。しかも、アメリカ人はただの1人も死ななかった。 私(鬼塚氏?)はこの奇跡の謎を解く力を持たない。ただ、謎を解けないでは読者に申し訳ない。それで、推測をして、この章を終わることにしたい。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年08月08日
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