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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ 「箱根の山は天下の嶮」と言うのは、ここの関所は入国管理所と税関のような所で通過する旅人から「お前の所持金は十両だから、手数料二分を置いて行け」と、やっていて、莫大な儲けになったらしい。 ”天下の嶮”は権力の”権”の意である。金と銀では等価が違うから、領収書その他に金で払うのか、銀で払うのかを初めにつけて区別する名残が今でも在るのはこの訳である。さて、日本全国の銀を支配していた蜷川道斎の姪婿の斉藤内蔵介の忘れ形見の阿福が春日局になる。 その前夫との子の稲葉正吉が、金銀交換で儲けの多い天下の権の箱根を押さえる小田原十万石の城主に、従来の大久保家を陥れてなったり、その子の正休は若年寄になって幕政を担当するのもそれなりの訳があった。 同じく春日局の孫娘を妻とした堀田は後に大老となって天下を押さえだした。だから親類に当たる蜷川が、春日局の家老と言う恰好で、当時の喜左衛門が江戸へ来て大名並の豪勢な暮らしをしていたと、太田南畝の考証にもある。 が、貞享元年八月二十八日に千代田城内で若年寄稲葉正休が、現在換算で数十億にものぼる春日局の遺産を、直系でもない孫婿のくせに堀田正俊が横領しているのはけしからんと刃傷。 共に殺し殺されてしまった事件が起きた。このため幕閣を押さえていた春日局の孫共が断絶廃家となった。 蜷川喜左衛門の孫も京へ戻ったし、それまでの蜷川の圧力も減じてきた。そこへ目を付けたのが柳沢吉保その人である。 「足利義満のために日本の金も豊臣家以降は底をつき、通用量に事欠く有様。よってこれまでの含有量の多い大判小判は禁止し、銅増しの新小判を鋳直すべしと砂田彦十郎の献策だが、吉良上野介殿は京方の足利氏の血脈である。その為に向こうでは頼られていて、よって毎年の如く行かれ知己も多い。 一つよしなに新小判造りの采配をおみに頼む」佐渡金山を開発した上杉家の三姫を妻にしている、高家筆頭の切れ者の上野介を呼んだ柳沢は次ぎに「京都所司代小笠原備後守や、京都町奉行松前伊豆守には、おことに協力して仕事を成すよう既に命じて在る。銀をどうしょうではなく、蜷川に関係のない金だが、そこは用心するように」と命じた。 これが悪貨は良貨を駆逐するといわれた元禄小判の誕生である。進言したことになっている砂田彦十郎は勘定奉行に、協力した所司代は一万石加増の幕閣の老中。 松前伊豆守は江戸南町奉行に出世。だが総指揮を執って柳沢政権の金箱となった吉良は「おことは源氏白旗の高家筆頭の名誉ある武家の棟梁の家柄なれば」と若年寄にも昇進させてもらえぬ。 だから、嫌気の出た吉良は「辞める、隠居する」と言いだした。吉良の口から偽金造りの裏話が流布されては困ると、田舎大名の浅野内匠頭に、吉良に抜刀させるよう挑発せいと命令したのに、失敗したから即日浅野をバッサリ殺して口封じをした。これが有名な赤穂事件の発端となる。が、これは後日の話。 ☆ ☆ ☆ というように、大陸渡来の連中が幅を利かせて、日本列島に住んでいた人たちを威圧し搾取していたことが伺える。この国は、昔から大陸の植民地で、洗脳により奴隷根性を植えつけられてきたわけだ。
2013年03月29日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ (信長も堺とマカオ間に火薬輸入のため、航路をもっていた)「吾が足利のことを向こうへ知らせ、助力の兵が来ては大変だ」と、この時義満は狼狽しただろう。そして自分が先陣に立って全軍を指揮して一気に落とした。 九州の南朝方を討伐するときでも自分は行かず、今川貞世を名代に出している。山名一族叛乱の明徳の乱の時も河野通義を派遣して、自分では戦争に行ったことがない義満が、堺まで出かけて指揮を執って攻めたのだから、如何に彼が大陸を恐れていたかが判る。さて、である。 いくら義満が「臣」とへりくだっても、明国がそれだけで満足して「よしよし」とビタ銭と呼ぶ鉄銭を、公式記録では六十万枚だが、その後日本では幕末まで一文銭として全国的に通用していたのだから、実数はその百倍の六千万枚にも及ぶ莫大な物を「日本王は臣として朝貢してきているのだから、どんどん呉れてやれ」と果たして気前良く送荷してくれたであろうか。 今の歴史は、臣従したことへの報酬と極めて安直に解釈するが、常識的に判断して、こんな事が果たして有り得るだろうか。今まで誰も解明していないが、八切史観の一連の著書では、これも詳細に解明されている。 鉄貨流入は臣従と関係ない貿易による物と思推される。では日本からの輸出品は何かとなる。学校歴史では漆器、蒔絵、甲冑、日本刀の類と言うが、向こうに日本人が居ないのにこれはおかしい。隠されているが、それは黄金である。当時の日本列島にどんどん産出された山金や砂金を大陸に送り込んでいた。 黄金で同じ重さの粗悪なビタ銭と引き替えていたものらしい。実数を六千万枚と見ても、ビタ銭一枚七十五グラムとして、四十五万キロもの夥しい黄金がむざむざと足利氏によって、明国へ、貿易とも言えぬ、割の合わない、朝貢という美名で搾取をされていた。足利氏御用の日銀であり、大蔵省でもあった蜷川家の手で、現在の常識では考えられぬが、次々と送り出されていたらしい。 マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「北京の宮廷で夥しい山金の塊りや袋入りの砂金をみて、何処からと聞けば東方の島国からと言う。そこはまだ開発途上国で材質柔らかく、装飾用にしかならぬ黄金の需要など全くなく、鉄や銅のごとき硬質の物のみ求めている黄金で輝く島があり、道にも岩金がゴロゴロしていて、全く無価値と言われる」と言った意味のレポートが出ている。だが日本ではまさかと従来は誇張の如くとられている。 しかしルネッサンスの植民地支配時代に入ったヨーロッパではアフリカやインドの有色人種は、その肌に似合うからと黄金を欲しがっていた。つまり他国より先に植民地を確保するためには、どうしてもその地の王や有力者の関心をかうため、黄金を必要とした。が困ったことに金が何処からも採掘できぬヨーロッパである。 つまりジャン・パルジャンが教会から盗み出した燭台の如く、それまでのヨーロッパは銀だけが貴金属だった。所が植民地確保の競合に突入すると、白人には銀が似合うが、有色人種は金を好むゆえ各国が競って金を求めて当時ポルトガルのエンリケ航海王によって発見された、海流航海法を利用するため急ぎ大型船建造を始めた。もしヨーロッパで昔から金が貴金属視されていたものなら、錬金術といったまやかしものが堂々と各宮廷に突如として出てくる筈はない。 王や貴族が何処でも錬金術師を歓待したのは、それまで金を軽視していた証拠である。慌てていたのであろう。それが証拠に大英博物館やロンドン塔、ルーブル美術館へ行っても、ルネッサンス以前の物で金を用いた装飾品やコップの類は少ない。つまり金と銀の評価が現在と中世では、まるっきり違っていたことが判らねばならない。 そして『東方見聞録』の内容は各国で評判になったらしい。彼らにとって喉から手の出る程欲しい金がゴロゴロしている島国が東方洋上にあるというので、各国で建造した大型帆船を皆東洋向け出帆させた。 当時魔女狩り旋風の吹き荒れる欧州各国から、一斉に日本向け船が来たのは、何もキリスト教布教の為でなく、黄金の宝島探しのためであった。幕末のペルリの来航が、当時のアメリカの捕鯨船団の給水補給基地に日本を当てるため、黒船を率いて浦賀へ来たように、15~16世紀の南蛮船の来航目的は黄金探しが真相である。当時の日本の国情が詳細に欧州にレポートされ、今も保存されているのも、このおかげである。 つまり日本からの物を向こうへ渡して儲けていた明国では、黄金の値打ちが判っていて、バーター制で同量の金を運ばせようと、ビタ銭をどんどん鋳造して日本へ送っていたのである。 つまり縄文期の銅器時代が終わり、武器や農耕機具に銅より硬い鉄が必要なのに日本では鉄の産出が少なく、金だけはごろごろしていたのが中世の日本だったと言えよう。金時計や金歯、金指輪も無かった時代なので、牛若丸を奥州へ連れて行った者も「金はいらんかね、安くしとくよ」と、当時は日本一の消費都市の京へ平泉の有り余っている金のセールスに来ていた<金売り吉次>(きんうり)の名で今では偲ぶだけである。 金が未だ貨幣でなかった頃。金は叩いて延ばせば広がるが実用的なスキ、クワも出来ぬし、釘や鋸にもならない。京へ持っていっても、金屏風の箔位にしか買ってもらえない。あまり売れないので吉次は牛若丸を営利誘拐したか、甘言で騙して奥州へ連れていったのかもしれない。 何しろ余り売れないので、平泉では金色堂といった金の延べ板の堂や、箱や壺等作っていたらしい。現在でこそ貨幣が金本位制になり、発行する紙幣に見合うた゜けの量が無いから、インフレ対策に金の延べ棒や板が財産保全にと大切にされている。未だ住民の殆どが穴居生活をしていた当時の奥州でも、装飾品にしかならぬ金は益無き代物ゆえ、堂の壁板や瓶に細工しやすいから使っただけの話し。 それなのに、現代では勘違いされて、今日的価値判断で見て間違い、金がふんだんに惜しみなく派手に使われているのは、さぞ文化水準が高かったのだろうと「藤原三代の栄華」とか「平泉文化」と帰納してしまう。これはおかしい。 足利末期の関白一条兼良が、応仁の乱の時避難していた奈良興福寺大乗院の院主は兼良の三男だが「黄金は明国人へ進物にすれば歓ばれると、京の各寺にては鋳物の下人に命じて鋳型にて黄金板を作らしめている」と、今に残る「大乗院寺社雑事記」に書き残されている。 活字本でも読める。つまり足利末期でさえ金は進物品としか見られていなかったのを尋尊大僧正が自筆で書き残した程ゆえ、その一世紀前の義満やマルコ・ポーロの頃には「こんなもので宜しければ、どんどん持たせます」と、明へ進上していたのも判る。何しろビタ銭に鋳られてくる鉄銭は溶かせば刀や槍にする事もできる。だが足利末期の応仁の乱では、双方共矢種が尽きてしまい、鉄銭で矢じりまで作った。 つまり二束三文と言う言葉も、当時の矢は一筋と呼ばず一束といっていたから、一文銭三つ溶かして矢が二本出来たということを指すのである。「応仁私記」にも「近頃は金も値が貴くなりて」と出てくるように、勘合符で運んでくる官船の他、私船で買い取りに来る商人も増え出したので、金にも商品価値が出てきたらしい。 つまり儲かる黄金を自発的にどんどん積み出してくるので「テンホウである」と、足利氏の素性が海洋民族であっても一向に構わんと、進攻等しなかっただけと見るべきで、この点義満の対明政策は成功といえよう。 そして対明用に集結した金の延べ板の余ったので今のプレハブ住宅なみに、応永四年四月一日に北山に金閣寺を作らせ、僅か半月で完成させ、十六日に検分している。しかし対比上、銀の方も建てようとしたものの、材料入手難で計画倒れとなり、八十七年後の足利義政の代になってようやく銀閣寺は完成している。この一例をもってしても、銀は金に比すべくもない貴金属だった明白な証拠といえる。 金が無くて倒産というのはある。だが大阪城のように天守閣には割竹に流し込まれた金の延べ棒が山積みされていて落城してしまった事実は何を意味するのだろう。分銅流しとか竿金の名称で「頑丈な天守の床板が軋むほ程に積み上げて在った」と記録にある。有り体は、この時期においても金はカネでなかったことである。 大阪落城後の焼け跡に岩のようにごろごろしていた黄金を、略奪したり、掻払った兵もいない。「汝に悉皆みな呉れてやる」と家康に言われて全部貰った籐堂高虎も有難迷惑そうに集めて茶釜や茶壺を作っている。歴史屋は(猛烈な炎に焼きただれていたゆえ、そうした用途しかなかったのだ)と説明する。だが鉄屑のスクラップを溶かして新鉄にするごとく銀でも金でも火力のため黒ずみは表面に出るが変質することはない。 高虎にしても、黄金がカネなら茶壺など作らず通貨に鋳造し直す筈だし、それより吝な家康が気前良く皆呉れてやるはずはない。これは家康が元和元年五月の時点で、黄金とは単なる装飾用軟質金属にすぎず、まだカネではないと認識していた例証でもある。十六世紀と現代では様々な事象に対して評価が逆なのを理解しなければならない。 「黄金の茶室」を秀吉が作ったからと言って、さも豪華絢爛だったごとく目を奪われ間違えるが、金閣寺や金色堂と同じように、廃物利用とはいえぬまでも、余っているから使ったに過ぎないらしい。 当時ヨーロッパ各国もルネッサンスの為のバブル金儲けの植民地政策上、従来の銀本位制から金本位制に切り替えていたゆえ、織田信長もポルトガルとの火薬輸入決済に日本を金本位に切り替えようとしたらしい。 しかし、当時の日本の銀の大半を支配していた蜷川道斎に忌まれ、その姪の夫にあたる丹波亀山在城目付の斉藤内蔵介に率いられた一万三千の軍によって本能寺で爆死を遂げた。(この内蔵介を影で操った黒幕が家康だが、これは八切止夫著「信長殺し光秀ではない」に詳細) 次の秀吉も大陸遠征の火薬や資材購入のため、やはり対外的には金で決済だったゆえ、金本位制に貨幣制度の切り換えを目論んだ。その計算の元彼が作らせたのが、日本最初の金貨である天正大判小判なのである。 だが秀吉の権勢をもってしても、足利時代から連綿として続いてきた蜷川財閥金融資本の銀は強く、切り替えは出来なかった。 やむなく勲章代わりに各大名へ与えたり、公家を集めて「金配り」とばらまいたと言うのも、金本位移行の為の布石か、又は蜷川勢力に勝てぬ事への鬱憤ばらしとも考えられる。この計画のため、佐渡金山を取り上げ、上杉景勝を会津百万石へ移封させもしたが、雄図空しく金がカネにならず、用途を失った地金がやむなく大阪城に山積みされていただけの話しである。 だから無価値な黄金を貰っても仕方ないと、諸大名も味方しなかったのである。又大阪城の幹部連中も京阪では蜷川の目が光っていて金は価値なしと判っては、集まった浪人共の士気が阻喪するだろうと、遠隔地から集めてきた女達で、大阪城三の曲輪に大慰安所を設けた。落城の際、女が二万人の余も居たと伝わるのは、淀君付きの侍女や腰元だけでなく、慰安婦が一万五千余も居たからである。 つまり大阪城では浪人共が外部へ出なくてもすむように、城内で酒と女をふんだんに当てがって、これも黄金の力なりと信じ込ませて奮戦させたものらしい。そして、次の国家主権者の徳川家康でさえ、銀本位制の変革はせぬと伏見城内で鋳造させた金の小判は関東へ移し、金を貨幣として通用させるのは箱根の山から東だけと限定した。 二十世紀の現代でも「一金何円」と、領収書、小切手、約手に書く習慣も、幕末まで天下の権勢によって箱根の関所で東西に分け、以東は金で一両は四分、一分は四朱だが、三島から九州までは銀本位制で何匁が単位だった。 ☆ ☆ ☆ 字数制限を越えるので次回に譲る。
2013年03月29日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ 足利義満が左大臣になった明徳三年に高麗王朝が李王朝に代わってしまったのは初めに述べた。この知らせに義満は驚いた。「これは大変である。早く国内を統一せねば」あわてて義満は吉野の後亀山帝に戻って頂き、神器を北朝の立てていた御小松帝に授けて貰い、南北両統を合一し己は太政大臣になつた。 この時に何故義満が国内を急ぎ纏めをして警戒しなければならなかったかと言えば、それなりの訳が在るらしい。かつて大陸で元が建国した後直ぐ文永、弘安の来寇があった。 その後も押し寄せては来なくても朝鮮に大軍集結の情報が次々ともたらされた。つまり北条時代というのは、時宗以降は、又何時襲ってくるかと防備に身をやつし、兵力も銀や銭も防備に廻してしまい、九州へ全力投球していた。だから肝心な鎌倉が手薄になってしまい、新田義貞に稲村ガ崎から攻め込まれた時も、兵が足りず、北条高時は時の執権北条守時らと共に火中へ身を投じて滅んでしまったのである。 今の歴史屋は、何故に元が北条時代に、無謀とも言える無益きわまりない来寇を繰り返したかの理由を明らかにしない。しかし<元史>とも呼ばれる『南宋実録』には、その条にはっきりと「復仇」の二文字が読みとれる。(なにも北条氏が元の国を攻めたわけでもない。それなのに復讐に来寇される訳など無いのである)と歴史屋は全く問題にもしていない。 しかし日本の四民四姓(源平籐橘)の内でわれらミナモトの民なり、と白山神を仰ぎ尊ぶ白旗を立て「蘇民将来子孫也」の柳幹を腰にぶら下げ、馬に乗って山野を駆けめぐった源氏は、沿海州から北鮮にかけて発祥した元と同じ種族の騎馬民族である。 つまり「チンギスカンは源の義経」説がでるくらいに、言語習慣も同じであるし、笹りんどうの紋は、沿海州ハバロフスク民族館の入口には民族章として、今でも堂々とレリーフとして飾られている。つまり今日の学校歴史の如く、北条政子が頼朝の妻だったからの理由づけで、北条氏を源氏と見てしまう史観では判らないが、北条は拝火教で源ではなく旧平家だった事さえ判れば、この差異は呑み込める。 つまり元寇とは、源が北条(平氏)に滅ぼされたのを知り、日本列島も元と同種族の源の国に戻さんとしてのくり返しの来襲であったという明白な事実が判って来るのである。これを今の日本人は全く知らないが、昔の十四世紀の日本人はよく判っていたらしい。「また北条時代のように来寇されては堪らない」と。 だから義満は狼狽した。親明政権の李世桂によって統一されたから、明国と共に攻め込んで来るかと恐れてである。そこで政争を南朝方としていては大変と急遽和解をした。そして、(前、北条政権は平姓で源を滅ぼした敵姓だったが自分は違う)と、ことさらに対外的には保身のため源を名乗ったのだろう。つまり勘合符を使って明や新興朝鮮にも朝貢と呼ぶ恰好で臣従の礼を示したのも、足利体制を守るため、割り切って頭を下げていたのである。 だから大陸人によって無謀にも壱岐対馬を荒らされても(局地的被害は仕方がない)と目をつむり、平静に振る舞って貿易を続行していただけの話しである。だが、義満の外交手腕で明や朝鮮をまんまと騙したが、国内では上手の手から水が漏るの譬通り、案外と抜けたことをしている。 というのは、火は清浄なものであると崇拝する拝火教徒は死後は火屋(ほや)に入れて焼く。しかし騎馬民族の元や北鮮からの源氏は、死者の顔に白布を被せ、頭を北枕にして土葬する風習があり、これは幕末まで続いている。 所が「源」を名のっていても、足利氏は土葬ではなく火葬にし、等持院に葬り木像を飾っている。これは「輪廻」といって、人間は一度死んでも何度も生まれ変わるものだと、信じられていたのが中世期の思想だったためである。 それゆえ葬いだけは、次ぎに生まれ損なってはいけないから、拝火教徒は神妙に死という汚れをお清めするための火葬は、来世蘇生のため止められなかったらしい。信仰のせいである。 (日本史の捉え方として、原住系と外来系との対立、民族間の闘争。そして宗教対立という視点から入れば解明しやすくなります)つまり足利義満が大陸勢力を極端に恐れたのは、元から睨まれる西南系拝火教の末裔という、そうした出自からである。そしてこれが「応永の乱」と呼ばれる大内義弘が堺に拠っての叛乱にも繋がる。 日本史に隠されているが、渡来した中国人によって早くたてられた吉備王朝の昔から「中国地方」と呼ばれる岡山以西は、中国渡来の文化人が住み着いていた土地ゆえ、山口は京そっくりだと小京都の別名もあるくらいで、その血を引く大内氏は南シナ海のニンポーに出先機関を持っていた。 (この大内氏というのは「朝鮮百済王聖明の三子の琳聖、東海の周防大内県(吉敷群)に一族と来たり。初めは多々良氏を称す」と、当時では栄誉ある舶来系で、大内氏を称してからも「我が祖の家系について」と朝鮮へ身元確認の親善使をたてたりしている。明国のニンポーは今で言う領事館である。 その山口には「日本国昔年欽奉、大明国勅賜御印」と但書の付く「日本国王」の印鑑。 それと「朝鮮国賜印、景泰四年七月造」という銅印を持っていて「祖国朝鮮、明国万歳」とやっていたのが大内氏である。だから長門へ追われて逃げた時も、大陸の血を引く公家さんたちの佐中将二条良豊、持明院権中納言冷泉隆豊らが一緒だった程である。) 「寧波」の漢字を当てるが、そこから堺まで海流を利用した航路が開かれていて、大内義弘は本国の長州より、海流の便利を考え、南支よりの応援を当て込んで堺で兵を上げたのである。 ☆ ☆ ☆ 字数制限を越えるので次回に譲る。
2013年03月29日
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八切止夫作品集を読んでいると、日本は、江戸時代からほとんど変わっていないことがわかり、歴史については、明治時代につくられた出鱈目が罷り通っていることがわかる。 だから、日本の歴史の真相を知れば知るほど、日本は、中央集権国家とはいえないのではないだろうか?という疑問が沸いてくる。 政治家や官僚は、昔から嘘つきで、庶民騙しばかりで、最近やっと明るみになったが、特に司法制度は酷いものがある。八切止夫氏によれば、それは江戸時代の制度をそのまま引き継いだ形になっているので、欧米の司法制度とは180度異なるものらしい。 この点をつかれて、米国はTPPをゴリ押ししていることを見抜かないと、日本は死んでも浮ばれないだろう。そのうち、米国の弁護士が闊歩しだすはずであり、日本の多くの企業は、米国の弁護士に乗っ取られるだろう。 幕末の南北戦争で使わなくなった廃銃を、高く売りつけた事例をみれば、米国の商売とは、外見を着飾った中身オンボロの詐欺商売が伝統の国であることがわかる。要するにボッタクリである。 八切止夫氏の考察による、日本の司法制度の酷さは、以下のHPに載っているので、今回は抜粋紹介しないが、その代わりに、日本が江戸時代から代わり映えがしないのは、仏教のせいであることを、最近、播州武侯さまのブログを訪問することで気づいたので、こちらの話を優先したい。 以前にも紹介したが、現在の日本の葬儀形態については、仏教徒を儲けさせるために、明治政府がきめたらしい。以下に再掲する。 ☆ ☆ ☆ (6)[葬儀の歴史と寺院のあこぎ | 2007年04月11日]> 明治以前は、火葬にしろ、土葬にしろ、公家は公家のやりかた、庶民は庶民のやりかたで、風習にしたがってやっていた。ところが明治以降、すべて原則火葬になり、寺が管理するようになった。火葬場と寺は葬儀のセットである。(省略) どうしたかといえば、風葬や焼いて適当に丘の上などに埋めたのだ。それでは寺が儲からないと考えたらしく、官憲に葬儀まで干渉させ、葬儀を許可制にしたのである。それ依頼、埋葬には医師の死亡診断書と火葬場の証明、さらに寺の受け入れ証明まで必要にさせられた。(省略) だから庶民には明治以前は墓などほとんどなかったのである。 ☆ ☆ ☆ 明治以前は、火葬は、拝火教の信者が行っていたそうで、他はほとんどが土葬だったようだ。だから、海洋民族の末裔の平氏が火葬だったものと思われる。 その点について、ネットで調べていくと、また別の興味深い話に出くわしたので、土葬、火葬の話の後に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ というのは、火は清浄なものであると崇拝する拝火教徒は死後は火屋(ほや)に入れて焼く。しかし騎馬民族の元や北鮮からの源氏は、死者の顔に白布を被せ、頭を北枕にして土葬する風習があり、これは幕末まで続いている。 所が「源」を名のっていても、足利氏は土葬ではなく火葬にし、等持院に葬り木像を飾っている。これは「輪廻」といって、人間は一度死んでも何度も生まれ変わるものだと、信じられていたのが中世期の思想だったためである。 それゆえ葬いだけは、次ぎに生まれ損なってはいけないから、拝火教徒は神妙に死という汚れをお清めするための火葬は、来世蘇生のため止められなかったらしい。信仰のせいである。 ☆ ☆ ☆ だから、仏教徒は、拝火教でもないのに、銭儲けのために、拝火教を利用したのだから、全く罪深く、理念も信仰もない。あるとしたら、守銭奴で、坊主丸儲けの銭儲け教といえる。坊主をみたら詐欺師と思ったほうがマシである。日本人が無宗教といわれるのは、銭儲けしか頭にない仏教徒のせいでもある。 拝金主義の仏教徒の権威は大陸によっているから、その要因を、八切止夫氏の考察から探ると、どうも足利義満にあるようであるので、以下に前回紹介したサイトから抜粋紹介する。実は先の文は、次に紹介する話の一部なのである。 ☆ ☆ ☆ 足利義満と金 (八切史観) 現在の高校歴史教科書で採用されている『詳説日本史』には「足利義満は尊氏の孫であって、細川、斯波、畠山氏らによって守護領国制も確立し、六十年の長きに及んだ南北朝の対立も合体させ、幕府の全国統一を成した。 従一位太政大臣となって勢威をふるい、応永十一年には勘合符をもって官船の日明貿易を始めたが、中国の伝統的外交方針である属国の朝貢という形式がとられたゆえ<日本国王臣源>と義満は臣下の礼をとり、その代わり多くの貿易上の利益を収めた。勘合船は中国南支沿岸の寧波で査証を受け、首都北京で交易に当たったが、朝貢形式のため関税も掛らず滞在費、運搬費、帰国費まで明側で負担したので、その貿易の利潤は大きかった」とあり、その後に続いて「1392年の明徳三年ついに李成桂が、明の援助によつて高麗にとって代わって、<李氏朝鮮>が建国された。足利義満は倭寇の禁止を求められ、それに応じて国交を開きその貿易も、中国との勘合貿易と同様の形式で続けられた」の記述である。 これでは李氏朝鮮に対しても義満はやはり<臣日本国王>として朝貢の形式をとって貿易していたのだろうか?という疑問がどうしてもわいてくる。李氏朝鮮建国から二七年目の応永二六年には、朝鮮海軍は対馬へ攻めてきて無血上陸し、乱暴や略奪をしたあげく住民を奴隷に連れ去る暴挙をあえてしている。だが足利氏は何もせずただ傍観。そしてこの年も勘合符を持った官船が恭しく貿易にいっている。対等の国交ならいくら平和的人間でも抗議ぐらいはするか、その年だけでも貿易停止はすべきなのに、この弱腰は何だろう。 なにしろ、義満は国内では、山名氏清を倒し(明徳の乱)長洲の大内義弘をも堺で攻め滅ぼして(応永の乱)いる。これも学校歴史に出ている。となると対外的にはペコペコしていても、実際には平和愛好家とは言えぬ。相手が中国でも朝鮮でも金儲けにさえなれば、ヘラヘラして臣従していたのが足利義満。はたしてこの真相は如何に。-------------------------------------------------------------------------------- ☆ ☆ ☆ 字数制限を越えるので次回に譲る。
2013年03月29日
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前回からの続き ☆ ☆ ☆ 火消しの連中にしてみれば、父親の小吉の時から厄介になっているので、海舟が借金を背負って男を下げては可哀相だと、「他の家など皆ぶち壊しても、勝先生に頼まれた所は守ってやろう」となったわけである。 当時の消火とは酷いもので、一軒を守る為には周囲の他の家をみなぶち壊してしまう破壊消防なのである。 そんなわけで他の組へも「・・・ここと、ここの屋敷はよろしゅう願います」と、伝達をつけて依頼を出した。 用心に用心して手を打ったのだろうが、浅草新門の「お」組にも回状はまわった。所が、まずい事に、新門辰五郎の娘が当時、徳川慶喜の気に入りの側室だった。だから寝物語にでも、その話しは筒抜けに慶喜の耳へそのまま入ったらしい。 なにしろ慶喜の立場からでは、全く怪しからん話しであるから、唾を吐き出すように「鳥羽伏見の合戦の前に、硝石の事を幕臣なら告げに来るべきなのに、彼奴は頬かむりしくさって、まるで野良犬のごとく薩長の奴らと仲良おしくさって・・・又も己の私利私欲のみにこだわって、火消し共まで動員させようとは呆れかえった奴だ」と罵った。 この硝石の事は、日本史では隠されているので詳細を記しておく。日本史に島原の乱がある。 カトリックといえば、天草における叛乱も後水尾帝の院宣による勤皇の一揆であって、それを日本史では切支丹の宗教一揆とするのは間違いである。 当時オランダの平戸商館長ニコラス・クーケパックルが、帆船デ・ライブ号に乗り込んで、キリスト教徒の船員と共に半月の余も砲撃した事実を照らし合わせても変ではないかと言える。 真相は、「フロイス日本史」にあるように、原城はイエズス派の本拠地であった。戦国時代から彼らは日本に来ていたが、布教費用調達の為日本では一粒も産出せぬ火薬の原料の硝石を持ってきていて、横文字の教義も読めず説教を聞いても何も判らぬ者達が、硝石欲しさにドリチェナキリシタンとだけ唱え、それが切支丹大名と呼ばれていた。 さて口の津は、硝石と交換にイエズス派が入手していた彼らの治外法権の場所。だから一揆は硝石入手のため襲撃して、口の津の原の古城の倉庫番の白人やその奴隷を殺したので、オランダのカピタンは神の名において仕返しをするため協力したいとなった。この話しの裏書きは、「山田右衛門なる画師一人のみが投降して助命されたが、その者が城内で見てきた旗というのを描かせた」とする証拠が・・・・誠に可笑しな話しだが、カトリックとプロテスタントの二種の旗が混じっているからである。 ヨーロッパでは共に天を戴かざる仇敵どうしとして、互いに国をあげて殺戮しあっていたのが、いくら東洋の九州の片隅であれ、双方の旗を立てて、両者が力を合わせて抗戦することなど有り得ないし、又今日伝わるように、三万七千から五万にも及ぶ女子供までが「主のおんため」にとみんな死んだものならば、世界中他に例のない話しゆえローマ法王庁の記録にも残っているべきなのにぜんぜんその記載が見つからぬ事実、島原の乱に関しては一行も出ていない不可思議さも、これなら謎解き出来る。 つまり松平伊豆守が、局地解決として他へ叛乱を波及させぬよう、一部だけの者に限られる切支丹を巧く利用し、政治的発表をなしたのだろう。五万からの女子供を一人残らず虐殺したのも、殉教の為でなく、口封じ政策の犠牲と見るべきだろう。 後の鎖国も、なにも切支丹伴天連の魔法を恐れたのではない。幕末の長州奇兵隊が、(木こりや百姓でも鉄砲と硝石さえ持たせれば、結構みな一ちょう前の兵士に使える)となったように、硝石さえ入手したら女子供でも銃は扱えて強敵になるからと、徳川家だけが硝石を独占して一手に輸入し、他の大名に渡らぬようにした政策である。いわゆる「抜け荷買い」つまり密貿易も、テレビや小説みたいに、絹や珊瑚を買い求めるのへの取締ではない。 鉱石として日本では一片も産出されない硝石を、他の大名が入手しては叛乱するので用心の為の治安維持法なのである。つまり幕末になって長州や薩摩が下関や鹿児島を焼け野原にされたものの、上海やフランスから新硝石を仕入れるまでは徳川三百年の泰平は保てたのである。 勝海舟は初めから、長崎出島輸入の火薬の硝石は古くて湿気をもっていて使い物にならぬと、徳丸ガ原の実験を見て知っていた。だから、「そうかい下関や鹿児島でも、南蛮船の弾丸が当たれば皆爆発するのに、此方から撃つやつは火薬の硝石が駄目で、十発に一発ぐらいしか音もたてずかえ、そいつはいけないねぇ」と、合点。-------------------------------------------------------------------------------- これに驚いた長州や薩摩は慌てて直ぐ和平交渉をし、その代わりに、新硝石を買いに上海へ家来を派遣したと聞くと、勝は膝を叩き、「徳川家が今度、薩長と戦う時は、馬関戦争や鹿児島戦争の二の舞になるだろうよ」と、幕臣のくせに、土佐や長州、薩摩の連中に対し、何時世の中がどう転んでもよいように接触しだした。しかし慶喜は虫が好かずだったせいか、この情報を海舟は故意に知らせずだった。だから、何も知らぬ慶喜は自信満々。 慶応四年正月二日には、自ら大阪城で「討薩表」を布令して幕府軍を出陣させたものの、鳥羽口や伏見の戦いで、僅か二千の薩長土の兵士へ、三万からの幕軍が攻め掛かったはよいが、弾薬が殆ど不発の状態で、「これまで積み上げて在った大阪天満与力保管の硝石が、古くて用をなしません」と報告を聞くや、慶喜は真蒼になって、直ちに小姓と偽って城外へ脱出し、沖の軍艦で逃げてしまったのである。 つまり政治的発表の<恭順謹慎>の実体はこれである。 「エゴイスト」という言葉がある。しかし並の人間は他への思惑や気兼ねがあって、とてもそうそうは自己本位に振る舞えるものではない。所が海舟の偉大さはこれがやれた事である。四つも年上の女で深川の芸者上がりの”おたみ”と一緒になったのも、今でいえば、ひも、をして小遣いをたかっていたが、塾が開きたくて、金をひっぱり出す為に一緒になっただけの話し。 だから海舟も忌み嫌って、慶喜をその後三十年も静岡住まいさせ東京に戻さなかったのである。さて、世の中で何が一番儲かるかといって、破産会社の管財人くらい儲かるものはない。腐っても鯛というが、徳川六百万石の後始末というか、その管財人にまんまとなっていたのが、これまた勝海舟その人である。 何しろ非常に土地に対する目が肥えていたのか、それとも地租を自分で決めていたせいか彼の財産は全部土地で儲けたものである。だから儲かって仕方が無く金をばらまき、貧困に虐げられていた旧幕臣にはすこぶる人気があった。だが初手から慶喜は勝を全然信用しなかった。 「官軍が入ってきて、勝の家を荒らした」という話を聞いても、「打ち合わせずみの芝居ゆえ、勝は大方妹のお順の所へでも行っていたんだろう」とせせら笑っていたと言うし、そんなわけで、徳川家管理財産支配人の勝だが、慶喜は自分の財産は管理させなかった。 別にして管理させたのが渋沢栄一で、後に渋沢財閥として発展した。ところが勝も死ぬ時にはやはり後ろめたい思いに駆られたのか、自分の長男の小鹿(ころく)の娘に徳川慶喜の十一番目の息子を婿にとっている。 そして徳川家から預かった金は、そっくり何十万両でありましたと言って帳簿と付け合わせで返金している。 今ではこれも逸話とされ、かりそめにも一円の違いもなく全額を戻しているのは美談なりとされている。 しかし幕末と明治三十年との間では、一文銭が一厘となって十枚で一銭に貨幣価値も変わり、物価は二十倍から三十倍になっている。 なのにその間に勝手気儘に運用して、三十年前の金額を返して済ませたのが、はたして美談と言えるだろうか。 勝の運用預り金に比べて十分の一以下と云われる慶喜の管財人の渋沢栄一の方が、一大財閥になれたのに海舟は<氷川情話>その他の本しか残していない。 ☆ ☆ ☆ というように、英雄なんてものは、つくられた幻想にすぎないわけである。噂でも、勝の子孫があれでは、勝海舟も俗物以下の存在といえる。しかし情けないね。日本史を教えられないわけだね。とにかく、歴史上の人物の偶像崇拝をやめないといけない。
2013年03月28日
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日本史の通説による洗脳というのは恐ろしい。近年も勝海舟の子孫とかの噂で、庶民いじめをした勝なる人物がいたが、八切止夫氏によると、勝海舟も実は相当の悪党ぶりであったことがわかり、洗脳とは非常に恐ろしいことがわかるので、改めて以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 勝海舟 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/katu.htm 地上げの元祖・勝海舟 【紹介者・注】 勝海舟を書いたものは、「八切幕末史」全十冊の中に「若き日の勝海舟」(日本シェル出版)がある。この本は小説仕立てで面白く書かれているが、良く資料を調べ新しい視点で幕末の人間像に迫っている。登場する人物は実に多彩で、変革期を駆け抜けた人間臭い彼らが生き生きと描かれており、共感を覚える。 ●登場人物(清川八郎、新門辰五郎、吉田松蔭、近藤勇、佐久間象山、松岡 萬、勝小吉、千葉周作、久坂玄瑞、徳川慶喜、村上俊五郎、山岡鉄州、その他) 以下に紹介するのは「八切日本外史」(日本シェル出版)の論考的なものである。 美化された海舟ファンには申し訳ないが、実像とはおよそこんなものであろう。 土地成金という言葉がある。これのはしりは勝海舟その人である。というのは、それまでの日本には地租、つまり土地の私有権は無く、その為税金も掛からずだった。収穫した物だけに課税されていたのである。が、明治になって収入源を新しく作らねばならぬので、土地そのものへ課税し、従って土地売買も認可した。だが、明治新政府の構成員というのは、各藩の下級武士か郷士。それに訳も判らぬ公卿ばかりで、それまでの人材は皆粛正されていたので、土地へ税金をかける案は海舟だといわれるし、それゆえ事前に当人は判っていたゆえ、彼はべらぼうに大儲けしたというのである。 さて、明治元年の九月に天皇は初めて東京へおいでになり、翌年には京へ戻られはしたが、当時の京の人達は当然のことながら非常に怒った。それで仕方がないというので、当座は京都に天皇は居られたのだが、又その翌年三月に東京へおいでになりとうとうそのまま東京に居着きになってしまった。その結果京都は唯の観光地になってしまったのである。 何故かというと勝は当時二束三文だった東京の土地には手付け金を広く打っていたが、京になどは投資していなかったからである。さて、芸者さんが非常に綺麗な職業のように、テレビドラマであり、それも女流作家の書く物に多い。が、実際には芸者さんは接客業なのである。おたみ、さんは十七歳から芸者になっていた訳で、六年も経てば今で云う旦那とか、パトロンというのが何人か相当居た筈である。 さて、その勝海舟が駿河まで迫ってきた薩軍の西郷の許へ山岡鉄舟をやり「江戸を砲撃しないでくれ、官軍は箱根の山の向こうで待ってくれ」と頼み込んだわけだが、俗説では戦火による江戸町民を救うためだとか、色々恰好良くされている。 果たして本当の理由は一体何だったのかというと、それは前述した地上権問題だったのである。当時は勿論土地は私有ではなく、旗本屋敷も徳川家から貰ったものだった。そして官軍が次第に迫ってくるというので、家財道具も古道具屋に叩き売って旗本は殆ど居なくなり最後に残ったのは屋敷だけだった。 これに目を付けたのが勝海舟の偉い点で、僅か五十銭から一円という手付けだけで上手く買い取ったのである。家屋敷といっても旗本の武家屋敷だから、十五間から二十間もある大きな家もあった。勿論これは海舟自身が直接表に出てやったわけではない。 テレビにも出てきたが、勝の父の勝小吉の許に出入りしていた差配の甥で「升売り」の喜平さんなる者を使ってやらせた。この喜平が後に喜兵衛となるが、「升売り」というのは、今でも酒屋さんの前を通ると立ち飲みで一杯やってる客もいるが、江戸時代には酒の一升樽を天秤の両方に担いで一合桝を持って歩き、「え~酒!酒」と売り歩いたのである。お客が来ると、酒をなみなみと注いだ桝の縁に塩をつけて、呼び売りして歩いた江戸風物詩である。 が、それはともかく海舟はこの升売り喜平という人を使って本所深川から今の飯田橋神楽坂、赤坂にかけての旗本屋敷のあらかたに手金を打っていた。僅かとはいっても塵も積もれば山となるその手金の出所は、勿論おたみの前の旦那位しか借金する当ては無かったから、「なア頼まれておくれでないかえ」と、おたみが金策にやらされて、集金して片っ端から手付けが打たれていたのだろう。 だから海舟は江戸を無血開城しないことには大変な事になる。そこで山岡鉄太郎に持たせた書状の中にも、ざっくばらんに大砲なんか打ち込まれたら、手付けしか払ってない家屋敷が吹っ飛ばされてしまい、儲けるどころか、借金の山を抱えこんでしまうと、相当に海舟も狼狽して泣き言を書いたらしい。 人間誰しも大変なことになると周章狼狽し、こと自分の一身に係わるとなれば、必死猛志になって一生懸命になるので海舟とて例外ではなかったのである。この裏話をすっぱぬいたのは、かっての総理大臣、幣原喜重郎である。 西郷隆盛とて内心では「あの野郎!」と思っていたのであろうが、こうした話しが打ち消され勝海舟が美化されてしまうのは、真山青果という人が、江戸城明け渡しの芝居を書くにあたって、西郷と勝、つまり太いのと細いのを対比する見せ場をつくるため、さも尤もらしく話しを作ったからである。 勿論海舟が晩年に、若い女達への自慢話にしていたような氷川物を種本にしたのであろうが、あの当時の江戸には江戸を守らなければならないといったような人間は居なかったのである。言い換えれば江戸において私有財産を守らなければならない財閥や、人間がその頃はもういなかったという事である。 江戸城から将軍慶喜は、恭順と称して上野寛永寺へ逃げてしまうし、旗本屋敷はもとより、大名屋敷も空っぽの状態で、商人はみんな近在へ疎開してしまい、残っていた江戸人は何処へも逃げる当てが無く、悪性インフレの為に、喰うや喰わずの状態であった。 だからもしあの時期に江戸に砲撃があったら彼らは暴動を起こし、略奪かっぱらいが出来、かえって大助かりで儲かった筈である。 つまり今でこそ江戸を戦火から守ったと賞賛するが、明治元年に改元される時点において、一般民衆の立場では、官軍に撃ち込まれたほうが好都合で、それこそ世直しであり、人助けであったろう。 なのに海舟は芸者上がりの女房に無理を言って集めさせた金を無駄にしてはと、オカミの為でなく、オカミサンの「おたみの為にも・・・」と、頑張ったのであるとの見解しか一世紀後の今では出来はしない。-------------------------------------------------------------------------------- さて、映画や芝居では、勝は西郷隆盛と非常に仲がいいようだが、実際は大違いである。西郷が明治八年に薩摩へ帰った時に、海舟が何時も大きな事を云って、仲良しの親友のごとく振る舞っていたから引き留め役をしてくれと頼まれても、彼は頑として断っているのである。それで薩摩の連中が袂を連ねて、西郷と一緒になって野へ下り皆辞めてしまうと、さっさと今度はその後釜に入って、勝海舟は直ぐさま海軍省へ入り海軍大臣になるのである。その後も鹿児島へ行き、西郷を説得してくれと大久保利通らから何度も懇願されたが 「西郷さんには西郷さんの考えがあるでげしょうからね・・・私なんぞがねぇ」と、どうしても海舟は腰を上げなかった。そして城山で自刃の報が伝わるや、「それ達人は達観す」と、上手くもない琵琶歌をこしらえて流行させたにすぎない。 というのは、(誰にも知られたくない、見られたくない・・・)ところの(頼むから砲撃は見合わせてくれ)との手紙を、西郷に出したのを取り返せずにいた海舟は、どうもかねてから西郷が死ぬのを待っていたらしい。しかし西郷は偉い人で、死ぬまで手紙の事は口にしていなかったのである。偉人と云うべきだろう。 さて、話しは前に戻るが、現在でも本所深川から飯田橋神楽坂あたりの土地の名義はいまだに升売り喜兵衛さんの名義になっている。 さて、どうしてこの裏話が一般に知られるようになったかと言えば、それには訳がある。 勝は手金を打った旗本屋敷を守るため、勝小吉の時から町火消しの者の出入りが多い方だから、駿府へ使いに出した山岡鉄太郎から西郷へ懇願させて、砲撃を止めさせるよう交渉し、江戸にあっては火消しの連中を集めて、「もしもの時には、此処と此処は手金を打ってある屋敷だから、ぜひともおぬしらで守ってくれよ」と図面に印をつけ頼んでいるのである。-------------------------------------------------------------------------------- ☆ ☆ ☆ 字数制限を越えるので次回に譲る。
2013年03月28日
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さて、幕末の戦争について、以下のような興味深い話を続けて抜粋紹介する。 【日本南北戦争】 幕末戦というのは、当初は被圧迫階級の(神の民)が、その蓄積した金融資本によって政治体系を変革する目的で始めたものが、終局において西南勢力と東北勢力の武力衝突になった。 そしてこの原因はアメリカだとも言える。 「アメリカ建国史」によると、「1865年つまり慶応元年、米国内の南北戦争が終了すると、北軍は押収した南軍の武器弾薬が密売商人の手によってインデアン居住区域に流れ込み、アパッチ族始め各地で反乱事件が勃発するのに手を焼き、慶応二年にアーノルド・ジョンソン大統領はこれを国外へ払い下げ輸出する断固たる政策を採った。そこでこの夥しい南軍の銃器が東は上海、西はポートサイドに野天同様に山積される状態を呈した」 長崎へ行くと「歌劇お蝶夫人の遺跡」だと、尤もらしく案内されるグラバー邸があるが、この英人のグラバーこそが米国払い下げの上海の南軍の銃を、長州や薩州に売りつけて儲けた元凶なのである。 さてその英国が1815年のウイーン会議で、占領したケープ地帯から追われ、トランスバール共和国に移った和蘭人の中に、エドワード・スネルという男が居た。 当時の日本駐在公使だった『ファン・ボルスブック回顧録』によると、反英精神に凝り固まった彼スネルは「南阿の恨みを日本で」と考えたのか、ポートサイド方面に積んであったアメリカ南軍の銃器を薩長とは反対に幕府に売った。 大倉喜八郎が神田泉橋で開いた店も、スネルの南軍の銃を仕入れて売っていた。やがてスネルは、長岡藩の河井継之助のために汽船をチャーターして新潟へ行き、そこから会津、仙台へと武器を輸出した。 双方にアメリカ南軍の廃銃が行き渡り、それまでは徳川家だけが独占輸入していた火薬もグラバーやスネルの双によって入ってきたから、ここに日本列島も南北戦争を始めた。 だが、本家のアメリカでは北軍が勝ったが、日本では反対に薩長の南軍が勝った。この結果、スネルは当時のアメリカ大統領グラントに、この責任をとり、カリフォルニアに広大な土地を払い下げさせ、そこへ会津の婦女子を送り込んだのが、「ワカマツ・コロニー」と呼ばれ明治の末まで在った。アメリカが南北戦争をしなかったら、日本列島はその廃物利用の銃器を押しつけられることもなく、従って幕末戦争の惨禍はなかったのである。 想えばまことに恨めしい話である。 【贋金戦争】 維新の戦乱というと、上野戦争の天野八郎、会津の白虎隊、天童藩のからす組細谷十太夫といったように個人的武勇談ばかりが、現在の時点では流布されているが、この日本南北戦争の実相は、これまで公表されてこなかったが「贋金造りの戦争」だったのである。 何しろ今日なら、かってのベトナム戦争でも、南ベトナム政府軍に米軍が武器を供給するのも無料なら、北ベトナム軍に中共やソ連が兵器を送ったのも贈与援助だったろうが、幕末の日本は違っていた。 照準も合わないようなシャーピス銃やミゲール銃をよこしておいて、アメリカ人は仲買人のグラバーやスネルから、どんどん代金を巻きあげた。(アメリカは太平洋戦争敗戦後にも、無料だと家畜飼料の古いメリケン粉や脱脂粉乳をガリオア資金でよこしながら後になると、当時の吉田首相を苛めてその代金を日本国民の税金で徴収した。つまり廃物を押しつけて日本からゼニを取るのは伝統商売らしい)さて、この結果正金をアメリカの南軍廃銃に吸い取られ、金欠病となった日本列島の両軍は何をしたかというとまず『会津事情』掲載の、 「会津宰相にあげたき物は、白木三方に九寸五分」という東北の俚謡を紹介する。 「朝敵となって錦旗に敵対した罪を、東北人は恐れおののき、その主君松平容保の自決まで求めたものである」などと、この本の筆者は調子の良い注釈をつけているが『会津戊辰戦争』によって調べてみると、「松平容保は鳥羽伏見の敗戦にて江戸へ戻ると、江戸金座銀座の職方を纏めて会津へ伴い、若松城西出丸に製造所を設置して、従来の一分銀を打延ばして三等分し、これを二分金の鋳型にいれて金メッキをなした。 だから一分銀が六倍の一両二分になり制作費は一個九百文の割合で職方に出来高払いをした。なお私に製造したいと出願する者には、一割の運上金をとって、これを公許した。このため会津領を始め東北地方は物価が六倍から十倍になり、住民は塗炭の苦渋を味わわされた」とある。責任をとって腹を切れと、東北人が激怒したのが本当の話らしい。 これに対して日本南軍はどうしたかというと、長州閥は京阪の鹿嶋屋や鴻池から調達したが、薩摩は堂々と偽貨をこしらえ『官武通紀』第八巻にも、「薩摩鹿児島にて(琉球通宝)なる新鋳の物を製造し、中川宮、近衛家をもって京摂地にも流通さすべく禁裏へ預り出づ」と出ている。薩摩製でありながら(琉球)と逃げているあたりは、南軍の方が知慧者揃いのようである。 さて、後のベトナム戦争のように米国製とソ連製、中共製の武器を持って戦ったのなら、多少の差は在ったかも知れないが、この維新戦争は両軍共に、落つれば同じ谷川の水ともいうべき米国払下げ南軍廃銃で撃ち合ったのだから、今日の維新史家が説くように、武器の格差は考えられない。 上野の彰義隊を攻撃する時、南軍はアームストロング砲などを持ち出してきて江戸人に誇示しているので、さぞかし武器が優っていたように今では思われているが、そのアームストロング砲たるや鍋島家からの借り物だったにすぎない。 つまり、この戦争の実相たるや(グレシャムの法則)により勝敗がついたのである。というのは、南軍は(琉球通宝)どころか『維新史料』によると、三岡公正の献策とことわって(引換一切これなく候)と、堂々と明記した紙幣を四千八百九十七万三千九百余両もこしらえ、これをばらまいた。北軍の会津ではお城の櫓でトッテンカンと一分銀を叩き延ばしてから、切断して四っに分け一つずつ巴焼を焼くように金を被せて、これを油で揚げて固めた。 だから明治大正まで「金メッキ」のことを「てんぷら」といった。 しかしなにしろこの「てんぷら」の方は四個作って一両なのに、南軍では紙切れ一枚が一両である。まるで贋金づくりのスケールが違いすぎる。それにどっちも贋金とはいえ、銀の入っている天ぷら金より紙切れ一枚の方が悪貨に決まっている。そこで、「悪貨は良貨を駆逐する」の定義によって、金メッキよりも始末の悪い紙の偽札の方がこの戦争の帰趨を決定してしまったのである。 これによって国民の蒙った惨状は全く「悲しき哉」の一語に尽きる。 ☆ ☆ ☆ この話は、以前紹介した上海メーソンの話ともリンクしてくる。贋金つくりが巧妙だった薩長が勝っただけで、鎖国開国の議論など建前にもならなかったことがわかる。 水戸の斉昭は、牛肉が食いたかっただけで、井伊の政策に反発し、井伊は井伊で、水戸が有栖川家の登美宮を夫人にしていたことの妬みだったわけで、天下の御政道などは後付けにすぎないことがわかる。 松平容保も、通説とは全く違い、贋金つくりでインフレを起こした責任をとらされたわけで、通説の出鱈目ぶりには呆れてしまう。 戊辰戦争に勝った薩長も、贋金の乱発のせいで、明治政府は当初から金欠政府だったようで、結局、贋金つくりの責任は誰もとらずに、再び、国民を巻き込んで戦争へと進んでいく。いつの時代も、この国の政治家や歴史家は嘘八百で、無責任であることだけが伺える。
2013年03月28日
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前回からの続きだが、さて、桜田門の真相である。 ☆ ☆ ☆ 【異説桜田門】 これは私が「元治元年の全学連」の中でも引用しているが、また明治十八年の時点においても、時の伊藤博文内閣の松方大臣や東大の内藤博士までが、今日では「尊王攘夷の志士」として扱われている水戸の天狗党をもって、「流賊」「奸賊」とはっきり指摘した堂々たる石碑が、今も茨城県大子町の永源寺には現存している。 しかし、封建時代当時の「攘夷」という概念は、今日考えられているような、挙国一致で外敵を追払うのではなく、江戸公儀の「征夷大将軍幕府」に代わって、「自分らの殿様を征夷大将軍にかえ、己が陪臣の身分から直参になりたい為の」家臣団のテーゼなのである。 下関で長州が四カ国の連合艦隊を向こうへまわし馬関戦争をした。鹿児島を焦土と化した薩摩の対英戦争もこれは「攘夷の実績」をつくって、己らの殿を征夷大将軍にする為の御奉公だったのである。現に栃木の太平山神社が三光神社と謂われた頃、そこに立てこもった田丸稲之右衛門らは「水戸幕府」という六尺板の大看板を掲げていたし、明治の末まで別院に保管されていた事実がある。 つまり「尊王」と「攘夷」とは、全く異質の概念で、これは明治三十年代の三国干渉の時点からの「国民を戦争目的に駆り立てる軍部のスローガン」でしかなかった。つまり「夷」とは、その頃は露国であり昭和に入っては米英を指したのである。この事実を把握して「真実とは何か」を掴まないと労多くして功少なき結果になってしまう。 なお新撰組を解明するならば、弾左衛門家との関係を徹底的に探査し、元禄十一年の弾圧時代に遡らないと、この真相は捉えられないものである。 次に幕末藩主の双璧として仲の悪かった水戸斉昭と、井伊大老の確執には珍しい史実がある。これは万延元年三月三日の、桜田門外の変で、水戸の侍が井伊を暗殺した有名な事件だが、「天皇の勅許を待たずアメリカに開国し、安政の大獄をやったから、尊王尽忠の士が決起したのだ」と学校の先生は教えた。だからして「その真似をしよう」と五・一五や二・二六の暗殺流行時代さえも起きた程だが少し違う。 しかしかって、この時の一枚刷りの絵「文久元年刊の日本橋檜物町の正木屋版」のものを、浮世絵、版画の権威で当時名古屋中京商業教論だった尾崎久弥先生に、そっと見せられた事がある。「喰いものの怨みおそろし、桜田門」と右上にあって、牛の頭が雪中に転がりでていて、「もう、ごめん」とそれに註がついていた。 「当時は相当に刷られて売られたらしいが、明治になって回収され、ことごとく焼却処分された」と先生は言った。そこで「何故ですか」と聞くと、桜田門の変は当時は牛肉騒動といったそうだ。水戸斉昭のために、その軽輩の家臣が重代の報恩か、あるいは出世欲に取り付かれたかして襲撃したのだが、中に呑み友達として付合っていた薩摩の有村治左衛門がいた。後年、その同輩だった川路が警察権を握るにおよんで牛肉襲撃では、有村への贈位や遺族への扶助料も出ないところから、これを勤王事件にでっちあげ、反対の証拠品は警邏に命じて徹底的に押収処分にした。 水戸人は主立った人材を天狗党の乱で失い、新政府へ潜り込む余地もない状態だったから、勤王の美名の方が今となっては好都合とばかり同調して、結局、ああなったんだと教えてくれた。その時はまさかと思った。 だが、『明治四十五年三月刊非売品史籍雑纂第四巻』を最近読むと、その五百四十六項に、「水戸老公は近江牛を珍重されているのに、井伊直弼が彦根藩主になってからは<国中の牛の屠殺は中止した>と、これまでの習慣を破って送荷せず、老公が<何卒贈られたし>と懇願しても聞かず、やむなく老公は<是まで年々用いたる江州牛肉の味は格別なれば、我らのためにのみにても>と再三にわたって、自らも頼みこまれたが、断られおおいに恥をかき、不快に思召され悔しがられた」と、旧水戸藩士の手記が載っている。 こうなると、「君辱められるや、臣これに死す」という士道のモラルが想起されてくる。この水戸斉昭の牛肉好きというのは、肺病を病んだ時に薬食いとして肉汁や煮焼きしたのが始まりらしいが、江州牛が入らなくなった後、各地の牛を沢山集めた。 しかし、当時のこと故農耕用のものなので、美味しくなくて放って置く内にこの牛が子を作って増えた。しかし昔の人はものを粗末にしない。この牛の大群を利用して種痘用のワクチンを作った。だから日本では水戸が早くて、ここの者は他藩のように痘痕相でなく、これが後に薩長土の顔中ぶつぶつの連中から嫌われ、その嫉妬から、水戸人は損をしたといった話も「波山記事追加」というのには出ている。-------------------------------------------------------------------------------- さて、井伊掃部頭という官名は世襲である。 これは侵略してきた仏教政権が原住民を蔑み、掃除人夫扱いした侮称の名残である。そして原住民は「今昔物語」の頃から(餌取り)として扱われ、獣の皮を剥ぎ、肉を取る者とされていた。だから井伊が意地になったのは、水戸が有栖川家の登美宮を夫人に迎えていたせいもあるらしい。 何しろ井伊の祖先は、遠州井伊谷。この地は「熊野速玉神社文書」にあるような神社領で、これはれっきとした(神の民)である。「遠州文書」によれば、近江彦根初代城主の井伊直政は二歳の時にその父を討たれ、後、松下神社の社家にもあたる松下源太郎清景に引き取られ『武徳編年集成』によると、木下藤吉郎が初めに奉公した松下加兵衛之綱と、この源太郎は併記されているから源氏系の原住民として井伊も由緒正しい家柄である。 だから牛肉騒動は発端には違いないが、根元的にはやはり(仏の民)と(神の民)の正面衝突と見るべきだろう。 では何故井伊が、そんな強気を示したかというと、これはこの時点において「お蔭参り」が流行しだし、(神の民)の意気があがってきたせいもあろうと思推される。 従来の幕末史解明は、勤王の志士をスター扱いにするか、さもなくば一部の諸藩主の行動を帰納的に演繹する方式、つまり個人のバイタリティーに依存する講談的論理しかなく、肝腎な民衆の行動を等閑視しているが、世界中何処へ行ったとて民衆の参加しない革命などあり得ない。 それゆえ幕末史の鍵を解くには、「伊勢への無銭旅行の(お蔭参り)」と「各神社の守札を各地にばらまいて(神の民)と自認していた原住民系の純日本人を扇動し(ええじゃないか)騒動を惹起させた戦国期同様に、外来の仏教徒追放をスローガンにして結集させたエネルギー」とを、もっと検討すべきではあるまいか。 【革命準備工作】 さて『田村栄太郎著作集』によれば、「天照大神の前身は、大山石尊と同じ雷神」とある。大山石尊とは<山窩>と命名された丹沢系のフウマ族が謹んで守護している神だから、この田村式着想からゆけば、天照大神も(神の民)が守る神ではあろう。だが西行法師のごときは、「何ものの、おわしますかは知らねども・・・・・」と露骨に疑問を提示している前例すら有る。もちろん後年は良い方に解釈しているが、それでも誠に畏れ多い極みである。 なにしろ原住民系の者共が勝手気ままに集団で押しかけていった(幕末のお伊勢詣り)つまり無銭でゆけた(抜け参り)とか(お蔭参り)とは、伊勢は伊勢でも鳥羽の二見ガ浦の蘇民将来の原住民専用の神様(松下神社)だった。そこで当時のいわゆる(お伊勢様)の方は、古市に軒を並べていた遊郭へ寄ったくらいではなかろうかと想われる。これは、なにしろ慶応二年版「いろは番付」の筆頭にも「いせで筆下ろし」つまり伊勢詣りして男の成人式を済ませた慣習が書かれて在るからだ。 とはいえ無銭旅行や無銭遊興するのにはスポンサーがいる。『田村栄太郎集』によれば「費用もない貧乏人や雇い人や娘でも、沿道の者が施して無事に参拝させるから無一文でも旅行が出来る。これは伊勢大神が平等の神で(人間平等思想の発露)であり、沿道の者はこの思想を尊重したものである」と説明している。 ところがこの時代は米価にしろ、「安政三年越後米一斗四百八十文だったのが、十年後の慶応二年には、一斗につき四貫三百六十文と九倍に騰貴し、ご府内の小売値は百文につき米は二合、麦でも三合と、生計苦しくなり困窮す」と『江都評判記』にも出ている程の悪性インフレの世の中である。田村説のように、沿道の者が(平等思想を尊重して、他人に施しなどしていたら)自分らが首を吊らねばならぬ社会情勢だった。 それでは誰がスポンサーだったのか調べてみると『宮川舎漫筆』に、「鹿嶋屋作之助方にて一人銀一匁ずつ出す」「鴻池善右衛門方にて一人金一朱ずつ渡す」と明示されている。 そしてこの鴻池も鹿嶋も(神の民)の代表的な名前である。つまり彼らは同族の純日本人同士だけで相互扶助をし、彼らのエルサレムにも当たる弁天、恵比寿、大黒の七福神を祀る松下神社への参拝を奨励し、同族意識を強固にして(文治革命)(慶長革命)につぐ(慶応革命)といったものを意企し、外来の仏教勢力を一掃して(神国日本)に戻そうとしたのである。 しかし結果的には、西南勢力は外来系であることを忘れたか、有栖川宮や岩倉らに軍資金を出して成功させたばっかりに、返ってそれが命取りになって、神の民の敵国である<新政府>を作られてしまい、鹿嶋も鴻池もやがて没落してゆく過程は「五代才助伝」にも詳しく出ている。 国民の分布は外来系に対して原住系の方が圧倒的に数が多いから、大東亜戦争などでも、さんざん圧迫しておいた神の民を利用するため、旗色が悪くなると「天祐神助」だとか「神風」といった宣伝をしたのもこのせいである。 ☆ ☆ ☆ 日本という国家は、表面上は統一されたかのようにいわれているが、仏教系の大陸からの支配勢力と神道系の原住民系の被支配者層に分かれているようである。
2013年03月28日
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恐らく、日本人ぐらい自国の歴史を知らない民族もいないのではないか?と思う。そもそも、日本人という言い方もおかしいのだが、他に呼び方がないので、とりあえず、「日本列島に定住してきた人」という意味で使いたい。 日本とは、各大陸から流れてきた人々が集って生活することで、生まれた他民族国家というのが、現実らしい。 八切止夫氏によると、日本の歴史が出鱈目なのは、伊藤博文が、ドイツ人の如何わしい歴史家を雇い、明治政府に都合のよいように、日本の歴史を捏造したのを、そのまま暗記科目として習わされているせいであるそうだ。 八切止夫作品集によれば、騎馬民族系末裔の源氏、海洋民族系末裔の平氏の2つが原住民系で、大陸から郭ムソウ(藤原鎌足)に引きつれられてきた約2万人の支配者階級の末裔が藤原(唐「とう」を原にする)氏、そして、唐を滅ぼした契丹系の末裔が、橘氏と、4つに大別でき、それぞれの象徴色は、源氏が白、平氏が赤、藤原氏が黒、橘氏が黄という。とすると、源平藤橘は、日本列島にやってきた順番ということになる。 しかしながら、日本史の教育では、日本人としてはじめから民族的に統一されていたかのように教えられる。明治時代となんらかわりがないのである。全く進歩がない。 歴史番組といえば、共産主義のイデオロギーのように、思想洗脳というか暗記を強制された事柄を、ありがたがって議論するような、どこか宗教じみた信者のような馬鹿な連中ばかりが喧々諤々と議論しているからアホ臭い。 日本史は、日本歴史教という新興宗教になってしまっているので、八切止夫氏の歴史考察についての以下の興味深いサイトから抜粋紹介することで、思想洗脳を自らで打ち破って欲しい。 ☆ ☆ ☆ 維新戦争はグレシャムの法則 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/meijiishin.htm (虚構の国・日本列島) 「権力が勝手気儘に歴史をデフォルメしいてる点において、日本列島は、まこと万国無比らしい。現在の時点に立脚し、もし極論すれば信頼に値する程のものは希有である」とさえ極言するものすらある。 「Random(出鱈目)なことを教えるのは良くないと思った。そこで日本に於ける歴史教育を廃止した」と進駐軍の教育局長として来日した米人でさえ、はっきり明言して憚らなかったという言い伝えさえもある。それでは日本の歴史が何故かくも出鱈目かといえば、これは対比史料がなく、いくらでも偽造できたからだと戦後は謂われている。 ドイツあたりなら、カイゼルやビスマルクがいくら歴史を贋作しても、周囲の仏、白和、丁、波、瑞の国々の歴史を参照すればすぐ化けの皮が剥がれるが、周囲を海で隔離された日本列島には、比べるべき隣国の歴史が皆無のせいらしい。 朝鮮にあった史料も「日韓合併」のおりに、明治政府が握り潰し証拠湮滅したから、『漢書地理志』にある「楽浪の海中に倭人あり」とか、「邪馬台国あり、女王にて卑弥呼」ぐらいな頼りないものしか現存しない。 あと十六世紀の織田信長の頃に、日本へ来ていた宣教師がジャワへ送っていた通信文の「バタビヤ資料」がオランダの図書館に残っているぐらいである。そして幕末に入っても「ゴンチャロフ旅行記」や英国大使館員だった「サトー日記」など、好奇心による報告書の一部が伝わっているにすぎない。 まるっきり目隠しをされた儘で「歴史屋」とも呼ぶべき商売人のものを読まされている。それに幕末に我が天下を取た薩長政府も無茶をしている。だいたい片寄った南西系だったことと、彼らが軽輩上がりで無知だったせいもあるが、「反徳川だから秀吉は勤王であったろう」といった考えからして、それまでは禁じられていた豊国神社の再建を許し、正一位にしてしまったりした。時の権力がこんな事をしてしまうと、歴史家もそれにばつを合わせてしまう。 だから、故黒板博士もしきりに「秀吉勤王説」を説いている。 しかし、秀吉の最大の勤王の事績というのは、己の建てた聚楽第へ、ときの、「後陽成天皇」をお迎え申し奉仕した事だが、こんな人を食った話もない。京都の中心地の五条から四条にかけて広大な面積をとって、寺や民家を追い払って秀吉が建てたそれは何かというと、自分が帝位を継ぐために造営した己の御所だったからである。 しかも後陽成天皇と申すのは、当時の奈良興福寺の多聞院の和尚の書き残した日記によると、当時の秀吉たるや、 「正親町帝に対し奉って、自分は持萩大納言の娘の子で、まこと先帝の遺児である」 といいがかりをつけて譲位を迫り、皇太子殿下である誠仁親王を害し奉った後、自分が即位しようとしたところ、各地で天災地変が起きたと脅かされ、それが親王の怨霊であるというので、吃驚仰天。「それは困る」と、己が一命に拘わるというので皇位を狙うのを止めにして、親王の第一皇子を、さかのぼった年月日にして、(正親町帝退位、すぐ御即位)の恰好で擁立申し上げたのが後陽成様だからである。 しかも後には、その後陽成様を今の北京へ移すべく征韓の役さえ起こしている。こういうのが勤王家であるといったより作成されたフィクションをそのまま教え込まれそれを鵜呑みにしてきたのであるから堪らない。だから講談や浪花節までが「歴史」として扱われたりするのである。 <神の民>と<仏の民>の正面衝突であった元禄事件でさえも、今日の時点では、およそ三百に及ぶ「赤穂義士資料」の刊行を見ながら、講談浪花節的解説から一歩も出ては居ない。未だに本質の究明はされていないのだ。何故かというと、浪花節の文句を歴史と間違え、講談を正史と満足している人が多いからだろう。 (鎖国の真実) だからして「門前の小僧、習わぬ経を読む」式に昔は詰め込み主義で、一応に「神武、綏靖、安寧・・・・・」等と棒暗記させられた。だがさて、戦後、世界教育会議に出席した連中などに聞き合わせてみると、「歴史を丸暗記式に教えたのは日本だけ」だという。つまり他国では polish study (検討)すべきなのに、この国では(研究されては不可ぬから)と頭ごなしに暗記させてしまったものらしい。 敗戦直後には「大本営発表」がほとんど嘘っぱちだったと、真相を明白にされて愕いたものだが、日本の歴史も(暴かれていない大本営発表)と思えばまあ間違いない。 だから「明治維新から百年」と騒いでいるが、今の時点では、もう幕末の真相さえも満足に伝わっていない。昭和に入って教育を受けた年代の者でも、「明治維新とは、勤王の志士によるクーデターで、王政復古の革命だった」式に教えこまれている。その上、昭和初期は、今の田村高広のオヤジさんの阪妻や、新国劇育ての親の沢正が、いつも勤王の志士に扮して立ち廻りをしていた。テレビの無かった当時のことなので、この感化力たるや凄まじいものがあった。 「春雨じゃ、濡れて行こう」と詩情を見せる月形半平太が、愛する雛菊、千代菊を残し、憎むべき新撰組の刃を受け、「勤王尽忠」と、寺の唐紙に己の血汐で指で書きながら絶命する壮烈なシーンを見せつけられては(これこそ崇高なモラル)と、かっての青少年は誰だって昔は感激したものだ。 今日のスーパーマンに当たる「鞍馬天狗」のおじさんが、杉作少年と共に勤王の志士を助け「正義の味方だ」と叫べば、幼児だって「勤皇は正義」と思いこんでしまう。しまいには、「勤皇か佐幕か」なんて映画まで出てきて、チャンバラ映画が国民道徳精神を振興させた。だから昭和十一年から二十年までの十年間に、この教育を受けた年代は、自分も勤皇の志士になったつもりで、みな水漬く屍になったり、草むす髑髏にされてしまったのだ。教育だけでなく影響力は色々なものから受ける。 ☆ ☆ ☆ 字数制限を超えるので次回に譲る。
2013年03月28日
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この間、TVの歴史番組をみていたが、全くいい加減なのに呆れてしまった。問題なのは、後世につくられた観点で、当時の人物像を捉えているところにある。 タイムマシンがない以上、いずれにしろ、当時に行くことはできないので想像でしかないが、もし、その人物がいなかったとしたら、現在どうなっていたのか、ぐらいの考察は可能だろうし、第一、歴史的事実の謎が解明できるはずである。 ただ、漠然と、人物像を神様のように信仰し、以前紹介した宮本武蔵のように、ほとんどが宗教化しているから、呆れてしまう。 その番組とは、徳川斉昭と井伊直弼のことだったが、従来の開国や鎖国の論争に終始していて、全くアホらしかった。このブログでは何度も紹介したが、幕府は、長崎に出島を置き、貿易していたのであって、鎖国などしていないから、開国、鎖国の論争は無意味である。 それに当時は、国家の概念などほとんどなかったわけで、各地方が国になっていたから、そもそも国家を語る意味がない。 国家のなかった当時と、現代の国家の概念を当てはめる無知蒙昧さに腹が立つし、またそのような時代を引き合いにだして、TPPが問題になっている現代で、開国論を持ち出すのは歴史を知らない無知蒙昧のなせる業であるといえよう。 そのような自国の歴史さえも無理解なアホに、では、日本は現在鎖国しているのか?と問えば、YESと答えるのだろうか。周囲にある外国製品が、日本製だとも思っているのだろうか? さて、そのような洗脳に騙されないために、八切止夫氏関連からのネット検索で面白いサイトをみつけたので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 心に青雲 http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/230009533.html 先日、私のブログを読んでくださっている方から、感想が送られてきた。かつて私がブログで本当の日本史とはどういうものかを書こうとしたときの文章を引用してくださっていた。 「以下をご教示いただき、ありがとうございます。みんな、私の知らないことばかりです。そうだったのか!と驚くことしきりです。このようなことを、すべての日本人が平凡な庶民が知って、かつ、理解できれば、今の日本人にも活力・行動がでてくるであろうにな、と思ったりします。」 とのことであった。今日はその引用をそのまま掲載する。以前アップした文章ではあるが、元のブログが閉鎖されてしまったので、再録するのも良いかと思ったしだいである。 引用していただいた項目は以下である。(1)安政の大獄の真実(2)カタカナの起源および、漢文と日本語(3)武士の起源(4)日本における、奴隷解放と花開いた庶民の文化(5)天皇・公家を皆殺しにできなかったのは、背後に支那がいたから(6)火葬の起源と、寺の儲け(7)日の丸(白地に赤く)の由来 それぞれに対する解説文を以下に載せる。 * * *(1)[日本史の本当の姿を求めて(上) | 2007年04月09日]> 安政の大獄は、(省略) 八切止夫の『野史辞典』(日本シェル出版 昭和55年)をひもといてみると、「征夷の勅命さえ賜れば、征夷大将軍になれるものと考え、水戸斉昭が京屋敷の鵜飼幸吉に献銀させ入手した密勅事件。つまり次々と各大名が公家に出入りの商人に銀を贈って、勅を賜っているのに驚き、井伊大老が贈路側と贈賄した双方を捕え、ついでに過激派の者も一緒に治安維持のためにと逮捕した疑獄事件。(省略) 安政の大獄は、水戸藩らの卑しい疑獄事件だったものを、明治政府が自分たち「新時代を創ろうとした」勢力を弾圧した事件にすり替えたのだ。(2)[日本史の本当の姿を求めて(下) | 2007年04月10日]> 藤原氏は端的には支那人だったから、公文書関係も私的文書もすべていわゆる漢文、すなわち支那語で書いた(書かせた)。それを字の書ける女たちが、素早く書く必要から仮名が生まれ、読み方の工夫からカタカナが生まれた。(省略) 日本語は、原日本人と、あとから渡来した支那勢力(公家)との相互浸透によって成立していった。 最初は原日本語あるいは朝鮮語のようなものに漢字を当てはめて使用する。なにしろ、藤原氏(公家)は支那語でしゃべっても、原日本人を従わせねばならないから、漢文(支那語)を日本語に置き換えて、わからせなければならない。例えば古事記でも万葉集でも記述は漢文(支那語)で書かれたが、原日本人は支那語表記(漢字だけ)のまま返り点だのなんだの記号を加え、自分たちの使っている言葉で理解した。(省略)(3)[日本史の本当の姿を求めて(下) | 2007年04月10日]> 例えば承平・天慶の乱(平将門と藤原純友の乱)は、奴隷状態に置かれた原住民部族の叛乱であったようだが、これを鎮圧するべく派遣されたのもやはり原住民のなかの公家支配層の傭兵になった連中だった。夷をもって夷を制す、だからまさに支那人の常套手段。今でいうなら第二組合を使って、第一組合という過激不満分子の叛乱を鎮圧させた。この第二組合と第一組合がやがて武士に変化発展することになる。武士の起源は、あれは貴族が変化したのではない。つまり公家が、原住民弾圧のために原住民から軍隊を創らざるを得なかったものなのだ。(4)[日本史の本当の姿を求めて(下) | 2007年04月10日]> 歴史は支配者階級がつくるものであり、文化も基本的には支配階級が、貴族がリードして創るものである。庶民には文化は創ることはできない。(省略) ところが、わが国の場合は、何度か原日本人が政権をまがりなりにも奪回した時期(平家、源氏、北条氏、信長、秀吉、家康)があったこともあって、庶民の文化が上流階級と混ざる機会が生じた。ここが他の国と大きく異なる歴史なのである。 例えば、安土桃山時代には、奴隷解放がそうとう行われ、楽市楽座(商売をしても税金を課さない)などのおかげで、庶民がのびのびと文化を花開かせることができた。歌舞伎なんかが盛んに演じられるようになり、庶民がそれを楽しむことができたのは、ひとえに(先住民出身の)信長や秀吉が先住民の奴隷状態を解いたからであった。それがなんとか、江戸時代の元禄ころまでは続いた。(5)[日本史の本当の姿を求めて(下) | 2007年04月10日]> また、武士(原日本人)が政権を奪取してもなお、天皇・公家は皆殺しにせず、温存させたのは、やはり背後に支那があるためではなかったろうか。支那が怖くて、天皇・公家一族を皆殺しにはできなかった。天皇・公家はなんといっても支那の出先機関であり、支那王朝が朝貢冊封体制の維持を条件に認めている権力者なのだ。(省略) 南北朝の戦乱にしても、教科書史観では、日本国内のこととしてしか扱わないけれど、足利氏は支那から指示されて北条政権を倒したのだし、後醍醐院の叛乱も支那との関わりなしにはあり得まい。(6)[葬儀の歴史と寺院のあこぎ | 2007年04月11日]> 明治以前は、火葬にしろ、土葬にしろ、公家は公家のやりかた、庶民は庶民のやりかたで、風習にしたがってやっていた。ところが明治以降、すべて原則火葬になり、寺が管理するようになった。火葬場と寺は葬儀のセットである。(省略) どうしたかといえば、風葬や焼いて適当に丘の上などに埋めたのだ。それでは寺が儲からないと考えたらしく、官憲に葬儀まで干渉させ、葬儀を許可制にしたのである。それ依頼、埋葬には医師の死亡診断書と火葬場の証明、さらに寺の受け入れ証明まで必要にさせられた。(省略) だから庶民には明治以前は墓などほとんどなかったのである。(7)[日の丸の旗は庶民の旗 | 2007年04月12日]> なぜ紅白かといえば、源氏、平家から受け継いでいる。源氏が白の旗、平氏が赤の旗を掲げて戦った。日の丸というのは、この源平の旗を統合したところに由来がある。(省略) 江戸中期の文化文政のころ、幕府はロシアの脅威に対して北方の防衛策のため言うなれば“海軍”を編成した。(省略) この“海軍”の中心となったのが、源氏と平氏の末裔である。(省略) とはいえ、両派が船中で対立しては困るので、赤旗の平氏と白旗の源氏の折衷案として白と赤を入れた旗をこしらえた。源氏の白の地に真ん中に平氏の赤を丸でいれて、日の丸ができた。(省略) ペリー来航によって日本がこじあけられ、日本の船を外国船と区別をしなければならなくなって、再び日の丸が復活し、これを掲げて咸臨丸は渡米した。 外国船との区別をつけるためには日本船章を日の丸に、と幕府に献策したのは、薩摩藩主で西郷隆盛を抜擢した名君といわれる島津成彬である。(省略) 源平こそわれら庶民の味方、代表だったのであり、そこに由来する日の丸は、したがって庶民の旗なのである。決して天皇家や公家の由来の国旗ではなかった。 * * * これらの多くは、八切止夫の論考による。全部が正しいとまでは言わないけれど、官許歴史よりははるかに真実をついていると思われたので紹介した。なにしろ教科書で教わる官許歴史とは、あくまで権力者にとって都合の良い「書かれた歴史」なのであるから。 われわれは本当の日本の歴史をつかまなければ、現代の闇も、これからの時代がどうなっていくのかもわかる方途はないと言うべきであろう。 ☆ ☆ ☆ 以上の安政の大獄をみればわかるように、開国鎖国論などではないことがわかる。八切止夫氏の他の考察によると、斉昭が好んでいた牛肉の献上を、井伊が禁じたことで、井伊の政策にことごとく斉昭が反発したので、徳川本家と水戸藩の闘争に発展したそうだ。要するに斉昭の個人的な食の怨みである。尊皇攘夷は、後世の辻褄合わせの線が濃いようである。 なお、鹿島説によると、水戸藩は、御三家ではなく、御三家は、本家、尾張、紀州だった、とのことである。水戸藩が御三家となったのは明治政府の捏造に思える。
2013年03月28日
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以前、八切止夫作品集から、ワビサビの茶が、原住民系の先祖の苦労を偲ぶことから、信長により、忠誠心を試すための毒見の一種となったことを紹介した。その際、ワビの「侘び」は先祖に詫びることで、サビの「寂び」は、先祖を偲ぶことであると紹介した。 だから、ワビサビの茶とは、先祖供養に他ならない。 しかし、信長により、ワビサビ茶は、家臣への忠誠心を推し量る毒見の場と化した。そのため、茶の場は生きるか死ぬかの厳粛な場となったという。 さて、そこで、医食同源という中国の故事にあるように、茶を医学的に考えてみると、茶の場は、いまでいう臨床実験の場となっていたのではなかろうか?と思う。 以前、江戸時代や戦国時代の医学といえば、祈祷しかなかったことを紹介したが、それは表向きの話で、特に戦国時代は、死者が多いので、大陸からの漢方医は、死者の内臓等をとってきて加工し、煎じて、生薬等にしていたそうである。八切止夫氏によれば、「生薬」という言葉の語源も、そこにある、とも書いている。 つまり、当時は、現在のように冷凍(冷蔵)技術が発達していないので、臓器移植を行うにも、臓器を保存できないから、生きた人間を連れてきて、必要な臓器をとった、ということも考えられるわけである。勿論、殺人だから、公式の記録には残らず、犠牲になるのは、奴隷階級の人たちなので、黙殺されてしまう。 当時、奴隷売買、人身売買が行われていたことも、記録上から抹消されているわけだから、外科的医療が行われていた記録などが残っているはずもない。 結局、わからずじまいなのだが、そのようなことを主におこなっていた連中が、薬師寺系の僧だったようである。僧といっても、仏教徒から認められた僧ではなく、通称、拝み屋、祈祷師といわれる僧くずれの存在だったようである。 八切止夫氏によると、唐(とう)人でなければ、正式な僧として認められなかったそうで、だから、「十(とう)でない」という言葉は、主に原住民系の末裔の八(はち)と呼ばれる人を意味したという。 八は、海洋民族系の平氏の末裔を意味し、四は、騎馬民族系の源氏の末裔を意味するそうだ。ちなみに、日の丸は、平氏の象徴色の赤と、源氏の象徴色の白から成立した。金色は、原住民系の象徴色で、山(地)金に由来するという。砂金をとって生活していたからだろう。 秀吉や、家康が馬印に、金を使ったのは、原住民系の末裔であることを意味し、同族争わずを意味するそうだ。そこから考えると、家康と秀吉の合戦は、ヤラセかもしれない。家康がややこしいのは、松平家が仏教系なところである。 八切止夫氏によると、家康は、松平元康に化けて、松平家を乗っ取ったという。後の御三家の尾張徳川家の宗春が、そのことを暴露しようとしたために、尾張家は断絶させられたという。本能寺の変も、信長に家康の正体を見抜かれたためと推測している。 薬師寺系の仲間は皆原住民系で、なかには動物から皮を剥いで商売にしていた者が、薬師寺系の仏教徒に盛んにお布施するので、ついには一向宗の仏教徒から妬まれ、朝廷を通じて家光に工作したので、生類憐れみの令にまで発展したことは、以前紹介した。 八切止夫氏によると、薬師寺系と一向宗の極楽浄土系との対立は、関ヶ原の戦いから明らかになるそうだ。秀吉は、自らが天皇となり、大陸から、極楽浄土系の思想を輸入し、アジアを思想統合しようと目論んだようだ。しかし、千利休(宗易)などの反乱と、イエズス会などに見抜かれ、挫折してしまう。 秀吉亡き後は、原住民系の神道から、仏教に改宗した薬師寺系を広く取り込むために、家康は、東側勢力を結集し、東の薬師寺系と西の極楽浄土系との対立にする。だから、関ヶ原で西側が負けたのは、秀吉の極楽浄土の思想が広く浸透していなかったせいともいえる。 というように、八切止夫氏の説から日本の歴史を紐解くと、疑問が氷解するから不思議である。 例えば、平氏の末裔が、八(や)と呼ばれるのは、恐らく、ヤハウエと関係があるだろうし、祇園が、シオンに、平氏の赤が、モーセの赤と、なにより、タイラがトーラーと読めることから、またモーセが川から流れてきたことと、平氏の海洋民族の末裔ということも、あまりにつながりが多いので、平氏は古代イスラエルとつながりが深いのではないかと思う。 とすると、君が代の作者は、平氏の末裔なのではないか、とも思われる。 以前、紹介したジャパンは、ヤパン、バハン、八幡に由来するというのも、平氏に関係するように思えてくる。 八切止夫氏の説から、色々と連想して書き綴ってきたが、面白いので、この日本史連想ゲームを続けたい。
2013年03月27日
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前回からの続き ☆ ☆ ☆ [『庶民日本史辞典』(日本シェル出版)』という八切氏の著書に、この『青春』について解説されてますので、御参考の為に以下に転載しておきます。 なお、適当に用字を変えている個所もあります。(例:符ちょう→符牒)*************************************************************************** 青春 現代では良い言葉だが、幕末までは、お寺の隠語で「見頃食べ頃」の少年少女を、人買いが雪どけを待って訪れてきた時に渡すため寺人別帳に記入していた符牒。親の為に身売りをするとか、年貢を納める為に女郎屋へ売られてゆくといったようなプロセスは、ずっと後世の江戸期に入ってからのことです。 それより昔は飼っている牛や豚に子をうませたのを、市場へだしてせりで売るようにしていたのです。つまり庭子とよばれたのが男女別々に寝泊りさせられていたのも、女達を主人専用にする為だったと歴史家は説明していますが、そういうことも実際は当然あったでしょうが、改良品種を市場へ出して値を良く売る為に、主人の眼鏡にかなった男と女だけが、時々交配させられたのは、種とりが目的でもあったのです。つまり雪どけの春がくると人買いが、せり市へ出す為に、器量の良い少女や働き者らしくみえる少年を求めに訪れてきます。 ですから食物なら食べ頃というのでしょうが、青の子供の「しし」たちの売り頃が、青春なのでした。 唐突のように思われるかもしれませんが、その為にこそ寺人別帳なるものが明治まであったのです。荘園はなくなっても寺院はずっとあったので、各寺の和尚さんは私有財産の台帳として、太郎兵衛とお花の間に生まれたのが、ぼつぼつ十三、四になるから値をよく売ってやろうと筆を動かし勘定をしていたのです。なにも御慈悲で親切に戸籍係のような帳面をつけていたのではありません。 <野史辞典>の巻末には、天平十八年頃の25歳の娘の奴婢として値段がキビ千束とありますが、本当の処は高梁の束のことで、奴隷市では売買されていた実存の奈良東大寺の売買記録もでています。 恰好よく使われても、本当の歴史で真実をたぐってゆくと庶民には哀れ悲しい苛酷な恥辱の語源。 「本当のことを言ってしまっては、実も蓋もない」と古来よく言い伝えられてきているのも、こうした訳け合いからでしょうし、「木が沈み、石が流れるのが世のならい」とも賢しい方はおっしゃっています。*************************************************************************** これは「庶民史辞典」に詳しく出ているが、つまり日本での古代史とはウエツフミはホツマツタエ。竹内文書の世界では木村鷹太郎の「海洋渡来日本史」や「旧約聖書日本史」の方が、今イタリア語フランス語で訳され出廻っているのもあるが、判りやすく難解でなく楽に読め入ってゆけるが、その後の西暦一世紀から「倭の五王」までの時代となると、学校歴史とは全然相違していても、「天の古代史研究」[八切氏の著書]から読んでゆくしかない。真実の探り出しは他書では無理だろうと想う。 この「古代史入門」と「天の古代史研究」の二冊しか、前人未到の分野の解明に突入のものはないからである。つまりわけのわからぬ謎ときを何とかできる手引書は全然ないゆえである。 なにしろヨーロッパなら近接諸国の歴史からでも、ある程度の分析はできる。しかし日本は明治大帝の仰せをかしこみ朝鮮までゆき、都合の悪い石碑の文字は削ったり、史書は集め伊藤博文が焚書し、ハルピンで安重根に暗殺されている。中国にあるものはヒミコの出てくる魏誌倭人伝だけで、明確に現存の15世紀のイエズス派史料は参考にせぬ万邦無比の、ひとりよがりの歴史。 だから今でも、天から高千穂の峯へ落下傘もつけずスーパーマンのごとく、来臨された天孫民族であるとする藤[唐]の勧学院製を下敷きにした江戸期の後西さまの日本書紀を金科玉条としている学校歴史では、悲しいが、本当のところは何とも探求しようもない。もちろん後述のごとく焚書につぐ焚書の運命に史書はあってきていて、いつの時代でも日本という国にあっては、「歴史」とは過去の真実を解明するような、一銭にもならぬ無駄な徒労をする事ではなかった。 リースを伊藤博文が招いたのも、明治二十二年の憲法発布に利用するだけが目的であった。ところが突然に日本へ来たばかりのリースは、天孫民族説の神話を鵜呑みにしてあっさりと、「大和民族は単一民族なり」と発表し、当時大陸進出を志していた明治軍部にすっかり歓ばれて、「対外戦争をするには国民の一致団結が必要。 よって国定教科書の歴史は彼に一任すべし」となって出来たのが、彼の門下三上参次や小川銀次郎、重田定一による、今も検定教科書とされるもので、学校歴史とよばれる。 つまり戦争目的に作成されたものゆえ、国民精神作興に利用できれば可といったものだけゆえ、真実追求とは全く縁遠いのも、これまた無理からぬ話である。戦前は国定教科書で丸暗記だったから、天孫降臨でよく紀元節とよぶ日に、紅白の饅頭を貰えた義理で、私も昔は頭から信じていたが、テレビで「ルーツ」など放映されだし皆も変ってきた。 「単一民族と学校の歴史では教わったが、鹿児島県人と青森県人がはたして一緒なのだろうか?」 「同一民族というのは、同一宗教で同一通貨というが、日本では仏教に神道に富士講、四方拝講から、若狭の神宮寺講に伊勢講中と数も知れないし、明治までは箱根から東は金本位。西は九州まで銀本位と、まっ二つに分かれていて、とても同じ民族とは思えない」という事になってきた。 「契丹日本史」[日本シェル出版]を一読すれば、日本古代史の謎も解ける。だが、自分ら日本人のルーツ探しに、あまりに従来の通俗史は都合よく、きわめて美化され恰好良くされすぎているのを読んでいては、どうも徒労で誤ってしまい、真実の裏目ではなかろうかと疑心暗鬼になる。 もっともらしくされすぎの歴史ではない真実をという方には、記紀に誤まされぬようにするための「天の古代史の研究」にあるごとき「天の何々」とされた遠い先祖のための挽歌としたい。 ☆ ☆ ☆ というように、「あまりに従来の通俗史は都合よく、きわめて美化され恰好良くされすぎている」ことがわかる。 通俗史の都合よく、きわめて美化されている表現法は、例えば、京都人を考えるとよくわかる。京都人は、早く帰って欲しいときには、茶でもどうですか、というらしいが、茶というと現代人には、一見風流に聞こえるが、以前、紹介したように、ワビサビの茶が、忠誠心を試す毒見であったことを考えれば、毒を盛りますよ、という意味になる。 つまり、京都人の茶でも、というのは、毒殺しますよ、という意味なのである。 対照的に、昔エビスと呼ばれた堺は、これまた以前紹介したように、仏教の博打のバサラ茶(利休によるワビサビが、秀吉によって再度バサラになる)なので、茶といえば、博打を意味することになり、賭け事を一丁やりますか、という意味になる。 だから、京都人の茶と、堺の大坂人の茶は全くアベコベになってしまう。そのようなことを誤魔化すために、通説が生まれたと考えれば、わかりやすい。
2013年03月27日
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江戸時代をさも平和で天国のように、現代人は錯覚しがちで、明治維新が、さも公平無私の志から行われたかのような印象を、現代人に与えているが、八切止夫作品集を読めば、現代の人間模様そのままであることがわかる。 いま日本は、米国の植民地という認識が定着しつつあるが、遥か昔は、中国の植民地だったようである。日本語が、漢字で表記されるのが、その証拠といえるだろう。だから、そのうち、漢字でなく、ローマ字で表記されるようになるのだろう。実際、米国籍をとろうとする人や、英語読みに近い名前をつける人もいる。 だから、日本という国がどのようにして成立したのか、を改めて考えてみる時期にきているのではなかろうか? そこで、八切止夫作品集から、興味深い話を抜粋紹介して、再考する。 ☆ ☆ ☆ 耶馬台国群は中国の出先機関 古代史探求にとって邪魔というか、妙な変てこな引っ掛かりになるのは耶馬台国の存在だろう。 昔は国といってもアフリカの部落なみの聚落で、魏志倭人伝の卑弥呼の君臨の状態の仰々しさから文字に書かれている故とし、さも大きな国だったような錯覚をしてはならない。 自己に臣従して貢物をたえず献上しているのが、あんまりみすぼらしいのでは国威にかかわると、誇張して書かれたものと判断すべきで、それでなければ魏書の中に倭人伝は加えられていない筈である。書く者にとって、採録されれば名誉にもなるし銭にもなる。不採用では一文にもならぬ。それゆえの記述とみて、あまりこだわったり、とらわれてはいけないと想う。問題にならぬ。 その記事よりも問題は、耶馬台国群と対立して戦っていた八幡国群である。「バハン」と呼ぶのが正しく、現在のマレーシアである。私なんかは学校では馬乗半島の当て字で教わり、ゆえに騎馬民族が此処から日本へ渡ってきたものかと、ずっと思い込まされていたものである。 さてバハンは英語読みで、ラテン語ではヤバアンなのである。それゆえ、「日本人とはヤバアンから渡った民族」というので、ドイツでもアラブやインド各国では、「ヤバーン」「ヤバアナ」とよび、ソ連でも「ヤポン」と今でも、どこでも呼ばれているのである。 紀元前三世紀のアレキサンダー大王遠征で首都スサを陥落されたペルシアの民は、みそぎをするヤサカ川からGIONの神を奉じ、スメラ山脈のならぶアブタビ海より、当時は、「ガレリーナ」とよばれたバハンのニコパルへ、開拓奴隷として送られ、そこから今の北ベトナム雲南へ送られる途中、黒潮暖流にうまく乗れたのは生魚をとって海水で味つけして噛り、日本列島の瀬戸内海を抜け阿波の鳴門から出てゆく前に、陸へ這い上がったのが今の日本人とされる。 「聖戦」と、かつての大東亜戦争を呼んだのも、シンガポールよりニコパルを先に占領した為。そこから銀輪部隊でシンガポールの背後をついたからである。つまり後には「八」とよばれる古代海人族はここよりの南方民族にあたる。彼らは魚をとり塩もつくるし、漂着地で農耕もする。 ハングリーの時代である。バハン又はヤバアンとよばれる村落には、塩もあるし乾魚もあり、粟も収穫がしまってある。だが襲って奪うのには武器がいる。かつては喰いつくだけの攻撃だったから、歯が唯一の武器で、捕虜は前歯を石で叩き折られて武装解除し使役にされていた。 しかし西南よりの渡来の聚落では、大きな貝を探してきて貝刀を作り、真竹をもちこんできて植えて増やし、弓矢を作って武器にしている。後に竹薮の多い所を八幡の薮知らずというのもこれからで、ヤワタとは耶馬台国群と対立の八幡国群の名称からの伝承である。 耶馬台国に連合している各村長というか国群のボスが、牙をむくみたいに前歯をつきだし、「貝刀に弓矢に、歯ではくいついてゆけんから、中国から何でも斬れるときく鉄の剣を‥‥」とヒミコのもとへ集まってきて、戦う武器援助を申しでてきた。今でいえば超能力の霊媒で、占い専門のヒミコにしても、まさかお祈りでは中国の鉄剣はアラビアの魔法のランプはないから無理。 そこで北東に風がふき潮流が流れる時を見計って使者をたて、泣きつくようにして、「武器か、さもなくば食料のどちらを供与されたし」と入手したい旨を手真似で相手に伝えさせた。 「食料を運ぶのには多くの船がいる。臣従するならば我が国より武器援助のほうもしようぞ」となった。 もちろんヒミコが美女だったら、まず彼女を武器援助の見返りに求めたかも知れぬ。しかし、そうしなかったのは、使者の話でよくよくのブスだと判っていたせいかも知れぬ。 だから鉄剣は木箱一つぐらいで貸与されなかったらしいが、それまでは喰いつくために突撃して近寄る前に弓矢で射られ動けなかったところを、鋭利な貝刀で血の脈を斬られ殺されていた耶馬台国群のボスたちは、ひとふりずつでも鉄の剣を貰うと旱天の慈雨のごとく感激した。 この貝刀は八幡国群だけで、ペルシャやアラブでは多く作られ戦闘に使用されていたから、今でも切れ味の良さを貝のマークにした安全剃刀の刃も輸入されて出廻っている。 サンカも焼印を五つ、柄につけた山刀をウメ貝とよぶ。しかし薄い貝刀と分厚い鉄剣では勝負にならず、八幡国群は一つずつ略奪され、せっかく貯えた食料も奪われるようになった。 そればかりでなく黒潮で流されてくる途中、インドの背丈1メートル余りのピグミーが逃げてくるのを助けてきていたから、貯蔵食料の他にインドのピグミーをも捕虜としヒミコの許へ伴ってつれ戻ってきた。 恐らく助けられた八幡国群のために彼らピグミーも戦ったのだろう。 当時はビデオも車もなかったから、武器援助の見返り進貢として背丈は小人だが顔が小さく五体満足の珍しい生物として送った。魏志倭人伝に「生口」として出ているのがこれである。 現代でもカルカッタやボンベイへ行けば、幼い少女みたいのが、客とみるとパアッと前をまくって黒々したものを見せ、一人前の女であると安心させるピグミー達が屯している。 つまりそうした倭人の群れを貢進していたので、向こうでは「倭人国」とよんだものらしい。 でなければ中国人に比べて耶馬台国群より使者として行ったものが、ぐっと背が低かったわけでもなかろうから、頭ごなしに倭人とか倭国とか向こうが決めつけて呼ぶ筈もないのである。 さて、鉄剣が耶馬台国群に武器援助される迄は、八幡国群の方が弓矢と貝刀で優勢で、食糧を略奪にくる耶馬台の各聚落の者を撃退していたのが、鉄武器をもってこられてはかなわぬ。 貝刀や弓矢は一撃のもとに叩き折られ、食糧だけでなく聚落の男女が倭人と共に連行されてゆき、奴隷として彼らの為に食糧作りをさせられた。古代史の耶馬台国は奴隷国家の元祖といえる。 そして日本列島には鉄資源が埋蔵されていないことが判ったので向こうの屑鉄を送りこんできて、此方の山金と同量で交換し、その屑鉄を精練する多治比人を伴い南西の潮流で日本へ入ってきたのが、ヤマトタケルを毒害し崇神王朝を倒した日本名竹内宿弥らその人である。 藤原鎌足と改名した郭務ソウのように、前名は判っていないが、彼が北陸及び東北へ巡って歩いたのは、鉄資源探しで自給自足の為らしく、山師の元祖ともいえる。日本書紀では西暦95年のことだが、その五年前の景行二十年には「二月四日皇女五百野姫をして、天照大神を祀らしめ」の記載がある。 既にその一世紀前に天照大神を伊勢大神宮として倭姫命に祀らしめ、89年前に天照大神は封じ込めで祟りをせぬようにと、今の奈良磯城郡織田に、とうにもはや祀られている。 倭つまり中国からみて日本原住民系の倭姫を、祟りをせぬよう封じ込めていたというのは、日本書紀では神話に入る時代にもう原住系の八の女将であった大神は謀殺されて、化けて出てこぬように奈良に葬られていた事になる。 今でも伊勢大祭は中国道教によって取りおこなわれているから、中国大陸の派遣勢力が初めから日本原住民の大女将を葬ったものかとも推理される。 が資源も何もない土地なので三韓の奪略や進攻にまかせて竹内宿弥の頃までは放りっぱなしていたのかも知れぬ。日本書紀とは違うが、耶馬台国群に鉄剣をわたしていた時より、遥か以前らしい。 もちろん東北といっても古い崇神王朝のごときは東北三省の沿海州や羅津からの日本海よりの来攻ゆえ、後の白系ロシア人も入ってきた。だから、新潟や秋田にはその落し子が多く今も肌の白い新潟美人や秋田美人が混血で生まれてくるのだが、中国本土となると違うらしい。 つまり騎馬民族が、都井岬の野生馬なみのロバを伴って日本海を渡ってくる前から、彼らは鴨緑江経由でなく親潮の潮流によって、日本列島へ前から渡来していたものとみられる。 「何ものがおわしますかは知らねども、ただ有難さに涙こぼるる」と五十鈴川畔で江戸時代によまれた句が有名である。つまり今から三世紀前にあってさえ、天照大神さまの御正体は判っていなくて、何がおわすのか不明だった、ということへの裏書きにもなるのではあるまいか。 それに大神にお仕えする皇女が、名前からして日本原住系とみられる夷のつく御方だということは、親魏政権の耶馬台国のヒミコではない。滅ぼされた八幡国群の女王さまという事になる。 耶馬台国群が中国より鉄剣の武器援助を得て、食いつくだけしか武器のなかった彼らは強力になった。ゆえ、それまでは食糧を充分に収穫し勢力をはっていたものの、中国輸入の鉄剣によって滅ぼされ殺された女王であったとみるべきではないか。 天変地異の災難は、みな女王の怨念とみて、祟りよけの封じ込めに、大和の磯に宮をたて、やがて夷瀬[伊勢]の夷須津川[五十鈴川]畔へ移したらしい。 だから八の民らが、天照大神は平政子さまであると思いこみ、またそう信じ込んで、おかげ詣りと称して、日蔭の身の立場から一日も早く助け出してもらいたいと各地より群れをなしたのだ。 そこで「四つ」の騎馬民族系の子孫も、お伊勢詣りの近くの二見が浦に「松下神社」をたて、「蘇民将来之子孫也」といった平泉や八坂さんのような、六角棒の身分証明書は出さずだが、「蘇民将来、来福之符」という紙の御幣をくばっている。現在でも伊勢松坂市内の旧家には入口にみな掲げてある。官製歴史では歴史百科辞典の類にも、これを包み隠してしまい、「昔、疫病が流行した時、蘇民と将来の兄弟[蘇民将来(兄)と巨丹将来(弟)?]が厄よけに薬草をとって治して廻った事から、疫病よけに兄弟の名を軒ごとに貼りだして、まじないとする」などと、まったく出鱈目が書かれている。 「蘇民」とは後の源氏の祖先にもあたる蘇我入鹿や蝦夷[毛人」の氏人のことで「四つ」の騎馬系末孫である。 「東海道膝栗毛」によって、「四つ」も「八つ」と力を合せ世直しをせねばならぬと黄表紙本で一般に広められた宣伝から、「八つ」の者も松下神社に、ついでに参拝するようになる者が増えだした。 こうした土地柄ゆえ、伊勢松坂からは「古事記伝」がうまれたり、本居宣長の死後も太平の許へ、伴信友らも弟子として集まってきて、はじめ明治新政府の太政官の上の神祇省のもとをも作った。 この場合の祇とは祇園さんの祇で、宮とか八とよばれる意味でもあり、神はカラ[韓?]神で「四つ」。 しかし新政府は「四つ」と「八つ」の大衆動員を、巧くして世替わりさせたからして、太政官の上に初めは神祇省を設けたわけ。廃仏毀釈の世となって、それまでは寺の私有財産として、かつて寄進された奴婢の人別帳をもとに、雪どけして人買いがくると、馬なみに「青」とよんでいた彼らの子女を売っては寺の収入としていたから、それゆえ「青春」の言葉も残るが、今は美化されている。 ☆ ☆ ☆ 字数制限を越えるので、次回に譲る。
2013年03月27日
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八切止夫作品集を読むと、日本史として習ってきた多くの事柄が、全くの出鱈目ということもあることに気づかされる。 例えば、有名な聖徳太子などが架空の人物であることや、いまでは厩戸皇子と習うらしいが、これまた有名な宮本武蔵が、非常に脚色された人物であることなどである。 いまだに、日本には侍と忍者がいて、丁髷をしていると思っている外国人と同じである。少し考えれば、わかりそうなものだが、TV等のドラマで見せられてしまうと、喜怒哀楽が伴い、記憶として植えつけられ、パブロフの犬の反応のように、英雄待望論のようなものが時代と共に起こってきて、洗脳はなかなか解けないものである。 そこで、宮本武蔵が、どのように脚色されたのかを、八切止夫作品集より抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ さて伴信友は、若狭小浜の藩士で、本居宣長の死後に入門し、本居太平の教えをうけ、幕末の弘化三年までは生きたが多才博識。軟派では、「ねやのひめごと」の黄表紙本から、三百余の著作で、「長等山風」「神社私考」などの硬派本まである。 もっとも有名なのは、水野忠邦の倹約令で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入ってゆく聖天町とよぶ弾左衛門地の草原に移された時、「先生、わっしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ。草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」と懇願されて筆をとったのが「両島英雄記」である。 なにしろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。濡れ場ものなら、この広さでも出来るが、これは倹約令で御禁制。そこで宮本無三四と佐々木小次郎の両雄が、九州巌流島で決闘の芝居をかいた。なにしろ槍をもって舞台へ出ては、それだけで一杯になって身動きができぬが、刀をもたせ、「雪月花」とよぶ躍りの拍子でチョンがチョンと、上段、中段、下段のからみで、しかも宮本無三四には両手に刀を持たせ、裏日本や東北でいう処の「張(チャン)バラ」を派手にやらせてみたのである。 これが江戸中の大評判になって、黄表紙本の方も売れに売れた。昭和になって軍部が、「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。 なにしろ主人公の武蔵は慕うお通さえも拒んで剣一道の武芸者で性的不能の変質者みたいだが、ポルノは全面発禁の世の中なのに、同じ村出身の本位田又八の情事場面が二頁おきぐらいに、汁粉の逆塩どころか全体の半分も入っていたから、おかみの意向とは逆に心なき国民の中の青少年は、自慰用に求めたものだ。少年だった私もその不心得者の一人だった覚えがある。 伴信友が演劇界救済のために書いた宮本武蔵が大当たりをとると、抜け目のない連中が放っておくわけはない。もっともらしい五輪の書までが、生まれたりして、いつか実在の人物化された。 「人の一生は重荷を背負うて坂を登るがごとし」といった家康遺訓集は、明治になって徳川家を見殺しにしてしまった勝海舟らが、徳川公爵家の要請で創作したものだとは、名古屋徳川家で思い切って公表したのは、最近の新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。 しかし吉川英治は徹底的によく書き込んだからして、国民大衆文学として完成されたから、「二刀流は彼の草案」と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平が京城の陸軍学校へ行き、「壬辰の役(文禄の役)に、進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのをみると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので愕いたという話は、故海音寺潮五郎も「文学建設」に書いてはいたが、武蔵がいつの間にか二刀流開祖にされてしまった。 すっかり舞台上の産物が、本当にされてしまったのである。 応仁の乱の時に、鉄資源のない国なので、外国のように鉄の楯は作れず、といって、木の楯は重たくて一人では、とても運べぬから、足軽とよぶ、狩り出してきた山者に両手に竹をもたせ、「ししっぱらい」とか「露よけ」と先駆けに使った。関白一条兼良は、反仏派で寺を荒し廻る彼らを、「悪党」ともよんだが、青竹を二本もって人間楯として突進してゆくよりは安全と、戦場で落ちている刀を拾い持ち、生き残れた者は両手に握って、とんでくる矢を打ち払って後の戦国武者。 つまり源平合戦から戦国時代大坂夏の陣まで、当時は雑兵とよばれた者達は、みな両刀づかいだったのだから韓国の画家は正確に描写されているのである。講談歴史とか浪花節歴史とよばれる日本の方が間違っているのである。吉川英治の作では関ヶ原合戦に出ているから、見よう見真似で二刀持ちを他に見習ったといってもよい。 戦争目的に、鉄資源不足を知らせぬ為の学校の歴史の教育を上の指示でされてきたのだから、伴信友の作り出した宮本無三四を吉川英治の宮本武蔵にまで勇ましく作らせたのは、まったく意企的な軍部の指図だったらしい。 ☆ ☆ ☆ というように、いまでいうなら、都市伝説が一人歩きし、宮本教という宗教になってしまったようである。 戦国時代でさえ、刀同士の戦い、いわゆるチャンバラなどはなかったそうで、江戸時代は、殿中は勿論のこと、町中でも、無闇に抜刀することは禁じられていたそうで、相手をけしかけて抜刀させる抜刀術が生まれた位だそうで、チャンバラなどは架空の産物だそうである。 少し考えれば、目潰しなどで視界を奪えば、どんな剣豪も実力を発揮できないだろうし、鎖帷子を着て、装備すれば、刀で切られても、刀の方が使い物にならないことがわかる。 宮本武蔵に代表されるチャンバラは、軍部の洗脳だったことがわかり、このような洗脳により、戦場では、日本兵は、刀だけで、突撃するような無謀な暴挙を生み出した。米軍は、日本兵は何者かにとりつかれたように無謀な突撃を繰り返したと評している。 その根底に誤った歴史認識があり、いわゆる現実逃避の精神論があり、それは俗に島国根性といわれる奴隷根性に起因していることが伺える。 このような歴史的背景を知ると、この国に住む、ほとんどがB層なのではないか、と思う。自分を日本人と一括りにして称するのも実はB層となる要因なのではないか?と思う。日本人といっても、沖縄人と、東北人や北海道人とは全く違うのである。それに、江戸時代までは、国といえば、地方のことを指していたはずである。琉球国、蝦夷地、南部藩、津軽藩等々であった。 まぁ、宮本武蔵を日本史で習うことはないから、そんなに弊害はないだろうが、時代劇を歴史モノとしてみてはいけないことに気づく。特に大河ドラマは曲者である。
2013年03月27日
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随分と、シュタイナーの講義の要約を休止してしまったが、久しぶりに、続けます。 いわゆる精神病と診断された疾患の多くが、肉体に関係する様々な器官に病因をもち、逆に、器官に直接現われる疾患の多くが、霊-魂の働きと密接な関係がある、ということをはっきりと理解すべきで、他ならぬ人智学が、その事実を示唆しなければならない。 確かに、これは困難である。いわゆる肉体の病気の場合、まったく機械的、もしくは化学的に進行するので、人間を一個の器械のように扱う唯物論では、精神病のような疾患を特徴づける場合、心的な経過を記述できるだけにとどまる。というのも、唯物論からは、霊-魂と物質-肉体との関係に対する概観が失われてしまっているからである。 霊-魂と物質-肉体との密接な結びつきは、魂の状態と、肉体の容態が入り交じって生じる事象を具体的に調べれば、実際に示せる。 そもそも、精神病を促進させるものは一体何なのか、をよく考えてみる。 人間が病気になると、痛み等などの主観的な病態が現われる。これらの病態は、病気が急性の場合、究めて明確に認識できるが、慢性の場合は、急性とは異なり、器官に何か悪いところがあるため、霊-魂が萎縮し、つまり霊-魂が、その器官から後退するので、認識困難になる。 だから、痛みとは、自我とアストラル体が、物質体とエーテル体から後退することに他ならない。勿論、エーテル体の後退も生じる場合もあるが、痛みを知覚する本質は、何と言っても、アストラル体と自我に由来する。 通常、自我が健全な場合、自我は、それとは反対の物質的な(肉体の)器官のなかで生じる主観や意識的な経過を認識できるが、病気が慢性化すると、次第に自我が、物質的な経過から後退し、その結果、魂に生じる経過が、アストラル体だけに限定され、つまり自我が、アストラル体やエーテル体とともに生じる物質的な経過に参加しなくなる。 自我が、肉体の経過から後退することで、急性の病気が慢性に移行し、慢性の器官疾病が生じる。慢性疾患は意識や心が後退することで生じる病態である。 以上のような病態学から考えれば、意識や心のなかの深い闇の部分へと入り込んでいく必要がある。例えば、病人に、どういう容態で、どこが傷むか、を尋ねるだけでなく、よく眠れるか眠れないか、仕事に喜びを感じるかどうかなどを尋ねる必要がある。 つまり慢性疾患の場合、長期間にわたって広がる、精神形成に多く関わる因子を、病態として見る必要がある。他方、急性疾患の場合、そのときの主観的な感情から、病態を探ることができる。慢性的な事態に発展した場合、これまでの当人の人生経験から、病態を探らないといけない。 さて、慢性的な器官病になるのは、自我から離れた、アストラル体とエーテル体が、通常の正しい器官活動に参加し、必要以上の作用を送り込み、その経過が器官内に保持される場合である。 病人のアストラル体が、エーテル体のなかの迂回路を通って、異常な作用を器官に与え、それに耐え得るような体質の場合、その病人のアストラル体は、肝臓との異常な関係を、均衡点を越えていかせるような性質をもつため、いわばアストラル体が、肝臓に正常に働きかけていないことに気づかないので、肝臓の活動はそのまま促進され、異常なアストラル体の働きかけに慣れてしまう。 この異常な働きかけが長期間にわたって充分に進行すると、今度は、魂へと逆の経路を作り出す。肝臓の本来の物質摂取活動を、魂へと押し返すために、抑鬱症になる。つまり、慢性病を、特定の均衡点を越えて、持ち越すと、アストラル体との異常な関係に到達し、いわゆる精神病といわれる要因をもつようになる。 以上のように考察されるようになれば、病態学[Pathographie]の段階を越え、精神医学へと発展できる。今日では、病態や意志活動についての不規則な経過などについて非常に多くの主張がなされている。 しかし、人間の魂の最高な形として現れる意志が、本来、いかに下腹部の肝臓、脾臓他の器官の奇妙な共同作用により支えられているかを知らない限り、病態学に対する物質的な対応像を実際に見つけ出すには至らない。 いわゆる精神病といわれる疾患に対してこそ、物質的な療法の導入を考えるべきである。 人智学により、いわゆる精神病に対する物質療法に通じていくべきで、逆に、肉体的な病気に対する治療に際しては、魂との共同作用を考慮すべきである、ということは一見、矛盾にみえるが、同時に、このことは、下部と上部の強力な対立とも関連している。 この関係は、外界に対して始まる知覚活動が、継続した味覚活動として、人体内の知覚活動になる場合と、逆に人体内の器官の顫(せん)動運動や素質を持つ運動が、外界に向かって放出される場合に現われる対極関係とも関連する。正しく見通せば、治癒へと導く関係が、この対極関係のなかにある。
2013年03月26日
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かつて、第10番惑星人が、この地球を侵略し、地球人を奴隷化したかは、その末裔で構成されるサンヘドリンを調べればわかるが、日本史でも、八切止夫作品集から、ある程度わかる。 つまり、人類の悪行が何に由来するのか? ということを理解するために、歴史を学ぶ必要がある。 八切止夫作品集からわかることは、己を神格化し、他を支配する偶像崇拝に問題がある。シュタイナーもその講義で指摘しているが、この偶像崇拝、いわゆる反キリスト的な結社は、現在も無数に存在している。 サンヘドリンがそのような代表で、ネットでは現在、そのような秘密結社の告発が相次いでいるので、その典型例を、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ アラフォーママの日記 http://ameblo.jp/0405ryu-i-s3017/entry-11492638183.html ファラカーンの告発演説 ファラカ-ン 銀行家の悪徳を告発する ヨーロッパに、ロスチャイルドという名前の男がいて、自分がユダヤ人だと主張し、自分が金融を支配する限り、誰が王や統治者だろうがそんなことはどうでもよいと言いました。 ロスチャイルドには息子が5人いました。 ロスチャイルドは息子たちをヨーロッパの様々な国に送りました。 1人はイギリスに、1人はフランスに、1人はイタリアに、1人はオーストリアに送られ、最後の1人はドイツの父の元に残りました。 彼らは皆、ロスチャイルド家の一部になりましたが、しかし、金の陰謀によってイギリスの息子が影響力を持つようになり、それがイギリス銀行になりました。 フランス銀行、イタリア銀行、オーストリア銀行、ドイツ銀行 これらは、この国々の貨幣を印刷する中央銀行でした。 これらが今、ある一族の手の中にあるのです。 この一族は、正しいことをするつもりであちこちに拡がったのではなく、人々を操り、世界の国々の運命を支配する意図を持っていたのです。 ヨーロッパでは多くの戦争がありました。 ロスチャイルド家は両陣営に融資しました。 あなた方がわかっていないのは、戦争というのは金の陰謀だということです。 あなた方は、民主主義のために戦っているつもりになっています。 これが全ての戦争を終わらせるための戦争だと思っています。 「平和を地上に君臨させてください。」 これは、貧しいものと弱いものを罠にかけるために、賢者と悪人が利用する悪賢い言葉です。 私の言うことを聞いていますか? ロスチャイルド家はあまりにも強くなったので、アメリカが確立したとき、彼らは、アメリカ内部の彼らの代理人を介して、中央銀行を支配し続けようとしました。 南北戦争についての記録を読むと、心が痛みます。 南部の人々は、誰も奴隷解放を望まなかった。 私が、「ユダヤ人の75%が奴隷を所有していた」と言ったとき、それは中傷ではありません。 それを言ったのは、私ではありません。 あなた方が自分の伝記の中に書き残しているのです。 あなた方が奴隷を所有しており、奴隷たちがあなた方の富の基盤であったならば、あなた方はアメリカが自由になるのを望まないでしょう。 多くの人間は、過去も現在も南軍に属し、南軍の旗を持っています。 アブラハム・リンカーンは、単なる平和と戦争の問題よりずっと大きな問題に干渉していました。 ロスチャイルド家は、彼らのアメリカの代理人を介して、北軍にも南軍にも融資しました。 理想家だった多くの貧しい人々が命を落としました。 彼らは尊い大義のために戦っているつもりだったのです。 そしてあなた方は、金持ちをさらに金持ちにしました。 しかし、彼らはあなた方の血、あなた方の子供たちの血、あなた方の孫たちの血を犠牲にして金を儲けているのです。 兄弟姉妹よ、いいですか? この国の多くの人々が、このことを知っています。 しかし、彼らは貧しい者の声を聴く耳を持ちません。 私にとって、このことを知り、口にすることは危険です。 私が貧しい者たちの声を聴く耳を持つからです。 あなた方は真実を知ったら、家に帰って寝るのが困難になります。 ですから、当然これを言う人間は、大きな危険を冒すことになります。 アメリカはあなた方の背の上に建てられたからです。 もし、真実があなた方を動かしたら、誰かが地震を起こしたようなことになるでしょう。 美しい建物が見えますが、その下の地球が揺れたら壁も倒れます。天井も落ちます。 ですから、指導者があなた方の味方で黒人の大衆に語りかけることが許されたことは決してないのです。 大衆に語り掛ける指導者をあなた方が持つたびに、その指導者は殺されました。 そのような指導者が殺されるのは、この国が貧しい者の背の上に建てられているからです。 貧しい白人の上に、貧しい黒人の上に、貧しいユダヤ人の上に建っているからです。 よく聞いてください、兄弟姉妹よ。 1912年12月22日に、アメリカの中央銀行は、いくつかの一族の手に握られました。 通貨を発行する連邦準備銀行は、政府に属してはいないのです。 政府の内部で裏切りが行われ、1912年に大統領になったウッドロウ・ウィルソンのもとで連邦準備制度が成立しました。 あなた方は知っていますか? 1912年にウッドロウ・ウィルソンが選出されたとき、アメリカの負債は、約1兆ドルでした。 ウッドロウ・ウィルソンが大統領職を離れたとき、1920年でしたが、負債は800倍に増えていました。 どのようにして、そのようなことが起こったのでしょうか? あなた方は言うでしょう。 「1995年の自分に、何の影響があるのか?」 少し時間をくれますか? 兄弟姉妹よ、よく聞いてください。 1912年、ウッドロウ・ウィルソンが選出され、1913年に、IRS(合衆国内国歳入庁)が設立されました。 税金はどのようにして作られたのでしょうか? なぜなら、通貨を支配する人々は、国の負債を増加させることを知っていました。 それで、負債を埋める方法を見つけねばならなかった。 この税金は、収入に基づいた累進課税だとみなされていました。 そのようにして議会に提示されました。 しかし、所得への累進課税は、カール・マルクスの「共産党宣言」の二番目の案です。 共和党員が、「政府が徴収して国民に再び与える」と言うのをあなたが聞くとき、それは政府が、国を社会主義的な風潮に乗せて動かしていることを示しています。 これは大変なことです。 ウッドロウ・ウィルソンが大統領になり、アメリカを戦争に参加させないはずでした。 戦争は1914年に始まりました。そうですね? ウッドロウ・ウィルソンの第二期は1916年。 彼はアメリカを戦争に参加させないはずでした。そのように選挙運動で語っていたのです。 しかし、黒幕がドアの後ろに隠れていて、その人々は、負債を増やす唯一の方法は、アメリカを1914年に始まった戦争に、何らかの形で関わらせることだと知っていました。 それで、ルシタニアという船の火事の裏工作を行い、アメリカはドイツに宣戦布告しました。 1917年に、アメリカの兵隊はヨーロッパへ戦争に行きました。 戦争をするために、アメリカは金を借りなければなりませんでした。 誰に金を借りますか?国債を発行する人々からです。 彼らはアメリカが借りた分に利子を付加します。 そのため貧しい人々は、利子を払うために税金を課されます。 さらに1918年、ウッドロウ・ウィルソンは1920年に大統領職を離れ、彼が大統領になったときアメリカの負債は1兆ドルでしたが、それが8兆ドルになっていました。負債は8倍に増えていました。 これはなんでしょうか。利子はアメリカ国民が払います。 それは、戦争で最後の戦争になるはずでした。 この戦争には、多くの黒人の同胞がアメリカのために戦いたくて、互いに争いました。 この「偉大な」国のために。 すべては一握りの邪悪な人間に操作されているとも知らずに。 JPモルガン、ロックフェラー家、ローブとクーン、シフス、ワーバーグ家、ロスチャイルド家、彼らはアングロサクソン人とユダヤ人です。 あるレベルに至ると、もうみんな同じです。 民族性を求めません。金を求めます。 私の言うことがわかりますか? 第一次世界大戦は過ぎました。 ついて来ていますか? ここまで来ました。 ヒットラーが現れ、カイザーが失い第一次大戦で奪われたものを取り戻そうとします。 ヒットラーはヨーロッパ内を進攻し始めましたが、「ヒットラー、あなたはどこへ行くのか?」とヒットラーは自分が一種の救い主になったつもりでいました。 誰が彼に融資したか当ててごらんなさい。 わかりますね。それこそ彼らが語りたがらないことです。 ユダヤ人のウォーバーグ家とロスチャイルド家です。 アメリカに、ヒットラーに融資した人がいるのです。 ウォーバーグ(ユダヤ人の)は、戦争真っ最中、ヨーロッパを旅行して良いホテルで眠ることができました。 ユダヤ人が焼却炉で焼かれているときに! 今、真の反ユダヤ主義者が姿を現しています。 いいですか?これは、いくつかの集会では知られていることです。 若いユダヤ人の多くは、このことを全く知りません。 人々は若者に、ファラカーンは彼らの敵だと信じさせています。 ファラカーンはあなたの敵ではありません。 あなたの民族は私を利用して、あなた方から金を取ろうとしています。 よろしい、今夜はすべて暴露しましょう。 彼らはあなた方に、FBIは犯罪者を捕まえるために作られたと言っています。それは本当です。 FBIは犯罪組織ですから。 ああファラカーン、よくそんなことが言えるな。スプリングフィールドのような古い静かな町で。 ここは、そういうことを言うのにうってつけの場所です。 スプリングフィールドのような古く静かな町は。 しかし、FBIは犯罪組織でした。 彼らは法律を何とも思いません。黒人の指導者が出るたびに法律を破って攻撃しました。 白人の指導者に対しても同様です。 彼らの邪魔をし、不安定にし、貧しい人々を高揚させる可能性のある全ての人間に、共産主義などあらゆるレッテルを貼って攻撃します。 よく聞いてください。 私たちに関係のあるFBIの話を知っていますね。 マーク・クラークやフレッド・ハンプトンは犯罪者ですか?(いいえ!) 彼らはブラックパンサー党のメンバーでした。 マーカス・ガーヴィは犯罪者でしたか?(いいえ!) ノーブル・ドリュー・アリは犯罪者でしたか? W・E・Bドボイズは犯罪者でしたか? ポール・ロブソンは犯罪者でしたか? マーディン・ルーサー・キングは犯罪者でしたか? どのようにして、あなた方は通りの名前をマーディン・ルーサー・キング・ジュニアとつけることができるのですか? あなた方偽善者は16番街にポスターを貼って、ある人物を記念して祝おうという。 しかし、その人物のホテルは、FBIに盗聴されていました。 彼らは、夜も昼もこの人物を害するために働いていたのです。 私は嘘をついていますか? 彼らはキング博士を憎んでいたのです。 彼の暗殺の真実はいかなるものですか? 彼らはマルコムを憎んでいました。 彼らはエライジャ・ムハマドを憎んでいました。 彼らはNAACPとアーバンリーグを憎んでいました。 彼らは黒人の組織の一つ一つを不安定にするために、夜も昼も働いたのです。 私は嘘をついていますか? ☆ ☆ ☆
2013年03月22日
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なぜ、体罰が行われるのか、というのを、歴史的背景から考察してきたが、八切止夫作品集を読むと、それは原住民系を虐げた大陸による侵略や進駐軍にも要因があることがわかる。 つまり、闘争や戦争を利用して、金儲けや立身出世をすることで、自らを神格化し、他を支配するやり方に、問題があることがわかる。そして、自らの神格化に都合が悪くなると、権威により歴史を捏造し、真実を知るものを闇に葬る悪行が数限りなく行われてきた。 その世界的に有名なサンヘドリンによる極悪行為が、キリストの処刑である。 連中は、この世に地獄を作り出している張本人である。連中の目論見は、日本の歴史を学ぶことで、あきらかになる。 そこで、八切止夫作品集から、続けて、日本の歴史を抜粋紹介し、再考する。 ☆ ☆ ☆ 長州より招かれて御抱え教師となり、現代日本史の開祖となったアドルフ・リースが、先進国にならって日本でも、「博士号設定」となった際に、彼は歴史屋なのに理学博士や医学博士は認めたけれど、 「独・英・仏・伊には歴史学博士の称号はあるが、この国にては、その設定は無理なり。文字を弁じうる程度なれば、文学博士にて間に合わすべきである」 と、後にベルリン陸大の歴史教授となって、「ゲルマン民族優秀説」を発表しナチスに利用させたリース歴史学博士は、日本では開明学校が東京大学になると、「史学会雑誌」を刊行させはしたが、歴史学博士号は許さずに帰国した。 だから歴史の専門家が一人も認められていないゆえ、まぁ古代史は無理といってしまえばそれまでの話だが、もし良心があるなら各大学で歴史担任の教授は丸坊主にでもなるべきだろう。 なにしろ日本以外の国では、歴史を愛国心を育てるために重点的に教える。大学入試でも、歴史は必須科目として必ず受けさせられる。しかし日本ではディスカッションし学生たちに研究討議させる重要科目ではなく、中学生の頃から文字通り教科書を暗記させ、年号を覚えさせるだけであって、大学の入学試験にも歴史を必須受験科目にするようなところは全然ないのである。 なにしろ各時代の権力者によって、日本歴史は都合よく美化され創作されているにすぎないのは、各会社が自費出版して得意先や関係会社へ配付している社長伝や社史と同じことである。 それゆえ歴史を受けもち講義する者は、恩師に対し弟子として領分からはみ出さぬようにのみを心がけて、昇任昇給だけを望み、隠れたベストセラーともいえる文部省検定歴史教科書をだせるようになって、莫大な印税を得られるようになりたいとの願望だけのみであるらしい。 それゆえ、騎馬民族は日本海を渡ってきて裏日本へ入ってきた潮流学を無視して、日本書紀に合せ鴨緑江をわたってクダラ人みたいな騎馬民族とし、体制に合わせ江上教授も発表した。 大伴家持が飼戸の「四つ」の奴隷頭ゆえ、いくら働いても認められず癪にさわって飛び込み憤死したのを、日本書紀に辻つまを合わせてた梅原教授も、今では学長にまで昇任した。 みなお利口さんは御用歴史作家であるが、彼らとて歴史の講義をする教授ではなく、他科目の教授である。というのは、いくら体制べったりにそっての、事なかれであっても、歴史畑であれば、恩師が言っていないことを発表するには、立場が拘束されていて、絶対に不可能のせいだろう。 つまり監督官庁の文部省の指導方針にそい、恩師の口ききがなくては立身出世の途がひらけぬからである。他の考古学畑にしても、やはり親方は文部省で、宮内庁の権威が影についているから、少しでも日本書紀からハミ出しては、枠内からの落ちこぼれとみなされてしまう。 世界最大の墳墓といわれる仁徳陵の発掘を、絶対に宮内庁が不許可にしているのも、日本書紀に記載されているのとは、どうも違う結果がはっきりしていて、はたして仁徳陵といっても、どなたが埋められているか判らぬといった危惧があるせいらしい。 なにしろ学校歴史では、「民のかまどは賑わいにけり」と高屋から望みみられたもうた御情け深い御方となっている。 しかし、民のかまどから炊煙が絶えるくらいに搾取され、暴動を怖れて淡路島へ待避しておられたのが、浪花へ戻られ、また高所から民の有様をご覧になり、そうおっしゃられたというのは、恐らくまた戻ってきて、これなら課役が増やせて良いと、のたもうたのではあるまいか。 広大な仁徳陵と称せられるような大規模なものになると、ブルドーザーもなかった昔ゆえ、何千どころか数万の奴隷が鞭打たれつ何年も働かされて構築されたものゆえ、古代史の中では、奴隷社会の始まりといえよう。もちろん同国人を奴隷にしてまで、ひどく酷使できる筈はない。 となると、鉄製武器をもって渡来された方が、原住民である日本縄文人を捕え働かせたものとみるが至当で、珍、讃などと中国からよばれた五王の四世紀初頭の捕虜課役大工事だったろう。 産業革命以来でも、主だった発明や発見は、みな専門分野の者ではなくて素人だったという。 現在の天気予報でも、気象衛星まで使っているオカミよりも民間のお天気おじさんの方が確率がはるかに高いみたいに、天文学でも新星を発見するのは日本でも学者と自認する人たちより、素人で見つけている例の方が多い。歴史の分野でも、やはり保守的な日本書紀派より、畑違いの人による解明の方が、昇進とか教科書作成といった夢をもたぬだけに、きわめて大胆である。 私にしても、父方と母方の宗旨違いで、亡兄の入籍に数年かかり、ようやく届出ができた時には、当人は小児急性肺炎で天野病院で亡くなっていたので、またもめるのは厄介だからと亡兄の戸籍をその侭で引き継がされ、名も生年月日も亡兄のもので、私には本当の名も生れた年も知らされていない、さながら透明人間みたいな存在ゆえ、たえずそれに悩み自殺未遂も何度もして、「真実とは、はたして実存するものか」と、過去の具象としての歴史を、まことに本当なのかと生まれてきた時よりの挫折感を、なんとかして打破しようとして取り組んできてしまった‥‥ 初めは当時の日本へきていたイエズス会派資料という裏付けのある戦国時代から検討して入ってゆき、「信長殺しは明智光秀」するのも、光秀のライバルだった秀吉、本当の黒幕は家康だが、仏敵と信長光秀をみたて負けた石山本願寺の一向宗の今の本願寺派が説教節できめつけてしまって、日本全国の居付き部落に説教僧を送り込み、面白おかしく説教にして定説化しただけと判りもした。 美化というか天下一の豪傑とされる山中鹿之助も、本当は殺人鬼みたいに毛利方を、片っ端から討ちとったのではなく、相手方がへばっていて「頼まあ(タンマ)」と声をかけ、「後日に銀一貫匁を支払うものなり」と矢立で紙にかきスタンプ印鑑のなかった時代ゆえ掌に墨を塗って押し渡したのが、約束手形の始まりで、首落し前の談合ゆえ「落し前(をつける)」という。 紙がない時には口約束ゆえ、「武士の言葉には二言はない」といった用語も残される。 江戸期に入っても外出の侍が「懐紙」といって夏でも白紙を大切に持ち歩き、今でも財布のことを「紙入れ」とよぶのも、万一の際に落し前の約手をかくための大切な用紙だった名残り。 プロとは、今のプロレスみたいに、やたらに致命的な負傷などはせぬもので、山中鹿之助は約手をとっても集金せずだったから、彼を生かしておいては後に毛利の家中の者が迷惑すると、「約手のパクリ屋」なみの毛利方の者によって、上月落城後、備中合の渡しで殺されたのである。 だから、その伜が大阪で鴻池の店を開くにあたって、約手の決済をしてなかった連中が銀を集めて送って開店させたのである‥‥といった従来の歴史とは相反する資料が得られたが、発表すると、勇ましい講談を頭から信じこんでいる人々からは、ただ意想天外とされたにすぎぬ。 しかし尼子方は滅亡しているから何も残っていないが毛利方の「吉田篭城記」によれば、本日の合戦は、先手の者は石つぶてに当り一人傷つきたれば全軍とって返す」と、あまり殺生沙汰はなかった記述が多い。常識で考えても人口の僅かな時代に、とっては投げ突き刺して殺すみたいに派手にしていたのでは、みな死に絶えてしまって両軍とも戦う者がいなくなってしまう。 美化というか勇壮化されて伝承されているものの、プロの武士道は、落し前をつけるだけのものが本当の処。となると中世紀の宗教戦である戦国時代の前は、どうなるかと問題になる。 江戸期でさえ、「やつこさんは辛いね」とか「奴女郎」の名称があり、「町奴幡随院長兵衛」は勇ましく水野十郎左に突き殺されるが、奴とは寺の奴隷のことゆえ、寺奴で、仏教側のガードマン。 とすれば後までそうだとなると、古代史とは、縄文日本人が権力者によって鉄製武器で征服された弥生時代が、日本の古代史つまり奴隷社会の始まりということになると、それへ突入し真実とは何かと逆のぼって解明していったのが、この入門書をかきだした私のノートともいえる。 ☆ ☆ ☆ 古代史から研究しないと、この国の奴隷根性の起源がわからないようである。つまり、現代の体罰問題は、歴史的経緯でいえば、縄文日本人(生徒や後輩)が、権力者(指導者や先輩)によって鉄製武器で征服された弥生時代の奴隷社会の始まりにあるようだ。 例えば、当時は、漢字を公用語として強要されたが、現代は、英語を公用語として強要されるのと同じである。価値観の強要に、人の下に人をつくる行為が隠れている。
2013年03月21日
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前回は、奴隷根性を、八切止夫作品集から、歴史的に、振り返ったわけだが、この決して広いとはいえない狭い島国で、何度か、大陸から侵略を受け、多民族が利権闘争を続けるに従い、大陸の差別思想が輸入され、外圧を利用した成り上がり者が、他民族を奴隷支配してきたために、自然と、この列島の住人に奴隷根性が植え付けられてきたことがわかる。 それは現在でもなかば継続中で、TPPなどは、成り上がり者の弱者犠牲や、日本人の奴隷根性がよく出ている。押し付けられた憲法が嫌だと主張する人物そのものが、TPPを押し付けていることからも、この奴隷根性の卑しさがよく現われている。 憲法を押し付けたのが、韓国系の吉田であり、日米安保を押し付けたのは、これまた朝鮮系の岸であり、そしていまTPPを押し付けているのが、その孫たちであることがわかれば、歴史は繰り返す、という意味がわかってくる。 八切止夫氏も表現しているように、この国の権力者は、「人の下に人をつくってきた。」から、奴隷根性が永遠と続くのである。そのような話を、八切止夫作品集から続けて抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 近視眼的な教科書騒ぎ 日本では古代史を無視し、みんな昔噺にしてしまう。そして勿体をつけて「神話」とまでする。「古事記」にしても、本居宣長によって「古事記伝」として今日のものができる迄は、つまり江戸時代の大岡忠相が死ぬ迄は「骨事記」とか、ただ「こじき」と、ひとつかみの豆を投げて貰って拾って喰って退散してゆく哀れな乞食みたいなハングリーな存在。 大安万侶が書かされたものは、八世紀初頭の権力者の優越感を満足させるためのもので、それを日本原住民の末孫として明和年間から寛政十年までかかって、今日の立派な古事記伝にしあげたのは本居宣長の労作なりといえよう。 なにしろ隠忍[鬼?]とされていた原住民は、野や山に自生するものだけが自由にしてよいとされ、木を切って細工したりする大工のような加工業は舶来系の縄張りとされていたのである。 つまり幕末までは、筆は竹、穂は狸の毛だから、もの書きや版行の出版業は原住民限定職。北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、梶原源太を下手人と[して]殺して、次々と和田、三浦と源氏の主だった連中を処分。 郎党や女子供をゲットーへ入れたものの、叛乱防止のために、身分保証みたいな限定職を定めたのだが、発布されたとする治承四年[1180]の年号は石橋山で敗れた頼朝を、政子が平氏の本関地千葉へ逃した年。頼朝御判二十四種は、まさか逃げる途中に細かい布令など出す筈もない。それなのに発表年にされ伝わっている。 さて、今日の新聞が土地など賜ってオカミ御用となりだした明治二十に年迄は、「明治密偵史」の宮武外骨の著に詳しい[日本シェル出版より復刻版が出ていた]。それだから東京新聞の「大波小波」によると、中国では台湾の陳瞬臣より、中国本土の血の濃い司馬遼太郎のほうが人気があると報道されているのも、古代史の権力者は占領軍の中国人だった隠然とした匿された歴史があるからして、血は水よりも濃しで、またむべなるからぬ話。 なにしろ日本とよぶ国は、西暦663年に白村江の戦いでクダラ系の奈良朝を倒し九州より御所入りし、<天の古代史研究>[日本シェル出版]にも、「藤原鎌足」と郭は日本名をつけ、則天文字つまり漢字の強制使用と(北東の風が吹かなくては、日本から中国へは航行できぬから、冬至=唐至の当て字もあるが、文部省学校教育で、イアルサンスウから算数とするのは今でもその侭)、築城用巨石の全国供出令を発布した。 ところが俄に今になって、侵略を進出と教科書にのせるのは怪しからんと、「むちゃくちゃな出鱈目歴史[では]ないか」と、訂正するよう抗議されている可哀想な日本歴史は、この時点では進駐軍司令官郭将軍によって高安城を築き金田城を構築。 当時は今のアフガニスタンなみの勇敢な縄文日本人ゲリラから、御国を離れて何百里と昔は彼らが歌っていたから、万一の時は冬までは立てこもらねばならぬから、郭ムソウ将軍が降参した日本原住民を使役し築かせたのである。なにに日本では文部省が金田城を昨年たしかに国の重要文化財に指定している。 昔は沢田美喜みたいな豪い人がいなかった。それゆえ、郭将軍部下兵四千軍属のチャン輩(バラ)一万二千が単身で来ていたから、女とみれば片っ端から種付け、一人で九人くらいに孕ませて廻ったからして、原住系の日本人女はカイト、界戸、皆戸、海渡いろんな当て字を今ではつけられる個所で、エリザベス・サンダースホームがなかったから堪え忍んで育てあげた。 わが世とぞと想うと詠じた足利時代の義満でさえ、臣源道義と大陸へは絶対服従。日本が被占領国の中国と対等になれたのは秀吉の対明交戦で初めて解放されたと言ってもよかろう。 その国の立場というものがそれぞれある。侵入や進攻の字句で今になって文句を言うなら、七世紀から産まされっぱなしで、テレビの「ルーツ」で黒人女が白人の旦那に産まされた子でも、奴隷として売買されるみたいな有様で、嫡民ならぬ庶民とされ、賎民の奴隷扱いされていた吾々の先祖のことも、古代史を徹底的に昔の事と言わず検討してから、よく考えてほしい。 「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った怪しからん」と解放記念日には、テレビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足が渡来する迄の日本列島は、彼らの先祖のナラ王朝。 馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数の苛酷さであった。 中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王朝をたて、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける根蓋(ねぶた)までやってくれている。 しかし藤原鎌足の子孫が作った勧学院日本書紀を金科玉条として、古代史を真剣に勉強し、確り取っ組んでいないものだから、日本の歴史屋は哀れ何も言い返しが出来ないのである。 古代史さえよく研究していたら、逆手にとって反対にこちらが被害者の立場から教科書抗議に対せるのだが、まったく不勉強すぎて悲しいことにそれすらも全然できないのである。 といって、まぁ過ぎ去った過去のことを言いだしたら、それこそ切りがないかも知れぬ。 それを良い事に、被害者の立場をとる向こうでは、日本人乗車拒否のタクシーまで出現しているという。家永裁判では民主主義でなく、又しても皇国史観の昔へ逆戻りさせた判決を、せっかく勝ちとったばかりの文部省も、歴史屋の不勉強さで何ともならず、まこと気の毒である。 かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくらいに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。 新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だから日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたままなのもその例証である。 恐れ多くも桓武帝のごときは、「桓武焚書」と今ではよばれるごとく、前からの日本書紀はことごとく集めて焼き、オンモン日本書記まで作成しなさったくらいに、好きなようになされ遊ばした。 韓国の女性の腹から生れた徳川綱吉は、千代田城を朝廷をよばせ閣老を公家とし、王政をしき、よって東下りの公卿は大納言や侍従でも退官して無位無冠で江戸伝奏屋敷へ入り、京へ戻ると前大納言や前侍従がまた復官したのは<赤穂義人纂書>[日本シェル出版]に明記されていて証拠も残っている。 それなのに日本歴史は、好意的に馬韓渡来の方に、神功皇后の御名をつけマタニティードレスの女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。なにしろ、日本の歴史教科書は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下作ゆえ責めても、不勉強の歴史屋が悪いのだから仕方がない。 もし日本古代史が乳離れするみたいに記紀離れして、藤原王朝が作ったのから脱却していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、せめて五世紀までさかのぼって日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて蛇を出すような、しっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自認している連中たちは何も知らぬ。 無智ということは罪悪である。いくらナラ朝時代は韓国製の日本史、七世紀からはトウのトウゲン[桃源=藤原]王朝史だと判らぬのか知らぬのか、何も反対意見を出せぬままの現状ゆえ、この侭では、「ご無理ごもっともです」と、教科書検定審議会の答申をうけ、抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」という事になるのだろう。 世界中どこの国が、他国より干渉されて、その学校歴史を改訂するといった例が、はたして悲しい事だがあったであろうか。「国辱」というものがあるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。 ☆ ☆ ☆ 国辱の孫たちが、大陸の思想を利用して立身出世し、自らが公家となり、地(他)家を支配する構造が繰り返されてきたから、奴隷根性が生まれ、B層なる洗脳が行われるのである。
2013年03月21日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ 日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。 が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。 国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。 江戸時代は大蔵省が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、戸籍は坊さんの私有財産を守る為の寺人別帳が主であり、町人別は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州湯浅の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫とし荒天の海へ出す蜜柑船にのせられた文左衛門らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。 漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を後払いで集めたのが大火で大儲け。銭を出し町人別や寺人別も購い、ついでに限定収容で残っている湯浅の者もみな呼び寄せたから、「東京都江東区史」には、「別所文左エ門」の名前で、はっきり今も残っているのである[紀国屋文左衛門の事か]。 こうした複合民族の分類がまったく判らずじまいで、七世紀の良賎の大宝律令の侭で解明しようとするから全く学校歴史は、「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。 彼ら歴史家は、崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づかず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。 三韓征伐はまったく逆で、馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲットーの居附部落と知らぬらしい。 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀に記録されている。 「八つ」はマレーシア語の黒潮渡来族ゆえ農耕漁業製塩をなし、食料増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王(きみ)に率いられ、中大兄の韓国系に食料確保の政策上から子を生まされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが、終りには岡山のゲットーへ収容、奴可郡の地名を今も残す。 「四つ」は崇神御孫景行帝が「八つ」の八坂姫に生ませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。 彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山がつ餌取りと差別とされ、特殊部落民とされてゆく。 恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が、11世紀は青眼の賊船が次々と来襲。山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語で「イ」と呼ぶから「刀イ(伊)の乱」。 この時、頼光四天王として坂田金時らも現れるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ、従五位止りで昇殿は不許。 ようやく文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に、足利創業時に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。 「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。 また、イザナギ・イザナミ二神が天の浮橋で互いにみそめられたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多と呼ぶのも語源。 また、騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押し込め居附地を呼ぶのとこれまた同じである。 俗にいう処の非人とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる「八つ」の民が働くのに、彼ら「四つ」の遊牧民族は違うからとの命令で藤原体制に、北方に追われキタともいう。「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、「八つ」と「四つ」を合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり、人や獣を扱うのが原住系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。 「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみ対しではなく土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は納税のために貧窮化した。 八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが「八つ」の民。今もイランのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。 裏日本へベーリング寒流で入ってきたのが騎馬民族で、「四つ」とよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。 治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制すで、「八つ」と「四つ」は交互に、互いに監視し牽制しあうように「四つ」の弾左ヱ門家の下に、「八つ」の車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので、共に仲良くしあって、世直しをと煽動された。 その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、「八つ」の大井川の赤フン[褌]の川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン[褌]を振りつつ、向こうでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。 伊勢神宮を北条政子と思い込んでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。 ☆ ☆ ☆ とあるように、日本は他民族国家なのは明らかで、先住民は、大陸の進駐軍により差別奴隷化されてきた歴史をもつことがわかる。 このように歴史をみれば、秀吉の唐討ち入りも、大陸から差別されていた被支配民の仕返しとも考えられる。しかし、イエズス会が、秀吉を裏切り、硝石の輸出を禁止したから、秀吉の朝鮮出兵は失敗する。 なおオカルト的には、八は、ヤー、つまりヤハウエのユダヤ教につながるので、平氏の末裔に古代イスラエル人が絡んでいるようである。以前述べたが、平氏のタイラはトーラーとも呼べ、赤は、モーセの象徴の色で、古代イスラエルと関係があるように思える。
2013年03月21日
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八切止夫作品集は、さながら、歴史暴露本のようである。それでも、全てを信じることはできないが、通説の洗脳からは、自由にしてくれる。 A層、B層という言葉をみてもわかるように、この国には奴隷根性が根深くある。さながらB層は情報奴隷層で、A層は、情報管理層といえる。 A層は、マスゴミをみればわかるように、新興宗教的な情報操作を行い、巧みに神格化(偶像崇拝)を利用し、価値観を画一化させる。それは、どの新聞も番組も個性がなく、ほとんど似たようなことをいっていることで明らかである。例えば、「有識者はこういっている」という風に。 考えればわかるが、有識者だからといって正しいことをいっているわけではなく、あくまで個人としての1つの意見でしかない。有識者の嘘を、福島原発事故が明らかにしてくれた。つまり、有識者を神格化して、価値観を画一化させる情報操作、洗脳工作が行われている。 しかし、多くの視聴者は、自分が洗脳されていることなどに全く気づいていない。それは、奴隷根性が根深くあるせいで、例えば、有識者の肩書きなどを安易に信用していることなどから伺える。 例えば、歴史教育を、通説の通りに暗記することと考えていることからもわかる。歴史教育が、奴隷根性を養成し、その家畜となっていることになる。歴史を通じて、人間の真相を理解することが全く考慮されていないから、古代人がなぜピラミッドをつくったのか、など思いもよらないばかりか、ただ有識者の主張を鵜呑みにし、その言いなりになっている。 そこで、その奴隷根性の起源を、通説との、八切止夫作品集の違いから探ってみたい。 ☆ ☆ ☆ 15世紀から16世紀にかけて日本へ来ていたイエズス会派資料を教わり、日本での伝承通俗史と余りに相違しすぎるのに愕いたのが、私の開眼のスタート。つまり、戦国時代から「裏返え史」として解明に入ってしまったのが始まりだった。 「同士討ちをせぬよう、馬印とよぶ標識を、遠くからでも判別できるように色分けしていた」というレポートで、江戸期になっても大名行列の先頭に立っていた馬印にひかれた。 日本での裏付け資料は史籍雑纂の家伝史料の「黒田文書」に、「馬印が金色に候はば別所同意と存じ候」の一行だけだったが、それを手掛かりに武鑑を調べてゆくと、単一民族ではなく中世期の宗教合戦の時代には、祇とよばれる太平洋沿岸より黒潮で渡来した北条政子系の古平氏の者らは、「赤色」。 日本海より裏日本に入って来た騎馬民族系の蘇我となり、源氏となったのは「白色」と色分け。 延暦の年号になっての原住民大団結反撃進攻の際に、東北には山金が転がっていたのを叩き延ばし、反射するからと共に同一目印にしたのが始まりで、反仏派は金色を用いたとも判った。 つまり、彼らが捕虜にされ別所・散所の限定地に収容された奴隷の子孫が、下克上の世となって立身して武将になれた者は、[例えば]秀吉でも金色千成瓢箪である。 なにしろ、西暦663年に郭ムソウが進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の日本古代史研究」に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。 二大別とされた賎とは太平洋沿岸に漂着の「八の者」。次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入って来たのが、獣の「四つ足」から「四つ」と呼ばれる。 「源平藤橘」と四大別するが、藤は唐で、郭さんの一万二千のグループ。橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って代わった契丹系ゆえ、大陸人でも唐でないゆえ豪く見られず、被差別とされた。 彼ら[契丹系]は天神信仰だが、源は元ゆえ白山さま信仰。平は今のペルシャと同じで、赤旗をふり祇園、八坂信仰で、宮島も紅殻の赤塗りである。藤は墨染めの衣を着た坊主が宣教師として先に来たので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。 しかし、この四種の姓別は、最低四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍、負ければ賊で賎、黒の他は次々と体制の変わるたびに限定居附部落へと追い込み。郭将軍に滅ぼされたものの、奈良王朝と栄え、桓武帝より「良」となった百済系は黄色である。 しかし、エタ非人と一つにしたり又分類し、エツタ島など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好よくなるのは、そうしたゲットーへ次々と敗戦捕虜が入れられ混同している為だが、四大別ではなく、太古日本人はエケセテネが姓の上につくところの「雑色」の人々だろう。 「皮剥ぎも皮細工も四つと呼ばれる騎馬民族。判りやすく言えば、白筋の馬方は源氏だが、駕かき川越人足や雲助は平家で、「八つ」とよぶ赤筋の拝火宗徒。 トウナイは『唐無い』で、契丹系の部落民」と、はっきり種族別が分けられるが、喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者と決めつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。 足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。 戦国時代の始めの応仁の乱に部落の者等は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代わりにしっ払っさせられ、生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下克上は明治維新までのびた。 が、五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し、反仏派の原住民は宗門改めの寺社奉行によって、浄土(上等)でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。太田亮の「姓氏辞典」では加賀に入った藤原氏と美化しているが、仏教は一向宗が入っただけ。 ナポレオンが勲章を発明するまで「賜姓」といって、藤原姓をエゾや反乱軍の純友にも与えた。 つまり実際は産所は足利幕府散所奉行で、反体制だった南朝方子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ産所と間違えられて伝わる。山所ともなり「山しょ太夫」や「さんしょう魚」ともなる。被差別の習慣が広まってしまった為でもあるが、喜田貞吉説も産所と文字通りにとって誤っている。 なにしろ唐語のブシン(不信)つまり信用できぬ輩とし、召し使われ、それが武力をもってついに公家を押さえつけ、公家対地下といったのが実力で逆転。下克上の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となると、かつては非人とか八部とよばれた蜂須賀小六も阿波の大名となる。 傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。関白の一条兼良は足利末期の藤原系で仏派ゆえ、寺を荒す彼らを悪党と呼んでいる。 さて拝火宗で「祇」とよばれる「八」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には施政方針を「四つ」と「八つ」を交互にくりこんで、互いに牽制しあわせて被差別。藤ナイ[内?]は十世紀流入の契丹系をさす。 契丹は唐を滅ぼしてとって換った国ゆえ、大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。だが、太平洋側に黒潮で這い上がった「八つ」は八母音の原住民で、農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる飼戸(しこ)。 石岡の部落にしても、夷岡とよばれショウモンと蔑まれ、区別されていたというが、契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押し込み限定地。だが「エの民」つまり江戸の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、少しでも反抗すれば徹底的にこらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立ててしまった。だから藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。 「その筋のお達しにより喫煙は」と今も映画館にでている。消防とか警察といった危険を伴う仕事は、「千金の子は盗賊に死せず」とか「良い人は兵にならぬ」といった唐の教え通り藤原氏が日本へ来ても農耕をせぬ飼戸奴隷に施行。なお足利時代に散所奉行が旧南朝の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の「特殊部落発生史」に順に詳しく書いておいた。 千の宗易こと俗に言う利休の自決後、その木像を八付にかけた後、その一味のササラ衆を部落に追い込んだのが茶せん部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。 また、昔はハングリースポーツ興行だった角力は「オドマ勧進」[五木の子守り歌で有名?]の、勧進元で取り締まっては八百長で儲けていた。儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存の旦那などいないからして、一向宗は部落に目をつけた。悪人でも念仏を唱えれば善人に生まれ変わる。部落民でも信心すれば常人に生まれてくるのだと、真言宗の本願侍説教僧が信徒にして廻ったので、寺人別の数は増えた。 だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。僧へ絶対に近寄らなかった原住民の全体は、この百倍以上が実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。 ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので次回に譲る。
2013年03月21日
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いまでは、ネットでは、B層(洗脳されやすい、おバカな奴隷庶民)という言葉は、お馴染みで、A層(洗脳工作のために、提灯記事を書き捏造する連中)も、セットで浸透している。 A層はいまTPPで頭一杯のようである。つい先日、TPPとセットで南海トラフ地震の洗脳報道が、売国マスゴミから発信されたが、その真相をついている話を、以前紹介した御馴染みのサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ ニュースの真相 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/ ちきゅう号の掘削作業とロシア爆撃機列島周回と南海トラフ地震 3月19日あたりから、各マスコミが一斉に、南海トラフでの地震について言及し始めたようです。 南海トラフ 東日本大震災の10倍 経済被害想定220兆円 東海沖から九州の太平洋側に延びる南海トラフ(浅い海溝)で起きるマグニチュード(M)9・1の最大級の巨大地震について中央防災会議の作業部会は18日、経済被害は最悪で220兆3千億円に達するとの想定を公表した。国家予算の2倍を超える規模で、直接的な被害額は東日本大震災の10倍に及ぶ。強い揺れと津波で関東以西の40都府県が広範囲に被災し、国民生活や日本経済に深刻な打撃を与えるとして防災対策の抜本的な強化を求めた。 被害額はいずれも最悪のケースで、建物や資産など被災地の直接的な被害が169兆5千億円。製造業が集中する「太平洋ベルト地帯」が甚大な被害を受け、生産活動などが停止することによる全国の経済被害は1年間でGDP(国内総生産)の9・3%に当たる44兆7千億円。道路や鉄道の寸断に伴う被害は半年間で6兆1千億円と推計した。直接被害の最小ケースは81兆8千億円。 東海・東南海・南海地震が連動した場合の平成15年想定と比べ、被害額は2・7倍に膨らんだ。ただ、建物の耐震化などの対策を実行すれば、直接的な被害は半減できるとした。都府県別の直接被害は愛知が最悪の30兆7千億円。次いで大阪24兆円、静岡19兆9千億円、三重16兆9千億円で愛媛、高知を含む計6府県が10兆円を超えた。関東は神奈川7千億円、東京、千葉が各6千億円。 東海道・山陽新幹線や東名高速が不通になり、中部、関西空港が閉鎖されるなど交通機能は広域で停止。物流寸断や生産減少が長期化すれば、日本経済の国際競争力低下や国の財政悪化が懸念されるとした。 被災地では東海地方を中心に3千万人以上が断水の影響を受け、2700万軒が停電するなどライフラインに大きな被害が出る。避難者は950万人に達し物資不足も深刻化。原子力発電所の事故の有無は別途検討すべきだとして評価しなかった。 作業部会は昨年8月、死者は最悪で32万3千人とする1次報告を公表。今月中にも最終報告をまとめる予定で、中央防災会議は来年度に対策大綱を策定する。【用語解説】南海トラフの巨大地震 東海地方から九州の太平洋側の海底に延びる南海トラフ沿いで想定された巨大地震。東海・東南海・南海地震が連動する場合の震源域を内陸や日向灘、トラフ付近まで拡大し、起こり得る最大級の地震をモデル化した。歴史上、起きたことはなく、発生頻度は極めて低い。想定外の巨大地震が起きた東日本大震災の教訓を踏まえ、防災対策のため想定された。 産経新聞 3月19日(火)7時55分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130319-00000092-san-soci 発生頻度が極めて低いような地震の報道なのに、ここまで足並みがキレイに揃っちゃってるという事は、CIA電通の統制記事(予告記事)って事ですよね?w 当然「およよ?ユダヤ米軍ちゃんたら、何煽ってんの?」 なーんて事になる訳です。 そこで前後をちょっと調べると、3月12日には、こんな記事が・・・。 メタンハイドレートの生産試験に成功 海底からは世界初経済産業省は12日、愛知県沖の深海で進めていた次世代エネルギー資源「メタンハイドレート」から天然ガスを取り出す生産試験で、ガスの生産を確認したと発表した。海底からの試験成功は世界初で、将来の国産天然ガス資源として期待される。 【地図】東部南海トラフだけでも日本の天然ガス消費量の約13年分? 試験は、国の委託を受けた独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)などが、同日午前5時40分から地球深部探査船「ちきゅう」を使って実施。愛知県の渥美半島沖の水深、約1千メートルの海底から約330メートル掘り進んだメタンハイドレートの層で、水とメタンガスに分解して採取する作業を始め、同9時半ごろにメタンガスの生産を確認した。 今後、約2週間に渡り、日量で数千~数万立方メートルの試験生産を見込んでいる。 メタンハイドレートは、天然ガスの主成分であるメタンが氷状となったもの。これまでカナダの永久凍土からガス化して採取した例があるが、海底からの採取に成功すれば世界初となる。今回の試験海域には10年分以上のメタンハイドレートが埋まっているとの推定もあり、政府は平成30年度をめどに実用化に向けた技術の確立を目指す構え。茂木経産相は同日の閣議後会見で「わが国周辺の資源を活用できる時代が来るようになる」と商業生産に意欲を示した。 【メタンハイドレート】 天然ガスの主成分となるメタンガスと水が低温・高圧の環境下で結晶化した氷のような形状をした物質で、永久凍土地帯や大陸縁辺部の海域に存在する。火をつけると燃えるため「燃える氷」といわれる。燃焼時の二酸化炭素(CO2)排出量は石炭に比べると半分程度と少なく、地球温暖化対策にも効果的な新たなエネルギー資源として注目されている。カナダ北部で2002年に陸地での生産は成功していたが、海底下の地層から取り出すには膨大な費用や高度な技術が必要で、困難とされていた。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130312-00000536-san-bus_all ナント、あの地球深部探査船「ちきゅう号」が、南海トラフ東部の愛知県で、メタンハイドレートを掘っていたそうです。 ちきゅう号と言えば、311東北地方太平洋沖地震テロの直前に、震源地付近で掘削作業をしていた事で、かなり有名な船じゃないですか? 怪しい!って事で、さらに前後を調べると、3月15日には、こんな記事が・・・。 ロシア爆撃機が日本列島周回=空自戦闘機が緊急発進―防衛省 防衛省統合幕僚監部は15日、ロシアのTU95爆撃機2機が同日午前から夜にかけて日本列島を周回したため、航空自衛隊の戦闘機などが緊急発進したと発表した。ロシア機の日本列島一周は2011年9月以来。領空侵犯はなかった。 統幕によると15日午前、TU95が朝鮮半島の東側を南下するのを自衛隊のレーダーが探知した。TU95は朝鮮半島に沿って飛行したあと、南下して沖縄本島の西を通過。太平洋上を日本列島に沿って北上し、北海道と樺太の間を通過したあと、日本海上空を飛行。大陸方向に飛び去った。 時事通信 3月15日(金)23時17分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130315-00000203-jij-soci 詳細は下記の記事に譲りますが、ロシアの戦闘機や爆撃機が日本の周りをウロチョロする時は、米軍の原子力潜水艦が、海底でおかしな作業をしている時が多い訳です。 ▼TPP強制への恫喝とロシア爆撃機の日本列島周回 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130316/1363399402 さてさて、この辺でまとめます! 今日、紹介した記事を順を追って並べると・・・。 3/12 ちきゅう号が東部南海トラフで海底からメタンハイドレートを掘削 ↓ 3/15 ロシア爆撃機が日本列島周回 ↓ 3/19 マスコミが一斉に南海トラフでの地震について言及 ・・・という感じでしょうか? で、結局何が言いたいのかというと、 ユダヤ米軍ちゃん、海底に何仕掛けたんだよ?って事。 220兆円くれ! くれないとドーンだぞ!って事?(笑) なお、人工地震について、予備知識がない方は、下記の記事を参照して下さい。 ▼2012年12月7日三陸沖地震の不発と富士山 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20121211/1355162851 ☆ ☆ ☆ 偽ユダヤは、日本から一体いくら搾り取れば気が済むんだろ。偽ユダヤは、第10番惑星の末裔、つまり悪魔の末裔なので、連中こそ、地球から出て行けば平和なのにね。略奪しか頭にないような連中なのだからね。それにせっせと協力して見返りを求めている売国奴もなんとかしかないといけないな! B層の方が数の上では多数なので、洗脳を脱して、独自理論を展開し、A層を追い出そう!
2013年03月21日
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八切止夫作品集を読むと、戦中進んで敵側に寝返った連中が多かったことがわかる。当時は、生きるためには仕方ないが、いまでは、自分の生活が豊かになればと、仲間を売るような、売国までする政治家が沢山いるから、当時が伺える。 そういうことを誤魔化して、勇ましい議論ばかりで、馬鹿マスコミは国民を洗脳するので、大河ドラマなどの通説が、罷り通ってしまう。 そこで、もし、いま戦争になったら、日本はどうなるか、という話を、八切止夫作品集から改めて抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ われらの中のコマ 戦意日米交渉 大新聞文化部の話では、連載小説に葉書が一枚くると一万人に読まれている計算で、五十枚で五十万に毎日読まれていると、測定をするそうである。つまり、日本人の確固たる意思表示率は万分の一という事になる。となると人口一億を割れば百万人がその確立にあたる。 ところが6.23の安保継続反対デモは七十七万、警備側二十三万の報道である。 こうなると、この割合では、そのために給料をとり手当を貰う制服集団は、みな戦争はいやだというのらしい。 かつて、「挙国一致体制」といった教育をうけてきた私など、国家目的と国民意識が、こんなに分裂しているのに唖然とさせられる。 恐らくこれは軍事評論家のO氏が、「もし中ソの大陸国家と米国に衝突が生じた場合、先制攻撃をうけたら、アメリカ本土では十五分から二十分の余裕があるから、GOと応戦命令を出し国民を避難させられるが、日本にアトムが落下するまでには六分間」といいはって、はっきり計算をだして説明しているから、「六分では恐らく避難命令など出しても混乱を招くだけだから、じたばたせずに静かに眠らしてやろうと政府は親心を示しサイレンもならさず、テレビでもまぁ報道しなかろう」などと云うものだから、もはやアキラメしかないといえよう。 つまり、「六分間で、あっという間に消えちゃったでは、何かのCMソングみたいではないか」「一億総火の玉‥‥なんだねぇ」という事になってオバサンや娘さんも、「歩け歩け、南へ北へ、デモに歩け」と、みんなアベックまでが参加し大行進となったものと想像される。 が、そうなると自衛隊はあってもなくても同じみたいだが、軍事評論家のO氏に云わせると、それは局地戦争用なのだという。 はっきり云えば在韓二個師団の兵力をアメリカが近く引揚げるから、その肩代わりにあてるためにそれは存在するのだそうである。 「東洋平和の為ならば、なんで惜しかろこの命‥‥」とナツメロ軍歌で進軍せよとの意図らしい。ところが相手は、「来るなら来てみろ」というのである。 猛虎師団としてヴェトナムへ参戦し、敵を散々殺してきてあげくはソンミの韓国版もしてきたと伝わる勇猛な向こうの軍隊は、「もし日本軍が来るならば、吾々は銃を逆さまに向け戦う覚悟である。何故かなれば北鮮はあれでも同胞だが日本は違う。 かつての侵略を吾々は忘れていないのである」ときわめてスサマジイ声明をしている。 わが防衛長官もその総長をしていた大学の事件で、拓忍的人材は僅かで、それに反対の学生が拓大にも沢山いるのに、今さらのごとく驚いたろうが、日本の自衛隊も今や昔の帝国陸海空軍とは違うのである。進んで応募した若者ばかりで頼もしい。心配する事はないそうだ。 筋の通ったのはコニシ君みたいに隊内で、反戦運動をしているし、でないのはレントゲンをごまかされて入隊したような隊士、と三島事件で人気を落としているらしい。 尉官以上は歩くことを今はしないから、運動不足で体力があまり強くなく、それに将官たるや、「三菱重工へ天下りしようか、日立か?」と、そんな自分の転身作戦ばかり考えている向きが、多いやにもきいている。 かつての乃木大将は「真田十五代記」といった講談本しか読まず、「旅順攻撃」で二万からの兵を殺してから、改めて「攻城法」というのをインスタントに勉強したといわれる。 が、それでも腹を叩っ切る気概はあった。しかし今の日本の自衛隊にそうした人を求めよう、としてもそれは土台無理だろう。なのに彼らをして、強い韓国軍や、それよりも遥かに果敢と宣伝される北朝鮮軍に当てようとは、これはムチャというものである。 ひとつ間違うと、南ベトナム軍に煽られ、北ベトナム軍にやられてしまって国家総動員法をしき、十六歳以上はオンナノコも第一線におくりだすカンボジアの二の舞である。 「せんい日米交渉」を前の通産相はやってきたが、防衛長官も向こうへ行って、「戦意日米交渉決裂」をやってきて欲しい。 明治生れの日本お老人共は身びいきというのか、かつての日本軍の幻想をまだもっているかも知れぬが、どうだろうか。うっかりアメリカさんの肩代わりに朝鮮半島へ進駐しようものなら、追払われた上に向こうから押しかけられる心配さえあるのである。 そうなったら六分間でドカアンより生きとし生ききれば、遥かにもっとみじめったらしいだろう。 というのは、外国映画や小説にはレジスタンスものというジャンルがあって、占領軍に対し反抗する精神のあり方が描かれているが、日本人というのはアンクルトム的で奴隷根性だから、すぐ体制にべったりしたがって、レジスタンスなんかよぉしないからである。 これはかつて天孫族なるものが、原日本系住民を徹底的に弾圧したので、それから天神ヒゲや髪を長くしたのに畏怖してしまい、「長いものには巻かれろ」となったのだろう。 しかし、その歴史は匿されてしまっているから、あのマッカーサーでさえ、「薄気味悪い。日本人はみなネコを冠って、吾々を一斉にみな殺しにするチャンスを、隠忍自重して待っているのではあるまいか」とコーンのパイプをこんこん叩いては、しきりに気にし心配していたそうだが、日本人はその点では腰抜けなのである。 たとえば、「脱獄」というのはよく向こうのストーリーに使われ、何人もが協力して地下トンネルを掘って脱出というのが映画にもあるが、日本では、「伝馬町の大火でときほぐしになり、そのまま戻らず結果的に個人脱獄になった」というのはあるが、集団という例は皆無である。 ただ、「ども安」こと武居の安五郎が、甲州人二名武州人五名の計七名で、新島から逃げてきたのが本邦唯一の集団脱走である。当時の黒船騒ぎで成功したといわれる。 このため、ども安は、日本開闢以来の獄破りというので尊敬され、嘉永二年から文久二年までの十二年間、生れ在所では大親分で通していられた程のものである。 つまり日本人というのは、親方が日の丸であれアメちゃんであれ、伝統的に奴隷的生き方が身にしみこんでいるから、「おかみに対し奉って」とすぐこうなる。 だから猛虎軍が日本へ上陸してきても、トラだといわずに、「われらがオカミ‥‥だぞ」とでも宣伝されるや、「うへえッ」となってしまって、町会は、「猛虎御用自警団」でも作って、棒をもって協力するのが関の山である。 ☆ ☆ ☆ なにしろ、福島原発事故が起きても、いまだに原発利権を守ることしか頭にない連中が日本を仕切っているのだからね。首がとられようとしているのに、髭の心配ばかりしている連中ばかりなのだ。 鬼畜米英が、原爆落とされて、仲間を売って、アメリカ様万歳!イギリス様万歳!だから、この変わり身の早さは、呆れてしまうよ。コイズミ改革だって、TPPだって仲間を売るんだろうよ。
2013年03月19日
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前回からの続き ☆ ☆ ☆ 満州千早隊の結成 「日本人ほど信念がなく権力に弱く、べったりしたがるのはない」がっかりさせられた。しみじみといやになってしまった。 なにしろ邦人会へAが呼び出されたとなると、拷問されたわけでもないのに、「BとCがもと共産党員だったらしいから、ソ連に協力していた」と告げてしまい、そのBやCが呼び出されると、これまた同じように彼らは、「DやEがくさい」と教えるのである。 事実そう想いこんで云うのなら仕方もない話だが、付和雷同的、まこと単純そのものに、「長いものには巻かれろ」で考えもなしに、進んで協力し、ご愛嬌に他人を密告するのである。 こういうとき満州にサルトルがいて、「なぜ日本人どうしが庇いあえないのか。日本のオトナよ。君らは若い人達をエスコートしてやるのが義理というものではないか」とやってくれたら良かったろうが、あいにくいなかった。 今おもうと田中総一郎とか古今亭志ん生なんてオッサンはいたが、あれは日本にいても自警団か、交通安全の白服をきたがる町会の役員なみの体制派なのだから、とても、「風の中の羽のようにいつも変わる女心で一昨日までは関東軍、昨日はソ連軍、今日は国府軍べったり、おのれの保身にキュウキュウとはなんたるこっちゃ」とはいわなかった。 男はみな密告に脅え満服をきて旧城内へ逃げこみ、残った日本女性の若いのだけが、「タワリシッチ」と昨日までよんでたのを、今度は、「ワンさん待っててチョウダイね」とはりきっていた。美しく装いだした若い娘たちに同胞の男として、私はヤキモチでかっかとした。 「こんな蓮っ葉な女共を守ってやろうと、銃をとるのはいやなことだ。今度もし戦争になったら彼女に銃をもたせたらよいんだ」とさえ思った。私の女性不信の始まりである。 ところが、さて目まぐるしいが十二月になると、「国府軍撤退」が密かに伝わってきた。 そして国府軍に編入されていた旧関東軍将校が、長さん姿で馬にのって現れ、「恐れ多くも天朝さまは鬼畜マッカーサーのため幽閉の身であらせられる。われわれはこの満州に陛下をお迎え申し上げるため、今こそ銃をとって迫りくる八路軍を防ぐのだ」ということになった。 つまり当時は、「東北(トンペイ)」とよばれていた旧満州国は、ソ連軍引揚後は空家みたいなもので、(もし在留日本人の手で確保できたら、アメリカ占領下の天皇さまを救出し、ここに新日本国を建設する)のを、蒋総統の息子が承認したというのである。 さて、女の為に銃はとらなくても、一天万乗の大君のためには蹶起しなければならないこととなった。 さて当時私は在郷軍人会春日分会長だった。嘘みたいだが本当である。そのわけは満州へ入ると一週間以内に兵籍の如何を問わず関東軍は在郷軍人会へ入れさせこれを搾った。 私は丙種合格だったが、それでも入れられていた。ところがである。五月一日と八月八日に根こそぎ動員があって、私を除く全員に揃ってみな赤紙が一度にどっときてしまった。七百名からいた分会員が私ひとりしかいなくなり、よってやむなく、「貴方では心細いが、なにしろあんたしかおらんのだから」と、関東軍北春日分会四十九代目の分会長に私はされてしまっていた。 それまで町会や在満邦人会の密告から私が助かったのも、モスコーへ一度つれて行かれた事と、この役つきのせいだったのだが、さて、義勇軍募集となって、「本地区の在郷軍人会はどうしたか?」 満服の旧関東軍将校に気合をかけられ、「はい、自分が分会長であります」と申告したところ、分会長が何人いるかも聞いてくれず、その将校は、「ここは奉天駅前の春日町浪速通りの日本人街の中心地であり、北春日神社の所在地である。北春日分会は、本日より、殉忠千早隊となのって当地区を死守せい」と命令された。 このとき全満一斉に、国府軍の通達で各地にこういう隊ができ、やがて全滅させられた経緯はいずれ他日書くことにするが、わが千早隊たるや、なにしろ私一人きりである。 千年前に千早城にたてこもった楠木正成にしろ三百や四百の兵はいたろうに、唯の一人ではなんともならぬ。 そこで中央郵便局前の町会長近江洋行へ、仕方なく相談にいった。すると、「北春日小学校へ収容している難民の間から有志を募ったら」という。だからそちらへ行ってみたが、ソ連軍に徹底的にやられて北満から辿りついた連中は、負け犬というか、もう気力などなくして唯ぼろ布みたいに、かたまりあっているだけである。 天皇さまは御存じない話だろうが、私の二十世紀の千早隊の結成は大変だった。 満州医大に残っていた学生二人と、青葉中学の四年と三年が参加してくれ今でいえば、「全学共闘派」のようなものができた。 北春日分区事務所の在郷軍人会格納庫に、「訓練用」擬銃百挺に廃銃二十挺があって、実弾が千発と教官用銃五挺も別にあったが、総員五人の千早隊では、南下してくる八路軍十万の精鋭とは、とても戦えるものではない。 今にして想えば、向こうは、「毛沢東語録」を唱えながら突進してくる勇ましい中共軍精鋭の朱徳隊だったが、その頃は、「パーロとは八路から湧いてきた匪賊」といった奉天毎日や満州新聞の記事しか読まされていなかったから、「たかが馬賊ではないか」と北春日神社の社務所に頑張っていたが、どうにも心細い。 そこで天皇さまが半鐘泥棒みたいなマッカーサーと写っている新聞をもって歩き、「鬼畜アメリカに捕われ同様の、至尊をお救い申しあげるために」と勧誘して廻ると、(皇室ファン)ともいうべきオバハン達が、「おいたわしい」「恐れ多い」と口にし、「私らでよければ」と参加してきた。 若い女はチャラチャラしていたが、オバハン達は貞操が危ない、それを守るのが婦徳だと髪を坊主頭にし顔にススをつけ、満服をきて男装していたので一見すこしも不自然ではなかった。 それどころか実弾演習をさせると、吾々より彼女らの方が落ち着きがあるのか、廃銃でも弾丸がまっすぐに前へ飛んだ。だから、「これはよい。おっちょこちょいな男より、女の方が尻がでっかくて腰に安定性があるせいか、射撃にはもってこいだ」と考え、愛国婦人会のたすきを鉢巻にした満服の男装兵十余名を集め、「来たらば来れ」とばかり八路軍を待ち受けていた。 ところが十二月十八日。まんじ巴とふる雪の中で、交番襲撃事件というのが起きた。 在満邦人会と手を共に同じ同胞のくせに、その時どきの権力にべったりくっつき、男狩り女狩り財産狩りを手伝っていた奉天総務局の日系指導者に対し、これまで怨みを抱いていた邦人青年が銃器を渡された途端に蹶起し、「撃ちてしやまむ」と、浪速通交番、平安通交番、鉄西筋交番を一斉に襲い、総局の日系幹部を雪の中へ曳きずりだし、満州興銀前の並木にずらりと吊してしまったのである。 今でいう内ゲバ騒ぎになったので、二十日に八路軍はなんの抵抗もうけずに入ってきた。 こうなっては仕方がない。せっかく実弾訓練もしていたがついに鳩一羽うたず、千早隊は、解散式もあげずバラバラになった。ところが、「わが軍を阻止せんと計った反革命行為」として朱徳司令官は十二月事件の摘発を行った。 すると吾が身だけ可愛い日本のオトナが、又しても密告や訴人をした。おっかない国民である。このため、新京にいた吾が友、「白川五郎」は大国公路で銃殺にされた。 が幸か不幸か、私は事前に町会長に相談しに行っていたので、街のボス共は、(もし訴えれば自分らも巻き添えになる)と心配したのか、おかげで千早隊は検挙されずにすんだ。しかし安心はできない。私は難民収容所の死体処理をやりながら、厳しい冬を過した。 ところが春になって中共軍の好意で、錦県のコロ島からの引揚げが始まった。さてそうなると、「天皇さまの御為に死のう」と、かつて誓いあった町内のオバハン達から、「あれならば、若いけれど‥‥」と‥‥見込まれ、私が北春日地区の婦女子二千二百四十何人かを、つれ戻る梯団長にされてしまった。 と書くと、さも私が立派みたいだが、今でもトロいが二十代の私はもっとバカタワケだった。 いつ同胞のオトナから、密告されるやも知れぬといった不安から臆病者の私は、土匪がひしめきあい発疹チフスとペストが発生していた錦県へというので、みな尻込みして誰も引きうけてのなかったのに、梯団長となって、書けば六百枚位になる苦労をして博多まで辿りついただけである。 ☆ ☆ ☆ というように、当時も、敵国が悪い、といいながら、同胞を裏切り、敵側に媚びを売って自己保身している、いまの政治家と同じことに気がつく。TPPに反対した政治家たちは、所詮、自己保身のために演技をしているだけなのである。反対といいながら、実は賛成の売国連中こそ国外追放したほうがマシである。 なにしろ、押し付けられた憲法を問題にしながら、TPPを押し付けるのだから、自分さえよければいい、というような自己保身しかないのである。要するに権力に媚びを売って弱い者いじめしているだけだ!
2013年03月19日
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八切止夫作品集を読むと、日本人ほど(この日本人という括りも問題なのだが)、洗脳されやすい民族はないのではないか、と思えてくる。そのような話を続けて、八切止夫作品集から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ われ銃をとらず 間女狩り間男狩り 破壊活動、襲撃事件八十余回に及ぶプロレタリア左派機関誌の、就任すれば捕まるだろう編集長の椅子にサルトルがついたという。 そして学生たちとサルトルは共闘すると伝えられたから、私はこの夏リスボンへゆくついでにフランスの入国査証をも、一緒にとるつもりである。日本からだとパリは遠いが、リスボンからならわけはない。 朝刊をみてイベリア航空にのれば、ニース、パリと三時間でオルリー空港につき、ターミナルから神田の学生街にあたるカルテェ・ラタンまで、昼すぎにはついてしまえるからだ。 「となりの大人はおおきく見えます」 六十五歳になっても桃色のシャツをきて、学生たちの先頭にたつサルトルに、男心に男がほれて飛んでゆきたいような、そんな心境でもあろうか。 さて、かつては「英雄待望論」といったのが叫ばれた事があって、豊臣秀吉や西郷隆盛、乃木大将や東郷元帥がもてはやされた。つまり日本的英雄というのは、どうも戦争に対して積極的な関心をもちるぎる型が多いので、そういうのは流行した後は、勝つならまた話は別だが、負けるような戦まで、勢いこんでやるから困らされる。 そこで日本でもサルトルのような大人が現れてくれて、「左派右派」を問わず信念をもって立たない事には、今の青少年たちが哀れである。 「亀の甲より年の甲」というが、いくら早熟でも才たけていても、二十歳は二十年の人生経験しかなく、サルトルにはなんといっても、その三倍余の人間としての体験があるのである。 なにしろ、前には、「人間の生命は、地球全体より重い」といっていたくせに、今や日本の大人は、この前のシージャックの公開死刑みたいな時には、「見事に命中し倒れました。なお用心のため危険をおかして駆けよった係官は、後手にねじあげ手錠をかけました」と、いっていた警官の行動説明のアナウンスに驚かなかった。 だからテレビで現場放映をみている側は、「人工衛星の飛ぶ世ともなれば、地球も軽くなったものだ‥‥まして人命のごときはこうなのか」とアフリカの猛獣狩りの実況放送みたいに諦めてしまう感覚さえもってしまった。 そして後日、これをめぐって街頭討論にでてきたK氏が、「アメリカでは警官が誰何し三度目に撃ちます。私は実際に見てきています」とまでやっつけたのには、うちへきていた学生達などは口をあんぐりさせてしまい、「ああ、日本のオトナは‥‥」と、ニャロメよばわりして。 俳人として有名なK氏は、射殺やむなしの側で発言したのだろうが、学生達は三度目に撃たれるのはアメリカ人といっても白人でなく、黒人に限定されているのを知っているからしてその不満を口にしたらしい。 ところがK氏だけでなく日本の指導層の大人たるや、非常に時流の動きに敏感で、頭の回転レシーブがよくきくのか順応性が実に早い。 終戦直後の日本内地は知らないが、満州奉天にあっては、その年の八月十四日までは、「北辺の守りは堅し関東軍」と叫び、「在満邦人に告ぐ、鬼畜米英を防がん」とラジオ放送していた奉天総務局の大人は、十七日に赤旗をたてた重戦車隊が、カタピラをがなりたてて北陵から進攻してくると、「在満日本人に告ぐ、決して反抗してはならない、街路を掃除して友好ソ連軍を迎えなさい」となり、 掠奪のダワイ騒ぎが始まると、「すすんで友交を示し国際親善のため、記念品の供出に協力すべし」となり、掠奪を防いでくれるどころか、持って行かれるのに邪魔するなとなり、やがては、親善使節の名目で二十代の日本女性の供出まで、日本人指導者は町会へ割り当ててきた。 そして十月になると今度は、「かつて兵役にあった男子は調査したいことがありますから、各自その日本人町会事務所へきて下さい。これは配給を高梁から米に換えるための人員調べです」命令してきた。 クラフチェンコ赤軍元帥の占領宣言以来、日本人は米食を許されず高梁配給であった。 それに、紛れこんできた兵隊が、日本人の家に作男や下男みたいな恰好で住みついていたが、彼らは幽霊人口ゆえ配給はなかった。駅前の振興洋行の今は亡き佐奈木十郎さんのお世話でもらっていた粟で彼らや難民の婦女子を食わせていた。 だからして、「これは助かる」と町会の事務所へ、ぞろぞろ集まったら、邦人会の幹部がこれをトラックにのせ北陵へと連れていってしまった。 ところが脱走してきている兵隊は勘が良い。(これはおかしい)とトラックから逃げた。 こうなると頭数が合わなくなる。そこで在満邦人会幹部は奉天総務局の役人と共に、(兵隊あがりらしい男が匿れていないか)と邦人の家々を調べて廻っては連行した。 夫が出征した留守宅などは赤軍派のダワイを恐れて、用心棒代りに住まわせていた処も多かったので、これを当時、「間男狩り」ともいったが、十一月になると北陵の収容所は発疹チフスで死ぬ者が多く、又しても人員が不足してきた。 そこで、「お国の為であり在満邦人全体の為である。兵役の有無に係らず四十歳以下の男子は、進んで名のり出るよう」回覧板がまわされた。 が、どうもシベリア送りになるらしいという噂がたったので、誰もそうなっては志願者など現われようはずもなかった。すると、「該当者にふさわしい男子の所在地を密告した者に限り、ソ連軍協力者としての目印の腕章を与え、自由に街路も歩けるようにする。他に粟五斤を一人につき報奨として渡す」となった。 密告の奨励である。町会長や町会の幹部は、町会名簿名簿から名を拾い出した。 だから、ふつうシベリア抑留者というと、戦線で武装解除をされ連れてゆかれたように思われがちだが、都市周辺で集められたのは、殆ど同胞のオトナに売られた連中である。 樺太や千島からの引揚者は今でも交際しあっているが、満州引揚者というのは相互の不信感がひどく、全然行ききをし合わぬのは、こうした密告がひどかった所為である。 さて赤軍が片っ端からダワイした機械類を、強制的に狩り集めた邦人の男共を人夫にし、運びださせた後に、今度はすぐ国府軍がきてしまった。 そこで、こうなると、「在満邦人に告ぐ。ソ連軍進駐時にその利便を計った者は、すぐさま届け出て下さい。 もし国府軍によって摘発された場合は、邦人会になんの援助もできません」と命令が目めぐるしく変わって、また伝わってきた。 ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので、次回に譲る。
2013年03月19日
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前回は、チャンバラが架空で妄想であることを、八切止夫作品集から紹介した。だから時代劇は、あくまで劇として考えるべきなのは当たり前なのだが、しばしば、時代劇や大河ドラマの世界を取り上げて、真面目に論争がなされるのは、はっきりと架空の世界であるという認識ができていないせいで、マスコミに洗脳されていることを意味する。 実際に、日本の軍部は、信長の桶狭間の戦い、それも間違った解釈を持ち出して戦争していた過去の例もある。信長自身も桶狭間のことをほとんど語らなかったように、あの奇襲が胡散臭いことがよくわかる。また戦国期の史料を持ち出して近代戦を考えるのは、時代錯誤の非常識もいいとこであろう。 最近でも、米国に押し付けられた憲法は嫌だ、といいながら、TPPを押し付けられているアホさに、この国の指導者のいい加減さ、自己保身しかない売国ぶりが現われている。 とりあえずは、洗脳されつくられたサムライというイメージを破壊するために、八切止夫作品集から続けて抜粋紹介する。勿論、エンターテーメントの世界だけで、楽しむ分には問題ない。 ☆ ☆ ☆ 抜くに抜けない話 「武士は刀をさしていたから、たえず武をねり、必要に応じてさあっと引き抜いた」という妄想は、では何処からといえば西部劇映画からきている。 腰のベルトにさしこんだ拳銃を、すぐさまぬいてバンバン撃つのが大正時代のハリケンハッチあたりから拡まり、新国劇の沢正が、「此方もあれでゆこう」と真似たのである。 なにしろ、それまでのカブキでは、「おのれッ」と鞘から抜くところでミエをきるか、ここで思い入れが入る。と書くと、頭の良い人ならハハアンと感づくだろうが、「鯉口を切る」所作たるや<梅川忠兵衛>の「封印切り」と同じカテゴリーに入るためだ。 抜刀すること自体が、厳しい法度とされていたからである。 そこでカブキの院本(まるほん)物でも、どうしても刀と刀を合わせねばならぬ斬り合い物には、本当らしく、「源平時代」とか「北条時代」と年代設定がさかのぼらせてあるのもこのためなのである。 つまり沢田正二郎は、そうしたカブキの約束事を深く考えず勝手をしたので、当時は珍しがられたのである。 さて、開拓当時のアメリカにあった銃器の数よりも、現在のステーツに有る方が多い。 なのに今のアメリカ人は、ソンミあたりではバンバン撃ちまくっても国内では余り撃たない。なぜなら百年前のアメリカはとても法治国とはいえぬが、今ではニクソン氏が、「法律を守らせる」公約で国民に選ばれ大統領になっている位だからである。 さて、わがニッポンはアメリカよりも早く江戸時代でも、すでにれっきとした法律があり、それを守る国だったのである。 そして「刀」なるものは当時の法制では前述のごとく「公刀」と「私刀」に分かれていた。 これを逆に説明してゆくと明治九年に、「廃刀令」がでて旧士族が公刀を佩用して歩くのは免除されたが、非武士階級の私刀は、「凶器所持取締法」などなかったから、まだおおっぴらだった。そこで明治政府は、「志士」なる称号で、私刀をおびた連中を使って、自由を叫ぶ不逞な輩へ斬りこませた。 これは、コーンパイプをくわえて進駐してきたマッカーサーが、お巡りさんのサーベルを怖れ、「あれで斬り込んでこられたら」大変だと、アメリカ式の棍棒に替えさせるよう廃刀令を出したものの、町のやあさんの日本刀はそのままだったのと同じことである。 さて私刀というのは、「道中差」として、当時の住民票に当る関所手形を下しおかれる者に限って、道中自衛のため許しおかれた物にその源を発するが、「公刀」というのは、サラリーを貰っている殿を守るべく、その腰へさすものであって、「上意討ち」と幕末ではいうが、文化文政までは、あれは「上意抜き」つまり許可を貰わねば抜いたり斬ったりは出来なかったのである。 つまり、「鯉口三寸抜いたならば、お家は断絶、身は切腹」とナニワブシでいうが、あれはなにも松の廊下だけの限定適用ではなく、公刀一般の戒律だった。つまり、これは、「食わせて貰っている殿様の為にこそ抜くものを、プライベートに抜いてはいけない」ということで、昔の姦通罪のように、「食わせて貰っている人妻が、夫以外の男に気ままに抜かせるのは懲役何年」といったのと同じシステムのものである。 だったら食わせて貰っている妻は、夫の御用にたつべく部分的にセッサタクマすれば良い。なのにレッスンや努力をしないとこれまた同様に、武士も公刀をおびている癖に御用にたつようには、てんでその練習はしていなかったものらしい。 万延元年三月三日。八十三名の公刀所持者が随行しながら、自邸から目と鼻の先で殿様の首をとられたことを反省し、井伊家より、「近江彦根家お取潰し方」をその江戸詰めの木股清左衛門などは、潔よく申し出ている位である。 といって井伊家の武士が、それでは、みなそれぞれ、「身体髪膚これ父母に受く、殿の御為に傷つけることなかれ」と平素からサボッていたのが原因でもない。なにしろ何処の大名も、「謀叛とみられる」ことを用心し、城の石垣が崩れても、おいそれと修理できなかった時代なので、家中の者が武術稽古などしては、「叛乱予備罪」とも、公儀から怪しまれようと用心し、槍も刀もてんで少しも練習などさせなかったからなのでもある。 変な引例だが高田馬場十八番斬りという中山安兵衛が、播州赤穂の堀部弥兵衛の婿になり採用され別に扶持を貰っている。もし「指南役制度」といったものがあったら、浅野内匠頭は、せっかくサラリーを払うの故、たとえ月に一度でもレッスンを受けるべきだったろうと想われる。 ところがである。実際は抜くのが精一杯で、素手の吉良上野に対し、三度も斬りつけながら、「擦過傷」しか与えていない[八切氏の別書では、『吉良を挑発して抜刀させるのが目的だったから』という説もあるようです]。 当時の、『浅野家分限帖』という公務員台帖でも、堀部安兵衛は無役で指南などしていなかった証明がある。 又これは吉良側にもいえることで、翌年の本所松坂町のゲバ騒ぎでも、四十六人のやせ浪人にやられて、上杉家の出向武士は役たたずで、上杉家二十五万石はこのため十五万石にダウンさせられた。 つまり武士というのは、おびているのが公刀なるがゆえに、それのレッスンをすることができず、文化文政から天保にかけては、私刀の非武士の方が、公然と練習できて刀術を磨き得るという珍現象が生じた。戦国期には剣客や剣豪はいないが、幕末には輩出という現実も、彼らの経歴が、 鈴木斧八郎=木こり出身。 千葉周作=馬医者の倅。 本間彦一郎=検校の倅。 岡田十松=百姓の倅。 土方歳三=松坂屋の丁稚。 近藤勇=多摩百姓の倅。 村上俊五郎=指物職人。 と並べてゆくと一目リョウゼンである。 もちろん慶長期でも同じで、宮本武蔵は仏徒系出身の百姓の倅で、彼が一乗寺下り松で幼い又七郎まで殺してしまう吉岡道場も、前に書いておいたが、「紺屋又三郎」こと吉岡拳法を開祖とする、ちゃきちゃきの神徒派で、そのため彼は、「卑しき俘囚の裔なるに、御所に入り来りて、能楽拝見とは身分をわきまえぬもの、梟首」と慶長九年六月二十一日に、御所の衛士によってたかって殺されてしまっている。 つまり士という階級は、「槍一筋の家柄」といわれるものであり、又これは、「槍先の功名」「一番槍」といわれるよう、「道具」とよばれた槍を武器にしていたせいである。判りきったことだが、「刀一本の家柄」「刀先の功名」「一番刀」などといわぬのもこのわけで、刀は「打ち刀」つまり武将の護身用具で、突きくる槍先を打ち払ったり、又は身分の低い足軽などが、とびくる矢を露払いと称して、「ヤアヤア」左右に二本ふり廻し払って突撃したものであって、その武士としての表道具でない刀は、公刀として義務制にされなくては、江戸初期には卑しんで佩用を拒む者さえあったのは、正徳版の、『慶長見聞記』に三浦浄心も書いている。 つまり非武士階級のやくざなんかは、堂々とチャンバラをしたが、エリートの武士は、刀を抜くときは、己れのプライドを守るため、「潔よく腹はっさばいて」といった時しか用いぬものとされていたと、<武者物語>にはある。 だから刀術とか剣術を、水戸家の武士が文政年間に入っても蔑視したのはこのためだし、寛永御前試合」などは、講釈師の張り扇から生れたデフォルメにすぎず、町道場なるものは有っても、幕末まで町奉行所の専用道場だったのもこのせいである。 捕物をする側はその職務上の必要から訓練したが、一般には禁止されていたから、地方の百姓たちの間で流行したのである。江戸期の武術に「棒術」が重要視されたり、郷土芸能に棒踊りが多いのも、捕物術の名残りであろう。昔は集団で訓練していたからである。 ☆ ☆ ☆ というように、サムライとは、いまでいうところのアニメの主人公のようなもので、ドラゴンボールの孫悟空のようなものと考えられる。つまり、極論すれば、ドラゴンボールの孫悟空のように闘えば勝てると、日本の軍部指導者は、国民を洗脳していたことになる。非常に滑稽そのもので、日本の歴史を調べた外国から、疑問視されるのも無理もない。
2013年03月19日
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八切止夫作品集を読むと、通説とは全く違った歴史がみえてくるから面白い。重要なのは、歴史上の偉人とされる人物も、単なる普通の人間とほとんど変わりがないことがわかる。 例えば、元刑事が、TVで述べていたように、柔道や剣道が単なる出世の道具で、実戦で通用するなどと思っている人はあまりいないとは思うが、ドラマや通説が信じられているところをみれば、マスコミの洗脳が進んでいることに気づく。スポーツはあくまでルールあっての話で、実戦にルールなどない。 柔道の受身がよいという人もいるが、時と場合によりけりで、受身をとったため怪我をしたという例もあり、受身をとれない赤ん坊が大事故で生き残ることがよくある。竹刀をもって歩く人などいないし、江戸時代も、抜刀は厳禁だった。しかし、私刀は法度外なため、ヤクザ(八屑)ものの、現在の抗争のようなチャンバラもどきはあったらしいが、剣術などよりも拳銃にかわっている。 以前述べたが、スポーツは、人間の精神面の向上のために行うのであって、勝負に勝つためではない。人間の内面に潜む理性、つまり神性に通じるためである。外面を問題にしている限り、スポーツは単なる娯楽に逸脱する。だから、スポーツは人間性の芸術的表出なのである。 なにしろ、戦中の大本営発表をそのまま垂れ流してきた洗脳報道のなんの反省もない連中が、いまだにマスコミを牛耳っているわけだから、歴史の通説が鵜呑みにされてもおかしくない。 マスコミには、歴史から学ぶという謙虚さの微塵もなく、権威者に阿り、自分たちに都合よく歴史をつくるという傲慢さがみられる。後世の教訓のために、歴史をなるべく正確(客観的)に記述するのが本来の仕事であるはずなのに、出鱈目に都合よく書き換えるのだから、もはや犯罪である。 それもこれも、全体的な視野にかけ、偏った見方をしているからであろう。 さて、八切止夫作品集から、江戸時代にチャンバラなどが実際にはなかったことを、以前抜粋紹介したが、あまりに戦争が仮想化され、美化されているため、再度、抜粋掲載する。 ☆ ☆ ☆ われらの幻想 同胞殺しが英雄の座に テレビや映画では舌かみ切って自決するが、実際は死にはしないのと同じ。 が歴史小説や時代小説を本当の事実と思いたがる読者がいるゆえ私(八切止夫)は作者たちに好かれず、今も変わらない。 「江戸時代にチャンバラがなかったのは、本当ですか?」と恨めしげにやられた事である。 もの書きはモノ知りのわけだが、どうも幼い時からの講談や映画、それに昨今のテレビの影響で虚像のはずのチャンバラが、すっかり本当にされているのらしい。 つまり、「侍は刀をさしている。だから道場へ通ってレッスンをする。エリートは殿様の指南役にもなってコーチする。 だから忠義の為や女のことでカアスケになると、おのれッと刀を抜いて互いに斬り合いをするもの」との概念からチャンバラこそ、封建時代には何処にでもみられたとし、「武士道華やかなりし頃の日常茶飯事」みたいな幻想にとらわれすぎている向きもある。 勿論、そんなバカげた物騒な考え方は、妄想でしかない位は常識的に判りそうなものだが、これまた誰も首をひねろうとはしない。 なにしろ変な引例だがアーサー王や円卓の騎士にしろ、マケドニア王アレクサンドロスにしろ、外国では、異邦人を突き伏せる者だけしか英雄にされぬ。ところが日本では違うのである。 これまでの英雄豪傑たるや、「遠からん者は音にもきけ。近くば寄って眼にも見よ」と、同胞の日本人を沢山に殺傷したのが、英雄視されまかり通っている。 まこと変な話だが、虎退治したといわれる加藤清正以外は、日本人の豪傑たるや、「日本人を多く殺したやつ」ということになっている。しかし、同胞をそんなに多く殺した者に、どうして人気があるものだろうか? かつて<かけとり武者>の題名で書いた山中鹿之助を例にもってきても、彼が尼子家の臣として毛利の家来をそんなに殺傷したものなら多くの遺族から恨まれ、福山市鞆町の静観寺の鹿之助の首塚など、井野行戒め和尚が金網でも冠せておかなければならぬはずである。 ところがである。森下仁丹の檀那寺である同寺は江戸時代から毛利家中よりの供養がある。 和尚は講談の影響か「山中鹿之助ちゅうお人は、われに七難を与え給えといやはって、片っ端から殺しはったでなあ」という。が、どうして殺害された遺族の子孫が、「ようも御先祖さまを殺して下されました」などと礼をいいに寺までくるものか。 山中鹿之助という男に人気があったのは、(殺せる能力や立場にあったのに、敵毛利の臣を多く見逃してやった。なのに自分は瞞し討ちにあって川中へ曳ずりこまれて、毛利方に討たれてしまった)ためではなかろうか。 三億円の犯人に案外な人気があるのも、人を殺傷していないからであり、金嬉老が二人殺して平然としているのも、殺したのが、金とは違う異邦人だったせいなのではあるまいか。 なにしろ私の子供の頃の話だが、千葉に、「鬼熊」というのがいて同じ日本人を沢山殺したのがいた。しかし、彼のことを新聞で、「昭和の剣豪」とはいわなかった。 しかし日支事変の時に、伝家の刀で十余人も斬ったという准尉には、その肩書きを与えた新聞記事がでた。 つまり昭和ともなると、「いくら片っ端から殺しても、相手が同じ日本人では英雄豪傑とは認められぬ」という具合になってきたようにも見える。が、今の命題は江戸時代であって、その、「元和偃武(げんなえんぶ)から幕末までの二百五十年間」武士は刀をさしていた。 だから時として、「おのれ、無礼者ッ」と抜き斬ったり、「侍の意地だ。覚悟さらせ」斬り合ったか?ということについての解明なのである。 といって、それは元和元年七月七日に武家諸法度第十三条が発布され、私闘が厳禁されたことをさすのではなく、同三年二月五日に永井尚政の作成したという、「東照宮御遺訓」に「弓は袋に槍は鞘に」という掟書がはっきりしてきた時の、刀のあり方についての問題である。これが知られていないからして、元禄事件でも、 「喧嘩両成敗なのに、浅野内匠頭の方だけが処分されて、即日切腹城地没取は酷なり」などいうが『営中刃傷記』にある三十四例の内では、刀の柄に手をかけ引き抜き掛けただけで、死罪になっている者もある。 殺傷という結果論より、それを目的とする予備行為が、未遂でも処罰されたのである。 だから、刀を抜く時は、「他意なき証拠」に白旗を立てるか、略して白紙を口に挟むような形式化さえ始まった。 講談では(口から吐く息を刀身に吹きかけぬ為)などというが、昔でも大抵の人は鼻で呼吸したものだから、それならば鼻へも紙をねじって詰めねばならぬことになる。 だが、それでは刀をぬくと、誰もが息が詰まってみな卒倒してしまう。つまり講談の嘘である。 『尾州家高木伝八郎覚書』『鈴木斧八郎家伝書』などの、武士とは斬合わなかったものであるのデータは揃えてあるが、ここでは有名な藤田東湖の『常陸帯』や『回天詩史』を例証に引用する。 何故かというと、『東湖全集』は活字本で刊行されていて、まじめに検討したい向きにはすぐ読めて便利だろうからである。 といって長々と内容の引用もできぬし、後者は漢文なので判りやすくすれば、 「水戸のご城下に初めて、試合剣術と称して、割り竹を束ねた偽刀で、叩き合いの真似をする道場なるものができた。父の幽谷が当時十四歳の私をそこへ通わせた。ところが当時の水戸の藩士は、生れて初めて見る剣術におったまげて、わいわい肩をいからせ覗きに集まってきて、指さして罵ったり蔑んだりしたものだ」 と記している。 これは、藤田東湖の父たるや、古着屋の小僧から士分に取立てられた人なので、同じ家中の世襲の武士階級に、「あれは、似非(えせ)侍だ」と蔭口をきかれていたからして、その倅の東湖も、「まじめな武士ならば、あんなバカなことはせぬものだ」と嘲笑された、という無念話である。 この東湖の倅の藤田小四郎が元治元年の天狗党事件で二十四歳で殺されるから、東湖の頃やはり幕末に近く、彼が撃剣を初めて見て入門したのは1819年で十九世紀初頭である。 つまり藤田東湖の書き残したものと、チャンバラ作家や講談師の話とは違うからそれを比べて、いずれを信用するかということになるが、どれを信仰するかはそれは読者の自由である。 ☆ ☆ ☆ 戦国時代の武将は、槍で闘ったそうだし、刀は盾のように、矢よけに使ったそうで、それも、足軽等の身分の低い者に両手に刀をもたせて、人間の盾にしたそうである。だから、戦国時代は皆両刀使いだったそうだ。現代の侵略軍が、現地人を囮や盾に使うのと同じである。 だから、チャンバラなどは単なる見世物で、刀が武士の魂であるというのは嘘であるそうだ。刀を高く売るための守銭奴のつくりごとのようである。新興宗教の似非道具と同じである。 上の話からわかるように、江戸時代の武士は体制どっぷりの基本認識をもち、立身出世志向で、剣術など危ないものは馬鹿のやるものと思っていたようである。ある意味、剣術者は、変わり者として見下されていたようである。しかし刀と違い、槍は正統とみなされていたようである。
2013年03月19日
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前回からの続き ☆ ☆ ☆ 【紹介者・補記】 秀吉の野望は自分が天皇になって、豊臣天皇として新皇統確立を目指したものと思われる。公家とは元々が大陸からの征服者の系統だから、大陸に帰ってもらう。だから朝鮮は通り道としただけで、占領する計画は無かったと思われる。侵略を美化したり正当化するつもりはないが、世に征韓の役と言われるものの実体はこうなのである。 秀吉はライバルであった明智光秀が、信長の急死の後、征夷大將軍の勅をかしこき当たりから貰っていたという事実があったので、その後塵を拝すのを嫌って「それならわしは天皇になったる」となったのだろう。 大陸系の公家連中を排除するのに、なにも大陸進攻までしないで、隠岐や対馬へ島流しにすれば済むようなものだが、大明国突入という無謀な戦争を起こした事は失敗である。 しかし秀吉も日本原住民系の出身だから、占領され、奴隷化されていた民族の復仇戦と見れば頷けるものがある。 「帝には北京を中心に四カ国、公家の連中にも向こうで一国ずつ進上し、日本は秀吉の国となす」と遠大な計画をたてた。 さてそうなると、後顧の憂いを取り除き挙国一致体制をとる必要が出てきた。その為に先ず叛乱防止のために刀狩りと称し、密告制をとって庶民の武器を没収した。 さて、五世紀から七世紀にかけて大陸から進攻してきた連中が、白人がキリスト教をもって有色人地帯を押さえたように、西方極楽浄土の教えを持ち込んだのに対し、日本列島の原住民どもはこぞって次々と反抗した。 山中や離島へ逃げ込んだ彼らの子孫が、足利期にできた被区別地の末裔と一つになった。アメリカで南北戦争の後、解放奴隷のアフリカ人が追われてインデアン居留地へ逃げ込み合体したのと同じ事である。そして、「山がつ」と呼ばれる山者はウメガイとよぶ彼らの山刀を「ささら」といわれる竹細工の箕の直しも、青竹割の刃物を商売道具として、秀吉の命令を聞かず手放さなかった。 さらに、京の周辺の桂や白川の者らも堺の者と共闘体勢までとりだした。「これでは従来の古ぼけた御所の代わりに建てた聚楽第さえ、大陸遠征の留守の間に奪われかねぬ」と秀吉は、まず堺衆の山上宗二が八瀬大原の者らと結託していると聞き、召し捕って拷問にかけ「しゃつら見るだに憎々しい」と耳をそぎ、鼻を削った生首を見せしめに堺のえびす口の門へさらさせた。 つまり利休こと宗易が、かねて竹細工の道具や瀬戸のカトウ衆の同信心の者らに焼かせている黒碗を、彼が高値で売り捌いているのは、彼らの軍資金集めのためと密告があったからである。 通俗歴史は、秀吉が利休の娘に惚れたのに拒まれたから殺したと説明し、その「お吟さま」で直木賞を取った人もいる。 しかし彼女は未亡人ではなく万代屋新太郎宗安という、れっきとした夫と四人の子も居たのである。少女趣味というか十代の若い娘が好みであった秀吉が、四十に近い女への横恋慕はおかしい。今も昔も男の好みはそうそう変わるものではない。 資力や人望からみても、利休こと宗易が反乱軍に担がれるものと秀吉は見たから殺したのだし、妻の宗恩が蛇責めの拷問で死んだのも、今で言う地下組織を白状させようためではなかったかと「利休殺しの雨が降る」に私が書いたのは、当時の伊達家の「鈴木文書」に、「戻橋に八付にされる」の一行を見つけたからである。 それで徹底的に調べだした。 張付と呼ぶ死刑方法は信長がキリストの画を見て、始めて真似させたものだが、手首や脚は荒縄で縛っての刺殺だった。ところが秀吉の代になって寺側から政治献金を受け取り出すと、反仏教系のヤ衆とかハチと呼ぶ日本原住民系の処罰には、手足を縛らずに太釘で打ち付ける残酷な方法を始めた。これを八付とよんだ。 木像とはいえ釘を打ち付け曝したというのは、秀吉が彼を原住民子孫の過激派とみなした証拠である。茶湯開祖として温厚なワビスキ の利休居士は後年の儲けんがための者らの作為で、実像はレジスタンスの指導者だったらしい。 大陸遠征準備に新開発のチリ-硝石入手のため呂宋へ助左を派遣したものの失敗した秀吉は、従来通り島原の口の津で硝石輸入をする必要上、交換輸出に原住民系の人間狩りを徹底的にやったらしく、それへの反撥が日本原住民系の神祗の連中の不穏な形勢になったらしい。でないと、ここの辻つまが合わない。 寺の都と呼ばれる程、京では各宗の寺が多い。観光バス廻りの現代では、石庭とか山門や色んな見せ物で拝観料をとって収益をあげる。しかし昔は、暇にまかせて筆のたつ坊さんが、もっともらしい由緒書を作ったり、空地に有名人の墓をたてて檀家や参詣人の布施を狙った。 仏教嫌いで、武田攻めでは生きながら僧侶をみな殺しにしたり、竹生島で寺詣りをした待女たちを憤り並べて手打ちにし、「終生、復興まかりならぬ」と比叡山では僧俗一人残らず全山の者を殺掠した信長の墓が、京花園妙心寺にあるのでびっくりしたが、観光客呼び寄せに、座頭市の墓を笠間にたてるのと同じで、儲けるためには真実の歴史は何もないのが日本人の国民性であるらしい。 茶せん髷をたてた信長が仏教嫌いであったように、利休こと理休も反仏であったことは間違いない。となると、各寺にある利休関係の由緒書は、いくら国学院教授のお墨付きでも真偽は問えない。だから茶人に尊重される<南方録>のごときは、常識をもってみるなら噴飯ものである。「茶湯」を由緒あるものにするための、その途ではバイブル扱いであるのは、道具の型録にコジつけだけ。 よって本当に心ある歴史家は問題にもしていない。そもそも茶湯とは南北時代には、ばさら茶とよばれる闘茶であった。足利期では「書見台子」などと勿体ぶっても、しょせんは賭奕、蓋をとって茶柱が立っているのが勝ちという賭茶。各寺で開帳して一割づつの布施をとったのが、バクチの寺銭の起源。そして、『花園天皇記』や『師守記』にもあるし、『看聞御記』には、親王さまが一茶やるべえとギャンブル通いをなさった記載さえある。今日の「イッチョヤルベエ」の語源である。 が、庶民は寺へ入って賭けられぬから門前の店で丁半ならぬ茶柱博奕をやった。つまり腰掛けるから掛け茶屋となったのは後年で、賭け茶屋が起りである。これに対して神祗側でも、儲かるならと、赤い唐茶は仏教側ゆえ青茶を考案して、その混合がトガノオ産と他との割合を当てさせる「本非」とか「四種十服の勝負」といったのを始めたが、寺側のように固定客層がいないから、八坂神社あたりは弦召とよばれる下人が客引きに加茂川べりまで出かけた。これが今日でも使われるポン引きの語源だし、加茂で拾ってくるゆえ、「カモ」と上客をよぶのも今なお残っている。 つまり茶湯の起源は、今いうような高尚なものではなく、初めは賭奕。後には忠誠心テスト用で、現代では花嫁修行と恰好よくなっている。硬質陶器のノリタケチャイナが出来たのは明治になってからで、ただ土をこねたきりの信長や秀吉の頃の茶碗が、地震国の日本にも多く残っているというのは眉つばものだが、道具商とか御用歴史屋が各派の家元と組んで、もりたてて今日に至っているのである。日本では歴史は真実を追究するものではなく儲けの道具。 吉良上野介といえば芝居の仇役だが、今日の茶湯を考えたのは彼である。千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の千家では困る。そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、柳沢吉保が体制側の茶道を作らせた。 それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃へ送りこんで中和させるという、絶対安全な喫し方を考案したのも吉良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創立させたのも上野介である。 つまり、このために、まだ知らぬ人も多いが、「茶」ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合する為の製品は、現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握っていて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定まっている。 なにも吉良上野介が生前に善政をしいたから三河では「忠臣蔵」の芝居を上演させないのではなく、現代でも抹茶の利益で儲かっているから吉良さまさまなのである。コーヒーや紅茶と違って、泡消化器や粉石鹸に入れる泡の原料のポエム(?)や硫酸ナトリウムの加工物(水酸化ナトリウム?)を入れる抹茶は、非衛生的であると外人には嫌われる。日本に来て活花を習うのはいても、抹茶をやるのは絶無である。 三船敏郎が海外向きに製作した映画で失敗したのも、野立ての会で抹茶を喫する場面が愛想をつかされ、向こうの配給会社にそっぽをむかれたゆえと伝わるのも、むべなるかな、そのせいである。 いわゆる利休が茶道の祖なら表千家が栄えるべきなのに、今も裏千家が取って換っている。幕末まで唐茶でない青茶は限定地栽培で、狭山事件で有名な狭山とか久能別所の清水と定まっていた。 また、堺を自由都市と歴史家は説くが、今の香港とは違う。えびす地はどこでもそうだったが、堺も除地として幕末まではずっと領主や代官から干渉されず年貢をかけられずにすんだのである。<野史辞典>には、サカイ人なるものの別個の研究すらもでている。 考えなければならないところに来ている。 ☆ ☆ ☆ というように、いまは神仏習合してしまったので、バサラ茶とワビサビ茶の区別もなくなってしまったようである。バサラは仏教の賭博茶で、ワビサビは神道の忠誠心を問う毒見茶だというのである。つまり、仏教の儲け道具のバサラ茶に対する神道の儲け道具が、先祖に詫びる、寂しいのワビサビ茶で、その代名詞が利休だったという。 また、五世紀から七世紀にかけて大陸から進攻してきた連中が、(アメリカ大陸では)白人がキリスト教をもって有色人地帯を押さえたように、(日本では)西方極楽浄土の教えを持ち込んだのに対し、日本列島の原住民どもはこぞって次々と反抗した。」とあるように、この仏教と神道の戦いは、西方極楽浄土と、東方の薬師寺系の戦いに発展し、関ヶ原の戦いになったという。 いまでも、外来の宗教がいつの間にやら仏教のようになっていることに気づく。キリスト教などは、日本では仏教化していることが、葬式をみればわかる。この日本では、なんでも儲け道具に変えられることがわかる。 ちなみに、吉良が出てきたが、吉良で有名な赤穂浪士の話は、八切止夫作品によれば作り話だという。殿中でもどこでも、刀を抜くことは御法度だったそうで、だからこそ、相手に刀を抜かせる抜刀術が生まれたそうで、浅野は、吉良に抜刀させようとしたが失敗し、逆に吉良に捕らえられ、殺されたそうである。
2013年03月18日
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八切止夫作品を読んでいると、歴史の通説が如何わしいものに思えてくるが、もはやどの話が刷り込みなのか、訳がわからなくなってくるから、とにかく鵜呑みは非常に危険であることに気づく。 例えば、宮本武蔵などの歴史上の架空の人物などが、話をややこしくしている。確かに武蔵のモデルとなった人物はいたかもしれないが、どうやら、いまでいうところのアニメの主人公のような存在で、水戸黄門と似たようなものだったらしい。 そのような人物として、八切止夫作品から、千利休が挙げられている。千利休は、千宗易なる人物に朝廷から与えられた名だということになっているが、八切止夫作品によれば、どうも若干異なるようである。 千利休の「千」は、先住民の「先」を表すそうで、戦国時代の堺は、夷(エビス)と呼ばれていたそうである。そのような興味深い話を八切止夫作品にみつけたので、抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 【千利休】 千利休(1522~1591)父与兵衛亡き後19歳に与四郎の名から千宗易と改名。 家業の乾魚問屋をつぎ、25歳の時長男道安をもうけ、後同年生まれの少庵を連れ子にした宗恩と再婚。 天正19年に大陸遠征の後顧の憂いをなくすため山上宗二につぎ、家元の彼も秀吉に殺され、妻宗恩も石田三成の兄木工頭正澄に蛇牢で拷問死と「兼見卿記」には出ている。 「千」の姓は、先住民族の「先」をとったものである。今でも出雲大社や隠岐の神主の苗字になっている。「安来千軒」というのも数多く家があったというのではなく、先住民地帯を指すのである。 それまでの茶というのは、足利時代から卓を囲んでの茶は、中国渡来の唐茶で、道具類もみな明国の舶来品に限られていた。 それ なのに、堺の皮屋松屋らが始めだした新しい茶湯を、千の宗易が引き継ぐに当たって「ささら衆」と呼ばれるヤ衆の者らに、竹細工で茶筅、なつめ、花挿し、まで作らせて売り捌きもした。だから茶道具商売の者らが、「ただみたいな竹で作った物を高値に売りおっが、死ねば儲けもふい、利は休みじゃろう」と冷やかして死後に付けた渾名らしく、「名利共休」とか「名利頓休」等と苦し紛れの引用もされるが、これらはみなこじつけにすぎない。 利休居士の名を下賜された旨が「顕如上人貝塚御座所日記」にも出ているが、後年の加筆であろう。伝奏役でそうした扱いの担当官だった公家の、「吉田兼見卿記」には一行も出ていない。 つまり、世界に比類なき宗教的とも 言える日本独特の家元制度。それは茶道具で儲ける商売人や、その御抱え歴史屋が結託して、勝手に虚像を開祖にして神聖化しているだけの話しである。 現代の差別被差別制度が一般化したのは足利後期からである。だから当時としては「御先祖足利尊氏様の創業に反対し邪魔した悪党共の子孫を区別地に入れてしまえ」となったから、明治までの未解放地帯には、菊水とか楠木、湯浅、新田、足助の地名が何処にも残っている。 ドイツ人アドルフ・リースによって指導された明治史学は、楠木正成らだけをスター扱いにし、銅像にもしたが、俄か歴史屋共の悲しさで、その子孫や郎党の末裔の解明は全くなされていない。さて、十五代続いた足利時代にあっては、旧南朝の方の子孫だけでなく、反仏教派の神信心派が居た。「祇」と呼ばれる拝火教徒も同じ扱いをされ「えびす」として区別していた。 堺は今でこそ町名が普通についているが、幕末までは一括して「えびす島」と呼ばれ、町割りは東西南北を上に付け、各町ともにエビスがついてよばれていいたのは古地図で見ると明白である。つまり幕末までは特殊部落の土地だった。 さて、今で言う官途にこのエビスの者が就こうとすれば、後年の踏み絵のごとく、頭を丸められてから「ナムアミダ」をくり返し唱えさせられてから、その名も○○阿弥、というように転向者と判るように付けられた。それでも警戒されて武士には登用されず、活花、画師、などの無難な役目に限られていた。 何しろ自由人として商売するには、官界に渡りをつけるしかないのは、今も昔も変わりない、まこと体制べったりでなくては生きて行けぬお国柄が、この国である。 堺の者は別に足利家に仕えるためでなく、足利家の三好衆によって阿弥名を貰い、商売をしていた。勿論限定職業である。 利休とよばれる宗易の祖父にしても「千阿弥」だった。「同朋衆」と呼ばれたのは、えびすから常人扱いされ、彼らも同胞並になった衆との意味である。しかし織田信長の出現で世の中は変わった。下克上という世変わりである。 近江八田別所出身の後裔で、拝火宗の多い尾張を地盤にのし上がった彼は、商売の権利をヤ衆にだけ許可し、三好衆庇護で勝手に商売している堺に対しても、蜂屋頼隆らのヤ衆を差し向けて、これまで勝手に商売していたのはけしからん、と今までの落とし前に二万貫の請求をした。 が、限定職業の皮革業や魚屋、染料屋、鋳物屋の堺では、信長がヤ衆に商売を限定し、ヤ号をつけさせ、近江屋、尾張屋とさせているのが判明すると、自分らも元来はヤ衆だからと妥協した。 信長も後に堺とマカオ間に硝石輸入のため、海流を利用して年一回の定期航路を開くぐらいだから、堺衆が竹で茶筅を作り出すと、次男三七の後の信雄に「茶筅丸」と命名している。己の前頭部が禿げ上がってくると残りの毛を棒のように立て、茶筅髷と名づけて流行させた。信長としては「天下布武」の計画に彼らの協力を得るための、同族間の信頼獲得の手段だったろう。 信長が死に秀吉の代になると、利休こと宗易宗恩夫妻を叛乱予備罪で刀狩りの後で始末し、その与党を区別地へ押し込んだ。ゆえに今でも岡山当たりでは未解放地を「茶せん」とよんでいる。 堺衆の者たちが、かって心ならずも、先祖が阿弥を名乗ったのを恥じらい、詫びの茶を始めたので、信長は自分も応用する事にした。(現代はワビ、サビの茶として権威あるものとされる。が、虐げられ続けた原住民が、悪党と罵られながらも武者働きして、一城の主になったり、商人として成功し、店の一つも持てる身分となった。祖父や曾祖父の頃までは山間僻地で苦労してきた、その頃を忘れぬように反省し互いに協力し励まし合うため、侘びしく静かな、先祖を偲ぶ寂しい茶湯。この精神がワビ、サビの由来である) なにしろ戦国の世である。 かっては忠誠を誓い、長子新五郎に信長の重臣明智光秀の長女を貰い受けた荒木村重でさえ、美童の万見仙千代を信長が奪ったとなると、叛乱してくる時勢である。 「いくら血判を押させたり、神祇誓文を呑ませても口先だけの忠誠など信用できぬ」と信長は茶室から逃げ出さぬようにし「にじり口」と呼ぶ狭い出入り口を考案して、忠誠を申し出て来る者らを集めると、「わしが点てる青茶を服すがよい」と試験をするのに応用した。 古今東西木の葉は植物で、茶の葉も摘んで干して日が経てば枯れて黒ずむものである。だから眼前の青茶を見て(銅鍋にわく緑青でも混ぜなくてはこう青黒くなるものではない。うかつに一気に飲みほしたら腹が痛み出しておっつけ死ぬかもしれんぞよ)と皆怖じ気を震い、ゆっくり三口にも四口にも分けて服用した。 つまり茶席が今も厳粛なのは、死の儀式でもあったからである。 亭主と呼ばれる側は茶をたてるだけで、「乾杯」と絶対に一緒に呑まぬのは、茶席に招くのはなにも互いに親交を温める為でなく、御馳走するのでもない。ただ忠誠心をテストする試験だからである。 さて緑茶はそれ程には猛毒ではないが、胃腸疾患のある病弱者は死んだ。伊達政宗が小田原陣へ降参をし、忠誠を誓いに行った時も、先ず底倉で青茶テストをされたが、若くて元気がよく無事であったという。 それゆえ始めは本家本元の堺衆は順繰りに、茶頭の亭主役から、かって阿称名を貰った者やその子や孫が服用し、時に胃弱な者が、それでばったり急性で倒れたりすると「たたりじゃ」と先祖に対するお詫びの茶の意義を強めた。 信長を真似た秀吉や家康も風流や数寄ではなく、あくまで自己保全のための信頼テストに利用し、やがて武家社会に広まったのだ。 「わが母は亡き後奈良帝の寵を受け身ごもって尾張へ戻って産んだのが、この秀吉である」と時の正親町帝に譲位を求め、皇太子誠仁親王が邪魔だからと、はしかと言う事にし急死させた秘話は、奈良興福寺の多聞院英俊が書き残している。 しかし、天変地変が次々と続いて「故親王の祟りなり」と山科言経に言われた秘話は私の「真書太閤記」「秀吉と女たち」に詳細。 秀吉も十六世紀では迷信には勝てなかったのだろう。「やむをえぬ」と親王の忘れ形見の後陽成帝を立てはした。 だが折角京の中心を取り壊し、己の新御所にと建てた聚楽第が無駄になるからとそこで秀吉は大陸進攻を考えた。 ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので次回に譲る。
2013年03月18日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ さて‥‥ 神君徳川家康 徳川三百年の間に、家康は「神君」扱いされてしまったが、伝説のように、「松平蔵人元康」が改姓名して「徳川家康」になったのではない。 築山御前とよぶ今川の一門瀬名氏の娘をめとり、阿亀、阿鶴の姫たちや岡崎三郎信康をつくった蔵人元康と家康とは別人である。 この詳細は私の『謀殺』[当コーナーにアップ済み]に書いてあるが、もし家康が彼らの父だったら、まだ十九歳で、すでに三人の子持ちになっていたことになる。長女の阿亀は十三歳の時の子だから、十二歳で作ったことになるが、それではなんぼなんでもはやすぎる。 また徳川の発祥の地が三河岡崎だったら、明治維新のときに、(祖先の地へ)と戻される際も、三河へやられるべきなのに、駿府へと十六代家達公は戻されている。将軍家光の頃の寛永年間に鋳造された駿州府城時鐘銘には、これまたはっきりと、「駿河遠江は、東照大権現の生れさせ給うた地にして」とでているし、 現在の静岡市伝馬町に今もある華陽院には、「自分は十五歳まで当地にいたが永禄三年の桶狭間合戦によって、遠州浜松で義軍の旗上げをして成功し、今日の徳川家康になることができた」といった意味の自筆の額が堂々と掛けられていた。 これでは松平元康が家康ではない。 つまり家康が、築山御前や岡崎三郎信康を、あっさり信長の命令として殺してしまえたのも、肉親でもなんでもないからであり、またそうすることによって三州岡崎の領地が、そっくり己が物になって儲かるからの処分らしい。 なにしろ、家康に一番こき使われた三河武士が、江戸時代になってから、みな旗本にしかして貰えなかったのも、謀叛を用心してのせいだろう。 つまり講談のようなものでは、判りやすく家康個人のバイタリティで天下をとったように説明するが、実際はそうではなく、今の選挙と同じで組織票をつかむつかまぬかの問題があったらしい。 仏法僧で有名な蓬莱寺にいたサルメとよばれる歩きミコの集団が、「家康は薬師如来十二神将の生れ変りだ」と口コミで薬師信者の許を宣伝して廻ったのは有名な話だが、酒井雅楽頭の先祖である酒井浄賢坊も、駿府の(鐘打ち七変化)とよばれる部落の出身で、家康創業の功臣なのである。 さて、この七変化という村里は、修験者が鉦を叩いて銭貰いをしたり、鋳かけ直し、茶の湯の茶筅売り、履物直しといった職業を部落ごとで変化しておとなむ集団。つまり原住系のかたまった部落である。 家康もこうした所の出身なので、のち掃部頭を代々名乗る井伊とか、伊勢白子浦の榊原、伊賀者の服部半蔵たちが協力して原住系の総力をあげ、ついに天下をとったのである。 中でも浄賢坊は家康にとっては無二の親友であり随一の功臣なので、三州吉田(いまの豊橋)をとった時も、まっ先に彼を城主にした程である。しかし徳川の世も三代家光の頃から変ってきて、修験や薬師系に代って次第に仏教の勢力が、またもり返してきた。 酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮(済州島らしい)系だったせいだが、邪魔者がいなくなると将軍はまず音羽の護国寺を建立している。 私(八切止夫氏)は”天朝教” さて酒井一家の[ような]原住系は、ビニールや擬革のなかった時代には、他に代用品とてない皮の専売をする部族を持っていて、これからの収入は莫大なものだった。このため大老の権力の座から酒井忠清を追い払っても、彼らの潜在勢力はすこしも衰えなかった。 そこで、(皮はぎの仕事を奪ってしまう)ということになったが、まさかそのものずばりに、「動物の皮をはぐことの禁止」との、ふれも出せないので、1678年正月に、「生類憐れみの令」というのを発布した。 つまり皮をとるには殺さなくてはならぬ。それをしてはいけないというのでは、酒井一族にくっついている革屋も倒産の他はない。 このため、これら原住系はみな落ちぶれ、人い侮られるような極貧階級に転落した。 が、それでも追求の手は休められず、これまで茶筅や竹柄杓などを作っていたササラ衆をも圧迫するため、千宗易直系のいわゆる表千家の統率力を弱めようと、「千宗室」をもって今日の裏千家を、公儀が後押しして始めさせたのも、この時点にあたる。 さて元禄十一年の大火の折の大虐殺に端を発したのが、三年後の松の廊下事件であり、翌年は赤穂浪士のゲバ騒ぎにまで発展した。塩田というのはアマとよばれる原住系の限定職業だったのを、吉良家が手をのばし、反発されたのが事の起こりというのは合っているが、通説の忠臣蔵はあれは芝居であり、浪花節でしかない。 さて治安維持と仏教政策のために、神仏混合が赤穂事件のあと断行された。 しかし、この真相は秘密のままだから、現代でも京都市立芸大某教授のごときは、「諏訪明神や宇佐八幡、丹生郡比売神といった神々が揃って『人間と同じ神も煩悩をもつ衆生であるから、仏法をきいて喜び、仏道に入って仏を守護したい』と神宣を出されたのが、この神仏混合の原因であった」などと説く。 てんで何も知らぬとはこれまた愉快なもので、アポロ十一号はショウだが軍事目的の衛星が、秘密裡に頭上をとびかう時代に、神さまがボンノウに悩まされてなどと、あまりにも人間臭いことを平気で書いている。こんなのが助教授では学生も可哀想だ。 さて、この神仏混合は、やがて明治政府が天皇さまの神権的権威の確立の目的のために、分離政策をとってしまい、いわゆる、「廃仏毀釈」の世となった。 さて、ここで注釈がいるが、歴史家とか大衆作家の書く、「神仏を念じ」といった戦国時代の武将像はみなデフォルメである。『加越闘争記』にも、「仏法は武門の敵にして、仏門はわれらの悪魔なり、うち滅しやまむ」とあるように、信長の時代までは、坊主と武者は仇敵同士だった。 中世期のヨーロッパが宗教戦争の時代だったように日本でも、語弊を振り榊を立てる武将と、数珠をまさぐる僧兵とは戦にあけくれしていた。 だから、くそとみそをごったにするような神仏を共に拝むなどというのは、創価学会の信者が教会で洗礼をうけるみたいなばかばかしいミステイクである。また話は戻るが吉良上野の実子で上杉へ養子にいった義英が、高野山は女人禁制ゆえやむなく、今日伝わるオッサン姿の謙信像を画かせ、真言宗の高野山に納めた。 だがそれは、(元禄十五年事件のとばっちりで、先祖の百万石が米沢転封で三十万石に減ったのが、またしても十五万石になったので、なんとかして、あの世から守ってほしい)と、家老の一色を代参させた時なのである。つまり空想の画でしかなかった。 高野山の無量光院が、上杉家と縁ができたのは、この元禄癸未の年つまり討入りの翌元禄十六年からの事であり、それまでの無量光院は、三河吉良氏の代々菩提寺だったのである。 先のNHKの岡崎君は講談みたいなものしか知らないらしいが、真言宗と謙信の結びつきは、確定資料においてはその死語一世紀半後のことだったのである。 さて、元禄時代に、強制的に神社は仏寺の下へ入れられてしまい、明治になると(正確には慶応四年三月)また分離して、神と仏は別個にされ、それまで拝んでいた仏像が薪にされてしまう有様では、信仰心も薄れてしまうのが当然である。 そこで今は、「生れるまでの安産、そして七五三。ついでに交通安全、家内安全」までが神さまの係。「死んで火葬になってからのアフターサービス。つまり一周忌、何年忌」がお寺さん。 分業になっていて、この他アルバイトに幼稚園や貸しガレージもしている。これでは「宗教は」ときかれても、首をふる日本人が多いのは仕方がない。しかし私は「神道」や「仏教」の信仰は薄れても、「天朝教」といったものは有ると信ずる。 私のような戦中派は、かつて陛下の御為に死のうと心に誓っている。男は一度こうと誓ったものを時代の流れでは変えられぬ。 だから、それを宗教だと思いこみスペインへ行っていた時も、聞かれるとそう答えたから向こうの王政復古の若い連中にもてた。が日本へ戻ってきたから、天朝制護持のそういう小説を書いたら、みんなにバカにされ、「民主主義の世の中で、そういう考えは反体制で造反だ」ともの笑いにされている。 ☆ ☆ ☆ 例えば、現在でも自民党員の名簿をみると、済州島出身の者が多いことに気づく。元々、自民党は、紅卍字会と、勝共連合、統一教会で作られたから、済州島は、朝鮮から日本への入口のようなものだったことがわかり、日本に仏教が浸透する基点となったものと思われる。 原住民系は神道やユダヤ教を信仰していたようである。皇室は大陸から様々な亡命政権が入っているのでわかりにくいが、北朝が仏教系、南朝が神道系のようにみえる。
2013年03月15日
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現代のマスコミが出鱈目であることはもはや周知の事実だろうが、というのも、日本の歴史についても、連中は無知蒙昧だからでもある。 某公共放送は、出鱈目な歴史ドラマを延々と流し続けてきた怪しい歴史をもつが、それも表現の自由だから許されるとしても、その出鱈目に洗脳されて命を犠牲にしないことを願うばかりである。 そこで、今回は、八切止夫作品集から、マスコミの出鱈目振りを現す話を改めて抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ われらの造反 学術文化の浪花節 「TVガイド」という小雑誌で『天と地』の演出担当ディレクターの岡崎君が私(八切止夫氏)に対して、 「かなり前に岐阜から聴視者の老人が長距離電話をかけてき、謙信は女だという云い伝えがある、とうるさくいってきた。どうもその爺さん頭がおかしいようだと思ったけれど、それと同じように論じちゃ失礼だが‥‥」 と、いうような言い方をし、ついでに、「謙信が不犯だったのは肉食妻帯を禁じていた真言宗への深い帰依だったのを考えぬか」とまでやっている。 私はNHKのディレクターで立派な人も沢山知っているだけに、こういうのには呆れるが、NHKは一般から視聴料をとっているのだから、そこの禄をはんでいる限り、公共事業の職員として同君は私にとやかく言うのは許せるが、親切に長距離をかけてきたという年寄りを、そんなキチガイ扱いなどしてはいけない。 もちろん私の場合は『血戦川中島』の後書においても、 「四年間にわたって謙信が女人と解明したのは、以前には誰もしていない前人未踏のもので私がなしとげたライフワークである。とはいえこれによってゼニを儲けている連中からは好かれんことは見えている。こうした労多く効少ないことは利口な人のやらない事で、私みたいなバカ者が、<真実とは何か>という手掛かりをつかむため一つの試みとして根気よく追求してみた迄である」 との自嘲めいた附記もはっきりつけている。 だから岡崎君なるものが、「八切はばかだ」というのなら私は何もいわない。しかし八十歳の年寄りがわざわざ局へ電話をかけてきたというのに、<頭がおかしい>と公言するのはどうだろうか。親切な老人は敬し尊ばねばいけない。 また岡崎君は真言宗もろくに知らないらしい。勉強不足である。だが上杉家が高野山へ帰依したのは江戸期の元禄事件の後からの事である。 なにしろ日本では、正しいとか正しくないとか対比決定が、常識や状況で判断されずに、「権力」によって決められるから困る。とはいえNHKは裁判所ではなく岡崎君も判官ではないはずである。 なお、ここまで書くのは気の毒だが、高野山には各塔頭ごとに訪問者の名を何百年にもわたって記録されたものが残っているから、元禄年間から初めて仏縁をえたことはそれを調べてみても判る。 また謙信が詣でているのは真言宗ではなく天台の延暦寺で、宗旨も<七福神法>なのである。 『血戦川中島』についで刊行された『利休殺しの雨がふる』、解明の先端をきってくわしく、読売新聞に連載した<謙信は男か>も入っているから、その差違をよく読んで欲しい。 さて話は違うが私の許へもよく七、八十歳位の方から電話を頂く。そして、これまでの通史とは、まったく反対のことを、「代々の口伝えだが、わしには書き残しもできぬから聞いてほしい」と、いうお頼みなので、録音にとらせて貰ったり、その異説の裏づけとなるものを、現地までとんで行き拝見したりしている。 こうしてみてゆくと、活字になっている正史とは別個に、まるで北海道のユーカラみたいな口伝の歴史というものが、根強く語り伝えられているのが判る。これは機動隊と学生が衝突したような場合、後になると双方の事情説明が違うようなもので、権力者は自分の都合のよいように発表しこれが歴史となり、負けた方は口惜しいから、いいつたえで、「真実はこうなんだ」と残しているらしい。 だから私の場合も、講談みたいな通俗史と違うからと、居丈だかに気違い扱いされては堪らない。 さて某局の教養番組で、『大坂落城』をみたら、旭堂南陵がまず画面に現われ、大坂夏の陣の一席を伺い、そして、このよき芸人は淡々としてその後で、「東京でやる時は、秀頼は死なせます。が地元では殺さんと、秀頼薩摩落ちということにせな、お客はんが承知しまへんよって使い分けでやってま」と楽屋話を画面でしていた。 講談とはこういうものである。それをはっきり言ってのけるのはよいことで感心した。 しかし、この講談が作家の手にかかると、内容はそのままなのに、きわめて真実そうに化けるところに問題があり、それに便乗して史料さえ手作りするような、太鼓もちの歴史家まで出てくるからややこしくなる。 なにしろ今日の日本史は明治製で、頭山満が軍部のために、桃中軒雲右衛門に、三国干渉への国民の復仇心をアジるため、「花は桜木、人は武士」といった美文名調子をつくらせた時代にできたものだから、「浪花節や講談」がそのままナチュラルに、歴史の仮面をかぶって今もまかり通り、頭の固い人には既成概念となっている。そしてテレビの大河ドラマが今や正史である。 なにしろ前年十一月三日の文化の日に「学術文化振興のため」と勲何等かの勲章を浪曲師寿々木米若に授与されるようなお国柄なのである。 ☆ ☆ ☆ マスコミは、他国の歴史教育が反日的だというが、日本の歴史教育も反日、つまり反原住民的で、差別的であることに気づいていない。出鱈目な通説を鵜呑みにし、愚民化政策に加担しているだけである。 例えば、日本人は無宗教だと外国人にいわれるが、歴史的経緯をみれば、無宗教なのではなく、他宗教なので、その判別ができていないだけで、TPOで、変えているのである。 だから、元旦には神道の神社に初詣に行き、クリスマスはキリスト教で祝い、死ねば、仏教で、葬式をするというような多様的な信仰の形態をとっているだけなのである。これは、日本が他民族国家であることの証でもある。 そのような話を、興味深いので、八切止夫作品集から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 無宗教の生きる道 さても驚いたのは鶴田浩二主演の、『組長』という映画である。関西の親分が、大政党の黒幕らしい政界実力者に札束の山をわたして政治工作をし、関東のてきやと、「愛国同志会」の結成式を橿原神宮社頭であげ、そこで各親分が、「七十年安保に際して、お国のために、左翼や新左翼を叩き殺す」と、宣誓してから、「君が代は千代に‥‥」と合唱しているところへ鶴田浩二が一人でドスを背中にかくし持ち、襲ってゆくのである。 それが、「高倉健」だと、(死にたくなんかないが、これも義理だ仕方がない)といった感じを与えるし、「若山富三郎」だと(面倒くさい死んでこまそ。この阿ほんだら)というイメージだが、「菅原文太」だと、やっと死場所がみつかった、死んでゆけるという穏やかさをみせる。 さて、「展望」に吉本隆明が、 「現在でも作家たちは、如何に文学者として死ぬかを自問する時機にきていると思います。みんな死に方が下手だなあという感想をもちます。死に方が本質的でないと、その文学が蘇るにも蘇えりようがあるまい、という問題を抱えこんでいるわけです」 といっているが、鶴田浩二のものには、これに通ずる(死に場所を求めて死んでゆく男)の具象が的確に表現されている。三島さんの死にも関連してくる。だから、それはそれでよいのだが、君が代という国家があるがこれでは、やくざ行進曲に堕落する。 なにしろ『日本暗殺秘録』などの映画まで作られ、やがてそのうちにかけて起こるだろうテロの時代を予言するみたいに堂々と公開される世の中だから、また何をかいわんやだが、さてこの春、リスボンへ行っていたとき。 ひとりたびの気安さで観光バスにのったら、「日本語だ」というインターホンをガイドがかしてくれた。そこで説明をきくつもりでいたら、 「私は日本人で、無宗教な恥ずかしい人間でした。それが此方へきてから受洗して、一人前の人間にようやく立ち直れたのであります」 イントネーションが、はね上る口のきき方で録音テープがきこえてきた。現地案内のつもりでいたら若い日本女のザンゲ話である。アルジェリアの観光バスにのった時にも、 「異邦人である宗教のない、つまり魂のない女でした私が、今日こうして信仰に生きられるのは‥‥」 というのをきいた覚えがある。 声帯が違うらしいから別の日本女性の吹きこみらしかったが、なんでこんなバカを吹きこむのか当人にきいてみたいものである。 リスボンから太陽海岸とよばれるエストリールへ行って、そこのリッツホテルに泊っていたとき、ホールに顔をだしていたらステージへあがってきたチョマ姿の姐ちゃんが歌う前に、客席を見廻して最敬礼し、 「私はコリアン。哀れな孤児でしたが、お情け深いアメリカの何とかの基金のおかげで面倒をみて頂き、こうして一人前の女になれましたことを、ここにあつくアメリカの皆様にお礼をいいます」 とやっていた。すると客席からパチパチと拍手。はてと思って手を叩いている側へいったら、なんとアメリカのバアさん達の観光グループが国威発揚とばかり、かたまって喜んでいた。 つまりこういう単純な女性たちが、「朝鮮戦争は正義人道のため」、「ベトナム戦争も住民のため」と思いこんでタカ派となり、アメリカの銃後をまもって、「それ行け、つわものアメリカン男児」と、おおいに戦争に協力しているのだろう。 また、このためにニューヨークあたりの芸能社は、東洋人のタレントにはこういう前演説を無理じいしているらしい。かつてラスベガスでも雪村いづみが、やはりこんなことをステージでやっていたのを、私はヒルトン・ホテルで聞いたことがある。 しかし日本人というのは、なにも、ここは地のはてのアルジェリアやリスボンへゆき、「無宗教ですみません」とあやまる事はないのである。何故なら、いわゆる天孫民族は、「仏教」、騎馬民族系は、平野四神を主とする「カラの神々」そして土着先住民は、拝火教徒であるからして、「エビス、ダイコク七福神多神教」と立派に沢山の神々をもっていた。 もちろん当今の歴史辞典の類は、七福神や頭の大きな福助を、縁起ものとして扱うが、かつての彼らは原住民一般にとっての神さまだった。 つまり吾々も、かつては多神教とよばれるごとく、ありあまる程の神様をもっていたのである。 ところが、頃は元禄十一年九月六日。 「勅額火事」とよばれる大火が江戸中を総なめにした。すると、流言蜚語の類であろうか、これは原住系のつけ火からだと、故意か偶然か噂がひろまった。 ありていは関東大震災の時と同じで、(朝鮮人の暴動だ)という具合に、原住系の人間が叩き殺されるような弾圧が始まった。 といって、この時が発端ではなく、話は十八年前にさかのぼる。四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の綱吉をという声もあったが、ときの大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。 が、それでも腹がいえぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これを綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制とされてしまったのである。 ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので次回に譲る。
2013年03月15日
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前回からの続き ☆ ☆ ☆ われら日本人 軟弱レジスタンス 「プラハの暑い夏」というチェコのテレビのドキュメンタリー番組をみて、すっかり考えさせられた。私は米軍進駐の当時の本土は知らないが、満州で、まずソ連進駐、中共軍進駐、国府軍進駐という三段階を、銃口をつきつけられ、青竜刀で殴られ、後手に縛られながら満人の暴動の中で経験してきている。 プラハの新聞や放送局は最後まで、チェコ人民のために進駐の非をならし、それに元気づけられた市民の婆さんや少年までが、握り拳をふりあげ重戦車に素手で近づき、しきりに口々の抗議をしている場面があったが、満州ではあんなのは見られなかった。 当初チェコのマスコミは敢然と市民の側にたって、進駐権力に対してあくまでもできるだけの抗議をしていたが、私の記憶の中の在満のマスコミは全然そうではなかったようだ。 初めての敗戦なので、要領をえなかったのか、それとも権力の命令には絶対服従ということへのなれか、てんで邦人の側には、なってくれなかった。 八月十五日までは関東軍の代弁者だった彼らは、ソ連軍クラフチェンコ司令官が進駐してくると同時に、その命令通達機関に変わってしまった。 たしか八月十八日の新聞面は、「歓迎」の二文字を大きくだし、「町の清掃をきれいにしましょう」ということで、大掃除のように割りふりがでた。 そして三、四日すると紙や印刷機がもってゆかれてしまい、紙面は小さなガリ版に刷りになった。 いま私たちがモスクワやキエフの空港へゆくと、イン・ツーリストで現在の日本の9ポよりすこし大きい五号や、8ポより大きな旧六号で印刷された日本語の岡田嘉子著やいろんな本を、いくらでも無料でくれるが、あれは二十四年前に新聞社や新興亜印刷から、もっていった活字の字母で刷られたものである。 やがて十月。いまは粛清され又復活したとも伝わる中共故朱徳司令官が進駐してきた。 すると休刊していたガリ版刷りがまたしても発行されだし、「日僑(日本人)はその前非をくい、おおいに勤労奉仕をせねばなるまい」というのが発布されたのはよいが、さてそれから、「何月何日何処彼処には日本人誰某が何々を盗んで検挙された」、「何月何日、日本人誰某が詐欺を働いた。怪しからぬことである」と、ラジオも新聞も、連日、日本人の声や筆で日本人への攻撃にあけくれした。 十一月に入って中共軍撤退国府軍進駐の知らせが、秘密裡に洩れてきて、いわゆる、「日軍決死隊」が組織され、雪の降る朝。奉天警察総長を初め各地を襲撃した時、「憎むべき日本人暴徒を、吾々日本人の手で捕らえるか、又はもよりの警察へお知らせ下さい。そうしないと日本への帰国の望みは絶たれるかも知れません」 ガリ版新聞と日本人向けラジオ放送は、こればかりをくり返し、しまいには、「密告された方には報奨物資を、寛大なる当局のお取計らいにて差しあげます」となった。 私は当時(遼陽芸術協会)なる腕章をもらい、旧満映の吉田秀雄に脚本書きをさせられていたが、上演料は一文も渡されず、あべこべに密告される羽目になった。 しかし、のち北春日大隊をおしつけられ、二千余人の女子供をコロ島から博多へつれ戻ってきた時、引揚船の中に事情を知っている女性がいて、私が密告され逮捕された時の報奨が、粟五斤だったときかされた時には、さすがに呆然とさせられたものである。 もちろん、これらは外地での話だが、当時日本内地でも、進駐軍に対して、「あなた好みの、あなた好みの日本人になりたい」といった向きも多かったそうである。 そこでもし、改めて今どこかの国から進駐されたら、いや現実にはもうチェコなどより、ずっと早くからいるのかも知れないが‥‥。 日本の放送局や新聞は、プラハのように、民族のためにと必死になって‥‥はたして、「チェコ国民に告ぐ。われわれがついている」と声援してくれるかどうか不安でならぬ。 なにしろ国民性というものがあって、「統治しやすい国民」と、「そうでない国民」の、この二つは厳然と分かれているという。 さて日本人もかつては勇猛果敢であったそうだが、二十六年前のマッカーサー進駐以降は、「きわめて従順」という折紙がついている。口の悪いアメリカ人などは平然と、「キャトル」つまり家畜だとさえ放言する。 異邦人に占領されて以来、一度もレジスタンスしない国民というのは、世界史上まことに珍しいそうで他に例もないという。つまり宇佐美日銀総裁でさえ、「公定歩合引上げに関する談話」で、「わが国の戦後の経済成長はアメリカの余慶である」と発表し、歌舞伎俳優の阪東三津五郎丈までが、その生前には役者子供とはいうが何かあると、「おうアンポ」と、アメリカさんのお蔭ですといいだす。 もちろん何をいおうと各人の自由だが、こういった従順性というのは、対外的にどういう影響を与えるものだろう? 「異人種が占領国住民を統治しようと思っても、反逆精神がオウセイで、とても手がつけられぬ」ような、そんな国土なら、何も好んで厄介な進駐をしてくる軍隊もなかろうが、「きわめて国民の資質温順なり」となると、「そうか、そんなに扱いやすいのなら‥‥」 あちらこちらから希望する向きが殺到、またも、早ばやと重戦車を陸揚げしてくる恐れもある。 この二十六年前に築いてしまった従順という信用が、やがてとんでもない事になりそうな気がする。その時には、マスコミの人が、チェコなみに頑張ってくれることを願うが、「日本人は家畜なみではないんだ」という抵抗運動も今ではオキナワにあるから、あれがもっと対外的にアッピールすると、「うるさい国らしい」と吾々は助かるかも知れぬ。 そうなると苛められている彼ら沖縄県民こそ、真の愛国者という事にやがてなりかねない。 ☆ ☆ ☆ その沖縄人を見捨てようとしている薄情で軽薄な日本人とは、全くもって何人なのだろうか? そんな連中を民族の代表者にしていて良いのだろうか? いずれ天罰が下されるだけではないのか? もはや率先して売国しているマスコミの腐った連中や税金を私腹化している連中こそ、日本国籍を剥奪すべきではないだろうか?
2013年03月15日
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日本人が、外国人に親切であることは、いまやよく知られたものだが、かの連合軍総司令官マッカーサーなどは、日本人がいつ反乱を起こすか、気が気でなかったようで、あのサングラスと葉巻は、弱犬の遠吠えのようなもので、日本人はすっかり騙されていたことになる。 それというのも、八切止夫作品集を読むと、実は、その親切が、奴隷根性にあることが伺えてくるからで、日本人はどこか外国人を怖れているところがある。 その奴隷根性が、いつ植えつけられたのかは明らかではないが、八切止夫作品集を読むと、戦国期の奴隷売買にあることが伺える。そこで、その話を抜粋紹介する。 奴隷日本人秘話 日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。 しかし、「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」と、ポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令も、現存している。 この年号は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたっている。 さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。 だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」といった受取り方で記録されているのに、今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。 ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」といった実地にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。 由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。そして現在と違い、マカオ九州間の黒舟は百トン以下だった。 だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動くマカオへの旅。 そして、そこから印度への輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。 そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは、日本人だというのもそのせいかもしれない。 さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。 また羽仁五郎の『都市の論理』において、「アテネの人口は市民九万に対して奴隷は三十万いたから、憲兵や警官のごとき仕事は奴隷の仕事であった」とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長八年)の、「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。 インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。 さて、これがスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。 この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。 さて、現在のマライ半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。ということは、マライの軍人も奴隷日本人だった事になる。そして地図で一目瞭然だが、マライは南支那海にある。 「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」、「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」と、「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。 歴史家は壱岐対馬を根拠地にしてから、そこから南支那海へ出稼ぎに行ったものと、「海の男」の勇壮さだけをたたえるが、焼玉エンジンもなかった頃に、あの怒涛さかまく南支那海を、夏なら逆風なのに、どうして人力で漕いでゆけたか。 四日や五日でいけるはずもないのに、呑み水や食料はどうしたのか?その時代、香港側のマカオから、日本の堺や九州の口の津に、「定期航路」が開設されていたのは、フロイスの日本史にも明記されているが、それは、「季節風」にのって行くのだから、日本発はどうしても毎年十二月ときまっていた。 さて、百トン位の大きな帆船でさえ、冬でなくては出航できないのに、なぜ八幡船ごとき五、六人のりの小さな舟の乗組員が、その反対の夏の出発をものがたるフンドシ一つのスタイルとは如何?ということになる。 日本では歴史屋がすこしも疑問符を投げかけないから、代りに私が首を傾げれば、「夏」というのは貿易風が西から東へ吹く季節で、マカオ政庁の司書館の記録でも、「日本行きは七月または八月、ゴア行きは十二月から正月」と、これはなっている。 つまり南支那海へ夏ゆける海流の通る地帯なるものは、それより西に位置する場所しかない。 もし中学校か高校の地図をもっていたら、マライ半島の部分をひろげていただきたい。 そこの支那郡海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は「バハン土候国」の文字がシンガポール以北にあり、バタビヤ日記など古いものには、「Pahang」の名になっている。 私は春にリスボンへ行って来たが、今でもポルトガル人は、マライとよばずに彼らのつけた、「バハン」とよぶ。マラッカのベンハーの丘に城砦を築いて同地を占領した「バハン公爵」の名をとったものだそうだ。 つまりバハン公爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ略奪をやらせていたのであるらしい。 五島列島の王直らのような和寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。 それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。 というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。 真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来。 器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。 しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。 よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。 戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史屋を黙らせたのである。 さて、戦後二十六年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この真実を発表しない。また吾々をどうするつもりなのかと、ここに告発したい。 ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので次回に譲る。
2013年03月15日
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前回は、まるっきり、虚構である武士道を、八切止夫作品集から抜粋紹介したが、では逆に、実際の戦争体験の話を、続けて、八切止夫作品集から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ われらの告発 白日下の戦争体験 中央公論のグラビヤ撮影のため、生れて初めてオヤジさんと二人きりで写真をとった。もう七十をすぎているのに弁護士として忙しく、リオから戻ってきたばかりである。他人ならば、お元気で何よりですというところだろうが、親だけに考えさせられる。 (自分もあんな年齢になるまで、あくせく動き廻らねばならぬのか)と思うとリツゼン[慄然]として、早く死なねば困るとしみじみ考える。 なにしろ私は1945年の夏、あまりに死をみすぎている。 ふつうの戦争体験というのは、命令下において束縛されながらのものだが、私は、まったく自由の立場で、8月18日に、油で汚れた赤黒いボロ布をさげた重戦車の後から麻袋をかぶったり、一糸まとわぬ生れたままの姿の日本人が、元寇のときの捕虜のような格好で、群れをなしぞくぞくと続いてくるのに、まずドギモをぬかれたものだ。 彼らは引揚げの途中で満人に襲撃され、(当時衣料切符が満人へは配給がなく、不足してきていたので)身ぐるみはがされていた。 抵抗すれば叩き殺されてしまう。そこで仕方なく赤い戦車のキャタピラの音をきくと、女達をギセイに供してその後に命からがらついてきたという話だった。 さて苦しい時の神頼みというが、奉天へ入ってきた開拓団の男女の生き残り八百は、「あっちだ‥‥」と春日町から浪花通りをこえ、北春日神社へと移ってきた。そして神前にぬかずくと、遥か東方を伏しおがみ、「テンノオヘイカ、バンザイ」を三唱した。すると、そこへ北春日派出所の巡警を伴った日本人の金星をつけた豪いのが現われてきて、「オマエラ、チンポコまるだしで不敬だぞ」と一喝した。 すると餓鬼のような連中が、「うおッ」と叫んで、その奉天警察総局の高級警察官を囲んで、もみくちゃにした。 やがて満人警官が発砲してその高官の死骸は曳きずっていったが、八百人の連中は神社につづいた夏休み中の小学校の建物へ入りこんだ。 満人や赤軍に散々いためつけられた彼らは日本人には強く、三々五々お貰いというよりは遥か高圧的に、食料その他の徴発にきた。 「尻をまくる」という言葉があるが、私のところへ現われた三十女のごときは、「こうみえたって、わたしゃ満人は五十と二人、ロスケ[ロシア人への蔑称]だって四十余人にやられてる女なんだ」と、縮毛のはえたところをめくって、下から逆かなでしながら喚きたてた。 やがて進駐した赤軍が占領体制をとると、「ダワイ」「ダワイ」と夜ごとに銃声をならして訪れてくる連中をさけるため、社宅のようなところは棟が一つだから、窓や戸に板をはって出入りは梯子を使う俄か作りの城塞をこしらえたが、私の住まっていた春日町や浪速通りは商店街なので、一棟が二戸ずつに分かれ、そうはゆかなかった。 兵役はないのだが人手不足のため、嘘みたいな話だが、当時の北春日在郷軍人分団長にされていた私が、商店街のおっさんから警備方をコンモウ[懇望]された。しかし私は弱った。 分団長に私がなったのは、根こそぎ現地動員でみな持ってゆかれ、誰もいなかったからである。一人ではなんともなるはずがない。 そこで西部劇のような具合に、北春日小学校へ行って補助シェリフを募集した。「難民」とよばれている彼らの中から、用心棒を選んだ。鉄西から運搬途中に入手した銃器弾薬があったからだ。しかし、ダワイよけに編成したはずの連中が、雪のふりだした十一月の末に、脱走兵と組んで暴発をした。 なにしろ前は憲兵隊と組み、赤軍進駐後はロスケの手先となって脱走兵狩りをし、同胞をシベリヤ送りにしていた奉天警察総局へ「それっ」と暁の攻撃をかけ、日本人が日本人の警官を雪中にひきずり出し、興銀前の並木を、ずらりと首吊りの木にしてしまった。 さてこの後が大変で、案外に日本人にはレジスタンス精神がなく、すぐ、長いものには巻かれろといった考えが多いのか、自分だけ助かろうと密告者が多く私も逮捕された。 しかしクラフチェンコ司令官の見解が、「旧日本軍残党の暴動」という方針だったらしく、一旦はモスコー送りになった私も、全然兵役経験がなかったせいなのか戻された。 しかし、この結果。次々と南下してくる難民がふえ、多い時には三千人にもふくれあがった北春日小学校の連中には、やがてけわしい冬が訪れてきた。 形ばかりの配給だった粟もこなくなった。 銀行が封鎖され金のなくなった私は、自分の蔵書を並べて売り、見るにみかねて資金のカンパをしたが、とてもそんなことでは、餓えた同胞たちへの助けにはならなかった。 女は切羽詰れば身体を売るというが、それも買手があればこそで、化粧でもしなければ飢えた女たちを、誰も相手にしなかった。 だから子供づれの女は、眼前のチェンピーやマントウをかうためや、己れを売る化粧品代に、赤と紫の赤軍軍票の百円か二百円で、わが子をみな売っていた。毎朝、北春日小学校の入口には、子供を買うマーチョが並んでいた。つまりこんな具合だったから栄養失調やハッシンチフスで一日に二十人位は死んだ。 北陵の日本人墓地まで運べないし、火葬にする薪もない。凍った校庭の土は掘りようもない。だから並べて積むしかない。しかし月六~七百の死体が零下二十度の気候では、冷凍マグロのごとく固まってくっついてしまう。 なのに時たま極寒のショックで生き返ってくるのもいる。ところが困ったことに、夜中に堂々と満人が荷車をもってきて、頭だけを斧で叩き落して運んで持ってゆくのである。「六神丸」の原料にするためだという。 それが贋物の八路軍だとは後で判ったが、「救国革命軍」の本営へ、やむなく文句というか陳情にいったところ、髪のはえた大男が、「死んだ者が生きている人間の役にたって、薬になるのに‥‥なにを吐かすか」と青竜刀をひきぬかれ、私はコツンとやられてしまった。 だから私は今でも漢方薬の黒焼きを嫌う。 異民族支配下になることも厭で堪らない。共産主義を敬遠するのも肌身にしみているからだろう。 ☆ ☆ ☆ 異民族支配下で、せっせと売国に走る、いまの日本人をみると、この国は既に死んでいるのではないか、と思う。少なくとも、歴史上では死んでいる。いかに武士道が見掛け倒しなのかがわかる。 それは原発事故を起こしても誰一人として切腹しなかった経営者をみれば、武士道が過去にも現在にもなかったニセモノの某政府広報機関の歴史ドラマと同じ、単なるフィクションであることがわかる。 日本人があまりにも同胞を裏切るので、歴史を語る上で、名目上、武士道という建前が欲しかったのかもしれない。その建前に騙されて命を落とすのは憐れというか愚の骨頂だろう。
2013年03月15日
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よくよく考えてみれば、戦のなかった江戸時代に武士道が生まれた、ということは勝海舟も述べているが、とどのつまり、武士道がないものねだりの妄想であることがわかる。せめて、本多忠勝のような戦国時代に生きた武士の証言集とか、そういうものを残すべきだろう。 だから武士道に関しては、いまの中国のパクリ製品を笑ってはいられない。武士道は、妄想が一人歩きしたものと考えてよいだろう。多くの庶民を戦地に送り、その犠牲により利益を独り占めしてきた連中の、庶民を洗脳するツール(道具)だったのである。 だからこそ、事情を知る一部の連中のなかには、明治天皇崩御に殉死する乃木大将を、馬鹿馬鹿しく、白けた感じで思っていた話も残っている。 武士道の話を調べると、日本の軍部の国民総奴隷化の愚民政策ぶりがよくわかるので、続けて、八切止夫作品集から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 葉隠武士道 後世で誤読されるようなものを書き残しておくと、古本屋に嫌われ「つぶし」にされてしまうのが助かりその本も残るらしいから、「武士道は昭和の世にもいきていて、汚職事件がおきると、日大の富沢のように古田会頭を守って行方不明になるものや、官庁でも課長補佐という人は、忠義とは死ぬこととみつけたりとみな自決して、伝統精神を守って死んでいった」といったものを書いてみようかと、愚かな私ゆえ、時には誘惑をも感ずることもある。 なにしろ、そういう内容のものを書くようにと、私など依頼され要求されるからである。 しかし、もの書きというものは、本質として泣く代り喚く代りに文字を書くのだから、癪にさわって立腹しないことには筆はとれない。 子供ではないから嬉しかったとか感心したことなど書けはしない。つまり繰り返せば、『葉隠』なるものも山本常朝の憤りの書で、皮肉たっぷりに書かれた内容の物である。 なのに前述の東大助教授一人だけでなく、これまでの葉隠の解説者は、みな故意か偶然かこれを誤読して、おおいに武士道精神を押しつけようとする。だからして、もう今後はそういう間違いのないようにと、改めて、『葉隠』そのものを根本的に解明すると、この言葉が佐賀で初見されるのは、『竜造寺文書』あたりであろう。 もともと鍋島家というのは、『史徴墨宝考証』によると、「鍋島氏の祖は詳かならず」とあるし、『九州治乱記』には、「本名を隠し、佐賀郡鍋島村にありしゆえ、それを姓となす」といった家柄で、竜造寺隆信の時代には、野武士のようなものだった。 ところが、いつの時代にも、良い女は得をするが、良い男っぷりも儲かるもので、弘治二年(1556)竜造寺隆信の母が、鍋島清房に、よき後添えを世話してやるといったが、他に適当なのがいなかったのか白むくをきて、「嫁入りよう」の行列に自分がおもむいた。 この四十六歳の花嫁に清房も困ったろう。だが鍋島の伜共は、おかげで当主竜造寺隆信の兄弟ということになってしまい、それから、それぞれ重く用いられることとなった。 さて天正十二年のこと、島原半島で薩摩の島津勢と、竜造寺勢が戦うことになった。 『ルイス・フロイス書簡』によると、竜造寺軍は長銃、長槍、長刀、弓矢の部隊二万五千で大砲隊もあったという。これに対する島津勢は有馬勢と共で計一万だったが背水の陣をしいて、これを迎えうった。島津勢は誘きよせ作戦をたて、故意に敗走し竜造寺勢を深田に誘きよせ落しこみ、身動きできぬようにさせ弓と鉄砲でうちとった。 五島二州の太守と仰がれた竜造寺隆信も、ついに薩摩の川上左京亮に首をとられた。 さて、このとき、鍋島の伜は、「ご思慮深ければ、葉隠れなされ進みたまわず、よって敵の奇計にあわず無事めでたく生還遊す」と、大将の隆信は首にされたが、そちらは『葉隠』したおかげで生きて戻った。 すると四十六歳で鍋島へ再婚した寧子が、「隆信公御年譜」によると、「いまは鍋島清房の伜どもの飛騨守ならでは、天下に御奉公を申しあげ家を存続すべき者はなし、討死せし隆信と兄弟の首尾なれば」といいだし、隆信には伜の政家がいたが、孫よりも惚れた男の息子の飛騨守の方がよいと、ついに十九代まで続いた竜造寺家をつぶしてしまい、佐賀一国三十五万七千石の家を、鍋島飛騨守直茂のものとしてしまい、竜造寺政家の子の長法師は、これを直茂の養子にした。 ところが不思議なことに、その長法師は慶長十二年九月六日。自殺か他殺か不明だが江戸づめで上京中。その妻と共に、なぜか夫婦で心中をしてしまうことになった。 よって、ここにめでたく佐賀一国は、鍋島から竜造寺家へ戻すことなく、直茂の子孫があいついで、それが明治までつづいた。 このため滅ぼされた竜造寺の遺臣が、しきりに怨み、「御家横領は、寧子の祟り」ということにして、鍋島ねこ騒動とか隆信が討死した原因が有馬の裏切りによると、有馬ねこ騒動といった話が語りつがれた。(「戦国意外史武将列伝」に詳細にでている。) このため本物の猫族がどれ程の迷惑をこうむったか計り知れない。さて、話は前へ戻るが、この佐賀弁でいう、「ええことし」の鍋島直茂の伜の光茂に、山本常朝は仕えていたのだから、(自分も巧くやって、ええことしよう)と家老になろうとしたところ、その光茂から、「慰め方に使っている其方ごときに加増は遠慮ゆえ、志までに呉れてやる。年より(老臣)どもへの礼はいらぬ」と夜具だけ貰えた。 そして、その後は期待したが何の音沙汰もなく、ついに光茂に死なれてしまい、新しい主君の替わったから追放同然となった。 だから山本常朝の、『葉隠』の中の、「あわれ昔ならば、この蒲団をしき夜具をかぶって追腹仕るべきもの」といった心境は、本当は和辻哲郎や古川哲史の、ご都合主義の解釈とは違い、それは、(口惜しさ)の発露でなくてなんであろう。なにしろ夜具を一組あてがわれて死にたくなる話は、『廓物語』にでてくる江戸時代の、吉原へ初めて女郎に売られてきた十六歳のたねとよぶ少女が、最初の客をとらされたあと、首を吊る哀話と同じでしかない。 さて、黒土原へひっこんだ山本常朝は、「もはや俺は人生の落伍者だから、この葉隠れに埋まってゆけばいいんだ‥‥」といった自嘲精神で、その表題につけたのか。 それとも佐賀では(藩祖直茂公が竜造寺の三十五万石を、めでたくそっくり頂戴できた由縁にもとずく)と、『葉隠』とは結構な言葉なりと題名にしたか、そこまでは判らない。 しかし戦国時代の資料では端隠れとか、「葉隠れして押寄せて参らず」は、敵を軽蔑する形容詞に使われている。つまり現代の、「ひよる」という言葉と同義語らしい。だから、これを武士道の聖典に用いるのならば、「葉隠れする者への書」とでもしないことには、すこし可笑しくはなかろうか。 「葉隠れ武士道」などというのは、歴史的にはナンセンスでしかないことになる。日本には松下村塾で吉田松陰が用いていた、立派な武士道精神を伝える各書があるのを、どうして史家は勉強しないのだろう。戦国確定史料『当代記』でさえ読んでない老人の歴史家もいるから無理かも知れぬが「奴隷の思想」の押売りは困りものである。 が盗作というのは何も今始まったものではない。佐々木味津三でさえ「改造」に書いた歴史創作物を、事実のごとくとられ、一年後のS誌で、Kに盗用されたのを難じたあとに続け、世にいわれる歴史なるものの大半は、(この場合のごとく作り話を他人が失敬してこしらえた)嘘と出鱈目ではなかろうか。 古事記の稗田阿礼でさえ一個の物語作家だったろうし、歴史はくり返すというが、もっともらしい嘘や出鱈目が盗用され、やがては<正史>になってゆくのだろう」と、今から四十四年前にすでに「歴史の虚妄性」をといている。 つまり佐々木味津三がいいたかったのは、「盗作はもってのほかだが、こと歴史関係に関しては、嘘や出鱈目も読みとれず盗用する輩が、正史さえ誤る者だ」の意であろう。 さて、半世紀後の現代。堂々とテレビ放映で、「盗作だァ」とブラウン管に写された歴史屋さんがいる。彼の著の『埋蔵金』の本に対し、畠山晴行氏が自作の『埋蔵金物語』の原著と風呂敷包み二つの資料をもって対決し、「あなたが、その中で失敬しているのは、私が面白くご愛嬌に作った話だ。それをそのまま引き写しでは‥‥こりゃオール盗作だ」 笑いながら繰り返しヤユされ、相手は無言のまま顔を伏せてしまった一場面がある。 畠山氏が流行作家なら新聞種になったろう。が歴史屋さんの方が売れている人なので、このハプニングはそのままで終ったが、同氏の本の広告はそれっきり出なくなった。 さてこれは埋蔵金の話だから、畠山氏が昔かいたのを古本で見つけてきて盗作しても、たいして一般的には害はないかも知れぬが、この先生は大学で歴史を教えているし、「歴史」種の刊行物が多いから、こときわめて厄介である。なにしろ日本には事大主義というのがあって、大学の教授だの文学博士だというのが権威をもち、一個二、三百円の土碗でもそういう人が箱書をすると十万円にもなり、また、その著の中で片っ端から、「名物」といったリストへ色んな名称を並べ列記。 それに合わせたものは数百万円にさえ土碗がなり、古道具屋さんが儲かるという。こうなると盗作だけでなく、ジイドの小説の題名みたいなことにもなりかねない。 ☆ ☆ ☆ つまり、葉隠れ武士道とは、戦場に行かずに、主家を乗っ取ることで、ゴマすりの書である。実際の戦場の話よりも、このような妄想の話が一人歩きするのは、歴史家が権威に胡坐をかき、いかに怠慢であるかが伺える。
2013年03月15日
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前回は、多様な価値観が多様な文化を生みだし、経済的な利益を上げることを、八切止夫作品集からの歴史考察から示した。 戦国時代は、いまでいう都道府県が、国として独立していたので、多様な価値観をもっていたことは言うまでもない。いまでも、各地方に方言が残っているが、方言は、多様な価値観の反映であった。 中央集権化は、確かに一部の覇道者に莫大な利益をもたらしたが、多くの人々を犠牲とし、死に追いやり、画一的な価値観を植えつけた。画一的な価値観を植えつけることで利益を上げた武士階級は、そのために滅亡した。 例えば、当時の市場経済の一端の闇経済を担っていた茶道をみれば、そのことがよくわかる。茶道は、八切止夫作品集では、当初は博打だったという。さしずめ、いまでいうなら、裏カジノのことだろう。茶道が莫大な利益をもたらすので、信長は、堺の商人を接待して、茶道に入れ揚げた。 茶道が莫大な利益をもたらした反面、博打なので、家を潰す者も多く、リスクが大きいということで、利休のワビサビの茶道ができたようだ。茶人は、カジノディーラーである。博打の茶道を、いまでいうところの豪華なキャバクラとするなら、利休の茶道は、喫茶室や喫茶店みたいなものだろう。闇から毒を抜き取り、健全化した。 秀吉は、利休の茶道、つまり喫茶店や喫茶室に我慢できずに、再び、公営カジノのような豪華な茶道で、莫大な利益を上げようとし、唐討ち入りまで考える。秀吉の思想は、いまの世界統一政府を目指すサンヘドリンに近いといえ、そういう意味で、秀吉は極悪人である。もしかすると、サンヘドリンの意向を汲んでいたのかもしれない。 しかし、イエズス会は、秀吉の目論見を見破り、朝鮮征伐の際に、硝石の日本への輸入を打ち切る。さながら、大東亜戦争のときのABCD包囲網の石油輸入禁止と同じである。 八切止夫作品集によれば、立身出世の好感度な秀吉像は、明治政府が、朝鮮征伐(日韓併合)の際につくったものだという。 この秀吉像と同様に好感度な武士道というのも、明治政府がつくった幻像ということを、八切止夫作品集から、抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ ああ誤読 読みを誤るというと、まことに感心させられるのは、戦争中に、『葉隠』をひろめ、「葉隠れ武士道」とか「葉隠れ武士山本五十六」などといいだした歴史屋たちである。 私のような軽率で早のみこみの者は、そそっかしく誤読というのもあるが、頭のよいはずの人が、どうして間違え読みをするのであろうか。そこのところがさっぱり判らない。 それも戦時中だけの戦意高揚のためにといったテーゼのため、血走った眼でよんだせいなら、その為かとも思えるが、戦後二十余年たった現代に、またこの誤読という怪物は復活しかけている。なんの理由によるのだろう。 あまり利口ではない私は、どうしても、「新軍国主義の再現」と畏怖してしまう。 私だって子供の時はヘイタイさんは好きだった。そこで恐れ多いが、陛下の名を叫び、「バンザイ」と叫んで死ねるのを理想となした少年の日もあった。ところが戦時下になると、女と歩けば交番へよびこまれ、聞くに堪えない露骨な職務尋問をされ、喫茶店で煙草をすっていただけで殴られ、豚箱へもってゆかれて、補導だと蹴っとばされたものだ。 どうして虎の威を借る官憲というのは、いつの時代でも学生を目の仇にするのだろう。 それに南洋群島へ行っていたとき、「軍事務員」の美名で応募してきたモンペ姿の少女達が、軍慰安婦に廻される前に、「臨検」の名目で南洋庁警官に初夜権を奪われていたのをも、私は実地にみている。 だから戦争という錦の御旗が揚げられ、人民がそのため苛められる時代を臆病者の私は恐ろしく想うし、新しい軍国主義の片棒をかつぎお先走りせんとする輩へは反感を抱く。 『葉隠』などを、今さらもちだしてきて、「この無私の徹底した厳しさは、読む者をしておのずから心のひきしまることを覚えしめる崇高なものである」と臆面もなく書きだし、「葉隠との対決の中に、われわれの新しい倫理を追求することであると思う。 対決は抹殺することではない。対決を通して葉隠のもつ様々な可能性、特に心情の無私性を追求するきびしさが、われわれの内に新しく行かされてゆくであろう」と「伝統と現代」誌にかく、東大助教授の相良氏らもいる。 私は悲しく泣き声で、「またですか‥‥」と抗議をしたい。そしてひらき直ってそういう筆者に、「星二つで売られている岩波文庫のものや、現代語版が徳間書店から刊行され、多くの人がよんでいるのを知っているか」ときき、「その葉隠聞書第二の最後の百四十条を、あなたは読まれているのか。誤読というよりそれは今日の一部の批評家のごとく、自分の営業に都合のよいものだけに眼を通し、後は一切瞑読するの類ではないか」と借問(しゃもん)したい。 というのは葉隠の原作者は、その個所に、 「奉公の至極の忠義は主人に諌言し国家を治むる事なり。下の方にぐどつき廻り(出世せず身分の低いとこで這い廻っていても)益々たたず。しかれば家老になるのが、奉公の至極なり。私の名利(冥利)を思わず奉公名利を思うことぞととく胸に落ち(納得)、さらば一度は御家老になりてみるべしと覚悟をきめ」 と書いているからである。つまり当人の山本常朝が、現代の専務や常務に当る家老になりたくて、猛烈社員ぶりを発揮したのだと、正直に書いているのを、何故その通りに東大助教授はいわず、それを包み隠し、つまり、(立身したさ)(出世したかったのだ)と当人がはっきり明言しているものを、「葉隠のこの無私の追求の徹底したきびしさは‥‥」と、無欲の行為と称するのだろうか。 こんな講義では私もゲバ棒をもつだろう。 さらに続けて本人の山本常朝は、 「もっとも早出頭は古来のうじなく(封建制は家門制ゆえ、自分が家老の家柄に生まれついていれば、労することもなく早くからお召し出しになれ、そのポストへつけもしようが、自分は塩売りにやられそうになった程の身分いやしき出身で士分ではないからして)なんとか五十歳になってからでも、(殿のお眼鏡にかなうて立身できるよう)仕立て(用意のために計画をたて)申すべくと呑みこみ、二六時中工夫修行にて骨を折り、(女ではないから)紅涙までにはなく候へども、黄色などの涙はいで申し候程にてそうろう」 とまで書いている。 これは、「塩売りにやられかけたのが小僧役として召され、小姓にまでなれ書きもの役にもなれた自分は、ついているかも知れないと思った。そこで人一倍働いて、その猛烈さが認められるものなら、立身も不可能ではなかろう」といった士分の出でない山本の心境である。 これは、現代ならば、「給仕に採用されたが定時制高校をでたら正社員に抜擢された。この分でゆくと自分は認められているから、猛烈社員ぶりを発揮すれば、五十五歳の定年までには、係長課長部長と立身し、専務になれるかも知れんぞ」といったところでもあろう。 ところが、「しかるところに御主人におくれ(肝心な殿さまに先立たれ)兼々出頭仕り候者はすくたれ(亡き殿の側近に仕えていた者共は、新殿さまになると遠ざけられてしまい)御外聞を失ひ申し候につき、かくのごとくまかりなり候(新殿には新殿の側近がいるから、それらの者に交替されお役扶持が召し上げになると、自分のような小禄ものは本俸よりもお役手当だけで生活していたのだから、こうなっては対外的な附合いも経済的に不能になり、今やこうなっては致し方とてなく自分は、お城の北にある佐賀郡金立村黒土原に、掘立て小屋をつくって暮すようなことになってしまった)といった具合に彼は落伍者になってしまった状態をのべている。 そこで彼は失意落胆した後は、講談本なら、「おれ程の男を‥‥」と、まだ五十二歳ゆえ他へ再就職にもゆけたろうが、鍋島の国法は、一度でも扶持を与えた者は有事にそなえて、在郷軍人制をとり国境を出さずとじこめにしていた。そこで、むしゃくしゃしながら彼は、負け惜しみもあったろうが、 「本意はとげず候共(家老になろうとしたがはたさず、出世するどころか先君の死と共に放り出されてしまったが)しかと本意をとげ申し候こと段々咄(はな)し申してその通りに(聞書第一に、武士道というは死ぬことと見つけたり、つまり仏家でとく捨身立命説のごとくに、おれは家老になりたいと思えばこそ、よい所をお目にかけようと死にもの狂いに働いたいきさつは話ずみだが)思い立つと本望をとぐるものに候 (男というものは一端こうと心に決めそれに努力してうちこんだら、よし成功せず一生がむだになったとしても、それは悔いることではない。1970年代の若者でも詩人になろう作家になりたいと頑張って、なれない者もいようが、自分で努力したという確信さえ持てれば後悔することはないし、男として耻しがることもない。何故ならば悔いても始まらんからである。つまりいうではないか。男は諦めが肝心と‥‥)」 と書きつづってから、「まことに身の上話が(肥前一国三十五万七千石の家老になりあがろうなどとは)高慢のように候へども奥底なく不思議の因縁にて‥‥」と、その聞書の第二は終了している。 だから私と同様に東大助教授も頭が悪く、それで誤読をしたにしても、まともに目を通していたら、呆れるよりも、怖しい話である。だからして、「そこには何か‥‥意企されたものがあるのではなかろうか」私は心配になって、おろおろしてしまう。とても怯えるからである。 新渡戸稲造の『武士道』が、名著であっても、それが、軍国主義の経典でしかないことは、中央公論の『切腹論考』に詳述したが、それとこの『葉隠』が故意に誤読され、世にひろめられる時点では、私どもはそこに何を迎えるのだろう。思うだに慄然とさせられる。それに対し、ただわれ泣きぬれて何を書き何を叫べば、それを防げるのだろうか。 ☆ ☆ ☆ 要するに画一的価値観による洗脳である。
2013年03月15日
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以前、江戸時代の代表的な悪法の、生類憐れみの令が、西方極楽浄土の門徒による、薬師寺系の東光信者に対する嫌がらせであったことを、八切止夫作品集から抜粋紹介したが、この生類憐れみの令は、捕鯨制限や、昨今のTPPと非常によく似ていることに気づく。 生類憐れみの令は、皮はぎという東光信者の専売業を禁止したいために、考え出された悪法であったが、捕鯨制限は、自分たちが生産した牛肉を売る市場獲得のためで、TPPは、市場から日本企業を締め出したいためであることがミエミエである。 自由競争という標語を掲げながら、裏でインチキしていることになる。 例えば、TPPは、いかなる制限も設けないという制限を設けているわけで、論理的に矛盾している。制限を取り払うことも制限になることに気づいていない。要するに一方的な価値観の押し付けにあたる。 確かに、押し付けられた方は一時的に弱体化し減少するだろうが、かえって質的に、高度なものになることは、抗生物質投与による耐性菌や耐性ウイルスの増殖から明らかなのである。 しかも自分たちに都合のよい条件を押し付けることは、自分を甘やかし堕落腐敗させることになる。あらゆる宗教は、人生を修行の場ととらえているが、自分を甘やかすというのは、神の教えではないことになる。ソクラテスの魂への配慮にも反する。十戒の「偽証するな」にも反している。 実際、生類憐れみの令のせいで、幕府と庶民の間に疑念や怨念が生まれ、水戸黄門のような英雄待望論へとつながり、世直しから、後の討幕になり、武士階級の崩壊となった。 なによりも、経済というのは価値観の相違から生まれるからである。価値観が異なるから、それにあわせて、モノを変換することで、利益が生じるのである。 だから、逆説的にいえば、画一的な価値観からは、利益は生じない。その証拠に、人口が多ければ多いほど経済は豊かになるのである。様々な価値観があるからこそ、その取引きにより利益が生じるのである。 例えば、昨今の日本のデフレの真相は、価値観の画一化にある。どの商品も似たものという価値観があるから価格競争に陥ってしまうのである。そこで、企業は、新しい価値観をつくるために、商品に付加価値をつけ、イメージ戦略をとる。 イメージ戦略は、宗教の教義となんら変わりはないから、CMという手法で洗脳をはかる。しかし、イメージはあくまで仮想のものなので、いずれそのバブルははじけ、実は洗脳という手法で価値観が画一化されていることに気づく。だから、どのニュースやどのTV番組をみても似たようなものばかりということになる。そして視聴率やタレントの露出度などが、洗脳の手法として重宝される。 価値観が画一化されているから、その上に何を築こうが、無駄な徒労に終わるわけで、虚像の上に虚像をつくることになる。そして最後には負債が残されることになる。 そのことは、歴史の通説と、これまで行ってきた八切止夫作品集からの歴史考証の違いからもわかる。 例えば、戦国時代の美女は、現代の美女とは異なるからこそ、戦国時代が、現代において利益を生み出すべき価値をもつ。 カリブ海に棲む海水魚を、都会の人が観賞魚として飼うのは、価値観が違うからで、カリブ海の現地人は、都会人が、なぜ大金を払ってまでも海水魚を飼うのか理解できないはずである。 価値観が異なるからこそ、海水魚が商品になる。希少価値があるから、その分利益があがる。希少価値というのは、価値観の違いである。カリブ海に棲む魚も、日本海に棲む魚も同じ魚という画一的な価値観であれば、海水魚は商品になりえない。 では、価値観は何からなるかといえば、生活や人生における信用に他ならない。 信用というのは、経験からつくられ、歴史として記憶されるものだから、歴史考察が非常に重要だということがわかるが、この国のほとんどの日本人は、嘘八百の通説を信じて、画一的価値観に生きているから始末に終えない。
2013年03月14日
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八切止夫作品集を読むと、悪法と名高い、生類憐れみの令に対する民衆の怨念が、水戸光圀を水戸黄門に仕立て上げたことがわかる。 やがて、水戸黄門の評判は、幕末に、水戸烈公と被るようになり、水戸藩は、世直しを求める、尊皇攘夷運動の中心となっていく。 戦国時代と幕末がいまでも人気があるのは、立身出世物語として語られやすいからで、民衆の間に溜まってきた怨念が、英雄待望説へと価値転換されやすいからである。 価値転換といえば、経済である。価値がないものを価値のある世界にもっていくことで、利益があがるわけで、江戸時代と比べて、現代は経済社会といわれるが、価値転換の面で、果たして進んでいるのだろうか? さて、江戸時代までの経済といえば、主に宗教が役割を担っていたようである。 八切止夫作品集によれば、戦国時代の愛宕山が金貸しの窓口だったように、仏教や神道が金融機関だったそうだ。愛宕山の歌詠みも、金が工面される間の暇つぶしだったそうで、千の利休で有名な、茶道も、お茶の味を当てる賭博だったそうだ。 カネがなければ生きられないように、思想的な面ばかりが美化されて語り継がれてきているが、その内実は、カネ儲けでしかなかった。 茶道のワビサビは、あからさまのカネ儲けを隠すための方便だったようで、だから、秀吉の豪勢な茶道は、信長以来の利休のワビサビの茶道と衝突し、利休は切腹させられたようである。 なにしろ、利休の言い値で、茶器は評価が決まるわけで、まるで新興宗教の教祖である。売りはしないが、キリスト教の聖杯だって、単なる土くれの道具にすぎないものを偶像崇拝しているわけである。偶像崇拝を戒めているのに、この有様だ! 八切止夫作品集から、信長は、ワビサビの茶道を金儲けに利用したようで、弟の有楽は、堺での茶人接待に苦労した話が、語られている。 前回の中元の話を知れば、茶道の胡散臭さもよくわかる。だから、ある意味、文化とは、価値転換を図るもので、そのまま経済のカネを生む道具でもある。 そこで、別の面から、例えば、江戸時代といえば、数年前に、現代の医者が幕末にタイムスリップするドラマが流行したが、では、医療はどうだったのかを、再考するために、八切止夫作品集から、有名な平賀源内の話を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 平賀源内と人蔘 よくテレビや映画で、病人がでると町医が診察にきて、これは朝鮮人蔘を服用せねば助からぬといわれ、やむなく娘が身売りしたり、病人の夫の浪人者が殺し屋に傭われてゆく‥‥といった設定が時々みうけられる。 しかし、あれは嘘である。幕末の御典医で、明治新政府の軍医総監となった松本良順の、『懐古録』の中にもはっきりと、「府内(江戸市中)にて町医とし門戸をはる者は富士三哲を初め五指にたらず」とある。 つまり当時人口が何百万もいた江戸でさえも、それ位のものだったから街道すじの宿場になど、めったに町医がいるわけはない。 もしいるとすれば千葉周作の父のような馬医者が、博労の多い所に住みついていたくらいのものである。ではいつ頃から町医が増えたかといえば、御一新後のことである。明治六年から七年にかけ扶禄公債を当てがわれ放り出された侍は、士族の商法で失敗したのが多かったが、中には文字が読めて、『傷寒論』一冊ぐらいをテキストに開業した俄か医者もあった。 まあこれなら威張って頭を下げなくとも出来るというので真似する者が激増し、雨後の筍のごとく輩出した。 それに武家屋敷は慎(たし)なみとして弓に用いる矢竹用の薮を必らずもっていたので、「筍医者」とか「薮医者」の呼称はそこから出たのだが、維新前は病気だといえば、「拝み屋」なる者が御幣を担いで飛んできてお祓いをし、ご加持祈祷とよんでいた。 (家康の父も、この拝み屋の類だったそうだ) 現在の常識からすると、それくらいのことではたして間に合ったものか、と首を傾げたくなるが、そうした修験や行者は、野生の大麻草を乾燥させた粉末を常時携帯していた。 そして病人に部屋を閉めきり、香炉で煙らせ嗅がせていたから、七転八倒して苦しがっているのでも、今でいうマリファナ幻覚作用でモルヒネを注射したような鎮痛効果が現れ、すこし暴れてもすぐ落着いたものらしい。 話は脱線するが、道中師とよばれた連中はその粉を煙草に混ぜて、金の有りそうなのに吸わせ、暴れだしたりすると、「狐つきだ」といって騒ぎたて、混乱にまぎれて胴巻きを掻払って逃げてしまうが、後に残されるのは燃えかすの灰だけだから、「護摩の灰」とよぶのだと、二鐘亭半山の旅日記にもでている。 さて、話は戻るが、江戸時代にあっては、高麗人蔘とよばれたそれは大変貴重なもので、江戸では吹上御苑内と小石川の御薬草園で栽培されていたが、町医の手に安易に入るような存在ではなかった。 なにしろ御三家の水戸でさえ、光圀が特に乞うて将軍家より苗木を分譲して貰ったが、それでも遠慮して、「お花畑」と栽培地を称していた程である。ここは元治元年の戦で焼払われてしまったが、今でも町名としては残っている。 さて水戸光圀は、その長男松平頼常が高松十二万石をつぐ時に、内密に朱色高麗人蔘の根株を分け与えて持たせてやった。 もちろん水戸宗家でさえも将軍家へ気兼ねして、お花畑の名称で栽培しているくらいゆえ、「御林(おはやし)」の名目で高松では植え付けをした。これが今は栗林公園の名称で残っている。 さて、水戸藩祖頼房の曾孫にあたる奥州守山二万石松平頼貞の三男頼恭(よりたか)が、元文四年九月に高松第五代の城主とし養子に入ってきた。 「光圀公の御計いで密(ひそか)に分苗して貰った紅人蔘なるものが、栽培されているやにきくが、百聞は一見にしかず是非みたいものである」と二十九歳の頼恭は御林の中へ検分に行ったところ、水利の便がよくないのか気候の関係のせいか、あまり芳しくなかったらしい。 「紅人蔘というは高麗にても珍しい品種ものといわれ、本邦にては一般には御止め薬にて将軍家のみ用いられ、その効き目で男女合せて五十名余の子宝さえ、上さまは千代田城でもうけていなさる。何もそれにあやかりたくて申すのではないが、枯死させるような事があっては大変であるぞよ‥‥」 頼恭は厳しく家臣共にいいつけた。この結果、御典医池田玄丈が、「御林掛り」を兼務するよう命じられた。玄丈は四国では本草学の大家とされていた男だが、将軍家しか口にできぬような高貴薬の栽培改良には手をやいてしまった。 すると、去度浦の海防用の番船などを蔵っておく倉番の者で、きわめて有能な若者がいることを耳にした。そこで玄丈が引見すると、一人扶持つまり一日米三合だけの給与しかない小者にしては、学もあり弁もたつ。 そこで玄丈は、殿に願い出て、「四人扶持、お薬坊主」と破格な四倍の立身をさせてから、己れの助手にして御林の高麗人蔘の栽培に当てさせた。これが、「非常の人」とよばれた平賀源内である。 さて、これは天下の秘薬であって煎じて服用すれば、あの方も将軍さまのように強くなるが、頭の方もよくなると聞かされて、「そうか、馬鹿につける薬はない、とよくいうが、馬鹿でないのが呑めばもっと賢うなるのかも知れん」と源内は、己れが服用したいばっかりに、御林の中の小屋へ詰めきって、一心不乱に丹精こめ栽育をした。 テレビの「天下御免」ではザラメ砂糖を作りあげ、その褒美で長崎へゆくようになっているが、高松で精糖が成功するのはまだこれから一世紀も後の話で、ザラメのごときは明治の産物である。 では、何故に長崎へやって貰えたかといえば、高麗人蔘栽培成功のせいである。しかし、藩主頼恭の思惑は長崎でより良質の人蔘をというのであったろうが、それは無駄だったようである。その代り、源内は本草学の田村藍水の門に学ぶことができた。 当時は、支那本草学より脱却して、日本独特の本草学を開拓しようと、小野蘭山が、『本草網目啓蒙』四十八巻及び『本草記聞』十五巻を刊行していた頃である。 高麗人蔘を栽培中密かに自分も服用し、もって頭脳明晰になったと自認する源内は、「百嘗社」とよぶ山野の草木から鉱石まで研究する、尾張御典医水谷社中の荒井佐十郎の力をかり、彼なりに高麗紅人蔘の分析や、その実験に出精をしたものらしい。 が封建時代にあっては、将軍家だけのものとされ御三家の水戸や親藩十二万石の高松でさえ、内密にしていた紅人蔘を、源内ごとき民間人が研究するのは違法だったらしい。 「門弟の一人と殺傷沙汰を起こした」といわれるが、判然としない理由で投獄され、安永八年十二月十八日牢内で一服もられ殺されてしまった。 杉田玄白はその死を、「ああ非常の人非常の事を好む行いこれ非常なり、何ぞ非常に死せるや」と悲しみ、彼の友荒井佐十郎は「人蔘のため延命する者はあるが彼のごとくその為に死すは珍事」といっている。 まあ、この源内の実像にふれたかったら『源内捕物帖』でも読むのが手取り早いかも知れない。 ☆ ☆ ☆ というように、とても医療と呼べるようなものはなかったようで、しいて言えば健康法が医療、それも予防学となっていたようである。江戸時代は人身売買が行われていたので、医療などという概念もなかったのだろう。 戦国時代といえば、輪廻転生が信じられていたので、坊主にお布施をすることが、いつの間にやら、薬師寺系の坊主に祈祷願いをし、拝んでもらうことが、医療行為とされていたようである。
2013年03月13日
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前回は、討幕が幕末だけでなかったことを、八切止夫作品集から抜粋紹介した。島原の乱が代表的で、いまでも豊臣の反乱説として噂されるのは、討幕だったことを伺わせるのに充分だろう。 島原の乱を決起に、鎖国といわれる政策がはじまったのだが、それは幕府が硝石を独占して、他勢力の反乱を起こさせないことで、キリシタン追放の真の目的は、朝廷囲い込みであることがわかる。島原の乱を調べると、後の幕末に行われた長州征伐の要因がよくわかる。 島原の乱からわかることは、徳川草創期には、世良田二郎三郎家康の神道の出自を隠し、仏教勢力を懐柔することが幕府の目的だったわけで、その後の元禄に、神仏習合がなされ、薬師寺系が主流となっていき、吉宗の時代に、大岡の思想弾圧の秘密(宗教)警察が生まれることになる。 しかし、生類憐れみの令があまりにも悪法だったために、英雄待望論の水戸黄門が一人歩きしはじめ、大岡以来の思想弾圧という建前を重んじることで、幕末に水戸の烈公という私利私欲の如何わしい人物により、かえって幕閣は翻弄され、その子慶喜の野心とともに、公武合体は中途半端に終わり、幕府は自滅する形となる。 結局、庶民側からみれば、討幕というのは、水戸黄門が、大岡越前に勝ったことになる。 そこで、庶民側からみた、いまの経済問題にも似た話を、八切止夫作品集から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 中元は民主主義精神 「百科事典」の類をみると、正月と暮の中間だから中元で明治以降贈物をする風習が始まって、中元大売りだしなどというのが行われだした、となっているが、はたしてどうであろうか。 『唐六典』には、「七月十五日、地官為中元、懺侃(ざんかん)言罪」となっている。つまり一月十五日の上元は天帝に対し、供物をして寿ぐのだが、中元は地にある同じ人間どうしが、平素の交際における不行届をわびて、物を贈ってその謝罪をするのだ、というのだから明治時代というのは、とんだ間違いで、『唐六典』が輸入された平安朝以降が正しかろうと想う。 もちろん、これが形式的になりだしたのは江戸時代からのことで、『音物(いんもつ)問答』という文化年間の本では、「武家屋敷入口に敷台があるは、玄関に立つ時の踏台の用の為ではない。もしその用途なれば根太材を組み厳重にするべきだが、四方かまちのみで中央が空になっているのはその上の音をよく反響させる為なのである」としてある。 つまり、これは挨拶のことを色代とかき、しきだいと訓するごとく、訪問客が手土産持参の節、昔は銭束が多かったので、どさりと敷台に置くと、その目方でおよそどれ位か音で判るゆえ、取次の申次衆は聞き耳をたて、(まだ不足)と思えば知らん顔をしていて、追加して重くなった音がきこえてくると、「‥‥どうれ」と初めて案内に出たもので、今の世に、よく銭を追加するのを、「色をつける」などというのも、色代から始まった言葉なのである。 「音信不通」などと沙汰のないことを言うのも、その音は銭のことをさして、銭も送ってこねば便りも来ぬというのである。 さて近頃流行の辻講釈まがいの歴史ものでは、「武人不愛銭(ぜにをあいさず)」などというものがあるが、あれは見てきたような嘘をついているので、江戸時代には七月の声をきくと日本橋本阿弥邸などに行列ができるのは、切紙を求めに諸家の用人などが集まってくる、と『江都歳時記』にも出てくるぐらいである。 これだけでは今の人には判るまいが、江戸時代に本阿弥家の切紙が中元にもてはやされたというのは、鰹節の切手やデパートの商品券が贈答用になったというのではない。 武士にとって、槍は攻撃用具だが、刀は「打ち刀」と古来よばれるように自己防衛の用具だったから、この刀を贈答品にするというのが、好適のものとして喜ばれたらしい。 が、刀には勝手に銘を切りこむ贋刀、つまり盗作も多いので、良いと思って贈っても、それが不良品だったら反って逆効果になる。 だから本来は、本阿弥のような専門目ききの鑑定書をつけて贈るのが、心得というものだった。しかし、ここが難しい処で、とかく人間はそうした立場になると、悪いことをやりたがるもので、江戸中期の本阿弥の何代目かが、目ききの鑑定師の立場なのに、目がくらんで盗作をやってのけたのがいた。 刀の銘を切り替えたか、贋と承知で証明書をだしたか判らないが、やってしまったのである。 こういう事は現代でも文学博士の肩書で、道具類に対してそういう事をして儲けているのもいるし、最近の某新聞の第一面に、八段抜きで、「読者をなめた丸写し、堂々月刊誌に発表。形なしの某は、この盗作に関しては、非常にはずかしい、この問題によって、どんな社会的制裁を受けようとも仕方がないことだ、といっている」と、それまで東京新聞の中間小説時評を担当していた、いわば目きき鑑定役でもある批評家である男が、自分で盗作騒ぎを起こし問題になっているが、江戸時代は社会的制裁を受けるどころか、そうした際は自分で制裁をしなければならなかった。 幸い刀の手持ちは沢山あったから、何代目の本阿弥さんは、一本を腹へ、一本を咽喉へ、そしてもう一本を心の臓へつき刺し自決してしまったそうである。すると、これが、「一刀でも痛かるべきに三刀も刺すとは、さぞや苦痛であったろう」と同情をひいた。なにしろ日本人は死にさえすれば、その罪を憎んでその人を憎まずといったモラルがあるから、本阿弥家はその儘で続くこととなった。 しかし、そういう事があった後ゆえ、代は変っても、鑑定書を貰っても、どうしても疑心暗鬼になり勝ちである。 そこで、本阿弥家では面倒ゆえ、証明書をつけるのは止めにして、「一金五十両也、右金員引換えに何々銘の刀を引換えまする」といった切紙をだした。 もちろん、五両、十両の贈答用にもってこいのも、どんどん切紙を作製したから、中元の季節になると門前に行列ができた。 というのは、なにしろ天下泰平の世では、「貰うのはよいが、だからといってたえず手入れしたり、時々は研ぎに出さねばならぬ実物は厄介千万である」と、その切紙を持って交渉にゆくと、本阿弥家でもなにしろ実物でなくて紙切れにすぎず、金準備高を無視して乱発している何処かの国の紙幣のようなものだから、(本物と交換といって来られては困るが、金で引換えるのなら願ったり叶ったり)であるからして、「これは十両の切紙でございますな。当方の手数料を一両二分引かせて頂き、はい八両二分どうぞお納め下さい」と、すぐ現金払いに応じた。 こうなると刀剣鑑定は看板だけで、手形割引業のようなものだが、贈る方も貰う方も、手数料はとられてもこんな重宝な事はない。 だから中元は本阿弥の切紙は便利がられたが、不思議に下元つまり暮の御歳暮には用いられなかった。恐らく現金のやりとりゆえ年の暮は露骨すぎるので、贈るのをどうも慎んだものらしい。 が、それにしても盗作批評家の本阿弥何代目かは、まこと都合のよい贈答システムを残したものである。 というのは現在フィリピンの学校用の歴史の本に、「今日のわが国にワイロ、ゾウワイの悪習が、はびこっているのは、アメリカが占領中に、これが民主主義であると教え、おしつけていったプレゼントの慣行から起きたものである」と明記されているけれど、そのワイロを贈るのが民主主義政治のあり方の根元であるなら、これくらい体裁よく格好のよいワイロはないから結構なことである。 ☆ ☆ ☆ 上の「なにしろ実物でなくて紙切れにすぎず、金準備高を無視して乱発している何処かの国の紙幣のようなものだから」とあるように、どの時代でも、米国政府のドル紙幣乱発の量的緩和政策(QE)のようなことは行われていたのである。 なにしろ、ワイロを、民主主義と標榜する米国政府が、1%の金持ち(詐欺師)たちに仕切られていることが、その証拠なのだから。
2013年03月13日
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八切止夫作品集を読むと、過去も現代も、その中身において同じことがわかる。つまり、現代の問題も、煎じ詰めれば、過去にあった出来事に還元できる。 いまからみれば約300年も続いた江戸時代が、いかにも平穏無事な時代のようにみえるが、それが幻想にすぎないことが、現代の日本の表明上の平和からも明らかである。 確かに徳川幕府体制は変わらなかったが、討幕の危機は、幕末といわれる時代だけではなかったことが、例えば、八切止夫作品集の島原の乱の話からわかるので、抜粋紹介する。 八切止夫作品集によれば、島原の乱は、キリスト教とはほとんど無関係な討幕の出来事であったそうである。 ☆ ☆ ☆ 島原の乱は切支丹か 「丑(寛永十四年[1637])十二月二十日ごろ、天草領内の者ども何事かは知らず騒ぎたて候につき、二十二日より代官その他の村役の者々をつかわし取調べ居りし処、二十四日に至りて男女三千人程、有馬村に集結の由。同心松田兵右衛門に侍八人相そえ差し向けたが、二十五日に有馬村八郎尾と申す所にて、一揆のごとく騒ぎたてるときき、代官林兵衛門はみな殺しにしてしまえと下知す」 というのが発端で、島原城の松倉勝家の家来と、鉄砲で装備された一揆が衝突し、島原の一衣帯水の天草島では、益田四郎をもりたてた一隊が蜂起し、合計一万二千が唐津の富岡城へ押し寄せた。そこで江戸表から板倉重昌に目付石谷十蔵をそえた征討軍が送られてきた。 しかし一揆は、島原半島の端にある原城へたてこもってしまい、その数も二万を越し、寛永十五年[1638]正月元旦の二度目の総攻撃で、板倉重昌は銃弾に当って即死[というのは表向きの発表で、一揆側の落とした大石に潰されて即死という記録も残っている]。当日だけでも討手の損害は、討死手負い四千余名、城の一揆方は九十人と、『徳川実紀』にでている。 ニコラス・クーケルバッケルの指揮するライプ号は、その十五門の積載砲をもって、一揆のこもる原城を正月十日より二十五日まで砲撃し、二十八日に弾丸を射ちはたして平戸へ戻り、翌二月二十七日に原城は陥落したというが、キリシタン一揆をキリスト教国の軍艦が砲撃という事があるだろうか。 もし、そんな事をしたら、ニコラスだけでなくライプ号の乗組員一同、みな故国へ戻ればその教会から破門されてしまうは眼にみえている。 現在と違い宗門の権勢の強かった中世では、キングと名のつく人でさえ、破門とか脅かされれば雪中で一晩中憐れみを乞うて侘立していなければならなかったというから、ニコラス以下もし如何に利をもって誘われたにしろ、異邦人の国へきていて、徳川家の為に、もし島原城に天帝の旗がはためいていたものなら、半月もの間に亘って連日これを砲撃などするわけはなかろうと想われる。 しかし日本史では、益田四郎時貞が、天草四郎と名のって信徒を集め、賛美歌を高らかに斉唱しつつ抗戦したというのだから、てんで辻つまが合わんのである。 それにいくら徹底抗戦といっても限度があるし、攻める側にしろ殺人鬼でもない限り、同胞なのだから女子供まで殺掠すべき筈はなかろうと思うのだが、この島原の乱にあっては前もって降参して裏切りをしていたとされる山田右衛作一人の他は、嬰児まで皆殺しにしている。 もちろん日本史では、彼ら篭城者は自分から殉難の道を選び、一人と雖も降人する者はなく、みなみずからの命を絶ったといわれている。 しかし百人や千人ではない三万人からの人間がいたのである。 人間は十人いれば十色という。どうして三万からの人間が各個撃破の落城時において、みな同じように揃って自決という単一行動がとれたものか、疑わしいと思うのは、それは僻みだろうか。 玉砕と伝えられた激戦地でも、サイパンや沖縄でも、死のうとして死ねずに助かってしまい生き延びるのを余儀なくされた多くの人がいた。それを思うと手榴弾のように叩きつけたら、即死できる可能性のものを渡されていなかった筈の何万かの老若男女が、自分らから一人残らず潔く死についたという記録には信じがたいものがある。 つまりこれは、みな死んでいたとは、‥‥命令で皆殺しにされたものとして思えない。 本来ならばこうした叛乱事件は最終的には殺してしまうものでも、初めは生存者はみな押さえ、背後関係とか色々よく調査をし、そしてそれから処分するのが常道である。なのに何故か、初めから皆殺しというのは、一人でも生かしておいては、何かそれらの口から洩れては困ることが攻撃側の体制軍にあったのではあるまいか。 さて、事件勃発に遡って、この島原の乱で見逃され、そして誤られている点が二つある。 最初に、一揆のたてこもった原城が、「原城跡」とか「原の古城」とよばれ無人の廃城のような受け取り方をしている事である。しかし実際は、そうではなかった。 信長の存世中はマカオ・堺間に年一回の定期航路があったが、彼の爆死後イエズス派が追われる形で、フランシスコ派がそれに代りつつあったから、秀吉の代には口の津がその港であった。これは『フロイス日本史』などにも、「口の津発」とでてくる地名である。そして、そこの津にあったのが原の城で、そこは輸入硝石の集積所だったのである。 だからして其処を押さえた一揆方は、緒戦から火器を多く揃えて、現地の侍の討伐隊を手もなく追い払い撃退していた。 つまり彼らが強かったのは、熱狂的な宗教心の為ではなく、火薬庫を押さえていたせいなのである。 次に、口の津は、当時の外人の溜り場だったから、そこにはフランシスコ派にしろイエズス派にしろ、必ずや青い目の宣教師やその他の南蛮人がいた筈である。 だったら彼らは、天草四郎時貞といった少年を担ぎ出すより、その異邦人達をこそ主将として、「キリシタン一揆」ならば立てるべきだったろう。その方が篭城している者の士気を鼓舞したろうし、また、日本人より外人の方が、「神の御名は讃えんかな」と扇動するにしても効果的だった筈である。なのに一揆はそれをしていない。何故だろうか。 この戦いでの一揆方唯一の投降者である山田右衛門作は、「こういう旗をたてていた」と、キリシタン一揆であることを証明するように、デウスの旗をかいている。これは、証拠品とされて、「天草四郎の旗」として今も残っている。 しかし、おかしなことにその絵旗は、イエズス派やフランシスコ派というったカトリックの物ではなく、プロテスタントつまり新教の、「カルヴィン派」の、それは旗なのである。 カトリックが種をまいた地方で、神の御教えを守って彼らが殉教のために、三万余が玉砕したものなら話も通じるが、プロテスタントの旗をたてて戦ったというのでは辻つまが合わない。例えていえば、「南無妙法蓮華経」の日蓮宗の旗をたてて、本願寺派の門徒が戦をしたようなものだから、てんで変てこなのである。 だからして日本の、「長崎二十六聖人処刑」というのは有名で、海外でも取上げられているのに、その千倍以上も殉死したことになっている島原一揆が、まったく無視されているというのも、その理由はこれである。 もし伝えられているようなキリシタン一揆なら、せめて、「十字架を首にかけ捧げもっていた事になっている天草四郎」一人だけにでも、ヴァチカン法王方より、「聖人(セイント)」の称号ぐらいは出されてもよい筈なのに、放っておかれているのは、やはり理屈に合わず殉教とは認め難いからであろう。 これは宗教問題であるから、日本史よりもローマ法王庁の見解に従えば、「島原の乱はキリシタン一揆ではない事になる」のである。 だから、その当時も、キリスト教国オランダのニコラス・クーケバッケル艦長は、ライプ号に砲弾をあるだけ積んで、平戸から島原を攻撃しにゆき、二週間にわたって撃ちまくっている。 もしキリスト教徒が異教徒の迫害に対し、レジスタンスをしていたものなら、クーケルバッケル艦長は、一揆の応援をして徳川勢へ弾丸を飛ばさなければ、本国へ帰ってから教会より破門をうけて、「悪魔に味方したサバトの一味」として処刑されたろうことは間違いない。 またライプ号の乗組員一同も、一揆の連中がデウスの御為に戦っているものなら、それを半月も腰を落ち着けドカパン撃っていられたろうか。 つまりこの真相たるや、「一揆側は、口の津へ乱入して、その当時は硝石の輸入業者をかねていた青い目の宣教師を、みな殺しにして火薬庫を奪取した」のに起因していまいか。だからこそ、その仇討ちに、ライプ号も攻撃側に協力したのだろう。 しかしである。徳川方では、こうした騒動が各地に波及しては困るから、局地解決をして他へ伝播しないように、後に切支丹くずれも加入しにいっているのに眼をつけ、これを一緒くたにして、「キリシタン一揆」としてしまい、その裏づけのため、クーケルバッケルから借りた聖旗を、山田右衛門作に、模写させたのだろうが、その際、「キリスト教に新教と旧教の別のあること」まで、さすがの智慧伊豆も気づかず、オランダのカルヴィン派のものを今に残してしまったのだろう。 さて松平伊豆守が、なぜ、そのような窮余の手をうち、『島原文書』として残されている当時の公文書に、みなキリスト教徒の叛乱のような扱いをさせねばならなかったかというと、それにはそれなりの理由がある。 表面は紫下賜事件だが、その実は櫛笥(くしげ)中将の姫を寵愛なさり、御子を設けられたのが、徳川秀忠の娘和子の悋気にふれ、退位を余儀なくされていた後水尾上皇に、そのとき、「討幕の院宣を出される」という動きがあったからである。 もちろん徳川家は素早く数万の兵を京へ送り込み、用心して御所を取り囲んだ。この時、それら兵の慰安所として、それまで大角にあった廓が丹波口へ拡張されて移転。奈良本辻や大坂ひょうたん町の遊里からも女をよびよせ、でき上がったのが、今でも、「島原」とよばれる廓のあった地である。 さて、伊豆守の手腕により、島原騒動は局地的解決でかたがつき、上皇の院宣はとうとう出ずじまいで済んだ。 しかしそのうちに上皇と櫛笥中将の姫の間に誕生された良仁(よしひと)親王が、やがて後西天皇さまになられた。 さて、その頃、中将の末姫(見[貝?]姫)が仙台へ売られてゆき、そこで生んだ巳之助が成人し、「伊達綱宗」となっていたので、伝奏園地中納言をもって、帝は討幕の策をめぐらされた。 しかしそれも事前に洩れてしまい、「綱宗は二十二歳で若隠居を命ぜられ」やがて、帝も、そのとき十歳の霊元天皇さまに御即位となるのである。 しかし綱宗の志をつぎ原田会らは討幕に志すが、伊達家の佐幕派伊達安芸に訴えられ、「寛文十年事件となって、原田甲斐の伜や孫まで斬刑、母は餓死」という悲惨な結末をみるが、俗に、「伊達騒動は、島原一揆の後日譚」といわれる謎も、このことによるとみるのは誤りであろうか。 が、そうなると徳川家の立場では、島原の古城へ立て篭った輩は反体制の暴徒にすぎなかろうが、日本全体からみれば、彼らはかつて金剛や千早の天嶮によって後醍醐帝の御為に旗上げした楠木一族となんら変りがないことになる。 なのに皆殺しにされてしまって、もはや証拠がないからとはいえ、「切支丹一揆」といった扱いだけで葬り去られてしまうのは、余りにも哀れではなかろうか。 歴史というものは、その時の権力者によって、如何ようにもなるものだとはいいながら、島原で殺された三万の同胞が、時の天朝さまの御為に散華していったものなら、合掌してその冥福を心から祈らずにはいられないのである。 ☆ ☆ ☆ 八切止夫作品集によると、島原の乱が起こる前に、ときの朝廷が、家光に、朝廷の取り分を増やすことを嘆願し、家光があっさりと許可したのを、幕閣連中が問題視し、朝廷側を無視し続けたところ、島原の乱が起こり、あわてて鎮圧すると、今度は、家光を密室に閉じ込め、捨て殺しにしたという。
2013年03月13日
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前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ さて、俘囚の裔の原住系の中には武士となっている者が多いから、「暴動、一揆、叛乱」という心配をしたのだろう。それまで知行所に住まうことも、その行ききは自由だったのが、この元禄年間から禁止されてしまったのである。 やがて、この結果名主とか庄屋が、自分の宰領で年貢を出すようになったからして、武士を軽視しだし、天誅組の吉村寅太郎のような庄屋の伜が、「天皇さまの下に大百姓が揃って政務をとり、武士階級をなしにする時代」を夢みて旗あげするようにもなるのだが、これは後の物語である。 ☆ ☆ ☆ というように、生類哀れみの令は、弾圧されていた仏教徒の勢力巻き返しで生まれたようである。現代でいえば、さながら、「鯨を食べるな」の捕鯨禁止と同じものと考えられる。連中は牛肉を売りたいがために、偽善を振りかざしている。その証拠に、牛の生命は無視している。 連中の言い分は、「牛は沢山いる」というものだが、沢山いればいいのだろうか? それなら、金持ちは沢山カネをもっているので、カネを奪われても文句はいえない論理になる。偽善である。いつの世も、偽善者が悪法をつくるものである。 また「牛の知能は低い」という理由を持ち出すアホもいるが、それこそアホのいうことだと思うので、そいつの主張どおりに、そいつから抹殺すべきだろう。 つまり、生類憐みの令は偽善で、偽善が罷り通ると、弱者が割を食うので、やがて英雄待望論が一人歩きして、水戸光圀が水戸黄門になり、ついには討幕思想となった。 TPPも消費税増税も、似たような偽善の構図をもっていることがわかる。 徳川幕府は、出自が神道ということを誤魔化すために仏教徒に扮したが、仏教権力に阿りすぎて、かえって神道系の多くの庶民の不評をかってしまった。それら神道系の庶民が幕府を偶像崇拝しだして、水戸黄門が生まれ、幕府側なのに、水戸家が討幕の中心になっていく。 歴史を正そうとした御三家の尾張藩は、仏教権力に阿る連中から阻害され、御三家から外されてしまう話が、八切止夫作品集の大岡越前の話として載っているので、抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 虚像大岡越前 たしか『丹下左膳』にも、『大岡政談』というサブタイトルがついていた。そこで大岡越前というのは、自分から聞きこみに、こつこつ歩き廻ったり、危うい目に逢いながらも庶民のために正義の味方となってくれた名奉行、というイメージを今も一般に与えている。 処が、先年なくなった田村栄太郎の著では、「すべての出版物に弾圧を加えたのは、講談で馴染みの大岡越前であって、一般庶民の歴史常識、知識をまったくゼロにさせ、小説、演劇、講談といった出たらめな作りごとを、さながら史実のようにも誤認させた張本人は彼であって、 そうした徳川時代の愚民政策は、施政上都合がよいせいか今も続けられ、まったく噴飯ものである嘘八百の芝居や講談に、歴史の方が折り曲げられ合せられている。バカバカしい話だが有知識人と自負する人でも日本では講談常識の範囲でしかなく、それで頭がこりかたまっている。これも大岡のせいだ」と前置きがされてから、 「どんな書物であっても作者版元の住所実名を、奥書につけ奉行所へ差し出すこと。これまで通りのことは良いが、新説異説を唱える者は厳罰に処せられること。権現さまや徳川家を扱った場合は、直ちに重き刑にあう。やむをえぬ場合は前もって奉行所に伺い出てその差図を受くべく候」と、事前検閲制までとっていたと説明し、 「大岡越前を名奉行扱いしたのは、その後の出版業者が奉行所のミコをよくしようと、中国ものの翻案で大岡政談を作ったせいだ」としているが、さて、本当はどちらなのかということになってくる。 大岡越前守に対照されるごとく、やはり劇映画やテレビに引張り出される形の、遠山桜の金四郎こと遠山左衛門尉景元とは、彼の有り方はまったく違うのである。 勘定方上りだった遠山は、経済取締りをかねたが、その方針は、やはり司法警察だったろうが、大岡の方は徹底した行政警察なのである。 つまり彼は今でいう警察国家をまだ江戸時代なのに、世界に魁けて創造した卓越した頭脳と技倆の持主ということになる。 「武士は主があるを知って、主に主あるを知らず」とする封建時代にあっては、大岡は徳川家の御為だけを考え治安維持に万全を尽せばそれで良かったのだろう。彼の施政方針によって、日本の歴史が判らなくなったり、それが歪められてしまったとしても、それは関知せざる所であったに違いない。 とはいうものの、町奉行という文字面の観念で、そうした行政方面の辣腕より、もっと庶民的なものをと、今の人は感じたがるらしい。だからして、朱房の十手を腰にさして歩くような大岡の虚像を瞼に描きたいもののようだが、町奉行という職は、町のため住む人の為にと作られたものではなく、江戸時代にあってもそれは取締まるために、おかみが作ったものである。 だから今日のように、「税金で人件費を払っているから公僕」といった考えで、「大岡さまは江戸の町の守り本尊」と、マンガ式にみてはならない。 彼が名奉行だった一つは、中国でも秦の始皇帝しかやれなかった焚書を、彼は日本でも堂々とやっていること。 そして、まだ十八世紀の初頭の1717年(享保二年)に登用されると、すぐ今日の警察国家の形態を考え出した点であろう。 次に二十世紀に入ってから、万国ジュネーブ協定によって、出版物は奥付に著者名発行者名刊行月日をつけることが、赤化宣伝物横行防止のため、自由諸国間に取り決められ、現に吾々のみる本はみな奥付がついているが、驚くなかれ大岡越前守は既に1725年(享保十年)において、それを実施し法令化し、「前もって奉行所へ訴え出て、その差図こを受け申すべく候」と事前検閲制度まで施行していたのだから、立派なものである。 「泥棒、人さらい、掻払い」といった町民のための司法警察は、「主権在民」などといわなかった江戸時代の事ゆえ、放っておかれたので、日本駄右衛門の白浪五人男の台辞のように、「盗みはすれど、非道はせず」と、大岡越前は泥棒などは非道とはみず大目にみて、行政警察にのみ専心。 やがて彼は、「前の奥州梁川三万石城主にして、その兄継友の死後、尾張へ戻って御三家六十二万石第七代目名古屋城主となり、それまでの通春」の名を「徳川宗春」とかえた文学青年を、「不都合のかどこれあり候」と閉門にしてしまうと、すぐさま、室鳩巣序文、堀杏庵作となっている『石ガ瀬戦記』の二冊に、尾張宗春自身の名で出された、『温故知要』まで一括没取し、これを江戸表へ送らせ、ことごとく焼いてしまう弾圧ぶりを見事やってのけた。 何故かというと、これは、徳川の世も七代(八代)吉宗と、ようやくおさまり大磐石の安きに落着いてきた処へもってきて、「三河松平元康が家康さまというが、そちらは長顔で、尾張徳川家始祖義直公のため名古屋城が築かれたとき、実地検分にこられた権現さまは丸顔であらせられた」とか、「三河の家康さま[松平元康のこと]と浜松の家康さまが同一人のわけがない。何故かなれば石ガ瀬と和田山で二度まで対戦しておられる」 「三河の方はプロの兵だから強かったが、権現さまの方は伊勢の薬売り榊原小平太とか、遠州井伊谷の神官くずれや、渥美半島の木こりの大久保党、駿府の修験者酒井らの寄せ集めの者ゆえ、二度ともあっさり権現さま方は負けてしまわれたのである」 といった土地の故老たちの懐旧談を、いやしくも権現さまの玄孫にあたる御三家の当主、宗春の手で版木にされ、「徳川家康は二人だった」では、どうも公安上差支えたからであろう。 そこで御家御安泰のために、その版木は没取され、木はみな灰とし、宗春処分後も、尾張へはそれから代々養子をもって継がせるという、抜本根源策を越前守はたてたのである。 ついで大岡越前守が名奉行ぶりを発揮したのは、アメリカでFBIが創設されるより、百年も前にそれを日本で始めたことによる。 大名領、天領と分かれていたその頃の日本は、法律も各国ごとに違っていた。それを越前守は、街道という点と点をつなぐ線上において、全国を一つに結びつけ、これに公儀直轄の探索逮捕の網をはることにした。 享保二十年(1735)十一月十六日付で、大岡越前守は、街道筋を遊芸物売りで行商して歩く、昔の原住系で大道商いの、「道の者」とよばれていた連中の主だった者を集め、彼らに、「道中で怪しい者を見つけたら捕え、取調べ方を命ずる」 朱鞘の公刀に十手取縄を渡し、従来の地方警察制の上へ、新しく国家警察を設けたのである。しかし当人らは、十手を腰にさして、「ええ飴だ、飴だよ、金太郎さんの飴だよ」と太鼓を叩いて廻っても売れはしない。 それに捕物をするのには人手がいるが、飴屋や薬売りでは、その人件費の捻出は不可能である。 だから街道のやし[香具師]はいつしか縄張りをきめ合って定着し、現地の地方都市が競輪競馬のギャンブルで資金を作り、それが地方警察の建物をたてたり給料を払ったりするみたいに、賭場をひらく事にした。その方が儲かるし、子分を賭場では、「ええ寄ってらっしゃい、お手なぐさみに如何さまで‥‥」と客引きにつかい、御用の節には鉢巻をさせて、「やいやい神妙にしろ」と、くり出すことができ、一石二鳥にうまくゆくからである。 つまり映画や三文小説では、「二足草鞋の親分」という悪い奴の代名詞みたいにするが、あれは間違いで御用の十手を握るやくざの親分の方こそ、大岡越前守から命ぜられた国家公務員のFBIの子孫なので、いわば正統派なのである。 天保から幕末にかけて物価高と飢饉で浮浪人がふえ、もぐりのやくざが旅から旅へと渡り歩いたが、あれは半可打ちといわれた者で、「仁義」をきらせ、その生国や親分の名を、まっ先にいわせるのも、筋目正しい大岡越前守さま御免許の渡世人の流れか、もぐりかの鑑別をする必要上、うまれたものなのである。 さて、幕末文久二年(1862)になって、それまで朱鞘をさし、御上御用をやりながら賭場をしていたやしの親分が、抜刀が横行しだしたのに手をやき、昔ながらの、「神農さま」をまつる高市(たかまち)稼業一筋に戻ってしまうと、もう半可打ちも本可打ちもなくなり、博徒らは血みどろになって縄張りを守り拡張しようと斬り合いにあけくれするようになった。 天保あたりまでまあ波静かにおさまっていたのは、大岡越前守のFBI制で、博徒が御用聞を兼務していた賜物であったから、明治新政府も、「清水の次郎長に十手取縄」といったように初めはその真似をしたものである。 つまり俗に名奉行といわれる遠山桜の金四郎のごとき、町民に媚をうるようなげすとは違い、なんでもかでも権力で押しきってしまい、後年の模範ともなっている彼こそ、「能吏」中の能吏、徳川家にとっては他に比肩をみない名奉行であったといえよう。 ☆ ☆ ☆ というように大岡越前は、秘密警察や、やくざの産みの親ということになるので悪党の親玉が実像ということになる。
2013年03月13日
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前回は、戦国時代の女性が、通説とは全く異なり、またその人物像、特に戦国期の美女像が、現代とは全く異なることを、八切止夫作品集から紹介した。 戦国期といえば、約400年も前のことなのだから、美女の概念が変わっていて当然なのだが、美女はいつも美女としておきたい心境がどこからくるのか、戦国期の美女も、通説と同じく、現代風の美女につくりかえられてしまい、ネットで探すと、驚くことに、お市は、以下のように美女化されている。 確かに、こちらの画像なら、お市も、現代の美女にも仲間入りするだろうが、果たして、このように美女化されてしまうと、今度は、歴史的な意味のほうが怪しくなってくる。本多忠勝の証言の武家の妻女にお決まりのお歯黒と眉も剃っていない。 この美女化は、権威者による歴史の書き換えにも似ているし、人が恋をしたときの、相手に対する幻想にも似て、いわゆる妄想の類であることに相違ない。 例えば、お市が、もし現実的には不可能なタイムスリップでもして、現代に現われたら、美女化した画像の方を、ほとんどの現代人が、お市本人としてしまうことは明らかだろう。 だから、例えば、水戸光圀本人が現われ、自分が水戸黄門だ、といっても、恐らく、誰も、水戸黄門とは認めないだろう。現代人は唯物的なので、「証明してみろ」というだろうし、歴史を全く知らない人なら、「格さん、助さんはどうしたの? 印籠は?」と逆に質問攻めにあわせるに違いない。 このように、通説で実像が歪められているので、水戸光圀が、真相を話しても、頭がおかしい、としか思われずに、益々疑われるだけだろう。 つまり、タイムマシンなどが万が一できたとしても、通説で歪められ、例えば、美女化されている市が信じられている現代なので、本人であることの証明すらも不可能となるだろう。 美女だと信じられていた、お市が、実は不細工(現代からみれば)だったなんて、現代人は信じたくないからで、つまり、現代人は、通説を鵜呑みにし、偶像崇拝しているわけだ。 しかし、これは、視点を変えると、歴史的史実とは全く異なる妄想を鵜呑みにしていることになり、ある意味、恐ろしいことである。いわゆる新興宗教と同じといえるのではないか? 歴史妄想教ともいえる。死んでしまえば、どんな女も美女になってきたわけで、日本では、死ねば皆良い人になってしまうのも頷けるところである。このような歴史妄想教のなかに、死を薦める思想が眠っているのではないだろうか? 歴史モノはフィクションなのに、史実を基にしている、という錯覚のために、本当のことと錯覚しやすいところが難儀である。 では、続けて、年配の現代日本人なら誰もが知っている水戸黄門の虚像を、八切止夫作品集から抜粋紹介して再考する。 ☆ ☆ ☆ 水戸黄門の世界 元禄年間以降あらゆる出版物の統制をした徳川家のために、日本の歴史は、寄らしむべし知らしむべからずといった具合になったから、庶民には芝居とか講釈、そして、でろりん祭文の世界だけが覗き穴的に許されたに過ぎない。 それゆえ、まるでそうしたものが、つまり過去の時代を扱ったものすべてが、さながら歴史のごとくにも誤られたので、「稗史、小説」といったいい方もされ、そして、それが、やがて活字によって表現される講談という形になったとき、今でいうサービス精神が庶民に迎えられるような語り口となった。 このため、大衆の代弁者としての一心太助を作り、体制のパイプ役に大久保彦左が担ぎあげられたのであろう。つまり、『水戸黄門漫遊記』といったものも、歴史なら事実ありの儘で良くても、銭をとって読ませる為には面白可笑しくといった要素がいるので、痛快がるようにと加味されたものなのである。 だから、かいつまんで紹介してみると‥‥ 助さん格さんを伴にして田舎親爺然の、梅里先生が諸国を廻って歩き、権力を笠にきて弱い者苛めしている連中を見つけると、「ああ、これ、これ」すぐに声をかけ、「助けてやりなされ」と腕っ節の強い二人をさしむけ、相手をこらしめる。 もし向こうが代官とか領主の時には、体制には一応は逆らわずに、「さあ縛りなされ、手向かいは致しませんぞ」と連れられて行き、さて向こうの親玉が出てきた処で、「やあやあ、ここに控えておられるを、誰方(どなた)かと心得おるか‥‥恐れ多くも天下の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ」 助さん格さんが、びしっと一発かませる。すると向こうはびっくり仰天。真っ青になって平身低頭。そして、「知らぬ事とはいいながら、平に、平に御容赦の程を‥‥」 泡をくって周章狼狽するまこと痛快な場面となるのである。 ----しかし、この黄門漫遊記は全くの講談で、本当のところは侍臣を使いには出したが、ご老公は茨城の太田から何処へも行かなかったといわれる。 では、何故、そうした物語が、元禄時代を背景に生まれ出たのか。 今日、昭和元禄などと使われているように、元禄時代というのは泰平ムード溢れた暢(のんび)りした世の中で、なにも御老公が嘘にしろ、てくてく諸国を見て廻る必要も、なかったろうにと想われる。 が、こうしたいわゆる常識的な味方と、その時代の本当のところがまだ伝わっていた頃の実際の見聞とでは、どれ位までくい違うものだろうかと気になる。 また元禄時代というのが表面は天下泰平であっても、一皮むけば、それは大変な世だったこともまず判って頂きたいものである。それは今や、昭和元禄とまでよばれ平和そのもののようにみえながら、故三島由紀夫氏らが、「他からは狂気の沙汰にみられようとも、これぞ憂国の至情の致すところ」と割腹し介錯をうけ胴と首を別個にして、自決している反面すらもあるのである。 さて、ターララ、タララララで始まる元禄花見踊という和洋大合奏が賑やかなので、そんな世の中だったのかとも誤られやすいが、あれとても実際は元禄時代に出来たものではない。 「元禄小袖」とよばれる派手な衣裳も、勿論あの時代に関係はなく後世の産である。 では、どんな時代だったかというと、徳川時代をそのまま鵜呑みにしている歴史家が説く元禄時代とその実際は、改めて考究してゆくとまるっきり違う。 「雪と炭」といった古い形容詞が当てはまる位に相違するのではなかろうか。 というのは徳川家というのは、もともと前述した平凡社『百科事典』の新田系図にあるごとく、世良田系であり修験者畑である。 だから家康、秀忠の代には、「柴衣事件」で知られるように、仏門への風当たりが極めて強く、坊主に対しては、おもねってくるのには寛大でも、威張っている坊主には、くそみその扱いで遠島処分にさえした。 しかしそれも、家光の代からおかしくなった。 秀忠は、「神君東照宮」として父家康を祀ったのに、「仏式にやりかえい」と家光は、神君を権現さまに変えてしまった。だから家光の子の家綱や、その弟の綱吉の時代になると、ますます仏教傾向がひどくなってきた。 そして綱吉は、「東光の者らをかたづけい」とまでいいだし始める。 東光とよばれるのは、西方極楽浄土を唱える一般の仏教に対し、「東方瑠璃光如来」をもって、東方にこそ光ありとする宗派で、これは「医王仏」とも、また、「薬師寺派」ともいうものである。 この信者は、かつて公家に対する地家、つまり原住系として捕虜収容所の、別所、散所、院地へ入れられていたり、または、北条氏におわれて逃げこんできた源氏の残党。つまり俘囚の裔なのである。 だから俗に武士は俘囚の末だからと、「地家侍」などといわれるのも、この為であるが、彼らは初めは、エビス、ダイコクの七福神や、白山神、土俗八幡の信仰だった。 しかし織田信長が天正十年六月に、本能寺で爆死をとげると世の中が一変し、今も残されている、『天正十一年裁可状』の文面にもある通り、各地の拝み堂から、修験や博士、太夫とよばれていたのがみな追われ、僧籍をもった者が代わりに入ってそれが寺と変わったとき。 いきなり頭ごなしに、西方極楽浄土も受けつけまいと、それらが、いわゆるお薬師派になったので、それまでの原住系のあらかたは、東光の信者になったのである。 『天正日記』とよぶ徳川家康の臣が、刻明につけたものにも、小田原から江戸へ初めて入ってきた家康が、まず東光の御堂を拝み、寄進をした旨をかいているが、この派の信者は関東には多かった。 もちろん何時の時代、何処の場所でも、以前のオキナワにしてもアメリカ人より県民の方が遥かに多いのは常識だが、徳川時代でも、西方極楽浄土の門徒より、東光信者の方が数では圧倒的に多かった。 しかも彼らは、皮はぎという専売業をもっていた。 戦国時代は終り、冑鎧の需要はなくなったが、ビニールも[合成?]レザーもない時代ゆえ、元禄期になっても皮革は高価に取引きされていた。 だから製皮業者を信者にもっている薬師寺派の方は、寄進喜捨が多く、掘立て小屋みたいな拝み堂だったのが、次々と山門つきの立派な普請に変わっていった。昭和の今日でも、「お寺言葉」で、裕福な檀家のことを、「肉の厚い」とか、「皮の良い」というのは、これから来ているのである。 さて、こうなると西方極楽浄土側の方では、「面白くないこと、おびただしいものがある。怪しからん」と将軍家の生母お玉の方をつつき、しきりと運動をした。 そして考え出された名案というのが、「皮をはいで儲けるな」とは法令が出せぬからして、「生きものを憐れめ」という、生類憐れみの令である。 日本では獣といっても虎やバファローはいない。比較的捕えやすく皮を剥がしやすいのは犬である。 そこで畜類を愛護する為ではなく、製革業者を弾圧する必要上、各地に犬小屋を作って片っ端から収容した。しかし係りの役人の中には、その法令の真の目的までは判っておらぬ者もいたからして、「雀をとってはいかぬ。鳥類も生きとるから、生類の内に入るのである」と、畑で野荒らしの雀をとった子供さえ牢に入れられた。 さて、これが地方へ行くと、ますます役人は融通がきかなくなるものだから、余計に厳しくなってしまい、「なに鼠を、猫が捕えて食したと申すか‥‥それなる猫を召捕って牢へ入れい‥‥うん、猫も生類の内か。それでは捕えた身共の手落ちとなり、責任問題になるやも知れんな。では猫の飼主をつかまえい。人間ならお叱りはあるまい」 といった事態が各地におきた。こうなっては野良へでも、吸いつくひるさえむしり取れない。 そこで、誰か、役人や代官より豪い人が見廻りにきて、「助けてくれぬものか」といった願望が、『水戸黄門漫遊記』となって現れ、庶民の夢と憧れになったのだろう。もちろん講釈になった時期はずれるが、この元禄時代が如何に大変であったかは、孫子の代まで語り伝えられていたので、「そうか、黄門さんが廻って皆を助けて下されていたのか」 と一般大衆は涙を流して喜んで聞いていたのだろう。 だから『講談水戸黄門』の方も、そこは抜かりなく、「ご老公におかせられては、犬より人間の方が粗末に扱われるとは何事かと、くだんの死んだ犬の皮をはがさせ、血まみれなものを役人に渡してやり、わしは光圀なるぞと仰せられて‥‥」と、そういう挿話までが書き込まれている。 ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので次回に譲る。
2013年03月12日
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前回は、細川ガラシャが、美女ではなかった可能性が高いが、美女とされたのは、本能寺の変の真相を隠すためだったことを、八切止夫作品集から抜粋紹介した。 戦国期の美女といえば、もう一人、信長の妹のお市が有名だが、こちらの方は、八切止夫作品集から、どうやら美女だった可能性が高かったようである。勿論、当時の価値観でいうところの美女である。 春日局との興味深い話もあわせて、八切止夫作品集から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ うばは乳母でない話 箱根に姥子(うばご)の湯というのがある。 伝承では坂田山の金時が、眼の悪い姥を背負ってゆき、眼病にきくとされる明ばん泉で治すため通ったとされている。また、「姥すて山」が信州の川中島の近くにある。これは貧しい農民が食べさせてゆけなくなった姥を背負ってゆき、堪えてくれとやむなく置いてくる山だったそうである。 だが、どちらも「ウバ」とあっても、もし乳を呑ませるだけの乳母であるなら、乳離れした時に暇を出されてしまっている。 それでは年寄りになるまで同居して、眼が病むから、と冷泉の出る所まで運んでゆく事も事もなかろう、と想われるのである。 しかし姥の字は女扁に老とかくから、老女と解釈したいらしく、翁と姥といった組合わせもするが、女の古いのといってもやはり母親には違いなかろう。つまり「うんだばば」がうばと想えるが、それでも現在では、「ウバ」といえば、乳母が常識である。 漢音にしろ呉音にしろ、乳をウ、母をバとよぶ発音はないが、これが罷り通っている。 もちろん戦国ものの確定史料には、そうした言葉はなく、乳人というしかない。だから乳母も「ちちぼ」でなくては変だが、これの語源とされているものは、橘成季(なりすえ)の『古今著聞集・十五』にあるところの、「幼き日に浅間しく歎きて、うばにうれえ、たいじようしけれども」の一節からだという。 が、(うれえ=訴え)、(たいじょう=両手をつき詫びる有様)だからして、うばが奉公人の身分であるならば娘が、そこまですることはなかろう。これは著聞集を解釈した人の誤りではなかろうか。 なにしろ「うば」を乳母にしてしまったが為に可笑しくなってしまったのは、なんといっても春日局の存在である。 「竹千代御腹春日局、のち三代将軍家光 国松 御腹御台所 のち駿河大納言忠直」と明記されているものが残っている。 これは幕末まで江戸城の紅葉山文庫に、極秘保管されていた『神君御遺文』の末尾につけられていたもので、明治四十四年に非売品として千部だけ活字本になったものである。 原文は内閣総理府図書館に、今も歴然として残されている。 「御腹」とはいうまでもなく、生母のことである。つまり徳川家では、春日局は徳川家光の母であったことが明白なのに、どうしてこれを匿していたのだろうか? その謎ときは後に廻し、まず従来の乳母説をもう一度考えてみたい。俗説では、京所司代板倉勝重が、徳川秀忠に長子が生まれたので、よき乳人をと公募して彼女を採用し江戸へ送った、----という事になっている。 が、公募というからには、何人もの候補者が選ばれ江戸城へ集ってコンテストを受けるべきである。なのに初めから彼女ひとりだけが東海道五十三次を遥々東下りして江戸へ赴いている。 これでは肝心な秀忠夫妻に面接せぬ先から、もう決まっていた事になって変ではなかろうか。 さて彼女はそのとき既に、正勝、正利の子があった。 つまり乳母として採用されるからには、末子の正利はまだ授乳中でなくては話が合わぬ。処が正勝の子の稲葉正則が本郷湯島麟祥院へ、貞享三年九月十四日に奉納した額によると、彼女が東下りした時、末子は既に三歳であったとある。 すると彼女の乳は止っていた筈である。ではドライミルク罐でも持って行ったのだろうか? 家光の生母なら乳が出て呑ませられたろうが、でないと搾っても出ない事になる。 それに乳母なら、乳離れした時お暇が出るべきなのに、彼女はそのまま居座って家光七歳の時には、死にかけの家康を駿河から引っ張り出してきている。 あれは乳母では強引すぎて、まるで男の責任を問う女のような、そんなやり口である。 だから家光は秀忠の子ではなく家康が彼女に産ませ、母子こみで江戸へ送って置いたもの、とも疑えるのである。 もし竹千代も国松も共に孫なら、わざわざ死ぬ前年の七十四歳の老人が、江戸まで出てくる必要などなかったであろう。 また秀忠にしても吾子なら、家光が二十歳になったからといって、自分がぴんぴんしているのに将軍職を譲ることもなかったろう。どうも変である。 春日局という名は彼女で打ち切りになってしまったが、それは、「征夷大将軍側室にて小御所へ参内、天覧をうける女の官名」と定まり、室町時代にも代々「春日局」は一人ずついて、『毛利家記』にも、足利義昭の春日局の記事が書かれてある。 だから彼女がその名を用いたことは、家康の側室だった事に間違いなかろうと推理される。 なにしろ彼女は前夫の子を十二万石の大名に、自分も神奈川三千石の所領の他に、銀百貫匁ずつ毎年とっており、寛永二十年病気になると、代官町の屋敷へ家光は三度、家綱も二度、御三家はもとより勅使までが詰めきる豪勢さで普通ではない。 なのに彼女が乳母と世間を偽ったのは、五代綱吉から徳川家では、彼女の父斉藤内蔵介がなした信長殺しを、家康の使嗾とせず光秀にかぶせる為の工作で変えたものらしい。 なのに初めは、「三代将軍家光公卿御はら」とあるのが、いつの間にか、乳母となってしまったから、戦前の修身の本などでは、「春日局は幼い竹千代を大切にした。だから竹千代も成人してから、春日局を大事にして仕えた。 乳母とはいえ忠義を尽せば必ず報いがある。隠匿あれば陽報ありなのである」と、よく働け、主人を大切にしろ、といった教訓用にと教材用にされたものである。 しかし、いくら忠義を尽した処で、相州東郡内用吉岡で三千石の領地と、毎年白銀百貫匁ずつの手当となると、手取りだから一万石の大名なみで、他に春日局は江戸代官町に三町四方の敷地を貰って、ここへ親類の蜷川喜左衛門の手で豪壮な邸を建てさせた。 そして寛永二十年九月に発病し、代官町の自邸へ下がると、千代田城から其処まで家光は三回も行列を仕立てて見舞い、家光の子の家綱も二度にわたってその枕許に付き添い、千代姫を始め家光の他の子女が詰めかけ、御三家の尾張、水戸、紀伊も何度も伺っているが、恐れ多くも御所から勅使右衛門佐局までが下向している。 これでは、いくら忠義への報酬でもオーバーすぎる。家光の生母だからであり、家綱らには祖母に当たるためだろう。 といっても、「春日局は家光の乳母」と思いこまされている人が多いからして、「そんな事はない」と否定したいだろうが、彼女を葬った前述の湯島天沢山麟祥院に、追悼の額をあげた孫に当たる小田原城主稲葉美濃守正則や、江戸代官町の屋敷を建てた蜷川(この曾祖父蜷川道斎の妹が斉藤内蔵介の母で、春日局の祖母)の自筆書付によれば、「春日御局が京より東下されしは末子内記が産まれてより三年後の慶長九年なり」とも明白にある。 つまり他人の乳母では、最後の子をうんでから三年もたっていてはとても乳など出まい。 が、御腹ならば自分で家光を産んでいるのならば、これはいくらでも授乳できたというものだろう。 さて、死せる子は眉目よかりき、などというが、どうも故人となった女は、死者への礼でもあろうか誰もがみな美人扱いをされてしまう。 しかし本当の美女はそうざらにはいなかったらしい。 が、誰もが依存なく指を屈するのは、やはり於市の方であろう。父の織田信秀は勝幡の小城から、尾張八郡を平定するようになる迄、普通では兵も馬も集まらぬから、「平手の庄の政秀には年頃の娘がいる」ときけば、その娘に後の三郎信長をうませ、「阿古井の豪族土田久安に妙齢な女子」がと耳にすれば、それに後の四郎信行を作らせるように、一夫一婦の時代でなかったから、その生涯に男子は一郎信常から十一郎長益(織田有楽)まで、女子も於市の他に八人をそれぞれ尾張の豪族の娘にうませている。 そして、それらの親兄弟を味方にして、今でいえば同族会社のようなやり方で、尾張一国を掌握し得たのである。 だから信長と於市は異母兄妹の間柄に当たる。 さて、信長は美少年万見仙千代を奪うため、摂津の荒木村重と戦ったようなホモ型である。もちろん戦国時代ゆえ人的資源の必要上、生駒将監の後家娘に信忠、信雄をうませたり、神戸の板御前とよぶ未亡人に信孝らを作らせているが、それはやむを得ぬことで、きわめて女嫌いで女性にはむごかった。 それが於市御前だけは可愛がり、浅井長政へ嫁入りさせる時も、前にいた女はそっくり追放させ、信長は己れの長の名のりを与え、「長政」とした先方へ当人をとっくり確かめてから縁づけている。 信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛したのは、やはり彼女が美少年型の絶世の美女だったからによるのだろうといえよう。 この於市に三人の娘がうまれた。長女は、「やや」と初めよばれた茶々、後の淀君である。この人を於市の娘ゆえ美女と誤る向きもあるが、秀吉が彼女を近づけたのは二十二歳になったからの話しゆえ、それ迄、放って置かれたという事実は、あまり男の気をそそる容貌ではなかった事になる。 『当代記』や、『大阪御陣記』によれば、「騎馬女三十人ばかりいつも引き連れ、緋威しの大鎧をめされ七寸(ななき)の馬にめされ」と、出ているのをみると母親似ではなく、父浅井長政生き写しの骨太な大女であったろうと、『女人太閤記』に私は推理して書いた程だ。 次女の京極高次夫人になった常高院は、「細身ながら気性烈しく」と残っているが、まあ十人並みであったろう。処が三女の、「ごう」とよばれたのは、これは於市をさえ、しのぐ抜群の美人だったらしい。 「せんだんは双葉より芳し」というが、十二歳の時すでに母方の尾張大野の、佐治与九郎に求められて人形のように嫁ぎ、翌年は連れ戻されて秀吉の養子だった信長の四男於次丸秀勝にめあわされ十六歳になった時、秀吉がその秀勝を殺して、己れの甥の秀次の弟小吉に同名を継がせた際、彼女は左大臣九条道房の許へやられ、やがて取り戻されて徳川秀忠の許へ、「江戸へ与えるのだから、江与と改名せい」と嫁入りさせられる。 まあ、余程の絶世の美女でなくては、こうも、たらい廻しさせられるものではない。 さて、この絶世の美女のなれのはての江与と、春日局を対比させ、これをエリザベス一世とメアリ・スチュワート女王との関係においてみたのが、「八切日本史」の中の『謀殺』[既に当コーナーにアップ済み]なのである。 ☆ ☆ ☆ というように、八切止夫作品集では、「信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛した」ことを、美女の理由にし、また、その娘の「ごう」を、「余程の絶世の美女でなくては、こうも、たらい廻しさせられるものではない。」という理由で、美女としている。 そこで、現在に残っている両者の以下の肖像画をみてみると、 というものなので、この像が本物に近いとすれば、両者は、とてものこと、現代では美女どころか、私の価値観が世間離れでもしていない限り、不細工(ブス)の範疇に入れられるものだろう。やや江(ごう)の方が目が大きいだけ、まだマシというくらい。 文字数制限を超えるので、次回に譲る。
2013年03月12日
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前回からの続き ☆ ☆ ☆ では、その秘密とはなにかというと、「天正十年六月二日の夜明けに、信長のいた本能寺を包囲した軍勢は、丹波口から京へ入ってきた」という事実によるものである。 丹波は誰、丹後は誰と、国別に大名領の区画整理ができたのは、関ヶ原合戦から後のことで、天正十年の頃はまだ入りまじっていて、丹後でも三戸野辺りは明智領だったが、丹後も京への入口の船津、桑田の二郡は、これは当時長岡藤孝を名のっていた細川家の領地である。 つまり、その昔、「大江山」とよばれた老の坂から京の入口までは、「長岡番所」とよばれる細川家の見張番小屋が何ヵ所も続いていて、京への出入りを監視する役目をいいつかっていた。 なのに、「敵は本能寺にあり」と叫んだかどうかは判らぬが、斉藤内蔵介の率いる軍勢が、この何ヵ所もの細川番所の関所を、六月一日夜から二日にかけて、堂々と通ってきたのである。しかも僅かの人数が巧く身をひそめ、隙を窺って通り抜けてきたというのではない。 一万三千の頭数が堂々と大手をふり、フリーパスで通行してきたのである。 こうなると、細川忠興やその父の幽斎は、斉藤内蔵介としめし合せていたか、前もって徳川家康に頼まれてOKしていたか。そうでなければ、一万三千の内の何パーセントかは、細川忠興または幽斎の率いていた丹波桑田か船津の兵ということにもなる。 つまり細川家こそ、巧く生き残った信長殺しの下手人の一人で、「その汚名をかぶせられた明智光秀の三女であるお玉」は、その真相を知っていたからこそ、もし大坂方に暴露されては、徳川家の不為と考え、少斎がこれを刺殺したのだろうし、「その時の借りを返すため」に徳川家は、斉藤内蔵介の遺児の春日局の手をへて、5.4倍の増禄をあえてしたのだろう。 なお、『細川家記』には、明智光秀の手紙と称する物が入れられてある。 光秀自身が自分が謀叛をしたのは与一郎(忠興)の為であるといった内容のものである。これは、文章が次々とおかしく、与一郎に敬語をつけている点などから、細川家の家来の贋作ではなかろうかと、故高柳光寿氏も指摘しておられたが、細川家といえば名家という事にはなっているが、十二万石から明確でない理由で熊本一国の領主になっただけあって、なんとか取りつくろおうと懸命になって、その係りの専属家臣をも代々おいて、さも尤もらしい色々な話を創作したというか贋作させ、それをまとめて、「細川家記」として今に伝えているのだろう。 もちろん後半はなんということはないが、幽斎、忠興の二代の間の記録ときたらみな眉つばものであるといっては過言ではあるまいといえる。 なにしろ、イギリスの推理作家アガサ・クリステー[クリスティ]でさえ、「アリバイが揃いすぎ、もっとも尤もらしいのこそ怪しい」といい切っているのが、細川父子にも当てはまるのではなかろうか。 だが、それは信長や光秀、そして殺されたお玉側からいうことであって、五十四万石に所領を増やし家臣一同をうるおした忠興の存在は、細川の家来にとっては神様みたいな存在だったから、肥後一国の全力を結集して色々と庇うように、手作りの史料などを付け加えたのでもあろうか。 ☆ ☆ ☆ というように、八切止夫作品集によると、本能寺の変の首謀者は、春日局の父の斉藤内蔵介で、齋藤は、信長から明智に付与された軍監で、光秀は、本能寺の変のことを事前に知らされなかったようである。本能寺の変のとき、中国攻めの支援の金策をつけるため、愛宕山にいて、歌会をしていたそうである。 だから、本能寺の変後の光秀は狼狽したような行動をとり、事態収拾できずに、中国から引き返した秀吉にやられてしまう。お玉は、光秀の無実を信じていたようで、細川に裏切られたことを知ったはずで、家康の関与も、恐らく知っていたのだろう。本能寺の変後の対応をみれば事前に知っていたのは、秀吉と家康であろう。お玉はその生き証人だったのだろう。 つまり、お玉の口封じのために、お玉を美女にして扱い、細川家としては、織田家裏切りの情報が漏れては困るので、世間の目に触れぬように隠し、庭師などの目に触れたことがわかると、殺害したのだろう。それがいつの間にか、隠れキリシタンの風評につながったものと思われる。隠れキリシタンにすることで、仏教徒の目に触れぬことができるからでもある。
2013年03月12日
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前回は、かの上杉謙信が女であったのと、猛将で知られた本多忠勝が、戦国期の女は強かった、と証言していたように、戦国時代の女性が強かったことを、八切止夫作品集から紹介した。 だから、現代の戦国像のほとんどがニセモノで、そのような偶像を崇拝していることになる。いわゆるTVドラマの虚構のなかでしかあり得ない水戸黄門崇拝の類である。 そこで改めて、そのような虚像を破壊するために、八切止夫作品集から続けて抜粋紹介する。虚像がつくられるのには理由がある。 さて、通説では、有名な細川ガラシャが戦国期の美女の代名詞になっているが、美女というのは、時代背景により変わる価値観である。同時代でも、アフリカにいけば、肥えた女性が美女となるように、現代からみた美女が、当時も美女であることの方が有り得ない話だろう。江戸時代は300年も続いたのだから、その間に、美女の概念も変わってよいはずだ。 では、細川ガラシャは、なぜ美女とされたのかを、八切止夫作品集から抜粋紹介して改めて考えてみる。 ☆ ☆ ☆ 細川ガラシャ殺しの秘密 ガラシャことお玉は、当時、長岡与一郎といっていた後の細川忠興の嫁となったが、天性まるで玉をあざむくような麗質だったゆえ、忠興は二なき者として熱愛した、といわれている。 それゆえ本能寺の変のあった時も、彼女に災いが及んではと三戸野(みとの)に秘かに匿し、秀吉に対して命乞いをした。そこで、その情にほだされ、「明智光秀の娘とはいえ、そこもとへ嫁入りしてござったからには、なんの係りもないことゆえ、心配などせんでよろしい」と、秀吉も彼女がそのまま忠興の妻であることを許した。 のち秀吉が亡くなって、関東関西お手切れとなったとき。忠興が家康について東下りしていたのを、なんとか味方に引き入れんと西軍は、彼女を大坂城へ人質に迎え入れんとした。しかし、己れの玉をあざむく美貌をよくわきまえていたお玉は、「私のような美しい女が大阪城へ連れてゆかれては、貞操を奪われるやも知れませぬ。それでは愛してくれている夫に申しわけとてなし」 と留守居家老小笠原少斎をよびよせ、己れを槍で突き刺すように命じた。 少斎も、忠興の嫉妬が強いのはよく知っていたから、部屋へは入らず廊下から刺殺し、自分も屠腹して、屋敷に火を放った。 そのため、戻ってきた忠興は、最愛の妻の死を悲しみ、少斎の黒焦げの屍を蹴飛ばすと、涙をこぼし男泣きに喚きたて、「よくも早まった事をしおった」と口惜しがって泣き喚き、足蹴にしたとまで伝わっているが‥‥この話、はたして大衆作家が書くようなそんな愛妻物語だったのだろうか。 長岡の姓を何故か改めてしまった細川忠興というのは、あの時代にあっては「きけもの」として知られた人物である。それが、そこまで取り乱すとはヒイキの引き倒しで変ではないかといった気がする。 それにこういった話は実際に有ったにしても、今でいえばプライバシーにも当たる事柄ゆえ、伏せられてしまうのが当然である。なのにどうして『細川家記』とよぶ家伝史にまで、これが入れられているかという謎である。 普通なら匿し通すべきことが、事さらに記入されているのは、見せつけではないか、といった疑いなのである。 そこで、美人ではなく、この話を裏返しに組み立て直すと、1.お玉はきわめてブスだった。が信長の命令ゆえやむなく嫁にした。2.本能寺の変後、秀吉は何らかの必要上、お玉を殺し差し出すよう細川忠興に命じた。しかし細川家では、幽斎が、何かの生き証人になるからと、出奔して行方知れずと報告して、その実は三戸野へ、切り札として隠しておいた。3.このため秀吉としては、お玉を殺させる時機を逸したが、その内に、関白となり、もはや天下に憚るものもなくなったので、その儘で放任しておいた。4.処が慶長三年(1598)八月に秀吉が他界。一年おいて慶長五年。上杉景勝がその有する黄金にものをいわせ、独力で天下を相手に謀叛せんとする企てに徳川家康は討伐隊を率いて東上。これに細川忠興も従った。5.さて小山まで兵を進めていた家康も、石田三成が旗上げしたとの報に接するや江戸城まで引き返し善後策をねった。その時に、忠興が家康に命ぜられたのは伏見長岡屋敷へ住まわせてあるお玉の口ふさぎであった。6.お玉が何かを知っていて彼女の口からそれが洩れでもすると困ると、かつて秀吉もおおいに案じたが、家康もこれからの合戦を前にして、これにはすこぶる難色を示した。7.しかし忠興は、長年の妻でござればとこれをまず拒んだ。すると家康は恩にきるから大事の前ゆえ頼むとまでそれを求めた。よって忠興はそれではというので、安心して託せる小笠原少斎の許へすぐさま使いをだした。8.もし、お玉が大坂城へつれてゆかれこの明智光秀の娘が、知っている事をもし責められ口外したとしたら、家康の信用はがた落ちして、関ヶ原合戦に先立ち東軍についた諸大名は、みな四散してしまう恐れがあったらしい‥‥ことにこれではなる。 つまり、逆にすると、こうした結果になる。 もちろん当て推量であって、唯まるっきり正反対にしてみた迄のことで、これにはなんら援用できる資料など有りようもない。 だが、こうした大胆な推理ができるのは、信長殺しの斉藤内蔵介の娘阿福が、「春日局」の名で江戸の実権を握るや、後述のごとく、片っ端から外様大名の取潰しをした家光の時代なのに、やはり取潰しにあっても仕方のない外様大名の細川忠興に対し、十二万石から五十四万石へと常識では考えられぬような大巾の加増がなされるという奇怪さからである。 とはいうものの、これまでの説を、まず順を追って当たって行かぬことには、話が飛躍しすぎるから、それに戻ってみるが、どうも話しは、もちろんみな真赤な嘘であるらしい。いくらお玉が美人であったとしても、その夫を味方にする目的で、大阪城へ連れてゆこうとした西軍が、彼女の操など奪う筈はなかろう。これは常識である。 それに、このとき彼女は既に三十八歳。長子の忠隆も二十歳になっていたのである。いくら美人であったにしろ、ろくな化粧品もなかった時代の、しかも四十近い女に、そんな心配があろうか。 また忠興は激怒して、少斎の遺骸を足蹴にしたというが、関ヶ原合戦の始まる前に火をつけたのが、凱旋してきた数ヶ月後まで、そのままだったというのも変てこだが、熊本市に残っている『小笠原家記』をみると、「小笠原少斎の跡目長基に、細川忠興は姪のたね(後に千女)を己れの養女として一緒にさせ、その間にできた長之という伜に、その二十三年後の話だが、忠興はやはり弟の娘のこまんを己が養女として縁づけ」て居るのである。 これは『細川家記』の方にも、その裏付けが、「細川幽斎の孫娘にあたる千(せん)女が、小笠原少斎の次男長基に嫁した」と、はっきり記録されている。 さてこうなると、妬情けにかられ屍に鞭うつように蹴飛ばした男の跡目に、なぜ自分の養女を縁づけたのか。そしてその生まれた子にまで、また養女を作って一緒にさせ、二重三重に縁結びして、少斎の遺族を雁字絡めにする必要が、どうしてあったのかと怪しくなる。 さて寛永九年(1632)十月のことである。それまでも、それから先も徳川家というのは諸大名の取潰しや、減封ばかりしていた筈なのが、「恐れ多くも、上さまの思召しである」と、春日局は、将軍家光の台命として豊前小倉十万石の細川をよびだし、「其方は、わが亡父斉藤内蔵介とも入魂(じっこん)の者なれば‥‥」 つまり、斉藤内蔵介の遺児の阿福として、亡父と仲良しだったから取り計ってあげましたのだと、先によく断ってから、「肥後十二万石、豊後三郡しめて五十四万石」と、これまでの十万石に比べると、5.4倍のベースアップをした。しかも肥後の国というのは豪気な秀吉でさえ、「彼地は収穫の多い美国である」と惜しがって、気に入りの加藤清正や小西行長にさえ、吝って半国ずつしかやらなかった処である。 そうした屈指の最上等の国を、まるまる忠興に、格別これといった手柄もないのに、急にやってしまったのは、何故だろうか‥‥ さて貰った忠興はどうしたかというと、お玉が産んだ長子忠隆は山城北野へ追放、次男興秋は江戸へ送り(途中で脱走し山城東林院で、首つり自殺を遂ぐ)、お玉の死後に別の女に産ませた三男忠利をもって、五十四万石の当主にたてた。これでは忠興が、(お玉を熱愛していた)という愛妻美談は、どう見てもまったくの嘘になる。 そして、お玉を殺し自分も死んだ小笠原少斎の遺族を、何重もの婚姻政策で縛ったのも、そこには秘密漏洩を気づかっての、糊塗策としかみられぬものがある。つまり忠興にとって、お玉を大坂城へ入れずに少斎が殺したのは、非常な恩恵であり、そのために五十四万石になれたような、何かがあったものらしい。 ということは初めに疑わしく書いておいたが明智光秀の娘であるお玉が、大坂城内へ連れてゆかれ、そこで口を割って、もしも本当の処を、「実は、信長殺しの真相は、かくかくでございました」とでも真相を明らかにしていたら、東軍に加担していた大名の中でも、旧織田系がいたから、それらが家康から離れて東軍は危うくなり、関ヶ原合戦で勝てなかったかも知れぬ、というキーポイントがそこには秘められていたのだろうと推理される。 だから、「その口をふさぐ為に、お玉を殺し、自分も格好をつけるため死んでくれた少斎は、細川家にとっては大忠臣」という事になって、代々殿様の御養女を下賜されるご一門の扱いになったものらしい。 ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので次回に譲る。
2013年03月12日
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前回からの続き ☆ ☆ ☆ さて、それでは前述したごとく、どうして、今ではガンブームといわれる位に銃は好かれ、ウエスタンクラブなどという格好だけの同好クラブさえある程なのに、かつての日本では銃がそんなに好かれなかったのか? 当時は銃砲取締り法などもなかった筈なのに‥‥と疑問がでてくるが、この答えは簡単である。 それは、「日本では女人がまっ先に用いたから」なのではあるまいか。つまり戦国期にあっては、銃とは敵に至近距離まで近よってゆけぬ婦女子の武器だったことに起因するものであるらしい。 つまり話は‥‥九州大友家の重臣立花道雪の一人娘おぎんによって、わが国最初の銃隊が作られたから、ここに鉄砲の悲劇が持ち上がるのである。 道雪は雷にうたれ下半身不随ゆえ、ぎんの他に子供はなく、また当時は女領主も珍しくなかったからして、彼女を女城主にした。 さてアマゾンの女は弓をひくのに邪魔だからと、乳房を切ったというが、立花城の女中や腰元も、当今とは違い隆起の大きいのは「まあ百姓女のごと出張っとるじゃんけ」と蔑まれるから、布できりきり胸もとをまきつけて出陣していたらしい。 処が、ぎんには乳姉妹にあたる娘が生まれつき不幸にも、胸部が隆起し、いくら布で縛ってもすくすく大きくなって、なんともならず、そこは強いようでも女は女、困ってしまって泣き暮していた。 そこで見かねて、女城主のぎんが、「これを用いてみてつかあせ」と、試しに鉄砲をもたせたところ、これなら胸がいくら出張っていても、正面に向け突き出して発射するのだから、きわめて巧くゆく。 そこで、ぎん自身も、「胸をきつく晒木綿でまきつけるは苦しやのう」と今でいえばノーブラにしたい一心で、銃をもってみると弓よりは扱いやすい。よって大友家へ願いでて銃を多く廻して貰い、「女銃隊」をここに新しく編成することになった。 すると、先殿の道雪は下半身不随で、その御所望がなく、現在の殿は女ゆえ、これまたその方で立身出世の夢のない城内の女共が、「私も」「てまえも」と入隊志望してきて、ここに百人組の銃隊が生まれることとなり、大友家が他と戦う時は、まずこの立花ぎんの銃隊が、まっ先にどんどんと一斉射撃をした。 九州の方言で、「最初」のことを「はな」という。そこで、「はなは立花、鉄砲女ご」と有名になった。 しかし、女でも鉄砲を持たせると、一人前の働きをするということが、今も昔も変わらぬ男の自尊心を傷つけたのであろう。 『武具要説』などという木版本では、「敵との距離が遠い時には鉄砲は有利な武器に違いないが、いやしくも武士たるものが、飛び道具で相手を討ちとるのは賞められた事ではない」などの説をかかげた。 だからでもあろうか、前にも述べたように、日本の映画やテレビでは、「おのれッ卑怯なやつ‥‥」と、鉄砲をもち出してくるのは悪役に限られていて、必ずヒーローの投げる手裏剣か何かにやられ、「うぬ、残念至極ッ」と、見当違いに弾丸をとばして、もんどり打って転げ落ちたりする。 そこで旧軍部などは、この影響で、「鉄砲はあかん」と思いこんでしまったのであろうか。 さて、ぎんの女銃砲隊が評判になりすぎ、加藤清正さえが逃げて廻ったので、年下の夫の立花宗茂に嫌われ、ぎんは棄てられて一人淋しく死んでしまったが、それでも世の男共はやっかみ精神で、「鉄砲を用いるのなら足軽にもたせい、それでよいんじゃ」と軽蔑した扱い方を何処もし、かつてのぎんの勇姿も今となっては、「はなはたちばな、茶の香り、チャッキリチャッキリ、チャッキリナ」の茶つみ唄でしか、この世には残されていない。 もちろん、この他の理由は、鉄砲は日本でも雑賀や国友で直ちに精巧な物が作られるようになったが、弾丸をとばせる火薬の主成分の硝石が日本では採掘する所がない。 苦しまぎれに歴史家は、厠の辺りの土を天日に乾してその中から硝石をとって精製したなどと説明するが、便所の周辺の土をいくら水でこして血眼になって蒐集した処で、猪口の底に沈む位しか取れる筈がない。だから臭い思いをしてそんな事をしてもなんともなるものでなく、今も昔も硝石鉱の輸入にすっかり依存しているのである。 処が、弓矢の方はこれは何処にでも材料がはえていて自給自足できるという強味がある。 そこで将軍家でも、火薬を輸入させねばならぬ鉄砲よりも、昔からの弓矢でと千代田城を守らせていたのだろうし、一般の士分も自給するとなれば一発射つのにでも、その分の為には向こう三軒両隣の便所さらいせねば、硝石は集まらぬと聞かされる鉄砲は、鼻つまみものになり軽蔑されていたのだろう。 明治になっても、刀は鍛えれば国産できるが、硝石だけは日本中何処を探しても産出する鉱山がなく、石油資源よりももっと始末が悪いからと、軍としても、「弾丸はあまり使うな、それより刀を用いろ。兵はいくら死んでも葉書で召集できるが、硝石はそうはゆかんのだ」と、幹部教育の方針をたてていたのではなかろうかとも想像される。 ☆ ☆ ☆ というように、刀一辺倒になったのは、鉄砲の火薬の原料の硝石が輸入品で高価だったことと、刀剣が国産で、骨董屋などの剣術ブームの宣伝文句に乗り、日本史の誤った伝承による男尊女卑の武士道により、飛び道具は卑怯というイメージが定着し、人命よりも経済が優先されたせいにみえる。 日露戦争の203高地などの莫大な死傷者数から、人命よりも経済が優先されていたことがよくわかる。弾薬がないのではなく、人命よりも経済が優先されていたようである。それは現代の雇用や社員待遇よりも企業の株価や内部留保が優先されていることと同じである。 飛び道具は卑怯といいながら、人命を飛び道具として扱って人間を軽視する差別的な思想がそこにあることに気づいていない。
2013年03月08日
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八切止夫作品集を読んでいると、明治の軍部がいかにお粗末かを感じさせられ、それらが、日本史の誤った伝承にあることも感じさせる。 そこで、今回は、このブログによく訪問くださる忠武飛龍さまのコメントのなかの「刀術一辺倒」になった要因が、どのような誤った日本史の伝承にあるのかがわかる話を、八切止夫作品集から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 鉄砲軽視由来記 それは奇妙なことかも知れないが、昔からして、「槍一筋の家柄」とはいうが「鉄砲一挺の家柄」とはいわない。 「街道一の弓取り」は、立派な武将のことをさすが、「街道一の鉄砲打ち」となると、これは猟師の事となる。 それに『信長公記』などには、信長が鉄砲を習ったようにでているが、一般には、「鉄砲」というと、「足軽鉄砲」とされている。 だからでもあろうか前大戦でも、アメリカ軍は、閣下とよばれる準将クラスでも肩章をとって自動小銃を小脇にバリバリ撃ちまくって突撃してくるのに、これに対する日本軍は、下士官の軍曹や伍長あたりでも、斬れもせぬ昭和刀をぶら下げて、「日本刀は武士の魂だ」とばかり鉄砲は足軽なみで、えらいのは刀だとやっていた。 だから、つい弾薬の補給もおろそかになったのか、各地で弾丸がなくなってしまい、「切り込み隊を組織する」と、兵隊はゴボウ剣をもたされて敵中へ突撃させられ、バリバリ敵の弾丸にうたれて死んでしまった。 またどうしても吾々の手で日本を守らねばならぬ時がくるかも知れないが、そのとき、やはり銃をもたされ出征させられるかも知れないが、またも同じように、「日本刀こそは日本武士道の精華」といった幻想にまきこまれ、一般大衆である兵が、銃をもたされているが故に、軽視され棄て殺しにされるようでは困るのである。 と書くと、まさかと首をひねり反撥されようとなさる向きもあろうが、日本においてはアメリカかぶれしたウエスタンクラブまであって、モデルガンが持てはやされるような今日でさえ、銃は鉄砲は心の底では伝統的に蔑まれているのではあるまいか。 なにしろテレビにしろ映画にしろ吾国のもので、鉄砲を持って姿を現すのは悪人に決まっている。 そして銃口を主役に向け撃とうとするのだが、まず第一段階で間一髪を入れず弾丸より早い主役の剣さばきで斬り倒されるか、遠隔な場合は手裏剣のような主動式飛び道具の方が早くて、これを妨げてしまい、鉄砲を持った相手は、「‥‥おのれ無念」といった表情で樹の枝などから、見苦しい格好で転げ落ちる。 たとえ、それより増しの場合でも、弾丸の速度よりも早く脇から咄嗟に、銃の前へ主役の二枚目を好いている鳥追い女などが現れ出てきて身代わりといった具合に撃たれてしまい、「己れッ卑怯な」といった言葉をはきつつ、女の敵とばかり大刀をふるった主役が、鉄砲を握っている相手に斬りつける。 そして、(鉄砲なる卑怯未練な武器を使用した悪い奴)は、醜くもがき苦しみ、さながら天罰をうけたように悶絶して転がり、見る側は、それを因果応報といった具合にうけとめ内心ザマみあみろ、と痛快がる。 このパターンが日本人の思考というか趣向に合ったものとして、定型化されているおもむきがある。 それゆえ現代を扱ったものでも、やはり銃は冷遇されている。一般のアクションで銃をもつ悪い奴を如何にして素手の主役が、不自然でなく叩きのめすかという擬闘が、その見せ場にさえなっている。つまりチャンバラ物の無手勝流である。 しかし銃に向かって素手の人間が掛ってゆくというような事は、現実にあっては、精神障害か異常者でない限り有り得る筈はない。 なのに日本では銃を軽視するがゆえに、そうした無理な設定がなされ、いかに精巧な銃をもつ相手よりも、剣道の達人の方が互角に立ち合っても、必ず勝つという具合に画面から視覚教育をしたり、剣豪作家も平気でそうした紙芝居のようなものをかく。 だからして、そうした弊害によって、「銃はむなしく、剣こそわが命」といった観念が、常識的には妄想であったにしても、確固たる信条として日本人に植え付けられてしまい、それゆえに、「鉄砲より強い日本刀」といったイメージがひろく浸透し、さて実戦にぶつかって、(日本刀は極めて至近距離まで相手に近づかねば、まったくなんの用もなさないのに、火器である鉄砲は遥か彼方からでも、もし望遠レンズなどつけていれば、肉眼では視えぬ距離からでも狙撃できるものだ)といった判りきった現実いぶつかって挫折させられる。 やがて、観念の中の日本刀の優位さが、現実に火器の前で脆くも、その幻想を崩されてしまったとき、かつての日本の軍刀をぶら下げていた人たちは、落ちている銃を拾って、武器の交換をするだけの心理的転換もできず、やけっぱちになって、その日本刀を振り廻し突入し、近づけぬまま倒されてしまうか、または、もはやこれまでなりと、敵を切るつもりで吊さげてきたもので吾れと吾身を、刺し貫くといった自虐の悲劇を演じたものである。 こうした事態が過去に何千何万の有為な人たちによって、幾度となくくり返されてきた悲劇たるや、日本武士道、日本精神をうたい文句にした刀剣商の商魂のせいだったのかも知れない。 値よく売れればそれでよいというので、鋳物同然の昭和刀まで、もっともらしい銘を刻みこませ、それを堂々と、(刀剣商の推奨する刀さえ求めて戦地へ行けば、それが護身の役割をはたす)といったような煽り方までして売りまくられたせいなのであろうか。 まぁ戦争というのは何処でも誰かが儲けるために企画されるといった裏面がないでもないから、道具屋もそれに便乗して儲けるのだろうが、踊らされ死なされる方は堪ったものではない。 が、それにしても、こうした日本刀を扱う業者の剣豪作家まで使う派手な売りこみで、つい、そちらを過信しすぎてしまい、鉄砲が軽視されるような過ちはもうくり返して貰いたくはない。 目には目、歯には歯をで銃で向かうように、神がかり的なものから常識的な観点に戻って、何故にそれ程までに、この国では銃を卑しみ軽んずるの傾向があるかを探す必要もでてこよう。 織田信長が設楽原で木柵を三段構えに結んで、武田勝頼の騎馬隊を近づけず、これを銃撃でほぼ全滅させたことは有名である。 だからして歴史書などでは、「天文十二年(1543)に種が島へ鉄砲が伝来してから、この新しい武器は戦国時代の日本各地に、瞬く間に広まった」といったように説明される。 しかし本当はどうだったろうか。たとえば徳川家康などは、鉄砲隊の入用のときは信長から借りていた。上杉謙信や武田信玄は、ろくに備えていなかった。比較的利用していたのは、太平洋沿岸に城をもつ中国、九州の大名に限られていただけではないかといった疑いも持てる。 また旧日本陸軍が、銃を軽視して、それより斬れなくても昭和刀を愛好したのは、「銃器を生産していた歩兵工廠や、その下請けの軍需産業は、なにも宣伝広告しなくとも、軍需局が一括購入してくれ、日銀払出し小切手で支払いもまるまる貰えた」のに対して、刀は、刀伊来攻の時のようにお上での買上げではなく、「古美術商」などと看板を掲げた骨董屋であるからして、この際がぼっと儲けようと、正札をどんどん吊り上げ、「日本刀物語」とか『名刀名工談』といった類の、もっともらしいPR版を何千部か買取り契約で書店から出させた。前述のごとくこれまでの歴史作家と称する者に、この種の著書がかつてあるのはこの為のものとみてよかろう。 つまり世間知らずの一般の軍人は、単純というか純粋なので広告しない銃器よりも、どうしても、「今宵の虎徹は血に飢えているぞ」といった刀や、いわゆる名刀と宣伝されている方に、心が傾き、使ってみる迄は切れ味も判らぬから、大量生産の当時の昭和刀でも、外見の拵えさえ一人前なら満足してぶら下げ、「剣だ」「剣だ」と吉川英治の宮本武蔵でも読みつつハッスルしていたのだろう。 となると、いわゆる剣豪作家なる者も、まんざらこれに対して責任がないとはいい切れぬかも知れなかろう。 しかし日本において銃たるものが実際は初めからてんで重視されなかったことは、江戸時代の初期に難破して千代田城へ招かれたフィリッピン長官ドン・ロドリゴの見聞録にも、「太子(徳川秀忠)の護衛隊は長槍、短槍を林のごとく立てた四百人。そして中近東のアラバルダに似たナンキナ(薙刀)を抱えた三百人。そして半弓、大弓の射手五百人が遠巻きにして、櫓の上に整列して守備していた」 鉄砲伝来六十六年たっている割りには、あまりにこの国では鉄砲が重要視されておらず、城の入口に立っていた銃隊だけしか見かけていないから、それは儀式的なものかも知れぬと書いている。 だから、「へぼ将棋、王より飛車を大事がり」というが、まだ弓矢の方が大切にされていた日本では、この慶長十四年(1609)頃でさえ、あまり鉄砲は重要視されていなかったとみえる。 まさか、剣だ、剣だとはいっていないが、もっぱら当時は弓と槍に重点をおいていたようである。また、つまりこういう具合だったから、この二百五十九年後に、上海帰りのリルならぬグラバーによって輸入されたアメリカ南部の廃銃に、鳥羽伏見でいともあっさり負けるのである。 ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので次回に譲る。
2013年03月08日
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前回の続き ☆ ☆ ☆ しかし近頃のように女子中学生がしごきをしたり、女の暴力団さえ現れるような世相では、とても格好がつかぬから、時代を逆行させてしまい、「戦国時代の女性は哀れであった」といったいい方をして、「戦の時に奥方や娘が人質にとられたり、磔にかけられて殺されなどして、いたましくも不憫であった」と説明されている。 もちろん人質にとられたり磔にされ、ブスッと槍で突かれること自体は気の毒であるが、考えてみれば、なにも女性だけがそうした目にあわされたわけではなく、男も磔にされたり首をちょん斬られ、その頭をかち割られ脳味噌を抜かれていた時代である。 それに今でも質屋へAB二つの物をもってゆけば、「此方のほうを預かります」と値打ちのある方を取られる。 という事は、戦国時代にあっては、女性の方が野郎よりも値打ちがあったからこそ、それで人質にとられたのではあるまいか。 それに現代のように、「女性を庇ってやるのが民主主義だ、騎士道なんだ」といった考え方をもってしては判りにくいが、もし敵も味方もフェミニスト揃いであったと仮定するならば、「女を磔にかけて殺すとは残酷ではないか」ということになって、そんな事をしたら向こうの敵愾心を煽ってしまい、味方からも批難抗議を浴びせられる羽目になってしまう。 しかし戦争というものは、何をやるにしても味方の士気を高揚させ、敵の士気は沮喪(そそう)させねばならぬものであるから、今と違って、恐らくその時代にあっては、「よくぞ女を磔にかけて、ブスッと殺してくれよった」と、すっかり男はみな快哉を叫んで、味方は勇気百倍。 敵の方も城主の妻や娘で、自分のではないからして、「口うるさく、威張りくさっとる女ごを、気持ちようやってくれ、これまでの溜飲が下がったわい」と、すっかり歓び勇みたち、「男心は男でなけりゃ判るものか」と手をふって、「昨日の敵は今日の友」と城門を開いて、双方が仲よくバンザイをしあったものではあるまいか。 ----と書くと、今の観念をもってして、まさかと苦笑するむきも有るだろうが、日本の戦国時代から江戸初期にかけては、ちょうど海の彼方のヨーロッパでも、 「男につべこべ文句をつける女」 「意地悪で手におえぬような女」 「怠け者で食っちゃあ寝てる女」 といったのは、優先扱いで、「魔女」のレッテルをはられ、最低七十万人から最高七百万人の間、数ははっきりしていないが、ジェームズ一世の英国でもイサベラ女王のスペインでも、みな丸裸にむかれて丸焼きされていたのである。 バスク人の刑吏が馬車につんできた女達を、生きた儘でローストにしたり、馬に引張らせて股裂きするのをみて、西半球の男共が、「讃えんかな神の御名を、アーメン」と、ヤンヤと喜んで見物し、口笛を吹き手を叩いていた時に、東半球の日本人の男だけが、「女を殺すは勿体ない、使えるものを惜しい、可哀想ではないか」と唯たんに好色だけで、それにあくまで反対していたとは考えられない。 どうも悪いのは、中世紀の魔女狩りで子宮ごと焼かれ消滅しているから、現代の女性は、みなセレクトされた残りの後裔ゆえ屑はいなくてみな素晴らしいのばかりだろう。 が、その当時の玉石混淆の女人は、ヨーロッパでも日本でも、男の立場からすれば手のつけられぬような悪いのが多かったからなのだろう。 『加越闘諍記』という前述した天文元亀頃の古史料によれば、一向門徒が越中越後の反仏的な城をみな押さえたとき、まずまっ先にしたことは、「広大無辺の御仏の慈悲をもってしても、何々御前(ごぜ)さまとか、北の方とよばれて、これまで城にふんぞり返って、男の武者どもを顎の先で使い威張りくさっていた女ごだけは、衆生済度の枠には、なんとしても入れようがない」と、みな縫針を束にしたので眼をつぶし、無明地獄におとし、これを放逐したというのである。 だから彼女らのことを、「盲女」とか「瞽女」とかいて、「ごぜ」とよむのは、御前さまとよばれていた名残りから、反仏の者らが悼んでのせいである。 だから一向宗の顕如上人の妹を義妻にもち、権大僧正だった武田信玄に対し、敢然と迎え討った上杉政虎(まんとら)をたたえる瞽女唄には、「とら年とら月とらの日、生まれ給いしまんとらさまは、白山さまおん為に赤槍立てての御出陣、男もおよばぬ強力無双」があり、『越後瞽女屋敷、世襲山本ごい名』の唄本の中に、総平仮名で入っていたのが今は点字で伝わっているのである。 つまり今は上杉謙信と男のごとく誤られている彼女も、かつては、「捕らえられて盲にされてはかなわん」と気張って、川中島で戦ったのだろう。しかし、こうしたガムシャラ女武者が多くて、寺側は困ったらしく、高野山のごときは、つい最近まで「女人禁制」を厳しく励行して、女性は絶対に山に入れぬよう、敬して遠ざけていた。 という事は、戦国期のウーマン・リブたるや、現代のごとく延々七時間もパンや肉まんをかじって大掛りな井戸端会議をしているようなものではなく、「不言実行」というか、しきりに武闘をもって、「戦う女のぐるうぷ」の実存をしめしていたことになる。 『本多平八郎遺文』に、女は優しくみえる眉毛をすり落し口中を染めて敵を脅したとあるが、「女は三界に家なし」といわれたように圧迫されていた江戸時代でも、武家の女房は、眉を落し口をお歯黒で染めて、一旦緩急あれば夫と共に共闘する体勢をとっていた。 なのに当今の女性は、アメリカ兵にガムやチョコレートを貰った半世紀前の時点から、すっかり堕落しきっている。 まだ終戦時の日本女性は、それでも精神的支柱があったからこそ、あの敗戦の苦しみにも堪えてこられたのだろうが、今度もし、ああした時代がきた時、いまの若い女の人たちはどうするのだろうか。 余計なことかも知れないが、まったく冷や汗ものである。 女も人間であるとばかみたいな事をいう暇に、その怒りを胸に自分自身を振返ってほしいものである。でないと、せっかく戦国時代の女の勇猛ぶりを、四百年前に書き残しておいてくれた本多平八郎忠勝に、申訳ないことになってしまう。 ☆ ☆ ☆ というように、いつの間にか、女性は御淑やかで、男性は勇猛というようなレッテルが貼られてきたが、長年大陸から植民地として支配されてきた奴隷根性が染み付いている、この国の住民多数を支配するのには、支配者としては、男尊女卑の方が都合がよかったのかもしれない。 女性を怒らせると怖いことは、それなりの年齢の男性なら誰しも経験するところだろう。オカルトでも、気力においては、女性の方が断然強いことがわかっているし、女性が子どもを産む産みの苦しみに耐えれるのは、その証である。 この点から考えれば、植民地支配されてきた小国の、わが国の指導者もそろそろ女性にすべきではないだろうか? 米国に文句の1つもいえないような、おべっかばかりして自己保身を図る腑抜け男性に民族や国家の指導者の資格が果たしてあるのだろうか?
2013年03月08日
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八切止夫作品集から、現代のサムライのイメージがいかに虚構だったかがわかるが、更に、そのイメージを崩すために、続けて、八切止夫作品集から抜粋紹介するが、それは、かの上杉謙信は、実は女性だった、というものである。 いまでこそ、表面上は、女性は弱いもの、とされているが、それこそ作られたイメージだったことがわかるからである。 ☆ ☆ ☆ 赤だし謙信 さて、「謙信は男か」を連載小説とし読売新聞夕刊にかきだしたとき、これは大変だった。「これが男か、ああアア」といった演歌調に早とちりした方が多かったらしく、「謙信公博覧会開催につき講演にこい」などと地元からいってきて断っている内に、あっという間に謙信ブームになった。 ところが私の解明していたのは、「吉良上野の伜が上杉家へ養子に入ったところ、赤穂浪士が本所松坂町へ乱入したあおりをくって、十五万石に減封されたので、なんとか会津百万石の頃の半分なり三分の一にでも戻してほしいと、江戸時代に高野山へ祈願をたてる時に想像でかかせた画の、ぶしょう髯のおっさんの謙信」ではなかったのである。 生前に画工をよんで「後影」とよばれた肖像画をかかせるとき、自分の姿や形はこれを拒み、直系1mもある赤い木盃だけを、「おのが姿を影とみて‥‥」とかかした。それはあまりにも悲しく寂しい人物である。 十六、七歳から四十二歳までの間は、いくら激戦中でも、毎月十日になると、「腹がやむ」「馬にのれぬ」と停戦し、静かにひきこもってしまった一人の人間である。 現行の太陽暦と違って昔の太陰暦は一月が同じで、うるうもかためて一月にしていた。 だから、ぴったり毎月十日からはそれにひっかかった。つまり世にいう永承四年九月十日の川中島合戦を、「血ぞめ合戦」と特にいうのも、その血に意味があるからである。 武田信玄が、やがて謙信が腹痛だ馬からおりたいといいだすだろうと見当をつけ、前半は悪戦したが持ちこたえ、後半においてもり返して勝ったのである。 その証拠に上杉史料では、(アンネのため甲斐勢に裏をかかれ、せっかく信玄の弟をうちとり、信玄やその長子まで傷つけした大勝を無にされた)とは書きにくいから、この大激戦は「川中島五度戦記」からも削除され、無かったことになっている。これは周知の事実である。 さて、昔は回虫が多く体内から出る長虫をみて、「生きとる、動いとる」とびっくりした人たちは、それが寄生虫とは思わず、人間を操るエンジンとでも考えたらしい。そこで、「腹の虫がおさまらぬ」とか「虫が好かぬ」から始まって、ついに子供のひきつけを、「小虫」とよび、女性のあれは「大虫」の仕業ときめつけた。そこで福井には今も、婦人病の道の神さまとして官幣小社の大虫神社もある。 さて大虫とはアンネ、つまり「赤」という連想から、ショウユを紫というごとく、「赤ミソを大虫」といういいかたもある。 式亭三馬の「浮世床」にも、「おめえんちの雑煮は大虫かい」などとでている。今では、「赤だし」と、そのものずばりに大虫をよぶからして、知らずに呑んでいる男が多いようだ。 だから、伊勢亀山城主松平忠明のつけていたという当時の日記の「当代記」にも、越後景虎つまり後にいう謙信は「大虫で死んだ」つまり婦人病で死んだのだと明記されている。 常識で考えても、男が婦人病で死ぬのは変だからと「謙信は男か」を書いたのだが、それがブームになると、「なんで石原祐次郎や石坂浩二の謙信が女なのか」、「よくNHKのテレビをみろ」といった文句がまいこんできて、本当に泣かされてしまった。 ・・というのは、いつかは自分の誰かにテストされ試されるであろうかと山周理論の考察で心配のあまり、私はくる手紙や葉書に対して、忙しい時は口授筆記にしているが、神経質になって全部返事をだすたてまえをとっていたので、忍術と謙信の二つで、カナエの軽重をとわれてどんどん投書を貰うと、この返事におわれ小説をかいている暇のなくなったのである。 がこの頃の世の中は慌しく、テレビの放映が終ると、もう上杉謙信のことも忘れられてしまう。だから謙信女人説もこれで消え去ってしまいそうなので、私の打ち明け話をつけ加えておくと、これに気づいたのはスペインへ行き、マドリッドの先のトレドへ行った時、そこのスペイン革命時代に城砦になっていた司書館の中の十五世紀から十六世紀の舟乗りや宣教師の報告書の綴りの中に、「上杉景勝の伯母」として政虎のことが、佐渡金山に関して書かれているのに目がつき、後述するが「政虎=伯母」とは、世に伝えられる上杉謙信は女人ではなかったかと驚き、それからせっせと裏付けをとって調べたところ、明治二十二年からの史学会雑誌が入手できたり、越後長岡の「山本ごい文書」が見つかって、はっきり女人だったと判ったからであるが、そんなことにせっせと骨を折っても誰からも賞められはしない。かえって眉ツバ視され、「彼奴はバカだ」の一言で片づけられるような羽目にもなった。 つまり賢い人間のやることではないのを、せっせとスペインまで往復してやるごときは「われ愚かなりせば」の一言しかないようである。 ☆ ☆ ☆ 続けて、戦国時代の女は強かったことが、あの武田軍に「家康に過ぎたるもの2つあり、鹿の角に本多平八」といわれた本多忠勝の言にあるので、これまた、八切止夫作品集から抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 戦国ウーマン・リブ 「江戸時代の司法が女性を避けるような傾向があったのは、これは戦国時代に女武者が陣頭に現れると、勇士とか大将といわれた者は、相手にするのを恥じたものであるから、その名残りで女子供が相手にせずといった心持ちが、江戸の法律にも有ったようである」という説がある。 それからして戦国時代の女は哀れだったなどと、臆面もなく書く連中が多くて困ったものである。 元禄以降(1688)は儒教隆昌とあいまって女は哀れとなったが前はそうでもない。 なにしろ徳川四天王の一人で、天文十七年(1548)から慶長十五年(1610)まで生きていた、その当時の人間である本多平八郎忠勝は、 「わしの若い頃は、まだ人手不足で共に戦にでていた戦国の名残りで、武家の女房は、みな、いざという時に顔を強くみせるよう太い描き眉をつける関係上、眉はすり落し、口中も敵を威嚇するため、人間をくらってきたようにおはぐろというもので歯を染めていた。 もちろん今でも武家の女房は古式を守って眉を落し口を染めているが、近頃は美布や化粧品などが弘まり軟弱化してきたから、昔程かどうか判らん‥‥しかし戦国時代の女武者の働きというは、今どきの男共など足許へもよれぬ程のものがあったのだ」 という回想談をかき残している。これが徳川中期に見つかり、原文は内閣総理府図書館に保存されているが、明治時代には、「稀有な戦国史料」として活字本にもなっている。非売品だったし数も僅かなので初めにその説を引用させて貰った故三田村鳶魚は見ていなかったらしい模様だが、こんなに両極端に意見が違うと、どちらが真実か迷わざるをえない。 しかし世のおおかたの女性は、「強かった」といわれるよりは、「哀れであった」と伝えられる方が、被害者意識的でお涙頂戴と思うのか、あまりこれに意見はのべず、今の時代の方が増しなんだろうと満足しているのか、「涙にあけくれした戦国女性」といったのが、どうもよく読まれているらしい。 もちろん男のひとも、女が強かったなどというのは聞く耳持たぬ、といった風潮が残っているせいなのか、「戦後の女性は強くなった。されど昔の女性は清く美しく、それなりに哀れでありしか」といった感慨のもとに、そうしたでたらめなものに眼をそむけようともしないのである。 とはいえアメリカ模倣のウーマン・リブの時代では、「はたして昔は弱く悲しく哀れだったのか、どうか」を改めて解明する必要もあるのではなかろうか。 なにしろ真実というものは一つである。楯の両面みたいに極端に分かれていてはいけないのである。 さて、「講釈師みてきたような嘘をいい」というが、明治大正の頃の人間の書いたものより、その当時の天文生まれの本多平八郎の方が正しいのではなかろうか。 三田村鳶魚は江戸の刑法が、女人を避けるような設定の仕方がされているからと、その点から遡って、そうした舞文曲筆をしたものらしいが、江戸の法律の根本をなす処の、「武家法度」の改正から諸政令が一斉に発布されたのは、寛永六年(1629)から十年の間で将軍家光の時に当たる。 そして、その時代というのは、「寛永通宝の鋳造を下命された鳴海屋平蔵が、ときの老中筆頭の大老職土井甚三郎利勝をさして<春日御局(おんつぼね)ご家老土井大炊頭(おおいのかみ)>と、その鋳銭受け書の公文書にかいているような世の中」なのである。 この春日局が何故それ程までに権勢をふるっていたかは、後述するが、寛永六年からは恐れ多くも主上も女帝の明正さまであらせられる。だから東西ともに女上位の時代だったのだから、その間に制定公布された法律で女人を敬遠し、なるべく処罰の対象から外したのは、これまた当然なことである。 なにしろ一口に、江戸時代といっても三百年にわたっているのである。 元禄期以降からの、「女は三界に家なし」とか「女三従の教え」といった、女権が落ちてしまった男尊時代の考えで、戦国から江戸初期を判断するのは三田村鳶魚の誤りであろう。 『フロイス日本史』をみても、「城主の夫に金を貸し高利をつけ、支払い不能とみるや己れの家臣をもって、強制執行してその城や領地をとりあげ女城主になる例」も当時は珍しくなかったと、青い目の彼がもの珍しげに、日本における女上位を、他にも例をあげ本国へ報告している程である。フロイスといえばイエズス派の彼の先輩の修道士らが、「上杉謙信」と今日、その死後の戒名で名を伝えられている政虎(まんとら)が、「勇猛なる女城主であったこと」を報告しているのは、私の『魔女拷問』にも紹介しておいたが、それを裏書する当時の舟乗りの書簡も残されている。 それはスペインのトレドの司書館に1571~80年の報告書として保管されている。日本でも、『豊薩軍記』にでてくる高尾城の十七歳の女城主の勇戦敢闘ぶり。 『当代記』にある、信州高遠城の祝女の大奮戦記。 『備中兵乱記』の、常山城主三村高徳の妻の激闘。 『今川家記』の、引馬城主飯尾豊前の妻が、米ぬかで血止めした大薙刀で敵二十余騎を倒し、傷つきた夫を庇って死んで行った話。 数えだしたら切りがない位に、板額や巴御前以降でも、女武者の奮闘ぶりは残されている。 これは白人の女などは、すぐキャアッと叫んで失神するが、ヤマドナデシコは火事などの際にも、男は周章狼狽しきっても、そこは落着き払って重たい物でも、「よいこらしょ」と抱えだして持ち出してしまう例が多いから、かつての彼女らも、夫のため吾が子のため勇ましく戦ったのだろう。 『アーニーパイル戦記』によれば、オキナワ戦では伊江島の比嘉姉妹は、十八歳と十六歳の少女二人だが火薬箱を抱き、アメリカ軍戦車のキャタピラに飛びこんで玉砕しながら擱坐*(かくざ)させてしまい、「日本の女性は強い」と彼に書かせている。にもかかわらず、「女は哀れだった」というのは男の自己満足なのか、またはそういって欲しい女の甘えなのか、そのどちらかだろう。 *かく‐ざ【擱坐・擱座】 船が浅瀬に乗りあげること。戦車などがこわれて動けなくなることにもいう。(『EB広辞苑第四版』‥‥影丸) ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので次回に譲る。
2013年03月08日
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前回は、サムライについて、八切止夫作品集から、再考してみたが、サムライといえば、オカルト的には、サムライブルーの方に興味がある。 そこで、サムライブルーについて、ネット検索していくと、その意味が明らかになるサイトに出くわしたので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 「広く・深く・・・藍の色」 http://www.color-web.co.jp/back0504.htm ◆「広く・深く・・・藍の色」 「経営労務ディレクター2005・5~6月号」より ~カラーコンサルタント 成田イクコ著 ~ 「明治の始め、来日したイギリスの化学者のアトキンソン氏が藍の色を「ジャパン・ブルー」と呼んで賞賛したらしい。当時、日本の庶民の多くは藍で染めた衣服を着ていたのであるから、始めて目にした藍色を日本の色とみなしたのも不思議ではないだろう。 近代化を遂げ、世界の経済大国となって以降も、諸外国の圧力の中で右往左往しつつ舵をとり、そしてこの数年の急速なグローバル化の波にも日本の多くの組織は対応してきた。しかし、中には新しい価値観を取り入れることを拒み「出る杭は打たれる」といった体質ゆえ、その組織基盤は歪み、崩壊したり、その危機にあっている大企業も少なくはない。 はるか昔、中国の諺に「青は藍より出でて藍より青し」という言葉がある。青という色は、藍の葉から染めた色だが、もとの藍より美しい青になるという意味だ。弟子が師匠より偉くなる、といった際に使われたらしい。新旧交代に意義があることは、昔から言われていたのだろう。 この藍色は、藍の色素を含む植物から染められた色のことを言う。藍の色素は、葉の中に含まれているので、世界中各地に、さまざまな藍の色素を含む植物があるらしく、その風土によって藍の色素が異なる。そのため、染められた藍色もさまざまな青となって生まれているのである。琉球藍や印度藍と言われるのもその一つである。 さらに藍は、どのような繊維であってもよく染まるため、古代から世界中で染められてきた。日本でも、聖徳太子の時代には重要な色であったし、その後、高貴な人だけでなく庶民に至るまで親しまれてきた。特に、江戸時代には、藍と相性のよい木綿の繊維が全国に普及するため藍染めがますます盛んになっていったのである。 以前に述べた「赤」の色のように、どこかに畏怖やエネルギーを感じさせるものがある色と違って、この「青」は、自然界の海や空といった日常目にする色であり、そこには広がりを感じると同時に、人間の内面へ誘う働きももっていることから、多くの人達が自然と馴染みやすい色ではないだろうか。 青には、褐色(かちいろ)、縹色(はなだいろ)、紺色、納戸色(なんどいろ)、浅葱色(あさぎいろ)といった、他にも多くの伝統色名がある。このように色名の数が多いことは、この青色系統において、色みの違いや濃淡の違いなど微妙に異なる多くの色を人々はつくり、それらを楽しんでいた歴史背景があることを意味するだろう。こうして藍色が、長い間、社会のあらゆる階級の多くの人に使われてきたことが、今の日本人にも好まれやすい色となったのかもしれない。 また、「青」の働きの中に、心身を抑制する意味あいもあることから、内向的に見られる傾向のある日本人には、特に親しみを覚える色なのだろうという見方もある。しかし、藍色が世界中にあること、海のような「深さ」がある一方で、空のような「広がり」をもたらすことから、それこそグローバルな側面をもっている色とも言えるだろう。その反面、日本の土壌から生まれた藍色は、世界中のどこでも染められるものではないオンリーワンカラーであることも理解しておく必要があるだろう。 政治や企業の経営には理念が備わっている必要はあるが、それは古い意識に縛られることを意味するのではない。新しい栄養を入れながら土壌をより豊かにしていくことが組織を育てていくことである。日本の藍色もジャパン・ブルーと言われるまでに、さまざまな歴史を経て育ってきたのである。 ☆ ☆ ☆ 以上のように、恐らくサムライブルーとは、ジャパン・ブルーのことを指すのではないかと思う。藍(あい)色は、語呂合わせでいえば、愛(あい)色でもある。 そこで、藍色の色の効果を、以下のサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 色の効果 http://site.mewma.com/kiun/kouka/color/02.html 藍色の特性 チャクラ (脳下垂体、頚動脈、延髄)人体とのつながり(眉間) ・直観性・脳下垂体・頚動脈・延髄 ・活力を鎮まり回復させる ・血圧・脈拍・呼吸速度を(低下・減少させる) 藍色の意味 直感性に関わる。 藍の人(静かで優しくおだやかな人) 生まれつき静かで優しくおだやかな人です。他人からは受身で内向的と見られ、自分の精神面について考え込んだり、自分が存在する意味を追求することに多くの時間をかけます。信頼でき、頼りになる、誠実なひとでしょう。 服装 容認、秩序、保守的、脅迫的でない 装飾 落ち着いた、心の広い、冷静な 呼吸法 深み、安心 視覚化法 平穏、正直 自己暫定法 満足 色彩の特質とその効果 藍はスペクトル上において青と紫のあいだに位置している。藍色はその最もプラスの側面において、理性と直感を結び付け、また鍛錬と創造性を結び付けている。この色は人間の代謝過程(異化作用と人間の同化作用)や、変化と成長といった生来の法則なども象徴している。 マイナスの側面では、藍色は不振、精神的疲労、無駄骨などをあらわす。しかしまた、過去の失敗が将来の成功へと変化し、精神が挫折しつつも懸命な努力によってより高度な気づきと飛躍し、難題が足掛かりとなってすばらしい解決へと至る「ブレイクスルーポイント」をも象徴している。 また藍色は、自然医術において、古い毒巣や老廃物を体内から放出して新しい組織のための空間をつくり出す重大局面も象徴している。 ヒーリングカラー 藍色には電気作用のほか、冷却効果や、収歛性がある。上皮小体を活性させ、甲状腺を抑制し、血液を浄化し、食細胞(白血球・マクロファージなどの食菌細胞)を増加させ、恒常性を維持させる(大量の出血を抑制したりとめたりする)。また筋を緊張させ、呼吸器の機能を低下させ、痛みに対して催眠薬のような作用をもたらす。藍色光線は霊的な微細身(エーテル)の霊流を制御する。また眉間のチャクラを制御し肉体的、情緒的、霊的側面における視覚、聴覚、嗅覚に影響を与える。 心理的効果 安らぎ、落ち着き 肉体的効果 血圧を下げる、脈拍を下げる、呼吸を下げる、体力の回復をさせる、喉のトラブルを解消 症状の改善が期待できる疾患 ぜんそく、高血圧、水ぶくれ、不安、背中の痛み、気管支炎、打撲傷、やけど、食欲不振、白内障、カルタ、口唇ヘルペス、結膜炎、せき、けいれん、皮膚炎、耳の痛み、肉体的な疲労、鼓腸、胆石、風疹、腺熱、痛風、花粉症、頭痛、痔、帯状疱疹、しゃっくり、消化不良、炎症、インフルエンザ、かゆみ、不眠症、喉頭炎、腰痛、肺疾患、はしか、偏頭痛、おたふくかぜ、神経痛、鼻血、浮腫、パラノイア、腹膜炎、静脈炎、胸膜炎、肺炎、月経前症候群呼吸疾患、傷、坐骨神経痛、静脈洞炎、くしゃみ、痛み、捻挫、結膜炎、耳の痛み、てんかん、更年期障害、精神病、近視、神経痛、鼻血、座骨神経痛、ものもらい、耳鳴り拡張蛇行静脈、イボ、膀胱の不調、骨の成長障害、脳脊髄膜炎、脳しんとう、激しい腹痛、腎臓病、神経病、神経障害、リウマチ、頭皮の病気、皮膚病、腫瘍 色の波長 430~460ナノメートル ☆ ☆ ☆ というように、古代の色彩療法からみると、藍色は、端的にいって精神安定をもたらす色ということがわかる。
2013年03月08日
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次回からの続き ☆ ☆ ☆ この謎ときは、戦国時代における刀の在り方をまず考えればよい。弓は「調度」、槍は「道具」とよんでいたが、刀はただ、「打ち刀」としかいわれていないのである。というのは、(冑をかむり、鎧を身につけている場合‥‥)それを刀で切りつけたら鉄と鉄の激突ゆえ、はね返ってくるだけでなく、刀が折れ飛ぶか曲がるのが第一の難点。 鎧の脇の下とか背と首筋のあきとか、狙える個所は限定されていて、その間隙を仕止めねばならないが、そこは突く位の間隔しか空いてなく、とても斬って掛れはしないことが第二の難点。 第三の難点は、二メートルまたは三メートルの槍先で突くのであるなら、相手を中心においてその円周の距離間隔で自由がきくから、自分が誤って近づかない限り、向こうから害はうけずに済む。 処が刀の場合は鍔元から切先までは六十センチか七十センチゆえ、相手に刃を当てようとすると、どうしてもその三分の二に当たる二十センチまでの至近距離に近よらねばならぬ。つまり相手を円の中心とみると二十センチの円周内が、己れの行動半径になる。 これでは斬るつもりが逆に斬られる危険性がでて、巧くいっても相い討ちの恐れがどうしてもある。きわめて効果率が悪いのである。 だからテレビや映画では剣その他の持ち道具が揃わぬ関係から、みんなに刀をもたせて恰好をつけているのも見かけるが、実際には戦場で刀は用いない。 大道寺友山の『武道初心集』でも、できるだけ刀で戦ってはならぬが、人目をひくように刀で武者働きがしたいのなら、すぐ折れて使い物にならなくなるものだから、予備の差料を持参して供侍の若党にささせ、馬の口取り仲間にもおびさせ、生きた刀掛けのように家来に何本も携行させねば、わが身が危いと注意書を残している。 つまり武士は雑兵以外は、槍を戦場の表道具としたものゆえ、「槍一筋の家柄」とこれからいわれ、古来、「刀一筋の家柄」とか「刀二本の家門」などといわぬのも、この為なのである。なのに、戦場において、さも刀を振ったように誤られているのは、何故かというと理由は芝居からである。 現代では小道具屋の都合で槍が揃わず、ジュラルミンの刀を俳優はもたされ、やあやあやっている。が、昔はそうした理由ではなく舞台の横巾が五メートル位しかなかったゆえである。つまり、そこで登場人物に槍をもたせては、一人で横が一杯になって、二人のからみがさせられない。 刀なら、雪月花の型でチャンチャン振り付けができ、見得もきれて絵になるからである。つまり刀が一般化されたのは、舞台の狭さのせいでデフォルメされたのである。 塚原卜伝を筆先で作り出した伴信友も、軽輩ではあるが士分の出ゆえ、そこはよく心得て、戦場で刀を振り回すような荒唐無稽はさせていない。そこでその著では、「塚原卜伝は合戦九度の槍合せに、高名なる首を二十一個とり、その内には、槍下の首、場中の槍での首など七個を含む武辺なり」とかく。 つまり剣豪ではなく槍豪であって、相手を絡み倒し垂直に咽喉を突き下した勇敢な槍下の首や、乱戦になってわあわあ取り囲まれながらも、その場の中で狙った相手を、「やあッ」と天晴れ突き立てて取った場中の首すらもある武辺者であった、というように説明をしているのである。 さてこうなると、「打ち刀」ともよばれた刀の、戦場における効果はなにかとなる。 京城の韓国士官学校講堂に掲げられてあるところの、「日軍来襲の図」は、悪鬼羅刹さながらの朝鮮征伐の際の日本兵を描いたものだが、先頭の足軽はみな裸身で二刀を両手で手にもちあげ、飛来する矢をそれで叩き切って進撃している。 日本は鉄の産出がすくなくヨーロッパや中国みたいな鉄の携行楯がなく、けやきや樫の八分か一寸厚味の板楯しかなかったので、とても重く持って進めず刀は矢払いに用いられていたものらしい。 (江戸初期の宮本武蔵を二刀流の元祖)とするものもあるが、それより一世紀前から、雑兵とよばれる連中は二本刀だった。が、この事実はさておき、雑兵でない将校クラスが刀をおびていたのは、「者ども進めッ」と指揮刀代わりに用いていたのと、槍で突き倒した相手の首を切断する際の包丁代わりと、後は戦闘には使わなかったとすれば、何用だったのかという問題になる。 それに、室町御所の歴代の将軍家が卜伝から、「一の太刀」の伝授をうけていたとすれば、非戦闘的なものを何故わざわざ習ったかという事になる。 いわゆる武芸の習得ならば、槍術をこそ学ぶべきなのに変ではないかとなるからである。 しかし考えてみれば、将軍家みずからが先頭になって、「それ突いてこまそ」と敵陣へ掛ってゆくわけなどはない。 もっとそれより必要なことは、不意を襲われて槍で突かれる暗殺を防ぐことである。だから『甲陽軍鑑』という本は、あまり内容的には信用できない俗書にすぎないけれど、それに出てくる塚原卜伝の原型を、もし実在の者とみるなら、それは今でいう、「護身術コンサルタント」ではあるまいか、と想う。 つまり何時何処から不意に曲者に突いてこられても、これを素早く打ち払うコツを教えていたものだと考えられる。なにしろ一の太刀で払いのけなくては生命に係るから、えらい人も習ったのだろう。 つまり塚原卜伝は攻撃型の指南番でなく、防禦型の師匠であって、剣豪というより、防豪とよぶのが正しかったのではあるまいか。 剣とはそういうもので、またそうした用途のために片刃だったのである。 テレビや映画で、剣豪が刀身を鞘に納めながら、にっこりと、「今のは峯打ちじゃ」つまり刃でない背の方で切ったのだから、生命には関係ない心配するなと、見世場を作る場面がある。 だが刀とは、なにも峯打ち用に片刃になっていて和戦両用に巧くできているのではない。 片方にしか刃がついていないのは安全剃刀とは違い、「打ち払い斥ける」のだけが使用目的だったからこそ、つまり被占領民の原住系に差別して持たされていたがゆえに、ああなっていたのであることを考えて頂きたいものである。 ☆ ☆ ☆ というように、サムライの代表とされる「塚原卜伝」は、護身、護衛術、つまり、いまでいうところの要人護衛のスペシャリストのSPだったことがわかる。だから、「塚原卜伝」の物語は、例えば、随分前に流行った映画「ボディガード」のようなものと考えられる。 しかし、サムライは、八切止夫作品集からわかるが、原住民系の源氏を起源にしているから、身分制度の時代では、身分は低く、従5位以下だったということになる。そもそもかたち上は、身分制度のなくなった現代の日本で、サムライというのも時代錯誤の懐古主義の何者でもない。 それでも、戦国時代に無理に当てはめるなら、バットを刀、ボールを矢か石ころ、ベースを城で、ホームベースは領地とすれば、戦国時代の合戦をイメージできなくもないが、敵方の大将の首は、何にあたるのかはよくわからないし、戦国時代は、敵方に内通する謀反もあったわけで、裏切りは頻繁だったから、やはりどうしても無理がある。 八切止夫作品集からいえば、サムライとは、大陸からきた藤原氏の進駐軍に討伐された原住民系が、度々反乱を起こすので、進駐軍側が、いわば「毒をもって毒を制する」ということから、原住民系のなかから、衣食住を保護する代わりに、いわば用心棒として雇って使ったことに端を発するようである。だから、あくまで身代わり、というわけである。 しかし、戦国時代は、輪廻転生が信じられていたから、家名の血縁関係さえ残れば、死んでもまた生まれてくることができると思い込んでいたので、死ぬことがいまよりも怖いことではなかったようで、むしろ、血縁が絶えて、再び生まれてくることができずに、地獄のなかで彷徨うことの方を怖れていた。 敵側に寝返ってまでも家名を存続させたいがために、真田家などは、関ヶ原の戦いでは、東西両軍に分かれて従軍した。サムライとは、占領された側の苦肉の策の象徴といえなくもない。 占領側と被占領側の関係でいえば、米国進駐軍が持ち込んだ野球で生計をたてているプロ野球選手は、ある意味サムライともいえるかもしれない。だとすれば、英語教師などもサムライである。 で、現代のサムライジャパンが何を守っているのかは、個人の成績や個人の生活、個人の名声など多種多様な個人的な問題で、なかなか見当がつかない。 しかし、サムライというのは、被占領側から、占領側に送り込んだトロイの木馬でもあり、ときがくれば寝返ることもある。つまり、西洋からみればスパイになる。攻撃は最大の防御といわれ、敵陣深く潜入するのが真のサムライということになる。
2013年03月07日
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