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前回の続きを転載しようとして、忘れていて、年が明けてしまったので、謹賀新年で続ける。 ☆ ☆ ☆ 鳥羽伏見での敗戦が伝わってきても、「味方は三万から四万」で「敵は僅か数千なり」と大阪城内にあふれた幕兵はいきまいた。しかし徳川慶喜は、硝石が古くて不発と呑みこむと、夜にまぎれ小姓に化けて乗船。 「追手に帆かけてシュラシュッシュ」とは、蒸気船ゆえ言わずだったろうが品川へ帰航。もちろん表向きは火薬で勝負にならぬ故とは発表せず、恭順のためと引きこもった。 12月18日になると桂小五郎は「徴士」の名で上洛を求められ、総裁局顧問を拝命した。薩摩は、島津の殿さまの命令なりと、「徳川慶喜を死罪」と強硬に西郷は主張。「ならば現在の八百万石を全額没収すべし」と大久保は言いはったが、桂小五郎は、「それは酷である。せめて百万石」と主張。 しかし薩摩派は、島津の殿さまを棚上げすることを桂に認めさせる事によって妥協した。 つまり長州も殿さま抜きで桂藩となり、西郷藩みたいな薩州と、黒幕の岩倉や大久保の指示で動いた。大村益次郎は呆れ返った。 「新撰組が陣地にしたから大半が焼けとる」とご親兵士官にするために、伏見奉行所で各藩よりの徴兵教育をいいつけられた大村はくさっていた。当人としては桂小五郎が〔もうちょっと良い役をつけてくれても可〕といった不満はあった。 しかし5月に入ると桂から、トウケイと改名された江戸へと急使がきた。なんだろうと単身品川へゆけば、「上野の山に浮浪がたてこもっとる。おまさんが退治するようとの桂さんの意でごわす」と迎えにきていた者から突然もち出された。 小男の大村益次郎は肉体的に圧迫感を催おすのか西郷をさけていた。話もせずだった。〔西郷は金持息子の相楽総三に人集めさせて御用盗に使い・・・薩摩屋敷焼討ちの際の生き残りは東山道軍の尖兵にし、信州で旧悪発覚と、皆殺した冷酷無惨な男〕と怖れていたのだ。 「いくら、勝海舟が芸妓だった女房の前の旦那から借りた金で、安くに旗本屋敷をみな買い叩いているから総攻撃はせんでくれと頼んできとっても、一戦もせんでは不可でごわす」西郷はわざと上野に旧幕臣共をあつめさせ、「ゴミば溜まったら焼く」と戦線布告した。 〔西郷一人にやらせたら後で長州の立場がのうなる〕と桂は京から、大村を至急よばせた。死んだ高杉同様に西郷嫌いの大村益次郎は、「ハヤト国独立の手伝いなど・・・・」と、いやがるので桂が西郷と交渉し彼を司令官にした。それでも大村はむっつりし不愛想だった。 雨の中でワラジがけで出陣する西郷を見送ろうともせず、大村は江戸城の中にいて、「薩摩苦戦・・・」と伝わってくるとニヤリとし、「鍋島のアームストロング砲ばうたせえ」と命令し一瞬にして上野を焼野原にした。西郷の面目は丸つぶれにしてしまった。 「東北の総司令も長州側となった」と、桂は喜び大村益次郎の手を握りしめた。西郷は面白くない。そこで、有村俊斉こと海江田信義はやがて京三条小路の大村益次郎を襲撃させた。下手人共が粟田口刑場で斬られる寸前、「弾正台より御命令だ」と彼らを逃がしたのだ。 大村暗殺の一月前の明治二年六月に二千石。ついで西郷は功により正三位。四年には、政府参議翌年七月には薩軍元帥近衛都督に昇進。「西郷や大久保めは代々の君恩を忘れ吾が島津の、国力を利用し、独立すると、わしを乗せだましくさって立身した」と久光は激怒した。が西郷は出世し威張っていたのではない。 「日本がだめなら朝鮮半島に〇に十の旗を」と、前殿さまの久光に進言、慰撫していた。しかし同じ加治屋町生れの大久保利通が、「今さら旧主のための征韓論でもあるまい」とてんで相手にせずまっこうから反対した。 かねて新政府にあきたらぬ土佐の板垣や後藤それに佐賀の江藤新平も共に辞任した。薩摩出身の昔気質の者は、旧主の為に、身を殉じて帰る西郷についてぞろぞろ帰郷した。鹿児島の北の寺山の丘に塾をたて、ついで西郷は私学校を作り各地に分校を設けた。 木梨精一郎、とよぶ男がいる。黒駒の勝蔵をつつき甲府城占領させようとした西郷腹心で東征軍の参謀に昇進していた。が戦は、巧くない。だから東北遠征は、大村益次郎の長州に指導権を奪われた。 「口惜しい」と私学校生徒も彼が煽動したのだ。〔ハヤト族は大和ちゅうとは、民族が違う。ひとまず薩摩ば独立させ、やがて九州を割拠し日本から分離させるしかない〕と大山格之進は鹿児島県令として、集めた税金を中央政府へは送らず私学校へ提供。別府晋介、辺見十郎太、村田三介ら旧陸軍少佐を区長に任命した。 「ハヤト国」として文武帝の頃に独立していた薩摩隼人の中にも、明治になると大久保利通のごとく新政府の実権を握って旧島津を思わぬ者もいた。川路の正之進もハヤトなのに逆に密偵を次々と送りこみ、火薬や武器を、大阪へ明治10年1月29日輸送替えしようとした。 「大村益次郎はとうに殺したる。もう恐いものはなか」と私学校生徒へ演説。 「虫よ・・・・・・・、虫よ、五ふし草の、根を絶つな。絶たば己も共、に死なん」と一万三千の薩摩健児は出陣した。さて、明治10年2月15日、熊本へ、宮崎とう天の兄の指揮する市民軍も参加し進軍。が、谷千城は必死になって熊本城を守った。「敬天愛人」の西郷の、遺墨から温厚な大人物に仕立てて、私学校の若者に坦がれやむをえず大久保新政府に対して出陣したと今はする。 しかし皇国史観による教育用西郷論である。己の写真や肖像画の一切も焼きすてて、「サツマの為に」とハヤトとして出陣した。西郷軍政下に薩摩国は、独立した。 そうなると明治7年2月の江藤新平の乱に組し佐賀県から逃げてきた者や明治9年の神風連残党も熊本から逃げこんできた。そして鹿児島は、「易世革命は西南から」と今の山口県までを含む新国家創立の意気に燃えていた。 「樺山三円は、西郷の幼時からの友ゆえ熊本鎮台参謀長にせい」と西郷の実弟従道をば、陸軍郷代理にした大久保はガンジガラメにし西郷を苦しめた。 孫が丸紅専務になって棘腕をふるうだけあって大久保は、薩人を、みな敵にする愚は避け有栖川宮を征討総督。第一旅団長 野津鎮雄。第二旅団参謀 野津道貫。別働第一旅団長 高島鞆之助。別働第二旅団長 黒田清隆。別働第三旅団長 川路利良。別働第五旅団長 大山巌。みな薩人のみを選んだ。 熊本城攻撃に敗れ田原坂で戦い三万の若者をなくし城山へ戻っても、まだ西郷隆盛は、「革命は最後まで死力つくすべきでごわす」と花々しく陣頭にたっていた。通俗史では、「東方に向かい頭を下げ切腹した」とする。実際は最後まで薩摩を守ろうと地元優先。桐野利秋、村田新八が倒れた後、腹と股を撃たれ別所晋介に肩をかり戦い、討死したのである。 【終わり】 引用参考文献・八切止夫著作「花の西郷隆盛」〔日本シェル出版〕 ☆ ☆ ☆ というように、明治維新政府は、長州の軍のほとんどが徴兵軍なので、実際は、西郷軍しか正規軍はいなかったといってよい。西郷軍が、薩摩独立に加担したので、薩摩兵を買収し、二分したのが大久保の策略といってよいだろう。 西郷は薩摩に共和国をつくろうとしたのに対し、大久保や長州らは、明治帝を傀儡にして、徳川幕府に代わる長州幕府をつくろうとしたことがわかる。やがて長州閥が帝国陸軍を牛耳り、薩摩閥が帝国海軍に追いやられ、薩長の仲違いが陸軍と海軍の抗争に発展し、メーソンのニセユダに原爆を落とされて終焉する。 つまり、西郷の日本建国の理念と、長州らの日本建国の理念は大きく異なり、出世欲の強かった傲慢な長州らが日本版律令カーストを保持したので、現実的で、西郷に勝ってしまったので、その強欲さが極まり、最後原爆を落とされる羽目になるのである。 靖国から西郷の話を抜粋紹介してきたが、西郷が薩摩兵を弔うのを真似て、慌てて大村がつくったのが東京招魂社でそれを全国的に拡げたのが靖国であり、いまだに長州出身と、他では差別されているようであるが、だから、西郷が靖国に祀られていないはずで、薩摩兵は、西郷がつくった方に祀られているからである。このことがバレないために、桂(木戸)は明治元勲の墓を無闇に建てる。 いまだに会津が長州に反感を抱くのは、白虎隊の伝承もあるが、長州に殺されていった徴兵たちの怨みが残っているせいに思われる。
2013年12月27日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 文久二年(1862)四月十日大島から戻ってきて50日なのに徳之島へ流罪処分にされた。「妻子のいる大島へ」と願い出た処、さらに遠い沖永良部島へ八月には送られた。大島の時とは違い久光の憎しみをかっていたから、孤島なのに牢を作って入れられた。 「先祖代々にわたり知行をやって食わせている家来が、島津の為ではなく御所の為とは不届である」と久光は、奈良原たちを寺田屋ヘさしむけ、家来の、有馬新七ら九名を斬殺させた。 さすが大久保もぞっとし身震いを覚えた。が久光は「お小納戸頭取」と待従長にした。文久二年(1862)八月二十一日大原重徳卿と島津久光の行列が横浜生麦へ掛かった時、イギリス人四人が騎馬で横切った。供頭が斬った。 一人を殺し二人に怪我させた生麦事件である。徳川家では10万ポンドの詫び金を承知したが、久光は下手人の処刑と賠償金を拒絶。交渉に六月末イギリス艦隊は薩摩へきた。東郷平八郎15才山本権兵衛。 七月二日鹿児島湾内の三隻が奪われた為、「撃ってよか」と大久保は砲台を指揮した。薩英戦争は翌日も続き鹿児島は焼払われた。久光はへこたれず逆に家来を密航させた。あくまで九州を独立させんとする肚だった。 「姉小路公共卿によって征夷の勅をえた島津は、それを大義名分に征夷大将軍たらんとしている」と伝わると、長州では毛利慶親が、「わしかて勅は貰っとる」とあせって出兵。 「先を越されてなるものか」と競合意識で、会津と共に薩摩は長州加坦七卿を追払った。元治元年(1864)二月二日エラブユリの花さくサンゴ礁の沖永良部島へ、一年半ぶりで赦免船がきた。 西郷は、鬼界が島へよらせ流罪中の村田新八をつれ出し大島へもよって愛子と一夜をすごし大きくなった菊次郎と、初めて見る娘の菊子へ頬ずりして涙を流した。山川港から上陸すると京へ向かい3月18日に久光にお目通りすると、大久保が側にいて、「おいどんば殿さまと帰国す、後はよかに」まるで命令するごとくに口にした。京に残った西郷は元治元年七月に蛤御門で長州軍と戦い吉田松陰の妹婿久坂玄瑞らを戦死させた。 将軍家茂が大阪城で病死。休戦となった。勝海舟が和平の密使とし安芸宮島へきた。長州側は広沢兵助や井上聞多が会見した。 西郷は英国公使パークスやアーネスサトーの力をかり、英国式砲兵隊の軍隊に変えた。大久保は岩倉具視と共同謀議にあけくれた。 「征長軍総参謀」の、肩書へ、かつての庭番の西郷吉之助は選ばれた。彼は村田新八や益満休之助といった連中を密偵に長州へ送った。戦わずに勝つ方法を西郷は仕掛けたのだ。長州は三家老に自決させ首級を届け降服。 「これでよか」西郷は作戦勝ちに満足した。「薩摩も独立の肚じゃ共に手を組まんと西郷さんば申しとるでごわす」のちの黒田清隆は、桂小五郎にあうと正面きって申しこんだ。長州も一国では心許ないから承諾をした。西郷は約束を守って弟二次征長軍への派兵は拒んだ。だからか20万の兵でも攻めあぐんだ。 久光の考えかどうか、家老小松帯刀より、「岩山八郎太の娘いとと祝言せい」と、慶応元年一月二十八日39才の西郷は新郎にされた。「今度が三度の上の目か」未体験のおごじょの嫁を、いとおしむよう優しく扱かって、「おいどんの上へ跨がるがよか」といった。 久しぶりに新婚気分を味わっているのに、「京へ来ちょくれ」と大久保がいってきた。「長州が割拠というて独立ばすると、高杉とか桂らが騒いどる、また長州征伐だそうな」物騒な知らせが入ってきた。西郷はすぐ、「おはん長州へ行け」と黒田了介をだした。 その結果が、松平容保を親任されていた孝明帝の急死となった。少年の帝がたたれた。「今でごわす。出京して九州独立のため京坂を国境にして、長州に守らせたらよかでごわそ」大久保に言われた通りを久光へ報告した。 「念願のハヤト国か」と島津は開戦をきめた。なのに坂本竜馬の進言で、土佐山内容堂が、徳川慶喜に大政奉還させてしまった。 「ふらちなやつだ、殺したれ」と大久保は怒り、西郷には内緒で刺客をむける算段をさせた。が、和平気分が京の御所を支配しだした。「弱り、もうした」西郷も首ひねってしまった。 「長州へ落ちのび今では九州大宰府の三条卿以下の復位。正式に岩倉具視の処分解除」そして、その日、新帝の母方の中山忠能卿は、土佐の陸援隊へ高野山を占拠するため出動させて、御三家の紀州藩の牽制をさせていた。 薩摩の大久保から、「御玉音で、勅許がおりた」と発表された。だからして大村益次郎のごとき単細胞は、「・・・・まったく訳が分らん。御国〔長州〕はどないになるんじゃろ」と眉をいかめ考えた。 12月9日。徹夜の会議がすんで徳川慶喜が退出した後、岩倉具視が参内して、はっきりと、「王政復古」を奏請した。帝はまだ幼少。 朝までは和平会議だったが、恐い顔をした岩倉具視に奏上されると、脅えたように、「あッ、そう」とだけ言われたという。大阪から御所へ参内した徳川慶喜は、なんとかして平和的にと会議している間に、薩摩の大久保と岩倉がどんどん戦争の用意をした。 「まるで平行線じゃ。どうなるんじゃろうな」と大村益次郎も双方の情報をきき迷っていた。しかし岩倉と大久保は三井に命じて銀の有るだけを出させ、土佐だけでなく安芸の広島から尾張、越前といったインフレで困惑している雄藩に、みな金のクツワをかませた。 よく、義理と人情をハカリでかけりゃ、義理が重たい男の世界と唄にまでされている。が義理とは困った時に金を貰ったり、その金で助かることである。人情とは単なる感情である。つまり感情より勘定の方が重いというのである。雄藩連合が三井の銀で成功した。 小栗上野介の信任をえて弾左ヱ門家や徳川家の一切合財を押さえていた三野村利左ヱ門を迎えて番頭にした三井は、その金を逆に岩倉へ廻し討幕資金にし鴻池を蹴落した。それも現銀でなく為替紙を発行してあてた。 「土佐の山内容堂侯は内ゲバせんとなんとかまとめようとしたというが、西郷が凄い目つきで、文句があるなら徳川より土佐を先に血祭りにあげると脅かした。海援隊はあっても坂本が死んでは何も期待できんし、陸援隊も中岡なき後は薩摩の傭兵化して中山卿についている。土佐も仕方なくうなづいたそうだ。いったい、どうなっとるぞなもし・・・・」 「西郷や大久保といった薩摩っぽは恐わい。どこまで彼らはやるか見当もつかんでいかん」とせっかく兵庫まできたが、大村にはどうしようもなかった。桂小五郎も同じだったろう。なにしろ御所でも、大騒ぎだったから。 いつの世でも黒幕の力はもの凄いもの。京の二条城に会津桑名の兵と共に一万の精鋭はいたが、徳川慶喜はやむなく京を引き払い大阪城へ入った。もはや京には幕軍の手の者は新撰組すら伏見へ追われていなかった。 「このまま、もたついては如何でごわすか」と西郷吉之助はすぐさま江戸へ薩摩屋敷にいた千葉門下の相楽総三に早飛脚をたてた。 「すぐさまに事をおこせ」との命令である。親の金で同士を集めていた相楽は直ちに、「よし、やっちゃる」と庄内藩の支藩屋敷へ鉄砲をうちこんで挑発。酒井の侍どもは勢揃した。そこですぐ、「もう我慢ならん」と25日に三田薩摩屋敷へ焼討ちをかけた。28日に大阪へ急報された。 「もう我慢の緒がきれた。薩摩討つべし」と大阪城に集結した旗本や諸兵隊、それに会津や桑名の兵は激してしまい、慶喜は、「討薩表」をかかせ大目付滝川土佐にもたせて島津忠義へ詰問使をだすことにした。まんまと西郷大久保岩倉ラインにのせられた。 「高杉は世の中に恐いのは西郷隆盛じゃ言うて、いくら逢おうと求められても嫌がって、逃げていらしたのにああした恐かおひとについて戦ばするのは、どうでしょうな」とあまり気の進まぬ大村益次郎は、「わしゃ出んでもよかでしょう」と口にした。 「大村さん・・・・とうとう来るところまできたぞな。ああたは三兵塾で育てた士官らに歴戦の諸隊の兵を、薩摩の言いなりに出して味方してつかあさい。それしかあかへんぜ」と顔をしかめつつも、桂小五郎は口にした。 「うん、しかしそうせなお国の長州が、後で西郷や大久保にどない目に逢うか分らん。まあ品川弥次郎が来とるけん。あれに指揮させて、薩摩の尻にくっついて行くしか、他には何もあり申さん」と桂小五郎は神経質に目をまたたかせ、ぶすっとした大村を諫めた。 その頃、岩倉具視も大久保一蔵や西郷へ「おはんらの薩摩の殿さまが、〇に十の字の旗をたてて天下統一したら、公家は一体全体どうなるんじゃ」とやはり危惧していった。 「まあ、そのことなら西郷どんに任せて貰わな、いかんでごわしょう」と大久保は薄笑いを浮かべて、ぬらりくらりとしてみせた。「すると次のえらい様は徳川に代わって、薩摩の殿さまが天下をとり、鹿児島がお江戸にとってかわるんですかのう」とずんぐりした身体を折りまげるようにして率直に大村は尋ねた。しかし桂小五郎は蒼い顔で無言だった。 当の西郷も、ただ笑って大きくうなずき、「よかしますでごわしょう」力強くいった。「なら一国一城は貰えるな」と岩倉も答えた。 しかし島津の殿さまは、二百五十年続いてきた主従関係をあくまで信じきって疑いをもとうとはしていなかったので、「西郷や大久保は世が世なら目見得以下の下賎な者らであるが、このたびの天下創業の働きはアッパレじゃなかか」と口にして、笑った。 「天下平定のあかつきには西郷には10万石大久保には5万石ほどの城持ち大名に取立てやるに、ヤブさかではない」といった。「有難き仕合せ・・・・」小松は平伏して答えた。 慶応四年1月3日。討薩表をもって島津の本陣へ向かおうとした滝川土佐守は、鳥羽伏見で薩長兵に阻止された。随行の旗本共は、「将軍家に対し奉って非礼である」と息まき実力で強行突破しようとした。が、「ババーン、ババーン」と伏せの構えをしていた散兵線の餌食にされてしまった。 侍どもは「イモや長州の木こりに負けるな」と先祖伝来の槍のサヤをとって突入したが、近づく前にバタバタみな撃ち倒されてしまった。なにしろ薩長兵は三千余りでも、銃は南北戦争でグラント将軍が押収した南軍の元込エーゲー銃。硝石も新しい払い下げ火薬である。てんで戦いにもなにもならず滝川土佐は「かくなる上は斬りこめ」と叫ぶのみだった。 処が滝川土佐についていった旗本共が持っていたのは江戸から担いで来た火縄銃。火薬は大阪天満に積んであった寛永時代からの湿気をおびたもの。撃っても鉛玉が転がるだけ、まるで小石をぶっつけているみたい。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月27日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 「・・・・困りもうした大奥では反対でごわす」西郷は頭を抱えて困っていると樺山が、「慶喜公は格別どうという事はないが父君斉昭公が、大奥へ入りこんでは女中の尻まくりなどやられたのがたたっている」と教えた。「水戸は吝だ、金のせいだ」と有村はいった。「なんと申しましても難しゅうて・・・・」 「うん、島津一族の安芸の娘篤子を近衛家養女にし大奥へとつがせ、薩摩の力で大奥の反対派は押さえるつもりだ。なら巧くゆこう」、「はあッ恐れ入りもうす」と西郷吉之助は手の内を洩らしてくれる殿様に、ただ感激しきった。 安政四年四月、すべて実行に移して島津家の行列は西へ向かい京へよった。西郷は、「梁川星厳、頼三樹三郎、月照」といった世の噂にのぼる人々を・・・庭番の役目として逢いにゆき接近し彼らの実状を見たまま殿ヘ、「意見書」の形式で、報告する仕事をした。 5月24日に西郷吉之助が薩摩について間もなく、慶喜派の老中阿部正弘が39才で急死。 こうなると大奥へ入った篤子の力で、どうもなるものではなかった。そこで西郷をよび、「この侭ではどうにもならぬ。身分は、庭方でも余の代理のつもりで江戸へ行け」と命令。 「かしこまって・・・・」と11月1日に出発し、12月6日に江戸へつくと東湖は死んでいないから、西郷はやむなく橋本左内の許へ行った。「とても江戸では手も足も出せぬ。京へ行って次の将軍は慶喜を、といった勅を貰う」と橋本左内はずばり思いきって打ちあけた。 しかし二人はつれだって京へきたが直接に動いては人目につく。そこで清水寺へゆき、「月照和尚おまえさまなら坊さまゆえ・・・・」と近衛家の連絡係とし勅命を乞わせた。 もちろん握りきん玉ではない。三万両今でいえば三十億の現ナマがワイロに使われた。「日米条約のご聴許との交換に」と老中堀田正睦も、黒いピーナッツを貰って承諾をした。 しかし反対派の井伊の家来の長野主膳が、当時のロッキード事件の核心をつかんだ。圧力に脅かされて貰った金を返して寝返りをうつ者が、あいついで出てきてしまった。彦根の井伊はそれを手柄に紀伊の家茂派を統合し大老職になった。 「かくなる上は武力をもってしても・・・・」と、島津斉彬は覚悟をつけたが一藩だけではと、「これ西郷、そちは余の親類の筑前と山内容堂の土佐に味方するよう話しをつけてまいれ」 島津斉彬にしてみれば、先祖伝来からの、「九州独立」の悲願のため、お由良の孫を世子にしてまで藩内統一を計ってきたのだ。「なんとしてでも一戦に勝ち余の意中の者を将軍につけ、ゆくゆくは鹿児島を江戸に!」との意気ごみで出陣の仕度をふれさせた。 処がである。6月19日に、井伊大老は先制攻撃にでて、京で三万両がばらかれた時に格公卿に仲立ちした髪結や商人を一斉検挙した。そして下から証拠固めをし水戸京屋敷鵜飼父子から誰彼の容赦なく六角の獄へ下した。密勅よりも贈収賄罪として大疑獄にした。 京では宮様か公卿を江戸では御三家の水戸や、尾張や越前松平慶永まで謹慎処分にし、「ものはついで・・・とかくの噂のある輩は何処の家臣でもみな捕えい」と戒厳令をしいた。 橋本左内、梅田雲浜、頼三樹三郎、長州から吉田松陰まで護送させてきたのである。「後でくいをのこすな」と井伊大老は、片っ端しから虐殺みたいに、どんどん斬らせた。「こりゃいかん和尚・・・おいどんと逃げもっそ」と、清水寺の月照の身を案じた西郷は、「殿の命令でした事ゆえ助けて貰えもうす。薩摩へ行くがよかでごわす」とせかした。 「・・・・えっ殿さまが御自身で藩兵調練指揮さなさり倒れたのでごわすか」と西郷は驚いた。「二人とも江戸表より手配されていもうす」斉彬が急死したので藩の役人は態度一変。たわらやとよぶ宿へ軟禁され見張りがつき、11月15日になると月照死刑が伝わってきた。 月照の身を案じ京からそっとついてきた平野国臣が船を見つけて、「これに早く、おのり下さい」とのせた。 「ここらには小さな島が多うごわす。身を匿すには何よりでよか」西郷は元気をつけた。「和尚さん海ば逃げもっそ」と西郷はそっと宿の裏手から逃げた。京からの月照や平野国臣は知らないが、〔殿が亡くなった今は、お由良派の天下〕と、西郷はもう逃げる行先のないのを知っていた。 だから沖合いまで舟が漕ぎでると月照へ、「おいどんは、おはんだけは死なせはしたかごわせん・・・・」泣き声で耳許へささやいた。「・・・・えっ」月照が振りむいた処を西郷は、「ごめん」と抱えるように共へ海へ転げた。 ザブンと大きな水柱がたって二人とも海原へ、まっ逆さまに落ちていった。 平野は、「大変だ・・・・誰か来てくれ」と動揺して、近くにみえる漁舟へ大声だして救援を求めた。浮かんできた処を引き上げられると、大男の西郷は水だけ吐くと蘇生した。しかし月照はいくら手当てをしても息はもどらなかった。 「生き返られては始末に困る。食いぶちに年六石を送ってやるから奄美大島へ行き、名前も、変えて暮せ」と西郷は厄介払いとなった。「菊池源吾」と、名を与えられ、安政六年一月に、砂糖舟で島送りと、なって一年がすぎた。 島流しみたいな味気のない日々をすごし、「殿さま」手を合わせて亡き斉彬をしのび、「先生・・・・」と藤田東湖へよびかけたり、「橋本左内、梅田雲浜」と名を口にした。 「ハァ島で育てば娘16恋ごころ・・・・」と、仁王立ちして海を見つめている側へよってくる娘がいた。 しかし33才の男ざかりではあるし、他には、何も身を打ちこむ事もない身なので、「ここんとこばうちこみもっそ・・・・」と、下半身に気合をこめ汐風の中でたけりたった。「あんご」とよぶのが、奄美大島のおごじょがなる島妻である。 愛加那にしても、本島からきて何もせんでも米の仕送りのある男は魅力だったのだろう。じっと抱かれたままで「わがものと思えば軽し大男」と、小柄な娘はこらえ、決して重いとはいわずだった。 浜木綿の咲く丘で愛加那を抱えていると、「大きな牛のごとあるでごわそ」と、身体全体か、それとも部分的をさすのか、漁師の子らが屈みこんでは指さしてはやしにきた。いくら開放的な島でも、これでは困る。やむなく愛子と名をかえ己が小屋へつれこんだ。 「なんにもやることがなか・・・・」と日夜わかたず抱いていたが、気の優しい大男は、「重かでごわしょう」と時には自分が下になって愛子を上にした。芭蕉葉の小屋だから、「まる見えだ、こま廻しみたいでごわそ」子供たちが面白がってよく覗きにきた。 四月になって意外な知らせが入ってきた。「若いとき胸をやみ薬食いに牛のソープを服用の水戸斉昭が、かねてより近江牛を賞味して那珂湊へ送って貰っては名産の梅漬を送っていたのが、不仲になってから送荷がない。そこで殿中で頭を下げ頼んだが断わられた」 「君恥しめられれば臣これに死すと、近習以下が桜田門外で斬りこみ、かねてよりの、水戸の恨みをはらしたが・・・町人は深くは知らず、モウ御免と桜田門、牛肉騒動とみている」といった話であった下役人にはそれきりの風評。だが、安政の大疑獄大検察のボスの死である。 「よか、よか」すっかり有頂天になった西郷は、「・・・・立ったまま致すでごわすか」と、愛子がびっくりするくらい、抱きしめたままで狭い小屋の中をぐるぐる廻りして喜んだ。「これで橋本や梅田、それに月照の霊も浮かばれもっそ」純情な大男は踊って泣いた。 〔検察大ボスの井伊さえ死んだものなら、すぐにも本土へ戻れよう〕と、西郷は考えた。正義の味方スーパーマンぶりに変身をした。島民に泣きつかれると代官所へのりこみ、「弱い者いじめするな」と入牢させられたのを鍵をとりあげて勝手に解放してのけたりした。 「けしからん越権行為である」と相良代官は真赤になって怒った。しかし代官手代は、「西郷どんは戻れば、おいどんらより豪うなる、ここは辛抱さっしゃりませ」意見した。 どうせ近く帰るのだからと取っておき米も島民に配り西郷は帰心矢のごとしだった。が、なかなか呼び戻しは来なかった。文久元年(1861)正月には、後に初代京都市長となる菊次郎が、愛子からうまれた。西郷には35才になってようやくの始めての子だった。 「坊ずよか子じゃねんねさっせ」と大きな身体に赤ん坊をせおって浜であやしつづけた。「ああたがしょっちゅうお入れやんすから、また・・・・」と愛子が次の受胎を知らせたが、「よかよか35で初めての子、ついで二度目」西郷は目を細くして喜び菊次郎をあやした。西郷吉之助は、「又なされたら腹の中で双子になりますが」という愛子を下から抱えあげて愛撫した。 扶持米月一石に増えていたから貧しい島では子守りがやとえた。 西郷は二度目の子をはらんだ愛子を潰さぬよう上へ抱えあげては、「他にする事はないから・・・・」と持て余した精力の放出にあけくれ専念して暮した。が年のせまった12月に入って船がきた。「生まれて一年、坊は可愛いさかりだし次のも、腹へ手をやると動いとるのがわかる」今でいうマイホーム主義みたいに西郷は、心配していった。 「いくらお呼び戻しの使者がき申しても、すぐにはいけもっさん」と始めは首をふった。島での妻子は伴えぬ掟だったからである。「仕方ごわせん、子はちゃんと育てます」愛加那に戻って愛子はきっとし口にした。「そうは言うてもな・・・・」子故に迷った。 使いの者は連日せっついたが、西郷は一日のばしにした。子供をあやし、愛子を昼も、夜もかかえこんで顔をくしゃくしゃにした。しかし二月になると、もはや我侭は通せなくなった。かつては怒鳴りこみに行って勝手をした代官所へ、大きな体を縮め訪れると、 「済まんが金や米は送りもっす、よろしゅうに残った者らをお頼み申すでごわす」頭を下げ手をついて、くり返し何度も後事を頼んだ。「どうしたか、ちっとも戻ってこんで待ちわびとったん」と、後の大久保利通らが迎えにきて手をとり抱きついて喜んでくれた。 「まる三年ぶりじゃな、大久保が久光さまの碁の相手に出仕し、ご気嫌をとって迎えの使者を出させたのだ」と、有村が耳打ちをした。「言うなれば吾らにとって仇でもあられる御方へ、おいどんば、助けんと節を売り・・・・」と西郷は大久保の友情の厚さに落涙した。 しかし樺山はくすくす笑って低い声で、「大久保は抜け目がない、碁を習い上達した・・・のも久光さまへ己が為に近づく為なのだ」と、のち孫が丸紅の大久保専務になるだけあって策士の彼は、久光と碁をうちながら、「兵をひき上洛なされませ、京を押さえて天下・・に号令されては・・・」とあけくれ進言していた。「鹿児島を江戸にするため、京までか・・・・」久光も薩摩の独立心は強いから合点した。 「先発して下関で待機せよ」の命令で西郷は、旅だったが、諸国の浪士は真意がわからず、「島津さまは吾らの後詰に出陣して来るぞ」はやりたって騒ぎだし京大阪に集結した。「放っておけん」と西郷は出かけた。久光は、「わが命令にそむくとは・・・・」と激怒した。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月27日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 「イモくってプウー・・・・西郷どん臭うごわす」 「はぁ気いばつけます」と小さくなるのへ、「郡方の勤めは百姓からの年貢どりだ。ちょっと巧くやればイモでのうて米の飯くえるぞ」 同輩から言われても、西郷は首をふって、「百姓はそう苛められん」とことわった。 この年は12月から弘化と変わるが、シーボルト事件から17年たち、大塩平八郎の乱から8年たっているが飢饉が続き、薩摩も冷害。 三年前からの天保の改革も失敗老中水野は引退、阿部正弘が変わったが、やはり寒冷は続き百姓は年貢分さえ収穫できずだった。「・・・・ひもじか」と吉之助は唸った。 子供のときには大食だったというが、次々と弟妹が生まれ前年には後の西郷従道となる信吾さえ生れ、「弁当がこないな小っぽけな芋一つでは」と情けそうに腹をなぜたが、だからといって役得みたいに百姓家で飯も要求しかねた。 「なにも正義漢ぶっとるじゃなか。おいどんは気がこもうて百姓によう言えんのじゃ」と見かねてヒエ飯を碗にもってきた百姓娘に吉之助は、大きな身体を小さくしていった。 「飯がいらにや、こっちがよかごわすか」娘は他の役人と同じかと前をまくった。 「いけもっさん、腹が、へっては戦はできんでごわす」とせっかくの、馳走だが首をふった。そういう事をすると子供ができて、ますます食糧の事情が悪くなる、と本能的に拒んだのだ。 「上の口も下の口もことわらっしゃるのは、たんと年貢かける気か」と娘は泣きかけた。 「うん、困ったな」吉之助もとまどった。「ひえ飯を振舞うて貰っては後が困ろうな、では使うてもへらぬ方を・・・・」と掛かったが、「・・・重い、おし潰されもっそ」とかぼそい娘は西郷の巨軆の下で悲鳴をあげた。 そこで、「やっぱりやめもっそ」すたこら逃げた。しかし娘を安心させる為とはいえ恰好だけでもなした事は、後悔。自己嫌悪におちた。「淋しさに負けた、貧しさに負けた・・・・おいどんの身体の重さに負けたんじゃなかぞな」 次の見廻りのとき西郷はやさしく、娘の家の年貢を出せる範囲にまけてやった。 「嘉永二年三月に江戸大火で伝馬町大牢がとき放しのままで高野長英が行方不明」と、まさか薩摩まで逃げてはくるまいに、郡方へ手配書が廻ってきた。西郷は高野など知らぬ。 しかし禁止のオランダ学者だと教わると、「世の中が変だ」と想うようになった。が、薩摩も大変なことになった。殿の斉興には正妻の子の斉彬に江戸の舟宿の娘お由良のうんだ久光がいた。跡目をどちらにするかで藩内は二分して対立していた。西郷は、「父が厄介になっている赤山さまが斉彬さま側ゆえ、おいどんも」自分の立場をきめた。 「まさか殿のお子を刃にかける事はできぬ」と久光が早死にするよう祈とうしたのが発覚。西郷家が出入りの、赤山ら十四名へ切腹。遠島が九名閉門も十四名と大弾圧があった。「高崎くづれ」と呼ばれ大久保の父も遠島。伜の後の大久保利通も謹慎を命じられた。 「わしもすんでのとこ引っ掛かる処だった」父吉兵衛は青くなったが吉之助はすぐに、「親じどんの名代で」と赤山邸へ行った。「よかよか」丁度いま切腹しかける処だったが、「まあ、よく見ちょれ」と腹へ突き刺した。が直ぐ死ねるものではない、のたうった。 「あんな立派な方でも切腹では巧く死ねぬ」24才の西郷吉之助は妙な悟りをひらいた。翌嘉永四年二月斉彬が43歳で当主になった。「鬼界が島へ流された大久保の父も許されて戻ってくる」と、当てにしていたが何の沙汰もない。どうなっとると吉之助は考えてしまった。 「久光さまの母御とはいえ、かつては今の殿を亡き者にせんとしたゆえ、奸婦お由良の方は御成敗あってしかるべきではないか」と、のち海江田になる有村俊斉は激昂し、「今なら叩っ斬っても罪にはなりもっさん」とまで口にしたが、皆が諫めて止めさせた。 ようやく藩主になった斉彬にしてみれば、「家来が二派に分かれ、跡目争いの煩わしさは、もう沢山だ」と、静観していたきりだ。しかし西郷らは張り合いぬけしクサった。男は熱中して打ちこむ当てがなくなれば、「代わりに・・・・」と女をほしくなるものだ。 「どうも、あれはおかしい年頃のせいかも」父吉兵衛は気をきかして伊集院の俊子を、「うちの嫁にと・・・・」貰いうける事にした。 かぼそい娘だと重いといわれるかと案じ、「おいどはでかごわすか?」と西郷は前もって、器量よりも娘の体の尻を気にし尋ねた。 「ずんぐり胴ばしとる。あれなら飯くわんでもやせはせん、経済的な、嫁ごじょでごわそ」子沢山で食わせるのに苦労している父は、俊子のことを賞めた。それゆえ吉之助も、「なら、よかでごわしょ」と逢ってもない娘だが、女なら誰でもと親の言いなりにした。 余裕はなくとも嫁とリとなればイモ焼酎で宴をもうける。大久保や有村もきて酔った。西郷も花嫁はそのままで仲間と騒いだ。やがておひらきとなった。が、気の優しい彼は、「よかでごわしょか?重たうなかか?」そればっかりを気にして嫁をいたわった。 「天は二物を与えたまわずとは、この事か」と次の日の朝、初めて嫁の顔をみて唸った。西郷の巨躯を浮かせ盤石のごとく頑張り、「重い・・・・」と悲鳴をあげぬのは良いが、アバタだらけの面相は桜島の噴火で海面にブカブカしている軽石みたいな風情だったからだ。 「おごじょは顔ではなか心さえ美しけりゃ、それで良かでごわそ」とあまりのブスに西郷が顔を尖らせるので、父親は意見してきた。「ものは買う時には先によく見ろというが、嫁とりするときも下ばかり覗かんと、上の方も、よく検分してからにすれば」と悔いた。 「・・・・後悔は先にたたず、というが、どうも軽石を抱くと変な気分になるんでいけ申さん」 せっかく嫁とりをしたのだから、早く帰宅ばしろと言われても西郷は戻りたがらずに、「御用繁多でごわそ」と郡代詰所に夜遅くまで居残りし帳面を見ている事が多くなった。 初めは時間つぶしの恰好で古帳面をめくっていたのだが、どうも、帳尻が、変だった。ためしに算盤を入れてみると計算が合わぬ。片っ端から調べてみれば呆れるばかり。 「これでは百姓も無茶に取られて困ろうが、御国の方も大損をしている」と発憤した。「殿さまへ、かかる不正がまかり通っていますと上申書をかこう」と、軽石の妻の顔をみたくない一心から意見書がきを始めだした。 「・・・・あなたさま」嫁が声をかけて来ても、「わしは役所では出来ぬ仕事を家へもち戻ってしとるんでごわすぞ」寄せつけずだった。 〔はたして殿のお目にとまるかどうか〕と吉之助は余り当てにしていなかったけれど、「来る参勤交替には供の数に入れる」と、郡方の書役へは破格の通達がきた。父吉兵衛は、「なんでじゃ」と不審がった。が当人は喜び、「わしの殿は読まれたのだ」と感激した。 安政元年(1854)一月十六日、南国薩摩を後にし行列の江戸到着は三月六日だった。「中小姓」の身分に郡方書役から昇進した吉之助は、嫁の軽石顔を、みずにすむだけでも有難いと生れて初めての高輪藩邸へ入った。「やるぞ・・・・」すっかり当人は張りきった。 「庭番を命ずる」と沙汰されたのには驚き、「・・・・・えッ」と吉之助は聞き返した。なにしろ中小姓役で恰好よく出府したからである。「お庭番と申せば公儀でも伊賀者の賤役とされているが、殿は、こまめに書いて差出す其方を見込まれたのだ」と上役からいわれた。軽石の妻が厭やで連日のごとく書いて出した意見書で、西郷は江戸へ来られたのだ。 「そうでごわすか・・・・」確かにこまめに意見書はかいて出している。だから庭へ出られた時の殿の側へゆき、命令をされた通り探索し詳細報告書でだす役にされたのかと唸った。 「まあ加冶屋町の者の身分では庭番であれ、殿に直接にお目もじができ御言葉を賜れるのは、実質的には将来の為によかごわす」樺山三円のちの資之が慰めるより励ました。 「そういうもんで・・・・」先輩の言う事ゆえ、西郷吉之助も渋面を作ったが承知をした。己れの郡方役所の不正をあばいた内容よりも、丹念に書いて出したレポートの書きぶりだけが認められたのではスッキリしなかった。 なのに殿から与えられた最初の仕事は、「水戸の藤田東湖や、前の橋本左内について知りたい。詳しく調べい」との任務だった。 「行ってあうがよかでごわすが、一人では」と人見知りする西郷に樺山が付き添った。東湖の父は古着屋の小僧だったのを、水戸の斉昭が拾い士分に取り立てたと聞いていたが、「庭番として御奉公か。大きいですぐ見つかりますな」と身分を軽蔑せず優しくいった。 〔身分をいやしまれるのでは・・・・〕と、大きな身体を縮めていた吉之助も酒を出されて、「まあ一緒にやりましょう」すすめられて、「ハァっ」と受けている内に気がなごんだ。 「君のような純情な青年はよい」いわれて、「おいどんも先生が好きです」口に出した。一度あったきりにすぎなかったが三日がかりで、藤田東湖こそ天下一等の人物なり、と西郷は殿への報告書には賞めちぎった。 しかし橋本左内のような才子肌とは西郷は合わなかったらしい。軽薄である。医の出ゆえ東光派の賤しい者と始めはこき下ろした。 「越前の松平春獄と提携する」と殿がいい、やむなく西郷は橋本左内と会合が多くなり、「彼は当代まれにみる英才」と後には、賞めるようになるが、当初は、橋本も西郷の事を、「大男総みに知恵が廻りかねる愚直者」と帰った後で妻に話した程で、かっていなかった。 七月に入ると殿が急病、世子の虎寿丸も病気になった。幸い大人の方は助かったが、六才の若君は亡くなった。そこで西郷らは集まり、「お由良の方が殿父子を一緒に呪いにかけたのでごすぞ」と、国許へ使いを飛ばせた。 「奸女斬るべし」と暇をと殿へ願いでた。そして殿はすぐ、「由良の子の久光の忠義を、虎寿の代わりに世子にする」と争いを防ぐために宣言した。 「・・・・何しに薩摩へ行くか」と聞かれた。正直者の吉之助は問い詰められて答えた。「由良を斬って虎寿が生き返るか」と、単細胞めがと叱りつけられた。 安政二年(1855)十月二日、東海大地震。大きな西郷吉之助が庭の泉水へドブーンと落ち、大きな水しぶきをあげ大騒ぎした。高輪の藩邸も傾き三田へ新築となった。江戸の大半がぺしゃんこに潰れてしまった大地震で薩摩屋敷でも20名も圧死がでた。 「えッ先生が・・・・」と樺山三円にきき西郷が濡れたまま水戸上屋敷のあった今の後楽園球場までゆくと惨状はここも同じであった。 「東湖先生は母者を助けようとして代わりに、ご自身が天井の棟木の下敷きになられた」と聞いて西郷はワァワァ泣きに泣き通した。 「遠山の金さんこと前町奉行の左衛門尉も、やはり棟木につぶされ山内家出入りの相政が駈けつけ助け出していたが圧死していた」というように色々と話しが聞こえてきたが西郷吉之助は、「東湖先生に死なれては、わしも死にたい」とたけり狂うように引きこもり泣き喚いた。 薩摩では伊集院から嫁にきた俊は、西郷から近く戻るとの手紙で帰りを待っていた。しかし殿さまに問い詰められ反対されて、戻ってこられずになったとは知らないから、「私の事を嫌っていなさったからじゃろう」と親元へ戻って怨みごとをいってきた。 「あの軽石め、何を怒っちょる」と西郷は藤田東湖の死で胸も頭も一杯で放っておいた。だから、俊は返事もこないのに、ますます立腹したらしい。自分では書いてよこせぬから実父から江戸へ離縁を求めてきた。西郷も「仕方ごわせん」とあっさり承諾をなした。 「次の将軍家には水戸の一橋慶喜をたてるよう画策せい」と、呼びつけられ命じられた。殿さまの鶴の一声である。庭番としては、「かしこまってごわす」と、すぐ行動開始。しかし77万石でも薩摩は外様大名である。 ☆ ☆ ☆ 次回へ続く。
2013年12月27日
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前回の続きだが、前回の話から、東京招魂社が長州の神社であることがわかると思う。では前回の抜粋紹介を続ける。 (13)薩摩藩の戊辰戦争戦没者慰霊碑 ただし、この京都護国神社には、薩摩藩の招魂社〔各藩の招魂社とも小さな祠として存在している〕は最初から存在しないことに留意しなければならない。ここには薩長連合を画策して長州藩軍の近代化を成功させた木戸孝允が私的を投じて建設した碑には薩摩藩士も一部加えられているが、公式すなわち、政府の太政官令によって作られた招魂社および墓には、薩摩藩士のものはないという重大な事実があるのである。 最初の維新政府の招魂社である京都招魂社に薩摩藩の招魂社がないのは、表向きは薩摩藩の招魂社はすでにきちんと薩摩ゆかりの寺院にできているからということになっているが、ここにはその公式的な見解を疑わなければならない歴史的事実がかいま見えるのである。 すなわち、薩摩藩の戦没者碑は、慶応5年の太政官令には全くお構いなく、明治2年5月に京都招魂社とはまったく別のところに出来ているのである。薩摩藩藩主であった島津家の菩提寺、東福寺・即宗院の山手の一角にある薩摩藩戦没者の慰霊碑がこれである。 西郷隆盛は、かつて幕末の大変な時期、自身が潜伏していたことのあるこの即宗院に籠もり、全身全霊をもってこの顕彰碑を書き上げたという。 実は明治2年は、大村益次郎の東京招魂社が出来た年であることはすでに説明した。即宗院の霊碑とは違って、東京招魂社はそそくさとした突貫工事で6月28日に仮殿ができているのである。 つまり、東京招魂社は、この西郷の霊碑ができたあとに出来ているのである。それも、数日間という突貫工事である。ここに、西郷が自藩の戦没者だけを全霊を込めて供養したということに、大いに焦りを憶えたであろう大村益次郎が、東京招魂社を慌てて急場こしらえで作り上げたという可能性を示唆するものであることが理解できるであろう。 だからこそ、東京招魂社は政治的なのであり、強大な独立勢力薩摩に対抗しようとした大村の意図が、この招魂社を巡る事実からも浮かび上がってくるのである。東京招魂社は、もともと戦没者の供養のためにできたのではなく、薩摩を仮想敵と決めつけていた長州大村益次郎が仕掛けた西郷・薩摩藩兵軍団攻略のための一つの装置であったのである。 ここに東京招魂社の本質があり、現在も戦没者のためではなく、政府に敵対する勢力への政治的圧力装置として作動する、おかしな靖国神社というものの原点があるのである。 (14)薩摩軍の独善的動き この東京招魂社が出来上がる時期、薩摩は何をしていたか。明治2年1月、大総督府参謀兼参与であった西郷は職を辞し、薩摩に帰り、薩摩軍の再編成をやっていた。当時騒然とした世の中で、明治政府自身には直属の軍隊というものがまったくなかった。維新政府軍とは、いつまでたってもいわば寄り合い所帯の指揮権がばらばらの軍隊であったのである。 大久保らの廃藩置県という大事業をまえに、旧大名は不平士族の反乱がいつぞや起こるかも知れない、維新政府の立場はまことに危ないものであった。西郷は西郷の考えで維新政府をバックアップする軍事抑制力として薩摩軍の拡大再編成をやったのであった。 のちに山県有朋が直接西郷にねじ込み、この軍のうち四個師団が薩摩から、御親兵として東京に移動し、のちの近衛兵となるのである。このときは同時に長州から三個師団、土佐からは二個師団が上京した。ただし、もちろん薩摩の西郷が動かなかったら、この御親兵の編成も不可能であった。 ところで、江戸開城の後の彰義隊の追討戦のとき、西郷は単なる薩摩藩兵の指揮官であった。たんなる長州藩軍事係りであった大村は、三条ら長州系の公家の支持を受けて、西郷を出し抜いて官軍全体の指揮をとった。補給をも含めた緻密で効率的な官軍のあざやかな作戦立案に、薩摩士官たちも口をつぐまざるを得なかったのである。 (このとき、大村は薩摩兵を大量に見殺しにしたので、薩摩人に逆に怨みを買って、暗殺されてしまう。) 薩摩の東福寺の慰霊碑とは、まさに西郷が官軍最高の地位を辞して、地元鹿児島で、自軍を最高の軍隊に仕立て上げる最中に、しかも西郷自身の筆で完成されているのである。たしかに、この慰霊碑には長州の戦没者はまったく含まれていない。 一方で東京招魂社には、長州人も薩摩人の区別無く、ともに戊辰戦争で戦死した人々が祭られたわけであるが、この東京招魂社の巧みなやり方に長州藩のその後の成功の原点があったといえるであろう。 この東京招魂社を作り上げたのは、彰義隊以降の維新政府の総指揮を事実上とったの大村益次郎なのである。西郷隆盛は大総督府参謀兼参与という官軍最高の立場にあったが、事実上、単なる薩摩軍の指揮官であるだけであった。 (大村が宣伝上手なのが、靖国になったのである。長州という国が、国体となった洗脳である。つまり、長州人が日本版カースト制度の最上位に就いたことになる。) 大総督府参謀というのは大村益次郎のおかげで、鎌倉幕府の征夷大将軍のような名誉職になってしまっていたのである。大村の指揮下、薩摩藩の藩兵は過酷な任務を負わされた。西郷がもっとも可愛がった弟・吉次郎は越後の追討作戦で死亡しているのである。 大村に抵抗せず、薩摩藩人の権益をいっさい守ろうとしなかった西郷とは、良くも悪くも無私の人ではある。 (腹の底では、大村を殺そうと思っていたようで、実際、暗殺させたようである。) (15)西郷の長州人嫌い 実は、西郷はたいていの長州藩人が嫌いであったという。たとえば長州に薩摩の武器を運び込んだ殊勲者・井上聞多を‘三井の番頭さん’と呼んで、財閥の利権の代弁者という風に理解していた。本音と建て前の使い分けが巧く、遊び上手で、利権の匂いを嗅ぎ分け立身出世に聡い長州人を、西郷がまったく別の人種と思っていたであろうということは薩摩人の私には良く分かるのである。 薩摩藩の若衆組織では、長州藩風の二枚舌あるいは本音と建て前を分ける立ち回りの巧い人物が最も嫌われる。それは、本音で語ろうとしない暗い人物、あるいは腹に一物のある、いざとなったら裏切りをやる人物と見なされるからである。 要するに、藩の‘美風’とされる精神に合わないのである。私心を捨て、大儀に尽くすというのは、確かに建前である。しかし、薩摩人は建前を本音として使命を全うしようとしたのである。この辺に、薩摩藩士の‘武士の美徳’というやせ我慢風の無理があるのは確かであるが、どちらが時代にマッチしたかといえば、その答えは残念ながら明白であろう。 ☆ ☆ ☆ 上述のように、どうも日本人の二枚舌、つまり建前と本音は長州人の性格からきているようである。薩摩人は、本音は墓場まで持っていくものという性格のようである。だから、薩摩では無口が尊ばれ、長州では口上手が尊ばれるようである。 いずれにしろ、明治維新以来、薩長が支配階級に君臨したが、長州に出し抜かれ、大久保が薩摩を裏切ったので、西郷は下野し、薩摩に独立国をつくり、再び明治維新を起こそうとしたが、大久保が島津久光がやったように、薩摩から裏切り者を集い、同士討ちをさせ、西郷軍は鎮圧されてしまう。 しかし、これまで紹介してきた話には重大な視点が欠けている。西郷が起こした明治維新の目的である。それは、西郷らが部落民だったということからわかるが、いまでは下級武士にして誤魔化しているからわからないのである。 八切史観によると、明治維新前までは、部落民は人ではないと差別されたので、墓がなかったのである。つまり、死んで墓がつくられるということは、人並みの扱いを受けるということなのである。 西郷軍が西郷のために働いたのは、西郷が、戦没者を人並みに供養することを約束したからである。同様に、招魂社の話から、長州の奇兵隊も、部落民からなっていたことがわかる。人として死ねるから、軍隊に応募したのである。つまり、餌なのだ! この招魂社の話から、いかに江戸時代の身分制度が酷いものだったことかがわかる。勝海舟が江戸時代を徳川家が巧く統治した良き時代のように吹聴したので、昔から平等だったような錯覚に陥っているだけである。そのせいで、徳川家は賊軍を免れ、貴族階級になっている。 そのことがわかる裏話を紹介する。 ☆ ☆ ☆ 花の西郷隆盛 鹿児島ハラ郡西国分町の国分駅の西側に、「隼人塚」の古墳の三基の石塔が今もある。南鮮から入ってきた仁徳王朝や、次に取って代った大陸藤原王朝の傭兵となったクダラ人によって討伐され、大量虐殺された薩摩隼人の霊がたたらぬようにとの閉じこめ塚。 「大和民族は一つなり」と学校歴史は国家目的にみな働かせようと教育する。が薩摩人は被征服民族の隼人族である。だから西郷も、「きっと、いつかは仇を・・・」と反骨の民族の血の流れをもち、文政10(1827)12月7日鹿児島下加治屋町で吉兵衛の長男に生まれる。 勘定方小頭西郷吉兵衛隆盛は大きな赤ん坊に小吉と名をつけた。家禄を先々代に手放して家計が苦しいから、あまり食わさぬようにとの命名かも知れぬ。しかし親心は知らず、「もっと食う」と、ヒエ飯なのに何杯もだベ、「肥満児」といわれるくらいに大きくなった。 「・・・みんな悩んで大きくなったというが、あれは食するだけで肉がついてしまうのか」父吉兵衛は唸ったがそれでも琴、吉次郎、高、安、信吾、小兵衛と次々六人も作る気ではなかったろうが順にうませた。家は狭いし夜具もない兄弟七人が一つ蒲団で寝て育った。「イモばっかし食っちょるから、みんなへこくから掛け蒲団が上へふっ飛ばされる」長男だから夜中に起きては蒲団を直した。 「なんとかヒエやアワでよいから、臭い、へのでぬような食物を皆にくわせもうそ・・・・」と幼い弟妹の寝姿みては鼻をつまんだ。「家計を助けるためには早くお役につかねばならん」と吉之助と改名した隆盛は18才で、郡方書役(補)助となり年四石となった。キロ三百円とみれば月給で二万円の薄給。それでも西郷家の暮らしはすこし楽になり、「しっかりやれよ」と父親は励ました。 加冶屋町は本来は鍛冶が集められていた土地柄。だから城からも離れていて軽輩者の長屋が並んでいて、後の大久保利通の正助、海江田信義になる有村俊斎など同年輩でいた。のち大村益次郎を襲撃させ捕らわれた連中が、斬首になるのを放免した海江田である。 薩摩は隼人族の国で被征服民族とし、大宝律令から京へつれて行かれ門の脇に並ばされ、「ワンワン」と犬の鳴き声をさせられたり、油こしや竹細工をやらされていた汚辱の歴史が彼らにはある。だからして若者どうしで、「何んとかしちゃる」と喚きあっていた。 「島津は関ヶ原合戦で大敗したのを痛恨し、兵児とよばれる若者共は復仇を誓いあった」と通俗史ではとくが関ヶ原で負けても、薩摩は領地も失ってはいない。憎悪は徳川家よりも日本全体である。 だからナポレオン三世のパリー万国博覧会へも独立国として参加。〇に十を国旗としサツマリウキュウ国とし日本とは別個に産物を出品し、アルファベット順で日本代表より先に拝謁式をしている。 「九州独立」を進駐軍に求めた戦後の運動も笑い話ではなく、薩摩やクマソ熊本は日本に占領されただけだとの民族自立運動だった。 「自立の国になすには海外の新知識を入れ、おおいに国力を増やさねばならぬ」と島津重豪は琉球経由で海外より輸入に力を入れた。だから、さしも77万石の島津藩も金づまりになって、その孫の斉興の代には財政危機。領内から徹底に搾取するしかなくなった。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月27日
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前回からの話を続けたいが、少々気がかりなのは、靖国参拝騒動の裏で沖縄米軍基地の辺野古移転が決まっていることである。そもそも靖国騒動も、米中の金融覇権争いのせいで、米中対決となると、沖縄は天王山ともいうべき重要な地域になるからである。 ややこしいのは、ニセユダヤの指示通りに、阿呆が自衛隊を軍隊にすると、日中対決も現実味を帯びるが、沖縄が地理的にも情報的にも、重要な拠点なので、中国は沖縄占領を重要視せざるを得ないだろうから、沖縄に米軍が駐留する限り、どうしても米中対決になるだろう。ロシアなどは既に見込んで先手を打っているからプーチンは賢い。 だから、いずれは沖縄独立を画策してくるだろうが、それだと日本が認めないから、沖縄駐留を利用して日本から金銭を引き出せなくなる。靖国問題よりも、沖縄の方が数倍も重要なのである。 では、前回からの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ (8)近代化され特殊な進化をしていた薩摩武士集団 官軍の主力として、肩で風切る粗忽な田舎者集団・薩軍の‘西郷郎党’がもっとも問題なのは、彼らが西郷の言うことしか聞かない、あるいは西郷を通してしか命令に従わないということであった。近代的な軍隊としては、まことに致命的な欠点である。 近代の軍隊とは、上官が誰であれ、上官の命令であれば無条件に絶対服従し、組織的な軍事集団行動を起こさねばならない。長州藩の大村が彼流の天皇のための陸軍を作り上げようとしているのに、いちいち、命令を下すたびに、‘その命令は西郷さーが承諾したか’と詰問されていては、まったくどうしようもないのである。 そもそも尊皇という使命感が希薄な、というより、ほとんど尊皇という概念を持ち合わせていない薩軍とは、大村にとっては信じがたい異質な集団であったであろう。薩摩藩は幕末の西海の雄藩であったが、その主君である島津氏とは、もともと、源頼朝によって鎌倉時代に九州におちのびてきた平家の残党を監視するために派遣された鎌倉幕府の御家人であった。 島津氏は、惟宗氏という近衛家に仕えていた家老格の氏族の末裔であるが、頼朝の乳母である比企一族の娘と縁組みをしたたために、頼朝と非常に近い間柄となった。頼朝に見込まれて鎌倉に下った官僚はたくさんいるが、その中の一族であった。ただし、鎌倉時代が崩壊しても、戦国大名として生き残った。 戦国の島津氏は、支流の島津氏であったが、関ヶ原で西軍に付いたために苦難の運命を背負った。このとき‘島津の退き口’という名で呼ばれている、正面突破の退却をやった島津義弘という人物が当時の幕末の島津家の骨格を作った。 徹底して幕府の隠密の入国を阻み、江戸幕府の密偵が領内に侵入したのを発見するやいなや、叩き斬った。江戸時代に、むろん江戸藩邸をもち、江戸幕府に恭順してはいるものの、地元薩摩とは、ほとんど完全な独立国として存在したのである。この独立性は島津氏の出自と関係してさらに特殊なものとなった。 島津氏は旧性を惟宗氏といい、もともと新羅系加羅の渡来人であり、山城国を中心に繁栄していた秦氏と同族であると伝えられている。 一方、日本の皇室は旧百済の王室に近いと考えられるが、加羅人は百済人とやや系譜が異なり、百済の伝統とやや異なった特質をもつ。 土俗的、職人的特徴をよく保ち、さほと中央意識が強くないのである〔聖徳太子の蘇我物部戦争で登場し、物部守屋を討ち取った秦河勝は、中央に登場する秦氏としてどちらかというと例外の人物である〕。 また一方、長州の毛利家は同じ鎌倉幕府の京都系の官僚でありながら、百済系渡来人を源流としている。毛利氏の旧性は大江氏という。大江氏は平城天皇の孫の阿保親王を祖としているが、母方の大枝氏とは百済系の渡来人である。 桓武天皇の母君が大和新笠という百済系渡来人であったように、復活を遂げた天智天皇系の平安朝皇室と同時期に中央に登場している一族である。したがって、出自は平安朝皇室と近い関係にあり、中央意識が強い。 このような百済系渡来人のはるか末裔である毛利氏に育てられた歴史をもつ長州人は、本能的に皇室を理解し、尊皇というスタンスが骨格になっているのである。 薩摩人は徳川氏以上に尊皇意識が低かった、というよりも自ら率先して戦の戦陣に立つ島津氏を絶対的な唯一の主君と仰ぐ独立国であり、しかもその配下には、日本の文化伝統には全く疎い、危ない南方の土人のごとき人物がうようよしていたのである。このような島津氏が独立国を築き上げた原因には、関ヶ原以降の徳川幕府との異常な緊張関係が大いに関係していると思われる。 毛利家は、徳川幕府より安芸から長門萩周防に追いやられて追い詰められ、藩主が藩を放り投げようとしたという逸話まで伝わっているのに対し、島津薩摩は江戸から最も遠く、しかも徳川は島津の領地を削ぎ落とすことが出来なかった。このため、全国の土木事業を島津に申しつけ、あの手此の手で薩摩藩の藩政を疲弊させようとした。 その一つの逸話として、薩摩藩が幕府から申し付けられた木曽川治水という困難を極めた大事業をなし遂げ、地元の人々から大いに感謝されたものの、藩財政を逼迫させたた責任をとって工事最高責任者が人物が自刃したという悲惨な物語りが薩摩の語り種となっているのである。 (9)東京招魂社の前身・京都招魂社の実体 ところで、九段の東京招魂社ができる以前の明治元年5月、維新政府によって京都の東山に招魂社を作るよう太政官令が出ている。実は、東京招魂社が計画された直前、すなわち、都が東京へ遷都される以前に、実は招魂社が計画され、部分的に完成していたという事実があるのである。 ただし、この計画を立案したのは、平田国学を信奉する明治天皇の侍従・福羽美静という人物である。福羽は自分の私邸に吉田松陰等の安政の大獄での刑死者の霊を祀るために祠を祀っていた。これを東山に移して長州藩の招魂社を改編したのがその実体である。 したがって、この現在の京都護国神社である京都招魂社を訪れてみると、東京招魂社とはかなり趣の異なる、東京招魂社とは全く別の伝統で作られたもであることが理解できるのである。ここは、基本的には仏教文化をベースとして墓地から発生しているのである。 もともと、古くからこの鴨川の東側は、京都で行き倒れになった身元がいろいろ‘いわくあり’の人々を埋葬する場所であった。この招魂社に墓があるもっとも有名な人物は坂本龍馬であるが、龍馬も京都で刺客に倒され、頓死したもっとも曰くありの人物なのである。 墓であることは明白なのであるが、墓の入り口に小さな鳥居が取って付けたように建てたれている。純然たる神道の地でないことは明白であり、仏教に深く馴染んでいる京都の民衆が、時の政権にとって不要あるいは邪魔となってであろう龍馬が暗殺されたことに、深い哀れみを抱いてここに墓地を作ってやったという経過でできあがったのである。 もともと非業の死を遂げた人物とは、神道のご神体を奉納するという場というものとはもっとも馴染まない存在であり、取って付けたような小さな鳥居というものが、神道から死者の霊を慰めようということをする事事態がそもそも矛盾しているということを明確に語っていると私は思うのである。 全国のどこを探しても、墓付きの神社というのはここ以外に探し出すことが困難であるからである。 そして、この龍馬の墓のすぐ後ろには、まったく同じ様な形式での蛤御門の変で戦死あるいは自決した多くの長州藩志士の墓が整然と並んでいる。蛤御門の変とは、長州が薩摩と薩長連合を組む直前に、朝廷での主導権を奪還するために起こした争乱である。 龍馬の墓と同じ様な鳥居が附けられている墓もあるし、そうでないものもあることが分かる。完全に不揃いで混乱しているのである。要するに、ここは長州人が何と言おうと、少なくとも京都の民衆にとっては、墓なのである。 (10)長州毛利藩の血筋を遡った古い話 ここにどうして、長州人の墓が作られているのか。これを知るには、もうすこし長州藩の歴史に立ち入る必要があるのである。すなわち、もともと長州藩とは尊皇攘夷を最初から唱え、朝廷と一番近かった。長州藩毛利家とは、平家源氏のように本来はあまり素性がはっきりしない武家の人々とは異なり、純然と皇室の子孫であって、もともと大江氏という文官の流れである。 どうして文官の大江氏が武家になったのかということを語るには、長いスペースが本来必要であるが、簡単に言うと、大江氏が源頼朝に引き抜かれて鎌倉幕府の政所の創設者として、鎌倉幕府に仕えだしたことがそのきっかけである。 長い歴史の辛酸を舐め、徳川家康によって萩に押し込められたが、本来は大きな勢力を築き上げた戦国大名である。しかし、王族の流れであるという自負は、源氏平家よりももっと強烈である。 長州毛利家の旗印は横━文字に三つの●が旗印であるが、これは一品(いっぽん)すなわち、一品親王と呼ばれた阿保親王を家紋として誇りとし、自分たちは皇室の出そのものであるぞということを強烈にアピールしているのであるという説がある。 文官の出であるに相応しく、和歌を良くし、また戦国大名であった毛利元就が息子や家臣にせっせと手紙をしたためて細かい愛情を注いでいたということは、つとに有名である。 (12)京都招魂社の歴史と東京招魂社との比較 これを現在の形式にしたのが、明治天皇の侍従・福羽らの功績であり、京都招魂社創建の太政官令のでた明治元年5月とは、実は戊辰戦争の最中であり、まだ明治の宣誓が行われておらず、正確には慶応四年なのであった。ただし、この京都招魂社の精神は、そもそも悲運の人々を純粋に埋葬しようと言う人間本来の心から発生したものである。 東京招魂社は、この京都招魂社とはまったく性格が変わってしまっているといって良いのであるのである。東京招魂社には、あきらかに長州を中心とした官軍戦没者だけを祀るという政治的意図がその根底にあるのである。 これに対し、京都招魂社には、もともと時の権力から葬り去れた敗者あるいはまったく権力から遠い行き倒れの人を埋葬してあげようという京都の人々の哀れみの情がその原点にあるのである。 権力側・民衆者側一切関係なし、むしろ権力によって無惨な目に遭わせられた人々を埋葬したのがもともとの京都招魂社の精神である。東京招魂社すなわちのちの靖国神社は、明らかに権力側の褒美としての意味合いを持たせた、純粋な政治的装置であると言えるのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月27日
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阿呆の参拝の話はもうしたくないのだが、「今でしょ!」とばかりにするのは、ミエミエで、以下にその理由が簡潔に載っている、あるサイトから、抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ とてもおおまかに世界の構造を解説してみます。1~2分くらいで。 1.WW2戦前、大英帝国が世界の支配権を握っていた。世界の富は英国の王族らが独占していた。 2.ユダ金は、世界の中心を米国に移すことに決めて、まず、欧州で大戦を引き起こした。役者のチャーチル、スターリン、ヒットラーのすべてが隠れユダヤ人であった。後に加わった米国のルーズベルトも同様である。 3.世界大戦に発展させるために、米国を戦争に引き込む必要があった。よって、日本に真珠湾不意打ち攻撃を敢行させ、欧州の戦争へ米国が関与する口実を作った。米国の参戦による欧州の局地戦は世界戦争へと拡大した。 4.戦後、世界最強の軍事大国として予定通りユダヤ米国が覇権を掌握し、世界経済を長く支配した。 5.昨今、中国が経済的に発展する一方でユダヤ米国経済は疲弊し、世界の覇権を中国に奪われつつある。これを阻止して甘い汁を吸い続けるには、大きな戦争を引き起こして軍事大国としての米国の覇権を取り戻し、経済面でも主導権を回復したい。 6.よって、傀儡の安倍晋三がユダヤ中枢の命令によって対中戦争を行うための様々な手口を行使している。すべては金融ユダヤ人の金儲けと権力維持のためである。尖閣国営化、96条改正、9条改正、国防軍創設、集団的自衛権曲解、空母建造、オスプレイ配備強行、徴兵制論議、消費増税、TPPのすべてが困窮した金融ユダヤ人のための売国政策である。 よって、これを阻止し、日本は米国、中国、ロシアなどの大国に阿ることのない独自国家として独立を達成すべきであり、それの障害となる外国勢力、売国奴はこれを駆除せねばならない。 そのために不正選挙を徹底的に糾弾解明する。これはまさに世界の構造を根底から変える大革命作業である。 この歴史に必ず残るであろう大偉業を成し遂げるまでは、我々は奮励努力し続ける。どんな障壁も乗り越える。日本人にしかできない。だから、我々がやる。やらなければ、さらにユダ金はNWO戦争まではじめてしまう。 ☆ ☆ ☆ 要するに、ニセユダは、阿呆を極東のサダムフセインにしたいのである。泳がせて、孤立化を図るわけである。阿呆の参拝が米国の失望となったのが想定外だったのは、米国に梯子を外されたからであろう。 そのことがわかる話を、御馴染みのサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 銃弾提供の日韓分断と靖国参拝の日中韓分断 昨日の投稿で、自衛隊が韓国軍に銃弾を提供したという記事を書きました。 ▼銃弾供与 日韓の食い違いと「緊急」と「人道」 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20131225/1387964209 当初は、日本政府は、銃弾不足に陥った韓国軍に 「緊急」と「人道」の見地から、銃弾提供したと説明! ところが、韓国側は、おって「銃弾不足ではない」と発表。 これによって、日本政府はドタバタ劇を演じた訳です。 さてさて、この一連の事件で起こった事を整理すると、 「緊急時でもない平時に、平和憲法破りの前例を作った」 「日本政府は韓国政府に顔を潰された」 という2つの要素があるんですよね? つまり・・・ 1,「戦争出来る国作り」 2,「日韓分断」 という2つのバイアスが見える訳です。 そんな中、安部偽首相が本日、靖国神社を電撃参拝しました。 安倍首相の靖国参拝 中国・韓国は強く反発 安倍首相の靖国神社参拝に中国や韓国は強く反発している。 中国外務省のアジア局長は、インターネットを通じて市民の質問に答える形でコメントを出した。「中国人にとって絶対受け入れられないもので、アジアの人々の感情を大きく傷つけ、両国関係に新たな政治的な障害となる。その責任は日本側が負わなければならない」と述べている。 一方、韓国政府の関係者は「日韓関係に冷や水を浴びせる行為だ」と述べ、両国の関係がさらに冷え込むという見方を示した。また、朴槿恵大統領の就任後、一度も行われていない日韓首脳会談については「さらに遠のいた」と述べている。 日本テレビ系(NNN) 12月26日(木)12時56分配信http://www.freezepage.com/1388040802ASBMWUCQZY もちろん、韓国だけでなく、中国も強く反発を示しています。 (強烈に騒ぐのは、いつものようにユダ金ちゃんの手下連中なのですがw) いずれにしろ、ユダ金プロデュースの銃弾提供の日韓引っ掻き回事件から引き続き、今度は、日中韓引っ掻き回し大作戦が進行中のようです。 ☆ ☆ ☆ 冷静に分析すれば、日韓を分断することで、日本は大陸への市場の足場を失うことになる。韓国が大陸市場進出の防波堤になってしまうからである。しかも、参拝は、中国が日本の商品の不買運動をはじめる理由になるので、中国市場から、日本企業は撤退を余儀なくされる。恐らく、日本抜きで、中国東北部の満州を経済特権地域にするのだろう。 日本企業は、自力で稼ぐ能力を失い政府の補助金目当ての弱者搾取体質になるので、技術力とモチベーションを失う。働けば働くほど搾取が進み、暮らしは益々苦しくなる。現に円安にも関わらず、貿易赤字体質となっている。 しかも、TPPが追い討ちをかけ、ISD条項で揺さぶりをかけられ、日本企業は外資に乗っ取られるというオマケつきである。 というような流れが読み解ける。だから、靖国参拝はとんでもない売国であることがわかる。罠に嵌ったというべきだろう。 米国は、対中政策といいながら、実は日本の経済力を縮小させる政策でもあることに気づいていないから阿呆である。一石二鳥なのである。 これまでの経緯をみれば一目瞭然なのである。ハシモトに金融ビッグバンをやらせ、日本の金融自由化で、日本経済を仮想化し、事実上破綻させ、コイズミを送りこんで、邦銀を外資に買収させ、政治不信に陥らせ、用済みになると民主党に政権をとらせ、原発事故を起こし、東日本経済を壊滅にする、というように、である。 しかし、懲りない阿呆は自分がなにをしでかしたかわかっていないので、また同じ過ちを犯すと思う。恐らく脅せばなんでもするチキンと馬鹿にされていることだろう。 さて、ついでに、靖国を調べる機会から、明治維新の裏側がよくわかるので、続けて、靖国について、以前紹介したサイトから重要な部分を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ (1)東京招魂社は靖国神社の前身 靖国神社は皇居の北側、日本武道館と靖国通りを隔てて、東京千代田区九段坂にある。創建当初は東京招魂社と呼ばれていた。招魂社とは、幕末、国のために働き、志なかばで戦死した志士を祀っているということになっている。 ただ、靖国神社は、神社であるからといって、伊勢神宮や宇佐神宮のような古い神社とは違う。東京招魂社ができたのは明治2年である。靖国神社と改名されたのは明治12年6月で、西南戦争が終結し、新たに官軍の戦死者を加えて祀るのを機会に改名された。 〈2〉東京招魂社と大村益次郎 維新政府の当初の方針としては戊辰戦争の戦死者の供養は、上野の寛永寺を買い取って、招魂社を作ろうという案であった。この案を提出したのは木戸孝允であるという。ところが、上野寛永寺を東京大学の付属病院として利用したいという新たな要望が出てきたため、この木戸の案は途中で頓挫してしまった。 東京招魂社は、靖国神社の資料によると、平田国学を信奉する侍従・福羽美静という人物が、吉田松陰等の安政の大獄での刑死者の霊を祀るために、京都の私邸で祠を作ったのが初めとなっている。ところが、靖国が九段坂になったいきさつには、福羽は関係していない。それというのも福羽は侍従であって陸軍関係者ではない。 東京招魂社は、はじめから陸軍の所有物になるもので、初代兵部大輔である大村益次郎という人物が具体的計画を練ったのである。すなわち、木戸の案が病院計画のため一時頓挫したことを受け、みずから招魂社の位置を九段坂にしたのである。 第一に、上野彰義隊の壊滅作戦で官軍の総指揮者として自分が総攻撃をかけ、多数の幕軍の死傷者を出した地であり、賊軍の霊がただよっている場所であること、方位が皇居の乾の方角で縁起がよいといったことを大村が上げたといわれている。 大村益次郎とは、明治26年に靖国神社の参道に高く聳える銅像となって、靖国神社の名物となっている人物である。彼は陸軍大将・西郷を差し置いて、陸軍の実務責任者として靖国神社の建設場所を独自の判断で決めたのである。 (7)大村益次郎の憂鬱 戊辰戦争が終結すると、大村益次郎は政府軍の大阪鎮台の準備に懸命になっていた。大村は西郷のことを常々‘そのうち尊氏になる’と言って徹底的に警戒していた。西郷が、かつて建武の親政のとき、後醍醐天皇を裏切って天下を乗っ取った足利尊氏のように見えたのである。 事実、西郷の人気と実力からすれば、西郷は足利尊氏どころか、ナポレオン以上の人物となれたことは充分可能であったであろう。むろん、西郷が薩摩でどれほど私心を捨て、改革のために努力をしてきたかという経過を知っている人であれば、西郷の生き方が決して足利尊氏に成り得ないということが分かるのであるが、このことを理解できるのは、残念ながら薩摩人だけであるかも知れない。 もし、仮に西郷の苦労をしらない人物が、西郷の立場になったらば、あるいは足利尊氏となったかもしれない。いずれにせよ、大村益次郎にとっては、西郷が足利尊氏にしか見えなかったということが重要である。 このため、明治二年に、西郷の暴発を予想し、これを迎え撃つため、西日本の軍備を整備するためいそぎ京都大阪へ下った。周囲の人々が、京都には、維新の中心者である大村に恨みをもつ暗殺者がウヨウヨしており、危険なところであるから行くのを止めるようにと再三言われていた。 それにもかかわらず、大村は忠告を意に介することもなく、ほとんど単身で出かけていったのである。そして、案の定、京都市中で刺客に狙われ、足に大けがを負い、その負傷がもとで右足を切断したにもかかわらず、同年絶命してしまうのである。 大村を暗殺したのは、長州藩の大村益次郎に私怨を抱いていた人物の反抗と言うことになっている。しかし、大村益次郎と彰義隊追討を巡って激突した西郷の配下の海江田という人物の影もちらついている。海江田は、大村と激突したお陰で、京都地判事へと左遷されていた。 海江田が京都に下った、ちょうどその時大村は京都で襲撃された。大村は明治初年の維新政府の治安・軍事権の一切を支配した薩摩藩の過激分子から闇に葬り去られたということができるのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月27日
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八切史観から明治維新を再考するために、どうでもいい靖国騒動を前回とりあげたが、どうも成仏できていない浮遊霊がウヨウヨといるのか、いまだに亡霊が喚いているようである。靖国のような天皇を傀儡とした権力者の巣窟の一部の既得権益の神社が、毎度毎度騒がしい外交問題にまでなぜ発展するのか、今回も再考することにする。 靖国の問題は、日本の支配層の無責任さの象徴となっていることにある。例えば、福島事故の責任は誰が一体とったのだろうか? あのような不祥事を起こしておいて、東電の上層部は海外にトンズラである。明らかに支配層が悪者なのに、権力を使って弾圧し、口封じし、殺された者の怨念が残るから、あのような靖国を建てないと支配層の良心の気が咎めるわけなのである。 祟られるのが恐ろしいから、神社をつくって、未浄化霊を、成仏させようという発想なのである。日本史を真剣に学べば、悪いことは全て日本の原住民であった部落被差別民のせいにしてなすりつけ、権力を維持してきた連中の正体がそこにある。だから参拝しないと気が咎めるのである。 ややこしいのは、その手口を米英のメーソンリーが利用して太平洋戦争を起こしたことにある。度重なる戦争で、部落民を戦場に大量に送った上層部の連中が戦犯になり、その者たちの怨念で祟られると恐ろしいので、靖国に一緒に祀ったことにある。 藤原氏の末裔を代表とする薩長の上層階級の戦場に送った側と、被差別民とされた下層階級の戦場に送られた側が、責任を曖昧にしたままで、同じ日本人として祀られているからおかしいのである。死ねば罪がなくなるというようないい加減な宗教理念がそこにあるわけである。第一、死ねば罪がなくなるのなら、殺人の罪はどうなるのか? アホ草である。 さて、八切史観を理解すれば、日本が多民族国家であることは自明なのだが、大陸から律令カースト制度を持ち込んだ勢力、つまり藤原氏となる連中は、それまで日本に住んでいた8つの王朝(王朝といっても、いまでいうムラのようなものだったらしいが)を攻め滅ぼして、日本版の律令カースト制度を敷いたそうである。 つまり、簡単にいえば、藤原氏でなければ人でなしとし、他を皆奴隷としたそうである。土(ど;奴隷)百姓という名称はここに由来するそうだ。藤原氏の食料をつくる奴隷が百姓で、それを束ね搾取するのが仏教徒で、仏教徒は、原住民を征伐する防人(軍事)となり、坊主といわれるようになったのだそうだ。 やがて坊主たちは、仏教の信仰や従五位以下の身分を与えることで、原住民のなかから、仲間を裏切り、同士討ちさせるために、武士をつくったという。だから、武士は、原住民のなかでは裏切り者で、武人(ぶじん)とは、不信(ふしん)が語源になったそうである。 武士となったなかには、百済から渡来した民族が多かったので、被差別民のうちで百済でない者は、「くだらない」とされ、奴隷とされたという。この話が、桃太郎伝説を生んだそうである。鬼とは、日本原住民のことで、恐らく、赤鬼が平氏、青鬼が源氏のことなのだろう。桃太郎は、桃をトウ(唐)とも読むことから、藤原氏のことであろう。 桃太郎の家来になった猿、雉、犬は、方角を表わし、恐らく武人、つまり百済のことなのだろう。その話を以下に、あるサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 日本史の構造について、全くの私見ですが… 藤原氏は文字どおり「ふじわら=トウゲン=唐源(元)」となり、唐=今の中国に始祖を発する系統だと考えます。 昔(近代まで)は、中国の方がはるかに先進国で、アジアの帝国でした。そのため、文字も思想も政治(軍事力)も宗教も、中国人が指導者(権力者)として渡来し君臨統治していたと思われます。 日本というのは帝国の辺境(周辺)にありますので、帝国権力の傀儡(総督)統治に適しています。 日本における藤原氏の次の格式は、同じトウでも“桃”の方のトウ(隋)です。 童話の桃太郎に代表される種族です。 もちろん、桃太郎は日本人が主人公のお噺ではありません。 桃は中国原産で知られる植物(果物)です。 つまり、桃太郎は中国人による日本人退治の物語ということです。 桃太郎の家来は、猿、雉、犬ですが、コレは日本でもお馴染みの干支や風水に由来しています。 つまり、南西方位の申、酉、戌にあたります。 西南の反対の方位は東北で「鬼門」とされ、干支は寅(鬼は虎柄のパンツ着用)にあたります。 中国から見て東北方位にある鬼ガ島とは、そのまま日本列島のことです。 鬼(穏忍:おんにん:秘かに隠れ住む者)とは原住の日本人ということになります。 現在でも、節分の豆まきの時に、「鬼は外」といわない宗派があると聞きます。 ですから、律令制以降、日本を支配しているのは、元々は中国(その代理の朝鮮半島)のGHQであり、第2次大戦後は、アメリカのGHQということになると、私は考えています。 現在も、真のゼネラル・ヘッド・クオーターの権限は、残念ながら日本人にあるとは思えません。 ☆ ☆ ☆ というように、日本史というのは簡単にいえば、古代中国から権力欲、征服欲旺盛な民族がやってきて、傀儡政権をつくったことに端を発しているので、権力者の都合で書き換えられている出鱈目なのである。 そのことは明治維新を勉強すればよくわかり、靖国のなりたちを知れば、大陸からきた連中が騒いでいるだけで、それに巻き込まれ、弾圧されているのが、本当の日本人の原住民である構図となっていることがわかる。 そのような騒ぎに巻き込まれるくらい馬鹿なことはないだろう。そんなことよりも、権力欲や征服欲の根拠となっている「人の下に人をつくる」カースト制度をなくすことが先決である。
2013年12月27日
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馬鹿や阿呆につける薬はないというが、またまた靖国長州神社参拝問題で巷は騒々しく報道しているが、ネット情報に精通している事情通からみれば、小賢しい演技であり、呆れてシラケ気味なのである。 これを機会に、靖国神社という死神参拝の洗脳から解放されることであり、この長州神社参拝こそ明治維新以来、文部省(現文科相)が垂れ流してきた捏造日本史に洗脳されている証拠だと知ることである。 以下の情報を隠すための小賢しい演技なのであるから、この際、御馴染みのサイトから、その情報を抜粋紹介することで、連中の魂胆を明らかにする。その後で、靖国長州神社の実体をあるサイトから明らかにしたい。 ☆ ☆ ☆ 銃弾供与 日韓の食い違いと「緊急」と「人道」 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20131225/1387964209#seeall 昨日の記事で、韓国軍の銃弾不足のため、自衛隊の銃弾1万発が、韓国軍に提供されたという投稿をしました。 ところが、韓国軍の銃弾、ナント不足していなかったそうなんです。 銃弾供与、日韓で説明食い違い 韓国「不足せず」 南スーダンで国連平和維持活動(PKO)に参加する自衛隊が現地の韓国軍に銃弾1万発を供与したことを巡り、韓国政府は24日、日本側と異なる見解を表明した。 韓国外務省の報道官は記者会見で「国連南スーダン派遣団(UNMISS)に支援を要請し、UNMISSを通じて支援を受けた。それが全てだ」と語り、あくまで国連への要請だったと主張。日本への謝意の表明も避けた。国防省報道官は「予備的に借りたものだ。(銃弾は)不足していない」と述べた。 菅義偉官房長官は24日の記者会見で、韓国政府からの直接の要請について「在京大使館からあった」と言及した。 小野寺五典防衛相は24日、南スーダンに派遣中の自衛隊の施設隊長とテレビ会議を開いた。隊長は韓国軍から「弾薬が不足していると差し迫った要請があった」と報告。さらに韓国軍から「弾薬は日本隊と韓国隊の強いきずなの象徴だ」と謝意の連絡があった事実も伝えた。2013/12/25 0:03http://www.freezepage.com/1387961823SPKSUOHFAY あれー? 韓国軍の銃弾が不足したから、「緊急」と「人道」の見地から見たら仕方がないって話じゃなかったっけ? で、武器輸出三原則があるけど、今回は仕方なく「例外」って話じゃなかった? およよー? もしかして、「緊急」でも「人道」でも何でもないのに、憲法に味噌つけたのがバレちゃった?w もちろん、ネット上は大炎上しています(笑) これで、パニクッちゃった政府=裏社会は、慌てて、南スーダンからの自衛隊撤収の検討を発表! ところが、南スーダンで石油利権漁りに必死のユダ公様に叱られて、すかさず撤収を否定w まさに、バカ丸出しです(笑) 南スーダン撤退を検討 自衛隊PKO、治安悪化受け (バビ朝日) - ryuubufan http://ryuubufan-78.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6113589 南スーダン撤退を検討 自衛隊PKO、治安悪化受け 朝日新聞デジタル 12月25日(水)5時5分配信 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)をめぐり、安倍政権は24日、国連南スーダン派遣団(UNMISS)に参加している自衛隊を撤退させる検討に入った。現地の情勢が悪化しており、自衛隊のPKO参加条件が満たされなくなる可能性があると判断した。南スーダンから撤退すれば、自衛隊によるPKO活動は休止することになる。 南スーダンでは、首都ジュバで15日に前副大統領によるとされるクーデター未遂が発生。各地で蜂起した反乱軍が大統領派と武力衝突している。自衛隊の派遣部隊は直後からジュバの宿営地内で避難民への医療支援や給水支援を行う一方、宿営地以外での活動を自粛している。国連の潘基文(パンギムン)事務総長は23日、UNMISSへの増派を国連安全保障理事会に勧告。反政府勢力の動きは活発化しており、道路整備など自衛隊を派遣した本来の目的を達成するのは難しくなっている。 こうした状況から、政権内では「一日も早く撤退すべきだ」との声も出ていた。政権は、今の南スーダン情勢は、PKO参加5原則のうち「紛争当事者間で停戦合意が成立」の条件を満たしていない可能性があると分析。今後、UNMISSの活動状況を踏まえつつ、撤退時期などを慎重に検討する方針だ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131225-00000002-asahi-pol ↓ 銃弾無償提供の平和憲法殺害がばれて尻に火が点いた。 あとはご主人様のお許しが出るかどうか。 ご主人様の答はノーだ。 どーするカルト安倍。 おなかが痛い。 ↓ 南スーダンPKOを大幅増強=戦闘拡大でさらに6千人―国連 時事通信 12月25日(水)5時15分配信【ニューヨーク時事】国連安全保障理事会は24日、民族対立を背景とした武力抗争で南スーダンの治安が急速に悪化しているのを受け、現場で平和維持活動(PKO)に当たっている国連南スーダン派遣団(UNMISS)を大幅に増強する決議を全会一致で採択した。民間人を保護し、人道支援活動を可能にするため、軍・警察要員の上限を現行の7900人から一時的に約6000人増やし約1万3800人まで引き上げる。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131225-00000048-jij-pol ↓ ハイ、ご主人様から答が出ました。 ↓ 南スーダンPKOの撤収否定=菅官房長官 時事通信 12月25日(水)12時26分配信 菅義偉官房長官は25日午前の記者会見で、南スーダンで平和維持活動(PKO)に当たる国連南スーダン派遣団(UNMISS)に参加している自衛隊について「要員の安全確保に細心の注意を払いながら、引き続き国際社会とともに南スーダンの国づくりに貢献していきたい」と述べ、現時点での撤収を重ねて否定した。 国連安全保障理事会が決議したUNMISSの増強について、菅長官は「歓迎する。増強されるPKOの活動が事態の沈静化につながることを期待したい」と評価。自衛隊の増派に関しては「検討していない」と述べた。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131225-00000048-jij-pol ☆ ☆ ☆ 一体全体、では、問題となっている弾薬は何処に消えたのでしょうか? このテンヤワンヤの最中に阿呆は靖国参拝だと、シラケルのも当たり前ですよね。憲法違反を必死こいて既成事実化しているようにみえますね。 さて、このような阿呆政権の暴走により、洗脳を解くのが重要であるので、以下に靖国長州神社の実体がわかる話を、あるサイトから紹介する。 その前に、なんでも靖国神社は参拝するけど、明治神宮は参拝しない政治家が沢山いるというから、不思議である。以下はあるサイトからの抜粋。 ☆ ☆ ☆ http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/37729877.html 「敗戦の日」に靖国神社で騒ぎ立てる右翼たちを分析整理 ↑ 私はよく明治神宮に行きますが 靖国に居るような風体の人間を見たことはまず御座いません。 彼ら靖国に行く位だから明治天皇の祀られている明治神宮にも足繁く通うはずですが まったく見たことが無いんですね。 つまり彼らは神社の中でも靖国神社だけが好きなんです。 靖国神社だけが好きな理由とは・・・・・、ムフフ。 (扇動屋で、戦争屋の手羽先が工作しているわけです。協力した見返りに戦争屋からリベートを貰うわけでしょう。つまり、踏み絵のような機能を果たしているのでしょう。中韓を怒らせ、アジア同盟を阻むためです。) 日本の政治家もめったに参拝しませんね、 外交官車両は明治神宮でよく見かけます。 でも靖国神社は万難を排して足を運びます。 なぜ日本の政治家は明治神宮に来ない? お前らそれでも日本人か? ☆ ☆ ☆ 明治神宮に参拝しないことで、連中が売国奴であることがわかりますね。しかも、靖国というのは、霊的な意味でもかなり危ないようです。怨念がウヨウヨしているので、霊能者は近づきません。以下に紹介します。 ☆ ☆ ☆ 番外編 東京招魂社(靖国神社) 『招魂とは、彷徨える御霊を招き、この世での未練を断ち切らせ、あるいは自分の肉体が既にこの世には無いことを教え、死者の国(常世の国あるいは黄泉の国)へ行かせる儀式です。 *鎮魂とは、「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式であり、魂を外から揺すって魂に活力を与える魂振(たまふり)を含めて鎮魂という。 招魂の儀式は、江戸幕府が管理していた陰陽道ではありません。この儀式は朝鮮人の儀式で自分らに怨念をもつ魂を押し込め封印するために行われます。 』 ☆ ☆ ☆ というように、悪魔崇拝で、悪魔が魂を食うためにある場所です。朱にまみれても朱に染まらない霊能者ならわかりますが、大抵は染まってしまうわけです。だから、国家の統治者は近づきませんし、天皇などが参拝したら大変なことになります。では、以下にその由来を紹介します。阿呆はヒトラーになるかもしれませんね。 ☆ ☆ ☆ 東京招魂社の成立過程とその問題点 http://homepage3.nifty.com/57577-55716/%96%F5%8D%91%90_%8E%D0%82%C6%95%BD%93c%93%C4%88%FB.html 〈2〉東京招魂社と大村益次郎 維新政府の当初の方針としては戊辰戦争の戦死者の供養は、上野の寛永寺を買い取って、招魂社を作ろうという案であった。この案を提出したのは木戸孝允であるという。ところが、上野寛永寺を東京大学の付属病院として利用したいという新たな要望が出てきたため、この木戸の案は途中で頓挫してしまった。 東京招魂社は、靖国神社の資料によると、平田国学を信奉する侍従・福羽美静という人物が、吉田松陰等の安政の大獄での刑死者の霊を祀るために、京都の私邸で祠を作ったのが初めとなっている。ところが、靖国が九段坂になったいきさつには、福羽は関係していない。それというのも福羽は侍従であって陸軍関係者ではない。 東京招魂社は、はじめから陸軍の所有物になるもので、初代兵部大輔である大村益次郎という人物が具体的計画を練ったのである。すなわち、木戸の案が病院計画のため一時頓挫したことを受け、みずから招魂社の位置を九段坂にしたのである。 第一に、上野彰義隊の壊滅作戦で官軍の総指揮者として自分が総攻撃をかけ、多数の幕軍の死傷者を出した地であり、賊軍の霊がただよっている場所であること、方位が皇居の乾の方角で縁起がよいといったことを大村が上げたといわれている。 大村益次郎とは、明治26年に靖国神社の参道に高く聳える銅像となって、靖国神社の名物となっている人物である。彼は陸軍大将・西郷を差し置いて、陸軍の実務責任者として靖国神社の建設場所を独自の判断で決めたのである。 (中略) 靖国を放棄したら、日本人の霊力あるいは目に見えない不思議な力が損なわれるという非常な不安に駆られる人があるのであれば、靖国成立の事情を良く知ってほしいと私は思う。よくよく知ってみれば、靖国になにか力があるという気がするのはまったくの思いこみであることがわかるのである。 (あるとしても、人を奴隷化させる権力欲の魔力である。) 靖国になにか霊力があるように思えるのは、山県有朋という長州閥の端くれが、民衆をただで戦場に送り込むためにわざわざ東京招魂社という名前を靖国と作り替えて霊力をあるかのように思わせた作為的行為のためなのであり、歴史を美化した単なるデマであることが、はっきりとお分かりになると思うのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月26日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ <<切腹美化の真相>> 大正元年九月十五日付「国民新聞」一面にでかでかと写真入りで、「世上の誤伝風評は真実ならず、一作十三日午後八時に割腹殉死された乃木将軍の最期に関し、所轄東京赤坂警察署本堂署長談」の大見出しがつけられ、 「精神に異常をきたされての偶発的椿事とか他殺の流言もあるも、立ち会った自分は、偉人の最期が武士道的模範的割腹であって、立派な殉死であったことを証明します。西洋間だった二階の居室を室内から施錠してあったので、異様な呻きを聞きつけた下女たちが、女の手で厚いドアが開けられぬ為に、あわてて戸外に飛び出し喚いたゆえ詰まらぬ風評がたったのである」 と、断ってから、芝居の忠臣蔵に出てくる切腹作法そっくりその儘が、まるで実地に見てきたごとく続けて述べられている。そして殉死の起因は、明治十年四月の植木坂で西郷軍に連隊旗を奪われたが、山県参謀が不問にした。 (八切氏自身、敗戦のときに切腹を試み失敗したらしい。そのときに切腹死は無理だと悟ったという。切腹とは実際は斬首のことであるという。腹を切っても即死にはならず、出血多量で死ぬ形になるので、形式上、腹に小刀を当てるだけで、斬首によるそうである。) だがその責任に悩み自決を覚悟して長年に渡り堪えていたが、明治大帝の御葬列の死出のお供をするための潔い覚悟の割腹となったのである。と結んである。 勿論軍神としての名誉を守るために、長州閥が死後二日経ってからなのに、赤坂署長に記者会見させ公式記事としたのだろう。 が、明治の世でも新聞記事は一般に盲目的な信用がある。「軍人はおかみから授けられた軍旗は、一死をもって守らねばならぬ」といった不文律や、それまで割腹というのは、斬首、縛り首などの処刑の一手段にすぎなかったのが、新聞紙上で「武士道の華」と賛美されたために、それからというものここに、日本人の精神構造に、切腹という死に方が、非常に偉大な評価を受けるようになってなってしまったのである。 しかし芥川龍之介の単篇や林房雄初期の作品「絵のない絵本」には遠慮がちに書かれて居るが、昭和四十一年十月号の「文芸首都」には福岡徹が「愚將軍神論」を書き、四十二年六月号の「別冊文春」には、旅順攻撃の無為無策を暴露した「要塞」が発表されたし、天中軒雲月の浪花節台本を書いていた松浦泉三郎の「明治芸談こぼれ話」には、 「お居間の中から静子夫人の誰か......と救いを呼ばれる声がするし、将軍の苦しがって喚かれる叫びがしても、厚いケヤキの六分板の頑丈な戸板の次ぎに樫の板戸。それに中から桟が落ちていて押せども叩けど駄目で、近くの近衛第一連隊へ急を知らせたが、御大葬の儀仗兵に将校が皆出払っていて留守。 ようやく朝になって副官の将校達が来て、掛矢で順に戸板を壊し御居間に入った時には、出血多量でもう手遅れ。取り乱されてと言うより格闘したみたいな様子も見えたので、覚悟の御自害にしてはおかしい。賊が忍び込んで見つかり居直って御夫妻を害したのではないかと、覗きに来た近所の者の口から広まり警察が来て盗難品の調べを何日もかけ多勢でやったようです」 と当時の裏話が聞き語りで書かれている。 幕末の長州は家中の侍の教育用に、江戸中期の明和四年に編纂された「御家誠」を安政二年に藩の儒臣中村清旭に判りやすく書き直させ、長州の国定教科書として藩校明倫館だれでなく、私学や私塾においても藩士子弟の教育用に使うことを義務づけた。 その中の初めの一章に、「毛利隆元公の御代にあっては、腹せを切れと言われ、否応いう家臣は一人もいなかった」の条項があり、松下村塾の吉田松陰さえも、「長州人は昔から常時、切腹の心構えで忠義に励んだものである」と明け暮れ真面目くさって講義をなし、そしておもむろに、 「いくら力任せに腹に刃を突き刺したにしても、介錯人が首をさっとはねてくれねば絶命できず、身体中の血が流れ出て悶え苦しまねばならぬものである。それ故卑怯未練な振舞いをして切腹の沙汰を受け、自分で生殺しみたいな辛い目にあうよりは、死中に活を求めるよう勇敢に敵に突きこめ。そうすれば死ぬのも一瞬の安楽死であり、突破すれば命拾いすることも有り得るのだ」 これは代々に渡って扶持を貰っている家臣は努力を尽くして毛利家のために努力すべきであるといった教訓だったが、吉田松陰はそれに中世の輪廻の思想を加味して、「人間は一度死んでも、また七回までは生き返ってくるものだから、七生報国の精神を持て。わしは、その三倍ぐらい死んでもきっと蘇生してくるぞ」と自分は、二十一回猛子と名乗った。 (要するに現代では体育会系で有名な精神論、根性論の類なのである。) 毛利家上層部は、切腹刑を課せられぬように死力を尽くして奉公しろと教育させる筈が、松下村塾だけでなく、私学校の塾でもみな、「腹の切り方」の作法の実習を生徒にさせ、若者達は死への悲壮感に酔わされての教育となった。 そこで松下村塾の玉木家に生まれ育った乃木大将も、幼時から腹切りの実習を見よう見まねで何度もしていたから、雀百まで踊り忘れずというか三つ子の魂は百までの格言通りに、介錯無しでは即死できぬ切腹なのに敢然とやってのけたのだろう。 そして死にざまによってその生涯の評価の決まる日本人の精神構造から、「自決し明治大帝お供をした乃木大将は、武人の亀鑑であり武士道の権化である」とされ、軍神に相応しい最期であったと偉人として遇され、切腹も美化され乃木神社に祀られている。 (洗脳教育とは恐ろしい。) 長州の切腹教育は明治になって有終の美を飾ったことになる。だが、である。 安政二年に教科書を作った中村清旭は知らなかったらしいが、毛利元就からその子隆元までの間は、関ヶ原合戦で防長二州へ押し込められる前ゆえ、今の広島に当たる安芸にいて吉田城が殿様の居城であった。 そしてそこの安芸弁で、「腹せ切る」というのは、腹から背へ突き通すように刃物を刺すことではなく、意味は「腹から背まですり切れるまで働く事」つまり他の地方では「身を粉にして働く」というのと同じ方言だったのである。 しかし尼子氏の領地だった防長二州へお国替えとなって山口の萩を本城にしてから二世紀も経つと、言葉が安芸の方言とは判らず文字通りに解釈してしまって、『大訓衍儀』の木版刷りとなして配布したのである。この怪我の功名というか、この切腹の勘違いが長州人を幕末になって勇猛にし、ついに明治の世にしてしまったのである。 となると、「武士道とは死ぬことと見つけたり」で教育しても効果があがらず、洋式武装を完備し、薩長も購入出来なかったアームストロング砲まで輸入しても駄目だった佐賀鍋島に比べれば大成功と言えようものである。 勘ぐれば或いは毛利の殿様もよく承知の上で「人使いのコツ」として猛烈家臣養成のため故意に刷本にして教育させたのかも知れぬが、哀れ痛い目にあって苦しんだ大将や、付き合わされた静子夫人は誠にお気の毒であるというしかないような想いにさせられる。 <<引用参考文献>> 八切止夫著「獅子の時代」「幕末奇人伝」「野史辞典」「庶民日本史辞典」幕末確定史資料大成・日本歴史資料集大成明治史学会雑誌その他。 ☆ ☆ ☆ 孫子も戦わずして勝つのが一番良い、といっているように、もし軍神などがいるなら、戦わないことを優先するはずである。もし、愚かにも戦うような羽目に陥ったなら、最低限譲れないところを明らかにして和平に持ち込むことである。 大体、幽霊などいないという奴ほど、軍神などを持ち出す。軍神というのは乃木大将のようにマヤカシ出鱈目だから、そういう洗脳の類に取り込まれないことが肝心といえる。日本は日露戦争に勝ったのではなく、偽ユダヤにロシア帝を潰すのに利用されたのである。 それは上述に紹介した乃木大将の話からもわかることである。明治帝がなぜガーター騎士なのか、調べればわかることである。
2013年12月26日
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人の下に人をつくりたがるのは、人が権力を握りたいためであることが、八切史観からわかる。権力を握りたいためにやることが自己宣伝であり、血統の粉飾や美化であることが、八切史観から明らかになる。 だから、自己宣伝や血筋や家柄の誇張をやりはじめたら、偶像崇拝の走りで、人間失格であることがわかる。 さて、八切史観から、その代表的な例を紹介したい。 ☆ ☆ ☆ 聖将・乃木希典 乃木希典〔1849~1912〕(通説) 西南戦争の植木坂の激戦の時、連隊旗を奪われたのを苦にして自決せんとしたのを明治大帝の思召しで止めたが、大帝崩御の時後を追って静子夫人と共に殉死。「軍神」として崇敬され、辻占売りの少年をやさしく扱ったとする浪花節などで一般には親しまれている。高島易断が今日有るのは乃木大将のおかげだとまで言われている。 皇国史観が一世を風靡した際、待っていたとばかり水戸人は、水戸光圀が弘道館で編纂に着手したと称する処の「大日本史」全十六巻をもって水戸学はこれなりとし、これらの著述こそ勤皇の先鞭だったと主張した。 (水戸藩の朝廷への宣伝工作である。要は偽装である。) それに対して長州人は、吉田松陰を持ち出してきて、松下村塾精神で対抗し、「乃木大将も松下村塾で学んだ一人である」と歴史家がこぞって宣伝したから乃木は軍神になる前に聖と言う呼称が出来た。つまり<聖將>と言われるのである。 (長州藩の宣伝工作である。こちらも偽装である。) 確かに吉田松陰の伯父玉木文之進が、松陰の処刑後は松下村塾で教えており、その息子に当たる大将も乃木家へ養子に行くまでは塾で生まれ育ったのだから、学んだというより「生え抜き」である。 だが大将は長州人にはあまり人気がないという。しかしこれには訳がある。当時は江藤新平の佐賀の乱を皮切りに、旧会津藩士の思案橋事件、ついで九州の秋月の乱から熊本の乱と、ひっきりなしに内乱が各地で起きていた。 さて、早死にした高杉晋作と並んで、吉田松陰門下の三羽鴉と言われたのは、広沢兵助と前原一誠の二人である。同じ長州人でも桂小五郎はコンプレックスというか、松陰門下の連中を毛嫌いして頭ごなしに、軽輩達なりとしていた。 だから桂は、鍋島のアームストロング砲で上野を焼き払った後で東北を征圧した大村益次郎を兵部大輔にしたものの、薩摩から陸海軍の統帥権は此方へと言われると、周防人を唆して襲わせた。が、薩摩の海江田信義が下手人達を六角の牢で処刑する直前に放免してしまった。 余りにカラクリが見えすぎ、大村の後任に直ちに薩摩人を直ぐともゆかず、とりあえず人望のある前原一誠をもってきて据えた。 しかし大久保利通が早く入れ替えろ、と催促するので、桂は伊藤博文や井上馨をやり、「長州で奇兵隊が解散を拒み内乱を企てているから鎮撫に行って貰いたい」と、まことしやかに、君が行かねば収まらぬと嘘の情報で前原に兵部大輔をやめさせ、西下させた。 だが、広沢兵助が妾宅で暗殺され、前原も戻って直ぐ何者かに拳銃の乱射を受け襲われたので、「こりゃ桂小五郎の手下共が、我ら松下村塾出身者を目の敵にして始末しよるんじゃ。こうなりゃ二十一回猛子の故松陰先生の御意志を継ぎ、われらは決起すべきである」と国許では主張。 奥平謙輔が憤って塾の旧士族八十名を率い、殉国軍と名乗って山口県庁へ押しかけようとすると、前原一誠を総大将に玉木文之進の息子で当時の松下村塾で松陰の遺訓を教えていた玉木正誼が在校生百名を集めて第一大隊を結成した。 (俗に言う萩の乱) そこで薩摩の大久保利通の内命を受けた桂小五郎改め木戸孝允は、腹心三浦悟楼陸軍少将を討伐司令官に任命した。 玉木正誼の実兄乃木少佐が小倉から先発隊長となって長州へ戻り、松下村塾出身の第二大隊と己が弟の第一大隊を萩で包囲して捕捉し、撃ち殺してしまった。 後に水戸学に対抗のため、松下村塾精神をおおいに謳歌させたのは、彼らを滅ぼした木戸だが、「聖將」「軍神」と明治軍部に追従するマスコミからおおいに讃えられても乃木に長州人が冷やかなのは、松下村塾の建物は残したが、実の弟をはじめ皆殺しにしたせいなのである。 軍人ゆえに命令には絶対服従とはいえ、肉親を撃ち殺した悩みは酷かったろう。四国丸亀の連隊にいた頃は、女郎屋に流連していて、そこから人力車で通って副官に諫められると、「人間の人格とはへそから上の話しである」と言い放った。 (英雄といわれた人物の実像はこんなものである。) 有名な言葉だが聖將とか軍神に祭り上げられてしまってからは、読み人知らずではなく言い人知らずに今ではなっている。何しろ酔うと軍刀を直ぐ引き抜き暴れたのは、一般には隠されているが陸軍部内では知れ渡っていたことらしい。 今は東北と称せられる当時の満州公主嶺の料亭で、酒乱の中尉が芸者の生首を叩き斬って憲兵が来ると「軍神の真似をして何が悪いか」と道路へ出ても、なおも居丈高になって、血塗れの軍服姿で大声で喚いているのを実際に私は見ている。 (アニメの「はいからさんが通る」のインネン大佐以上である。) 乃木大将が有名になったのは二百三高地攻撃である。息子を二人まで戦死させたことを同情されて、あまり世間から非難されてないが、故福岡徹の考証によると乃木は前線から五里も遠ざかった司令部で、寛永三馬術などの講談本を読んでいただけで、酒浸りになり前線視察にもあまり出なかったという。 といって乃木大将が怠惰だとか臆病だったというのではない。 日本では黒色火薬の主要成分の硝石が鉱石として産出しないので、一発ずつ大事をとって小銃を撃つか、さもなければ弾薬を使わずに斬込み隊で突撃するなどの攻撃を繰り返しているのに、敵は機関銃を持っていて掃射をくり返し寄せ付けぬ戦況ゆえ、乃木大将としては策もなく匙を投げていたと見るのが正しかろう。 しかしハバロフスクの陳列館の二階への改段口に面した硝子戸棚の中に、当時使用された青銅製の機銃と、原爆にあった広島の被害者の山積み光景に似た日本兵の死骸の拡大写真が展示されていて、説明文は、「愚かなる敵司令官は我々の機銃の目印にする為か、わざわざ白布で胸部の位置を明確にした兵士を次々に送り込んできて全滅した」と大きく出ている。白襷隊の事である。 当時の葉書は一銭五厘だったが、いくら赤刷り召集令状で集めた兵を送り込んでも全滅するゆえ、全国的に召集令状が次々と乱発された。 二百三高地攻撃の乃木大将の方え廻されぬようにと、家族が「死線〔四銭〕を越えて」と当時の五銭玉を千人針の布に縫いつける習慣も始まったのである。しかし旅順をバルチック艦隊来航前に、何としても陥落させねばならぬ陸軍は、応召兵はみな片っ端から消耗の激しい乃木軍へやむなく投入した。 だから五銭玉のついた千人針の白布で襷がけさせられた彼ら応召兵は屍体の山に突進、自分らも次々とその上積みの死骸になっていった。 (軍神というより死神だろう。) よって参謀本部の児玉源太郎がたまりかね、「とても乃木には委せておけぬ」と密かに満州へ渡った頃、横浜の関門に露天の占師をしていた高島象山が、それまでの腰掛け式を止め「あいや御通行中の皆さん」と大道の真ん中に立ちはだかり、桜の太いステッキの先で地面に姓名を書き、集まってきた群衆に向かって、「お国のために出征なさっても、無事に凱旋なさる方もいれば武運つたなく戦死の方もいる。 運不運の分かれ道はこうして姓名の中央に線を引き、左右同じになるのは弾丸がさあっと通り抜けていって吉運。そうでない方はお気の毒だが改名せねば運が開けない」と、今日で言う姓名判断を字画で数える型を創始した。 (占いが流行るほど、戦況が悪化していたことを物語っている。) 溺れる者は藁をも掴むというが、夫や倅を生還させたい人々は争って行列を作って並んだ。江戸時代にはなかった姓名判断や高島易断の名が、明治三十八年から日本全国に広まったのは乃木大将のおかげなのである。 (正しく死神である。) 「庭にひともとナツメの樹、弾丸跡もなまなましい・・・」という、ステッセル将軍と乃木大将が水師営で会見した唱歌が、文部省の国定教科書にのせられ普及した。 (宣伝で洗脳である。) 司令部からあまり外へ出たがらなかった乃木大将が何故に水師営まで行ったかといえば、児玉源太郎によって解任され、司令部には児玉やその幕僚が入り、大口径要塞砲を陸揚げ、それによって小銃や斬り込み隊では突破出来なかった機関銃座を吹っ飛ばし、ついに陥落させてしまったからである。 (乃木は能無しということが明らかである。大体、西南戦争で大失態を犯した者が軍配を握ることなど戦国時代ならありえない話であろう。) が、乃木大将を内地へ戻せば、前代未聞の戦死者を出した原因が彼に有ったことになり、長州軍閥にとっては大変な結果になる。そこで無任所司令官のような恰好で乃木大将は残されていたから、暇つぶしに水師営の捕虜収容所へ行き、ステッセル将軍に会っただけの話しなのだろう。 山下奉文大将がパーシバル将軍に「イエスかノーか」と卓を叩いて凄んだのとは全く別個のものである。しかし唱歌では仁愛の大将が敵の大将を労ったように優しくなっているので、浪花節の辻占い売りの少年に優しくした乃木大将の話しが作られ、本当らしく広まったのである。 児玉が渡満したために、無事に生還できた者らは高島易断のお庇と、象山先生は生き神様のように信仰され、不運にも前に召集され戦死した兵の遺族も、学校唱歌や浪花節で「情け深い乃木さんの部下として死んだのが....せめてもの慰めである」と、皆それぞれ納得したものである。 何しろ戦争は済んでも一般大衆は小村寿太郎の講和条約が不満で、日比谷公園の交番へ焼き討ちをかけたり、暴動を起こしていた。が、「民には知らすべからず、寄らしむべし」のお国柄ゆえ、今で言うマスコミ利用と義務教育で、乃木大将は戦争責任を問われることもなく、聖將といった虚像に祭り上げられた。 海軍での軍神は日本海海戦の東郷元帥なのに、陸軍では乃木に大将の上の元帥はつけたくてもつけられなかった。周囲も辛かったろうが、当人の大将はもっと苦しかったろう。 (海軍が上位なのはメーソンの軍隊だからでもある。要するに、陸軍は相手にされてなかったのである。それに気づいたのが226事件である。) 恰好がつかず陸軍部内では白眼視されたろう。松下村塾を継いだ玉木家の生まれゆえ、漢詩を作るのは教わっていたが、読書は生涯、講談の速記本だけだった老人にとって、二人の子息を失っていたし、さぞかし侘びしい晩年の日々だったろう。 なにしろ聖將と祭り上げられてしまっては、若い頃のように遊廓やお茶屋へ行って憂さ晴らしも出来ない。ちびちび酒を呑みほすしか、戦後は過ごしようが無かったからだろう。酔うと決まって何時も、「わしも白襷をかけ、彼らと突貫し、機銃の餌食になっていたらよかった....」と、愚痴るごとく下僕に洩らしていたとも言う。 だから、周囲の長州閥が見かねて、何か仕出かさないようにと学習院の院長の職につけた。黙々と学校には行ったが、院長室では<寛永三馬術>とか<真田三代記>の速記本を、折角職員が手でカバーが掛けて有るのに、しきりに口に出して音読していたという。 ☆ ☆ ☆ 水戸黄門で有名な水戸光圀の実像とそっくりなのは、面白い。英雄の実像は平凡以下であることがわかる。問題人物だからこそ、恥部として露見してはならず、体面を整えるために美化されるのである。だから英雄というのは禄でもない人物なのである。実像を知る者にとっては馬鹿らしく滑稽であっただろう。次回に続く。
2013年12月26日
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クリスマスは過ぎたが、偶像崇拝に陥っている昨今のクリスマスへの戒めのために、その意味を考えてみたい。 八切史観を紹介しているのは、偶像崇拝への戒めのためである。歴史上の人物も、現代の人間も、一人の人間として同じということを実感してほしいためである。釈迦にしろ、イエスにしろ、この世界のなかでは、皆同じということを歴史から学んでほしいためである。 スーパーマンなど存在しないのである。確かに、一芸に秀でている人はいるが、それをもって、他人よりも全体的に優れているわけではない。西郷南洲がいったとされている「敬天愛人」は、確かにそういう意味では妥当な表現といえる。 愛するのは大切だが、依怙贔屓はよくない。「天は人の上に人をつくらず」なので、人も天を見習って、人の下に人をつくらないことが大切である。依怙贔屓をすると、ついつい愛情が偏り、人の下に人をつくるようになってしまう。 自分がやるべきことを他人にやらせるようになり、ついには現代人のように、小便するのが面倒なので、誰か代わりに小便してくれないか、というようになってしまう。現代人の特徴は、自己愛が過多なところにある。それは物質愛=所有欲に顕著に現われている。 確かに自己愛も愛であるが、そのために他人を犠牲にするのでは、意味がなく、かえって憎しみを生んでしまう。だから愛情が偏ることは悪なのである。 そういう意味では、愛情の偏りをなくすこと、利己心をなくすことが、現代人の人生の課題である。釈迦にしろ、イエスにしろ、平等に愛する困難さを説いてきた。特に血からくる愛情の深さの困難性を説いている。 つまり、この世界に生まれるにはどうしても血縁を必要とするので、血縁からくる執着が生まれてしまう。すると、どうしても愛情に偏りが生まれてしまい、依怙贔屓が生まれ、人を差別するようになる。神は分け隔てなく愛する存在なので、差別すること自体が神ではない。 仮に神を愛とするなら、神は全体を生ましめ、全体を愛することが神の存在なので、特定の存在を愛することは、神ではなくなってしまうことになる。これを愛の堕落というのである。 出家というのも、本来この意味であり、何も僧侶になることが出家ではない。家族だけを愛すのでなければ、家を出る必要もない。現代では仏教に帰依することだけが出家と考え、宗教を金儲けに使っているわけだから、出家がかえって罰当たりでさえある。 オカルトでは、愛は血である。血が全体に平等に流れることで、全体を愛する神の存在が現われる。全体に循環せずに、血が偏れば、塊となって腐敗する。また血が固まれば、流れの障害となり、死ぬことになる。 このことから、死とは、偏りや腐敗を止める作用であることがわかる。血が生命の根源であるのは、愛が生命の根源であることに同じで、だからこそ、全体に万遍なく行き渡らねば、偏り、腐敗し、死を生んでしまうのである。 偶像崇拝というのは、この血の偏りを生んでしまうから駄目なのである。 血の偏りが死を生んでいるところに、神の救いがある。愛情を偏らせず、平等に万遍なく行き渡らせるために、死があると考えてみればよい。 全体に愛情の血が行き渡ることで、配慮がなされることだから、死は死ではないのである。死により間違った愛が解消されるのだから、死は愛の復活となる。 さて、クリスマスの意味だが、オカルトでは、クリスマスイブは、イブ=エヴァからきていることがわかっている。全体の愛の神が、人間に執着して、イブをこの世に誕生せしめた日を意味している。この世に生まれた人類創生の日といってよい。神の人類愛といってよい。 人は神の愛の結晶であるから、「生めよ、増えよ、大地に満ちよ」といったのである。人類愛が主語なのである。人類愛よ! 生めよ、増えよ、大地に満ちよというわけだ! しかし、人類愛が大地に満ち溢れると、偏りが生まれるようになってきた。執着である。血で血を争う戦いが生まれるようになってきた。なかには愛という血を独占する者も生まれた。 人類愛イブ=エヴァは、再び天界の神の全体愛=平等愛に帰る必要性が生じてきた。全体愛がキリストがイエスの肉となって、現われる必要が生じた。全体愛を生ましめるマリアに帰れ!ということで、エヴァ(EVA)の反対の(AVE)アヴェ=マリアといわれるのである。 だから、マリアとは処女性、偏りのない、つまり無垢な全体愛キリストを意味することがわかる。エヴァ(人類愛)はマリア(平等愛)となってキリスト(全体愛)と結ばれることが行なわれる。三位一体である。 そして、イエス=キリストの誕生となる。人類のなかに生まれた、あらゆる偏った愛=憎しみを背負うためにやってきたわけである。実際、あらゆる憎しみを受け、十字架を背負い、死んでいったわけである。 オカルトでは、キリストの誕生は、イエスの30歳のときで、イエスの誕生とは異なる。イエスという身体に、キリストという全体愛が宿った日を指す。だから、クリスマスとは偏った愛を、全体愛に戻す日といえる。愛の偏り=憎しみに死をもたらす日ともいえる。愛のバランスを保つ日である。 どんな愛情も肯定されるが、過度な愛情は戒めなければならない。バランス、調和が重要である。例えば、神の名とされる「エヘイエ アシェル エヘイエ(我は我という存在により存在する)」は、全体愛を説いていることになる。「我は全体愛により、万遍なく愛する」という宣言でもある。 要するに、憎しみには愛をもって報いるわけで、一方の頬を打たれれば、他方を差し出すということである。全体愛とは、そういうものだというわけである。全体愛からすれば、間違った愛=憎しみには死がもたらされることも十分にありえる。 だから、クリスマスは、何が死なのかを考える日ともいえる。逆説的にいえば、エヴァ(人類愛)=マリア(平等愛)=キリスト(全体愛)の三位一体の愛のなかで、人間は永遠に生きることができる、ということなのである。 人類愛=自由、平等愛=平等、全体愛=博愛ともいえる。 それは神から生まれ、キリストとして死に、聖霊により復活する、ということでもある。ホップ、ステップ、ジャンプである。自由と平等と博愛を身に着けた人間の魂は不死鳥となり、永遠に死ぬことがなく、宇宙をくまなく循環する天使となるという。 だから、クリスマスの日に七面鳥を食べるようになったのかもしれない。不死鳥になるという意味である。 しかし、人類全体を愛することは大変なので、ホメオパシーの原理を用いて、憎んでいた特定の人を赦すこと、つまり、憎しみに死をもたらすことで、人類愛につなげることができる。これなら、誰にでもできることである。少なくとも、自分のなかの憎しみに終止符を打つことは誰にでもできる。 このようなことを書いてみたのは、以下の話に目が止まったからであるので、その話を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 播州武侯祠遍照院 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/ クリスマスの贈り物 http://ameblo.jp/mademoiselle-ai/entry-11736039905.html 私から皆さまへのクリスマスの贈り物、、形あるものはお贈りできませんが、それを聞くと多少なりとも何かが楽になるメッセージはないかと考えました。 クリスマスというのはすでに人は救われている、、というお祝いで、これから人類を救ってほしいというのとは違うのです。 すでに救われている、、、キリスト教的にはそれはイエスの出現により、原罪を超えた許しをすでに得たという、お祝いなのです。 人間が楽になる方法はいろいろあると思いますが、「私は許されている」という言葉はけっこう効きます。 何に効くのか、、、自分を許してない人に効きます。 自分を許してないと、自分に凄い大変なことを課していきます。ワーカホリックなども自分を自分が許してない心理がなければ説明できない現象です。 なんだ、許されてるんだ、、、と思えれば、眠いときは寝ようか、、、おなかがすいたら食べようか、、、と、自然な態度、行動にすんなり出ていけます。 しかし、自分を許してないと、大変です。食べたい、、でも食べちゃダメだ、、眠い、、、、まだ眠ってはいけない、、、エッチな気分、、、何バカ言ってるのだ,そんなはずはない、、、、、失敗した、、大変だ親や周囲には内緒にしなくては、、、とにかくすべてが大変になってくる。 そんなときはひとこと。 「私は許されている」 これをやってくれたのが、イエスでそのお祝いがクリスマスなのです。 なので、本当は人間は、多少仕事ができなくても悪いこともなく、顔形が悪かろうとも、本来は大した問題でなく、お金に困っていてもそれが本質的な不幸であるわけがない。ただしただひとつ、自分が自分以外になろうとすることだけは今でも罪になる。 神が与えたプレゼントがあなた。そのあなたがそんなものいらないという。神はどうしていいかわからない。これだけは助けられない。すべての神のあなたへのプレゼントは、あなたの周波数に合わせてあるのだから、あなたが受け取れなくなってしまう。 神、どうすることもできない。あなた死ぬ。 しかし、自分に戻れば大丈夫。自分の運を信じ、自分へのプレゼントを信じること。誰からもプレゼントはもらえなくても、それは人間がくれないだけで、神はくれる。 あなたの周波数にあったプレゼントが用意されている。あなたの人生の最高のプログラムが用意されている。 人の幸福は自分として生きなければ開かない。サイズの合わない服をもらってもしょうがない。罪とは自分以外になろうとすることだけ。 それ以外に罪などない。あなたは許されている、、あなたは守られている、、 だから楽しんでください。つらい人もそれが自分に用意されたシナリオだとしたら、つらいながらも楽しめる。苦しいながらも感謝がわいてくる。 するとそれを見ていた神が泣き出す、、、お前がいじらしくてかわいくて、どうしようもないと。 どんなプログラムでも神は書き直してしまう、、、さらに素晴らしいプログラムへとあっという間にステップアップ。 人があなたをおどそうが、あなたのことをバカと言おうが、何を言っても関係ない。どんな苦しいときも悲しいときも気にすることなどない。そんなときは神を泣かせてやればいい。 人はなかなか心をひらかないけど、神はすぐに開いてくれる。そしてあなたを受け入れる。自分の子供だから。 自分の子供の学芸会での演技に文句を言う親がいたら本物のバカだ。 神は違う。下手でも懸命にやっているわが子がどうにもならなく可愛い。 ともかく自分を受け入れる。そうしないとプログラムが開かない。せっかく用意されている大きな大きなサンタクロースの袋が開かない。 自分が許されるとは、自分が許されていたことを知ること。それがクリスマス。罪の意識を利用してあなたを支配していたのが、実は悪魔。もうだまされないようにしようね。 ☆ ☆ ☆ オカルトでいえば、現在生じている出来事は、過去や未来のカルマによるもので、実は現在生じている出来事は、既に神から赦されている出来事なのである。 神が赦したから現在の出来事が生起しているわけで、その出来事に対して、あれこれ制限して自分で罰を与え、赦さなければ、神(全体愛)から離れることになる。 するといずれ死を迎えるわけである。憎しみを赦さないでおくと、不健康になり、死ぬということである。健康の秘訣とは、決め付けない、憎まない、驕らない、ということである。 少なくとも、クリスマスは愛を求める日ではない、愛を求めればそれだけ憎しみも深くなるだけである。だから、憎しみを止める日といえる。
2013年12月26日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ よく女の人が難産で、子供を助けるか母体を助けるかという場合、日本以外の国では、又女性には出産する機会はいくらでもあるからと、母体を必ず尊重するのに日本では如何にも母性愛の美談のごとく、「この身はどうなっても構いませぬゆえ・・・子供の方を助けて下さい」等とさも尤もらしい扱いをするが、当の母体が死んでしまっては母性愛も何もない。 しかし、「腹は借りもの」との建前からすれば、正室の方では産ませてしまえば不要の女であるし、妬情もあるから、そこは、処分するなら早くと使い捨て精神で子供だけ取り出した後は見殺しにしたかも知れない。 何しろ武家社会にあっては、上は殿様から下は足軽まで、跡目相続を無事にすることが世襲扶持という永代給付権利確保に大切な事だった故、何としても男児をもうけねばと焦って「大の虫を助けるには、小の虫は犠牲になるもやむをえん」とした考えなのであったろう。 処が、これまでの日本史では、女人の性を考察するのに此処まで思考が及ばず、女体を無理矢理犯されたとか、佳い女だから捕らえて側室にされたと、好色的にするが、大女だからとか、出産経験者で頑丈な腰回りゆえ「子供産ませ用」にされたというのは、書かれていない。そうした行為の結果が妊娠、そして出産といったコース的な考え方しか史家もしないせいだろう。 しかし、子を産ませようとの目的で、手を付けられた女の歴史は極めて多い。これは江戸期に入っても大名で将軍家の息女を貰ったものが、もし身重にさせて出産の際に死なせでもしたら、御家の一大事というので、接しても洩らさす゛、放出用の女人を直ぐ近くに、股間を開けて寝かせておいたり、京の関白や摂家がその姫を嫁に出す際、「もしお産でもして子を産む時に死にでもしたら、折角縁組みしても何にもならぬ」というので、その時の代用侍女を何人も伴わせて東下りしてきている。 つまり政略結婚が憐れだというのも、これまでの考えのように、「好きでもない厭な相手に嫁がされ、泣く泣く身を任す」ことではなく、「せっかくの女体を生涯只何となく持て余さなければならぬ悲劇」からであると、見るべきである。 幕末の和宮様だけでなく代々の将軍家は、それぞれ遡れば京より正室を迎えているが、誰も一人の御子をもたれてないのは、この事実の何よりの証拠であろう。 又、五十八人の子女を作った将軍家斉の姫は各地の大名へ嫁入りしているが、やはり一人も子供は産んでいない。これはもし死なれたら大変と床の間の飾り物にされていたからである。つまり講談的発想では、美女に目をつけて殿が手をつけられて、御愛妾ということになっているが、実際は違う。有り得ることではない。 「・・・これこれのお方さま」と正室が決まり、側室も自分で勝手に選ぶ様なことは許されず「これがお世継ぎを産む係の女ごゆえ、きばってお励みなされませ」とリモコンされていたのであって、美貌で側室になり子を産んで「愛妾何々の方」となって、悪家老と組んで御家乗っ取りといったことは、実際に有り得ない事である。つまり子産み係も乳人係も御用が済み次第お払い箱が定法だったからである。 つまり春日局が実家蜷川の圧力で京から江戸へ出てきて、表向きは乳母の格で江戸城に詰め、家光が二十歳になって将軍になるや、ますます専横を極めた。だから後藤庄三郎の前述の反骨ぶりは、己が命どころか、家門まで棄ててかかった前代未聞の行為だった。 彼にすれば、〔春日局といっても、世が世ならば唯単に子産み用の使い棄ての女ではないか〕といった憤りと、〔金を頭ごなしに否定し、金座つまり金を作る後藤の家へ鉄のビタ銭作りを命ずるとは何事であるか〕といった鉄に対する金の立場に立つ男の反撃だったと見るべきだろう。 そして春日局は、倅の竹千代こと家光をマザーボーイに育てたゆえ楽な生涯を送ったが、それまでの子産み専門の女はいかに悲惨であったかも、これまでの歴史では抹殺されているが、せめて一掬の涙を彼女たちにそそいでもらいたいものである。 【引用参考文献】 八切止夫「八切日本外史」、「野史辞典」、高柳光寿「戦国戦記」、「戦国史談」、本多平八郎忠勝聞書・美濃旧記・当代記・信長公記・寛政譜・田辺戦記フロイス日本史・細川家記・丹後旧事記・浅野家文書・秀吉事記・松平記兼見卿記・言継卿記・西国巡渉記・京柴野大徳寺文書・その他 ☆ ☆ ☆ というように、八切史観によると、明治以前はどちらかというと女性上位の社会だったようである。女性も正妻になり家を切り盛りするタイプと子を産むだけの側室タイプに分かれていたようである。 武家の正妻で子を産むのは珍しいそうだ。戦国大名は、女子を他家に嫁がせて、勢力を広げることで拡大してきた。戦国時代は、信長の視点から書かれているものが多いが、例えば、斉藤道三からの視点でいえば、信長は婿であり、奇蝶を嫁がせたのは、信長に織田家を継がせ、尾張まで支配領域を拡大することであることがわかる。 信長も、妹の市を浅井に嫁がせ、織田家の家臣にしたのも、当時の風習であったことがわかる。しかし、八切史観によれば、信長の奇蝶や秀吉の寧々のように、正妻は子を産まず、家を切り盛りするのが主流だから、市は子を産んでいるので、浅井家では、側室をも兼ねていたことになるが、浅井の当主は長政ではなく、父久政で、浅井家では側室扱いだったことが想像される。つまり、信長は長政に浅井家の家督を譲ることを画策したが、失敗したと考えるべきかもしれない。 八切史観のように、当時の風習を知ることだけでも、歴史の謎を説くことができる。明治以降の男尊女卑の歴史創作により、戦国時代の女性の歴史はほとんど無視され、誤った形で伝わっているから、例えば、本能寺の変が光秀の裏切りにより起きたというような誤りを生んでいるといえる。 八切史観によれば、光秀が信長に協力するのは、間をとりもった奇蝶の存在が大きいというし、光秀が、足利義昭に会見する金銭の工面にも、関わっていたのではないかと予想されるのである。当時、貴人に会うにはそれなりの金銭を要したという。 戦国時代は、女性の地位が重要だったが、明治維新により、女性は子を産み育てるのが仕事という価値観だけに固定化されてしまったことがわかる。下らない人物の水戸光圀が、英雄のように語られるように、その人物の実像とはアベコベのイメージがつくられ、美化されて、過去の歴史の真相が全く隠され、見えなくなってしまったから、もはや歴史から何も学ぶことができなくなっている。偽装に気づかずになってしまった! このような偽装を、八切氏の「大江戸意外史」は暴いているので、非常に面白く、英雄といわれている人物が、現代の一般市民以下で、全く偉くもなく、全く普通のクダラナイ人物であることがわかるから、人間関係を学ぶのによいので、ここでも出来る限り紹介していくが、是非参照して欲しい。 例えば、その本によると、水戸黄門漫遊記の原本はエロ本だったそうである。幕末に斉昭が将軍になるための水戸黄門の宣伝本を出したのを、井伊直弼だったかが、その宣伝本を売れなくするために、宣伝本を茶化したエロ本を出させ、そちらの方が売れてしまったので、いつのまにか、その2つの本が合体して水戸黄門漫遊記となったそうである。 この本を読めば、ときの権力者がいかにどこにでもいる普通のクダラナイ欲深な人物かがわかる。綱吉の馬鹿さや、家光のマザコンさなど、最近上映された三谷幸喜の歴史モノ以上の痛快さや笑いをもたらしてくれる。
2013年12月21日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ ・・・・今では間違って春日局は乳母とされているが、当時は腹は借り物の考えゆえそれも可だったが、なのにそうした慣習を一変した家光はマザーボーイだった。そして実母、春日局を側から離さずだった。 よって生涯春日局は千代田城で権勢をふるっていたのである。何時の世も金銀を押さえている者は強いとはいえ、よくも彼はあくまで堂々と勇敢に抗議したものである。 この春日局や京の東福門院の死を待ちかね、<女大学><婦女庭訓>が公儀から、慶安、承応、明暦と広められ、やがて柳沢吉保によって徹底的に女性弾圧の歴史が始まるのはこの後藤庄三郎の影響という。 「子供を産むのは厄介だから」と召使の女や、身分の低い女に腹替りをさせていた誇り高き女達も「嫁して三年、子無きは去る」と処分されるようになるのである。 現代はボーボワールの出現以来、結婚しない女や、子供を産まない女が増えていてさも事新しい現象のごとき皮相な見方が跋扈しているが、果たしてどうだろう。 【出産しない女性の歴史的考察】 「未婚の母」といった言葉が叫ばれる反面、近く迫っている食料不足時代をおもんばかってか、「子供は二人までに限るべし」とか「産まない方がよい」という社会現象も見られる。 こうした現象が取り沙汰されて来だしたのは、もう三十年前、サルトルと同伴で来たボーボワールが来日して、講演などした時点からであるらしい。 だから「第二の性」等という本が当時はよく読まれた。そして、近頃もそうだが男女機会均等法なども出来、こうした考えは新しいものと思われているが、果たしてどうだろう。 「女性が男性と吾して一個の人間として、生き闘っていく為には、出産育児といった煩雑さから、先ず解放されなければいけない」と言う思想は何か新鮮な、そして強烈なデイオールの香水でも嗅ぐような、そんな感覚さえ与える。 だがこうした女性の生き方、考え方は決してそんな新鮮なものではない。それは極めてフレッシュなヴュー・ポイントをもつ二十世紀後半の思想のようであるが、日本女性は昔からこれに関して身をもって実戦躬行していたのである。 それは歴史が証明するところだし、いかに日本の婦人が他の民族の女性より、遥かに先進的であったかという、これは例証にもなろう。 しかしこれを解明してゆくに先だって<歴史>というものは、先ず納得できる次元に立っての「常識」コモンセンスであること。 そして「歴史における常識」とは、「他人がこう言ったから」とか「本にこう書いて在ったから」「こう教えられたから」といった押しつけのものを鵜呑みに覚えこんでしまって、その既成概念を「信ずる者は救われん」式に頑固にメモリーして、それを墨守することではなく、柔軟な頭脳とその教養によって、自分自身で判断しうる「常識」によって納得理解しうる過去の具象こそ「正しい歴史」と考えるべきであろう。 頼朝にしろ、信長、秀吉にしろ彼ら男供が、歴史上の英雄になり得た裏には、内助の功というか外助の功を成した妻の存在に注目すべきなのである。つまり、これまでの頭を切り替えねばならぬ。というのは、「その妻が子を産まず、従って出産育児に煩されることなく、専心、夫と共同一致で励んだからこそ、英雄として彼ら夫婦は天下を平定できたのだ」という常識のワクの中で理解すべきでなかろうか。 といったところで、勿論現在の時点においては、まだ、「従来の日本女性は忍従を強いられ憐れな存在だった。でも米軍進駐によって、民主主義が広まり、ようやく女性は解放され、戦後、靴下と女性は強くなった」とするのが、いわゆる常識なのである。 しかしこれは各自が考えた結果の判断ではない。 誰かが無責任に放言したり書いた物によって、錯覚された常識にすぎない。それゆえ「絶対にそんなことはない。日本女性というのは万国無比で「古代の女性は太陽であった」と云われるほど、女性はかってこの日本で尊敬され、男よりも遥かに優秀だった。現在でも頭脳は優っている」というのも、また大方の女性の本音でもあろう。 つまり、薩摩人によって女性優位だった日本列島が、女性軽視に切り替えられた時点は明治維新であるが、その前は西暦1659年に、明国人朱舜水か゛日本へ帰化し、後の「女大学」や「婦女階悌」といった女性冒涜の文書の種本を、日本文に翻訳しだした時からで、柳沢吉保の元禄期よりと思われる。 「女夫」(めおと)とそれまで書かれていたのが、この時代から後は男を上にして「夫婦」と変わってくる。 そして、何故に、こうした反動期になったかと云えば、その時点までは京では明正帝なる女帝がおられ、その生母の立場で、秀忠の娘和子こと東福門院が次の代でも院政をとり、東の江戸でも春日局が、これまた江戸城を支配していたからに他ならない。 俗説の春日局は、おまんの方の取持ち役位だが、史実では、老中筆頭の土井利勝や大老の酒井忠勝を呼びつけ、政務一切を支配し、現今の首相よりはるかに実力者であった。このため、東西から女の天下が数十年続き、 「女にあらざれば、人間にあらず」といった具合だったらしい。 だからこれに懲りた男共は、春日局や東福門院が死んだ後、いまいましがって、「男性専科の世の中に作り変えよう」と共同謀議した結果、仏教の「女人不浄説」や「女は三界に家なし」といった劣等教育を採用し、女性を奴隷化せしめようと企てたのが事の起こりのようである。 だから今日のごとく女性を、<子供を産み育てる存在>とするだけの「常識」によって納得理解できるものではない。過去の具象を奇異に思っても、何とか把握することこそ、「正しい歴史」と考えるべきであろう。 さて、歴史上有名な英雄と云えば、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉と先ず誰もが名をあげる。 その内、頼朝夫人の政子は「吾妻鏡」によると、彼女の着帯を頼朝がしたように書いて在るが、この本は勿論十二世紀から十九世紀まで次々と筆写され、リライトされて来たものであるし、彼女ほどの権威のあった女性が自分の腹を痛めた子供を殺してまで恰好だけに、藤原家から二歳の養子をとるなどありえない。 実際は子供は一人も産んでいない。 奇蝶は「諸旧記」には帰蝶とあるが、当時はみな当て字の音読みであるし、後の信長の長子を引取って育てた時、奇妙丸と名づけていたから、この文字が正しかろう。 が、周知のごとく、彼女も又子供は一人も作っていない。秀吉の妻、ねね〔寧々、寧子、吉子の文字も伝わっている〕も子無しである。 揃いも揃って日本の英雄の妻は誰も子供を産んでいない。さて、妊娠というのは、男女機能の相乗作用によるものである。子供が出来ないからと云って、女性側だけを責められるものではない。 また、不妊の事由を性病とみても、性病が日本に渡来したのは文禄の末から慶長のころなので、彼らもその妻達も性病には全然関係がない。そして彼ら頼朝、信長、秀吉といった英雄達は、正婦人の彼女以外との交渉においては子供をもうけ、男性機能がノーマルだった事を証明している。となると、彼女たちは皆不妊症だったのだろうか。 現在の歴史や、歴史小説では、「ねねは石女〔うまずめ〕で子供がなかったから、秀頼を産んだ淀君に嫉妬してこの衝突がかの天下分け目の関ヶ原合戦である」とするような解釈が新しい史眼とされて、この説がおおいに感心されてる程度である。 しかし本当の処は違う。 つまりそうした既成概念に誤られてしまうごとく、江戸期の春日局の死後は、すっかり日本女性は変えられてしまう。何しろ、それまでの女性は、産み育てる、というハンディキャップを排除する事によって、男女同権どころか、女性優位を保っていたのが、その時代から段々と雌鳥みたいに産むこともついでに強制され、「嫁して三年子を産まざるは離縁」といった不文律まで押しつけられてしまった。 奇蝶二十一歳の時二十二歳の信長は、生駒蔵人の後家娘に、長子奇妙丸(信忠)を先ず産ませている。 この時点は桶狭間合戦のまだ六年前で、勢力弱小の信長は奇蝶の実家の斉藤道三に武力財力の援助を受けていた時代でである。だから現在ならば彼女は<夫の不貞>を実家に泣きつき、家裁へ離婚の申請の手続きをするケースといえる。 だが奇蝶はケロリとして、長子を直ぐに引取っている。信長は次に五徳姫と茶筅丸を産ませ、その次は伊勢神戸城の後家の神戸御前に後の三七こと信孝を産ませたり次々と合計十一男八女をもうけている。 もとより奇蝶が嫉妬したとも伝わっていない。何故かというと、その方が彼女には都合が良かったからである。つまり十ヶ月も大きな腹を自分で重たく抱えたり、産みの苦しみを味わうより、彼女にはもっと他に成さねばならぬ仕事があった。当時はそれに「腹は借りもの」という古い言葉がある。改めてこれも考えてみる必要がある。 エリートの女性は、妊娠出産という一年の大半をつぶす仕事は、ピンチヒッターの召使いの女や身分の低い者に腹替わりをさせ、自分は妻、当時は女夫〔めおと〕の女〔め〕として夫の手助けをする仕事に専心していたのである。男性以上に仕事の出来る女性と、唯それしか能のない女性とに昔は二分されていた。 そこで「女」〔め〕として、諸事を支配する主婦〔もとめ〕と、産女〔うみめ〕と呼ぶ〔お腹様、側室ともいう〕のに分かれ、分業しあって共存共栄をはかっていたのである。 だから昔は、今日の女性のように、一人で妻と母の二役というダブルキャストはしていなかった。何しろ頑是ない赤児と違い一人前になった男を飼育するのだから、丹精次第では吉法師が信長に、籐吉郎が豊臣秀吉にも仕立てあげられたのでやり甲斐も有ったろう。 「子持ちの後家にばかり手を出して、それに子供を産ませた家康は女癖が悪かった」と説く歴史学者も居るが、家康にしろ信長にしろ彼らは「受胎させ出産」が目的なのである。だからそこをわきまえた夫人達は、同姓の侍女や腰元の中から「過去に実績を持つ有識体験保証付き」である経験産婦を選んで、その目的を代行させたのだ。と書いても、殆ど判って貰えないようである。 何しろ「腹は借りもの」といった言葉が武家時代には有り、これが一般に実行されていたのが判っていながら、どうも男の好色から、側室をこしらえてといった考えか、さもなければ江戸時代の「お世継ぎがいないと御家断絶になるから」とやむなく女人を召したといった受動的思考が、講談的常識によって培われているせいか、なかなか判ろうとはしてくれぬ。 確かに徳川時代になり、戦国時代と違い男子相続制が決められたので、どうしても男の子を作る必要に迫られたから、その頃の<津和野家記>にも、「産業はそれ一国の大業にして」といった言葉すら有る。 が、それを歴史家は間違えて(領内の産物を振興することが経済的に・・・)等と今日的見方で解釈して、男の侍は国防のため野陣につき、婦女子は国内産業につく、と言った具合にするから、全てが可笑しくなってしまう。 確かに産業そのものに相違ないが、それにウミワザのルビがつくのである。「産業は女の大役にして」とあるごとく、ペニシリン等の抗生物質の無かった昔は産褥熱での死亡率も多く、女にとっては子供を孕むはやすく、産むのは命がけの事だった。 それゆえ、明治までの大名の家記には「下受け産業」なる記載すらある。これも武士の家ではた織りしているのを町家や百姓の娘達の内職に出すというのではない。お産の時の消毒薬もなく、為に死ぬ場合も多かったので、それゆえ出産は女体にとって危険極まる難事業ゆえ、死んでもよい身分の低い女に代行させるだけのことゆえ「女人忠義」とも云うが、文字通り下請けの産業〔うみわざ〕なのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月21日
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八切史観によると、日本社会が男尊女卑になったのは、明治維新からだという。戦国時代は、信長がよく「サルメ(猿女)」と言っていたように、以前紹介したが、「猿女とは元は反体制派の部族の名で、女上位だった。なので、幕末までカカア天下のことを猿女と言っていた。」というように、男尊女卑ではなく、女尊男卑の社会もあったそうである。 八切史観によれば、信長が織田家の家督を継げたのも、嫁の奇蝶が、斉藤道三の娘で、美濃勢力を味方につけることができたためで、実際、織田家の家督相続の際に、道三が介入したという。 信長が「タワケ(他分け、他外)殿」と呼ばれたのは、奇蝶ら美濃勢力が家督を信長に継がせた自負心から、信長のことを呼んだことに起因するらしい。だから、信長は奇蝶に頭があがらず、また奇蝶も、信長を子供のようにみていたようで、信長に側室との子作りをさせ、信忠らを引き取って育てたという。 女性は一般的に男性が子供のようにみえるらしい。女性の方が精神の成熟が早いからで、同年代だと、男性を子供と見下すらしく、逆に若い娘が、年長の男に惹かれるのは、成熟した大人の精神に対する一種のコンプレックスで、自分の未熟さを年長の男と付き合うことで、解消するために思われる。 奇蝶による家督相続にもかかわらず、信長は、道三が義龍に裏切られて、援軍を頼んでも、出し渋り、道三から、美濃を与えるという書状を引き出してからようやく、美濃近くまで出陣したが、道三を捨て殺しにする形であっさり引き上げている。このことが奇蝶に知れ、後の本能寺の変の黒幕が奇蝶という噂が流れたそうである。 そもそも、織田家が尾張で勢力をもてたのも、信秀がやたら側室をとって、子作りに励んだためだという。有力な国人から、側室を頂き、子作りすれば、国人衆を味方につけることができるわけである。つまり、戦国時代で出世するには、女性の権力が重要だったわけである。 戦国時代以前では、北条(平)政子が有名で、以前紹介したが、反藤原のために、頼朝らを使い、最後は源氏を捨て殺しにして、尼将軍として君臨したそうである。八切氏によると、源氏に対しての蔑称が、「馬鹿」であるので、恐らく、平政子らは、頼朝らを「馬鹿殿」と呼んだのかもしれない。 「馬鹿殿」といえば、現代ではお笑いの志村けんが有名だが、江戸時代の徳川幕府は、倒幕に対して目を光らせ、各藩の取り潰しを画策したが、「あそこの殿様は馬鹿だから」という油断のために、藩主がわざと愚かな振りをしたという説も流れているが、どうも嘘っぽく、そもそも愚かというだけで、取り潰されないとは考えにくい。 現に、本当は聡明だった赤穂浪士で有名な浅野内匠頭が、馬鹿だったから浅野家が取り潰された、というのが通説となっているくらいである。浅野家が取り潰されたのは何度も紹介しているが、柳沢吉保の陰謀である。八切氏の「大江戸意外史」には、詳細が載っているので是非参照してほしい。 その江戸時代でも、最も権力をもっていたのが春日局で、家康亡き後、織田家の血を絶やすために、春日局が大奥をつくり、幕閣を身内で固め、朝廷には秀忠の娘和子を出したので、幕府では女性上位の傾向が続いたようである。ちなみに、和子は秀忠と江の子なので、織田の血が流れている。 この春日局の権力は、春日局亡き後は、済州島出身の綱吉の母玉(桂昌院)に受け継がれる。この玉は美女だったらしく、家光が上洛したときに、島原の乱の切欠となった御水尾天皇との領地増加の件の後で、家光が憤慨しているときに、京でみつけ、つれかえった側室だったそうだ。 家光は男色家で、最初、この玉を男と思って交わったらしく、この玉が産気づいたときに女子だと発覚し、春日局が慌てて身内を調べると、済州島だとわかったので、出自を誤魔化すために、八百屋の一人娘ということにしたという。春日局は身元がばれないように、玉の両親に金銭を渡して、済州島から大陸に渡ってもらったそうである。 玉といえば、通説では美女の代名詞で有名なのが明智光秀の娘で、細川忠興に嫁いだ方の玉だが、八切史観によると、どうも美女ではなかったようである。玉が、細川家と関わりのある本能寺の変の真相を知っていたため、細川家から情報が漏れないために、監禁するでっち上げの口実のようである。 だから、玉が美女というのは、綱吉の母の方で、この玉へのあてつけであったのではないかと思う。光秀の玉はキリスト教徒の異教徒で、綱吉の玉も、綱吉に神仏混合令や生類憐れみの令をやらせ、済州島出身の仏教徒だったから、原住民の神道系の宗教からすれば、異教徒なのである。 つまり、綱吉の母を批判できないので、代わりに、細川ガラシャの玉を非難するわけである。 さて、その玉は、春日局亡き後、済州島の両親を探すのだが、既に死んでいて、代わりに親戚をつれてきて、坊主にして寺を建てたらしい。この寺を儲けさすために、綱吉に神仏混合令や生類憐れみの令をやらせた、というのである。 このように、家光や綱吉の政策とされるものは、春日局であり、玉であることがわかるから、大奥=黒幕と呼ばれたのかもしれない。どうも、日本史の表舞台は男だが、実は裏舞台の女の権力が重要であることがわかる。 また、八切史観によれば、驚くべきことに、かの上杉謙信は女性だったというから、いまほど、男女の区別がなかったのかもしれない。家康の四天王の本多忠勝は、戦国時代の女性が強かったと証言していて、眉を落とし、お歯黒を塗るのは、相手に殿中まで攻め入られたときに恐怖感を与えるためだったそうである。 確かに、暗がりのなか、能面のような不気味な存在が現われれば、お化け屋敷か、ホラー映画に匹敵するだろう。お化け屋敷の原点は、攻め入った城の女人たちがまるで幽霊にみえたことにあったのかもしれない。だから、いまでも前世を記憶して怖いのかもしれない。 春日局のように権力をもった女性ほど怖いものはないので、明治の男たちは、女性を孕ませ、育児に専念させ、家庭に縛りつけることで、女性から権力を奪ったのかもしれない。そして、自分たちがすき放題浮気するために。 というように、男尊女卑は明治からはじまったそうで、そのことがわかる話を以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 【出産しない女性の歴史的考察】 反骨の後藤庄三郎(以下はその抗議文) 新銭鋳造の御用命、をば春日局様御達しにより御老中土井甚三郎さまの差紙にて頂きました。春日局様の御指示と在れば、御大老、御老中におかれましても、否応なく即座にお引き受け仕るべきものと存じております。 よって、かかる事を申しあげますることは、お局さま御威光をないがしろにするがごとき振舞いと、もし思召されましては、てまえ十二代目の家督をさる寛永二年九月、御聴許により相続したばかりの若輩ゆえ、いたって難渋致しまする。よって恐れながら、前もって書面をもってこの段申し上げ、ひとえにお局さまにとりなして頂けますよう慎んで御願い奉りまする。 そもそも文禄四年までは、金は山金砂金にて相対通用し、銀も山出銀、灰吹銀として塊の儘でした。それを九代目後藤庄三郎が、初めて金銀役を仰せ付けられ支配し、当時は近江小比江村にて五十一石六斗の馬飼料を賜り、その御朱印も残っています。 さて慶長二十年四月の大阪夏の陣に父十一代後藤庄三郎は武者百騎を率い、権現様御旗本に加わり、芸州浅野但馬守勇戦の折りは、権現様云いつけにて、松平右衛門佐殿、秋本但馬守と父庄三郎が連名にて感状を出してやっている程であります。「金銀こそ天下治政の基石なり」と、その後天下も治まり、権現様より仰せを受けました。 よってご命令にて、ご府内有楽橋よりに、銀座八丁、金座十二丁をもって囲地となし槍を棄て、日夜のみや金てこにて、金銀のふきあげの御奉公を致し居ります。それなのに金銀の司の当家に対して、今回のごとく鉄銭によるビタ銭〔寛永通宝〕を鋳れとは、言語道断という他ありません。 (贋金をつくれということで、さしずめ、現代のQE「量的金融緩和政策」や、アベノミクスのこと。) 銭という物は、もともと鉄の産出の乏しき当国の物ではありませぬ。あれは足利公方様が室町御所に栄えていられた頃、明国と安全保障条約を結ばれ、臣足利義満として、明国に臣従していたゆえ、向こうの欲しがる金を送り、その代わり扶持として送られていた物にすぎません。 誠に云うも恐れ多いことですが、上様〔家光〕ご生母の春日局さま御実父は、斉藤内蔵介さまにて、その母様は蜷川一族で、御分家の角倉様は権現様のお計らいにて御免許を賜り、カンボジア、コーチンまで御朱印船を出しております。 「雌鳥、ときを告げるは、それ亡国のきざしなり、心するべし」ともうしまするに西の京にありては、台徳院〔秀忠〕さま御息女(和子)は帝〔後水尾帝〕を廃し、その生まれし女一宮〔明正帝〕をたてられ、ご自分は東福門院として勢力をはられ、 「女にあらざるは人にあらず。人間と男とは、これまったく異種ならん」とまで仰せあると伝わる春日局は、御大老、老中方まで小僧っ子のごとく、こき扱われて、大奥どころか、表向きの政務も一切握られ、さきに、「豊前の隠居、細川忠興は亡父の盟友なり」と肥後熊本五十四万石を与えられし等越権の沙汰と申す他はありません。 さて、手前父の庄三郎は、権現様の御上意にて、青山五郎の娘を妻となし、その後「子供産み用」にと仰せあって、すでに他家にて無事出産済みの安産型の、大橋どのを賜り、その腹にて出来ましたが私めにて、故酒井雅楽頭忠世さま邸にて元服しましたゆえ、恐れ多くも私は、権現様より命名を賜り「広世」と申しまするのです。 つまり故信長公の頃も同様にござりまするが、武家の女といいまするは、その正妻は子を作らずに夫に協力するのが昔よりの本分にござりました。子孫確保のためには「前に出産した保証付きの女」というのでありましょうか。専用に当てるのが決まりでなので御座います。 それをやはり子産ませ用として、前に稲葉佐渡守との間に四人の男児を無事に安産なしたる実績をかわれて、伏見にて、権現様の御種を拝領したにすぎぬ身なのに、春日局は、思い上がりと申しましょうか、「権現様は後家好みにて、よそで子を産んだ古いのばかりを召された」と、御当代〔家光〕へ、おまんの方を初め、出産の実績の無い者のみすすめられ、従って未だお世継ぎとてありませぬ。 かって秀吉めが、しくじった徹を又踏まんとなさっているので御座います。これは私が権現様お声掛かりの者ゆえ、春日局さまとてご処分できまいと高をくくって申し上げているのでは御座いません。 「腹は借りもの」とされ、ただ子産み用の身分にすぎなかったのに、秀忠様が亡くなった後、その実子の駿河大納言忠長様を殺して始末し、そのご生母の江与の方さまも閉じこめ同様になされて、「崇源院」として葬られた後も、一度の墓参も誰にもなさしめずに非情なことをなさっておられる春日局様の横暴に対して、最早男として我慢ならず申し上げるのでございます。 ☆ ☆ ☆ というように、子を産まない女性が権力をもつにつれ、明治以来の男尊女卑の男子は次第に面目を失っていくのである。少しでも女子の恐ろしさを抑えるために、教育勅語で、女子はお淑やかに、子供をつくり家庭を守れ、と教えられたのである。どうも昨今のアホ政権にも大奥がいそうな気がする。というのも、アホは綱吉によく似ているからである。次回に続く。
2013年12月21日
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いつだか忘れたが、数週前の日刊ゲンダイに、今年の競馬の有馬記念を買うかどうかのアンケートが載っていた。その結果によると、なんとほぼ7割の人が「買わない」というものだった。その理由の一位にあったのが、確か記憶によると、「ギャンブルだから」という腑に堕ちないものだった。 そこで疑問に思ったのが、なぜギャンブルが、買わない理由になるのか、だった。どうも最近の若者が、特に男性がギャンブル嫌いなのは、女性にもてない、という理由のようである。草食系というのにも関係するようにみえる。 どうも、私見では、父親不在の家庭教育にあるような気がする。母親のみの教育では、どうしても女性的な感覚が優先されてしまうからである。安定性や堅実性が優先され、男性独特の冒険や野望などは抑制されてしまうようにみえる。特に教育ママといわれる連中がそうである。 そして特に、女性の、競馬をやる男性のイメージは著しく低く、恋愛対象としてハンデを背負うようである。それなら、ハンデを背負ってでも、好きになってくれる女性を探せばいいではないか? 競馬が理由で、恋愛対象を制限するような女性はこちらからお断りすればよい。 自分を選んでくれるという想定のもとに、「競馬とあたしとどちらをとるの」といわれると、「そもそも競馬なんかの愛情と比べられて満足なのか?」とか、「競馬をやらせてくれる君が好きだ!」とでもいえばいいのに、理屈っぽい、といって嫌われる可能性も大だが、いわれたままに、女を選んでしまう腑抜け男が多い、ということなのだろう。そんなことで結婚したって、妻の奴隷に成り下がるだけなのである。 しかし、同じギャンブルの、宝くじなら、例えば、年末ジャンボなら買うと、ほとんどの人が答えるに違いない。だから、競馬と年末ジャンボの違いに理由があるようだ。 確率論からいえば、宝くじの一等が当たる確率(ほとんどの人が一等狙いだろう)は地球に隕石が当たるよりも低いそうであるから、ほとんど当たらないが、競馬は買い方により、配当が異なるので、一概に比較は困難だが、競馬の方が、全通り買えば必ず当たるから、ギャンブル性は低いものといえる。 そこで、なにがギャンブルなのか、という定義の問題になるが、世間一般では、どうも宝くじはギャンブルではなく、競馬はギャンブルという認識が確立しているようである。つまりマスゴミの流すイメージに左右されている。 しかし、いま言ったように、宝くじの高額配当(大体100万円位か?)に当たった人は周囲を見回しても、当たった本人がしゃべらない可能性もあるが、本当に当たった人がいるのかと思うくらい、ほとんど聞いたことがないわけで、逆に競馬については、自分もそうだが、100万以上の配当が当たったことがある人は、割といるから、経験上からも競馬の方が当たる可能性が高いことは確かなのである。 宝くじの方が当たらないのにも関わらず、宝くじはギャンブルとはみなされていないのはどういうことなのだろうか? 当たる当たらないの話ではないのかもしれないが、どうもギャンブルのイメージが一人歩きしているようにみえる。 面白いのは、株だってギャンブルなのに、宝くじも競馬もやらないという人が株をやっていることである。株や宝くじはギャンブルではなく、競馬はギャンブルという感性が何処からくるのか、不思議である。 このことは、上述した女性のイメージによる影響が大のようである。競馬と比べると、どうも株をやる男は金持ちというイメージがあるようで、競馬は貧乏人がやるようにみえるらしい。特にドラマなどで、競馬で身を滅ぼしたとか、競馬で借金をつくったとか、悪役のイメージが定着しているのも要因に思える。 しかし、ドラマなどは嘘八百で、現実の世界では、競馬の損失はせいぜい数百万で、株の方が桁が違い数千万、数億円と、株で自己破産した人の方が遥かに多いはずである。FXで1億脱税したとか新聞の社会面を賑わすのはザラであり、競馬なんか、競馬ソフトでの脱税が、この間話題になった位である。 しかし、株の場合はそんなに儲かるのか?だが、競馬は逆に借金と連動し、そんなに損するのか?になってしまう。 このように株に比べ、競馬のイメージは著しく悪い。競馬のイメージの悪さは、どこにあるのだろうかと考えると、どうも「ガラが悪い」と思われているようである。「ガラの悪さ」はどうも「スマートでなく、がめつさ、必死さ」に、女性が興ざめで、ひくようである。 賭け事に必死に血眼になっている姿が、女性受けしないようなのだ。女性が求める「爽やかさ、爽快さ」の微塵の欠片もないようなのだ。 少し前に「チョイ悪男」が持て囃されたが、男の感覚からすると、女性に媚を売っている、ただの軟派にすぎないのだが、ここが男と女の感覚の違いで、男性からみる女性のエロティシズムを女性が男性への媚と捉えるのとどうも似ているようである。 つまり、競馬のガラの悪さが、エロティシズムでないというわけなのである。例えば、競馬のこのガラの悪さは、男性の金銭への執着にみえるようなのである。だからして、女性には、競馬のもつギャンブル性のなさを逆にアピールしないといけないわけなのである。 男性は女性が一枚脱ぐことに興奮を感じるが、逆に女性は、男性が一枚着飾ることに興奮を感じるようである。イタリア男がもてるのは、どんどん言葉を着飾り、要するに口から出任せの嘘つきだからである。 だから、競馬はギャンブルではないと嘘をつくこと。早い話、競馬からギャンブル性を抜いたもの。例えば、競走馬の走る姿や育っていく過程などや競馬関係者の人間模様を前面に押し出し、ドラマ仕立てにするのが、女性へのエロティシズムとなるように思われる。 女性に理屈は通用しないので、理屈を滔々と言い聞かせるよりも逆に、競馬への執着が、女性への愛情であるかのように偽装する必要がある。 実は、このようなことは、女性の馬券の買い方に現われているのである。女性は男性のように、配当はあまり計算しないし、よほど好きな馬でなければ賭けても少額である。男性は儲かることを優先するが、女性は馬を応援することを優先する傾向にある。なにより馬名や直観で、買おうとする。 つまり、宗教のような競馬教をつくれば、よいだろう。半沢直樹のような倍返しのドラマ仕立てにすればいい。 倍返しといっても、オッズではなく、長年虐げられていた弱い馬が、最後の有馬記念で、強い馬たちを見返すような劇的な走りをするとか、春日局のようなどこの職場の女社会にもいそうな権力女が、嫉妬して気が狂うほどの男性と結ばれ、最後にギャフンといわせるような人間関係の伴った、そういう嘘の競馬ドラマである。 女性にとっては浮気しても嘘を突き通す男性の方が一目置かれるのである。 大体、これまでつくられてきた競馬のドラマは陳腐で、男性目線でしかつくられていないから、競馬のガラの悪さだけがギャンブルとして一人歩きするのである。
2013年12月20日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ さて、映画や芝居では、勝は西郷隆盛と非常に仲がいいようだが、実際は大違いである。西郷が明治八年に薩摩へ帰った時に、海舟が何時も大きな事を云って、仲良しの親友のごとく振る舞っていたから引き留め役をしてくれと頼まれても、彼は頑として断っているのである。 (西郷は、どうも勝を大嫌いだったようである。山岡と西郷はよく話をしている逸話があるが、勝の悪口だったのではなかろうか?) それで薩摩の連中が袂を連ねて、西郷と一緒になって野へ下り皆辞めてしまうと、さっさと今度はその後釜に入って、勝海舟は直ぐさま海軍省へ入り海軍大臣になるのである。その後も鹿児島へ行き、西郷を説得してくれと大久保利通らから何度も懇願されたが 「西郷さんには西郷さんの考えがあるでげしょうからね・・・私なんぞがねぇ」 と、どうしても海舟は腰を上げなかった。そして城山で自刃の報が伝わるや、「それ達人は達観す」と、上手くもない琵琶歌をこしらえて流行させたにすぎない。 というのは、〔誰にも知られたくない、見られたくない・・・〕ところの〔頼むから砲撃は見合わせてくれ〕との手紙を、西郷に出したのを取り返せずにいた海舟は、どうもかねてから西郷が死ぬのを待っていたらしい。しかし西郷は偉い人で、死ぬまで手紙の事は口にしていなかったのである。偉人と云うべきだろう。 (勝が逃げ回って、要職についていなかったので、西郷は、この弱みを用いて、勝から譲歩を引き出すことができなかったのだろう。西郷が死んでから、勝が政府の要職についているあたり、西郷を殺したのは勝かもしれない。勝が幕臣でありながら、政府の要職についたのを、部落民の女は売春にして儲けろといった福沢が批判しているのは、同じ穴の狢である。) さて、話しは前に戻るが、現在でも本所深川から飯田橋神楽坂あたりの土地の名義はいまだに升売り喜兵衛さんの名義になっている。さて、どうしてこの裏話が一般に知られるようになったかと言えば、それには訳がある。 勝は手金を打った旗本屋敷を守るため、勝小吉の時から町火消しの者の出入りが多い方だから、駿府へ使いに出した山岡鉄太郎から西郷へ懇願させて、砲撃を止めさせるよう交渉し、江戸にあっては火消しの連中を集めて、「もしもの時には、此処と此処は手金を打ってある屋敷だから、ぜひともおぬしらで守ってくれよ」と図面に印をつけ頼んでいるのである。 火消しの連中にしてみれば、父親の小吉の時から厄介になっているので、海舟が借金を背負って男を下げては可哀相だと、「他の家など皆ぶち壊しても、勝先生に頼まれた所は守ってやろう」となったわけである。 当時の消火とは酷いもので、一軒を守る為には周囲の他の家をみなぶち壊してしまう破壊消防なのである。 そんなわけで他の組へも「・・・ここと、ここの屋敷はよろしゅう願います」と、伝達をつけて依頼を出した。 用心に用心して手を打ったのだろうが、浅草新門の「お」組にも回状はまわった。所が、まずい事に、新門辰五郎の娘が当時、徳川慶喜の気に入りの側室だった。だから寝物語にでも、その話しは筒抜けに慶喜の耳へそのまま入ったらしい。 なにしろ慶喜の立場からでは、全く怪しからん話しであるから、唾を吐き出すように「鳥羽伏見の合戦の前に、硝石の事を幕臣なら告げに来るべきなのに、彼奴は頬かむりしくさって、まるで野良犬のごとく薩長の奴らと仲良おしくさって・・・又も己の私利私欲のみにこだわって、火消し共まで動員させようとは呆れかえった奴だ」と罵った。 この硝石の事は、日本史では隠されているので詳細を記しておく。日本史に島原の乱がある。 カトリックといえば、天草における叛乱も後水尾帝の院宣による勤皇の一揆であって、それを日本史では切支丹の宗教一揆とするのは間違いである。 当時オランダの平戸商館長ニコラス・クーケパックルが、帆船デ・ライブ号に乗り込んで、キリスト教徒の船員と共に半月の余も砲撃した事実を照らし合わせても変ではないかと言える。 真相は、「フロイス日本史」にあるように、原城はイエズス派の本拠地であった。戦国時代から彼らは日本に来ていたが、布教費用調達の為日本では一粒も産出せぬ火薬の原料の硝石を持ってきていて、横文字の教義も読めず説教を聞いても何も判らぬ者達が、硝石欲しさにドリチェナキリシタンとだけ唱え、それが切支丹大名と呼ばれていた。 さて口の津(島原)は、硝石と交換にイエズス派が入手していた彼らの治外法権の場所。だから一揆は硝石入手のため襲撃して、口の津の原の古城の倉庫番の白人やその奴隷を殺したので、オランダのカピタンは神の名において仕返しをするため協力したいとなった。 この話しの裏書きは、「山田右衛門なる画師一人のみが投降して助命されたが、その者が城内で見てきた旗というのを描かせた」とする証拠が・・・・誠に可笑しな話だが、カトリックとプロテスタントの二種の旗が混じっているからである。 ヨーロッパでは共に天を戴かざる仇敵どうしとして、互いに国をあげて殺戮しあっていたのが、いくら東洋の九州の片隅であれ、双方の旗を立てて、両者が力を合わせて抗戦することなど有り得ないし、又今日伝わるように、三万七千から五万にも及ぶ女子供までが「主のおんため」にとみんな死んだものならば、世界中他に例のない話しゆえローマ法王庁の記録にも残っているべきなのにぜんぜんその記載が見つからぬ事実、島原の乱に関しては一行も出ていない不可思議さも、これなら謎解き出来る。 つまり松平伊豆守が、局地解決として他へ叛乱を波及させぬよう、一部だけの者に限られる切支丹を巧く利用し、政治的発表をなしたのだろう。五万からの女子供を一人残らず虐殺したのも、殉教の為でなく、口封じ政策の犠牲と見るべきだろう。 後の鎖国も、なにも切支丹伴天連の魔法を恐れたのではない。幕末の長州奇兵隊が、〔木こりや百姓でも鉄砲と硝石さえ持たせれば、結構みな一ちょう前の兵士に使える〕となったように、硝石さえ入手したら女子供でも銃は扱えて強敵になるからと、徳川家だけが硝石を独占して一手に輸入し、他の大名に渡らぬようにした政策である。 いわゆる「抜け荷買い」つまり密貿易も、テレビや小説みたいに、絹や珊瑚を買い求めるのへの取締ではない。 鉱石として日本では一片も産出されない硝石を、他の大名が入手しては叛乱するので用心の為の治安維持法なのである。 つまり幕末になって長州や薩摩が下関や鹿児島を焼け野原にされたものの、上海やフランスから新硝石を仕入れるまでは徳川三百年の泰平は保てたのである。 勝海舟は初めから、長崎出島輸入の火薬の硝石は古くて湿気をもっていて使い物にならぬと、徳丸ヶ原の実験を見て知っていた。だから、「そうかい下関や鹿児島でも、南蛮船の弾丸が当たれば皆爆発するのに、此方から撃つやつは火薬の硝石が駄目で、十発に一発ぐらいしか音もたてずかえ、そいつはいけないねぇ」と、合点。 これに驚いた長州や薩摩は慌てて直ぐ和平交渉をし、その代わりに、新硝石を買いに上海へ家来を派遣したと聞くと、勝は膝を叩き、「徳川家が今度、薩長と戦う時は、馬関戦争や鹿児島戦争の二の舞になるだろうよ」と、幕臣のくせに、土佐や長州、薩摩の連中に対し、何時世の中がどう転んでもよいように接触しだした。 しかし慶喜は虫が好かずだったせいか、この情報を海舟は故意に知らせずだった。だから、何も知らぬ慶喜は自信満々。 慶応四年正月二日には、自ら大阪城で「討薩表」を布令して幕府軍を出陣させたものの、鳥羽口や伏見の戦いで、僅か二千の薩長土の兵士へ、三万からの幕軍が攻め掛かったはよいが、弾薬が殆ど不発の状態で、「これまで積み上げて在った大阪天満与力保管の硝石が、古くて用をなしません」と報告を聞くや、慶喜は真蒼になって、直ちに小姓と偽って城外へ脱出し、沖の軍艦で逃げてしまったのである。つまり政治的発表の<恭順謹慎>の実体はこれである。 「エゴイスト」という言葉がある。しかし並の人間は他への思惑や気兼ねがあって、とてもそうそうは自己本位に振る舞えるものではない。所が海舟の偉大さはこれがやれた事である。四つも年上の女で深川の芸者上がりの「おたみ」と一緒になったのも、今でいえばヒモをして小遣いをたかっていたが、塾が開きたくて、金をひっぱり出す為に一緒になっただけの話。 だから海舟も忌み嫌って、慶喜をその後三十年も静岡住まいさせ東京に戻さなかったのである。さて、世の中で何が一番儲かるかといって、破産会社の管財人くらい儲かるものはない。腐っても鯛というが、徳川六百万石の後始末というか、その管財人にまんまとなっていたのが、これまた勝海舟その人である。 何しろ非常に土地に対する目が肥えていたのか、それとも地租を自分で決めていたせいか彼の財産は全部土地で儲けたものである。だから儲かって仕方が無く金をばらまき、貧困に虐げられていた旧幕臣にはすこぶる人気があった。 だが初手から慶喜は勝を全然信用しなかった。「官軍が入ってきて、勝の家を荒らした」という話を聞いても、「打ち合わせずみの芝居ゆえ、勝は大方妹のお順の所へでも行っていたんだろう」とせせら笑っていたと言うし、そんなわけで、徳川家管理財産支配人の勝だが、慶喜は自分の財産は管理させなかった。 別にして管理させたのが渋沢栄一で、後に渋沢財閥として発展した。ところが勝も死ぬ時にはやはり後ろめたい思いに駆られたのか、自分の長男の小鹿〔ころく〕の娘に徳川慶喜の十一番目の息子を婿にとっている。 そして徳川家から預かった金は、そっくり何十万両でありましたと言って帳簿と付け合わせで返金している。今ではこれも逸話とされ、かりそめにも一円の違いもなく全額を戻しているのは美談なりとされている。 しかし幕末と明治三十年との間では、一文銭が一厘となって十枚で一銭に貨幣価値も変わり、物価は二十倍から三十倍になっている。なのにその間に勝手気儘に運用して、三十年前の金額を返して済ませたのが、はたして美談と言えるだろうか。 勝の運用預り金に比べて十分の一以下と云われる慶喜の管財人の渋沢栄一の方が、一大財閥になれたのに海舟は<氷川情話>その他の本しか残していない。 ☆ ☆ ☆ この話からも、外国人に人気があると言っていた勝がメーソンだった可能性もなんとなく伺える、龍馬も同じだろう。しかし、龍馬の話は、勝と三菱の岩崎と福岡や谷などの元土佐藩士らの創作の可能性が高い。
2013年12月20日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ そして三年後の寛文三年〔1663)正月に、二十七歳になられたばかりの後西さまを、十歳の霊元帝に換えた。仙洞御所に入ってもらっては、ずっと竹矢来をはるのに出費が掛り過ぎると、今の京都御苑の北隅に「後西帝凝華洞祉」の棒杭のあるあたりに、二間四方程の小屋をたて外側に竹矢来をかけたから、外観は竹籠のごとくみえた。 つまり後西帝は従弟の伊達綱宗に、御所の勝手許不如意を訴え、献金を求めただけなのに、でっちあげで謀叛通謀とされてしまったのである。 「何人でにてあれ、大公儀に対し異心を抱かれるにおいては、かくの如し」と、見せしめの為に、京所司代の立札が立てられた。そして、この年から貞享二年二月二十二日に四十九歳で崩ぜられるまで二十三年間も、ずっと閉じ込められた侭だった。 (この後西帝失脚を遂行したのが赤穂浪士で有名な吉良だという。) その間に家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされているが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。 三田村鳶魚の考証にも詳しくでているが、下馬将軍と全盛をほこった酒井は江戸屋敷まで没取され閉門、御三家(鹿島説だと御三家ではないそうである)だが光圀も、水戸の西山とよぶ特殊な居付き地に押し込まれ、竹矢来で出入りを監視された。 春日局の孫娘の夫、堀田正俊が大老、前夫稲葉正成と春日局に産まれた子の孫が、若年寄筆頭の稲葉正休と、幕閣が春日局の孫や外孫によって固められていたから、下馬将軍も水戸光圀も、彼らの勢力には勝てずで追い落されて、綱吉が迎えられて五代将軍になったのだ。 「赤穂義人纂書」に鍋田晶山が詳しく書いているように、済州島の血をひくゆえ、日本人よりは貴種であると、やがて綱吉は千代田城を朝廷とよび幕閣を公家と称するようにさせた。 よって京よりの勅使は大納言とか侍従といった官位をひとまず返上。前大納言、前侍従となり無位無官で遠慮して江戸の伝奏屋敷に入り、京へ戻ると前官にまた復していたものである。 「元禄忠臣蔵」で真山青果が「恐れ多くも勅使下向されて、お戻りになる日に松の廊下での刃傷沙汰は、京のみかどに対しても不敬のきわみ」と書くのは、皇国史観での誤りである。 さて、「都にては近頃は雀を大籠に入れて‥‥」と始まるこの時代の「京雀」の一巻は、後西さまを憐れんで江戸への当てこすりだったが、それに対しても公儀は神経をとがらせてしまい、「京雀とは、口さがない者が、詰らぬことを言いふらす流言ひがごとなり」ときめつけてしまった。 さて幽閉された侭の後西さまは、おおいに立腹され、灯油は僅かゆえ夜明けより日没まで、「京こそ体制側であり、江戸は反体制である」と反対立証なさるため、宮中に散逸していた勧学院派の日本書紀の断片を集めてこさせて、改めて、なす事もないから巻子本五十巻に纏められた。 つまり後西さまは、江戸が朝廷にすり変ってしまった事への憤りから、自分らの方こそ正しいのだと、せっせと口惜しさに書き上げられたのが、今も残る東山文庫所蔵本の成立である。 黒板勝美は歴史屋なのに、こうした時代背景をすこしも調べていないから、その巻頭に、「天地に墨界を施し一行十数字の外題なしの渋表紙巻子本五十巻を特に御聴許をえて、東山文庫の貴重なる御本を拝観するを得たるは、無上の光栄とするところなり」と有難がってだけいて、ものを書く衝動とは、憤りか何ともならぬ悲しみと口惜しさだけだとも、てんで気づいてはいない。 つまり今われわれのみられる日本書紀は、西暦720年のものではなく、江戸時代の五代綱吉の頃の、恐れ多くも後西さまの徳川家に対しての怨みつらみで、よせ集めて書かれた悲しみのもの。 「大正三年刊の国史大系の日本書紀」は、やはり江戸時代の松下見林や伴信友の書いたものから作り直した黒板のものなのだが、その後の第九次日本書紀は、後西さまのものなのである。 だからして、学校で教わったままでゼロックスもない八世紀のものが、その侭と思い込んで信じている人の書いたものでは、日本書紀の原本が実際は江戸期製とも知らぬための著作ゆえ、それを読んで参考にしては、解明どころか、かえって誤りのもとといえる。 ☆ ☆ ☆ という顛末で、八切史観では、日本書紀は出鱈目ということである。このような驚愕の内容が、八切氏の「大江戸意外史」には書かれているので、興味がある人にはお勧めしたい。 ちなみに、この本によると、現代有名な水戸黄門の虚像ができた経緯がわかり、それは幕末に、水戸藩主斉昭が、朝廷工作から将軍宣下を受け、倒幕するための宣伝だったようである。この本を読むと、水戸黄門の実像は現在とは真逆の欲ぼけ悪人であることがわかるから面白い。 水戸黄門、つまり水戸光圀は、いまでいえば大企業の御曹司の馬鹿息子で、助さん、格さんの助格は、当時馬廻り役の名称で、いまでいえば、暴走族の遊び仲間みたいなもんだったようである。 この本の話によると、水戸黄門漫遊記は、馬鹿光圀が若者のとき助格をつれて江戸町内の辻斬り巡りをしていたのに尾鰭がつき、悪事が善事にかえられてかかれたものだとわかる。 あるとき、その辻斬り巡りが、寺社奉行下の見廻りにみつかり、ドラマのごとく、「控え、控え、控えおろう、ここにおわすのは天下の副将軍、水戸光圀であるぞ」と威勢よくやったが、全く無視され、お縄になったのを、奉行側がためしに翌朝に水戸藩に問い合わせてみると、本人と発覚し、そのため寺社奉行は腹を切らされたために、寺社奉行のなり手が長い間いなくなったというから、水戸黄門はとんでもない悪人である。 このことが父頼房に知れ、謹慎を命じられたのに、何処から聞き出したのか、当時流行の楽器(三味線のようなものらしい)を習いたいといいだし、頼房が親心で、女子の先生をつけたのを、孕ませ、謹慎中の子だからといっても、徳川家の血なので、仕方なく親戚の高松藩に預けることになったという。 このように八切史観によれば、世に伝わる水戸黄門などは、その実像とは真逆の出鱈目であることがわかる。この水戸黄門のように、徳川幕府が滅んでも、徳川家の悪事が露見しないどころか、かえって徳川家に親切な宣伝がなされているのも、勝海舟が徳川家の管財人になり、地上げで大金を稼いだのが、使われた可能性が大きいことが伺える。 慶喜は終始勝を嫌悪し、その財産は渋沢に任せたので、渋沢は日本資本主義の父となりえたようである。 以前にも勝海舟の裏話として紹介したが、その話を、次に紹介したい。 ☆ ☆ ☆ 地上げの元祖・勝海舟 【紹介者・注】 勝海舟を書いたものは、「八切幕末史」全十冊の中に「若き日の勝海舟」(日本シェル出版)がある。この本は小説仕立てで面白く書かれているが、良く資料を調べ新しい視点で幕末の人間像に迫っている。登場する人物は実に多彩で、変革期を駆け抜けた人間臭い彼らが生き生きと描かれており、共感を覚える。 登場人物〔清川八郎、新門辰五郎、吉田松蔭、近藤勇、佐久間象山、松岡 萬、勝小吉、千葉周作、久坂玄瑞、徳川慶喜、村上俊五郎、山岡鉄州、その他〕 以下に紹介するのは「八切日本外史」〔日本シェル出版〕の論考的なものである。美化された海舟ファンには申し訳ないが、実像とはおよそこんなものであろう。 土地成金という言葉がある。これのはしりは勝海舟その人である。というのは、それまでの日本には地租、つまり土地の私有権は無く、その為税金も掛からずだった。収穫した物だけに課税されていたのである。 が、明治になって収入源を新しく作らねばならぬので、土地そのものへ課税し、従って土地売買も認可した。だが、明治新政府の構成員というのは、各藩の下級武士か郷士。それに訳も判らぬ公卿ばかりで、それまでの人材は皆粛正されていたので、土地へ税金をかける案は海舟だといわれるし、それゆえ事前に当人は判っていたゆえ、彼はべらぼうに大儲けしたというのである。 さて、明治元年の九月に天皇は初めて東京へおいでになり、翌年には京へ戻られはしたが、当時の京の人達は当然のことながら非常に怒った。それで仕方がないというので、当座は京都に天皇は居られたのだが、又その翌年三月に東京へおいでになりとうとうそのまま東京に居着きになってしまった。その結果京都は唯の観光地になってしまったのである。 何故かというと勝は当時二束三文だった東京の土地には手付け金を広く打っていたが、京になどは投資していなかったからである。さて、芸者さんが非常に綺麗な職業のように、テレビドラマであり、それも女流作家の書く物に多い。が、実際には芸者さんは接客業なのである。おたみ、さんは十七歳から芸者になっていた訳で、六年も経てば今で云う旦那とか、パトロンというのが何人か相当居た筈である。 さて、その勝海舟が駿河まで迫ってきた薩軍の西郷の許へ山岡鉄舟をやり「江戸を砲撃しないでくれ、官軍は箱根の山の向こうで待ってくれ」と頼み込んだわけだが、俗説では戦火による江戸町民を救うためだとか、色々恰好良くされている。 果たして本当の理由は一体何だったのかというと、それは前述した地上権問題だったのであ。 当時は勿論土地は私有ではなく、旗本屋敷も徳川家から貰ったものだった。そして官軍が次第に迫ってくるというので、家財道具も古道具屋に叩き売って旗本は殆ど居なくなり最後に残ったのは屋敷だけだった。 これに目を付けたのが勝海舟の偉い点で、僅か五十銭から一円という手付けだけで上手く買い取ったのである。家屋敷といっても旗本の武家屋敷だから、十五間から二十間もある大きな家もあった。勿論これは海舟自身が直接表に出てやったわけではない。 ☆ ☆ ☆ 最近も勝の子孫だとかが財務省で増税をきめ、圧制で庶民を苦しめる法案を通したが、血は争えぬというか、勝というのが根っからの詐欺師で極悪人であることがわかる。自分もコロリと騙されていたので迂闊だった。まだ鉄舟のほうがマシだろう。勿論、西郷は全てを言っていて、勝など相手にしていない。次回に続く。
2013年12月20日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ しかし吉川英治は徹底的によく書き込んだからして、国民大衆文学として完成されたから、「二刀流は彼の草案」と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平が京城の陸軍学校へ行き、「壬辰の役〔文禄の役〕に、進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのをみると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので愕いたという話は、故海音寺潮五郎も「文学建設」に書いてはいたが、武蔵がいつの間にか二刀流開祖にされてしまった。すっかり舞台上の産物が、本当にされてしまったのである。 応仁の乱の時に、鉄資源のない国なので、外国のように鉄の楯は作れず、といって、木の楯は重たくて一人では、とても運べぬから、足軽とよぶ、狩り出してきた山者に両手に竹をもたせ、「ししっぱらい」とか「露よけ」と先駆けに使った。 関白一条兼良は、反仏派で寺を荒し廻る彼らを、「悪党」ともよんだが、青竹を二本もって人間楯として突進してゆくよりは安全と、戦場で落ちている刀を拾い持ち、生き残れた者は両手に握って、とんでくる矢を打ち払って後の戦国武者。 つまり源平合戦から戦国時代大坂夏の陣まで、当時は雑兵とよばれた者達は、みな両刀づかいだったのだから韓国の画家は正確に描写されているのである。講談歴史とか浪花節歴史とよばれる日本の方が間違っているのである。 吉川英治の作では関ヶ原合戦に出ているから、見よう見真似で二刀持ちを他に見習ったといってもよい。戦争目的に、鉄資源不足を知らせぬ為の学校の歴史の教育を上の指示でされてきたのだから、伴信友の作り出した宮本無三四を吉川英治の宮本武蔵にまで勇ましく作らせたのは、まったく意企的な軍部の指図だったらしい。 元禄初期に書かれた尾州藩鉄砲頭の天野信景の「塩尻百巻」に、細川家の重役間に確執がきわめて甚だしかったの風聞が書かれているから、伴信友は、それに今いうヒントを得て創作したらしい。 さて、芝居の両島英雄記や、黄表紙本を数多く出している彼が、本居太平の許で筆写したのを底本に書いた「日本書紀」では、いくら士分の者の筆になったものとはいえ、問題にならぬと、「伴信友校本」は、「ねやのひめごと」の作者ゆえ、リース門下や黒板勝美にも参考にされたが、軽くみられたらしい。後世の伴信友の三百余の著書目録にも、日本書紀の権威のために削除されて、その書名が全く出ていないのは、こうした理由からであるのだろう。 江戸初期の松下見林や幕末の伴信友は、日本書紀復活に貢献して、それぞれが書いているが、黒板勝美は「国史大系」の下肥えか、縁の下の力もちにされ、彼らの仕事は有耶無耶にされている。 つまり第七次第八次ともいえる江戸時代の松下や伴の日本書紀は、それぞれ木版で刊行されはしたが、明治になってすべて回収され、まったく今では跡かたもなく消滅させられている。 後西さま著日本書紀 さて、日本書紀の底本として「第六次改訂新訂増補の黒板勝美日本書紀」を刊行できたのは、宮内省も国民教育にその必要を認め、軍部よりの要請もあったので、宮内省図書寮所蔵の、「京都御所東山御文庫」と称せられる渋紙表紙張りの粗末な巻子本だが、五十巻と纏まっている後西院天皇の御直筆が 貸与されて、これを底本にすれば、天皇さま自らが書かれたものゆえ、松下見林や伴信友のものと違って、おおいに有り難られようと、これを定本としての第九次を刊行。 これが今日吾々が神典として扱い、日本歴史の原点としている処の、今の「日本書紀」なのである。 まさか黒板は、すっかりこれにオンブしたとは書きにくいので、他の物も名をつらねているが、みな断片的な第三次のものばかりで、実際は後西さまの50巻本がそっくり現代訳になり黒板が、教え子の弟子や学生を動員して書き直させて、それで昭和九年に完成したものであることは間違いないと断言できるものである。 しかし、皇室の歴史でさえ江戸時代には、京所司代が検閲加筆訂正したのを「皇運招運録」として、公儀に都合よく、すべて書き直した上で、千代田紅葉山書物奉行に保管させていたから、この後西さまの五十巻も「無題」のままだったゆえ、何だか判らず辛うじて危うく助かったのである。 この「皇運招録」という徳川家で製作された御所記録が、いかにいい加減なものであったかは、初代文部省修史局長重田定一の「謎だらけの日本史」(日本シェル出版刊3800円)にも詳しい。 さて学校歴史で義務として教え仕込まれる歴史と、実際は相違し過ぎている。黒板勝美は、天皇自らの宸筆として、さも錦の御旗をたてたように、定本の基礎としているけれど、この時代の実際を歴史屋のくせに何も知っていない。五十巻ものを後西さまが書かれた経緯も彼は何も知らぬというか勉強していなかったゆえ、そっくりそのままの第九次日本書紀が刊行ができえた。 また展開が飛躍するみたいだが、黒板勝美日本書紀の下敷きになった巻子本が、いかにして成立したのかと謎ときがまったく、これまではなされていないのである。解明したのは私だけであろう。 つまり当時の時代背景を学校歴史には出てないが、先に判って頂いておかない事には、「古代史入門」には入ってゆけないのである。まず気の毒な後西さまがいかにして書かれ給うたか? 子供は嬉しい事しか書かぬものだが、大人は、口惜しいこと悲しいことしか書かぬものである。つまり巻子本五十巻は、後西さまの怨みつらみの労作のものであると先に判ってほしい。 「謎だらけの日本史」(日本シェル出版刊)には、長州お抱え歴史家アドルフ・リースの門下三上参次や小川銀次郎は開明学校のちの東京帝国大学出身だが、リースの大和民族単一説に対して、 「幕末のシーボルトは長崎鳴滝の塾で、赤ん坊を集めてきて尻を並べ、蒙古班の青いのは日本海からの沿海州よりの騎馬民族系の末孫。そうでないのは、大陸系。やや黒ずんでいるのは太平洋沿岸に流れてくる黒潮にのってきた西南系と書生に教えた」 と、師リースの説に異見を述べた為に、著者の重田定一は東大閥から村八分にされ、文学博士にもしてもらえず、当時は賎役の文部省の初代修史局長に放り出された。だからして彼としては、あまり面白くなく「史説史話」として、「後西院天皇の謎」を書き、何故に歴代の天皇さまで、後西さまにだけ「院号」がつけられているのか? 江戸時代の御所の記録である「皇運紹運録」によれば、帝の治世に度々大地震が続き、京の民が、これは帝の不徳の致すところと大挙して御所内に乱入し退位していただいた、と宮内庁に保管されている公式記録にはでているが、群集が大挙して御所へ押しかけ帝を無理矢理に退位させるような事が、従順な日本人として、はたして江戸期でも有り得ることだろうか? なお帝の在位中に大地震などは一度もなく、明暦三年に江戸に振袖火事。万治三年に大坂城に落雷があったきりで、いくら京所司代牧野親成が徳川家のためのデッチあげでもおかしいと、「謎だらけの日本史」には、対比表までつけ「院」を何故に生前からつけられていたか判らぬと、その本には暴露している。 だから重田定一が亡くなるのを待ちかねたように、東大閥はすうっと問題の後西さまの院号をとってしまい、すっかり何も今では判らなくしてしまっている。 さて何故生前に院号をつけられたか。西暦1654年に後水尾帝末子18歳の良仁親王さまが徳川秀忠の娘和子の産み奉った明正帝につぎ寛永二十年十月の後光明帝のあと、後西帝として即位なされたかというと、公儀としても皇位継承者が、もう他にはいなかったからであるらしい。 当時、徳川家は七百万石から八百万石の台所入りがあったのに、御所は二万石。徳川秀忠の娘和子を女御として無理矢理に入内させた時に、化粧料として持参金の壱万石で計三万石。 「春日局と家光」や「将軍徳川家光」の日本シェル出版刊の私の本にあるように、実際は春日局の子として京伏見城で本当は生れた家光は、元和九年六月に二代将軍秀忠と共に上洛した。家康の遺言で家光が二十歳になったら将軍職を譲るように言われていたので、小御所へ参内。 慣例どおり節刀を賜り征夷大将軍の宣旨をうけ、慣例どおりに京五山へ銀百枚ずつを納めて、秀忠はまだピンピンしていたが家光が三代将軍となり、また寛永三年八月に彼は秀忠と共に上洛して二条城に入り、後水尾帝の行幸を仰ぎ馳走申しあげた。 六年後に秀忠が亡くなり、駿河大納言忠長を土井甚三郎に後顧の憂いのないように始末させ、本当に一本立ちになって寛永十一年七月に上洛したが、この時に伝奏中院通村を通して、後水尾帝は家光に対して、 「三万石にては御所の賄いは、まことに困難至極、せめて山城一国二十万石を」 と仰せられたのに、「はあ」と家光は気軽に承諾してしまった。 (家光は、後水尾帝の言われた意味がわからなかったらしい。) 話をきいた土井甚三郎利勝は、とんでもないと急ぎ家光を伴って江戸へ戻ってしまった。しかし、後水尾帝にしてみれば、いやしくも江戸の将軍家光が確約したのに、なんの応答もない。そこで立ち会った中院通村を掛け合いに下向させた。 当惑した江戸では伝奏屋敷に彼を閉じ込め、正保四年七月付で伝奏の身分から異例の抜擢で摂家の身分でもないのに、内大臣にして懐柔。慶安元年正月に毒害するまで江戸の権力で押さえつけた。 なんの音沙汰もしない侭に慶安四年四月二十日に家光は死んだ。そこで学校歴史には全然出ていないが、徳川の血を引く明正女帝に無理に譲位させられ、仙洞御所へ入っておられた後水尾上皇は、山城一国二十万石の約束をはたせようと、討幕の院宣をかねてから次々と出しておられ、島原の乱をも起こさせ失敗されていたが、十四年間の隠忍自重も、もはやこれまでと家光の死をきかれると、この機を逸しては三万石の侭である、せっかく確約させた二十万石は画餅になると、改めてどんどん討幕の院勅をだされた。 由比正雪、別木庄左ヱ門らも後水尾さまの密勅を受け、討幕のために兵をあげようとしたのである。そこで内大臣をやめさせていた生き証人を幕閣では始末することにした。歴史年表に、「承応二年〔1653〕二月二十九日前内相中院通村頓死す」と明記されるのも、この裏書である。 さて公儀でも、いくら皇位継承者がないとはいえ、反幕的な後水尾上皇の末子を人皇第百十一代に迎えるのは難色もあったが、誰にも他にいなかったので、やむをえずとなったのである。初めから厳しい目で後西さまは、京所司代や江戸表から監視されていたのである。 というのは後水尾さまは徳川秀忠の娘和子を押しつけられた後も、みぐしの局をご寵愛なさり、その間に生まれたもうたのが後西さま。京所司代の圧迫で、みぐしの局の実家は飯米にもことかき、局の実妹は銀二十貫で身売りして伊達政宗にかわれ、その子の忠宗の側室となり綱宗を生んだ。 さて伊達家も当主になるべき者が次々と若死して、綱宗の代となった。さて後光明帝が崩ぜられ後西さまが即位されると、従弟の伊達綱宗が仙台青葉城主になっているときき、「なにしろ御所の内緒むきは苦しいゆえ‥‥」と姉小路伝奏を無心に使いに出した。 これが公儀の公安局にあたる柳生俊方にさぐり出されて幕閣に報告された。そこでまず吉原が明暦の振袖火事の前で移転していなくて今の東京シティターミナルの葭の原っぱにあり、土手八丁を通ってゆくのではなく、今のコールガールみたいに呼ぶだけの時代なのに、講談では誤って、吉原流連不謹慎のせいとす。 が、実際は伊達政宗以来の蓄財を吐き出させる為、飯田橋から市ヶ谷までの外濠工事を命じ資材購入にすっかり伊達家の金を出させてから綱宗を隠居処分にしてのけた。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月20日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 復活日本書紀の捨て石 古代史の範囲に入る平政子の時代の改訂第五次日本書紀は、元寇で上陸された時の用心に、北条時宗によって焚書されてしまったから、西暦720年に作成されたものとは全然、似ても似つかぬものとはいえ、日本書紀らしいものは第五回の書き直しの分で消滅してしまった事になる。 「南朝こそ正しい皇統である。北朝とよばれる足利体制は、昔の耶馬台国と同じで親大陸政権どころか、中国より属国扱いをされているではないか」と厳しく論評した北畠親房にしても「神皇正統記」は残しえたが、桓武焚書によって当初の日本書紀は燃されてしまった事実を述べてはいるが、第三次、第四次、第五次の日本書紀にふれていない処をみると、どうも、A 第二次桓武製オンモン日本書紀は長岡京から、中国人が坊都とし造営した平安京つまり今の京都へ移る時に、写しはもっていったが原文は匿し長岡京の何処かに埋めてきたらしいこと。B 勧学院の第三次漢字版日本書紀は高野山の中国僧たちまで手伝って藤原氏全盛時代にすっかり初めから新しく書かれたものの、平清盛の時に、熊野権現で別個に書かれたものと入れ換わる。C その第四次日本書紀は、清盛の歿後に福原で消滅したか、安徳帝と共に海底へ沈んだもので、その写しだけは鎌倉へ届けられたとみられる。でないと大江広元の記録所の書役で、平政子の第五次反藤日本書紀が、そう易々と、平氏側日本書紀に書き直されたものとは想えぬからである。D この政子が校閲したと伝わる第五次改訂版日本書紀は、その侭でもし伝わっていれば、これは反藤思想のサンカの倫理とまったく同じで面白いものだろうが、北条時宗の時に元寇を懲りずに繰り返して来襲してくる敵の真意が判り、もし元軍に上陸されて読まれでもしては、それこそ大変である、と問注所文書や記録所文書と共に、惜しくも北条時宗に燃されてしまっている。 つまり「時宗焚書」とか「元寇焚書」といわれて第五次までのものは燃やしては次々となくしてしまい、代った権力者の立場によって新しく、滅ぼしたのを蘇られてきたのが日本書紀。 が国難の元寇による焚書の時は、もしもの時は殺されるとそれぞれみな探し、写しさえも残されていない。 江戸時代に伊勢の古い神官に保管されていた第四次のものらしい日本書紀を、珍稀本として刊行されたのが公儀の摘発する処となって、版元手錠で絶版にされ、関係したイザナギの神官はみな流罪処分にされた事件があった。戦前の三省堂の「日本歴史年表」には三行程だがでている。 まったく消え去ってなくなってしまった筈の日本書紀が、昭和の初めになると、皇国史観の黒板勝美によって、突如として蘇ってきて、活字本となって、大八州出版株式会社創立事務所より発刊されて、旱天の慈雨のごとくに軍や官だけでなく各学校からも求められた。 売行の凄まじさに吉川弘文館が目をつけ版権の譲渡をうけ、歴史物出版社としての今日の大をなす基礎ともなった。出版制限の戦争中でさえも国民精神作興教育のため次々と刊行された。そして、「神典」として、おおいに一般には、かつての教育勅語のごとくに普及。今も、吾々が手にとってみられる印刷された日本書紀の本はこれである。 魔術のように、ない筈のものが、突如として、「神は蘇りたまえり」と、前半は神話で後半が史書という奇妙な体裁だが、現実に皇国史観黒板勝美のものとして、堂々というか、出廻っていて、今では唯一確定的なものとして拝読されている。 という事は、日本以外の国の郷土史家というのは、それぞれ地方の伝承や古記録によって、己が郷土の歴史を探求しているので、それを綜合してゆくと地方別に明確な史資料が一つに纏まって、国の正しい歴史が形成されてゆく‥‥といった積木細工式ゆえ、隣接した他国との歴史とも対照していっても、その接している地方ごとの郷土史で真実はかなり明白になりうる。 処が日本ではそうではない。今ある日本書紀が元本となり、金科玉条のごとく、動かし難いものとされているから、郷土史家のものも、その地方の伝承や古記録を、いかにして今の日本書紀に結びつけてゆくかの方向にだけのみ専念して、まったく他をかえりみようとはしていない。 「鵜飼歴史」とでも言うのか、一羽ずつの鵜がてんでに皆ひっぱられ舟の上へ戻され、頚をつかまれしごかれて吐き出させられたものは、鵜匠の手によって一つの魚籠の中に集められてしまう。 どの地方の古記録も、みな今の日本書紀の内容に合うようにされてしまう。そして、それが正しいことに、官学の東大閥に認められ、他は黙殺されているのである。 だから日本の郷土史家は零から出発するのが歴史の解明なのに、今の日本書紀を原点とし、それを一とし二、三と研究の展開をしてゆく。しかし困った事に考古学という分野があって、整地の際に土を掘ったりするからして、今の日本書紀では「大化の改新の舞台であった板葺宮は、その後火災にて忘失」とあるのに、さて発掘してみると敷石にも焦げた痕もないのに驚かされて、今の日本書紀は怪しまれる。 すると築地へ新築移転前のA新聞が稲荷山古墳で十余年目に121個の文字が発見。これをもってしても、今の日本書紀はまったく正しいものであるとマスコミが証明。それでも効果があまりないとみると、手を代え品をかえて、大安万侶の木牌が炭やきがまの奥から見つかったから、西暦712年に完成された古事記も正しいものだと大新聞が連日発表。 (マスゴミが偽日本史創作に加担してきたし、現在もそう。) 古事記については後で解明するが、今の日本書紀が大新聞の権威によって、戦後も、「高千穂峯に天孫降臨」と、外国では相手にされないものであっても人民共への国体護持の、「聖典」というか「神典」とあがめられて、日本歴史の聖なる原典とされているのだが、なにも720年当時のものが、今までそっくり、ゼロックスでとられ、伝わってきている訳ではない。 前章(前回)にも述べたように、第一次から第五次まで。その時々の体制によって都合よく作り変えられて、北条時宗の時までは実存した。が元寇の騒ぎで第五次のものは完全に燃やされた。 「黒板勝美日本書紀」は「国史体系」として、編修された第一巻であるが、その序言にまず、「旧国史大系の時は寛文十三年に木版刷りで出版された松下見林のものを原底本となして、それに伴信友のものを参考にして編修をなして完成した」が、そののち大正三年に到りては、『国史大系六国史』の第一巻として刊行なした時は、八代将軍徳川吉宗が元文元年(1748)[1736?]二月六日に三の丸の紅葉山書物奉行に校訂させた「類聚国史」をも入手しえたので、これを参考にしてなんとか定本を作らんことに努めたり」 と、徳川時代の原本なりとある。 (八切史観によれば、江戸時代の特に元禄期に出鱈目本が多く出回ったそうである。) つまりこれをみると、第六次日本書紀は北条時宗の時に消滅したのが、南北朝時代、足利時代、戦国時代には浮かび上がらず、390年後の江戸時代になって、西暦1673年の寛文十三年九月より延宝元年にかけて、大阪人の松下見林によって、ようやく再生された事があきらかになる。 彼は、日本書紀を四世紀ぶりに世に出したことよりも、「異称日本伝」「公事根源集釈」「職原抄参考」の著だけが、さも代表作みたいな扱いにされているのは、彼のごとき無位無官の者が再生させたのでは、日本書紀のせっかくの権威にかかわるとされたのか、明治以降は、故意に敬遠というか黙殺され遠ざけられて、匿されてしまっている傾きがないでもない。 なお大阪人ゆえ、近くの京の公家より出た故紙の中からでも底本になるものを見つけだし、それを下敷きにして書き上げたものらしいが、出処が京の公家つまりトウの堂上かたとみれば、これは桓武焚書後に、主として勧学院で作り出された第三次の、則天〔漢字版〕日本書紀の反古紙で、何かの内張りになっていたものを、襖の下張りか、掛け軸の内ばりにするため京の故紙商が、かためて購入してきたものを、よってみて大阪の松下見林の許へ、 「先生は、四角い文字のものがお好みだと伺いましたによって、ひとつ値良う買うて頂けませんどっしゃろか」と下張りにするよりは、高値にて儲けようと、持ち込まれでもしたものらしい。 版行に先だって大阪町奉行所は事前検問に京所司代に提出し裁断を乞うた。堂上公家の冷泉家を呼んで読ませたところ、トウ(中国)製のものゆえ別に反対や異存もなく許可がでたらしい。 江戸表でも、だから、この第三次日本書紀は復刻なみと別にお咎めもうけずに済んだらしい。 さて伴信友は、若狭小浜の藩士で、本居宣長の死後に入門し、本居太平の教えをうけ、幕末の弘化三年までは生きたが多才博識。軟派では、「ねやのひめごと」の黄表紙本から、三百余の著作で、「長等山風」「神社私考」などの硬派本まである。 もっとも有名なのは、水野忠邦の倹約令で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入ってゆく聖天町とよぶ弾左衛門地の草原に移された時、「先生、わっしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」と懇願されて筆をとったのが「両島英雄記」である。 なにしろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。濡れ場ものなら、この広さでも出来るが、これは倹約令で御禁制。そこで宮本無三四と佐々木小次郎の両雄が、九州巌流島で決闘の芝居をかいた。 なにしろ槍をもって舞台へ出ては、それだけで一杯になって身動きができぬが、刀をもたせ、「雪月花」とよぶ躍りの拍子でチョンがチョンと、上段、中段、下段のからみで、しかも宮本無三四には両手に刀を持たせ、裏日本や東北でいう処の「張〔チャン〕バラ」を派手にやらせてみたのである。これが江戸中の大評判になって、黄表紙本の方も売れに売れた。 昭和になって軍部が、「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。 (伴信友は、いまでいう漫画家の手塚治虫か、鳥山明のような存在か? そのうち将来、孫悟空やサイヤ人が存在したように錯覚する人もでてくるのだろう。) なにしろ主人公の武蔵は慕うお通さえも拒んで剣一道の武芸者で性的不能の変質者みたいだが、ポルノは全面発禁の世の中なのに、同じ村出身の本位田又八の情事場面が二頁おきぐらいに、汁粉の逆塩どころか全体の半分も入っていたから、おかみの意向とは逆に心なき国民の中の青少年は、オナ ニー用に求めたものだ。少年だった私もその不心得者の一人だった覚えがある。 伴信友が演劇界救済のために書いた宮本武蔵が大当たりをとると、抜け目のない連中が放っておくわけはない。もっともらしい五輪の書までが、生まれたりして、いつか実在の人物化された。 「人の一生は重荷を背負うて坂を登るがごとし」といった家康遺訓集は、明治になって徳川家を見殺しにしてしまった勝海舟らが、徳川公爵家の要請で創作したものだとは、名古屋徳川家で思い切って公表したのは、最近の新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月20日
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八切史観によれば、現在学校で習う日本史は、日本書紀から出鱈目であるという。以下、日本史の出鱈目ぶりを抜粋紹介する。歴史は人間模様がつくりだす、といわれるが、学校で習う日本史は、人間を単純化したモノに置き換え、単純な暗記モノと化してしまう。 歴史から人間の生き様を学ぶことなく、どれだけ出鱈目を信仰しているかを、時の権力者に試され、洗脳され、奴隷化されてしまうわけである。大体、現在の歴史教育だと、肝心な疑問、歴史上の人物はどうしてそのようなことをしたのか?が全く見えてこない。 とにかく現在の洗脳から抜け出すには、八切史観は有用であるので、以下に抜粋紹介する。ただし、八切史観を崇拝するのもよろしくない。歴史のなかに、人間模様を読み取ることが重要である。 ☆ ☆ ☆ 受難の日本書紀 学校歴史の古代史は、北条政子の歿った西暦1225年までを一括して、安易に教えている。という事は、七世紀の世変りを匿しこんでしまう意図から、十三世紀まで引っぱって延長した期間を、アミカケ方式で制定している。 「日本人の歴史好き」というのは、なにも向学心の現れや、真実追求のものではないらしい。 「侵略」を「進出」と変えてしまって、韓国や中国から抗議を烈しく浴びているくらいで、日本の歴史は、「臭いものには蓋をしろ」と、なんでも自分に都合よく過去は美化してしまう伝統がある。 それまで幕末までは各地方面に、民間に口から耳へと伝承の歴史があったのを、東京を首都とし中央集権制度をとったから、日本全国を一つの検定した教科書で洗脳するみたいに統一教育を歴史にまで及ぼして、他の国ではディスカッションして覚えさせているものをば、暗記物にした。 だからして学校で教わる歴史では、さっぱり、どうにも呑みこめぬ人々が多く、そこで何とかして己れのルーツを知りたがるのが多く、これが歴史好みというか探求型にもなるのである。 近江八幡で「解放」を発行している西川秀夫氏は、祥伝社、大倉精神分化研究所、日本シェル出版、光文社、琵琶湖研究会、新泉社、オリジン出版、秋田書店の出版物を名ざしでピックアップして古代史入門の手引にと並列している。しかしである。 それらの本の中で注意したいのは、「日本書紀」や「古事記」を信用してか、それを参考にしている本だけは、絶対に除外してほしい。 なにしろ学校歴史で「西暦720年五月に、日本書紀三十巻成る」と教えているからして、さも、〔いま活字本で廻っている日本書紀は、西暦八世紀初頭の編纂された唯一の日本史である〕と誤っている方が多いが、私の「天の古代史研究」に詳しく解明してあるように、その六十年後に河内より高野新笠の御子を迎えて、人皇五十代桓武さまとなし、日本書紀をつくったトウの人々が昔の中ツ国、今の中国地方の岡山へ財宝をつんだ牛車の群れをひいて逃避行をしたあと(のものである)。 「彼ら弁髪は日本原住民どもが一致団結して富士王朝復活のため清見潟〔今の田子浦〕まで、怒涛の進撃をなして攻めてきたのに惧れをなして逃げてしまったのゆえ、もはや構ったことはない」 とおおせられて、それまでトウ一族が、自分らが中国大陸から渡来とするよりも〔遥かに高い天から下ってきた、選ばれた民族〕とした方が恰好がよいから、おおいに美化するために創作した処の日本書紀だけでなく、六国史と称される他の史書類もみなことごとく一切合財を集めさせて、山のごとく各地で積み上げ皆これを燃やしてしまった。世にこれを「桓武焚書」といわれる。 富士王朝のアラビア文字を縦書きにしたような歴史書も、悉く集めて燃やしてしまい、オンモン日本書紀というような、ハングル文字の桓檀古記をタネ本にして、桓武さまの御先祖さまが高千穂峯におりてきたという、クダラ人に都合のよいように美化されて纏め上げられてしまい、ここに第二次の全面改訂の日本書紀の新版が出来上がったのである。 一時は長岡の山の中にまで逃げたが、賎から良に格上げしてもらえたクダラ兵は勇戦敢闘し、原住民を撃退、この時代が本当のナラ時代だが、彼らは威張って、「クダラ人にあらざれば人にあらず、非人である」と、教科書の「侵略」よりもひどい傍若無人。しかし驕る何とか久しからずである。 今でも「クダラぬやつ」とか「クダラぬことを言うな」といった言葉が残っている程ゆえ、桓武さまの血脈の続いた時代は日本原住民は討伐され奴隷に皆され、シラギやコマ系は、「蕃族」として追討された。現代のシラギが慶尚道人で朴前大統領もそうだが今の全大統領や金日成父子やその他南北の軍部も同じである。金大中はクダラ系だから釈放されても国外追放。 日本列島における確執だけでなく朝鮮半島でも、馬韓、辰韓、弁韓の昔から殺し合ってきた民族闘争の原点が桓武さまの時代でも、光州事件の現代でも続いているだけで、民族の血の流れというのは、二千年や三千年たっても変らないものである。ナチスのユダヤ人狩りでも判る。もちろん現代では、ユダヤがイスラエル建国以来アメリカのユダヤ勢力を後楯にして極めて強力である。 さて西南に向けて潮流が変り、瀬戸内の海から鉄製武器が、どしどし送られてくるようになった。初めは護身のための、影武者のようなつもりで王位につけたクダラ系にも援助して勝たせはしたが、やがて延暦十三年の富士の大爆発で、せっかく復活に団結して攻めこんできた日本原住民が、クダラの坂上田村麿に追われ谷底に生き埋めにされ、根つまり死の国へ皆送りこまれた。 ほっとして牛車をつらねて戻ってきたトウの人々は、もはや治安が回復したので、影武者の必要もなしとみた。そこで桓武さまの御孫の嵯峨さまの代になると、せっかく苦労して創作されたのを全部燃やしてしまったのである。 が、トウの日本書紀は焚書後四十年も既にたっていたから、「勧学院」をもうけて、武器と共に渡来した医師や漢学者たちに、もう一度改めて「日本書紀漢学版」の作り直しをさせた。 しかし一ヵ所だけでは、すっかり燃やされてしまった日本書紀を復元するのは難しく、藤氏一門は勧学院、和気氏には弘文院、王氏に奨学院といったのを、次々と設立させて、百済史の焼き直しの桓武日本書紀を集めて悉く燃やし、第三次の新々日本書紀は、高野山の中国渡来僧たちの綜芸種智院にも協力させ、バビロニア史の漢訳とも対比して今では、言われるごとく司馬遷の史記の中よりも、当てはめられる個所はそっくりいただいて作り上げた。 かくして第三回目の「日本書紀」は西暦833年の「令義解」ができた前後に書きととのった‥‥「桓武焚書」の一件は、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」にも、はっきりと明記されている。 が、これが今日そのまま残されている日本書紀ではない。藤原道長の全盛期をへて、前九年後三年の役、ついで、平清盛の時代にまた焚書されて、第四回目の新々日本書紀が、熊野権現で書き直され、新平氏こそ日本開祖の民族であるとしたものを作らせたが、これは壇の浦合戦で水没した事になっているが、この時の一部の書き直しが梶原景時の手に入り、北条政子に献上された。 頼朝を落馬死という事にし、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛清してのけた北条政子は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと、承久三年五月には、京へ大進攻をさせた。 「阿魔将軍」と恐れられた彼女みずからが、陣頭にたって押し寄せるわけだったが、大切な北条平氏の女大将が、みづから鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰時が代って出陣した。 美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので、貞婦ニ夫にまみえずで、髪をおろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教をもちこんだトウの者の他は、男も女も、坊主や尼の官忍の得度は受けられなかった。 平氏の政子が尼になろうとしても、有髪の比丘尼だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいに、くるくる坊主になれずで、吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、剃刀をあてて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治御一新からである。 政子が比丘尼になるわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は、後世の儒教時代の想像画で、それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので、本当らしく誤られる。 富士王朝の残党ともいうべき北条政子は、夷頭〔伊東〕に逃げ、潮をくんで製塩。漁撈をして塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、藤と名乗る公卿の主だった者を斬首。後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき見張り侍所をおいた。 平政子は生前に大江広元に命じ、かつて梶原景時が入手した平の清盛の第四回目の日本書紀をもとに改訂第五回目の日本書紀は出来上った。 しかし北条時宗の時に、〔かつて沿海州から親潮で佐渡や能登へ渡り、蘇我氏として栄えた末孫の源氏を、北条平氏は打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、使い棄てみたいに主だった者を皆殺しにして天下を北条平氏のものとした。だから、沿海州から中国本土を席巻して、元の国をたてた騎馬民族にしては、占領した朝鮮半島の高麗水軍に命じて、源氏の仇討ちに失地回復のための進攻なり〕と壱岐対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。 文永五年〔1268〕には、その噂通り、元の兵部治郎黒的を高麗人の案内で、正月十八日には太宰府守護の少弐資能に対して、高圧的な態度でのぞんできた。なんでも今では美化して恰好をつけたがる学校歴史では、このことすらも、「国信使をもって、元の国書や方物を献上し通交を求む」といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」みたいなことを記載している。 だが翌文禄六年三月七日の条になると、はっきりと、「猛子使用黒的は、高麗人と共に対馬に立ちより、掠奪暴行の限りをつくし、降参した島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す」とある。通交の為にきた国使のすることではない。挑戦でしかありえない。 やがて五年後の文永十一年十月、壱岐対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。守護代宗助国、平景隆は一族と共に、青竜刀や鉄ぼこに取り囲まれて玉砕、少弐、菊池の救援軍も苦戦したが、たまたま台風の目が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために海底。 時間稼ぎに翌1275年夏に、訪れてきた朴世忠ら五人の元の国使を、鎌倉龍ノ口で並べて斬首。翌年は再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石をつんで防塁を建造した。 新興元が高麗水軍を先頭に攻めこんできて台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは眼にみえていた。それゆえ時の執権北条時宗は、〔元が又も懲りずに攻めてくるというのは、北条開祖の政子さまが、散々に源氏を戦わせて平定すると、もはや馬のりは無用の長物と使い棄てに殺したり、双方で戦わせたことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めてくるのだから、もしもの用心に、すべての証拠の書類は燃やすべし(として)〕 間柱所文書から、大江広元に書かせた改訂第五次日本書紀も、まさか次の次の弘安四年の来攻の十万の元兵も、台風で又しても海の藻屑になってしまうとは、神ならぬ身の知るよしもなく、万全を期して片っ端から文字のでている物は、みな集めことごとく焼き払って灰にしてしまった。「時宗焚書」というのがこれである。 学校歴史では、元寇の実際も明白にしていないが、今もハバロフスク民族館の正面入口の扉の上には、沿海州人の民族章として大きな円形の笹りんどうの紋章がレリーフで掲げられている。つまり元は、日本では源であって、同じ民族なのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月19日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 世良田事件 この事件は、徳川幕府崩壊後、初めての反徳川騒動である。徳川家は、明治三十年になって、徳川の由緒正しさ、出自の正当をことさらうたった「松平記」を創作して配布した。そして村岡素一郎の「史疑徳川家康」が出版されるや、徳川公爵家の権威で内務省警保局によって買い占めや発禁処分にし、この事件にも、ほおかむりの知らぬ顔を決め込んだ。よって今では隠匿され忘却の彼方である。 群馬県、上州新田庄世良田郷というのは、今も「徳川」の地名が残っている、昔は特殊村落である。 権現様(家康)は此処の出身だから前名は世良田二郎三郎を名乗り、代々新田の長史である岩佐家の系図を「お借り上げ」と称して召し上げ、その代わり岩佐家には新田郷の人頭税を取ることを許可した〔この新田家は幕末まで続き維新後は男爵となる〕此の地の人間は絶対に農耕をしないので、富裕ではないが「恐れ多くも此の地は神君家康公の生誕の地である」と、家康の御威光によって、近村から上納米を徴収して幕末まで徹底的に搾取してきた歴史がある。 さて、現代でもこうした特殊村落出身の成功者ほど、その出身を隠したがると、いわれる元祖は徳川前公爵家かも知れぬ。勿論、家康の血統の尾張の継友を毒殺して、その弟の宗春の子供も一人残らず仕末し、すっかり根絶やしにして、三代家光からは朝鮮の血を引く徳川に変貌したせいもあるが、臆面もなく堂々と、「徳川家康は松平蔵人元康の改姓名」とするような徳川神話を作った。 これは、皇室の藩塀たる華族会長の徳川の祖先が、特殊村落出身ではまずいということで、誤魔化しの発表である。故山岡荘八がその現代語訳の大河小説「徳川家康」をそっくりそのままで書いているので、今では松平元康=徳川家康が通説となっている。 さて、明治時代まで近郊の者は世良田郷の人たちに遠慮し「世良田徳川は権現様の由緒ある地」と別扱いしていたのが、徳川公爵が「権現様は松平元康と同一人物で、三河の生まれ」と世良田生まれを否定したのが一般にも広まったから大変である。 「よくもこれまで何百年も徒食していたな」と、積もりつもっていた積年の恨みが爆発して「二千の近在の者が、僅か二十四人しか住んでいない処へ乱暴して仕返しをした」のが、この世良田事件なのでである。 此の事件で、徳川公爵家は見舞いどころか、全く我関せずと頬被りした儘なのが後の差別問題にも大きな影響を与える結果ともなったのである。そこで世良田徳川の者は鬼石やその他近くの部落に応援を求めて竹槍隊を組織しこれが全国水平社運動の始まりとなるのである。 【紹介者・注】 この一事をもってしても、松平元康が徳川家康だとする説は嘘だと いうことが明白である。ここで留意したいことは、特殊部落から出て世間で立身した者はその前身を隠したがるのか、同じ部落出身者を酷く嫌う。現代でも有名な某会社等も、新入社員は興信所で身元調査を徹底的にさせているし、他の同じ部落出身の社長の処も会社側が極度に嫌っている。 『此処で誤解のないよう断っておくが、差別を容認したり助長するのが目的でこの文を書いているのではない。むしろ全く正反対で、謂われ無き差別は、歴史を正しく理解すれば解消される、という立場だという事を強調しておくものである』 徳川家も家光以降は、此の傾向の先駆であって、臭いものには蓋をしたがるゆえ有名な「三河風土記」は沢田源内の偽作であるし、大久保彦左衛門の「三河物語」は初めのものと大きく変わって、これも家康神話に迎合して彦左衛門の子孫が加筆した偽作である。 何しろ「人間の一生は重荷を背負って・・・」の遺訓が、明治になって勝海舟らの旧幕臣らによって偽造された。が、これは「そんなことは嘘だ」と尾張徳川家ではバラしている。海舟にすれば、幕臣なのに、自分はいち早く徳川を見限り、新政府に巧く取り入った罪滅ぼしか、徳川家のための最後のご奉公だったのだろう。 徳川家は小田原合戦後、それまでの三河遠江駿河を取り上げられ、関東に移ったが家康は世良田徳川の出身だから、同族である関東の地侍もみんな召し抱えた。領地が三倍に増え人手不足もあったろう。 尾張の三河は、一向宗一揆の名目にはなっているが、国中が家康を目の敵にしたから、家康は生涯で半月も岡崎城には居らず、いつも浜松城にいた。だから、「三河譜代」と言うが、家康が召し抱えたのは関東の三河島衆のことで彼らを片っ端から旗本として召し抱えたのが本当のところである。 「野史辞典」に、尾張三河の旗本は一家のみと出ているのはこのためで、旗本八万騎とは全部が三河島の地侍である。だが現地採用の彼らに箔をつけるため尾張三河出身と変えたのか、講談で誤られたか、広められて武鑑すらも間違えている。三河岡崎が家康の出身地なら、徳川家の直轄にする筈だし、家臣の水野五万石にするはずはない。 水平社運動 大正十二年の関東大震災前後から、日本全国の特殊部落の人々が、ただ恰好だけに過ぎない、明治四年に発令された「エタ非人称号廃止令」は返上し、昔のように自分たちの限定職業を戻して欲しいと各地で集まったのが、この運動である。明治維新後、近代国家建設を目指した薩長政府は、国民に税金を課すことになり、新しく戸籍を作ることになった。これを明治壬申戸籍という。 江戸時代までは百姓は寺人別帳、町人は町人別帳として、それぞれの人口把握はなされていた。しかし、これらの何れにも属さない限定地に住む日本原住民の数は把握されておらず、この当時、お上は数十万人と軽視していた。所がそれは家長のみの数で、大正時代にはいると自らエタと誇らしげに叫ぶ原住民でさえ三百万。 まだ身元を隠して都会などに流入している潜在人口を推定すると二千万に近いことが判明した。そこで叛乱を恐れた政府は慌てて「大和同志会」なるものを官費で各地に作って懐柔策に出た。この時出獄してきた松本治一郎が水平社を作り、小学校での差別や各企業での故なき解雇に対して、むしろ旗をたてて、人間は平等なり、の戦いを開始した。 これが日本労働運動の嚆矢である。こうなると政府としては「大和民族は単一民族なり」とする看板に傷が付くのを怖れ、時の山本権兵衛内閣は己も同系の出身なのにも係わらず、国家機密費をもって、金で動く右翼を作り、それによって水平社退治を全国的に官憲の応援のもとでやらせた。 「水平社運動史」の血生臭い各頁を見れば出ているが、縄文時代さながらに、竹槍で対抗する水平社の闘志に対し、日本刀や散弾銃、時には軍隊払下げ銃の右翼各団体が、一部落つぶせば何百万円の懸賞で襲撃した。当時奈良から岡山にかけては、殺されるのを恐れて部落民が各地区から次々と逃亡が続出した。 妙な話だが、博徒系の右翼団体は歴っきとした日本原住民なのである。それか゛大正時代になってもまだ「夷をもって夷を制する」と藤原時代そのままで、金でつって戦わせたものらしいが、全く金が義理のこらえ性のない奴隷根性の民族性である。 勿論協力しなければ弾圧されるので泣く泣く右翼の連中は命令に従ったのだと「酒井栄蔵回顧録」には出ていて仕方がなかったらしい。昭和56年3月。NHKで当時の生き残りの水平社の人々の回顧放送があったが、苗字にみんな石とか伊の字が付いていて、当人は知らずだろうが、壬申戸籍で新しく部落の者にも苗字を付ける際、多くはその出身地名をつけたがその他は「夷」の当て字変えをしたからである。 終わり 引用参考文献・八切止夫著「天の古代史研究」、「謎の徳川家康」、幕末確定史資料大成・宮武外骨著「明治密偵史」日本歴史資料集大成明治史学会雑誌、松平記、徳川合戦史資料集大成 ☆ ☆ ☆ 非常に面白いのが、以下のような自業自得のカルマが働いていることである。 信長は今川義元を桶狭間で騙まし討ちし、天下統一を目指したが、今川領地の駿河で、被差別されていた家康により、本能寺の変で騙まし討ちにされる。 家康は元康に成り代わるために、築山と信康と殺害するが、そのことで信玄により攻められ、信長にも疑われ、信長に狙われる前に、殺害を計画する。 秀吉は、本能寺の変の後、事後収拾していた明智光秀に謀反の疑いをかけ、山崎で殺してしまい、光秀の将軍より上位の太閤となり、部落民であった日頃の境遇の怨みから大陸制覇に乗り出すが失敗し、大野治長と、織田の血をひく淀の子の秀頼に豊臣政権を譲り死ぬが、家康により滅ぼされる。 家康は、斉藤利三を使って、信長を騙まし討ちにし、天下をとろうとしたが、秀吉に知られ、秀吉が死ぬまで、秀吉の奴隷になり、結局、本能寺の変は明智光秀がしたことにし、秀吉の死後、豊臣家を滅ぼすが、自分の子と思っていた家光が、明智光秀の孫の天海の子で、利三の娘春日局に徳川幕府は乗っ取られる。 以上をみると、他人を使う者は他人に使われ、他人を騙す者は他人に騙される、ことがわかる。この世では勝ち逃げはできないようになっていて、カルマの法則が存在することに気づかされる。貸し借りがチャラになるように人生はできているようである。 カルマの法則から考えれば、勝ち逃げはありえないから、歴史上の人物の伝説が嘘で、その実像があきらかになる。人は人の下に人をつくるが、天は人の上に人をつくらない。
2013年12月19日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 世良田二郎三郎のこと 現在徳川物で広く流布されているのは、山岡荘八の「徳川家康」ですが、これの底本と言うか、下敷きになっているのは「松平記」です。これが問題なのです。政権が変わると前体制の悪政を暴露するのが通常です。家康も豊臣の生き残りを九州へ送り(豊臣松園)といった特別部落名さえ今も残ってます。 だから徳川慶喜は「明治の世代わりになっても、徳川期のことや、家康が部落出身だったことは絶対に蓋隠すること」を条件に、金のない新政府に三回にわたって献金した。さて、明治になって新政府は徳川慶喜に対し「汝その祖崇の地へ戻るべし」と駿府七十万石に戻され、やがて公爵になり、華族会の会長になる。「華族は皇室の藩屏となす」との明治大帝の勅によって明治十六年七月七日から徳川はまた権勢を回復してしまう。 それまで徳川時代の真相を暴露しておけば良かったが何しろ新政府は学のない軽輩ばかりで天下を取った喜びで酒食に溺れ、明治七年の佐賀の乱からは治安維持に追われていた。現代でも政権党になれば、地元に国家予算を分捕り、利権に預かる政治屋が多いのは慨知のことで、この国は明治以来政治体制はちっとも進歩していません。閑話休題。 だから徳川時代の事を調べ直す暇もなく神祇省廃止で当時の歴史家に当たる国学者も追放され関知出来ずでした。長州御傭い学者リースが、日本での博士号設定の時、学士会が設立され、これに権威を持たせるため華族会の下に入れ、その指示を受けるようになった。 だから筑摩書房の「明治史論書」にも入っている村岡素一郎の「史疑徳川家康事蹟」が明治三十五年に徳富蘇峰の民友社より刊行されるや狼狽し宮内省華族会によって買い占めて絶版となった。だがこの本も大変な労作だが「三河後風土記」よりの引用が多すぎる。 しかもこれは贋本、贋系図造りの名人、元禄時代の沢田源内のもので、「松平記」も源内作だからこれを根本史料とした山岡荘八の「徳川家康」はまるで実像が違います。さて前段が長くなりました。本題に入ります。世良田二郎三郎が徳川家康なのです。 「本多元孝譜」に「永禄四年十一月一日には元康の御名で手紙類を出されていたが翌五年八月二十一日よりの送信や文書からは家康と改められた」と、当時の秘書役に当たる「物書き方」だった当人がはっきり書き残しているし、これは徳川家公認の指出系図を集めたものだから「まだ徳川初期の寛永年間にあっては、上州新田郡世良田村の二郎三郎という者が、神君東照権現にならせ給うまで、初めは元康と名のられたが、直ぐ翌年夏からは松平家康。次ぎに上下とも変えて徳川家康とならせられた」というのは公認されていた事実のようである。 この徳川という姓は、上州新田別所出身の新田義貞の生き残りの一族が、世良田、新田、日光、徳川と分かれ、元禄年間より本家は、新田を蔭姓として岩松と変わったが、代々、徳川家へ系図を貸してやり手当を貰っていたが、幕末、皮肉なことに徳川家が倒れると今度は本家の岩松満次郎が先祖の功により「新田男爵」となった。 また、元禄年間以降に編まれた徳川家の歴史では「松平清康ー広忠ー元康」となっているが、岡崎の大樹寺に葬られている広忠には「瑞雲殿広政道幹大居士」となっていて慶長十六年の寺の過去帳では、広忠の供養のため建立された寺だから「大樹院殿大居士」となっている。 一人の松平広忠に二つの法号は変だが、同じ岡崎の松広寺にも広忠の墓があって、そこでは「成烈院大林寺居士」とあるし、その他にも「滋光院大林居士」の法号もある。 一人の死者に狭い岡崎の内で四つも戒名が有ると言うことは複雑すぎる。これは松平元康が徳川家康になったという元禄以降の仮説をもっともらしくするためには、「元康の墓や戒名が在ってはいけないから、四つの戒名を一つにして広忠にしてしまった」のだろう。 これでも家康と松平元康は別人だということが判る。つまり本物の元康は家康の前身とされてしまったばかりに、戒名も墓も判らなくさせられている。 (家康影武者説を生み出す発端となっている。) 俗史では家康が三河へ入ると一向一揆がおきて、三河武者の大半がそれに荷担して家康に反抗したとなっているが、この真相も、「他所者を追い払おうとした当時のレジスタンス」であろう。何しろ家康になってからの二郎三郎は松平一族の長老の松平蔵人信孝を明大寺村で殺し、鵜殿康孝も殺し、松平好景も明丹宮で殺し、松平一族は殆ど全滅させている。 そして全然無縁の連中に改めて松平姓を付けて糊塗したり、やがて本物の元康の子の「岡崎三郎信康」が成人すると、これに三河一国を返すのが惜しくなり、武田へ通謀ということにして、うるさい築山御前と共に始末している。 俗史では、信長が、我が子に比べ三郎信康が利口なのをやっかんで、家康に命じて殺させたと言うが、本当の妻子だったら家康も殺すはずがないし、信長もそんな命令など出す訳がない。 (いかに戦国時代でも、裏切っていない同盟者に対して、妻子を殺せなどという命令は聞いたことがない。そもそもそのような命令を出せば同盟を解消され、裏切られるのが必定である。信長は人質としてとった信康を返しているわけで、殺せというのはおかしい。まずはまた人質として出せというはず。) この岡崎三郎は信長の猶子、つまり養子身分になって、信の字を名に付けて貰ってる位だから、これを信長か殺せと言う訳がない。天正二年に家康は鍛冶屋の服部平太の娘「あい」に作らせた長子秀康が、天正七年には後、二代将軍となる秀忠も生まれた。 もうこうなると、信康やその母の築山御前は邪魔だから、産後のひだちが良好で自分の子達がよく育つとみきわめがつくや、親子とも始末した。勿論色々と体裁を作って誤魔化したろうが、これが信長に知れる。 と言うのは一介の土民から身を起こし、世良田二郎三郎と名のっても、尾張の名門の出の信長と違い基盤となる領地がない二郎三郎は三河に目を付け、松平元康が死んだ後、後見人と言えば恰好がいいが、本人になりすましたのである。 〔どうも、奇計を持って元康を殺したらしい。これは外国の推理小説に良くあるパターンである。現在家康物を経営の手本とする本が出回っているが、この実像の家康を企業経営の手本としては「殺しの経営戦略」となってしまう〕 (この一件でも、自分で調べもしないで、洗脳されている現代の経営者の無能さがわかる。家康のどういうところを経営の手本にしているのか意味不明。) そして後に、松平蔵人元康として清洲城で信長と盟約を結んだ。この時人質として信長に取られていた本物の元康の子三郎信康を取り返し、三河と尾張が手を結ぶ一種の平和同盟である。 そして取り決めの誓紙二通に松平元康として署名捺印する。これはまさしく欺瞞、詐欺である。今で言えば私文書偽造だし、他人名義を詐称しての取り決めなどなんの効力も発生しないのは、当時であれ決まりである。これがばれたら信長に殺されるのは明白である。だから以後、信長の言うことを良く聞き、守ったのである。 こうした後ろ暗い負い目があるから、戦国時代には珍しく堅い同盟が続いたのである。だが「永禄四年に取り交わした誓紙の松平元康名が詐称だった」ことがばれそうになった。そこで慌てた家康は、五千両を持って天正十年五月十五日に、安土城へ命乞いにいった。 半額だけ受け取ってもらえてその場は納まったが、家康が京へ行くと五月二十九日に信長は小姓三十騎を連れ、突如として上洛してきた。家康は慌てて船便を求めてその日堺へ逃げた。しかし堺取締の信長の家臣松井友閑は一隻の船も自由にさせず、家康一行を軟禁した。 六月二日本能寺の変が起きた。そこで「フロイス日本史」では「三河の王〔家康〕を討たんとして信長は兵を集めた。しかし集まった者は裏切って、信長は髪毛一本残さず吹っとばされた」とある。 伊賀山中を越え、必死もっしの難行苦行で逃げ戻った家康は、直ぐ大軍を出して愛知県の鳴海に本陣、前衛を津島まで出した。しかし秀吉が十三日ライバル光秀を山崎円明寺川で全滅させてしまった。ところが家康はその五日後に至るまで鳴海で頑張っていた。 勝った者向かいといった勝ち抜き戦の有様なので、この時家康は秀吉を討ちたかったらしい。 しかし情報網を張り巡らしていた秀吉に〔信長殺しは家康の差し金〕という弱点をつかまれていたので、やむなく二十日に陣払いして戻っている。そして、〔他へ知られたくない急所〕を握られていたばっかりに、秀吉の在世中は諾々とその命令下にあったらしい。 (信雄が、安土城を攻め落としたことから、当時は信長殺しは奇蝶の仕業で、光秀が責任をとったという噂が流れたようである。奇蝶の記録が安土城とともに焼失し、残っていないのがその証拠だという。) なにしろ用心深い秀吉は、三河衆の筆頭石川数正を引きぬきして、いざという場合に備え生き証人にしていた。その他にも岡崎三郎の長女の夫小笠原兵部少輔秀政と次女の夫本多美濃守忠政の二人も秀吉の臣となってしまったので、これでは家康としては「信康殺し、信長殺し」と続けてボロが出てしまうので、鳴くまで待とうホトトギスと、時節到来まで辛抱していたのだろう。 だから秀吉が死ぬと直ぐ、大阪城を焼いて天下を取った。そしてその間に信長殺しをさせた斉藤内蔵介の娘阿福が他へ嫁し四人まで子があるのに、これを伏見に引きとって子をしこませ、やがて産まれた子と共に江戸の秀忠のもとに送り込んだ。 家康としては、信長の異母妹於市の産んだ達子の子国松には、織田の血脈が流れているから「あれに徳川の家を継がせるなど、もってのほかである」と於福(後の春日局)に産ませた子の竹千代(後の家光)をもって三代将軍家光とした。 秀忠も老いた父の家康から信康殺し、そのためやむを得なかった信長殺しの顛末を聞かされると「徳川家の恩人斉藤内蔵介の娘の子」つまり異母弟にあたる家光が二十歳になるのを待って直ちに将軍職を譲ってしまった。家康は己の晩年の子の家光を三代将軍に決めて駿府へ戻ると安心したのか翌年に大往生をとげた。 しかし三河の人間でないから駿府の久能山へ葬るよう遺言した。所が家光は「自分を将軍にしてくれた父家康の恩に報いるため」まず織田家の血を引く名目上の弟の駿河大納言忠長を上州高崎で殺させ、その母の達子は押し込め同然にした。ついで家光は世良田村の奥に日光別所があるのに目をつけ、ここへ今も現存する日光東照宮を建てた。戒名も墓も判らぬ松平元康に比べると、二郎三郎家康は幸せである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月18日
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前回の続き ☆ ☆ ☆ 【紹介者・注】 武田の一向宗、つまり後の浄土宗や真宗の本願寺派は、西方極楽浄土を説くのに対して、薬師寺医王派というのは、白衣を纏い、正反対の東方瑠璃光如来、を教える東光派である。 教義がまるで逆で、墨染めの衣を纏って読経するのに対し、修験、修法を旨とする白衣派であり、「武田一派の本願寺派を折伏せん」と各地から動員されたものである。 こうして双方が宣伝合戦をしている内に、信玄は妻の義弟本願寺光佐の合力でまたぞろ出兵してきた。越中、越前、加賀の一向宗の勢力をもって、越後の上杉景虎を防ぎ後顧の憂いをなくしたからで、やがて美濃岩村城を落とした信玄は遠州二股の城も降し、二万五千の兵は家康の浜松城めがけて殺到してきた。 家康は十二月二十二日、夜明けと共に、三河岡崎勢を前発させ、遠江勢を己の旗本として全軍を率いて浜松城を出ると、秋葉街道を南下してくる武田勢に向かった。が、あまりの大軍に驚き取って返し、籠城の支度をした。武田勢は姫街道の西へ出て追分けで北方へと隊列を変えた。 家康を討つ胆なら、眼前の浜松城を攻撃すべきなのに、信玄はそうはせず、全く無視して三河岡崎城へ向かおうとしていた。 さて、現在のように徳川史観そのままの「松平竹千代が成人して松平蔵人元康になり、それが姓も名もやがて徳川家康に 改名した」といった伝説を鵜呑みにしていては判らない話だが、当時の武田信玄は、 〔松平蔵人が誤って森山で斬殺されたのを奇貨として、後家の築山御前に近よってその倅の岡崎三郎信康めを籠絡、家康はまんまと替玉を勤めている。が、今や当初の約束は守らず、成人した信康に三河を返すどころか横領せんと企てている。よって戦のたびに最前線に出され、損害の多い松平譜代の石川数正らは堪まりかねている。故に、三河を攻めて彼ら旧松平の者らを解放することこそ、街道制覇の焦眉の急である〕 と全軍を向けんとしていたのである。 さて、前記したが、もともと三河は一向宗の地盤である。だから、不慮の死で急逝した松平蔵人元康の身代わりとなって、世良田二郎三郎〔家康〕が岡崎へ入って来た時、薬師寺派の彼に激しく抵抗した。やむなく家康はその与党を率いて、一向宗徒と提携した三河松平党の征伐をした。 しかしとても完全に征圧できぬと知ると、家康は引馬城を増築して浜松城とし、さっさと岡崎を引払ってそちらへ移り住んだ儘である。そしてその後はあまり三河へは寄りついていない。 だから三河の土民や地侍達は、「三河解放」を豪語して信玄が乗り込めば、残存一向宗の者らと共に歓迎し、瞬時にして武田方へ靡くのは目に見えていた。だから、名を取るより実をとれと信玄は、目の前の浜松城をまるっきり無視し、この時三河へ向かうとしていたのである。 そこで、閉じ籠もっていた家康も、〔この浜松城へ攻め込まれんで助かった〕と、ほっとするよりも、三河へ入り込まれ住民を煽動されたら大変であると周章狼狽。すでに日没になっていたが「追い討ちをかけい」と城門を開かせた。 「三河物語」の中で、大久保彦左衛門は、 「家康公は浜松城から十二キロの余も撃って出て武田勢を追いかけた。もっと真暗になってから奇襲を掛けたら、勝利を得たかも知れないが、三河へ行かれるのを恐れてはやりすぎたので、薄暮の中で捕捉され失敗したのだ」 と説明している。 つまり、この三方ヶ原合戦で、家康は完膚なきまでに敗れ、また浜松城へ逃げ込んでしまい、勝ち誇った信玄は三河の大野へ出られる細江まで一気に進出した。しかし、信玄は瀬戸城に入って越年し、雄図空しくここで病没してしまう。 (通説では、信玄が上洛するためだったとしているが、信長が、家康に、目障りだった平手汎秀らを捨て殺しにするための援軍をわずかに出したにすぎないことから、信長も信玄も戦う意志がなかったことがわかる。) 【紹介者・注】 信玄は一向宗の僧達を自在に使い、己の宣伝をすると同時に、他国〔駿河、遠江、三河、尾張など街道沿いの諸国〕にも一向宗の勢力はあるので情報収集もしていた。だから家康が元康の替え玉だ、ということも判っていて、己の兵力温存の意味からも、浜松城を力攻めせず、こうした合理的作戦を採ったのだろう。 「加越闘争記」巻一の始めの書き出しにも、はっきりと、「是則ち、仏法は大魔にして、武士の怨敵なり」とでているぐらいで、元亀天正の頃は、徴税つまり年貢を取り課役を言いつける施政権の奪い合いで、仏教徒と非仏教徒の武士は不倶戴天の仇敵同志だったのである。だから、この時代を宗教闘争、民族闘争として捉えれば理解できる。 【紹介者・補記】 さて、八切史観で家康、松平元康を解明すれば以上の様になります。従って松平の血脈は信康〔竹千代〕で断たれ、松平一族は悉く殺されています。 そして、松平の「姓」は徳川に従うという意味から「属」とされ、大名にもこの姓を与えている。 武鑑を見れば、九州の島津も、東北の会津も松平姓で、この姓は多い。だから、徳川秀忠と御台所〔江与の方・信長の異母妹、於市の末娘で信長の姪御に当たる〕の間に生まれた国松〔駿河大納言忠長〕には、織田の血が流れているというので、徳川姓は名乗らせず正式には「松平忠長」である。 「右は神君大御所駿府御城御安座之砌、二世将軍秀忠公御台所江被進候御書拝写之 忝可奉拝誦之者也秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也 左大臣同 御次男 国松君 御腹 御台所 駿河大納言忠長公也 従二位」 とあるこの確定史料は現在内閣図書館に秘蔵されている<内閣蔵本>の<慶長十九年二月二十五日付、神君家康公御遺文>というのがある。 これは明治四十四年刊の国書刊行会のものに<当代記><駿府記>といった、徳川史料のものと並んで活字本で収録されている。 これによると、生母が春日局と御台所との相違をはっきり出している。が、父の方は(という)と、忠長の方は明白に御二男としてあるが、家光の方は御長男、とせずに、御嫡男の文字を当てている。 現代では「嫡出」といった用語もあるが、この時代は「猶子」といった名前だけの養子であっても、これが跡目と決まると、<嫡出>とか<嫡子>とか書かれたものであって、一男とか長子という文字が無い限りは、その長男とは認められないことになっている。 これは当時の<陰涼軒日録>や<御湯殿之日記>にも、「嫡男とは長男とは違い、他から入って嫡男となり、そこの倅共と争う事など」と残されている。 さて、家康~秀忠~家光~家綱~綱吉と続く徳川家であるが、 八切史観では、秀忠は鍛冶屋の平太の娘、おあいの子〔後の西郷の局〕で、家康直系。家光も於福〔春日局〕に産ませた家康の子で、秀忠とは異母兄弟である。この春日局は本能寺で信長を襲った一万三千の軍勢を率いた斉藤内蔵介の娘なのである。 当時於福は稲葉八左衛門の妻で四人の子持ちであった彼女を探しだし、夫の稲葉には五千石の扶持〔手切れ金〕を与え、夫婦の縁を切らせた。これを伏見城に連れてきて仕込んだ子が家光その人なのである。 〔しかし、知らぬは本人なりで、家康は家光を自分の種だと思いこんでいたが、本当の父親は天海僧正らしい。これは「八切裏がえ史」や「徳川家康」「家康は世良田徳川の生まれ」の本に詳細。〕 (天海は、光秀の孫らしいから、三代家光は光秀の血をひいていることになる。三代から、事実上は明智政権となる。家光の名は、利三と光秀と家康の名があわさったもので面白い。この家光に、ときの後水尾天皇が石高の加増を願って、家光が承諾したことから、幕府と朝廷のいざこざがはじまったらしい。) 【紹介者・注】 何故に於福の産んだ子に徳川家を継がせたかの謎も、これ全て「信長殺し」に起因する。徳川史料を鵜呑みにして家光を秀忠の子とすると、何も判らないが、徳川家では家光を秀忠の子としないことには、まずかった理由は、家光及びその子の家綱、弟の綱吉の三代にわたって、神徒系の徳川家が全く仏教系に変貌してしまい、<神仏混淆>と言う時代に変遷してゆく為の糊塗策とも見られる。 【引用参考文献】八切止夫著「徳川家康」「家康は世良田徳川の出身だった」「元禄太平記」「徳川家康は二人だった」 駿府政事録・大日本国駿州城府分時鐘銘・駿河誌・武徳編年集成・城塁記事 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月18日
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前回の続き ☆ ☆ ☆ 【家康二人説】(2) 石が瀬合戦から、森山くずれ、さらに武田信玄は、「家康、元康別人知悉説」までを箇条書きにしてみます。 遠州服部村の鍛冶屋の家を溜まり場にして、弓矢を鍛えさせ、武具を整え人集めした若き日の家康は、この天下争乱の時一旗上げようとした。だが今川義元亡きあとの氏真は出て戦わず、尾張の信長も勝って兜の緒をしめよと清洲城から動かない有様。 そこで業をにやした家康は中に挟まれた弱体の三河を奪い盗ろうとしたて、遠州から矢矧川の上流を渡って攻め込んだ。この時松平蔵人元康は放ってはおけず、これを石が瀬の原で迎え撃った。 しかし何といっても、松平党は長年にわたって父祖の代から君臣の間柄。一方家康側は烏合の衆である。正面衝突してはとても松平党の敵でなく、負けて降参してしまう。降人した時家康は松平の家来にされるような話しだったが、抜け目のない家康は直ちに山中城を攻め、城主の松平権兵衛重弘を追って自分が城主となってからは、もう元康の家来ではなく合力衆のような形になった。刈谷城の水野信元を攻めた時など、岡崎勢の先手となって十八町畷まで押し寄せて戦った。 ついで家康は元康に協力して野伏り衆を放って、挙母の砦、梅ケ坪の砦と火を付けて廻ったから、元康も喜び「この分なら織田信長を攻め滅ぼして人質に横取りされてしまっている吾児の信康を奪還しよう」と、桶狭間のあった翌年の十二月四日、合力の家康や三河党をもって尾張に入り、岩崎から翌日は森山へ兵を進め本陣を移した。 処が、その陣中で、粗忽な家臣の為に、元康は間違って討たれてしまった。仕方がないのでひとまず陣をはらって退却ということになった。 これが世に謂う「森山崩れ」だが、討ち果たされたのは、永禄三年より二十六年前の天文四年のことで、討たれたのは元康の祖父の清康と通説はなっている。 しかし天文三年なら、信長の父織田信秀が岡崎城と目と鼻の先の安祥の城まで確保して、三河の半分は織田の勢力に入っていた頃、どうして岡崎衆が入りこんで尾張の森山へ陣取りなど出来るだろう。 この頃の信秀は小豆坂合戦で今川や、松平を撃破して「東海一の弓取り」とうたわれ、尤も威勢の良かった時である。 だから、それまで互いに戦いあっていた二人(元康と家康)が、合併してその時から一人になる。つまり松平元康が急死したので、当座しのぎの恰好で家康が後始末する為、元康の後釜に入った。 ついで、尾張の熱田に居た、信康を取り返すため、家康は元康の死を隠して、まんまと顔の知られていない事を奇禍として、自分が化けて代わりに乗り込み、清洲城で信長と談合して起請文を入れ和平を誓い、信康を戻して貰った。 その手柄を買われて松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康は立ち回り、幼い信康の後見人に収まり、やがて松平党を、その属とした。 〔ここは大事な処なので重複するが詳細に記しておきます〕 殿様の松平元康が誤って家来の阿部弥七郎の手に掛かって急死した、岡崎城では跡目の信康がいないから困った。その時三州山中城を自力で乗っ取り、次々と放火して手柄をたてた家康が「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿の身代わりに仕立てい」と言えば、松平党の面々は「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくとも済む安全な上策である」と、賛成したものと思われる。だから、諸説は色々あるが、家康、元康の入れ替わりはこの時になる。 そこで、まんまと松平元康に化けてしまった家康は、恐れ気もなく永禄五年三月には清洲城へ乗り込み、三河と尾張の攻守同盟を結んで、熱田に居たか、清洲に居たか〔大須万松寺天王坊の説もある〕はっきりせぬが、当時は四歳になっていた信康を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。 この手柄は大きいし、それに山中城主になっていた家康自身が、もうその時は、既に何百と私兵を持った大勢力だったから「この儘で、元康様が成人の時まで後見人」ということになった。時に家康二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちというのは少し早いが、何しろ苦労してきたので、ませた風采をしていたのだろう。 だから信長もこの時は、永禄四年から毎年美濃へ攻め込んでは負けていた矢先であるし、まんまと尋ねてきた松平蔵人元康〔本当は家康〕を本物と思ってしまい、美濃攻めに後顧の憂いのないようにと、東隣の三河と和平をした。 そして足かけ三年も尾張にいたのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の倅らと仲良く遊んでいる様子に、その頃生まれた女の子に「信忠、信雄、信孝信康も加え、五人で五徳のごとく輪になって確かり地に立てや」と初手から嫁にやる気で五徳と名ずけた。 その縁談も信康を戻す条件として家康に持ちかけたものだろう。この時家康は一時の便法でまんまと信長を欺き元康に化けたものの、どうせ信長などたいした事はない、その内誰かに滅ぼされるだろうと、高をくくっていたが、これがどうして、頑張って美濃も攻略し稲葉山の井ノ口城をとって大普請し、岐阜城と改名。 こうなると家康たるもの、化けの皮が剥がれて瞞していたことが判ったらどうしようと戦々恐々とした。よって元康と家康が別人であったなどという証拠は、ことごとく湮滅させた。 だから、三河の一向門徒の騒動とは、所詮は家康が元康に変身した為に起きた宗門争いである。というのは、三河岡崎衆は、尾張長島の一向門徒と手を組んでいた。そこに、野州二荒別所から、駿府の久能別所にいた家康は、その家臣達も大久保党は七福神系、本多一族は白山神社系。榊原康政は伊勢白子の松下神社の氏子。酒井一族は修験者あがり、といったようにどれもが神信心の者達で占められている。 時はお寺とこれらの社は仇敵同志の世の中である。反目している内に・・・・先ず岡崎城で、亡き松平元康の家老であった酒井將監が松平一族を糾合して家康に叛心を抱いたが失敗して猿投山中へ逃亡した。 ついで昔は城代までしていた三木領主の松平信孝も、その他出中に三木の館を徳川党に襲われ、戻ってきて明大寺合戦で一族もろとも家康に皆殺しにされている。この後、松平大炊助好景も、幡豆郡長良の善明丹宮で家康側に包囲され全滅。 そこで堪りかねた松平党の三河武者が、浜松や伊勢から来ている他所者の徳川党と戦ったが独力では無理なので、一向宗の力を借りたゆえ、表向きは一向宗騒動となったのである。 その後は三河岡崎城では最早家康に楯突く松平衆は居なくなった。家康に忠誠を誓う者は、松平姓でもそのまま許され懐柔策はとられていた。 しかし合戦の時は徳川衆は「東三河衆」と呼ばせて、これを酒井忠次に率いさせ、いつも危険なところや先陣は石川数正率いる「西三河衆」を使った。たまりかねた石川数正は小笠原秀政らを伴って徳川を見切って、太閤秀吉の許へ走ってしまったのである。 【家康二人説】(3) <<武田信玄は家康の正体を知っていた>> 上州。ここは当時、榛名山麓箕輪城長野信濃守の勢力範囲で、厩橋城の長野左衛門が世良田辺りは押さえていた。処が天文二十年の大洪水で、それまで北を流れていた利根川が今日のごとく前橋の西へ変わったから、関東管領として上州平井城にあった上杉憲政がこれまでの天険の防ぎを失い、やむなく越後の長尾景虎の許へ逃げ込んだ。 そこで上杉の姓と管領の肩書きを譲られた景虎〔謙信〕が、関白近衛前嗣卿を伴って上州へ攻め込み厩橋城を占領。そこを近衛卿の城として、関東制覇のため小田原攻めを敢行した。 永禄四年九月十日が川中島合戦になるのだが、謙信は小田原攻略に失敗したので、近衛卿が帰洛した後は、北条〔きたじょう〕高広が景虎の命令で厩橋城の城代をしていた。が、永禄六年十一月になると、武田信玄がこの城を力攻めで奪った。そこで上杉方も放っておけず取り返した。三年たった永禄九年に、箕輪城を落とした信玄は又も厩橋城を奪った。そして今川義元亡き後の駿遠二カ国もついでに己が領国となさんと信玄は企てた。 信玄は本願寺裏方の姉三条氏を妻にしている立場を利用して、当時一向宗と呼ばれた石山派の僧たちを、住民宣撫工作に招いた。元亀二年の織田信長の比叡山焼討ち後は、英俊、亮信、豪盛と呼ばれる延暦寺の名うての僧たちも、焦土と化した山を下って、信玄の庇護を求めてきた。 そこで信玄は彼らを<宣撫工作班>として信州、上州の各地に派遣し寺を建てて近隣の住民を集め「信仰は御仏、領主は武田」といった説教をして聴かせた。この武田の進出に怖れをなしたのは徳川家康である。 自己防衛のため織田信長と攻守同盟を結び、元亀元年十月には「上杉家文書」「歴代古案」によれば、越後の景虎の許へ音物〔金目の贈り物〕をなして、同盟を結び信玄に対抗した。 (通説では、信長になっている。) しかしそれでも武田の仏教宣撫班が、「武田の権僧正鬼より怖い、どどっと来たって、どどっと斬る」といった触れ唄を御詠歌調で口から口へ流すのには閉口した。 何しろ幕末まで、この地口は伝わり、「甲斐の吃安、鬼より怖い。どどっと吃れば人を斬る」と転用される程だから、その当時にあっても、権僧正の位をもつ武田信玄の威名は鳴り響いていたのだろう。そこで家康は、今は仏法僧で名高い愛知県挙母鳳来寺の猿女と呼ばれる者たちの居る薬師寺に対抗策を講じるように求めた。 現代で謂う「宣伝合戦」である。そこで「家康こそ何を隠そう、鳳来寺薬師寺十二神將の一体の生まれ変わりである」と説いて回った。後には関ヶ原合戦で薬師寺系の大名を皆寝返りさせた程の実力のある全国的な組織ゆえ、「かしこまって候」と、鳳来寺から各地の医王山へ司令が飛び、それぞれの修験者達が家康のために武田に対抗した。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月18日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書―国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。 拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。 これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です 家康、元康入れ替わり説について、謎の徳川家康の続編として紹介します。 次郎三郎は今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。 さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていたいた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい〔後の西郷の局、秀忠の母〕のいる、掛塚へ戻った。 次郎が家康となって天下平定後、等善坊はこの時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では「恩禄を得た有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、「味知」という姓を道案内の故事からとって安倍川の西の持舟山一帯の朱印状を貰った。 「神君御難の時背負いまいらせた名誉の者の家柄」ということで、この子孫は幕末まで連綿として続き、苗字帯刀だったと「駿府志」にある。 しかしこれは運の良い方の話しである。酷い目にあったのは、誰が松平の世継ぎを奪って逃げたか直ぐ判ったから、乳母の大河内源三郎の妻や、次郎の祖母源応尼がそれぞれ捕らえられ殺された。 桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐が崎の刑場で殺された源応尼の屍は部落の者に分けられ、内蔵や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、華陽院の墓碑名によれば「永禄三年五月六日」となっている。 つまり桶狭間合戦の十三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月ということになる。そして、「松平啓運録」に「狐が崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」とある静岡の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額がこの間の事情を裏書きしている。ここに原文のまま一部引用する。 是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初今川義元、略東海之諸州、居府城之時、 為厳父君遠出三州而質於府下寓居於禅尼之家、禅尼慈愛之、頗紹干所生而受恩於尼公、従幼至志学之後、 「既始発義軍於浜松、而征数州禅尼思之痛矣」、干時永禄三庚申夏五月、聞訃轅門不堪哀慕之情然如之何、 使人送葬干此然是行 戎役未息墳墓唯為封而己、〔旧漢字が多く、辞書から出てこないため後略〕 龕 慶長十四年春三月 大將軍 翁 印 さて、この中で問題になるのは「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の箇所で、少しも三河岡崎でとは書いていないことと、直ぐそれに続いて、 「禅尼〔源応尼〕がこのことで思い痛め心配した」という一句である。 家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗揚げしたなら、「こりゃめでたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変である。 つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この祖母の頃はぜんぜん武門の家柄でなかった証拠であろう。つまり「とんでもないことを次郎はしおって、おかみに逆らうようなことをして、申し訳もないことになったわい」と源応尼は案じていたことが、これでも良く判る。 さて、轅門、というのは陣中のことだから、この文面では、「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのを聞き、自分は悲しんだが、陣中にいたので如何することもできず、そこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦が続き仮埋葬のままだったが、いまや自分は征夷大將軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五十回忌にあたってここにまつる」となっている。 しかし、今日の俗説では、「今川の人質となって行く途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康となる」となっている。 どちらが真実かは読者の判断に待つよりない。 竹千代というのは代々世襲の幼名だったから「松平蔵人の幼名が竹千代」であっても差し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人だったと思えない証拠が現存している。 天文十八年というと、信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定だが、「寛政二年戌四月加藤忠三郎書出し書」という、尾州候へ提出の文書があって、その中に、「てまえ先祖加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作って差し上げた雛人形二対及び賜った桐の御紋の盃を、今に到るも家蔵している」というのが今も「尾州藩史料」に入っている。 しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛様を作ってやって遊ばせたというのはどうであろうか?と疑問が生じる。俗説の家康がこれでは八歳で変てこでだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。 つまり、後の岡崎三郎信康、と見れば、彼なら世良田次郎三郎や酒井浄賢が盗みだしてきた時は、まだ二歳だから、これならお雛様でも遊ばせられたはずである。又、その幼児が後の徳川家康ならば、上州新田郡世良田村は別名「葵村」と呼ばれるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、松平の方は、代々ずっと桐紋しか用いていない。 だから文中の盃の(桐)紋からしても、預けられた子は俗説の家康ではなく、松平元康の子の信康であることは間違いないであろう。 この後竹千代は田原城の戸田弾正に奪われ、信長の許で育てられる。そして奇妙丸〔信忠〕、信雄、信孝、五徳姫、と信康の五人を信長は可愛がる。五徳と言う名の由来は、火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足でしっかり支えて上に薬缶をのせるものである。 つまり、五徳を岡崎三郎信康と一緒にさせようと信長は思っていたらしい。この「信康」という名乗りも、信長の父信秀の異母弟で、織田与二郎信康という織田家隆盛には一方ならぬ骨折りをして、討ち死にした柱石の叔父の名からとって「岡崎三郎も、その信康にあやかって織田家に尽せ」と信長が命名したものである。 だが通説では、信長は成人した信康の武辺や武功目覚ましく〔これでは己が倅共より立ち優って行く末とても剣呑である〕と、手なずけるため五徳を嫁にやって、隙を見て信康を亡き者にしようと謀っていたところ、我儘者の五徳がざん訴してきたのを勿怪の幸いに、事実無根を百も承知でこの好機逃すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。 家康は我が子可愛さに信長に対し嘆願したが許されず、泣く泣く最愛の我が子の信康を殺し、その連類者の築山殿までも、信長殿の言い付けには違背出来ぬと、泪を呑んで腹心の野中三五郎らに斬殺させた。 (となっている。) だが、信康を入れて五人で仲良く力を合わせるために折角「五徳」と己が姫に名づけ、それを嫁にやるくらいなら、三郎信康が目ざましく成長し天晴れな武者ぶりを見せてきたらなら、これは信長には願ってもない喜ばしいことであって、それを嫉妬したり、自分の倅共の行末に邪魔になる、取り除いてしまえと、策を弄して家康に命じて処分するのは話しとして筋が通らない憾みがある。 信康が武者ぶり優れ、衆望を担ってきて、それで迷惑するのは信長ではなく、三河を横領出来なくなる家康その人なのである。 これまで徳川家康が尾張へ人質となっていた、という説の傍証として扱われているものは、「この時、尾張の者にて高野籐蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬り、朝夕様々にいとおしみ、小鳥など参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この籐蔵をば三河へ招き召し出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ」という「参河後風土記」の中の一節に拠っている。 そして現代でも歴史家の中にはこの書物を「良質の史料」と誤認している人が多いが、これはすでに江戸中期において建部賢明がその<大系図評判遮中抄>という著書の中で「大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓沢田源内を主犯とする系図屋共の贋作であって、彼らは依頼に応じて次々と贋物の系図を作りあげたばかりでなく、その他の偽本類つまり今の「中古国家治乱記」「異本難波戦記」「参河後風土記」といった、さも尤もらしいデッチあげの贋本をこの他にも十余点あまり、やはり依頼主の先祖の名を書き加えるために、これを写本として出している」とその署名の一覧表を揚げて、「これを誤って史料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ」と、既に元禄時代にこれを注意している。 つまり「参河後風土記」というのは、史料のように見せかけているが、真っ赤な偽物であると証明が三百年以上前に出されている。だから知らずに間違えて引用するのは、これは不勉強である。信じられる史料は前記した「加藤忠三郎申上書」なのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月18日
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八切史観が痛快なのは、日本史の大まかな流れや人間のもつ裏話がわかるだけでなく、有名な本能寺の変の理由や家康の正体などもわかるからである。 例えば、昨今巷に流れる家康影武者説などは、この八切史観の家康と元康別人説から明らかになる。そこで、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 史擬 徳川家康 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/ieyasu.htm 【紹介者・注】 この一連の徳川物は、以前歴史会議室で議論されたものを、加筆訂正してここに改めてUPするものである。重複する箇所も多いが何卒御容赦願いたい。 現代、家康を尊敬している人間は非常に多く、彼の生き方を経営戦略の手引きとしている本もある。しかし、ここに敢えて水を差すような一文を書いたのは、事、日本史に関しては相当の碩学といえども、既成概念が強く、なかなか文部省歴史から脱却できない、という現実が在るからである。 (歴史通といわれる人物でさえ、この洗脳に嵌っているから恐ろしい。) 以下に書かれている内容に驚かれ、反発されるも御自由です。しかし、人類の生活が大きく変わろうとしている今、この国の現状はどうでしょう。 今こそ新しい、高い目線で「新史観」が必要ではないでしょうか。それには勿論隣国の韓国や、中国との歴史の「スリアワセ」は不可欠す。さすれば日本は何時までも過去の呪縛から脱却出来ないでいる、「自己悪逆史観」や「お詫び史観」から脱却できると想うからです。さて、家康は天下を平定するまで随分と邪魔者を殺しております。 しかし時は、人肉を食べるまでに追い詰められた悲惨な時代でした。古今の英雄で「殺し」という行為を成さなかった人物は少ないでしょう。弱肉強食の中世にあっては、致し方もなかった事でしょう。父親に去られ、母親に売られた幼い家康は辛酸をなめました。 戦乱で百姓も疲弊し、庶民も貧困のどん底の状況を見て育った家康は、徒手空拳の一介の土民の身から革命を志し、「おりゃあ、偉くなったる。世直しせなあかんぎゃあ」と、同じ虐げられた仲間を糾合して、ついには徳川政権を作りました。 そして家康は同族(部落民)を解放し差別の撤廃を断行しました。これは立派な事です。これは秀忠の時代まで続きます。〔現代で言えば、お上から搾取され続け、ただ黙々と体毛を剃られるため、働き続ける羊のような従順なサラリーマンを団結させ、政権を奪還するようなものでしょう〕 しかし、三代将軍家光の時から家康の意志は踏みにじられ、これが幕末まで続く事になる訳です。即ち、現代にま尾を引く差別問題です。〔以下から、どうぞこのイントロ部分を頭の片隅に置いて読んで下さい〕 徳川家康について、明治三十五年四月十八日、村岡素一郎が『史疑徳川家康』を東京の民友社から出しました。八切説でも「家康二人説」ですが、明治史学界は『松平記』を出してこの説を封じ込んだ。 しかし、明治の学会でも村岡説に同調というか、理解を示したような学者は皆無だった訳ではない。時の内閣修史局編修官東京帝国大学教授、重野安繹博士がそれである。博士は『史疑徳川家康事蹟』の刊行に際して序文を書き、 「東照公は幕府の烈祖三百年の基業を開く。世にその事蹟を云うる者粉飾避諱なき能はず。仮に豊臣氏の子孫歴世絶たざりしならば、則ちその太閤微賤の時を伝ふる、未だ必ずしも今日の史上の如くならざりしならん。流離関関、変故百出、而も功業を意料の外に成す。古今の大豪傑皆かくの如し。何ぞ独り東照公を怪しまんや」 といっています。さらに 「もし豊臣秀吉の子孫が現存し公爵にでもなっていたならば、やはり秀吉の卑賤な素性を糊塗し、先祖を藤原氏か源氏に持っていったであろう。だから家康もそのような工作を試みなかったとは言い切れぬ」 と述べています。 また南条範夫著「三百年のベール」によれば、重野博士は村岡説に対して、 「自分も徳川氏の出自が新田源氏だなどということは全く出たらめだと思っていた。しかし家康自身がささら者の倅だとは夢にも考えていなかった。全く驚くべき新説である」 と批評し、村岡が「史実として成立し得るとお考えですか」という質問に対しては、「いやそこまでは断定できない。今君の挙げた全資料を自分は同じくらいの反対資料で片端から反駁できる」と答えた。 しかし、「自分の出来る限りの反論の方が正しいか、君の立場の方が正しいか、それは今のところ何ともいえない。徳川幕府は二百七十年続いたのだ。開祖家康についての不利な資料は悉くこれを破却し湮滅させた。公的、半公的な徳川氏の歴史は粉飾の極を尽くしたに相違ないし、又民間の史的述作も徳川氏に極力おもねってきたであろうことは疑いない。してみれば、君の立場もその粉飾され阿諛されつくした歴史に対する爆弾的宣言として大いに意義がある」 ともいったという。ここまで理解していて尚かつ「松平記」を正史としているのですから、一体明治の歴史家と称する人達はどうなっているのでしょう。 〔この辺は鹿島史観の「国史大儀」では「明治のボンクラ学者」と痛烈に批判してます〕 何といっても、明治史学会は華族会がスポンサーでしたから、致し方も無かったのでしょう。「学者の良心という概念」もこの頃には未だ無かったのでしょう。と、同情します。 まあ考えて見れば、彼らは明治政府の親衛隊的存在の側面がありますから、重野博士の言っていることを良く解釈すれば、天皇家周辺の権力者に極力おもねった歴史を作った事実を、自嘲しているようにも思えます。 【家康二人説】(1) さて、この資料は公開されたのだろうか? また、いわゆる歴史家との討論はなぜなされていないのだろうか? 不思議なところである。八切先生は亡くなる二年ほど前、ご自分の史資料をファンに限定販売や無料贈呈しました。 明治三十七年、名古屋市役所編纂の「名古屋史要」は古書価格で百三十万。現在残存一部といわれる、小谷圭一郎の「ジンギスカン義経」の種本の明治刊の内田弥八著「義経再興記」や、本物の「松平記」「手書き兵法雄鑑」等の珍奇本、赤穂義人纂書、1、2、3、巻、幕末確定史資料大成、徳川合戦史資料集大成、日本歴史史料集大成明治史学会雑誌などなど。これらは古書相場十万から八十万です。先生は三十年間に約二億円位かけて、二万点余の史資料を集めています。 嫌みったらしく値段を書いたのには訳が在ります。史資料は、真実探求の飽くなき情熱があり、足を使い、金を惜しまなければある、と言うことを、いいたかったのです。勿論、活字本になっているものも沢山在ります。 現物でなくとも写本だってまだまだ在ります。東大歴史編纂所には、豊富な史資料が在るので、研究する気が在れば出来るのです。しかし現在のような、記紀金科玉条主義、足利史観、徳川史観、皇国史観その儘の学会からでは無理でしょう。むしろ、唯物史観の連中の方がよく勉強しています。 だから八切史観にも反論出来ず無視を決め込んでいます。酷い人間は「とんでも本」と侮辱しています。日本はまさに巨大な「偽史シンジケート」が牛耳っているのです。以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏の週間読売で座談会がありました。 その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。ルードウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。 八切氏は面前なので冗談かおふざけかと思ったら、 「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。 (血統の類をひけらかすのは腐った連中である。このような輩になっては人間おしまいである。真実探求に血統は関係ない。このような学問は死んだも同然である。) 医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。 だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もせずこれらは無視です。そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっています。 何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、大概の人間はナエてしまいます。何と言っても「生きる」ということは大変ですから。大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが以前、官学理系の助教授と話していたら「○○さん、大学は解体しなければダメです」と過激な発言です。 「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。現在、日本的システムの世界化が急務ですが、21世紀を見据えた、大学改革も含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。 (数学や理論物理系は権威主義や徒弟制度のようなものは比較的みられないが、国の予算が絡む実験系や文系、特に医学系などはヒエラルキーがはっきりしている。理論物理系では、教授といえど、間違ったことを言ったら、院生が馬鹿呼ばわりしている光景をよくみたほど、権威というものがなく自由だった。しかし、ある意味、自由なほど大変なのだか…。 後に他の分野の研究室をみる機会があったが、体育会系かと思うほどヒエラルキーがある。特に医学系では教授は人事権ももつので、神様のような感じでもある。法律や政治系はみたことないが、史学系から類推すると似たようなものなのだろう。しかし、どの分野にも天皇みたいな最高権威者はいるようである。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月18日
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さて、周囲に生きている魂的、霊的な存在について理解したなら、周囲の自然がどのように見えるか、ちょっと想像してみるとよい。まず、理想的に想像するなら、次のような疑問が生じる。 周囲の物質界に生きている被造物の魂、つまり動物、植物、鉱物の魂が一体どういう状態なのか、人間の感覚に、物質として現われる他に、この自然の3つの存在(動物、植物、鉱物)には何があるのか、という疑問である。 例えば、動物を観察すると、霊魂は人間とは全く根本的に区別できる。皮膚を境に閉じた人体の内側にある霊魂は動物の内側にはない。もし動物を人間と比較するなら、むしろ人体内の各器官に相当するだろう。同じ形態の動物、つまりライオン、トラ、カラフトマス、ハエなど同属同種の動物は、人間と比較するなら、例えば手の指などに相当する。 いま人間の十本の指を考えてみる。十本の指の一本ずつに各々の自我をもつ魂が与えられているとは思えない。十本の指は全て一人の人間に属しているからである。一人の人間に自我-魂が与えられている。一人の人間に自我-魂が与えられているように、動物の同種全体の魂を、集合魂と呼ぶか群魂と呼ぶかは問題ではない。 問題なのは、事実をぼやけさせ、曖昧に考えることにある。このように、同じ形姿を持った動物のグループを考える場合、個々の人間と同じ自我-魂が基礎になっていることを認める必要がある。けれども、この動物群の魂は、人間の自我-魂がある場所を探しても見つからない。 人間の自我-魂が誕生と死の間(起きているとき)にいる場所は、物質界である。このことから、自我-魂がその性質と本質により物質界だけに属することが言われているわけではないが、人間の自我-魂は物質界で生きている。動物の集合-自我はそうではない。 同じ形姿をもつ動物の集合自我の場合、個々の動物がいる場所(物質界)は問題にならない。ライオンがアフリカにいようと、動物園にいようと、全く同じである。個々の動物は同じ集合自我に属し、この集合自我はアストラル界にある。だから、同じ形姿を持つ動物群から自我を見つけるなら、霊視的にアストラル界にまで赴かなくてはならない。 (アストラル界とは、例えば物質界を基準に考えると、負のエネルギーをもつ領域で、思考上の仮想領域といえる。最近はコンピュータグラフィックなどで、視覚化が可能になっているが、せいぜい4次元的世界の領域にとどまっている。簡単にいえば、霊魂の方向性、志向性みたいなもので、価値観を表わすのにグラフなどが用いられることでわかる。) アストラル界での動物の集合-自我は、物質界での独立した人間の個性に相当する。もし人間の十本の指を伸ばし、仕切り壁を立て、壁の十個の穴から十本の指を突き出せば、壁の外側にいる人には十本の指しか見えず、十本の指の持ち主の自我を探すなら、壁の後ろ側に行く必要がある。 このように、個々のライオンは、全ライオン種の集合自我の一部と見なければならない。アストラル界へ行くと、上述の喩えの、壁の後ろ側にいって、十本の指の持ち主を見つけることができるように、全ライオン属の個性、あるいは特質を見ることができる。同様に、同じ形姿を持つ他の動物種にも当てはまる。 もしアストラル界を「散歩」でもすれば、アストラル界には、これら動物の集合自我が居住しているのがみえるだろう。そこでは、この物質界で一人一人の人間に出会うように、動物の集合自我と出会う。ただこれらの集合自我は、上述の喩えの十本の指を一本ずつ壁から突き出しているように、物質界へと、それぞれ分化した動物の個体を伸ばしている。 ただし、動物の集合-自我の本性や特性と人間の個人の特性との間には、著しい相違がある。この違いは、非常に逆説的にみえるが、現に存在している。つまり、1つの特異な事実がある。アストラル界での動物の集合自我の知力と叡智を、物質界での人間の知力、叡智と比較すれば、動物の集合自我の方が、根本的に賢いことがわかる。 動物の集合自我の振る舞いは、最高度の自明性をもって行われる。人間は、進化を遂げていく中でようやく、自身の自我を、動物の集合自我がアストラル界で既にもつ叡智にまで到達させなくてはならない。無論、この動物の集合自我には、人間がこの物質界で地球の進化全体を通じて養成してきた経験が欠けている。この特殊な要素は、動物の集合自我には全く見られない。 これは、愛という要素、愛全て-血縁関係にある人間の血族的な愛という最も単純な形から、普遍的な人類愛の最高の理想の愛まで-である。この愛という要素は、他ならぬ地球進化の内にある人類によって養成されてきたものである。 感情、感覚、意志は、動物の集合魂ももっている。しかし、愛を発展させることが、まさしくこの地球上での人間の使命なのである。これが動物には欠けている。動物の集合自我の基本要素は叡智であり、人間自我の基本要素は愛なのである。 (人間の生きる意味は愛を養成し、発展させることにあるという。神とは思考の総体だが、人間は、そのなかの愛を育むことが要請されている。だから人生においてどれだけ愛を養成し、発展させたかで、その人生が意味をもつ。逆に憎しみは負の遺産となる。多様的な愛のなかで平和が育まれる。逆に戦争などを企てる愚者はどんどん負の遺産を背負い、孤立していく。)
2013年12月18日
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さて、これから明らかになっていくが、自然においては、全てが絶えず何か別のものへと変容(移行)している、という事実が存在する。自然においては、全てが、ある出来事(事象)から別の出来事(事象)へと移行する傾向や、自ずと、別の出来事(事象)へと変容する傾向にある。 嗅覚は、どちらかといえば、人間の感覚の表面(最前線)に配置され、それよりも内側に配置されているのが、いま植物を例にとって話したが、味覚である。 そして、嗅覚や味覚は、エーテルが、アストラルに向かって拡がり、もしくは逆に物質へと硬化していく、という意味で、エーテルの経過である。 人間の感覚は、植物が外に向かい気化し、芳香を放つ経過に向かって進んだり、もしくは、芳香を放つ過程とは別の、植物が外界のなかで硬化に至る経過を食べて、味わうことで、内面化したりしている。 嗅覚や味覚を全体として注目すれば、いわば(人間にとっては)外と内の感覚が共に経過している。 自然においては常に、ある1つの経過が別の経過へと移行している。植物は芳香を発することで、硬化を免れているが、同時に、稚拙な表現だが、植物は、自らの霊性を大気中に発している。 この植物の霊性に感覚を向けると、大気中の芳香を発する物質には、植物の状態が、まだわずかながら残っていることがわかる。 外界で香りを放つ植物の芳香のなかには、植物の幻影[Schemen]が存在している。植物は、香りの幻影を送り出し、自身を、硬(物質)化の状態に至らせずに、未完(中途)な状態にする。 例えば、花になろうとはするが、花を完成させずに、気化的な未完の状態に止まる。 では、この香りの幻影を送り出すときには、本質的には何が外界で生じているのか? (陰陽の転換の法則、ホメオパシーの原理を知る者は、未完の状態に止まることを知る。完成させてしまうと、反対の作用に転じてしまうからである。日光東照宮は、天海という易や風水を熟知した僧に建立されたが、建物の多くが、未完の状態に止められている工夫が施されている。) すなわち、これは、燃焼の過程が止揚された状態に他ならない。 植物の芳香の変容を継続的に考察していけば、次のような結論に到達する。 「植物の芳香は、止揚された燃焼過程である。」 植物の変容において、燃焼が一方にあり、他方に、芳香の発生があることがわかる。その両者のなかに、両者に共通する統一体による2つの変容(陰陽)の形態が認識できる。言うなれば、芳香の発生のなかには、既に、燃焼の別の段階(止揚した状態)が存在することになる。
2013年12月17日
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八切史観によると、ほとんどの歴史が権力者の都合のよいように、マスゴミなどに捏造されてきたことがわかる。マスゴミが権力者の単なる宣伝媒体で、奴隷であることがわかる。 先日久しぶり漫才をみた。久しぶりに大笑いをした。大笑いしたのは「みのもんた」ネタをやった東京ダイナマイトの漫才であった。「生」でないと、恐らく編集でほとんどはカットされていたネタに思う。 ネット情報により、これまでのマスゴミの情報のほとんどが権力者の宣伝で、広報手段であることが明らかになった以上、ネットの情報に対抗できるのは、編集の及ばない「生」でしかないのではないか?と思われる。 権力者に心地いいおべっかをする太鼓持ちが芸人なのだろうか? それでは猿回しのサルではないのか? しかし、もはや「みのもんた」というネームバリューはかつての自民党お抱えのマスゴミ提灯持ち先鋭部隊ではないところに痛快な笑いというよりも、若干鈍った笑いというところかもしれない。かつての栄光が忘れられない欲ボケ爺という感じでもある。これがアホ政権への笑いならば、もっと痛快なのだが…。 さて、八切史観によると、漫才とは、権力者に差別されてきた被差別民が、権力者を呪うために生まれたそうである。つまり悪口や愚痴、ぼやきなのである。「いまでしょ」で有名になった塾講師の人が、シェークスピアは高等な悪口というようなことを言っていたが、古今東西、何処の人間も、権力には毒を吐くことで対抗するしかないのである。 イカやタコが毒を吐くことで、強敵から身を守るのと同じである。 言論の自由とは弱者に許される唯一の抵抗手段なのである。 お笑いの人は何を言っても許されるべきであろう。それがお笑いなのだから。お笑いの人を人気取りにしたり、政治家にしようとするから話がややこしくなるのである。笑わせるのが仕事なのだから、真面目なことを言ったらお笑いにならないし、真面目に受け取るのはお笑いを否定することになる。 政治家がお笑いの人になったり、またその逆を想定するからおかしくなるのである。政治家は人を笑わせる必要はない。政治家がお笑い芸人になったら政治家を辞めるべきである。それはその政治家が非常識であることを証明するものだからである。 例えば、ブッシュ(ジュニア)は歴代の大統領のなかでは一番笑われた人物だろう。ブッシュが国民から笑われた段階で辞めていれば、いまの米国の財政破綻もなかっただろうし、イラクで多くの人々が死なないで済んだものと思われる。ブッシュは政治家というよりもコメディアンになるべきだった。 不幸にもコメディアンの才能があったブッシュが政治家だったために、多くの人民が笑い死にではなく、悲しみのなかで死ぬことになったわけである。馬鹿とハサミは使いようで適材適所が重要ということである。以下に参考になる話を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ ひとりの怒れる男 http://blog.livedoor.jp/kaidanyawa/archives/54025964.html 中山市朗です。 日本は真実を語ることが許される国、ほとんどの人はそう思っているのでしょうか。 東北大震災が起こるまでは、原発に関して、反対論を呈することは非常に困難であり、勇気のいることでした。 私は以前、放送作家としてテレビ番組の構成に携わっていたことがありますが、ある漫才師が「反原発」を示唆するようなネタをオーディションでやると、「テレビ局は電力会社という大スポンサーで食うてんのや。そんなネタをやることは許せん」と局のプロデューサーにより却下されるところを何度か目にしました。原発に関しては、その安全性に疑問を呈するだけで却下、というのが何年か前までのテレビ界の常識でした。 また、私の知り合いのライターで、独自に原発問題を調べ、集積したデータをもとに、「原発は危険である」とした原稿を、いろいろな出版社にもって行くも、いずれも却下されていました。これは彼に腕が無かっただけの話しか? また、テレビのバラエティでは宗教に関するネタも却下されていました。 あるコントのネタの中に中国人が出てくるものがありました。私が見たところ、偏見があるとは思えません。日常にあるよね、みたいなスケッチを笑いにしたものでしたが「お前ら、中国人をバカにしてるやろ」とプロデューサーに言われ、若手の漫才師でしたが「そんな意味はありません。見てもらって、おわかりでしょう」と反論。 「いや、バカにしている。中国人を出すこと自体、中国人をバカにしている証拠や」「じゃあ、フランス人やアメリカ人だったらいいんですか?」と言うと、「それやったらOKや」。 結局、メッセージ色の強いネタはどんどん却下され、ほとんど内容の無いもの、女の子をひっかけました、だの、うちのオカンがね、だの、先生と生徒のやりとり、みたいなネタばっかりになっていくわけで、本来ある笑いの、権力を笑うだの、毒を効かすだの、今新聞を賑わせているニュースや事件に関して、笑いやブラックユーモアで呈してみる、ということができない、という現状がありました。 もちろんこれは、プロデューサーによる自主規制でして、プロデューサーによっては「やれ、責任は持つから」みたいな人もいたかも知れません。 原因は、もちろんスポンサーへの配慮というわけですが、ちょっとしたことで、難クセつけてくる視聴者が多いのにも問題があるようです。 テレビは公共電波を使っていますので「だったら見るな」とも言えないわけです。 ライブは、そういう規制がありませんけど。 原発に関しては、こんなことになってしまった以上、原発に対する疑問、反原発に関しての意見は幾分言える風潮になっていますが、今もなおはっきりと、原発産業に関しては、検閲が存在していることは断言しておきましょう。ただ、その検閲がいったいどこで、何者によるもので、どう判断されているのかがわからないわけで、そこが私には不気味に思えます。私が知らないだけかも知れませんが。 でも、一般の国民が知らされていない、ショッキングな事例、現実が、隠蔽されています。私はさまざまな事例を現地で取材し、見た、と言う人の話も聞き、資料も見ています。その資料を持ち出したことがわかっただけで、その人はおそらく何らかのかたちで抹殺されるでしょう。 抹殺といえば、一時の北野誠さんの謹慎。結局あれはなんだったのか? あれも一つの言論から出た問題でしょう。 自衛隊に関しても、これも東北大震災での自衛隊員のみなさんの献身的な働き、貢献が、目に見えたことによって、はじめて自衛隊を好意的に、あるいは肯定的に報道したり、意見をのべることができるようになりました。それまでは、自衛隊は憲法違反、自衛隊を擁護する者は戦争の肯定者、というレッテルが貼られ、マスコミはそれを極端に嫌ったのです。学校の先生たちははっきりと「自衛隊は憲法違反、戦争の道具だ」と子供たちに教えていましたし。 私自身、古代史の研究をやっていると、どうしても天皇だの、ユダヤだの、差別問題だの、タブーだのに踏み込むわけです。そしてそのタブーを開封することが、醍醐味なのですが「命、狙われますよ」といわれたことが何度もあります。 「捜聖記」を小説の体にしたのはそれでした。「四天王寺の暗号」は、そのあたりを巧妙に(?)避けつつ、暗示する、という技法が自分に身についた、という部分もありますが、書きたいことはまだまだあるのです。 以前、古代史を一緒に研究し、メディアで発表していた人物がいましたが、彼女のもとには公安からの執拗な電話や問い合わせがあったそうで、非常に怖がっていたことがありました。 今回、私がブログで展開している「いわゆる従軍慰安婦問題」から派生した、歴史の問題も、匿名ではなく私の正体まるだしで書いていくことに最初は躊躇しました。これを書くことによる、仕事的なメリットはありません。ブスッといかれる可能性だってあります。また、こういうことを書く人間を左翼を自認するマスコミがどう思うのか、です。私もマスコミの一端でメシ食う人間ですから。干される可能性だって無いわけではありません。 しかし、私のブログは、私の考えを正直に述べられる場所です。また、書かざるを得ない心境であったのも事実です。せめて、私のブログを読んでくださっている人たちには、考えていただきたい、と思うわけです。ですから、こうやって書いているわけです。 幸いなことに、妙なコメントや、感情的な意見もなく、皆さんの好意的な、あるいは賛同する意見が寄せらけれていて助かっています。いや、反論はあっていいのです。論理的な反論には論理で返します。それがほんとうの言論の自由ですから。しかしこれも、何年か前の民主党政権下のなかで書いていると、また違った反応や、私の書き込みをつぶそうとする者もいたかも知れません。 今は何でも匿名で意見が言えて、一般人が専門家やプロに対して平気で中傷し、叩きくことができる時代になりました。みなが意見を言える、というのは結構な時代に思えますが、実名で勇気ある発言をする専門家を、思慮の無い素人が、匿名でもって抹殺することだってできると考えれば恐ろしいとも感じます。 韓国ではあまりのネットの中傷に自殺したアイドルがいましたが、中傷に悩んでいるクリエーターは、私の周囲にいっぱいいます。そして辞めた人も実際いるわけです。それだけ専門家も研鑽を必要とされるわけでしょうが、でもだったら、何も言わない、しない、という人が安全、ということにもなります。 「鉄男」を撮った塚本晋也監督は、あるインタビューで「何も撮らないと何も言われない。撮ると、なんだかんのと叩かれる。撮らない方がいいのかな、と思ってしまう」と言っていました。 自由と言う言葉には、責任、という意味が含まれるわけですね。つまり、言論に関しては、言ったことには責任が伴うわけです。つい、口が滑って退任に追い込まれた政治家がどれだけいたことか。 しかし一方、匿名の言論には責任が伴わない。ここは考えどころだと思います。 匿名の意見はあっていいのです。 要は、節度の問題、マナーの問題。まぁ、ストレス発散したいでしょうが、そういう人のために、大型掲示板があるわけです。でも最近のあの掲示板、板によりますけど、情報量、質量ともすごいのがありますね。勉強になってます。 ☆ ☆ ☆ 笑いも規制される世知辛い世の中になったもんである。そのうち、お笑いも資格制度になったりするのではないか?
2013年12月16日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 磐城平五万国の安藤家の家臣だった、編者鍋田舎人こと晶山という人は役向きは不明だが、禄は五十石二人扶持の中流の素性であった。 校訂者の難波常雄は、数十年かけて晶山は嘉永年間に集められるだけのものを筆写したという。だから俗に言われる義士史料なるものは、この書の中に殆ど集大成されている。 世に伝わる義士話の全てのよってくる処は、この書の中にみんな入っているのである。だが、世情騒然としていた黒船騒動の最中に、東北人の晶山が何故に赤穂事件にそれ程迄に夢中になったかが、どうしても引っかかるものがある。 何しろ彼には「磐城誌」等の著書も他に在るからである。だから苦労して纏めた故人のことを、とやかく評する訳ではないが、嘉永元年になる二年前の弘化三年(1846年)に歿した伴信友との関連性を考えざるをえぬ。 伴は若狭小浜でやはり四十石どりの家士だったが、初めは本居派に弟子入りして、考証学派の泰斗となって「神社私考」や六国史までも手がけていたが、士籍を捨てて筆一本になってからは宮本武蔵をうんだ「二島英雄記」を書いて、これが芝居になってからは、今で言う流行作家になり、出しも出したり三百余点も刊行した。 だから鍋田晶山もそれに刺激されて「よし、わしも刀を捨てて筆一本で身を立て、考証主義の物書きになってくれん」と発奮して、元禄事件から二世紀も経ているのに苦労して、赤穂関係のものは硬軟取り混ぜて集めに集めて、この集大成となったのだろう。しかし伴信友のごとくベストセラー作家になれなかったのは、範囲が狭く義士関係だけに搾ったせいかもしれない。 それに「フナじゃフナじゃ」と芝居の台辞の中で言わせたのも悪かったようである。何故なら芝居の管轄は江戸では、弾佐衛門家支配だったので、江戸の人々は、〔フナは川魚の鮒ではなく、箱根以東では風間というのを三河当たりでは風那と呼ぶ。つまり風の如くか風の間をぬって走る神徒系の民で、元禄以降は反体制になった社のお札配りのこと〕とは良く知られていたゆえ、刃傷や討ち入りを弾圧への反撥と見る向きが多かったのであろう。 なのにそうした故事来歴を踏まえずに、沢山の忠臣が集まった倉庫みたいなものと、忠臣蔵の名前を付けてしまい、さも忠義の権化の如く扱われるのは、それは忠義を求める側によって推奨されたテーゼである。なにも、一般はいくら封建時代でも忠義で死ぬのを賛美する訳はない。 (明治帝崩御のときの乃木殉死についても世間では「単なる犬死!」という風潮が大半だったそうである。殺されたという説もある。) 今と違って昔は義士達の、惨めったらしい死に様がそれとなく当時人口に膾炙され、それへの同情が追慕の念を深めたのではあるまいか。楽をして平穏無事に畳の上で大往生を遂げたのでは、誰も気の毒がりはしないものである。また、殺されねばならぬような行為をして、それで処刑されたからといって、同情する者がいる訳はない。となるとである。 日清戦争で折角得たのに、三国干渉で遼東半島を返還したことに国民が憤慨した。そのため頭山満によって、浪花節語りの桃中軒雲右衛門が「義士銘々伝」として各地を講演して廻り、大いに日本人全体の復仇心を煽り一致団結させて、明治三十七・八年の日露戦争を勝たしめる結果となったゆえ、ともすれば、君に忠、親へ孝の道徳教育の教科書並に扱われ今日に到っているのは、如何であろうかと首を傾けざるを得ない。 同情と賛美とは全く異質のものである。毛利家の場合でも註をつけているが、細川邸での処刑でも、実際に吉良邸へ抜刀し不法侵入したのは、表門からの奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、片岡源吾、富森助右衛門の四名である。 裏門からは赤埴源蔵で合計五名のみなのである。他の十二名は武闘派ではなく、ただ戸外にあって上野介を討ち取るまでは邸内に一歩も入っていないで、塀の周りに立っていたきりなのである。 だから、いくら大公儀の権勢をもって、とはいえ、柳沢吉保が実際に人を殺した者達と唯の見張りだけの者までを、一蓮托生に死罪にするのは酷いというのが、当時の同情が集まった処だろう。義士たちは死後になってもてはやされても憐れな最期で悼ましい限りで、謹んで合掌したい。 【終わり】 ☆ ☆ ☆ このように赤穂浪士の黒幕は悪人柳沢吉保だったが、なにやら昨今の時勢をみると、吉良=中国、浅野=アホを筆頭とする日本、柳沢=ニセユダらの支配する米国、大石らの文臣派=自衛隊、松の廊下=尖閣、竹島、沖縄もしくは朝鮮半島のようにみえてくるから不思議でもある。 しかし、世間は、浅野には同情するかもしれないが、アホには同情しないであろう。アホは浅野というよりも、犬公方といわれる綱吉かもしれない。済州島出身といい、自らの高貴さを宣伝し、弱者嫌がらせの政策ばかりしているからでもある。 大企業=幕府ら支配差別階級、庶民=当時大半の被差別民と考えると、赤穂浪士の構図は現代にもあてはまるからである。かつてのイラク戦争も、フセインがクェートに攻め込んでも米国は何もしないという米外交官の発言に騙されことが発端だったわけで、ネットでは英王室の利権が絡んでいたこともいまでは明らかになっている。 なお、続けて赤穂浪士の真相を知りたいのなら、以下のサイトを参照するのがよいと思われる。一部抜粋して紹介する。 ☆ ☆ ☆ 赤穂義人纂書 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/gijin.htm こうした資史料を元に書かれた本に以下の物があります。「大江戸意外史」1975年刊(日本シェル出版)、「意外史・元禄太平記」昭和50年(潮出版)、これは公明新聞、日曜版に60回連載された「赤穂意外史」に修正加筆し、改題した作品です。 「元禄太平記」1974年刊(日本シェル出版)、これは箱入りで全4巻から成っており、綱吉、柳沢、内匠頭、大石、光圀らの実像に迫ったものです。通史、俗史を捨てて真の実存を知りたい方には一読をお勧めします。 この元禄事件とは当時のあらゆる状況から、権威に利用され操られ捨て殺しにされた、内匠頭や大石らの哀しみの物語に収斂されてゆくのが理解できます。◎町木戸の開閉の時間も稲垣氏の考証とは違ってます。◎吉良を討ち損じた場合、二段構えで家老の大野九朗兵衛が、鉄砲三十丁と火薬を用意して、米沢へ逃げるであろ う吉良を、山形湯殿山海道、米沢城下への入り口板谷峠で討つ計画だったことも書かれてます。◎討入り当日の吉良方の人数は家老の松原多中以下、足軽小者も入れて四十人。火事だと詐って開門させ、三人一組の五組が乱入し事。〔後に義士たちの刀の血曇りを調べた際、実際には五人の刀からしか発見されなかったのが本当のところ〕 三代将軍家光の食言に端を発した天皇家と徳川の確執、綱吉の将軍継承問題、光圀が京より将軍を迎えて、自分は武家を代表して副将軍になろうとした事実。生類憐れみの令とは何だったのか、仏教徒対神徒の確執、日本列島の基底を脈々と流れる枠外の民の存在。 由比正雪の乱、伊達騒動、別木庄左衛門たちの決起、これらは後水尾帝の院宣を拝した「まぎれもない討幕運動」だった事も判ります。 そして元禄時代とは「大平で文化絢爛たる時代」とする通説とのあまりの乖離に驚かれるでしょう。 柳沢の政策で大量に出回った粗悪な小判の為、悪政インフレと各地の大地震や飢饉に苦しむ当時の庶民たちの様子。 さて、八切史観は、歴史分野の学者や専門家が言っている事に対し、新しい証拠に基づいて、異なる視点で独自の見解、即ち自分なりの新しい付加価値を出した、とも言えるでしょう。言い換えれば、今まで在ったのに誰も気付かなかった物を見つけることとも言えるのでは。 いま、一つの時代が終わり、新たな時代が始まろうとしている。カオスのなかでの真剣な模索、それは、現代に生きる私たちの切実な課題となっています。いまほど「原点」からの出発が求められている時はないでしょう。私たちは、自由な、とらわれない目で全てのものを見直し、考え直して行かなければならないと思うのですが。 ☆ ☆ ☆ 本当の日本史、日本人とは何なのかを考えるべきときにきているように思われる。
2013年12月16日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ さて、今も昔も政治家はリベートというか賄賂の取り方が命取りになって失脚する。ところが柳沢は新造で浮いた小判を側近にバラ撒くから、今の司法当局にあたる大目付以下、皆意のままになる。だから足をすくわれることもなく、近世まれに見る大政治家であったとして、明治になると正三位までも追贈されもする。また、中村内蔵助は自分の手で小判を造るのだから、祇園の一力茶屋で豪遊。 金蒔絵の盃を配ったり、派手に金を使った。また彼の妻は、嵐山で衣裳比べというファッションショーの元祖までなし、関西では誰知らぬ者もない有名人になった。 『仮名手本忠臣蔵』は関西人の作ゆえ、京で著名な彼を舞台に利用し、判りやすく面白くさせた。本物の大石は田舎侍で伏見撞木町の安女郎や、江戸へ来ても一突き百文の比丘尼遊びで、現在の貨幣相場なら一晩で数百万もかかる祇園の貸切りなど出来ようはずはない。常識である。 さて論功行賞として京所司代小笠原備後守は加増されて老中職。京町奉行松前伊豆守も江戸南町奉行、そして砂田重秀は勘定奉行にと皆出世。『角川日本史辞典』の江戸期役職表を見ても一目で判るような大栄転をした。しかし吉良だけは高家という特殊な家柄ゆえか現ナマの小判の分け前は貰ったが、ただそれだけで止まった。大目付への役替えも空手形となった。これでは面白かろう筈はない。 「わしはおりる。隠居して米沢へ行く」と言い出したのである。今で言えば合法的であっても偽金作りの一味である。これを元禄の怪物柳沢が放っておく訳はない。 「江戸を避けて上方での鋳造が、うっかり吉良の口から漏れ、天下に広まっては御政道の為にならぬ。自滅させ処分する良き方法は?」と眉をひそめると、今は老中の小笠原が、当たりに注意してから、誰もが納得する方法として、「吉良殿は御長男が上杉十五万石の当主、娘御は御三家紀伊様へ縁づかれておられる。よって誰か田舎大名をそそのかして、喧嘩両成敗で自滅させるしかござりますまい」と進言した。 「今になって自分だけ抜けると言い出しても、表向きには圧力は掛けられませぬ。此方の手は汚さずに誰かに大義名分のつく....尤もらしい始末のやり方はござりませぬか」と砂田も賛成した。 そして江戸南町奉行松前の方へ顔を向けると即座に、「ならば恰好なのが居りまする。本所材木座火番の節、何時も自分が陣頭指揮をとるのが評判で、今は神田橋御門火消しの大役を拝しておりまする浅野内匠頭でござる」 「町奉行松前伊豆守の申すは可。火事好きとは喧嘩早い者とも世人は見ましょう。来る三月の勅使接待役につけ、吉良殿を後見にすればよろしゅうございましょう」と小笠原も賛成し、「我らが居合わさぬ好機を見計らい吉良殿を挑発するよう、大老の口から申付けなされば、たかが三万五千石の小大名め感激し、仰せの通りにすぐさま勇み立って実行に移りましょう」と答えた。一同もにっこり大きくうなずきあった。 家老は文臣、城代は武臣 「思惑は外れた。うかつ者の浅野はすぐ口封じに始末してのけたが、吉良殿は吾らの腹の内を見透かしてしまわれ、今では呉服橋門の屋敷に閉じこもって一歩も外へなど出歩かぬ」 「上杉よりの二万両もかけた堅牢な大屋敷。あれを取り上げ代わりに本所松坂町の近藤登之助の古屋敷を下しおかれましては.....」と小笠原が言えば、松前伊豆守も、「すぐさま御命令なされませ。 手前南町奉行所棒術師範堀内源太左衛門めの許へ、かねてより浅野の家臣が出入りしておりますゆえ、その者らを操って巧く致させます」 「そやつらを煽動して本所のボロ屋敷を襲わせ、吉良殿を今度こそ口がきけぬよう始末する」 「はあ、御老中の仰せ通りですが、小藩とはいえ文臣派の家老と、野戦の時は城の代わりに殿を守る城代の武臣派とが在りまして、すでに城代岡野杢助は直属の部下の主立った者らと、実兄の寄合旗本松平孫左衛門の許に来ておりまする」と町奉行は調べだしてきた一覧表を差し出して説明した。 「武臣派はまずい。組頭と組下は戦場で生死を一つにする間ゆえ結びつきが堅く、後で困る」 「文臣派ならば家老の大石にしろ、直属は若党二名に仲間一名位、算盤と帳面づけの徒ゆえ後の口封じは、さながら赤児の手をねじるにひとしいゆえでござります」 「そのようじゃな.....よしなに委せる」と柳沢は、小笠原と松前に命じた。だから依怙贔屓が露骨で、浅野浪人であっても文臣派だけは、本所界隈に住むのは黙認されたが、武臣派は松平邸に釘付けで、奉行所から見張られていて、他出するにも一人ずつ尾行がついた。 「あなた様、松坂町は朽ちた塀や出入口は厳重に改築しましたが.....心許のうござりまする」一歳年上の妻の三姫は夫上野介の身を案じ、実家の麻布狸穴の上杉屋敷から夫を出さなかった。しかし、隠居願いをいつまでも握り潰しも出来ず、元禄十五年十二月に渋々と許可。 だから上野介は妻に向かい、「米沢へ行けば二度と戻れぬ身。お別れの茶席など催したいのだが、まさか上杉屋敷ではやれぬゆえ、ろくに行ったこともない本所だが松坂町の邸へ行かしてくれぬか」と、逃げるような旅立ちは厭だと訴え告げた。 「一日だけなら心配ないでしょうが、絶対泊まりなどなさいませぬよう」やむなく三姫も承知。そして、十二月十四日に吉良上野介が本所松坂町へ来るとの情報は、老中小笠原らへ直ぐ知らされた。通説では浅野浪人は松坂町吉良邸見取図を入手するため苦心したというが、実際は<何時吉良邸へ来るか>の探索だった。 大高源吾に知らせて討入りの手助けした四方庵山田宗偏は、親代々小笠原の扶持取り。討入りの当夜、本所林町の紀伊国屋文左衛門持家の長屋へ顔を出した松前伊豆守の家来のような堀内源太左衛門。一緒に来て堀部安兵衛らに卵を一個ずつ手渡し、「これは、わが殿より精をつけえとり賜り物なるぞ」と恩に着せ激励した細井広沢も、柳沢吉保の二百石どりの家臣で目付役にきた模様である。 大老の柳沢は今で言えば総理大臣に当たる。つまりこうなると、ヤラセというか政府公認になる討入りである。だから一同は勇躍して、町奉行指図で通行自由の町木戸を次々と難なく通って松坂町へ向かった。 「われらは浅野浪人。決して付け火などして御当家へ迷惑など掛け申しませぬ」と、お上が後盾についていると思う気安さか、邸内に入らぬ面々は大声で呼ばわった。表門から奥田孫太夫と勝田新左衛門、矢田五郎右、岡島八十右、吉田沢右、小野寺幸右、片岡源吾、富森介右、武林唯七の三人三組。 そして裏門よりは堀部安兵衛、赤埴源蔵、倉橋伝助。杉野十平次、三村次郎左、菅谷半之丞の六人二組の兵隊らの特攻で、討入りは計十五名のみ。だから老人共や身分の高い三十二名は吉良邸外にいたが、降り出した雪で寒さが身にしみ足踏み位では堪らない。 そこで甘える如く年寄り共は、付近の旗本屋敷の表戸を叩き、口上を述べてから熱い白湯を振舞って貰ったり、手焙りを借りたりしていた。その頃狸穴の上杉屋敷では妻の三姫が心配し、「雪になったから泊まって明朝早く戻るとの、使いの者の知らせ故、夜明けに迎え駕籠を出すよう言いつけてあるが、気がかりよのう」横になって眠れぬまま、うとうとしている内に夜が白んだ。 そこへ侍女が「浅野浪人共が押込みをなし、引揚げてゆくところとか....」と、おろおろした声で告げた。 「わらわの鎧を持て。装束つけて夫の安否を確かめに行く」と一歳年上の妻は侍女に命じた。「一つ年上の女房は金の草鞋を履いても探せ」と後に云われるのは、この時の健気な三姫の振舞いからで、敵側にあたる赤穂義士史料大成の『義人纂書』にさえ、「吉良の女武者勇まし」とさえ在る。 江戸の治安は京の真似だが、将軍家光の頃、辻斬り防止のため当時の町奉行加賀爪甚十郎が街角に木戸を設け、施錠の具合を自分で夜毎調べて廻ったから、「夜ふけて通るは泥棒か、さもなきゃ加賀爪甚十郎」と番太共の唄にさえなったくらいである。元禄絵図を見ると本所松坂町から高輪の泉岳寺までの間に四十三カ所の町木戸がある。現代なら統一労働ストもあるが、江戸時代のことである。 町木戸の四十三人の番太郎が当夜に限って施錠を一斉にしなかったのは、直属大番屋の指図。つまり丁〔ひのと〕の十二月ゆえ南町奉行の月番だから、松前伊豆守の緊急命令と見るしかない。 この後に生まれた安藤広重も、町木戸が往復とも通行を阻止している筈ゆえ、陸上からでは討入りも引上げも出来なかったろうと、彼の忠臣蔵の続き絵では行きも帰りも大川から小舟に分乗、漕いで往復している構図は有名な絵ゆえ、見た人も多かろう。 「自訴」と今では恰好つけているが、途中で吉田忠右衛門と富森助右衛門の二人が当時の検察庁に当たる仙石伯耆守役宅へ行っているのも、実際は経過報告のためだったらしい。また泉岳寺へ引きあげてからも公認討入りのつもりか、湯づけを食してのんびりと沙汰を待っている。 通説が正しければ彼らは古畳でも積み上げて、追手を防ぐ応戦態度をとっていなければ辻褄が合わぬ。卯の刻つまり午前六時に泉岳寺に入った彼らは、夕方には十七人は細川家高輪下屋敷、十名ずつが久松愛宕屋敷と水野家芝切通し屋敷、残り九人が毛利家日ケ窪屋敷と、父子兄弟ばらばらに分けられ送られている。 「再仕官させてやる」とでも始めから甘言をもって釣られていたのか、やがては死に場所になるそれぞれの屋敷へ、さながらまるで仕官しに行くように勇んで行っている。到着してみて罪人扱いなのに大高源吾らは〔一杯喰った。柳沢にはめられた〕と、はっとした。覚悟をし、取りまいた儘でずっと監視し、弓鉄砲で囲んで見張りしているのへ、「われらは死を承知の者、逃亡など致さぬ」と抗議している。 しかし、二十代の者は夢が捨てられず吉報が来るだろうとふざけ廻っていた。『堀内伝右衛門覚書』によると、なにしろ当夜細川越中綱利が自ら下屋敷へゆき、大石ら十五人に逢っている。実にこれは残酷な話である。というのは、当時の習慣で、殿に目通りするのは仕官の顔見せ儀式。現代でも入社試験の時には見られぬ社長の顔も、本採用となると並んで拝めるのと同じ事である。だから若者達が鼓を打って戯れていたのも、既に本採用が決定しているものと思いこんでいたゆえ、将来に夢があったからである。 実際に吉良邸へ乱入した身分の低い軽輩十五人は死罪でも、邸外に居た他の者は死一等を減じ遠島処分というのが当時の常識だった。 「一名といえど生かしておいては、その口から他へ洩れては天下の大事である」と、柳沢吉保は家来の萩生徂来へ厳命した。彼は討入りの晩に激励の目付役に行った細井広沢と共に、当時の学会の権威に働きかけ全員死罪の意見書を提出させた。今のマスコミ利用である。 「義士である」と当時、赤穂浪人を讃えたのは、上野寛永寺五世大明院公弁親王だけだった。というのも上野の宮様は、生涯幽閉され窮死なさった後西廃帝の御子様ゆえ、あくまで吉良上野介を憎んでおられたから、まっ先に讃えたのだといわれる。 【引用参考文献】 八切止夫著「獅子の時代」・日本シェル出版 赤穂義人纂書・赤穂義士資料大成、、編集者「鍋田晶山」 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月16日
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八切史観によれば、江戸時代では表立って幕府を非難できないので、「秀吉」などの代用をたてて、批判したという。つまり、ときの将軍や権力者を批判する代わりに、秀吉を批判したという。このときに、秀吉は農民の出になったという。 前回は赤穂浪士の嘘を八切史観から紹介したが、面白いことに大衆はどうやら真相を知っていたようである。つまり、表向きに柳沢吉保を非難できないので、柳沢の考えにまんまと乗じたように、吉良を批判したのだが、裏では柳沢を小馬鹿にしていたようなのである。 赤穂浪士を誉めることで、吉良を貶めるのが柳沢の策略だが、むしろ、赤穂浪士の処分に関わった柳沢が貶められ、現代でも虚構の「水戸黄門」でも、柳沢は悪役の定番になっているからである。つまり弱者をいたぶる悪人の代名詞が柳沢なのである。次いで、賄賂で有名な田沼意次か、生類憐れみの令の綱吉あたりである。 面白いことに、ヤフーの知恵袋でも、柳沢吉保の悪徳ぶりが以下のように回答されていることで、柳沢は大衆を騙し、真相は闇の中に葬れたけれども、悪名だけは免れなかったようである。 ☆ ☆ ☆ 時代劇(特に水戸黄門)で、柳沢吉保はいわゆる悪人ですが、本当はどうだったんでしょうか? akio4naturellementさん ベストアンサーに選ばれた回答 noeinさん 何をもって悪人かと言うのもありますが、例えば柳沢吉保は賄賂を貰っていました。毎日大勢の人が柳沢邸を訪れ贈賄する人で行列が出来る程で、その人達を目当てに露店が出来ていたそうです。 またこの頃の幕府は財政が厳しくなったので小判を改鋳し、新たに元禄金と言う小判を作りました。これは今までの3両の金で5両を作ると言うもので少ない金で多くの小判を作ったので経済は混乱しましたが、吉保はちゃっかりとこの差額を自分の懐に入れ私服を肥やしました。 生類哀れみの令ですが、初めは厳しい法律ではありませんでしたが、吉保は「国法は厳正に行わなければならない」と違反者の徹底的な取締りを命じました。 このため「蚊を殺しただけで遠島」とか、「犬に噛み付かれた人を助けるため棒で犬を叩いたら死罪になった」と言う事態を引き起こしたのも吉保の通達によるものです。 小判改鋳で幕府はひとまず経済危機を脱したと言う効果もあり、吉保以外にも私服を肥やした役人は大勢いたそうです。賄賂は当時の風習では良く行われたことですし、生類憐みの令の違反者の徹底的に取り締まったのは国法を遵守した結果とも言えます。 現在の感覚では悪人と言われても仕方ありませんが、当時の幕府の習慣から見れば悪人と言えるかは判断付きません。 ただ庶民から見れば悪人だったと思います。 ☆ ☆ ☆ というように、柳沢が贋金つくりをしたことがなんとなく伝わっているから不思議である。しかも、水戸黄門の悪人だから、済州島(朝鮮)の血をひく綱吉の将軍就任に反対した水戸光圀の話にも通じているように、非常に面白い。さて赤穂浪士の話を続けて以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 哀れなり浅野内匠頭 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/asano-takumi.htm 毎年十二月になると年中行事の如くテレビ(昔は映画だったが)では”忠臣蔵”が放映される。また、本屋の店頭にも忠臣蔵関係の膨大な書物が並ぶ。さらに平成十一年一月十日からは、NHKで大河ドラマ「元禄繚乱」が放映された。 前宣伝としてNHK出版から何冊か本が出ているが、中には討ち入りを、「前代未聞の軍事行動」と書いたものもある。 後で触れるが、実際に邸内に入って闘ったのは五人なのである。これを軍事行動とは恐れ入る。 浅野内匠頭関係の本は三百八十点以上も出ていてまさに汗牛充棟、膨大な数である。しかし徳川体制下では事実は隠匿されてきた。 明治になると真相は解明されたか、といえば何のことはなく、国民の戦意高揚のため浪花節として流布されたにすぎない。 それを同時代の絵師安藤広重の赤穂義士討入りの十二枚の絵を見た八切氏は「おかしい、変だ」と疑問を抱いた。というのは討入り時の義士達が舟を使っているからである。どうも今まで此処に着目した人は居ないようである。 それから根底から調べ直し、資史料の提供もしてくれた浅野大学の遺孫から「よく初めて本当のことを書いてくれた」と浅野内匠頭遺愛の品、金蒔絵大盥湯桶を贈られたという。従来の吝嗇だとか短気による刃傷といった妄説を打ち消した事に対する御礼である。 さて「判官びいき」という言葉があるが、今では誤って義経の事になっている。だが、源義経は、幕末までは春本の『壇ノ浦合戦』の主人公で、建礼門院を水中から助けて狭い船の中でフライングを繰返したり、静御前には、「しずの小田巻くりかえし」と慕われる男になっている。 つまり一般大衆の目からは、やっかまれ、羨望され、ひがまれてはいても、憐憫の感情の余地などは無い存在だった。 では何を意味するのかと言えば『仮名手本忠臣蔵』の芝居が各地で上演されてから、一般が「お気の毒な浅野内匠頭びいき」と言っては、お上に逆らうことになって、罰せられる為、そこは庶民の知恵で、 「高師直=吉良、塩谷判官=浅野」の役名から取って「判官びいき」の言葉が生まれたと考えられる。これは常識で考えても判ることである。 つまり、今日の通説のごとく、浅野が吝でワイロを渋ったから吉良に意地悪されて刃傷したというのでは、芝居で「高師直が判官の妻に横恋慕し、叶わぬ想いの意趣ばらしに厭がらせしたのが発端」とするのと同功異曲で、色気と欲気の説得性が一般的であるとするだけで、果たして事実なのだろうか。 八切史観では浅野の刃傷に視点を当て、元禄時代という時代の断片を切取り、浅野内匠頭、大石内蔵之助、柳沢吉保、水戸光圀らの立場を考証しながら「元禄太平記」(四部作)として解明している。 さて、八切史観では歴史上美化されたり、誇大に評価されてる人物には、厳しい論評をしている。一方、汚名を着せられ無念の内に死んでいった多くの埋もれた人物に光を当て、その復権を成し遂げてもいる。この浅野内匠頭も見事に復権された一人である。果たして真相は如何に。 「.....この事、話しておくべきだったが、その余裕がなく」と言ったのが家臣への遺言として残されていると伝わる。 実際に田村家の者に伝言を頼んだのか、それとも不憫がって浅野の心中を察しての言葉かも知れぬのが本当だろう。とはいえ、芝居では見せ場としての切腹の場があり「由良之助はまだか、まだか」と、赤穂から駆けつけてくる大石を待ってから死ぬ。が、「長烏帽子を冠りたるままの御首級」とか「式服のままの遺骸を片岡源五右衛門は....」と『赤穂義人纂書』には明白に出てくる。 なにしろ前代未聞のことだが江戸城内まで網冠せの唐丸駕籠が入れられ、それまで坊主部屋に一人で監禁されていた浅野を乗せ、施錠したままで田村邸へ直行。「折角白半紙で張った場所まで至急にと、用意していたのに不用だった」との田村家の記録は、切腹どころか駕籠の錠を開けられ、顔を出したところを、バッサリ背後から打ち首にされたものらしい。早く口封じに始末するために、さっさと済ませたのである。 士分の者は口外しなかったろうが、田村邸の渡り仲間からでも真相が漏れ広まっていて、芝居になるといくら足利時代の設定であっても「塩谷判官」が浅野だと口コミで同情されたのだ。 元禄十四年三月十四日。京よりの勅使接待最期の日だった。 観能が始まる直前に、浅野は呼ばれた。大老詰めの御側用人部屋へと御坊主に案内され、何事ならんと敷居で平伏していると、「其の方を見込んでの頼みじゃ」と柳沢吉保に言われた。 「はあッ......」浅野はただ畏まった。「本日を逸する訳にはゆかぬ。手段は選ばぬ。其の方は抜刀しても咎めはせぬから、吉良上野介めに乱心させ鯉口を切らせるようせい。よいか一切他言は無用ぞ」との藪から棒の命令。 何故にか聞き返そうとした時には、もう柳沢吉保は立ち上がって背を向けていた。だから浅野は、介添えの家来に告げる暇もなく松の廊下で吉良を見つけて、「待て....」と扇子で突いたが睨み返され「これではならじ」と、相手を挑発するために脇差の先で額を突いたり肩へ軽く斬りつけて挑んでみたのである。 しかし賢い吉良は、その手に乗ってこなかった。騒ぎを知らされ、さては失敗とみてとった柳沢は観能の席から腹心の大目付仙石を呼び、即座に浅野の口封じを命令した。検分役を仙石が付けて出したのは、即刻始末させた浅野の首を持ち帰らせるだけのものだった。本当の刃傷ならば、身辺整理をして覚悟してきているから、一突きにグサリと刺すのが普通である。 やにわに体当たりみたいにして相手を仕止めるのが、武士たる者の心得である。千代田城刃傷は前後四回記録されているが、皆相手を仆し自分も大番組の者に滅多斬りにされて即死。浅野のごとく背後から組み付かれても未だもがき暴れて、未練たらしく、「武士の情けじゃ、そこ離せ」などと憐れっぽいことを言ったような例は全然ない。 もう一息で、堪りかねて吉良が刀の柄に手をかける、と見て取っていたから叫んだ、としか考えられぬ。つまり、何の理由や説明も無しに上からの命令で、浅野は吉良へ仕掛けさせられたが未遂で失敗。 柳沢は情け容赦なく約束を破って直ぐ監禁。二時間後に呼び出され、首と胴が別れてしまうのを憐れみ同情して「判官びいき」と世に言うのである。 事の起こりは、箱根から東は金本位制で一両が四分、一分が四朱。が、西は九州まで貨幣は銀本位制で何匁となっていた。つまり江戸では金はカネだが、三島から先ではそうではなかったせいである。 人皇第百十一代後西帝の生母が仙台伊達綱宗の生母と実の姉妹と判明。伝奏姉小路を使者に出したのは、王政復古の叛乱予備ではあるまいかと、柳生よりの探索報告で、足利の血統で京では顔の利く吉良が上洛して諸事処理した。そして、「帝不徳にして地震あり諸民苦しみ、よって退位を求めた為なり」と『皇運招胤録』ではしている。だが民が御所へ押しかける筈はない。 実際は吉良が運動して十歳の新帝を立て、仙洞御所に竹矢来を張るには費用が勿体ないからと、見せしめに今の京御苑に鳥小屋のようなのを建て、廃帝を幽閉してのけた。が、皇国史観では真相は発表出来ず隠された儘、今もそのままなのである。 「徳川家に野心を抱くごとき振舞いあるにおいては、何様であっても、かくの如しなり」と意気揚々と戻ってきた吉良を柳沢は招き労い、砂田重秀の発案を当人の口から聞かせた。 「秀吉が勲章代わりに鋳造した天正大判小判から今までの物を一切流通禁止にし、改めて京か大阪で銅をドンドン加えますれば、一枚が二枚、二枚が四枚と、天下の財宝は倍増します」と吹きこみ、「この役儀は余人には出来ぬ。京で威光のきく者でなくては.....」と吉良は柳沢におだてられた。また京へ行き、堺えびす島の中村内蔵助に金貨鋳造を任命し、京所司代、京奉行に協力させた。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月16日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 寺の都と呼ばれる程、京では各宗の寺が多い。観光バス廻りの現代では、石庭とか山門や色んな見せ物で拝観料をとって収益をあげる。しかし昔は、暇にまかせて筆のたつ坊さんが、もっともらしい由緒書を作ったり、空地に有名人の墓をたてて檀家や参詣人の布施を狙った。 仏教嫌いで、武田攻めでは生きながら僧侶をみな殺しにしたり、竹生島で寺詣りをした待女たちを憤り並べて手打ちにし、「終生、復興まかりならぬ」と比叡山では僧俗一人残らず全山の者を殺掠した信長の墓が、京花園妙心寺にあるのでびっくりしたが、観光客呼び寄せに、座頭市の墓を笠間にたてるのと同じで、儲けるためには真実の歴史は何もないのが日本人の国民性であるらしい。 茶せん髷をたてた信長が仏教嫌いであったように、利休こと理休も反仏であったことは間違いない。となると、各寺にある利休関係の由緒書は、いくら国学院教授のお墨付きでも真偽は問えない。だから茶人に尊重される<南方録>のごときは、常識をもってみるなら噴飯ものである。「茶湯」を由緒あるものにするための、その途ではバイブル扱いであるのは、道具の型録にコジつけだけ。 よって本当に心ある歴史家は問題にもしていない。そもそも茶湯とは南北時代には、ばさら茶とよばれる闘茶であった。 足利期では「書見台子」などと勿体ぶっても、しょせんは賭奕、蓋をとって茶柱が立っているのが勝ちという賭茶。各寺で開帳して一割づつの布施をとったのが,バクチの寺銭の起源。そして、『花園天皇記』や『師守記』にもあるし、『看聞御記』には、親王さまが一茶やるべえとギャンブル通いをなさった記載さえある。今日の「イッチョヤルベエ」の語源である。 が、庶民は寺へ入って賭けられぬから門前の店で丁半ならぬ茶柱博奕をやった。つまり腰掛けるから掛け茶屋となったのは後年で、賭け茶屋が起りである。これに対して神祗側でも、儲かるならと、赤い唐茶は仏教側ゆえ青茶を考案して、その混合がトガノオ産と他との割合を当てさせる「本非」とか「四種十服の勝負」といったのを始めたが、寺側のように固定客層がいないから、八坂神社あたりは弦召とよばれる下人が客引きに加茂川べりまで出かけた。これが今日でも使われるポン引きの語源だし、加茂で拾ってくるゆえ、「カモ」と上客をよぶのも今なお残っている。 つまり茶湯の起源は、今いうような高尚なものではなく、初めは賭奕。後には忠誠心テスト用で、現代では花嫁修行と恰好よくなっている。硬質陶器のノリタケチャイナが出来たのは明治になってからで、ただ土をこねたきりの信長や秀吉の頃の茶碗が、地震国の日本にも多く残っているというのは眉つばものだが、道具商とか御用歴史屋が各派の家元と組んで、もりたてて今日に至っているのである。日本では歴史は真実を追究するものではなく儲けの道具。 吉良上野介といえば芝居の仇役だが、今日の茶湯を考えたのは彼である。千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の千家では困る。そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、柳沢吉保が体制側の茶道を作らせた。 それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃へ送りこんで中和させるという、絶対安全な喫し方を考案したのも吉良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創立させたのも上野介である。 つまり、このために、まだ知らぬ人も多いが、「茶」ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合する為の製品は、現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握っていて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定まっている。 なにも吉良上野介が生前に善政をしいたから三河では「忠臣蔵」の芝居を上演させないのではなく、現代でも抹茶の利益で儲かっているから吉良さまさまなのである。コーヒーや紅茶と違って、泡消化器や粉石鹸に入れる泡の原料のポエムや硫酸ナトリウムの加工物を入れる抹茶は、非衛生的であると外人には嫌われる。日本に来て活花を習うのはいても、抹茶をやるのは絶無である。 三船敏郎が海外向きに製作した映画で失敗したのも、野立ての会で抹茶を喫する場面が愛想をつかされ、向こうの配給会社にそっぽをむかれたゆえと伝わるのも、むべなるかな、そのせいである。 いわゆる利休が茶道の祖なら表千家が栄えるべきなのに、今も裏千家が取って換っている。 幕末まで唐茶でない青茶は限定地栽培で、狭山事件で有名な狭山とか久能別所の清水と定まっていた。 また、堺を自由都市と歴史家は説くが、今の香港とは違う。えびす地はどこでもそうだったが、堺も除地として幕末まではずっと領主や代官から干渉されず年貢をかけられずにすんだのである。<野史辞典>には、サカイ人なるものの別個の研究すらもでている。 (終わり) ☆ ☆ ☆ というように、八切史観によれば、全く出鱈目の創作を教えられ、それを日本史と思っている現代人が多いそうである。 八切史観によれば、「利休」とは渾(あだ)名で、ただ同然の竹などでつくった道具を暴利で売って軍資金をつくったので、秀吉が大陸攻めをするにあたって、後顧の憂いをなくすために、反乱しそうな千宗易を殺したので、口の悪い連中に「利が休みになる」という意味で、利休と名づけられたのが、江戸時代の茶の利権をもっていた吉良家により、商標みたいなものになり、高尚な千利休という茶人が作られたというのである。 山上宗二も茶人ではなく、幕末の弾左衛門のような存在だったようである。幕末に薩長の官軍が勝ったのは、弾左衛門が部落解放の西郷に味方したという話があり、彼らの勢力が権力者でも、無視できないものだったことがわかる。明治政府ができて、身分制度を改め、秀吉の刀狩みたいなものをはじめてみると、それらの勢力の人口が意外に多かったので、反乱抑制のために、対外的な戦争に突入したことでもわかる。 対外戦争をはじめるために創作されたのが赤穂浪士と宮本武蔵で、八切氏によればどちらも出鱈目であるという。冷静に考えてみれば、宮本武蔵が戦国時代の英雄であるなら、槍でなければおかしいし、武蔵が関ヶ原の戦いに参戦し、敵の子供の投げた石により、足を負傷し、戦うどころではなかったという話も残っていて、実際は、武将どころか、足軽の身分で、五輪の書なども創作であることがわかる。 また、以前紹介した八切史観では、赤穂浪士の顛末は以下のような柳沢吉保の悪事であることがわかっている。 ☆ ☆ ☆ 京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。 失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すにのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。 それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。 それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」、「元禄泰平記」、[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。 ☆ ☆ ☆ つまり、柳沢吉保が、贋金つくりが露見するのを恐れ、吉良を、浅野に処分させようと、浅野が因縁をつけ、吉良に殿中での抜刀を試みさせるが、吉良が抜刀しなかったので、慌てて、柳沢が浅野を呼びつけて、浅野が抜刀したことにして、浅野を処分し、吉良に全てを押し付けるために、浅野家の武臣派では大事になるので、大石らの文臣派に吉良を襲わせ、切腹を申しつけ処分するという悪事だったことがわかる。 浅野が抜刀したのではなく、吉良を抜刀させようとしたことや、武臣派ではなく、文臣派であること、そしてなにより、柳沢吉保の贋金つくりを隠すための吉良の口封じのために行なわれたことが重要な真実であることがわかる。 八切史観の赤穂浪士については、他にも詳しく載っているので、続けて紹介したい。
2013年12月13日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ さて、今で言う官途にこのエビスの者が就こうとすれば、後年の踏み絵のごとく、頭を丸められてから「ナムアミダ」をくり返し唱えさせられてから、その名も○○阿弥、というように転向者と判るように付けられた。 それでも警戒されて武士には登用されず、活花、画師、などの無難な役目に限られていた。何しろ自由人として商売するには、官界に渡りをつけるしかないのは、今も昔も変わりない、まこと体制べったりでなくては生きて行けぬお国柄が、この国である。 堺の者は別に足利家に仕えるためでなく、足利家の三好衆によって阿弥名を貰い、商売をしていた。勿論限定職業である。 利休とよばれる宗易の祖父にしても「千阿弥」だった。「同朋衆」と呼ばれたのは、えびすから常人扱いされ、彼らも同胞並になった衆との意味である。しかし織田信長の出現で世の中は変わった。下克上という世変わりである。 近江八田別所出身の後裔で、拝火宗の多い尾張を地盤にのし上がった彼は、商売の権利をヤ衆にだけ許可し、三好衆庇護で勝手に商売している堺に対しても、蜂屋頼隆らのヤ衆を差し向けて、これまで勝手に商売していたのはけしからん、と今までの落とし前に二万貫の請求をした。 が、限定職業の皮革業や魚屋、染料屋、鋳物屋の堺では、信長がヤ衆に商売を限定し、ヤ号をつけさせ、近江屋、尾張屋とさせているのが判明すると、自分らも元来はヤ衆だからと妥協した。 信長も後に堺とマカオ間に硝石輸入のため、海流を利用して年一回の定期航路を開くぐらいだから、堺衆が竹で茶筅を作り出すと、次男三七の後の信雄に「茶筅丸」と命名している。 己の前頭部が禿げ上がってくると残りの毛を棒のように立て、茶筅髷と名づけて流行させた。信長としては「天下布武」の計画に彼らの協力を得るための、同族間の信頼獲得の手段だったろう。 信長が死に秀吉の代になると、利休こと宗易宗恩夫妻を叛乱予備罪で刀狩りの後で始末し、その与党を区別地へ押し込んだ。ゆえに今でも岡山当たりでは未解放地を「茶せん」とよんでいる。 堺衆の者たちが、かって心ならずも、先祖が阿弥を名乗ったのを恥じらい、詫びの茶を始めたので、信長は自分も応用する事にした。 〔現代はワビ、サビの茶として権威あるものとされる。が、虐げられ続けた原住民が、悪党と罵られながらも武者働きして、一城の主になったり、商人として成功し、店の一つも持てる身分となった。祖父や曾祖父の頃までは山間僻地で苦労してきた、その頃を忘れぬように反省し互いに協力し励まし合うため、侘びしく静かな、先祖を偲ぶ寂しい茶湯。この精神がワビ、サビの由来である。〕 なにしろ戦国の世である。かっては忠誠を誓い、長子新五郎に信長の重臣明智光秀の長女を貰い受けた荒木村重でさえ、美童の万見仙千代を信長が奪ったとなると、叛乱してくる時勢である。 「いくら血判を押させたり、神祇誓文を呑ませても口先だけの忠誠など信用できぬ」と信長は茶室から逃げ出さぬようにし「にじり口」と呼ぶ狭い出入り口を考案して、忠誠を申し出て来る者らを集めると、 「わしが点てる青茶を服すがよい」と試験をするのに応用した。 古今東西木の葉は植物で、茶の葉も摘んで干して日が経てば枯れて黒ずむものである。だから眼前の青茶を見て〔銅鍋にわく緑青でも混ぜなくてはこう青黒くなるものではない。うかつに一気に飲みほしたら腹が痛み出しておっつけ死ぬかもしれんぞよ〕と皆怖じ気を震い、ゆっくり三口にも四口にも分けて服用した。 つまり茶席が今も厳粛なのは、死の儀式でもあったからである。 亭主と呼ばれる側は茶をたてるだけで、「乾杯」と絶対に一緒に呑まぬのは、茶席に招くのはなにも互いに親交を温める為でなく、御馳走するのでもない。(信長により)ただ忠誠心をテストする試験だからである。 さて緑茶はそれ程には猛毒ではないが、胃腸疾患のある病弱者は死んだ。伊達政宗が小田原陣へ降参をし、忠誠を誓いに行った時も、先ず底倉で青茶テストをされたが、若くて元気がよく無事であったという。 それゆえ始めは本家本元の堺衆は順繰りに、茶頭の亭主役から、かって阿称名を貰った者やその子や孫が服用し、時に胃弱な者が、それでばったり急性で倒れたりすると「たたりじゃ」と先祖に対するお詫びの茶の意義を強めた。 信長を真似た秀吉や家康も風流や数寄ではなく、あくまで自己保全のための信頼テストに利用し、やがて武家社会に広まったのだ。 (茶席に呼ばれるのは忠誠心が疑われていることになる。) 「わが母は亡き後奈良帝の寵を受け身ごもって尾張へ戻って産んだのが、この秀吉である」と時の正親町帝に譲位を求め、皇太子誠仁親王が邪魔だからと、はしかと言う事にし急死させた秘話は、奈良興福寺の多聞院英俊が書き残している。 しかし、天変地変が次々と続いて「故親王の祟りなり」と山科言経に言われた秘話は私の「真書太閤記」「秀吉と女たち」に詳細。 秀吉も十六世紀では迷信には勝てなかったのだろう。「やむをえぬ」と親王の忘れ形見の後陽成帝を立てはした。 だが折角京の中心を取り壊し、己の新御所にと建てた聚楽第が無駄になるからとそこで秀吉は大陸進攻をを考えた。 【紹介者・補記】 秀吉の野望は自分が天皇になって、豊臣天皇として新皇統確立を目指したものと思われる。公家とは元々が大陸からの征服者の系統だから、大陸に帰ってもらう。だから朝鮮は通り道としただけで、占領する計画は無かったと思われる。 侵略を美化したり正当化するつもりはないが、世に征韓の役と言われるものの実体はこうなのである。秀吉はライバルであった明智光秀が、信長の急死の後、征夷大將軍の勅をかしこき当たりから貰っていたという事実があったので、その後塵を拝すのを嫌って「それならわしは天皇になったる」となったのだろう。 大陸系の公家連中を排除するのに、なにも大陸進攻までしないで、隠岐や対馬へ島流しにすれば済むようなものだが、大明国突入という無謀な戦争を起こした事は失敗である。しかし秀吉も日本原住民系の出身だから、占領され、奴隷化されていた民族の復仇戦と見れば頷けるものがある。 「帝には北京を中心に四カ国、公家の連中にも向こうで一国ずつ進上し、日本は秀吉の国となす」と遠大な計画をたてた。 さてそうなると、後顧の憂いを取り除き挙国一致体制をとる必要が出てきた。その為に先ず叛乱防止のために刀狩りと称し、密告制をとって庶民の武器を没収した。さて、五世紀から七世紀にかけて大陸から進攻してきた連中が、白人がキリスト教をもって有色人地帯を押さえたように、(秀吉が)西方極楽浄土の教えを持ち込んだのに対し、日本列島の原住民どもはこぞって次々と反抗した。 (反仏がスローガンなのに、また仏教が布教されたので、原住民が離反した。) 山中や離島へ逃げ込んだ彼らの子孫が、足利期にできた被区別地の末裔と一つになった。アメリカで南北戦争の後、解放奴隷のアフリカ人が追われてインディアン居留地へ逃げ込み合体したのと同じ事である。 そして、「山がつ」と呼ばれる山者はウメガイとよぶ彼らの山刀を「ささら」といわれる竹細工の箕の直しも、青竹割の刃物を商売道具として、秀吉の命令を聞かず手放さなかった。 さらに、京の周辺の桂や白川の者らも堺の者と共闘体勢までとりだした。「これでは従来の古ぼけた御所の代わりに建てた聚楽第さえ、大陸遠征の留守の間に奪われかねぬ」と秀吉は、まず堺衆の山上宗二が八瀬大原の者らと結託していると聞き、召し捕って拷問にかけ「しゃつら見るだに憎々しい」と耳をそぎ、鼻を削った生首を見せしめに堺のえびす口の門へさらさせた。 つまり利休こと宗易が、かねて竹細工の道具や瀬戸のカトウ衆の同信心の者らに焼かせている黒碗を、彼が高値で売り捌いているのは、彼らの軍資金集めのためと密告があったからである。 通俗歴史は、秀吉が利休の娘に惚れたのに拒まれたから殺したと説明し、その「お吟さま」で直木賞を取った人もいる。 しかし彼女は未亡人ではなく万代屋新太郎宗安という、れっきとした夫と四人の子も居たのである。少女趣味というか十代の若い娘が好みであった秀吉が、四十に近い女への横恋慕はおかしい。今も昔も男の好みはそうそう変わるものではない。 資力や人望からみても、利休こと宗易が反乱軍に担がれるものと秀吉は見たから殺したのだし、妻の宗恩が蛇責めの拷問で死んだのも、今で言う地下組織を白状させようためではなかったかと「利休殺しの雨が降る」に私が書いたのは、当時の伊達家の「鈴木文書」に、「戻橋に八付にされる」の一行を見つけたからである。それで徹底的に調べだした。 張付と呼ぶ死刑方法は信長がキリストの画を見て、始めて真似させたものだが、手首や脚は荒縄で縛っての刺殺だった。ところが秀吉の代になって寺側から政治献金を受け取り出すと、反仏教系のヤ衆とかハチと呼ぶ日本原住民系の処罰には、手足を縛らずに太釘で打ち付ける残酷な方法を始めた。これを八付とよんだ。 木像とはいえ釘を打ち付け曝したというのは、秀吉が彼を原住民子孫の過激派とみなした証拠である。茶湯開祖として温厚なワビスキの利休居士は後年の儲けんがための者らの作為で、実像はレジスタンスの指導者だったらしい。 大陸遠征準備に新開発のチリ-硝石入手のため呂宋へ助左を派遣したものの失敗した秀吉は、従来通り島原の口の津で硝石輸入をする必要上、交換輸出に原住民系の人間狩りを徹底的にやったらしく、それへの反撥が日本原住民系の神祗の連中の不穏な形勢になったらしい。でないと、ここの辻つまが合わない。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月13日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 一戸~九戸の地名の由来 坂上田村麻呂が閉伊族〔閉じ込められたイの付く部族の総称〕を押し込めた九段構えの関。箱根より東はアカン、アキマヘンが、イカン、イケマセンになることから分かるとおり、イ族はアマの朝の末裔。 石川啄木の歌が物悲しいのは閉伊族の裔だから。イのつく部族はイの一番に奴隷化された。伊沢、伊治、伊具、岩手、石巻、石背、石城。八のつく民は天の朝の部族長クラスで反抗勢力に。 肥人→非人に 元は神代日文四十七文字を使う人々 肥人は肥後の人ではない。日高の民、飛騨の民など、ヒの付く民。もっと言えば、神代文字、日文四十七文字を使う人達。そういう意味では鹿島神の苗族人も肥人。肥人→非人に。やがて、天の朝の裔のヤが付く民と共に反抗勢力となる。 天の朝はペルシャから来たのか? 神代日文四十七文字は古代ペルシャのスメラ語のスペリングに似ていて全く同じものもある。その地にはスメラ(シュメール)山脈、スサノオ山系がある。(!!!)日本イラン文化研究所によれば16枚の菊があるのは世界でココだけと。 「天皇」とはシュメール出身の逃亡奴隷?? 彼の地では逃亡奴隷のことをミーコトと呼ぶ。スメラミコトとはシュメール出身の逃亡奴隷。紀元前三世紀には今のイランの首都がスサであったし、彼らの拝む神がGIONであり、ミソギする河がヤサカだった。 (シュタイナーは、古代イランの北方にツランがあって、ツラン民族の特徴を語っているが、それが、日本人と非常によく似ている。) 平とはペイ。ペイルシア〔ペルシャ〕 源平の争いは古代から 古・平氏〔北条氏とか〕は天の朝の末裔。やがて騎馬民族の崇神朝に押される。崇神系も唐出身の藤原氏〔唐源:トウゲンの当て字〕によって被差別側、第二の原住民勢力に〔源氏〕。 新・平氏〔忠盛、清盛ら〕は忠盛の時代に熊野に漂着。乗ってきた筏の木と金具で三十三間堂の建設に貢献し、登用される。壇の浦の後、新平氏は高野聖等に。源氏の時代が来るが、古平氏の北条氏に追いやられてしまい、俘囚地に戻る。 秀吉は猿顔ではない 信長は「猿女〔さるめ〕」と呼んでいたのだ。猿女とは元は反体制派の部族の名〔猿女の君の末裔かな?〕で、女上位だった。なので、幕末までカカア天下のことを猿女と言っていた。 (秀吉は、「禿げ鼠」と呼ばれていたようである。八切史観からみると、大河ドラマなどは出鱈目のオンパレードなので、見ていられなくなる。ドラマに洗脳されている人からすれば、夢「洗脳」を壊すので、八切史観は逆に嫌われる。) 「近江商人」とは蔑称だった 商人は天の朝の末裔、矢の弥〔八〕、ヤのつく民の職業。なので今でも○○屋とか屋号とかいう。信長の楽市楽座は自らの出自、原住民系の優遇策。他の身分の者には商いを許さないものだった。近江商人とは、安土に本拠を置いた信長の死後に生まれた第四の原住民系への蔑称。〔平氏、源氏、蘇我氏、工商〕 関東平野は原住民系が圧倒的に多い よって関西より差別が少ない。また原住民系から新田義貞が出て、その系統から世良田→徳川が出た影響もあるだろう。とはいえ、弾左衛門差配の都合から、故意に特殊な扱いをされてきたケースもあった。 (この差別は京都をみればわかる。「一見さんお断り」などは最たる例で、被差別民を差別していた名残と思われる。京都人は色々と理屈をつくるが全て嘘八百であろう。有名料亭が食品偽装をやっていたことなどでもわかる。) 徳川家の秘密 新田一族の一つに世良田二郎三郎というのがいた。これが松平蔵人元康の後家・築山御前に近づき後釜に。後の徳川家康。(築山御前の)連れ子の信康(元康の子)を殺したのが信長にバレた。信長は信康を実子のように可愛がっていたため、身の危険を感じた家康は斉藤内蔵助をそそのかして本能寺の変を誘発。(後に系図で元康→家康に改変) まさにその日、織田軍は四国征伐に向けて渡海予定だった。斉藤利三は妹〔長宗我部元親の妻〕の窮地を救ったわけだ。 徳川は3代目から血脈が変わった 明智勢は豊臣勢に敗れ、近江坂本城が落ちた。その際、光秀の孫が城の裏手から延暦寺に落ちのびた。この孫が後の天海僧正。春日局〔斉藤利三の娘〕とは幼馴染で、後に再開した2人の間に家光が誕生。 2人の逢瀬の少し後に、利三との「血筋は絶やさぬ」の約束を守るとの口実で家康も春日局とイイ仲に。なので家光を自分の息子と勘違いして、表向きは秀忠の子ということにして、三代将軍に。 そういうわけで、徳川は2代目までは俘囚郷・新田の原住民系だが、3代目からは仏教徒。仏教優性に。4(5なのでは?)代目綱吉の生類憐れみの令は動物愛護ではない。平和な世になって活躍の場が無くなった騎馬民族系原住民が皮革業に活路を見出していたのを抑圧するため。 警官と軍人の素性 強いからなるのではない。(貴族に)命の危険があるから(貴族からみれば)捕虜・奴隷の用途だったのだ。 (現在も冤罪が絶えないのは、貴族の罪を、被差別民のせいにして殺し、見せしめにしたため。だから、明治維新のときに、警官「岡引き」がこれまでの怨みで真っ先に命を狙われたという。いまでも警官は不浄の役人といわれる。) 日本原住民系は女尊男卑、千代の名の由来 男が強かったのは南北朝時代の一時期のみ。千代は江戸時代まで男の名。由来は女から犬みたいに「チョっ」「チョっ」と舌打ちして呼び付けられていたから。俘囚の裔の武家に松千代とか竹千代とかいう幼名が多いのはそのせい (原住民に「千代」の名が多いようである。君が代の八千代「やちよ」は、古代ヘブライ語では、ヤハウエの民という意味らしい。「ちよ」は民という意味のようだ。 君が代では、「八千代に」の前に「千代に」があるが、古代ヘブライ語では、シオン「GION」の民という意味がある。だから、「千代に八千代に」は、GIONの民よ、ヤハウエの民よ、という意味になる。) ☆ ☆ ☆ というように、八切史観は日本史の裏話を教えてくれる。さて、続けて、上記の話でも出てきた千利休についても、以前紹介したと思われる裏話を抜粋紹介したい。 ☆ ☆ ☆ 茶の湯は死の儀式 【千利休】 千利休(後付けの渾名)〔1522~1591〕父与兵衛亡き後19歳に与四郎の名から千宗易と改名。家業の乾魚問屋をつぎ、25歳の時長男道安をもうけ、後同年生まれの少庵を連れ子にした宗恩と再婚。 天正19年に大陸遠征の後顧の憂いをなくすため山上宗二につぎ、家元の彼も秀吉に殺され、妻宗恩も石田三成の兄木工頭正澄に蛇牢で拷問死と「兼見卿記」には出ている。 「千」の姓は、先住民族の「先」をとったものである。今でも出雲大社や隠岐の神主の苗字になっている。「安来千軒」というのも数多く家があったというのではなく、先住民地帯を指すのである。 さて文禄四年八月と言えば、追捕を怖れて逃げ隠れしていた千少庵とて五十歳である。そして利休と今では呼ばれる宗易が殺された時は四十三歳。なのに柴野大徳寺を訪れ仙岳宗洞に対して、「利休とは何どっしゃろ」と質問。それに「あんさんの親父のことやないか」と答えたのが尤もらしく「利休号頌」の一輔となって裏千家の宝物として現存。 またそれから十年後に、秀吉が死んだのでほっとして宗易の実の倅の道安が、飛騨の高山から戻ってきて、やはり春屋宗園を訪れて、彼に同じように不思議そうに、「いったい利休とは何や」と聞きに行ったと國學院派の茶道具歴史の大先生は<一黙稿>なる本に入っている話しだから真実なりと説明する。 しかし、ともに四十三歳の時まで父とは一緒だった腹違いの二人の倅共でさえ知らなかった利休名は、とても生前の天正十九年までは実在しなかったものと見るしかなかろう。つまり「利休の手紙」等という本もあるが、手作りつまり贋作ものと見るべきだが私が読売新聞の連載や「茶の湯は死の儀式」で明白にしてから、道具やさんに出回っている昨今の物は「休」一字署名のものが多くなってきた。 というのは生前の宗易夫妻と親交のあった吉田神道の神祇大副だった兼見の日記にも、皆彼の事を「理休」としているゆえ、利休署名は作り物だと証明されたからであるらしい。 それまでの茶というのは、足利時代から卓を囲んでの茶は、中国渡来の唐茶で、道具類もみな明国の舶来品に限られていた。 それなのに、堺の皮屋松屋らが始めだした新しい茶湯を、千の宗易が引き継ぐに当たって「ささら衆」と呼ばれるヤ衆の者らに、竹細工で茶筅、なつめ、花挿し、まで作らせて売り捌きもした。 だから茶道具商売の者らが、「ただみたいな竹で作った物を高値に売りおっが、死ねば儲けもふい、利は休みじゃろう」と冷やかして死後に付けた渾名らしく、「名利共休」とか「名利頓休」等と苦し紛れの引用もされるが、これらはみなこじつけにすぎない。 利休居士の名を下賜された旨が「顕如上人貝塚御座所日記」にも出ているが、後年の加筆であろう。伝奏役でそうした扱いの担当官だった公家の、「吉田兼見卿記」には一行も出ていない。 つまり、世界に比類なき宗教的とも言える日本独特の家元制度。それは茶道具で儲ける商売人や、その御抱え歴史屋が結託して、勝手に虚像を開祖にして神聖化しているだけの話しである。 現代の差別被差別制度が一般化したのは足利後期からである。だから当時としては「御先祖足利尊氏様の創業に反対し邪魔した悪党共の子孫を区別地に入れてしまえ」となったから、明治までの未解放地帯には、菊水とか楠木、湯浅、新田、足助の地名が何処にも残っている。 (伊藤博文に招かれた)ドイツ人アドルフ・リースによって指導された明治史学は、楠木正成らだけをスター扱いにし、銅像にもしたが、俄か歴史屋共の悲しさで、その子孫や郎党の末裔の解明は全くなされていない。 さて、十五代続いた足利時代にあっては、旧南朝の方の子孫だけでなく、反仏教派の神信心派が居た。「祇」と呼ばれる拝火教徒も同じ扱いをされ「えびす」として区別していた。 堺は今でこそ町名が普通についているが、幕末までは一括して「えびす島」と呼ばれ、町割りは東西南北を上に付け、各町ともにエビスがついてよばれていたのは古地図で見ると明白である。つまり幕末までは特殊部落の土地だった。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月13日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 御家大事でビビっている大名を白井小助指図の將門記の書き写しで、うまく開戦前に啓蒙開発出来たものの、人口の八割を占める彼らの大衆動員がなくては民衆と乖離した革命などは有り得ないのである。 今では信じられぬ事だが、幕末までのお伊勢様は「北条まん子様の宮」と思いこまれていた。この当時の無銭旅行である「オカゲ詣り」は「お庇げ詣り」ではなく、本当は日影の民とされた連中、陰の民の「お陰詣り」だった、のである。 道中では同宗、同族の越後屋や鴻池などの大店がシンパとしての資金援助があったから彼らは旅行が出来たのである。 「お札ふり」と称し「伊勢皇大神宮」の御札の版木を沢山彫って、それぞれに持たせ、宿場々々で上からまき、四つや八つの大衆動員に役立たせ、「ええじゃないか、ええじゃないか」と北条まん子様が蘇って世変わりするのだと男は白粉をつけ女のべべを着る。 女は反対に男姿で練り歩き、宮の札だから祟りがあってはと怖れて、お払いに町の年寄りが地酒の樽を持ち出して振舞ったから、彼や彼女は振舞酒に酔っぱらって、宿場全体をデスコみたいにしてしまった。が、この大衆動員は大成功。 それゆえ街道の庶民に示す感謝の歌が、まさかヤジさんヤジさんの呼びかけではまずいから「宮さん宮さん」と呼びかけを変えて行進歌にし、東海道を礼をのべつつ、西軍は勝ち誇って下っていった。 〔紹介者・補記〕 日本人は何かと言えば直ぐに紅白に分かれたがる。紅白歌合戦や運動会も然り。というのは無理もないことで、これは民族の色なのである。源氏は白。平家は赤。大陸よりの仏教系は黒と決まっていたからである。 だから維新戦争の時薩長の官軍が頭に被った紗熊を赤白に統一したのもおおいに訳ありで、源氏系の多く住む地域には白の部隊を先頭に立てて進み、平氏系の多い名古屋あたりは赤を先発とし、源氏と平氏の子孫の庶民の支持と協力を得て維新を成し遂げたのである。 というのは、彼らには《同族は撃たず》という民族の不文律があったからで、西南系の薩長には、偽金造りといい、大衆利用といい、頭のよく廻る悪知恵者揃いが居たものだと感心させられる。 結局薩長は彼らを巧妙に利用して維新成就はした。そして太政官と並んで神祇省を設置し彼らの労に報いた。八と四つの民は、「やっと差別から解放される、わが世の春が来た!!」と歓んだのもつかの間、全国の仏教勢力は金のない東京政府に膨大な政治献金をし、勢力巻き返しを計った。 そして裏切った薩長は彼らの叛乱を恐れ、表向き移民といえば聞こえは良いが、内実は棄民政策で報いた。 女は性業婦としてサンダカンやベンゲネットへ、他は樺太や北米、ブラジルと数百万を海外へ放り出した。結局部落解放はかけ声だけで、差別問題は現在にその影を落としている。「明日が来るを信じて」一身を捨てた名もなき草莽の無念さに想いを馳せれば、維新の元勲等ではなく、彼らにこそ一菊の花をそえてその御霊安かれと祈るべきだろう。 (その祟りを恐れて、薩長が現在の靖国神社を建てたのは容易に想像できる。) さて吉田松陰の「討賊始末記」の本は詳しく私の「吉田松陰」にもでている。 長門大津の川尻浦山王宮があり、宮番で堂守り幸吉は妻登波の他に両親と年頃の娘四人と、ひっそり居付き部落にいた処、食い詰め者の浪人枯木竜之進が目をつけ「宿場女郎では銭を取られる。しかし履物も許されぬ宮番の娘なら一文もいらぬから儲かる」と、忍び込んで先ず邪魔になる幸吉と、その両親を叩っ斬ってから、十八歳、十七歳、十五歳から未だ子供の十四歳の末娘まで順繰りに犯してから、後のことを考えて、「どうせ人外の宮で、寺人別帳にも入っていない者らゆえ、あやめても人殺しにはならぬ」と娘達を斬殺して逃亡。所用で留守をしていた嫁登波は戻ってきて一家斬殺に仰天。それから十年がかりで、ようやく仇討ちを遂げた登波を松下村塾に泊めて、稀らしい仇討ちの話を聞き筆記した際、門下の高杉晋作や久坂義助が、門人一同を代表して、 「人外者の宮番づれの妻を、今のように何日も寝泊まりさせるのは塾の汚れとなります」と、登波を追い出し、塾を清めお祓いをしようと申し出たところ、 「何を言う。宮の者や社のつるそめ神人を非人としたのは、徳川綱吉の神仏混合令からの悪法である。吾らは徳川を倒し四民平等の世をと志しているのに、なんたる差別思想か情けない」 と、登波の十年を超す苦労を労り、素足で山野を駆け回っていたので、あかぎれと切り傷で腫んだ足に、自ら練り薬を塗ってやり、休ませ、身体が本復するまで塾で休ませたのは藩命で野山獄へ入れられる1ヶ月程前の事であった。 松陰が「討賊始末記」に詳細書き残してくれたから、幕末になってもまだ宮とか、宮の者といった存在が非差別対象にされていた事がよく判る。 <<終わり>> 【引用参考文献】 八切止夫著「日本古代史」「サンカの歴史」「論考・八切史観」「日本の特殊部落発生史」 ☆ ☆ ☆ というように、要するに明治維新とは、支配(差別)層と被支配(被差別)層が入れ変わった出来事なのである。吉田松陰が外国船で亡命を図ったのは、それだけ徳川幕府が部落民を徹底的に差別していたことを示すが、松陰が徳川体制を崩すために外国(西洋)と通じていたことがわかる。しかし、米国は内乱に介入する気がなく、松陰を幕府に渡した。 幕府にとっては、松陰は危険人物だったのである。松陰は、南朝の末裔の大室、つまり明治帝を匿っていたとされるが、明治帝が南朝の末裔かどうかは関係なく、革命が成功すればいいということで、革命論の種本となった将門記も出鱈目なのである。 出鱈目であっても、圧制を続けると、民衆の怒りが頂点に達し、体制を転覆させることは史実である。だから出鱈目を侮ってはいけないし、その出鱈目さがわかる話を八切史観から続けて紹介していく。 ☆ ☆ ☆ 八切史観 3・11後、あからさまに棄民政策を取られてる今となっては、 むしろ、八切史観は広く知られるべきかと思う。 今、この時代に、我々庶民が、なぜこのような仕打ちを受けているのか? その理由が八切史観にあるからである。 キリシタン大名は硝石欲しさに奴隷貿易 火薬の原料・硝石は、日本では一片も産出しない。〔国産もあるけど大名と相容れることの無い本願寺が押さえてた〕鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。 よって、ドミニコ派の宣教師が、火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にした。 戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、〔国内に火薬の原料なし〕を隠すために歴史屋を黙らせたのである。 さて、戦後二十六年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この真実を発表しない。また吾々をどうするつもりなのかと、ここに告発したい。 天正少年使節団の報告によれば、50万もの娘がヨーロッパに売られていたと。これに対し、当時の日本に住む人の数からして、若い娘の半分が売り飛ばされたことになるが、それは有り得ないと述べる現代人がいる。お花畑だなー。奴隷は人としてカウントされてないのだよ。悲しいかな非人とは人じゃないものなのです。 思えば、「人口」とは恐ろしい言葉だ。口とは奴隷の数え方ではないか。人口すなわち、人と奴隷の合計だ。人口1億2千万というのは、日本には人と奴隷を併せて1億2千万が住んでるということを明白に示しているわけだ。「大飯」に納得だ。 (八切氏は、吉宗のときに、江戸の人口が増えたのは、大岡越前が、それまで非人だった被差別民に朱鞘を与え、街道などを取り締まらせたために、仲間同士で融通しあって、江戸に流れたせいであるという。八切氏によれば吉宗が無茶苦茶な政策をし、徳川幕府を潰した要因をつくったという。 吉宗が人物とされるのは、幕末に、嘘の徳川記を書いた勝海舟のせい。どうも海舟座談の類はほとんどが嘘八百のようである。いまの教科書では、この海舟の嘘を教えている。) 日本人の85%が四つと八つ 四つ:騎馬民族系(源氏)、馬の足の数。八つ:古代海人族(平氏)でマレーシア (このことは、Y染色体アダム説のハプログループの分布からもわかる。) 〔「ヤ」バン(八幡)〕に送られたスメラ〔シュメール〕出身の奴隷が逃亡したもの。今でも日本をヤパァンとかヤァバン、ヤバーナと発音する国は多い。遊郭は源氏系の限定職種。今でも源氏名と言う。八つは食糧作りがメインだが、商人も。出身を明示する意味でヤを付けて○○屋と今でも言う。商売の神様・お稲荷さんは「夷也」と差別されていたものの当て字。 (信長の楽市楽座といわれるのは、実は、八の者だけに商売を許したものだという。その代表的人物が、千利休で、利休という名は後世でつけたもので、宗易で、タダ同然の竹などから、日用品をつくり、高額で売ったので、信長の軍資金になったようである。 つまり、信長がやったことは、仏教徒から商売を召し上げて、被差別民を商人にしたこと。教科書で習う「楽市楽座」は誰でも商売ができる、という意味で確かに間違ってはいないが、肝心な、被差別民に限りの特権であったことには触れていない点で、大間違い。仏教徒に記録を改竄されたと思われる。だから宗易も茶人にさせられて美化されている。 ちなみに、八とは、恐らく「ヤハウエ」からきているように思われる。八の者の神がGIONの祇園であったことから、祇園とは八オロズの神、ヤーウエであるものと思われ、恐らく、古代レムリア人の末裔だろう。) 「日本は単一民族」は間違いだが、徴兵制に都合が良かった 明治期、藩制で歴史がまとまっていない日本に歴史を作るために(伊藤により)ルードウィッヒ・リースが招聘された。彼がもしスペインやポルトガルの歴史家なら、適切な海流学から『潮流によって各方面から運ばれてきた複合民族国家」と言っただろうが、残念ながら陸軍国・ドイツ人であった。よって「四方を海に囲まれた島国ゆえ、単一民族国家」と言った。国民皆兵制にして一致団結させるには都合が良いと長州軍閥は歓迎したが、文部大臣・森有札は拒否反応→暗殺される。 世界に通用する日本史である為には 部落問題を明白にせねばならぬが、「解放同盟から苦情が来る」と、どこのテレビ局でも厳禁。ところが、自分で出版社を持ち、正面から取り組んでみると、苦情が来るどころか逆に凝った革ベルトが贈られてきた。そして、別なところが圧力を掛けてきた。〔本当の日本史を知られると、都合が悪い者共がいるということ?〕 演歌は怨歌の当て字 我ら庶民の悲痛な叫びがこめられている。 「女町エレジー」にある「生駒は哀しいおんな町」のフレーズが典型的。〔宝山寺の門前に広がる遊里で働く女性の哀歌らしい。初めに歌ったのは宇多田ヒカルのお母さんかな? その後、いろんな人がカバー〕 生駒は夷駒の当て字。駒は馬。つまり源氏の民が収容された地区。 天野姓は天の朝の末裔 日本原住民系の天の朝〔崇神より前〕の子孫を意味する天野姓は、文部大臣に一人いたが、それ以外で世に名が広まった人はいない。「天の○○の神」と呼ばれる人が多く、煙たがって敬遠されるのだろうか。崇神のだいぶ後になって、意外なことに、神なので人ではない=非人といった差別の原点になった。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月13日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 昭和十三年、日光書院牧野謙次郎著「維新伝疑史話」に次のようにある。三浦梧棲陸軍中將は、山口県平生町郊外に飯山塾を開き、在野のまま後学の青年を教育している白井小助こと改名素介が、時たま出京しても下谷の求昌寺に泊まったり、嘉納治五郎の講道館にしか寄宿せぬのを戒め 『後輩の山県狂介や伊藤俊輔、井上聞多も今は大臣である。白井先生の旧幕時代の裏話は酔余の雑談とは思うが穏やかでないし、先生の大業〔將門記を古い年号で松下村塾でも筆写させ、各藩主を西軍に組みさせた功労のこと〕は、恐れ多くも、至尊もその功大なりと認めておわす』 と、山県や伊藤博文、井上馨らが松陰門下の大先輩として白井を遇しはした。 それでもせめて出京の時は顔だけでも出しておくべきだし、何とか官途に就くべきだとも忠告した。しかし白井は、至尊の御名が出ると忽ち座をすべりおり下座にて平伏し、「草野の賤民礼を知らず、誠に恐れ入り奉る」と大御心に対し奉って拝礼をしていた。 権籐成卿の実父権籐直〔号は松門〕は医師で、久留米藩に籍があったが、縁あって明治十八年、十八歳で東京の二松学舎に入学の時、白井を頼って権籐直は、当時の農商務大輔、品川弥次郎に保証人に成って貰った。 また、山県や大隈重信の許へも出入りしていた。だから権籐成卿は白井の口から直接聞いたのか、品川弥次郎の講演を聴きにいってこの事を聞いていたものと思われる。 尚、討幕の際の裏話を松下門下生き残りの白井は、他にも色々な事を詳しく知っていたので、それをよく吹聴していて、明治の大官は押込み強盗をやった事もあるから、後ろ暗い過去を喋られて皆は迷惑していた。 それでも明治三十年に白井が死ぬと、痛い所を握られていた煙たい存在の白井がいなくなりほっとしたのだろう、「友人白井小助こと素助君死亡」と、東京日々新聞上に葬儀広告を出した。 これは当時二度首相を務めていた山県有朋が掲載させて、友人総代として己が名を筆頭に出していた。これは「明治新聞編年誌」にはっきり出ている。 頼三樹三郎が口火を切って始めた將門記筆写は、吉田松陰に引き継がれ、松陰も処刑されてしまい白井小助が後を引き受け、一藩に何部も書き写しを届けて、御一新の際には西国大名を一人残らず西軍につけたものの、三樹三郎や松陰が次々と刑死しているだけに、いくら勧められても立身し官員になって出世する気持ちになれず、世捨て人のようになっていた。 そして酒を呑み酔うと、 「あいつらは今は維新の元勲だと勲章をぶら下げ、俄か華族になってふんぞり返っているが、昔は酒を呑む金がなくなると黒っぽい手拭いで頬かむりして町家へ押し込み、御用金にするのだと銭箱を持ち出して逃げた。なにしろ呑みたいし女を抱きたいが、みんな生まれが良くないからやることも下司だった。俺も付いていって銀を一掴み貰った事もある」 と、当時の悪さをした連中の名を遠慮なくあげて、口角泡を飛ばして話しをしてから涙を流しつつ、「死んだ者貧乏と言うが、頼三樹三郎や吉田松陰先生も、維新の緒口だけ開いて先に死んでいった.......」、つまり明治になって生き残っているのは、役立たずの詰まらん輩ばかりだとまで言い切っている。 選挙と同じで戦争もねじ回しが充分されていて始めて火蓋を切るのが終盤戦での決戦になる。なにも上海から買い付けてきた新硝石で東軍に勝てたんじゃない。その前に何百部も筆写し、箱根以西の大名家へ、領主用、上士用と何部ずつも、秘かに差し入れして読ませた為と、 「徳川家に逆らって御家取潰しになったら家中一統が困る......といった考え方は違う。ずっと飼い慣らされてきた犬みたいな習性にすぎん。自分から新皇と名乗り勇ましく戦ったという將門伝記をよく読んで頂ければ、力が全てで勝ってしまえばそれでよいのだと判っていただける筈です。 と次々に遊説して廻ったのが功を奏して、箱根以西は西軍に加担しなかった大名は居なかったではないか。根回しが行き届いていたからだ。それを松陰先生に言われて完全にやり遂げたのがこの白井小助なんだ」 深酒がたたって今言う肺気腫になって吐血して死ぬ最期まで、維新は己が散布した筆写本のせいであると言い切り、明治の元勲山県有朋も彼にかかると糞味噌だったそうである。「將門伝説」は西暦九三九年の架空のでっちあげの天慶の乱の話しだとしても、それを題材にした売講子やデロレン祭文語りらの種本の筆写が、明治維新の世直しに大いに役だったことになったのである。 〔紹介者・補記〕 「白洲正子自伝」にも、白洲正子は「祖父の樺山資紀から『我々は維新の元勲だとか何とか世間では言っているが、本当に偉い人達はみんな早くに死んでしまった。残ったのはカスばかりだ』とある。 また、鹿島昇氏はその著作「裏切られた三人の天皇」の中で、「維新の元勲などと言っても、大酒のみの無能者で、彼らは共謀して孝明天皇、その子睦仁、徳川家茂までも暗殺している」と彼らの悪事を暴露し、糾弾している。 この説は非常に重大な問題を含んでいる。ともあれ、何れにしろ日本は歴史を美化し過ぎる。汚い物は見たくない、厭なことは聞きたくない、この心理は理解出来無くはない。しかし、この国は一日も早く「真実の歴史の回復」が急務ではなかろうか。 この一文を記すに当たり、吉田松陰関係の史料を調べてみた。吉田松陰関係の資料は非常に豊富である。彼の著作や日記、書簡、詩歌など集大成した吉田松陰全集は十二冊も刊行されており、五百字詰四百頁にも及ぶ浩瀚なものである。 その他にも明治以来松陰を主人公にして書かれた書物は、まさに汗牛充棟、数え切れない。今回松陰関係の参考文献は以下の通り。 白井小助に関する記述も少なかったし、残念ながらこうした裏話を記述した物は無かった。山口県教育会編「吉田松陰全集」・日本の名著「吉田松陰」・真田幸隆「吉田松陰」杉田幸三「安政の大獄」・徳永真一郎「吉田松陰」・古川薫「吉田松陰とその門下」・木俣秋水「外史・吉田松陰」 ●●●●ええじゃないか。とは何だったのか●●●● 【紹介者・補記】 この「ええじゃないか」の事は現在の文部省検定高校教科書に載っている。当時の錦絵の写真も「豊饒御蔭参之図」として出ている。それによると、「ええじゃないか」とかけ声を掛けてはやしながら踊り歩く民衆運動は、空から舞い降りる「大神宮」などのお札、仏像、貨幣などによってさらに激しさを増したという。これだけである。 しかし幕末革命の紛れもない大衆運動だったこの民衆の行動は一体何だったのか。八切史観では次のように解明する。 天明八年、老中筆頭松平定信が、本所吉祥院歓喜天に願文をあげた。「なにとぞ米穀の融通よくなり下々の難儀が起きず、世の中が静かに治まりますよう。定信の命はもとより妻の命を捧げ心願仕候」といった内容の物であった。 これは前の田沼意次の高度成長インフレ政策のひずみで、諸物価が高騰し、江戸や大阪のような都会でも、打ち壊しといって現在の「交番」にあたる自身番の詰所が各所で放火破壊され、町民が暴徒化した結果である。 結局この鎮圧は町奉行や御先手方の機動隊出動ではかえって火に油を注ぐ結果となったので、男女七歳以上に、「米二合五勺、豆二合五勺、銀三両二分」ずつのお救いを出して鎮圧させた。 しかしそれも一時しのぎで、物価の激しい値上げに収入が追いつかない一般大衆の困窮は烈しく、革命前夜の有様となった。 〔主食の米麦さえ沢山とれて、出回りが良くなれば他の諸物価も押さえられよう〕今と違って単純な経済機構の時代だったゆえ、その考慮から松平定信はその妻於市の方の命までかけ、男女抱合つまり陰陽合一歓喜の神様へ願文を捧げ拝んだのである。 つまりまだ十八世紀の政治技術では「苦しい時の神頼み」しかなかったのだろう。が、現実にはもとより何ら効果はなかった。物価はまるで競争のように値上がりした。 そこで現在の主婦連なら大しゃもじでも担ぎ出すところだが、当時のかみさん連中は〔松平定信の妻の名が於市だったから〕それにひっかけて、各広場に集まって「しんぼ、こうだい寺は何で気がそれた、おいち毛まんじゅで気がそれた、おいちめめっちょは舐めたらしょっぱい」声を合わせ反体制の風刺踊りをした。この「しんぼ」は実際には彼女らは「ち」と発音。 「こうだい寺」は、本所吉祥院へ定信が願をかけるときの取持ちが、興台寺という説と「葛西幸大寺の満水和尚」が、願文の橋渡しをしたからとの二説がある。女は女に酷いと言うが、定信夫人於市にしても誰にでも舐めさせた訳でもなかろうに、この唄では風刺より、もはや卑猥である。さて、この「しんぼ踊り」が間もなく「歌は世に連れ世は歌に連れ」と、御一新の「ええじゃないか踊り」に変貌する。 「ええじゃないか、ええじゃないか。 かわらけ同志がはち合うて、双方にけがなきゃ、ええじゃないか」 これはしんぼ踊りの歌詞のごとく見れば、そのものズバリ過ぎるが、この場合の、「かわらけ」とは土師部の子孫で捕方役人や牢番人、番太郎をやっていた棒衆。いわゆる八部衆への隠語〔どろぼうと呼ばれていた二股膏薬の連中〕なのである。 だから、「御用」「御用」と追いかけ回す彼らと、「浮浪」と呼ばれた脱藩浪士や郷士といった連中は、その血統がやはり土師部と同じ原住系八の民の末裔だから、何も判らずそそのかされ、おだてられて上洛してきたのも多かったから、〔もとを正せば、同じ種族ゆえ、衝突しても怪我をしないようにしたらええのや〕といった風刺がこれには入っている。 さて、風刺という視点から大衆運動を考察したが、錦絵の中に描かれている、皇大神宮やおかげ参り、について考察してみよう。 近松門左衛門の浄瑠璃に「この世に神も仏もないものか」と、神と仏を一緒くたにしている。また、講談や浪花節では「神仏に祈願して」等と心安く使われてもいる。だが「さわらぬ神に祟りなし」の言葉が残っているように、明治になるまでの神は、迷い出てこぬように封じ込めにした対象で、拝むのは仏の方だけで、神はお払いと称して祟りをせぬように、その怨念を榊の葉でお払いしてのける存在で、今とはまるで違ったものだったのである。 新羅造りの社〔やしろ〕に隷属した高麗系を象徴するのが、今の白木造りの社前の狛犬で、その名残を「皇大神宮」としている。これは桓武帝の時に蕃族として討伐された新羅人たちの怨念を封じ込めたのが社である。一方「宮」も差別の対象にされていたのである。 判りやすく言えば社は四つの民の神様であり、宮は八つの民の分類に入る、のである。つまり品川弥次郎作と伝承されている処の、「宮さん宮さん、おんまの前にヒラヒラするのはなんじゃいな」の宮さんは、弥次とよばれていた八つのこと。おんまは言わずと知れた馬、つまり四つなのである。 (紹介者・補記) ちなみに十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は弥次、喜多道中記として有名だが、あれは滑稽本の体裁をとっているが、維新革命への啓蒙書なのである。当時貸本屋では引っぱりだこで読まれたという。文字の有るのが読んで聴かせ、耳で聞くと良く理解できるのだが、ヤジは八つの民、キタは四つの民。 即ち、徳川体制に疎外された庶民の古代海人族の末裔である拝火教徒と、その後から日本列島へ渡ってきた騎馬民族、庶民を二分する平氏と源氏の後裔が、共に手を携えて伊勢へ行き、アマの大神と、二見が浦の松下神社に祀られている蘇民将来を、共に仲良く拝んで世の中の逆転を祈った、という風刺物なのである。 つまり作者の意図が、世直しを求める啓蒙物ゆえ、双方の民族の代表であるヤジとキタが道中で一度も女に触れずだったのはごく当然であって、読む側も本当は何が書かれているか、そこは心得ていたものだろう。滑稽本と決めてしまったのは何も判らぬ田舎者の薩長人が、東京政府を作ってからなのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月13日
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八切史観は、本当の日本史を知るためには重要である。八切史観からいえば、現代の多くの日本人が日本人と呼ぶ根拠は、歴史的にいえば、大宝律令でいうところの唐人のことになるかと思われる。 例えば、創作で有名な水戸黄門の「黄門」は、朝廷の官位の中納言のことで、中納言を水増しすることで、権中納言ができ、家康が徳川幕府を開いて、朝廷に政略結婚を仕掛け、公武合体化することで、官位を与える権限が将軍にあるかのようにしたため、水戸の藩主が権中納言になったから、水戸黄門なのだが、「黄門」は唐名なので、唐人になったことにもなる。 ここに日本人のお得意な偽装がある。本当の日本人は、古くから日本列島に住む縄文系の原住民なのだが、大陸からきた唐人の郭ムソウが藤原鎌足を名乗ることで、唐人=日本人になったわけである。昔は「日本人」という名称はなかったら、故意に偽装するつもりはなかったかもしれない。 しかし、この摩り替えは、昨今話題になった食品偽装とよく似ているから血は争えない。 多くの日本人の印象では、偽装は、中国人お得意で、中国で出回る海賊版のようなものというイメージがあるが、その源流を辿ると、郭ムソウがこの国に持ち込んだもので、それが海外に持ち出されてはじめて認識する矛盾を生んでいることに気づかされる。 中国人がコピーを非難されると、日本人だって漢字をコピーしているじゃないかと開き直られるが、それを出されると、日本人は屁理屈としか捉えられずに、わけがわからなくなり、思考停止に陥ってしまうのである。 その原因は、漢字を使うことで、純粋な日本語(和言葉)、つまり日本人が滅ぼされたともいえないからである。 日本人のなかには、偽装が洗脳されてしまっているので、自分たちのやっている偽装に気づいてないのである。現代の日本語は唐語に近いはずで、そもそも日本人という表現もおかしいのだが…。 このような話はまだある。例えば、明治期に海外に売られていった部落民の女性の怨念が、西洋で、間接的に、黄禍論を生んだような気がしなくもない話があるので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 古代史研究を本当に志すのならこうした子供だましに、いくらUFOばやりだからといって引っ掛かっては、もはや歴史探求でもなんでもなくなってしまう。それくらいなら反トインビー派の一方の雄でなく雌であるポルトガルのオロラ・ケント歴史博士が再訳をして、また西ドイツやローマやパリでよく読まれている日本人、木村鷹太郎の著から入ってゆく方が、まだましである。 「海洋渡来日本史」、「旧約聖書日本史」の二冊だが、かつてドイツ版と英版が出され、カイゼルをして「黄禍論」を叫ばせ、アメリカのユダヤ歴史家ハバードをして「日本人抹殺論」を書かせ、ルーズベルト大統領を威圧させFBIに日本の暗号を盗ませ、当時は数が少なく虎の子だった航空母艦だけは待避させ、それから沈んでも惜しくない旧式軍艦だけを並べておいて、ハワイへは知らせず奇襲させるにまかせて放っておき、前もって作っておいた大義名分のスローガンに、「リメンバー・パールハーバー」と、ステイツの雑多な複合民族に対しての戦争熱を煽った。 彼の副大統領だったトルーマンも、木村鷹太郎の英訳本をよんだ結果、断固として原爆を、「地上から消滅させるべき危険な種族」と、テニアンからB29で広島と長崎へ投下をさせた。 スペイン戦争の余波みたいに両親をポルトガルでナチス党員に、共和党だというだけの理由で殺され孤児となり修道院で育ち、フランコ政権下には母校の大学を追われた彼女の、「不可思議な国ジャポネ」を、ようやくポルトガル語とイタリー語の字引を首っぴきで訳しおえたが、彼女の説では魔女狩りの中世暗黒期に、当時五十万ぐらい[の人口]だったポルトガルに日本のサイドシルバー〔島原三角湾〕から日本女性が三万は硝石と交換でマカオ・ゴア経由で入ってきているから、博士自身も金髪で青い目だが、ポルトガル全人口の最低20パーセントは日系の血をひいていると自称している程である。〔[『不可思議な国ジャポネ』の]本のカバー写真は若かりし頃の[ケント女史の]写真〕 カトリーコの彼女が「海洋渡来日本史」、「旧約聖書日本史」の虜となったのは、イエスさまは太古日本人であったかも知れぬとする史観。プロテスタントは白人絶対主義でトインビー白人世界史だが、もしイエスが白人だったらエルサレム難民はみな餓えた者たちを何百人も率いて彷徨するわけはなかったろうし、純粋白人ならローマ市民には呑みよい毒人参ジュースを自殺用に支給した神聖ローマ帝国が、ゴルゴダの丘で盗人と共に処刑したのは純白人でなかったからであろうと推理する彼女は、和布莉〔めがり〕の謡曲その侭の絵のあるヴァチカン法王庁内部に不審を抱き、木村鷹太郎の著作が、絶対白人主義のイギリスやドイツやアメリカに嫌われ、それが日本人の抹殺論になったのではないかと帰納している。竹内文書やウエツフミも、いきなり読んではUFOだが、木村鷹太郎の古代史入門の二冊から先に読んでゆくとよく納得できるのは確実である。 ☆ ☆ ☆ という話である。八切氏は、「木村鷹太郎の著作が、絶対白人主義のイギリスやドイツやアメリカに嫌われ、それが日本人の抹殺論になったのではないか」というように推測している。 この木村鷹太郎の過激論には、島原から世界に売られていった原住民の女性たちの怨みが宿っているようでもある。木村鷹太郎を、ウイキで調べると以下のような人物だったらしい。 ☆ ☆ ☆ 日本を世界文明の起源と位置づけ、かつて日本民族が世界を支配していたとする「新史学」を熱烈に唱えた。他にも邪馬台国エジプト説や、仏教・キリスト教批判などの独創的な主張で知られる。異論に対して徹底的に反撃・論破する過激な言論人でもあり、論壇において「キムタカ」と通称されて恐れられ、忌避された。 ☆ ☆ ☆ このキムタカの過激論が廻り巡って、ニセユダに利用されて、白人優生学者らにより、黄禍論を生み、広島と長崎への原爆投下を行なわせたという話は戦国時代からの日本史の流れをみればわからなくもない。 やはり、日本史のターニングポイントは明治維新にあるといえるから、明治維新について裏話を紹介していきたい。以前にも紹介したかもしれないが、明治維新の裏話を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 明治維新の裏話 私の恩師権籐成卿編著の「八隣通聘考」の下巻に、「朱雀朝九年己亥(西暦939)十二月、平將門反し、関東奥羽大いに乱る。 十年庚午に誅に伏す。同十一年辛丑、首は都に来る。これ純友、將門と相応じ、四国、九州を騒乱せしため」とあるのを、不審に思って権籐先生門下の綱島正興に尋ねてみました。師弟関係厳しい当時のことゆえ、権籐先生に遠慮して声を落として教えてくれた。 それによると、 「將門伝説は講釈本みたいな小説のはしりで、頼山陽の戯作芝居で比叡山上の場での二人のやりとりが、反体制そのもので当時大評判になった。そこで一般大衆動員には皇大神宮の版木を何十も作って、各地で御札ふりをして、ええじゃないかと踊り狂わせたが、大名達は徳川家に睨まれ改易されては大変だと、各藩の上士連中は明治革命にはすこぶる臆病だった。 これではならないと、薩長を味方に付けるため「討幕は恐ろしくはない。以前にも権勢に対して叛乱し失敗はしたものの、前例もあるのだ」と、京の儒学者で頼山陽の遺児頼三樹三郎が、当時はもう木版本は僅かしかなく、江戸府内で売り尽くされていたから、やむなく次々と勿体を付け、ずっと古い年号を附記させ筆写し、これを討幕用テキストとして、腰の重い各藩へ何部ずつか送らせたものなのだと、品川弥二郎が講演したのを権籐先生も聞いていたので知って居られるのだ」と、密かに話してくれた事がある。 そして同書の下巻の前半六十二頁に 「我れ独り、旧習例に依り、趙宗高麗の使聘を拒斥す。摂間の権いたずらに高く、州郡彫幣を極む、という第二節の小採題標題をよく読めば、幕末まで大名は、反徳川だ、と睨まれたら御家取り潰しになると各藩は、戦々恐々としていた旧習例を、つまり上士階級の頑迷さが根強く、いくら遊説しに行っても効果が亡く、そこで筆写本の<將門記>を読ませて東北以外は、皆薩長側になって討幕勢力の結集が出来たのだ、という裏話が出ているから、ちゃんと読まなければいけません」と諭されたものです。 「ええじゃないか」の御札ふりを各地でさせた木梨精一郎は、上野戦争の時に千代田城にいた大村益次郎の代理として、長州人だが西郷隆盛の先遣参謀を勤めていたが、英国公使のパークスに事前に了解を取りに行ったのは有名だが、「將門記」を古い年号で次々と筆写させ、各藩へ届けたのは、頼美樹三郎の意志をついで、何百もの筆写本を筆の立つ志士たちに手分けして書かせたのは、吉田松陰の遺言によるもので、門下の白井小助といわれる。 白井は初め、長州藩家老浦靱負の家来だったが、文久三年七月一日付けで五人扶持恩米十石で長州の直臣となった。これは吉田松陰の推挙という。馬関戦争の後で高杉晋作の奇兵隊が創立された際、松陰門下の白井が送りこまれて高杉に見込まれ隊長となった。 安政元年、松陰がアメリカ艦で渡米せんとした時の送別会が、江戸京橋の酒楼伊勢本で催された時、集まった七名の内にも在江戸の門下白井小助もいた。そして小助は吉田松陰に、「如何なる方法をもっても箱根以西の諸藩を見方にせねばならぬ」と、後事を託された。 (紹介者・補記) 松陰はこの以前にも長崎で、露艦に乗船しようとして、失敗している。安政元年に金子重輔と米艦にて密航を企て失敗し幕府に捕われ、伝馬町の牢から萩の野山獄に護送され、獄中の松陰に衣類を密かに差し入れた。この一件が藩に知られ、当時は未だ幕府を怖れていた長州藩重役の激怒をかい、藩より白井は過料の処分を受けている。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月12日
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以前、ネトウヨとニセユダは似たようなもので、ネトウヨへの対処によりニセユダへの対処法を紹介した。ネトウヨはニセユダにより洗脳されていることに気づいていないので、ネトウヨを観察すると、ニセユダの考えが手に取るようにわかる。 例えば、昨今のイシバのテロ発言などは、ニセユダの考えの代表例で、イシバは、かつてのナチスのゲッペルスそっくりなのは、ナチスのヒムラーそっくりのアソウの「ナチスみたいにうまくやれ」発言からもよくわかる。 なによりアホ政権の秘密保護法がナチスの全権委任法であることを調べれば、アホがネトウヨのお馬鹿丸出しの代表で、ニセユダに洗脳されていることにすら気づいていないことが明らかになる。つまり、アホ政権は、ニセユダにより、かつてのヒトラー政権のような役割を演じさせられているのである。 無能さがここまでくると、恐ろしく救いようのないアホというより他はない。自分が黒幕(ジャパンハンドラーズ)によりヒトラーのように仕立て上げられていることに気づいていないのである。つまりアホはニセユダの操り人形と化している。 ナチスのゲッペルスは、「嘘も百回言えば真実になる」を利用した悪人である。健全な国会運営が行なわれていたなら、国民の叫びを国会で政策にするのが政治家の仕事であり、言論の自由を優先するはずで、少なくともそれをテロと呼び、黙殺するのは民意を汲み取る意志が皆無であることを物語り、その発言をもってすみやかに辞職すべきであろう。 このような発言から、イシバとマスゴミは一見敵対しているようにみえるが、イシバがその後開き直っていることをみれば、マスゴミ側になんらかのリベートが送られた可能性も否定できない。政治家の問題発言を報じながら裏取引するのはマスゴミの常套手段だからである。 イシバとマスゴミの関係をみていると、ゲッペルス化するのは時間の問題に思われてくる。 ゲッペルスのやり方は、以下のサイトに載っているので、参照してください。 ☆ ☆ ☆ ナチス宣伝大臣ゲッペルスの手法は、現代マスコミの手法そのもの! http://www.rui.jp/ruinet.html?c=400&i=200&m=233713 「娯楽の中に宣伝を刷り込ませ、相手に宣伝と気づかれないように宣伝を行う、宣伝したい内容を直接キャッチフレーズ化して強調・連呼せず、心の中で思っているであろう不満・疑問・欲望を遠まわしに刺激し暴発させる、もっとも速度の遅い船に船団全体の速度を合わせる護送船団の如く、知識レベルの低い階層に合わせた宣伝を心がける」 ☆ ☆ ☆ 以上の話から、B層にターゲットを絞った洗脳が行なわれていることがわかる。この話からも、イシバとマスゴミが実はヤラセなのではないか、と思うようなところがある。マスゴミへの露出度がそれを物語っているからである。 さて、このような洗脳は、前回まで八切史観を紹介したときの、全くの創作である宮本武蔵や、話を膨らませ美化した忠臣蔵などを、大日本帝国軍部が利用したことからも伺える。そのことを以下に再度抜粋紹介する。そういえば嘘の忠臣蔵が映画上映されているらしい。このことからもわかるが、ハリウッドはニセユダの洗脳基地と思ってよいだろう。 ☆ ☆ ☆ 昭和になって軍部が、「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。 ☆ ☆ ☆ 少し考えれば、戦国時代(それも前半)でさえ槍なのに、銃火器の時代に刀で戦う、というような愚かな教育は、宮本武蔵による洗脳教育の賜物である。虚構と現実の判断ができなくなっている証拠でもある。 このように、赤穂浪士や宮本武蔵が持て囃され出すと、国家が暴走しはじめ、圧制により国民の生活が疲弊し、紛争地に送って口封じするために、国民殺しに走ることが、八切史観から明らかになるのである。 この奴隷国家日本では、その歴史は古く、以下の八切氏の話などでわかる。 ☆ ☆ ☆ 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。 が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。 国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。 ☆ ☆ ☆ というように、この国は古くから、支配者層と被支配者層に分かれていたことがわかり、明治維新の連中は、被支配者層からでてきたにも関わらず、仲間を裏切り、系図などを創作し、支配者顔をして、裏切ったことを誤魔化していたことがわかる。 だからこそ、被支配者層の出であることがバレル恐ろしさのために、いつの間にか部落を差別として、タブーにしたのである。そのことが、自分が部落出なのに、仲間を差別する矛盾を生み、いまでは在日が在日を差別する矛盾につながっている。 実体は、在日が系図で日本人(純粋な日本人はいない)になりすまし、仲間である在日を差別している構図となっている。この構図が外国の諜報機関にも利用されている。 この系図創作は、家康が元祖であるようだが、唐人の郭ムソウも藤原鎌足として日本名を名乗ったのだから、昔からあった、ともいえる。 このように、本当の日本史を知らないから、八切氏によると、明治帝が、仲間の西郷が裏切られ、捨てられ、死んでしまったことを嘆いて詠んだ有名な以下の歌の意味が間違って伝えられているそうである。 「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」 上記の歌は、「四方の海はみな同胞と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう」という風に解釈されているが、八切氏によると、大間違い、というのである。 この歌は明治帝(大室帝)が、同じ部落の出である西郷が西南戦争で死んでしまったことを嘆いた歌で、つまり明治帝は、自分が部落出身であることを自覚していたわけで、明治維新が、大陸からの律令制度による身分制度をなくすことにあったのに、自らの利益や自己保身のために、身分を隠して、同胞を討った連中(岩倉、伊藤、大久保など)への当てつけで、傀儡の身分だったせめてもの反発だったと考えられるのである。 この歌には、明治帝自身もついには、西郷と同じように部下に裏切られ、捨てられてしまう運命なのかと自分の身をも案じているのである。 実際、明治帝の晩年も、カゴメ歌のカゴメの中の鳥のように、南朝正統化を図るが、伊藤、山県らに裏切られてしまうわけである。 このような裏の事情が隠され、この悲しい非戦の歌が、開戦に利用されてしまうのはいかにも西洋的な策略であり、その背後にニセユダのルシファー悪魔崇拝があると思われるのである。 もうニセユダたちのための戦争は御免蒙りたいので、続けて明治維新の暗黒面を、八切史観から抜粋紹介したい。 例えば、演歌は怨歌で、死んでいった魂が怨んで、生存者に霊感を通じて歌わせたものだから物悲しいのであり、演歌歌手の多くが部落出身であること、そして、明治帝の歌のように、一種の暗号であることに気づかないで意味を改変するのが売国奴というわけである。 それは奴隷として差別され扱われてきた黒人のブルースと同じで白人支配に対する怨念を歌ったものであり、それと同じニセユダ支配のために殺されていった魂の物悲しい抵抗なのである。だから、歌を通じて魂が永遠であることがわかる。
2013年12月12日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 「何人であれ、大公儀に対し異心を抱かれるにおいては、かくの如し」と、見せしめの為に、京所司代の立札が立てられた。そして、この年から貞享二年二月二十二日に四十九歳で崩ぜられるまで二十三年間も、ずっと閉じ込められた侭だった。 その間に家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされているが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。 三田村鳶魚の考証にも詳しくでているが、下馬将軍と全盛をほこった酒井は江戸屋敷まで没取され閉門、御三家だが光圀も、水戸の西山とよぶ特殊な居付き地に押し込まれ、竹矢来で出入りを監視された。 春日局の孫娘の夫、堀田正俊が大老、前夫稲葉正成と春日局に産まれた子の孫が、若年寄筆頭の稲葉正休と、幕閣が春日局の孫や外孫によって固められていたから、下馬将軍も水戸光圀も、彼らの勢力には勝てずで追い落されて、綱吉が迎えられて五代将軍になったのだ。 「赤穂義人纂書」に鍋田晶山が詳しく書いているように、済州島の血をひくゆえ、日本人よりは貴種であると、やがて綱吉は千代田城を朝廷とよび幕閣を公家と称するようにさせた。 よって京よりの勅使は大納言とか侍従といった官位をひとまず返上。前大納言、前侍従となり無位無官で遠慮して江戸の伝奏屋敷に入り、京へ戻ると前官にまた復していたものである。 ☆ ☆ ☆ というように、現代人が考えている日本史のほとんどが実は出鱈目であることに気づかされるから興味深い。現代の日本人のほとんどが単一民族のように思っているが、それは日本史のほとんどが出鱈目で洗脳されていることを物語っている。八切史観によると、大陸から郭ムソウが来る前から、日本は大陸の植民地のようなものだったようである。 例えば、以下の八切氏の話を、Y染色体アダム説から考えてみると面白い。 ☆ ☆ ☆ 耶馬台国群は中国の出先機関 古代史探求にとって邪魔というか、妙な変てこな引っ掛かりになるのは耶馬台国の存在だろう。 昔は国といってもアフリカの部落なみの聚落で、魏志倭人伝の卑弥呼の君臨の状態の仰々しさから文字に書かれている故とし、さも大きな国だったような錯覚をしてはならない。 自己に臣従して貢物をたえず献上しているのが、あんまりみすぼらしいのでは国威にかかわると、誇張して書かれたものと判断すべきで、それでなければ魏書の中に倭人伝は加えられていない筈である。書く者にとって、採録されれば名誉にもなるし銭にもなる。不採用では一文にもならぬ。それゆえの記述とみて、あまりこだわったり、とらわれてはいけないと想う。問題にならぬ。 その記事よりも問題は、耶馬台国群と対立して戦っていた八幡国群である。「バハン」と呼ぶのが正しく、現在のマレーシアである。私なんかは学校では馬乗半島の当て字で教わり、ゆえに騎馬民族が此処から日本へ渡ってきたものかと、ずっと思い込まされていたものである。 さてバハンは英語読みで、ラテン語ではヤバアンなのである。それゆえ、「日本人とはヤバアンから渡った民族」というので、ドイツでもアラブやインド各国では、「ヤバーン」「ヤバアナ」とよび、ソ連でも「ヤポン」と今でも、どこでも呼ばれているのである。 紀元前三世紀のアレキサンダー大王遠征で首都スサを陥落されたペルシアの民は、みそぎをするヤサカ川からGIONの神を奉じ、スメラ山脈のならぶアブタビ海より、当時は、「ガレリーナ」とよばれたバハンのニコパルへ、開拓奴隷として送られ、そこから今の北ベトナム雲南へ送られる途中、黒潮暖流にうまく乗れたのは生魚をとって海水で味つけして噛り、日本列島の瀬戸内海を抜け阿波の鳴門から出てゆく前に、陸へ這い上がったのが今の日本人とされる。 「聖戦」と、かつての大東亜戦争を呼んだのも、シンガポールよりニコパルを先に占領した為。そこから銀輪部隊でシンガポールの背後をついたからである。つまり後には「八」とよばれる古代海人族はここよりの南方民族にあたる。彼らは魚をとり塩もつくるし、漂着地で農耕もする。 ハングリーの時代である。バハン又はヤバアンとよばれる村落には、塩もあるし乾魚もあり、粟も収穫がしまってある。だが襲って奪うのには武器がいる。かつては喰いつくだけの攻撃だったから、歯が唯一の武器で、捕虜は前歯を石で叩き折られて武装解除し使役にされていた。 しかし西南よりの渡来の聚落では、大きな貝を探してきて貝刀を作り、真竹をもちこんできて植えて増やし、弓矢を作って武器にしている。後に竹薮の多い所を八幡の薮知らずというのもこれからで、ヤワタとは耶馬台国群と対立の八幡国群の名称からの伝承である。 耶馬台国に連合している各村長というか国群のボスが、牙をむくみたいに前歯をつきだし、「貝刀に弓矢に、歯ではくいついてゆけんから、中国から何でも斬れるときく鉄の剣を‥‥」とヒミコのもとへ集まってきて、戦う武器援助を申しでてきた。今でいえば超能力の霊媒で、占い専門のヒミコにしても、まさかお祈りでは中国の鉄剣はアラビアの魔法のランプはないから無理。 そこで北東に風がふき潮流が流れる時を見計って使者をたて、泣きつくようにして、「武器か、さもなくば食料のどちらを供与されたし」と入手したい旨を手真似で相手に伝えさせた。「食料を運ぶのには多くの船がいる。臣従するならば我が国より武器援助のほうもしようぞ」となった。 もちろんヒミコが美女だったら、まず彼女を武器援助の見返りに求めたかも知れぬ。しかし、そうしなかったのは、使者の話でよくよくのブスだと判っていたせいかも知れぬ。 だから鉄剣は木箱一つぐらいで貸与されなかったらしいが、それまでは喰いつくために突撃して近寄る前に弓矢で射られ動けなかったところを、鋭利な貝刀で血の脈を斬られ殺されていた耶馬台国群のボスたちは、ひとふりずつでも鉄の剣を貰うと旱天の慈雨のごとく感激した。 この貝刀は八幡国群だけで、ペルシャやアラブでは多く作られ戦闘に使用されていたから、今でも切れ味の良さを貝のマークにした安全剃刀の刃も輸入されて出廻っている。 サンカも焼印を五つ、柄につけた山刀をウメ貝とよぶ。しかし薄い貝刀と分厚い鉄剣では勝負にならず、八幡国群は一つずつ略奪され、せっかく貯えた食料も奪われるようになった。 さて、鉄剣が耶馬台国群に武器援助される迄は、八幡国群の方が弓矢と貝刀で優勢で、食糧を略奪にくる耶馬台の各聚落の者を撃退していたのが、鉄武器をもってこられてはかなわぬ。 貝刀や弓矢は一撃のもとに叩き折られ、食糧だけでなく聚落の男女が倭人と共に連行されてゆき、奴隷として彼らの為に食糧作りをさせられた。古代史の耶馬台国は奴隷国家の元祖といえる。そして日本列島には鉄資源が埋蔵されていないことが判ったので向こうの屑鉄を送りこんできて、此方の山金と同量で交換し、その屑鉄を精練する多治比人を伴い南西の潮流で日本へ入ってきたのが、ヤマトタケルを毒害し崇神王朝を倒した日本名竹内宿弥らその人である。 藤原鎌足と改名した郭務ソウのように、前名は判っていないが、彼が北陸及び東北へ巡って歩いたのは、鉄資源探しで自給自足の為らしく、山師の元祖ともいえる。日本書紀では西暦95年のことだが、その五年前の景行二十年には「二月四日皇女五百野姫をして、天照大神を祀らしめ」の記載がある。既にその一世紀前に天照大神を伊勢大神宮として倭姫命に祀らしめ、89年前に天照大神は封じ込めで祟りをせぬようにと、今の奈良磯城郡織田に、とうにもはや祀られている。 倭つまり中国からみて日本原住民系の倭姫を、祟りをせぬよう封じ込めていたというのは、日本書紀では神話に入る時代にもう原住系の八の女将であった大神は謀殺されて、化けて出てこぬように奈良に葬られていた事になる。 今でも伊勢大祭は中国道教によって取りおこなわれているから、中国大陸の派遣勢力が初めから日本原住民の大女将を葬ったものかとも推理される。 が資源も何もない土地なので三韓の奪略や進攻にまかせて竹内宿弥の頃までは放りっぱなしていたのかも知れぬ。日本書紀とは違うが、耶馬台国群に鉄剣をわたしていた時より、遥か以前らしい。もちろん東北といっても古い崇神王朝のごときは東北三省の沿海州や羅津からの日本海よりの来攻ゆえ、後の白系ロシア人も入ってきた。 だから、新潟や秋田にはその落し子が多く今も肌の白い新潟美人や秋田美人が混血で生まれてくるのだが、中国本土となると違うらしい。 つまり騎馬民族が、都井岬の野生馬なみのロバを伴って日本海を渡ってくる前から、彼らは鴨緑江経由でなく親潮の潮流によって、日本列島へ前から渡来していたものとみられる。 「何ものがおわしますかは知らねども、ただ有難さに涙こぼるる」と五十鈴川畔で江戸時代によまれた句が有名である。つまり今から三世紀前にあってさえ、天照大神さまの御正体は判っていなくて、何がおわすのか不明だった、ということへの裏書きにもなるのではあるまいか。 それに大神にお仕えする皇女が、名前からして日本原住系とみられる夷のつく御方だということは、親魏政権の耶馬台国のヒミコではない。滅ぼされた八幡国群の女王さまという事になる。 耶馬台国群が中国より鉄剣の武器援助を得て、食いつくだけしか武器のなかった彼らは強力になった。ゆえ、それまでは食糧を充分に収穫し勢力をはっていたものの、中国輸入の鉄剣によって滅ぼされ殺された女王であったとみるべきではないか。天変地異の災難は、みな女王の怨念とみて、祟りよけの封じ込めに、大和の磯に宮をたて、やがて夷瀬[伊勢]の夷須津川[五十鈴川]畔へ移したらしい。 だから八の民らが、天照大神は平政子さまであると思いこみ、またそう信じ込んで、おかげ詣りと称して、日蔭の身の立場から一日も早く助け出してもらいたいと各地より群れをなしたのだ。 そこで「四つ」の騎馬民族系の子孫も、お伊勢詣りの近くの二見が浦に「松下神社」をたて、「蘇民将来之子孫也」といった平泉や八坂さんのような、六角棒の身分証明書は出さずだが、「蘇民将来、来福之符」という紙の御幣をくばっている。 「蘇民」とは後の源氏の祖先にもあたる蘇我入鹿や蝦夷[毛人」の氏人のことで「四つ」の騎馬系末孫である。「東海道膝栗毛」によって、「四つ」も「八つ」と力を合せ世直しをせねばならぬと黄表紙本で一般に広められた宣伝から、「八つ」の者も松下神社に、ついでに参拝するようになる者が増えだした。 こうした土地柄ゆえ、伊勢松坂からは「古事記伝」がうまれたり、本居宣長の死後も太平の許へ、伴信友らも弟子として集まってきて、はじめ明治新政府の太政官の上の神祇省のもとをも作った。 この場合の祇とは祇園さんの祇で、宮とか八とよばれる意味でもあり、神はカラ[韓?]神で「四つ」。 しかし新政府は「四つ」と「八つ」の大衆動員を、巧くして世替わりさせたからして、太政官の上に初めは神祇省を設けたわけ。廃仏毀釈の世となって、それまでは寺の私有財産として、かつて寄進された奴婢の人別帳をもとに、雪どけして人買いがくると、馬なみに「青」とよんでいた彼らの子女を売っては寺の収入としていたから、それゆえ「青春」の言葉も残るが、今は美化されている。 ☆ ☆ ☆ 事実は小説よりも奇なりか?
2013年12月10日
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八切史観は通説を覆し、興味深いものにかえる。有名な赤穂浪士の討ち入りの話も、ほとんどが脚色であったことを以下のように解明している。 ☆ ☆ ☆ 京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。 失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すにのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。 それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。 それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」、「元禄泰平記」、[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭。 ☆ ☆ ☆ 他にも色々な話が、江戸時代に創作されているという。秀吉が部落の出なのに、農民の出とされたのも江戸時代の創作だったという。続いて、宮本武蔵の脚色、こちらはほぼ創作だそうで、武蔵についても、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ さて伴信友は、若狭小浜の藩士で、本居宣長の死後に入門し、本居太平の教えをうけ、幕末の弘化三年までは生きたが多才博識。軟派では、「ねやのひめごと」の黄表紙本から、三百余の著作で、「長等山風」「神社私考」などの硬派本まである。 もっとも有名なのは、水野忠邦の倹約令で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入ってゆく聖天町とよぶ弾左衛門地の草原に移された時、「先生、わっしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」と懇願されて筆をとったのが「両島英雄記」である。 なにしろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。濡れ場ものなら、この広さでも出来るが、これは倹約令で御禁制。そこで宮本無三四と佐々木小次郎の両雄が、九州巌流島で決闘の芝居をかいた。 なにしろ槍をもって舞台へ出ては、それだけで一杯になって身動きができぬが、刀をもたせ、「雪月花」とよぶ躍りの拍子でチョンがチョンと、上段、中段、下段のからみで、しかも宮本無三四には両手に刀を持たせ、裏日本や東北でいう処の「張(チャン)バラ」を派手にやらせてみたのである。 これが江戸中の大評判になって、黄表紙本の方も売れに売れた。昭和になって軍部が、「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。 なにしろ主人公の武蔵は慕うお通さえも拒んで剣一道の武芸者で性的不能の変質者みたいだが、ポルノは全面発禁の世の中なのに、同じ村出身の本位田又八の情事場面が二頁おきぐらいに、汁粉の逆塩どころか全体の半分も入っていたから、おかみの意向とは逆に心なき国民の中の青少年は、オナ ニー用に求めたものだ。少年だった私もその不心得者の一人だった覚えがある。 伴信友が演劇界救済のために書いた宮本武蔵が大当たりをとると、抜け目のない連中が放っておくわけはない。もっともらしい五輪の書までが、生まれたりして、いつか実在の人物化された。 「人の一生は重荷を背負うて坂を登るがごとし」といった家康遺訓集は、明治になって徳川家を見殺しにしてしまった勝海舟らが、徳川公爵家の要請で創作したものだとは、名古屋徳川家で思い切って公表したのは、最近の新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。 しかし吉川英治は徹底的によく書き込んだからして、国民大衆文学として完成されたから、「二刀流は彼の草案」と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平が京城の陸軍学校へ行き、「壬辰の役(文禄の役)に、進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのをみると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので愕いたという話は、故海音寺潮五郎も「文学建設」に書いてはいたが、武蔵がいつの間にか二刀流開祖にされてしまった。すっかり舞台上の産物が、本当にされてしまったのである。 応仁の乱の時に、鉄資源のない国なので、外国のように鉄の楯は作れず、といって、木の楯は重たくて一人では、とても運べぬから、足軽とよぶ、狩り出してきた山者に両手に竹をもたせ、「ししっぱらい」とか「露よけ」と先駆けに使った。 関白一条兼良は、反仏派で寺を荒し廻る彼らを、「悪党」ともよんだが、青竹を二本もって人間楯として突進してゆくよりは安全と、戦場で落ちている刀を拾い持ち、生き残れた者は両手に握って、とんでくる矢を打ち払って後の戦国武者。 つまり源平合戦から戦国時代大坂夏の陣まで、当時は雑兵とよばれた者達は、みな両刀づかいだったのだから韓国の画家は正確に描写されているのである。講談歴史とか浪花節歴史とよばれる日本の方が間違っているのである。吉川英治の作では関ヶ原合戦に出ているから、見よう見真似で二刀持ちを他に見習ったといってもよい。 戦争目的に、鉄資源不足を知らせぬ為の学校の歴史の教育を上の指示でされてきたのだから、伴信友の作り出した宮本無三四を吉川英治の宮本武蔵にまで勇ましく作らせたのは、まったく意企的な軍部の指図だったらしい。 元禄初期に書かれた尾州藩鉄砲頭の天野信景の「塩尻百巻」に、細川家の重役間に確執がきわめて甚だしかったの風聞が書かれているから、伴信友は、それに今いうヒントを得て創作したらしい。 ☆ ☆ ☆ 続けて、島原の乱についても紹介しておく。 ☆ ☆ ☆ 当時、徳川家は七百万石から八百万石の台所入りがあったのに、御所は二万石。徳川秀忠の娘和子を女御として無理矢理に入内させた時に、化粧料として持参金の壱万石で計三万石。 「春日局と家光」や「将軍徳川家光」の日本シェル出版刊の私の本にあるように、実際は春日局の子として京伏見城で本当は生れた家光は、元和九年六月に二代将軍秀忠と共に上洛した。 家康の遺言で家光が二十歳になったら将軍職を譲るように言われていたので、小御所へ参内。 慣例どおり節刀を賜り征夷大将軍の宣旨をうけ、慣例どおりに京五山へ銀百枚ずつを納めて、秀忠はまだピンピンしていたが家光が三代将軍となり、また寛永三年八月に彼は秀忠と共に上洛して二条城に入り、後水尾帝の行幸を仰ぎ馳走申しあげた。 六年後に秀忠が亡くなり、駿河大納言忠長を土井甚三郎に後顧の憂いのないように始末させ、本当に一本立ちになって寛永十一年七月に上洛したが、この時に伝奏中院通村を通して、後水尾帝は家光に対して、「三万石にては御所の賄いは、まことに困難至極、せめて山城一国二十万石を」と仰せられたのに、「はあ」と家光は気軽に承諾してしまった。 話をきいた土井甚三郎利勝は、とんでもないと急ぎ家光を伴って江戸へ戻ってしまった。しかし、後水尾帝にしてみれば、いやしくも江戸の将軍家光が確約したのに、なんの応答もない。そこで立ち会った中院通村を掛け合いに下向させた。 当惑した江戸では伝奏屋敷に彼を閉じ込め、正保四年七月付で伝奏の身分から異例の抜擢で摂家の身分でもないのに、内大臣にして懐柔。慶安元年正月に毒害するまで江戸の権力で押さえつけた。 なんの音沙汰もしない侭に慶安四年四月二十日に家光は死んだ。そこで学校歴史には全然出ていないが、徳川の血を引く明正女帝に無理に譲位させられ、仙洞御所へ入っておられた後水尾上皇は、山城一国二十万石の約束をはたせようと、討幕の院宣をかねてから次々と出しておられ、島原の乱をも起こさせ失敗されていたが、十四年間の隠忍自重も、もはやこれまでと家光の死をきかれると、この機を逸しては三万石の侭である、せっかく確約させた二十万石は画餅になると、改めてどんどん討幕の院勅をだされた。 由比正雪、別木庄左ヱ門らも後水尾さまの密勅を受け、討幕のために兵をあげようとしたのである。そこで内大臣をやめさせていた生き証人を幕閣では始末することにした。歴史年表に、「承応二年(1653)二月二十九日前内相中院通村頓死す」と明記されるのも、この裏書である。 さて公儀でも、いくら皇位継承者がないとはいえ、反幕的な後水尾上皇の末子を人皇第百十一代に迎えるのは難色もあったが、誰にも他にいなかったので、やむをえずとなったのである。初めから厳しい目で後西さまは、京所司代や江戸表から監視されていたのである。 というのは後水尾さまは徳川秀忠の娘和子を押しつけられた後も、みぐしの局をご寵愛なさり、その間に生まれたもうたのが後西さま。京所司代の圧迫で、みぐしの局の実家は飯米にもことかき、局の実妹は銀二十貫で身売りして伊達政宗にかわれ、その子の忠宗の側室となり綱宗を生んだ。 さて伊達家も当主になるべき者が次々と若死して、綱宗の代となった。さて後光明帝が崩ぜられ後西さまが即位されると、従弟の伊達綱宗が仙台青葉城主になっているときき、「なにしろ御所の内緒むきは苦しいゆえ‥‥」と姉小路伝奏を無心に使いに出した。 これが公儀の公安局にあたる柳生俊方にさぐり出されて幕閣に報告された。そこでまず吉原が明暦の振袖火事の前で移転していなくて今の東京シティターミナルの葭の原っぱにあり、土手八丁を通ってゆくのではなく、今のコールガールみたいに呼ぶだけの時代なのに、講談では誤って、吉原流連不謹慎のせいとす。 が、実際は伊達政宗以来の蓄財を吐き出させる為、飯田橋から市ヶ谷までの外濠工事を命じ資材購入にすっかり伊達家の金を出させてから綱宗を隠居処分にしてのけた。 そして三年後の寛文三年〔1663〕正月に、二十七歳になられたばかりの後西さまを、十歳の霊元帝に換えた。仙洞御所に入ってもらっては、ずっと竹矢来をはるのに出費が掛り過ぎると、今の京都御苑の北隅に「後西帝凝華洞祉」の棒杭のあるあたりに、二間四方程の小屋をたて外側に竹矢来をかけたから、外観は竹籠のごとくみえた。つまり後西帝は従弟の伊達綱宗に、御所の勝手許不如意を訴え、献金を求めただけなのに、でっちあげで謀叛通謀とされてしまったのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月10日
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八切史観によると、日本の歴史教育がインチキで、出鱈目であることがよくわかる。日本の歴史教育は権力者の都合のよいように全てが美化され、まるで大河ドラマや水戸黄門のような虚構でパロディであることがわかる。 八切史観によると、この国の歴史は何度も書き換えられているそうである。例えば、『古代史とは、縄文日本人が権力者によって鉄製武器で征服された弥生時代が、日本の古代史、つまり奴隷社会の始まり、ということになる』そうである。 日本の歴史とは奴隷社会の歴史といえるそうである。その歴史の流れは、Y染色体アダム説のハプログループからも大まかに伺える。 原住民系の縄文日本人が(朝鮮半島経由の)鉄製武器で征服されたのが弥生時代で、降参した者は農奴とされたという。続いて、以下のように、朝鮮民族の奈良(ナラ)時代がはじまるという。ナラは韓国語で「国」という意味らしい。以下、八切史観を抜粋『』しながら、紹介する。 『かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」、「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくらいに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だから日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたままなのもその例証である。』 つまり、百済、新羅、高麗のそれぞれ三分割の国(地方)ができたそうである。その後、大陸から唐を源流とする藤原(トウゲン)が侵略してきて、名義上現在の朝廷につながる藤原王朝をつくったという。 『なにしろ日本とよぶ国は、西暦663年に白村江の戦いでクダラ系の奈良朝を倒し九州より御所入りし、「藤原鎌足」と郭(ムソウ)は日本名をつけ、則天文字つまり漢字の強制使用と〔北東の風が吹かなくては、日本から中国へは航行できぬから、冬至=唐至の当て字もあるが、文部省学校教育で、イアルサンスウから算数とするのは今でもその侭〕、築城用巨石の全国供出令を発布した。 ところが俄に今になって、侵略を進出と教科書にのせるのは怪しからんと、「むちゃくちゃな出鱈目歴史[では]ないか」と、訂正するよう抗議されている可哀想な日本歴史は、この時点では進駐軍司令官郭将軍によって高安城を築き金田城を構築。』 この列島に郭ムソウ、つまり藤原鎌足が大宝律令を持ち込んでから、カースト、身分制度がはじまったようである。 『なにしろ、西暦663年に郭ムソウが進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の日本古代史研究」に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。二大別とされた賎とは太平洋沿岸に漂着の「八の者」。 (この八の者は、Y染色体アダム説ハプログループでは、太平洋岸に多いC1かD2のことだろう。) 次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入って来たのが、獣の「四つ足」から「四つ」と呼ばれる。 (この四の者は、C3かD2のことだろう。) 「源平藤橘」と四大別するが、藤は唐で、郭さんの一万二千のグループ。橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って代わった契丹系ゆえ、大陸人でも唐でないゆえ豪く見られず、被差別とされた。 彼ら[契丹系]は天神信仰だが、源は元ゆえ白山さま信仰。平は今のペルシャと同じで、赤旗をふり祇園、八坂信仰で、宮島も紅殻の赤塗りである。藤は墨染めの衣を着た坊主が宣教師として先に来たので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。 (藤原の末裔は、大陸に多いO3であることは明らか) しかし、この四種の姓別は、最低四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍、負ければ賊で賎、黒の他は次々と体制の変わるたびに限定居附部落へと追い込み。郭将軍に滅ぼされたものの、奈良王朝と栄え、桓武帝より「良」となった百済系は黄色である。 (百済、朝鮮系は、関西に多いO2bのことだろう。) しかし、エタ非人と一つにしたり又分類し、エツタ島など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好よくなるのは、そうしたゲットーへ次々と敗戦捕虜が入れられ混同している為だが、四大別ではなく、太古日本人はエケセテネが姓の上につくところの「雑色」の人々だろう。 「皮剥ぎも皮細工も四つと呼ばれる騎馬民族。判りやすく言えば、白筋の馬方は源氏だが、駕かき川越人足や雲助は平家で、「八つ」とよぶ赤筋の拝火宗徒。トウナイは『唐無い』で、契丹系の部落民」と、はっきり種族別が分けられるが、喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者と決めつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。 足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。 戦国時代の始めの応仁の乱に部落の者等は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代わりにしっ払っさせられ、生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下克上は明治維新までのびた。 (明治維新により反体制の南朝の大室帝が長州により立てられる。しかしそれも本当の下克上ではなく、体制側に寝返った長州らに、西郷が葬られることで中途半端に終わる。) が、五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し、反仏派の原住民は宗門改めの寺社奉行によって、浄土〔上等〕でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。太田亮の「姓氏辞典」では加賀に入った藤原氏と美化しているが、仏教は一向宗が入っただけ。 (綱吉の生類憐れみの令は、皮剥ぎ等の商売をしていた原住民への圧力であるという。) ナポレオンが勲章を発明するまで「賜姓」といって、藤原姓をエゾや反乱軍の純友にも与えた。 つまり実際は産所は足利幕府散所奉行で、反体制だった南朝方子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ産所と間違えられて伝わる。山所ともなり「山しょ太夫」や「さんしょう魚」ともなる。被差別の習慣が広まってしまった為でもあるが、喜田貞吉説も産所と文字通りにとって誤っている。 なにしろ唐語のブシン(不信)つまり信用できぬ輩とし、召し使われ、それが武力をもってついに公家を押さえつけ、公家対地下といったのが実力で逆転。下克上の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となると、かつては非人とか八部とよばれた蜂須賀小六も阿波の大名となる。傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。関白の一条兼良は足利末期の藤原系で仏派ゆえ、寺を荒す彼らを悪党と呼んでいる。 部落とは騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、藤原時代には良でない人口九割の賎の民をとじこめ、反仏派の北条期には源氏の「四つ」をはじめ、赤系でない者を追い込んだ。 足利幕府になると今度は逆で、赤系の祇の「八つ」も反体制の南朝方と、橋のない川へ入れられたのが実際の処で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。 さて拝火宗で「祇」とよばれる「八」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には施政方針を「四つ」と「八つ」を交互にくりこんで、互いに牽制しあわせて被差別。藤ナイ[内?]は十世紀流入の契丹系をさす。 契丹は唐を滅ぼしてとって換った国ゆえ、大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。だが、太平洋側に黒潮で這い上がった「八つ」は八母音の原住民で、農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる飼戸(しこ)。 千の宗易こと俗に言う利休の自決後、その木像を八付にかけた後、その一味のササラ衆を部落に追い込んだのが茶せん部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。 また、昔はハングリースポーツ興行だった角力は「オドマ勧進」[五木の子守り歌で有名な?]の、勧進元で取り締まっては八百長で儲けていた。儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存の旦那などいないからして、一向宗は部落に目をつけた。悪人でも念仏を唱えれば善人に生まれ変わる。部落民でも信心すれば常人に生まれてくるのだと、真言宗の本願侍説教僧が信徒にして廻ったので、寺人別の数は増えた。 だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。僧へ絶対に近寄らなかった原住民の全体は、この百倍以上が実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。 日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。 ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。 が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。 国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。 ☆ ☆ ☆ というように、日本史は、植民史、奴隷史ともいえ、なぜいまの日本人がナイーブで騙されやすいのかが、このような八切史観から明らかになる。そもそも「日本人」という呼び方も洗脳であるのだが…。権力者のやっていることは、偽ユダヤの連中と同じであることがわかる。日本人ほど奴隷化され、個性を奪われてきた人たちはいないともいえる。
2013年12月10日
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偽ユダヤ独裁傀儡国となったこの国はお先真っ暗と滅亡崩壊へとまっしぐらです。馬鹿マスゴミが戦中と同じように金銭に目が眩んで亡国選挙を誘導したせいです。 偽ユダヤたちが質素倹約の生活をしない限り経済的不幸は続くと思っていいでしょうし、連中は借金を戦争でチャラにしようなどと虫のよいことばかりを考えていますから、もう馬鹿は死ななきゃ治らないです。 さて、御馴染みのサイトから、アホ政権の行く末を紹介したいと思います。警告しても無駄なんで馬鹿馬鹿しくなっています。日本人はいつからこんなにアホ馬鹿になったのか? ☆ ☆ ☆ 秘密保護法の強行採決と消費増税と内閣支持率 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20131209/1386556275#seeall 特定秘密保護法の国会審議が十分でなかったと考えている国民が、85%にものぼっているそうです。JNN世論調査 秘密保護法の国会審議「十分でなかった」が85%先週金曜日に成立した特定秘密保護法の国会審議について、85%の人が十分ではなかったと考えていることが、JNNの世論調査で明らかになりました。調査はご覧の方法で、この土日に行いました。 まず安倍内閣の支持率ですが、「支持する」と答えた人は前の月と比べて13.9ポイント減って第2次安倍内閣が発足して以降、最も低い54.6%となりました。支持率が60%を切るのは初めてです。 次に、先週金曜深夜に成立した特定秘密保護法について、成立を評価するかどうかを尋ねたところ、「評価する」は28%で、「評価しない」と答えた人はおよそ倍の57%でした。また秘密保護法の国会での審議について十分だったかどうかを聞いたところ、「十分だ」とした人は8%で、「十分でなかった」と回答した人が85%に上りました。「不十分」と答えた人は、与党の自民党と公明党の支持層でも7割を超える結果となりました。 さらに野党との修正協議により国民の「知る権利」を侵害する懸念はなくなったかどうかを尋ねましたが、「なくなったとは思わない」が79%に上りました。 次に消費税率を再来年の2015年秋に10%に引き上げることについて尋ねたところ、反対と答えた人が58%で賛成を上回りました。また、10%引き上げの際に食料品などの生活必需品を低い税率にするいわゆる軽減税率を導入することについては、「導入すべきだ」が82%を占めました。 第2次安倍内閣は今月末に1年を迎えますが、安倍政権が長く続いてほしいと思うかどうかを尋ねたところ、59%が長期政権を望んでいることがわかりました。 また総理大臣にふさわしい政治家を聞いたところ、安倍総理を挙げた人が13%、小泉進次郎氏が7%、自民党の石破幹事長が3%などとなりました。 政党支持率は自民党が前の月と比べて7.1ポイント減らし、30.3%となったほかは、ご覧のようになっています。(09日01:42)TBS系(JNN) 12月9日(月)5時23分配信http://www.freezepage.com/1386553958KGPZJUDZQG さすが、不正選挙で首相の座についた安倍偽総理! 国民の9割近くが嫌がっている秘密保護法をサクッと軽やかに決めてくれますw そして、さらに記事を追っていくと・・・ 「消費税率の10%に引き上げについて、反対と答えた人が58%」だとか。 9割近くの国民が嫌がる、国民監視&弾圧法と最も国民が嫌がる増税を推し進めている安倍ちゃん、さぞや、国民に嫌われているんだろうなーなんて思ったら・・・ 国民の「59%が長期政権を望んでいる」んだとか? いつから、日本の国民って頭がおかしくなったんですか? ねー、JNNちゃん(笑) ユダヤ米国の焦りが、手下の安倍ちゃんのゴリ押しを生んで、遅ればせながら、ここに来て「おや?おや?」と感じる人が急増しています。 さらに、辻褄を合わせようとするマスコミ部隊の記事が、どうにも変すぎて、ますます失笑&覚醒者劇増中です!w ▼四大新聞社の裏側と実態!(まとめ) http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120117/1326761770 ▼電通の正体とマスコミ支配の実態 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120201/1328055834 ☆ ☆ ☆ こうなったら、偽ユダヤの悪事を全世界で告発するしかないでしょう。悔い改めよ! 偽ユダヤたちよ。
2013年12月10日
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今回は、秘教学(オカルト)の記号や象徴のいくつかを述べるつもりだが、その際、これらの記号や象徴の意味、意義を単に知るだけでなく、親密な感情や心情をもつようにしていきたい。 神智学徒全般にお馴染みな神秘学(オカルティズム)や神智学(テオゾフィー)では、様々な記号や象徴図が使用されている。そして、このような記号や象徴図を解釈するのに、多くの考えが費やされ、解釈がなされていることも周知の事実である。 さて、今回は、このような考えや解釈の多くが不適切で、そもそも(唯物論からなる)現代的な思考や解釈というものが、秘教学の記号や象徴図の本当の意味にアプローチする力をもっていない、ということを示したい。 神秘学者(オカルティスト)は、一般的な解説書や著作で言及されているような記号や象徴図の意味には全く見向きもせず、そのような通俗的解釈の及ばないところに、秘教学の記号や象徴図の意味を見つける。つまり、民族に伝わる神話や伝説のなかにこそ、深い秘密(オカルト)の真理が隠されている。 このような神話や伝説を解釈する際に通常犯されている過ちは、端的にいえば、あまりに空想的で、突飛な考えが費やされていることである。現代的な分別知により、深く考え過ぎている、と言ってよい。 これまでの講義では、このような主題を汲み尽くすことができず、警告するだけにとどまるが、それでも、秘教学の記号や象徴図に含まれている高次の世界、つまりアストラル界、神界ないし霊界と呼ばれる世界についての関係をイメージできるように描いてみたい。 日常の言語を用いて、何か高次のものを解釈するときには、よく特定の具体的な比喩が用いられる。例えば、「認識力」や「洞察力」について、具体的な比喩を用いる場合、「光」とか、「光を認識する」という風に表現する。 こういう単純な言語表現の背後に、何か途方もなく深い意味が潜んでいる。このような表現を用いても、その深い意味を全く意識せず、例えば「光」という比喩が「認識力」や「洞察力」とどのように関係づけられているのか、ほとんど考えもせずに、今日の詩人の比喩のようにみなしている。 もし神秘学(オカルティズム)のなかで、このように比喩の意味を考えるなら、道を誤ることになる。真実とは遥かに深遠である。今日の言語で象徴化され、比喩化され、あるいはアレゴリーとして表現されているものは、大抵曲解されたものである。 例えば、ある記号は、単純に、象徴(代表)化されたものと安易に考えられている。神秘学の記号は象徴(代表)的に用いられることはない。神秘学(オカルティズム)では、ある記号を1つの事象に用いるとき、深遠な関係が必ずある。 神秘学の観点から、自らの環境について、どのように人間が位置づけられているかについて、少しばかり霊的な直観力を働かさないと、神秘学の記号や象徴図のなかにある高次の世界との関係について、明確にはできない。 今日、神智学として知られる神秘学の基礎知識が、いつかより深い意味で、この世に、その使命を果たすとき-まだはじまったばかりだが-、いつの日にか神秘学の真理と衝動が、人間の生活や文化から派生する様々な支脈に浸透するようになったとき、人間の感覚や感情や意志の生活全体への人間の位置づけそのものが本質的に変化していることだろう。 今日の人間が、外界に対してどのように位置するかを示すなら、次のような結論に至る。 この数世紀以来、人間は外界に対して一層益々抽象的、合理的、唯物的な関係をつくりあげてきた。 今日野原を歩く人は、春でも、夏でも、秋でも、四季を問わず、眼前に現れ、感覚が受け取り、感覚から(その人の)知性で解釈できるものだけを見ている。その人に美術的な天分(知性)があり、何か詩的な感受性(感覚能力)があれば、その知覚(知性)から、感覚を感情で満たし、自然のある事象には悲しみや苦しみを、また別の事象には、高揚、喜び、楽しみを感ずる。 (霊魂は、経験のデータベースと考えられ、周囲の変化についての知覚から、自分のなかの経験を検索し、感情を当てはめる。この働きから、トラウマが説明できる。) けれども、現代人の場合、無味乾燥な感覚からの知覚が、詩的、芸術的な感情に転ずるときでも、皮相的で、単なる上辺にすぎないので、本来は、理性や知性、つまり頭脳ではなく、神秘学でいうところの魂と心に作用しなくてはならない。 神智学により、記号や象徴図から、物質界、アストラル界、神界のあらゆる事象のイメージ的な要約を与えられるだけでなく、それらがもつ関係が、魂に深く親密になり、魂が以前とは違った感覚を受け入れ、感じ、学ぼう、とするようになったときはじめて、神智学は人生における重要な転機となる。 特に明確にしておくべきなのは、神智学と神秘学を通じて既に以前強調したこと(霊視できる人が増えてくる)が現実となって起こってくる、ということである。つまり、人類は感覚により現われる外界のなかの事象の背後に、魂的、霊的な存在が自らを開示する顔貌、身ぶり、表情を見てとるようになる。更には地球の外での現象、つまり天体の運動の中にも、霊的、魂的なものの表現を読み取ることを学んでいく。 例えば、人の所作や眼差しの中に魂を読み取るのと同じように見て取るようになる。このようにして例えば晴れていく大気の中に、空気、水、土に真に浸透している様々な霊的存在による内的な経過が外的に現われる顕現を見ることを学んでいく。
2013年12月09日
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今度は、味覚との親和性の例証をする。例えば、甘草の味、もしくは甘い葡萄の味を考察すると、嗅覚と同様のことがわかる。外界のものを味わう感覚は、嗅覚の器官で生じる経過ではなく、味覚の器官で生じる経過である。 味覚器官は嗅覚器官と親和性を持っている。自然の事象(出来事)について、味覚により生じる経過と、嗅覚により生じる経過が、互いに親和性を持つことがすぐにわかる。 しかし、味覚は、嗅覚よりも、遙かに人体内の経過であることを明確にしておく必要がある。嗅覚は人体の内部というよりもむしろ表面で生じる。嗅覚は、外の空間(外界)へと、人間の感覚を拡張(展開)する、いわば拡張の経過に関与する。 味覚は、拡張(展開)の経過ではない。味覚を通じて、むしろ人間は物質内に潜在する特性、つまり実質と結びつく特質に到達できる。嗅覚を通じるよりも、味覚を通じて外界のものがいま考えているのは植物だが、人体内において、その特性を明らかにする。 すなわち、少々の超感覚力(イントゥイション)の支援を受ければ、次のような結論に至る。 「植物の硬化の経過や器官形成の過程全般(エーテルから物質への作用)、つまり植物のなかの特性(エーテル)は、味覚により、姿を現わし、自らを開示する。」 しかし、逆に、植物自身は、硬(物質)化に抵抗する。植物の硬化への抵抗は、植物が芳香の発生を誘導する経過に現われている。従って、味覚は、本質的に、エーテルと物質に関わる経過であることに疑いの余地はない。 では、今度は、嗅覚と味覚を同時に考察する。 人間が、植物の花の匂いを嗅ぎ、植物の果実などを味わいながら生きることによって、人間のエーテル体が、植物を通じて、アストラルと物質という両方向に対し持つ関係のなかに実際に生きることになる。 嗅覚と味覚に注意を払えば、人間のエーテル体に刻印された事象を読み取ることができる。人間が、匂いを嗅ぎ、果実などを味わうことで、基本的に、人間のエーテル体が、アストラルや物質と関わることになり、人間のエーテル体が、物質界に顕現する。 上記のように、嗅覚と味覚において生じる経過を調べることで、人間が、それらの相互作用の最前線(超感覚)にいることになる。 実際、現代に必要なことは、人智学の側面から真の科学の結実に向けて、抽象的で、神秘主義的な知見を超えて、具体的な霊の理解へと実際に突き進むことにある。 相も変わらず、「人間のなかの神性を理解せねばならない」、と説諭するばかりでは、無駄に時間を過ごすだけである。この「神性」という言葉のうちに、説教者が理解しているものは抽象的な神性にすぎない。 神性についての考察が実用性をもたらすのは、具体的な現象を実感でき、外界の経過が具体的な意味で、人間の内面の経過になっていくのを観察するとき、つまり、例えば、人間が、嗅覚や味覚を通じて、親和しながら外界に生きる存在やエーテルを実際に観察することにある。 すなわち、外界のエーテルが、人間のなかで、いかに内面化されていくか、もしくは、嗅覚や味覚よりも粗雑な物質的人間の上部組織の感覚経過のなかに、外界の経過が、直接、内面化していくのを見て取る、という観察にあり、現代において極めて重要なことは、単なる抽象、神秘主義を超えることにある。
2013年12月09日
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人智学徒が「エーテル体」、「アストラル体」などと言う場合、人智学の理念を短縮し、簡潔にするような意味をもつため、このような用語を使用せざるを得ないが、「エーテル体」、「アストラル体」などの用語によって、いわば物質界に現出した事象をそのまま解釈できる。 ただ現代は、物質現象のなかに現われる背後の存在を、霊的存在として正しく関係づける方向になく、真の医学的な思考や霊的な直観[Anschauen]の獲得のためには、上記のような人智学用語が必要となる。 更にまたエーテル体と物質体との相互作用は、本質的に、どのように生じているのか、ということにも立ち入って行く必要がある。 人体のなかではエーテル体と物質体の相互作用が起こっていて、以前、この相互作用のある側面、つまり、アストラル体の作用に対して、この相互作用が一種の混乱状態になる場合について述べた。この相互作用は、人体の外の自然においても起こっている。 さて、上記の考察を最後まで追求していくと、実際に、人間と外の自然との関係を根本的に見通すことができる。外の自然を眺めれば、周囲には、ありとあらゆる種類の植物が広がり、その植物を、様々な感覚を通じて知覚できる。 周囲を眺めれば、そのなかの植物を、様々な感覚を通じて知覚できるが、第一に、植物と地球の大気との関係、第二に、植物と、大気の外の天体の力やアストラルとの関係が少なくとも予見できる。 地球の植物を観察するとき、植物は、地表面から(下図参照)、大気やアストラルへと生命力を示している。植物のアストラルへの生命力は、地球外の天体を目指し、下図の矢印のような力を呈している。 秘教学[Okkultes]を理解できなくても、次のように予見できる。 「外界において、植物として現われ、その開花や結実として現われる生命力と、遙か彼方の全宇宙からくる力との間に活発な相互作用が発見できる。」 更に、上述の相互作用から目を転じ、人体内へと直観力を導く必要がある。この直観力を導くには、多少の超感覚力(霊的な直観力)の支援を必要とする。既に述べたように、医学においては、超感覚力(霊的な直観力)の支援なしでは何もできない。 つまり、外界から、この直観力を導き、人体内にも、この直観力を用いると、人間の外にある力との親和性が発見できる。 このような親和性から、次のような結論に達する。 「植物のなかでは、エーテルと物質が密接に結びついている。植物のなかのエーテルと物質の結びつきと、人体内のエーテル体と物質体の結びつきに、親和性があることも予見できる。」 さて問題は、このエーテルと物質の親和性について、どのように外(物質)的、具体的に答えることができるか、ということにある。さしあたり、抽象的には、次のように答えることができる。 「エーテルは、上方にむかって開いている点で、物質よりもアストラルに近い。」 しかし、「エーテルは、物質についても何らかの関係をもつ」ことにも言及すべきである。 このようなエーテルの二重の親和性、エーテルが一方では物質に、他方ではアストラルについてもつ二重の親和性に注目すべきで、更に、この二重の親和性に導くものを探究していかねばならない。 では、どのように、この二重の親和性へと導かれるか、ということを、できるだけ具体的に述べる。 例えば、花が満開の菩提樹[Linde;西洋ボダイジュ、シナノキ科]の並木道を歩いてみる。花が満開の菩提樹の芳香のなかを通り抜けていく様子をできるだけ明確にイメージしてみる。 嗅覚器官のなかに、いわば網の目状に拡がっていく神経と、この菩提樹の花の芳香との間で、1つの知覚の経過が生じることがわかる。 更に、この知覚経過に注目すると、この経過が、菩提樹の花の芳香や匂いについての嗅覚力の発露(発現)[Aufschiessen]であることがわかる。 そして、次のように結論できる。 「この知覚経過は、外界を人間の内面へともたらす経過であり、この外界の内面化は、人体内との親和性により、外界の経過に沿って、人体内の経過が共に遂行された結果から生じる。」 更に、次のように結論できる。 「菩提樹の花から、外界に発散されている芳香は、地球の外の全環境に向かって開く植物の生命(エーテル)力と、地球の外の全環境(アストラル)との相互作用に基づくが、このような芳香が、いわば嗅覚という人間の知覚のなかで内面化されている。」 知覚のお陰で、人間は、エーテル体の作用を、アストラル体に内的に与えることができる。このアストラル体へのエーテル体の作用は実存する。この作用がなければ、人間は何も知覚できず、単なる生命経過を辿るだけの機械的な存在になってしまう。 事実、人間の嗅覚器官そのものが、アストラル体の関与を証明している。しかし、外界との親和性をもつ嗅覚器官が同時に人間に示すことは、菩提樹の花の甘い香りの発生は、確かに嗅覚器官のなかで起こる経過であり、ある意味、人体内との親和性をもつが、外界とは、対極(反対側)にある、ということである。 実際、霊視すれば、菩提樹の花から拡がっていく甘い香りのなかに、植物のエーテルと、その周囲にある宇宙空間を遍く充たしているアストラルとの相互作用が発見できる。 従って、人間は、匂いを嗅ぐ行為のなかに、1つの知覚経過をもち、この経過を通じて、地球外のアストラルに親和性のある植物のエーテルの経過に関与する。
2013年12月06日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 徳川政権は彼ら庶民のための警察機構は作ろうとはしなかった。お上に反抗するものは取り締まったが、庶民同士の争い事には知らん顔である。「大岡裁き」などありえようはずがなく絵空事である。庶民同士の争いに国家が介入するようになったのは、西郷隆盛が実質的首相のときに実現した。 西郷が庶民を救って自由にしたのである。明治天皇は西郷を好きだったそうだが、それは彼=大室寅之介が本当の明治天皇の成り済ましだったから、自らの出身が「囲い地」のゆえに苦労を知っていたからではなかったか。 部落は、必ずしも南朝方、あるいは騎馬民族系=源氏系の者ではないが、一応彼ら「白山信仰」の者、源氏の「白」と世間では決め付けていたので、その者らを「しろうと」=「素人」と呼び、仏教系の体制側についた者を「黒うと」=「玄人」と称するようになった。 玄人とは「黒」すなわち仏教徒坊主の衣〔墨染めの衣〕の意味である、しょせん、素人〔白=源氏=反仏教〕は、体制である仏教徒=玄人にかなわない、ということ意味だ、とされているのだが、これは本来的には間違いだと八切止夫は言う。 玄人とは、「玄の人」つまり原人=日本土着原住民〔最初から日本人〕のこと、最初からの日本人のことだと彼はいう。それが仏教を持ち込んだ支那系の仏教徒の意味に変えられたのは、明らかに作為だと八切止夫はいう。 何が作為かというと、これによって、被差別部落〔囲い地=除地〕は帰化人の溜まり場なのだという間違った知識を植え付けることになったからである。今でももしかすると、同和の先祖は帰化人なのだと思われている人がいるかもしれないが、それは仏教坊主が意図的に悪意で広めたウソだと八切止夫は言うのである。 ☆ ☆ ☆ ついでにいうと、本来、6、7割の被差別民には、墓がなかったという。仏教徒でなかったからである。八切史観によれば、墓は明治維新後にできたもので、坊主が農奴を囲っていたのが、維新で、西郷の農地改革となり、坊主から農奴を解放したから、坊主が食い扶持を確保するためだったそうである。 西郷も反仏だったはずである。信長も反仏だったので、信長の墓は嘘だという。坊主が観光客を集めるためにつくったものと考えられるそうだ。桂(木戸孝允)は、維新の人物を対象に盛んに墓をつくったが、それも観光事業や寺のためなのだろう。 このように八切史観から考えてみると、いまだに洗脳から解かれていない日本国民の実情が明らかになる。 つまり、日本は古来より、大陸からの支配を受け、日本の政権は、大陸の傀儡政権だったことがわかる。対して、大陸から討伐され、部落へと押し込められた大半の原住民が圧制に対して立ち上がったのが、南朝革命論であり、主なものは、後醍醐天皇のときと、戦国期の下克上、そして幕末の吉田松陰による南朝革命の明治維新である。 後醍醐天皇のときは大陸の意向を受けた足利尊氏により、九州から攻め入られ、半ばで挫折し、このことは、Y染色体アダム説のハプログループからわかるが、その足利政権も、圧制をしたので、権力闘争に陥り、戦国期となり、反仏教の部落民の信長、秀吉が出て、秀吉が大陸の明(唐)に討ち入りし、大陸と対等の日本をつくろうとした。 しかし、結局は、明により従属国とされたため、二度目の討ち入りをするが、志半ばで死に、徳川家支配に代わり、大陸からの傀儡の朝廷と距離を置くことで、安定したが、幕末に、西洋によるアジア進出により、大陸が侵略されたので、日本でも、身分制度による圧制に奮起し、再び部落解放運動が盛んになり、南朝革命による長州の部落出身者が明治帝となることで、体面上は西欧列強に対することで、大陸と対等の位置にまで上りつめ、明治維新により、長州出身者が徳川家に成り代わり支配勢力となる。 しかし、西洋の魂胆はアジア人同士を闘わせて、漁夫の利を獲ることなので、実際そのようにして米国という土地を支配し、最大の殖民国をつくったが、その手法を、長州らがメーソンにより教えられて、アジアに傀儡政権を立国したのが満州国である。 白人の支配者たちは、自分たちはよいが、アジア人に同じことをさせるのは気に入らないので、満州国を潰しにかかり、西洋社会から日本人外しにかかる。案の定、国際連盟を脱退し、日本は孤立してしまい、ABCD包囲網を築かれ、太平洋戦争へと誘導され、白人の殖民国の米国に原爆をも落とされて、潰され、今度は、米国の支配下におかれ、かつての部落民のような立場におとされているのが現状である。 白人の支配者層が贅沢で豪勢な暮らしを続ける反面で、天文学的な借金を肩に、莫大な税金を奴隷として肩代わりさせられ、背負わさせられているのである。米国民は約2京円、日本国民は約1000兆円である。 これらは米国債を発行しなければできなかった借金で、その米国債を買わなければできなかった借金である。1%の特権階級のために、99%が働かされている構図である。この天文学的借金は白人支配層の無能さをそのまま物語るものである。 現政権が米国の上層部から任命されているのは明らかである。米国の支配層が決める法案が、日本の官僚により実行されていることからもわかる。これが日本の現実である。 日本史で有名な人物、信長、秀吉、家康、西郷などが人気があるのは、従来の身分制度を打破し、部落民を解放したことにあるが、体制側の権力者が、それを隠し、偽装したのが、誤って伝わってはいるが、心情的には伝わっているからである。 なぜ、信長、秀吉が天下統一をしたのか、秀吉が大陸を攻めたのか、家康が公武合体を図ったのか、そして、西郷が、明治政府に反旗を翻したのか、全ては、日本の被差別階級や圧制をなくし、身分を対等にするためであることがわかる。 権力者に取り入れば楽な暮らしはできるかもしれないが、その楽な暮らしは死ぬまでのことにすぎず、奴隷となんら変わりはない。それよりも、この世を権力者のいない平等対等の平和な世界にすることこそが唯一の解決なのではないか?と思うわけである。 人類にとっても最も不必要なものは唯物論であり、その代表の優性学である。人種や民族に優劣などないからである。
2013年12月05日
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このブログでは、再三にわたり、八切史観を紹介してきたが、日本の歴史の裏側がみえてくるので、以下に再度抜粋紹介したい。 ☆ ☆ ☆ 八切止夫史観から見る庶民の暗黒史(1/2) http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/352718330.html 《1》 昨日の「バカ・アホ」の分布の考察で、八切止夫の史観にちょっと触れたが、その続きで、彼の言い分をもう少し。 何度も本ブログで八切止夫の日本史を紹介してきたが、私は高く評価するので、機会があれば何度でも取り上げたいと思っている。 八切止夫の日本史によれば、白村江の戦い〔663年〕で敗れた日本原住民〔すなわち平家系と源氏系〕の国家は、進駐してきた支那軍〔藤原政権〕とそれにへつらって支配階級に帰順した百済系〔南朝鮮系。のちに大和朝廷で貴族化する〕によって支配されることになった。 白村江の戦いの時期はざっくり言って大化の改新のころである。 支那人〔藤原氏〕(Y染色体アダム説だとハプログループO3)と百済系朝鮮人は、貴族階級を形成し荘園制度の下、のちに平家系の庶民となる住民を仏教に帰順させるとともに農耕漁業などの一次産業に従事させる。それ以外の源氏系と平家系で帰順しない〔仏教徒にならない抵抗勢力〕は、囲い地〔今日言うところの被差別部落〕に押し込め、出てこられなくした。天皇はお飾りである。 藤原政権は被差別のものを、「五色の賎」と称して「綾戸、雑戸、家人、公奴婢、私奴婢」の5つに分けていた。 こちらの政策は歴史に隠されてしまい、天皇の権威化だけが日本史の主流であるかに偽装された。 平安末期に平清盛が代表する平家一族〔和歌山あたりに漂着したマレーシア方面からの民族〕が一時藤原氏にとって替わって隆盛を誇るのだが、これを旧来の〔伊豆に分布していた〕平家=北条家が、馬をつかった機動力に優れた源氏〔源頼朝や義経〕を利用して壇ノ浦で撃破し、再び南方へ追いやるのである。 壇ノ浦で敗れた平家(Y染色体アダム説だとハプログループO2)はいわゆる「平家の落人」にはならず、船でほとんどは南方へ逃げ帰ったのであった。北条平家は首尾よく源氏をつかって天下を取ると、ただちに源氏一族〔義経、頼朝の子、梶原氏などの武将〕(Y染色体アダム説だとハプログループDかC)を滅ぼしてしまう。 源氏一族は使い捨てだった。そうやって北条氏は平家系の民族をいったんは平安時代の藤原氏の抑圧から解放するが、一方で源氏系を再び弾圧し、これを囲い地に押し込める。これら源氏がいわゆる「平家の落人伝説」となる。 時は流れて鎌倉幕府〔北条平家政権〕の末期、元寇によって平家は権力が弱まるとともに、後醍醐帝という権力亡者の少しおかしな天皇によってガタガタにされ、鎌倉幕府は滅びてしまい、南北朝時代となる。 後醍醐帝は天皇家だから武力を持たないので、兵力として囲い地に追いやられた源氏系の連中を使うのである。結局、このときは北朝が勝って、南朝は逼塞させられるのだが、この後醍醐に仕え南朝を支えたのが囲い地〔被差別部落〕にいた源氏系または山中に隠れていた原住民だった。楠木正成はこの一党である。 北朝が勝って足利時代になると南朝方になった地方の者はみんな反体制とされて被差別の人間にされた。これらを再び「除地」と称する囲い地に押し込めた。同時に北条政権側だった平家系の者も再び平安時代のように差別扱いされ、農奴に戻されたのだ。 ここで歴史を区切って、この平安朝から南北朝あたりにかけて、日本の人口の約6~7割は王朝時代〔藤原時代〕と足利時代に農奴にされた農奴であり、山中に逃げ込んで反仏教で抵抗した源氏系などを入れると約85%が被差別人というか非支配階級とされたのである。人間扱いされなかった。 この連中=庶民のうち、美しい娘や働き者は妾や娼婦に取り立てられ、また男で丈夫で働くものは囲い地から出されて下人にされた。百姓や漁師にさせられたのである。この連中を称して支配階級は「阿呆」と蔑称したと八切止夫は説く。 平家系庶民は「八」とも呼ばれ、また「天の民」あるいは「天(あま)」からとって「あ」の民とも呼ばれた。その「あ」だから「あほう」なのである。旗印から「赤」でもあった。 同じ阿呆と分類された庶民でも、源氏系は馬や牛、つまり運搬業に関わるため「馬鹿」と蔑称されることになっていく。だから、馬や鹿は4つ足なので、源氏系を「四」と呼んだ。「四谷」などの地名は「四つの民」が居たところである。旗印から「白」である。 こうして見てくると、アホは西日本で多くつかわれ、バカは東日本で多くつかわれる理由が、大雑把には西日本には平家系が多く、東日本は源氏系が多いから、という推測がなりたつのかと思われる。 この差別、被差別体制が壊れるのは、織田信長や秀吉、家康といった戦乱の中から登場し、被差別人から成り上がった武将による。信長、秀吉、家康は、いずれもいわゆる被差別部落から脱出して武将になった者で、美濃、尾張、三河といった地域から登場している。 この地域がまたかなり特殊な地域で、昔から平家系〔南方系〕の一大集落があったところであって、中央権力から大きな囲い地とされていた処なのである。 「他外(たわけ)」の地区である。ここから奇しくも信長、秀吉、家康が出て天下統一を実現させた。彼らは大きく言えば、部落解放に立ち上がった英雄であった。つまり「他外」による叛乱である。 では徳川政権が熱心に部落解放をしたかというと、そうでもない。取って代わっただけである。とくに5代将軍綱吉あたりから、徳川家は家康の正当な家系〔赤、平家系(白、源氏系の間違いでは?)〕が消えてしまい、済州島から来た朝鮮人によって徳川家が乗っ取られてしまう。それが八切止夫の説である。 八切止夫史観から見る庶民の暗黒史(2/2) 《2》 徳川将軍は途中から朝鮮人系統になったと八切止夫は説く。 (五代綱吉からで、生類憐れみの令と関係するそうである。被差別部落が皮剥ぎなどの商売をしていたことから、その商売を制限するため。) 尾張徳川家は、徳川家のなかで最高の家格とされながら、ついに将軍を出せなかったのは、そのあたり〔つまり朝鮮系でなかったため〕に原因があるのではなかろうか。徳川家でありながら、尾張だけが純粋な〔?〕日本人の系統だったから、いわば名義だけ残すために尾張が存続したのではないだろうか。 家康の出身地から将軍が出なかったのは不思議である。偶然ではあり得まい。 将軍が朝鮮人系統になったせいもあって、いっそう徳川体制と仏教寺院によって日本の人口の八割の被差別部落あるいは農奴が支配される時代になっていったのかもしれない。 仏教寺院は庶民の、農奴や被差別の民に等しい庶民の把握のために今日で言う戸籍を管理していた。そしてどの農奴の男と女を結ばせて子を得るかの指図を坊主がやった。 庶民や農奴は当人の意志で自由に結婚なんかできなかった。 ついでながら、長崎県対馬市の観音寺から韓国人によって盗まれた「観世音菩薩坐像」が、韓国で発見されながら韓国の裁判所が返還差し止めの仮処分を決めた問題はあっけにとられたけれども、そもそもなんで寺に仏像が大事に置かれていたかといえば、信仰のためというよりも庶民を仏教で縛るためだったのである。その意味では後生大事に文化遺産などとしておく必要はなかろう。 さらに言えば、露骨に「当麻寺」なんて名が残っているが、寺は庶民に大麻を吸わせて、「これが極楽だぞ」と信じさせていたのである。その名残が「当麻寺」となったが、今はその秘密は隠蔽された。今日でいえば、日雇い労働者に覚醒剤を与えて支配しているようなものだった。 それが江戸期を通じて徐々になし崩し的に壊れていき、明治維新で〔フリーメーソンの策謀はあったにせよ〕庶民の解放が一気になされる。 江戸期のなし崩し的解放とは、8代将軍吉宗時代から始まった、当時の大都会、江戸、名古屋、京都、大阪への人口集中現象であった。吉宗は「五街道目付」に命じて、主要街道の庶民の出入りなどの監視を〔経費節約を名目に〕庶民自身に担当させることにしたのである。庶民の中の、旅芸人や旅商人として許可した者〔囲い地から特別に出ることを許された者〕に、公認の朱鞘の刀〔武士は黒鞘〕と捕縛を持たせたのである。 (黒は大陸系の唐の色で、赤、朱は平氏の色) 庶民に「お上御用」に担わせて、人件費をかけない監視体制を取ろうとした。「分割して統治する」であったが、これはまったくのアイデア倒れであって、徳川政権からすれば大失敗、庶民からすれば天佑となった。 庶民から監視役を抜擢したために、これはチャンスとこの〔仲間の〕朱鞘の者=監視人に渡りをつけて、被差別部落ないし農奴とされた仲間たちが次から次に囲い地や農地から脱出して、博多、京阪、名古屋、江戸へと大移動を始めてしまった。銭で「町人別」を購入して、都会で商人や職人になっていった。 だから大江戸は当時世界一の100万人都市になった。 一方で警察の前身がこの「朱鞘」の木っ端役人だったから、もともと「囲い地」の出身であり、ゆえにヤクザと親戚だし、平気で税金を裏金に貯えることを集団でやらかすのだ。 勝手に自由になった彼らが町人文化を花開かせる。勝手に囲い地から脱出したのだから、いわゆる政治的に国なり体制なりが身分保障しているわけでもなく、戸籍で証明されているわけでもない、いわばみんな脱獄囚のようなものだったのである。 明治維新になって日本の人口を調査したら、予想の倍も実際は人がいて、明治政府は驚愕したのだ。とても全国民を喰わせられないと踏んで政府は海外移民という棄民政策を実施する。 海外に売り払ってしまえと提言したのは福沢諭吉なのだ。諭吉も侍だったから、庶民がそもそも元は囲い地からの脱走者だったことを知っていたからだろう。囲い地の人間の命など鴻毛より軽かったのだ。 海外棄民の一例が「からゆきさん」である。そうやって庶民を大量に海外に捨てたので、運搬した商船会社は大儲けし、その海運会社の大株主だった天皇家も巨大な蓄財をなした。 庶民のほうもお互いさまだから、人権などなく、よって明治以降の軍隊では周知のように、内務班は陰惨なイジメの場となった。 海軍では軍艦の下働きにされた庶民〔水兵〕には、便所もろくに設置されなかった。 彼ら庶民にまがりなりのも仲間意識が芽生えたのは、軍隊とか学校教育とか対外戦争とか、新聞のおかげであったのだろう。そうやってやっと多民族国家が「単一民族国家」に出来上がっていった。 (洗脳である。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年12月05日
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さて、前回は、八切史観により、坂本龍馬という英雄が、岩崎弥太郎の三菱と、福岡孝弟らによりつくりあげた虚像であることを紹介した。 だから、龍馬暗殺について重要なのは、岩崎と福岡らの土佐藩で、そのなかでも特に重要なのは、表向き、龍馬暗殺の犯人を探す、といいながら、やっていることはそのもみ消しで、独断で新撰組の仕業とし、投降した近藤勇を殺している谷干城である。 従来の龍馬暗殺の話は、この谷が、現場に駆けつけ、まだ息のあったとされる中岡慎太郎から聞きだしたものが土台になっているようである。だから、谷が嘘をついていたら、元も子もない。第一疑問なのは、土佐藩の連中がなぜそんなに早く駆けつけられたのか、ということである。 この谷の証言によると、中岡はまだ虫の息があったから、確実に殺すという暗殺の意味では、狙われたのが龍馬であることを述べている。 谷以上に、特に福岡は怪しい。暗殺される前に、龍馬が二度も福岡邸を訪問しているからである。しかも、この福岡は、龍馬の葬式には顔をみせずに、批判されたという話もある。だから、土佐藩の連中が何かを隠していることだけは確かだろう。 しかし、暗殺されるにはそれだけの理由があるはずだ。脱藩浪士とはいえ、龍馬は、土佐藩にとっては邪魔な存在だったのだろう。 そこで龍馬が土佐藩にとって目障りな人物だった点を考えてみる。 前回紹介した話だと、 『現在では、龍馬の方が中岡慎太郎より有名だが、その中岡からして生存中は、坂本を認めていなかったのは前述のごとく彼の手記に殆どその名が出ていない点でも判る。 何しろ龍馬というのは、文久二年三月に土佐を沢村総之丞と脱藩したが、前後して京へ上がった者が、大和挙兵に参加し討死にしたり、捕らわれて処刑されたのに反し、彼だけは機を見るに敏で、さっさと事もあろうに徳川家の長崎海軍伝習所へ入ってしまったような男である。 「海援隊」にしても福岡孝弟が考えこれを作り、龍馬は、いわば雇われマダムの隊長にすぎなかったのである。だから、「船中八策」にしろ、全て彼の頭では無い。皆福岡達の受け売りである。 当時の京町西奉行滝川讃岐守より、京所司代屋敷への差紙にも、「土脱牢才谷〔坂本〕。東町奉行小栗下総守組下同心殺害の咎により」と、つまり国事犯として手配されたのではなく、殺人犯の不逞牢人として逮捕状が廻されていた程度の男である。 明治に入って「龍馬関係資料」の出版などは、大三菱がスポンサーになって出し、これを宣伝していたからである。というのは、福岡からの海援隊の船舶を預かったが、真面目に習練するような龍馬ではない。 岩崎弥太郎に貸してやって、その貸し賃で遊び回っていた。当今なら黒い霧、背任横領罪かも知れぬが、福岡はやらず、龍馬はやったのが、後世有名になる原因でもある。』 ということなので、この話から、当時は、龍馬よりも、中岡や福岡の方が重要人物としてみられていたようで、龍馬はまるで、土佐藩のひもの様な遊び人のようでもある。 遊び人にしては、不思議なのは、過激派集団であった土佐勤皇党のなかで、龍馬が、「徳川家の長崎海軍伝習所へ入ってしまった」ことである。この話では、福岡の使い走りのような存在にもみえる。恐らく、福岡の密偵のようなことをしていたのだろう。 だから、龍馬から土佐藩の内情を暴露されるのが不味いので暗殺されたとも考えられる。しかし、当時は、龍馬よりも中岡の方が有名だったそうである。中岡の陸援隊も、福岡がつくったものらしい。 陸援隊は、薩土密約のためにつくられたものらしく、なぜ海援隊とともにつくられる必要があったかと考えれば、土佐の藩論が、公武合体にあり、表立って、徳川家に反抗できないからだと考えられる。 しかし、当時はどの外様藩も、長州藩だけに限らず、いわゆる尊皇攘夷といわれているが、徳川家に成り代わり、自藩の殿様を将軍にする工作をおこなっていたので、幕府、つまり徳川家にはバレないように活動しないといけないわけである。 このことは、徳川御三家(江戸本家、紀州家、尾張家)と間違われている水戸藩などが、家康の遺言の「徳川家に大事あれば、南朝の帝をたて、徳川家を存続させよ」を持ち出して、斉昭は自分が将軍になるために、後の熊沢天皇などを秘匿していたことでわかる。 さて、どの藩でもそうだが、特に土佐藩では、表向き公武合体を装いながら、水戸、長州、薩摩の次の倒幕藩であったことがわかるのが、以下の京都所司代とも関係がある手代木直右衛門(勝任(かつとう):てしろぎ すぐえもん:なおえもん)の口伝であるので、あるサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 「会津藩公用人:手代木直右衛門」 手代木直右衛門は、佐々木只三郎の実兄である。その手代木が、死の床で語った言葉がある。手代木家私家版『手代木直右衛門伝』によると。 「手代木翁死に先たつこと数日、人に語りて曰く『坂本を殺したるは実弟只三郎なり、当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、深く幕府の嫌忌を買ひたり、此時只三郎見廻組頭として在京せしが、某諸侯の命を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠家を襲ひ之を斬殺したり』と。 ☆ ☆ ☆ 上の話だと、薩長連合は伝わっているのと同じだが、「土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたる」というのは、中岡ならわかるが、龍馬は大政奉還派の幕府側と伝わるのとは異なっている。会津側が拡大解釈したのか、恐らく、龍馬の話は、福岡が後に虚飾したのだろう。 上の「某諸侯」とは、恐らく、表面上公武合体の山内容堂のことだろう。すると、立場上困るのは、福岡で、海援隊や陸援隊などが、幕府に知られたら大事になる。つまり中岡(本名は石川)、坂本(才谷)が土佐藩士であっては困るので、脱藩させ活動させていたからである。 このことがよくわかるのが以下の薩土盟約と薩土密約である。ウイキからの評価を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 坂本龍馬が主導し、後藤象二郎らが行った薩土盟約は、大政奉還を成し遂げた功があるにせよ、たった2ヶ月半で破断した、薩摩藩と土佐藩のうわべ的な同盟であったのに比べ、薩土密約は、中岡慎太郎の主導による西郷と板垣の私的な密約ではあったが、戊辰戦争の東征においても、迅衝隊、胡蝶隊などが編成せられ参戦するなど、結果的には「薩土討幕の密約」は藩命よりも遵守され、平夷後も維新政府によって、この伏見での初期参戦が大いに評価せられ賞典を賜うこととなった。 ☆ ☆ ☆ というように、表向きは龍馬主導の薩土盟約、裏では中岡主導の薩土密約を、土佐藩と薩摩藩で行なっており、容堂が何処まで知っていたかは謎だが、中岡、福岡はどちらにも参加しているので、龍馬外しの密約であったことがわかる。 以上を考えると、薩摩の西郷か大久保が、龍馬暗殺の黒幕で、土佐藩論を討幕に一致させるために、容堂と、会津藩を嵌めた可能性が高い。つまり、土佐藩が討幕で一致すれば、土佐藩士が堂々と討幕に参加すればよく、海援隊や陸援隊は必要なくなるからである。実際は、土佐藩に吸収合併された形になったようである。 薩摩の西郷は、「押して駄目なら引いてみな」とよくいわれるように、一旦は、大政奉還で口裏をあわせておき、相手の出方をみて、重要人物を炙り出し、それが中岡、坂本だとわかった上で、同士討ちさせるように暗殺へと導いたのだろう。 西郷は、龍馬の背後に、勝-慶喜の命令を知り、龍馬が恐らく慶喜のスパイであることに気づいたのではないか? 龍馬は最初は土佐の福岡の召使のようなものだったが、長崎海軍伝習所に行くには勝の口利きがあったはずで、勝のスパイになったのではないだろうか? そのことが慶喜-勝から容堂にも伝わっていたはずだが、容堂の心底では殿様(自分)を差し置いて、という気持ちもあったかもしれない。幕府内でも、水戸藩と徳川江戸本家や会津藩とは仲が良くない。会津藩と水戸藩は、新撰組内の抗争をも起こし、芹澤鴨が近藤らにより殺されたのも、仲がよくないせいである。 色々考えると、中岡、龍馬暗殺は、結局、薩摩藩が土佐藩に対し、討幕側にくるのか、あくまで慶喜に組みするのかの、いわば関ヶ原の戦いの家康が、小早川秀秋にあえて鉄砲を撃ったのと同じものに思われる。 違うのは、会津藩が慶喜を無視して独断で、土佐藩の討幕派を始末してしまったことで、土佐藩全体が、逆に討幕側にまわってしまったことである。薩摩、長州とは異なり、土佐藩では、下士の働きが上士に乗っ取られた形になった。 薩摩としては、慶喜と和解した形で、会津の松平容保の梯子を外そうとしたのだろう。孝明天皇が存命ならば、梯子が外されることもなかったが、長州が匿う大室天皇が、王政復古となる予定では、容保の会津藩が宙に浮き、失脚してしまう。結局、薩摩の目論み通り、会津藩が暴発してしまうのだが。どの時代でもアタマに血が上るような人物は頭首にすべきではない。 福岡は上士なので、福岡にとっては、中岡と龍馬はもはや用済みだったのかもしれない。結局土佐の下士が見捨てられたことが、明治維新後の土佐藩失脚につながるから不思議である。そのために、才谷梅太郎が、坂本龍馬として英雄化される。 中岡、龍馬が福岡に捨て殺しにされた形になるほど、当時の身分制度が厳格であったことがわかる。当時は中岡の方が有名だったが、福岡により、いまでは龍馬の方が有名なのは皮肉という他はない。 以上をまとめると、薩摩藩が立案し、土佐藩に持ち込み、土佐藩は、自藩に討幕派がいると会津藩に流し、会津藩が処分したところで、会津藩憎しで討幕にまとめ、慶喜が慌てて火消しに走った、という感じであろう。大政奉還ですみやかに終わっては、薩長の目的の討幕ができないからである。 幕府側から仕掛けさせ、その大義名分で、討伐を行なうのは、ルーズベルトがやった太平洋戦争の真珠湾攻撃でも同じである。アロパシーの遣り口である。
2013年12月04日
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