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昨日観に行った映画は、以前私のブログ仲間でもある「かめとも」さんのブログで紹介されていて、ずっと気になっていた『かもめ食堂』という作品だ。非常に淡々として地味だけれども、いい映画だった。いろいろな見方があると思うが、私がこの映画の全編を貫くテーマとして感じたのは、「自然体」ということである。私的な解釈によれば、「焦らず」、「騒がず」、「無理をせず」といったような要素を内包した「自然体」だ。「自然体」と口にすることはたやすいが、「自然体」で居続けることは案外並大抵ではない。小林聡美扮する主人公は、フィンランドはヘルシンキで食堂を開店して以来30日間、ひとりの客も迎えたことが無いという。商売をしている私には、店を開けているのにちっともお客が来ない惨めさは、痛いほど分かっているつもりだ。それが30日となると、もうそこで並の人なら自然体では居られなくなる。ところがこの主人公はそんな境遇の中でも、毎日淡々と過ごしている。どうしてもダメになったらそのときはやめればいい、という割り切りがあったのも確かだろう。しかし店を繁盛させるために、奇をてらったメニューを導入したり、ガイドブックに掲載してもらったり、という同居人の提案にも首を縦には振らなかった。まじめにやってればいつかこの店は満員になる、そう信じて淡々と営業している。商売をする上でそういった「自然体」が本当に良いのかどうかは、あくまでもケースバイケースだろうが、少なくともこの作品では、「自然体」で居ることが結果的に幸運をもたらす方向で描かれている。しかしその「自然体」は決して「強制」ではない。ただその「自然体」を心地良いものと感じていられる自分は確かにいた。他のキャストもみんな自然体の演技だ。ヘルシンキの町並みも自然体の香りがした。最初は「何でフィンランド?」などと意外な感じがしたのだが、観終わるとやっぱりここが必然だったのか、と思わされるから不思議だ。そしてまたこの映画自体が、とても自然体な作りがされていると感じた。余談だがこの映画を観終わって席を立つとき気付いたことは、私も含め明らかに「ひとりで来た」という方がかなり多かったということだ(といっても全部で10数人しか居なかったが)。つまり、例えばカップルで「映画でも観に行こうか?」→「じゃあ、これにしようか」という流れで何となく観に来たのではなく、「たとえ一緒に行く人が居なくても、どうしてもこれが観たい!」という人が多いということではないだろうか?あるいは主人公をはじめとする3人の女性の持つ「孤独感」が、観客にまでオーバーラップしているのだろうか?
2006年07月31日
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ようやく梅雨が明けた(私の感覚においては4~5日前からすでに明けているが)。午前中は映画を観に出掛けていたが、昼からは、以前田植えをした稲がどんな具合に育っているか見てみたい、ということで、ムスメ2人を引き連れてその田んぼへ行ってみた。田植えのとき以来3ヶ月ぶりに訪れた田んぼは、見違えるように青々としていて、稲も順調に伸びてきている。隣の田んぼの稲がボツボツ実をつけてきているのに反して、こちらの稲はまだ実をつけてはいないが、品種の違いによるものなのかもしれない。田植えの際に私たち3人が植えた稲のところに木の名札を立てておいてあるのだが、それを見つけてムスメたちは大喜び、というか成長した様子にビックリ。無理もない、田植えはもちろんのこと、こういう農業の現場を目の当たりにする機会って全然無いからなー。さあ、次は稲刈りだ。
2006年07月30日
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僕は3人兄弟の真ん中だ。僕たち兄弟は、色白なところはそっくりだが、体型はまるで違う。兄は僕よりもかなり太目だし、逆に弟はかなり細い。そう、違いといえば、太さだけといってもいいくらいだ。なのに世間的なステイタスという面では、歴然とした差があるように感じられるのだ。最ももてはやされているのは弟だろう。家庭ではもちろんおなじみだが、それ以外にも料亭だとかそういうハイクラスな場でも供されることがあるし、上品な料理の素材として用いられることもある。兄はそれほどでもないが、しかし蕎麦屋にいくと必ず「そば」と並んで無くてはならない存在だ。そこへ行くと僕などは、蕎麦屋のメニューにすら載っていないことが多い。何となく安っぽいイメージでもあるのかな?また「ブランド的価値」という点でもやはり差が付いてしまう。弟はお中元商戦では常に人気者で、「播州」「島原」「三輪」「小豆島」などの特産地はブランド化している。兄の場合は圧倒的に「讃岐」だが、ちょっと痩せた時は「稲庭」なんていう言い方も出来そうだ。しかし僕には、彼らのように誇れるメジャーな特産地というのが思い浮かばない。もちろんお中元なんかに使われることもほとんど無い。同じ兄弟なのに、体型が違うというだけでこんなに待遇に差が出るというのは、どう考えても腑に落ちない。きっと僕は不遇な星の下に生まれたんだなー。ところで僕たち兄弟をいつも贔屓にしてくれている、『リカーマン1号』さんという人がいるのだが、この人は兄と弟には「おろししょうが」なのだが、僕に対しては「わさび」なのだ。なぜ僕に対してだけ「しょうが」じゃなくて「わさび」なの、と前に訊いたことがあるのだが、「ずっと昔からそうしてきただけのことで、深く考えたことがないから分からない」んだそうだ。他の人はどうなんだろう?
2006年07月29日
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昨日のプロ野球、中日-阪神戦をラジオの実況で聴いていたときのこと。イニングの合間に外野手がキャッチボールをするのだが、外野手は3人だから、あぶれたひとりの為にベンチから控え選手が出て、キャッチボールの相手をすることになっている。その光景を見ていた実況アナウンサーが驚きの声を上げた。こういうときに出てくるお相手というのは、たいてい下っ端の若手選手だったりするのだが、ライトを守る福留選手のキャッチボールのお相手は、なんとあの立浪選手だったのである。この阪神3連戦では定位置のサードを森野選手に取られて、控えに回っているとはいえ、2千本安打を打って名球会入りもした、ベテラン中のベテランだ。普通このくらいの選手であれば、「オイ、行ってこい!」と若手をアゴで使って、自分はベンチのど真ん中でふんぞり返っていても、おかしくはないだろう。それに今の彼のように、「出たくても使ってもらえない」という境遇だと、キャッチボールの相手をしに観衆の前に姿を見せるのは、おそらく恥ずかしいことではないだろうか。このラジオ放送で解説を担当していた、ドラゴンズ前監督の山田久志氏は、「いや~、なかなかできることじゃない。誉めてやって欲しいと思います」と賛辞を送っていた。山田氏の言わんとしていることは、立浪選手のような大ベテランが自ら進んでああいう役を請け負うことで、チームの士気を高めることに一役買っているということだと解釈した。ただひねくれものの私は、ちょっと違うことを考えていた。立浪選手がここのところ控えに回っていることについて、チーム内でどういういきさつがあるのかは知る由も無いが、あれはなかなか自分を使ってくれない首脳陣に対する、一種のデモンストレーションだったのではないだろうか?彼はそういった反骨心をも持ち合わせた男だと、以前にも聞いたことがあるような気がするから、ある意味、使ってもらえない苛立ちを首脳陣にアピールするためのキャッチボールだったのではあるまいか。もちろんその真意については、彼が口を開かない限りは分からないことだ。ただひとつ確実に言えることは、山田久志氏と私、どちらの解釈であっても、それが今のドラゴンズの強さを象徴するワンシーンであるのは間違いないだろう、ということだ。
2006年07月28日
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この場ではあまり触れて来なかったが、鼻炎持ちの私は今年も結構遅い時期まで鼻炎に悩まされ続けている。ただひどかった時期というのは最初の2ヶ月ほどで、完治しないまでも5月頃からは小康状態を保っている。毎日1回の飲み薬と、同じく毎日1回の点鼻薬で凌いで来れる程度のもので、そのペースでここまで来ている。しかしいつまでもこのままでいいということはない。言葉は悪いが、なんだか「クスリ漬け」になってしまいそうだ。今まで鼻炎の症状が最も遅くまで続いた年は、収まったのが6月末だったから、もうとっくにその記録を超えてしまっているのだ。何だかこのままだと、薬が無いと1年中鼻炎に悩まされ続けるんじゃないかという気さえしてきた。つまり体が「薬慣れ」してしまうとでも言えばいいだろうか。そうなっては困る。そこで先日から敢えて薬を絶って、体を徐々に慣らしていこうと決めた。今日がその3日目に当る。昨日・一昨日は何とか凌いで来れたのだが、今日になって朝からくしゃみが絶えない。くしゃみが出れば鼻もズルズル状態になる。どうにも我慢できなくなってとうとう点鼻薬を使う羽目になってしまった。しかし飲み薬はまだ使っていない。この状態でどこまで持ちこたえられるだろうか?
2006年07月27日
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テレビを観ていると、製薬会社のCMで『ジェネリック医薬品』のことをアピールしていた。『ジェネリック医薬品』とは「後発医薬品」のことで、「新薬」の特許が切れた後で厚生労働省の認可を受けて発売されるものなので、その分開発費などが少なくて済み、「新薬」と同じ成分・効き目でありながら価格は約半分というものだそうだ(参考:沢井製薬HP)。テレビCMでは、診察室で診療を終えた患者が、「あのー、お薬はジェネリックにしていただけますか?」とおずおずと医師に尋ねるシーンが流されている。まあ何にせよ、医療費が安くなるということはいいことだが、少なくとも私はこのCMを見ていて、少々気になるところがあった。ひとつには、『ジェネリック医薬品』が出回り始めたら「新薬」が淘汰されていって、最終的に価格相場が『ジェネリック医薬品』と同程度に下落していくと、その存在意義が無くなってしまうのではないか、ということだ。製薬業界のことについてはまったくの門外漢だから何とも言えないが、少なくともわれわれの酒類業界をはじめとする数多の業界では、同じ品質・同じ味で価格が安い後発商品が出れば、市場価格が後発商品の価格に落ち着いてくるのは常識的だ。そうやって薬の単価が下落すれば、このCMのようにわざわざ医師にお伺いを立てて薬を指定する必要もないのになー、という素朴な疑問を持った。もうひとつは、このCMのように医師にお伺いを立てないと処方してもらえないものなのか、ということだ。というのも、私のように昔からずっと同じ地縁で生活しているものにとって、子供の頃からずっとかかりつけである医師に対して、何となくそういうことを訊きづらいという空気がある。もちろんそれを訊くことは医師に対する患者の権限でもあるし、それ以前に患者が医師を選ぶ権利だってあるわけだから、本来何も気にすることは無いはずなのだが、「昔からずっとお世話になっている」という感覚はそういう原則論を飛び越えてしまうものなのだ。おそらく医師の立場でも、「ジェネリック」よりも「新薬」をそのまま使うほうがメリットが有る(儲かる?)だろうから、何も言われなければ黙って「新薬」を処方するのだろう。そうするとわれわれが「ジェネリック」を要求することが、医師の不利益になるということにもなるわけだから、さすがにこちらからは言いづらい。特にウチの場合は逆に、医師がウチの店にとってのお得意様だったりするものだから、余計に言いづらいのだ。少なくとも医師の方からすすんで「こういう選択肢もあるよ」といって「ジェネリック」の存在を教えてくれるような、そういう環境が整わないと、せっかく「ジェネリック医薬品」というものが市場に出ていても、患者の側からはなかなか使いづらく、結局は使われる機会は増えていかないんじゃないだろうか?
2006年07月26日
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CDショップをぶらぶらしていたときに偶然見つけて、速攻で衝動買いした1枚。最初はこの2人の取り合わせが、少々ピンと来なかった。元はイギリスのパンクロックシーンで名を馳せた「エルヴィス・コステロ」と、古くからニュー・オーリンズR&Bシーンを取り仕切っていたニュー・オーリンズの影の黒幕(?)「アラン・トゥーサン」。どう考えても接点が見えてこなかった。まあエルヴィス・コステロも近年は、他人とのコラボレーションに自らの存在意義を見出そうとしているようなところも感じていたので、あくまでその一環かな、と考えれば合点がいくのだが。ただ正直言って、最初1回聴いた限りではちょっとピンと来なかった。やっぱりこの2人の材質の違いというのは、そうそう簡単に融合できるものではないのかな、そうも感じた。ところでこのCDには、初回限定版としてオマケのDVDがついていて、このセッションの模様など、合計30分ほどの映像が収められているのだが、この映像を見た後でCDを2度3度改めて聴き直してみると、また違った感覚が沸いてくる気がした。エルヴィス・コステロが如何にニュー・オーリンズを愛し、そして如何にトゥーサンに対しリスペクトの気持ちを抱いているか、それが画面の向こうからじわじわと伝わってくるのだ。このCDの中では、1曲だけトゥーサンがボーカルをとっているが、残りのすべての曲はトゥーサンのピアノなどをバックにコステロが歌う、という構成になっている。個人的にはトゥーサンにもっと前面に出てきて欲しかった気もするが、それでもコステロの歌をやさしく暖かく包み込むトゥーサンのピアノの懐の深さを感じずにはいられなかった。このCDはそのタイトルからも分かるとおり、昨年ニュー・オーリンズを襲ったあのハリケーン「カトリーナ」を避けては語れない。かといってその被害に対する安易なチャリティー・アルバムとして企画されたものでもないようだ。もともとこのコラボレーションはハリケーン以前からの企画であり、ハリケーンにより頓挫する危機にも見舞われたようだ。皮肉にもハリケーンの存在が、このアルバムの持つ要素のひとつとして、聴く者の心の中に大きな部分を占めることになってしまったが、それはそれでニュー・オーリンズへの、深い憧憬の念をかき立てる一助にもなっていると思うのだ。
2006年07月25日
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長野県で、自分で火をつけては燃えてる現場の写真を自分のブログにアップしていた、自称『くまぇり』なる女の子は、なんでも6つのブログを抱えていたらしい。よっぽどヒマだったのかなー。まあ6つとはいかないまでも、私の知っている限り2~3のブログを掛け持ちしている方は結構たくさん居られる。私はといえば、このブログひとつだけで手一杯なのだが、場合によってはもうひとつやってみるのもいいかな、と最近思い始めた。商売上、顧客と私との間の人間関係を維持するためのツールとして、利用してみてはどうか、ということなのだ。なんだ、それならこのブログが有るじゃないか、というご意見もあろうかと思う。ただ以前の日記にも書いたことがあるのだが、私はこのブログの存在をあまり近しい人には公開していない。家族にも秘密にしているほどだ。それは結局、「『○○さんが見ている』と思うとこんなこと書けないなー」という、制約めいたものを感じながら書きたくない、という気持ちが強いからだ。実際このブログには、ウチのお得意先のネタが満載されているから(もちろん個人が特定されないように気は遣っているが)、このブログをそのままお得意先に公開するということは絶対にしたくない。かといって今のこのスタイルは絶対に変えたくない。なぜなら、好きなことを書きまくっているこのブログは、ある意味私にとってストレスのはけ口だったりもするからだ。だから商売にブログを利用しようとするなら、今となっては複数のブログを使わざるを得ないのだ。ただそこまでの時間的余裕が有るかどうかが、今のところ直面している課題だ。どうしようかと思案中なのだ。
2006年07月24日
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今日は初めて中学野球の観戦に出掛けた。ウチの長男はまだ入りたての1年生なので試合に出ることは無いのだが、レギュラーで出ている上級生のほとんどは小学時代の野球団からそのまま流れてきている子たちなので、皆よく知っている顔ばかりだ。しかしいつも小学生の野球ばかり見ている目には、中学生の体格がひときわ大きく見える。ウチのムスコと並んだりすると、大人と子供の差ぐらいありそうな子がゴロゴロ居るのだ。ただムスコも小学校時代は後ろから数えた方が早かったのに、今ちょっと伸び悩んでいる。現在の身長は152cmだが、これは学年平均を下回る数字で、こういうことは今までで初めてのことだ。それがムスコには随分とショックだったようだ。でも身長の伸び方なんて個人差があることで、伸びのピークがどの年齢で来るかの違いだけなんだから、そう気に病むことは無いと私は常々言っているのだ。でも妻はちょっと違う。長男と同じくどうしても気にかかるようで、この間などネット通販で、背の伸びを助長するようなカルシウム系のサプリメントを購入していた。どうも女性の頭の中には「背が高い=カッコイイ=モテる」という単純な発想が、幾つになっても幅を利かせているようだ。
2006年07月23日
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大相撲の名古屋場所が大詰めであるが、この場所はこの地方から近いこともあり、近所で出掛ける人も何人かいたりして(私の両親も観戦に行った)、それなりに盛り上がりを見せる。とはいっても、私自身大相撲にはまったく興味が無いので(そういえばこのブログで相撲を取り上げるのも初めてじゃないかな)、どうでもいいと言えばどうでもいいハナシなのだが、相撲ファンの方の批判を覚悟で言わせて頂けば、私は大相撲をスポーツだとは思っていないのである。伝統的な興行であり、文化でもあるけれど、スポーツとは素直に認められない部分が有るのだ。私の解釈の中では、スポーツというものは常に平等な条件の下で行われるのが大前提だ。しかし大相撲はその大前提を満たしてはいない。総当たり戦のようで、総当たり戦ではない。力士によって対戦相手が違っているし、尚且つ同門対戦が無いというのがそもそもおかしい。だいたい幕内力士が多すぎる。本来なら幕内力士を16人に絞っての総当たり戦でなければ、まったくの不公平だ。おそらく私と同じ考えを持っている方はきっと他にも居られると思う。しかしどこからもそういう声は聞こえてこない。それはきっと、長い伝統を持つものに向かって物言いをつけることに対して、畏怖というか、遠慮があるのかもしれない。まあ私とて、以上のような根拠を挙げたところで、それを相撲協会に呑んで貰おうとか、そういうことはこれっぽっちも考えてはいない。ただそういう理由で、私自身は興味が無いというだけのことだ。しかしながら、組織や仕組みに問題があるというだけのことで、力士同士の力のこもったぶつかり合いは、見ていて賞賛に値するものだとは思う。
2006年07月22日
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『極楽とんぼ』の山本圭壱の、あきれるばかりの不祥事のあおりを食った形で、彼の所属する“欽ちゃん球団”『茨城ゴールデンゴールズ』が解散することになりそうだ。欽ちゃん自身の気持ちは察するに余りあるが、この解散表明はいまだに高校野球界で幅を利かせている、時代遅れの「連帯責任」という理念が拠り所となっているわけではないだろうし、そう思いたい。おそらく生来のコメディアンである欽ちゃんにとって、他人を楽しませるべき人間が反社会的な行為で他人に迷惑を掛ける、ということに自分自身ガマンならなかったんだろう。そしてそのプライドの高さゆえに、一気に「解散」という結論を導き出してしまったのではなかろうかと思う。しかも自分が一から立ち上げてきた球団だけに、幕引きも自らの手で行いたかったのかもしれない。それは分かる、がしかし、現在の『茨城ゴールデンゴールズ』は単なる欽ちゃんの所有物という位置づけをはるかに超えてしまっている。このチームの理念に賛同して応援して来た地元の企業、そしてファン、もはや彼らの共有財産と言ってもいいだろう。そしてこのチームの活躍に触発されて、同じようなクラブチームが全国で生まれてきた事実を考え合わせると、もうアマ野球界の財産といってもいいかもしれない。そんなチームの存亡を、欽ちゃんひとりの決断で左右させるわけには行かないだろう。何とかもう一度考え直して欲しい。
2006年07月21日
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子供を小学校や中学校にやってるくらいの、だいたい40歳前後の母親同士で、一緒にランチを食べに行くのが流行っているみたいだ。「流行っている」といってもどの程度の範囲内のことなのかはよく分からないが、少なくとも私の妻はよく行っている(よく、と言っても月に2~3回くらいか)。ちょうど男同士で「飲みに行く」のと、同じような感覚かな。ただ、男同士で「今度飲みに行きましょう」と言う会話は、ほとんどが社交辞令で終わってしまうのに対し、女同士の「今度一緒にランチしましょ」はかなり高い確率で遂行されている。さてこういう「女同士のランチ」について、よく眉をひそめる夫君たちがいらっしゃるようだ。男がせっせと外で働いている時間に優雅にランチとは何事だ、ということだ。まあそういう気持ちも分からないでもない。しかしランチと言ったってそんなに豪勢なものを食べてるわけでもないみたいだし(だいたい高くても千円台前半か)、私は声が掛かったら積極的に行くようにいつも言っている。というのもこういうランチを通じたお付き合いというのは、妻自身の人脈形成に非常にプラスになっていると思うからだ。そしてそれは即ち、ウチの店にとっても同じようなメリットになることでもある。直接的にはそうやって仲良くなった方がお客になってくれることもあるし、そうでなくてもそういう人脈を通じてもたらされる情報というのも見逃せない。でもなによりも、人脈そのものが彼女にとってのかけがえのない財産になることだろう。
2006年07月20日
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今は中元商戦真っ只中で、私の日常の仕事の中でも、「中元品の配達」の割合が高くなっている。注文を受けた贈り先が遠ければ宅配便で出すが、比較的近ければ私自身が先様のところまで配達するのだ。中元品の発注者のほとんどは会社関係で、その贈り先も年によって多少変わるものの、概ね同じところが多い。つまり私は、その会社からの贈り物を届けるために年に2回、中元期と歳暮期に同じところを訪問することになる。コレが何年も続けば、当然その配達先の人とは顔見知りみたいになってくる。ただここで難しいのは、そういう方たちとの距離感だ。こういう贈答品配達の仕事の場合、依頼主は基本的にウチの顧客だが、配達先の方はウチの顧客ではない。配達先の方も私のことは、ただモノを運んでくる人、という程度の認識でしかない。そう考えると顔見知りになったからといって、私の方から馴れ馴れしく話しかけたり、あまりくだけた態度をとるべきではないと思っている。しかし中には、配達先の方から親身に話し掛けてきて頂いたりすることもあり、極端な例で言うとそこからどんどん発展していって、そのままウチの顧客になられた方もいらっしゃる。まあそういうのはよほどラッキーな例だと思うから、そういうのを期待してこの仕事をやるのは的外れなことだ。ただ、ウチの顧客でもないすべての配達先に対して、常に誠実な対応とさわやかな笑顔を心掛けたいとは思っている。ラッキーはこういうところに転がってくると信じて......(あくまでスケベ根性だなー^_^;)。
2006年07月19日
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ウチの近所では最近、建物が壊されて出来た更地がやたら目に付くようになった。そしてその中のほとんどは駐車場か、マンションになるらしい。マンションといっても規模はさまざまで、賃貸か分譲かもまちまちなのだが、とにもかくにもこの界隈に人が集まってくることは単純に喜ばしいことだ。そこにどんな人たちがやってくるかということも非常に興味があることだが、まあ私の感覚からすれば、賃貸なら比較的若い層、分譲なら私と同年代(40台)くらいが相場かな、と漠然と思っていた。ところが最近いろんなところから漏れ聞く話を総合すると、結構老人の入居が多いのだそうだ。というのも、ウチの店のある一帯は比較的市の中心部に位置しており、駅や役所をはじめとして、いろんなところへのアクセスに非常に恵まれている。歳をとってだんだんと体の自由が利かなくなってくると、そういった利便性というのは何物にも代え難いんだろう。またその中の私の知っている方にも、最初はこの界隈に住んでおられ、そのうち環境の良さに惹かれて田舎に引っ越していったものの、歳をとってここに戻ってきた、というパターンの方も居られる。こういうのはある意味、「Uターン」現象とでも呼べるだろうか。ともかく総合的に見て、老年者の「市街地回帰」現象というのはあるみたいだ。ひょっとしてこれからはこの界隈では、「シルバー向け産業」とか「シルバー向け品揃え」というのが脚光を浴びるのかも!?
2006年07月18日
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真ん中のムスメにせがまれて、映画『ブレイブ・ストーリー』を観に行った。映画そのものはまあまあという印象だったのだが、ちょっと気に掛かることがあった。この作品に限らず、最近のいわゆる劇場公開のアニメーションの「大作」と目されるものではたいてい、主要な役柄を「声優」さんではなく、「俳優」さんが担っているのだ。そういえば少し前に別の映画を観たときに、予告編で流れていたジブリアニメの『ゲド戦記』もそうだし、昔よく子供を連れて観に行った『ポケモン』などの、通常TVでやっているアニメの劇場版でも、「ゲスト出演」のようなかたちで大物俳優が出たりしたことがあった。製作者側が力を入れるほどに、「声優」よりも「俳優」を起用する率が高くなっているようにも思われる。もちろんアニメというカテゴリーの中では、「俳優」よりも「声優」の方が確実に良い仕事をするだろうし、見ているほうとしても安心感が違うと思う。「声優」さん達はそれだけの特別な訓練を受け、経験をより多く積んでいるのだから当然だろう。だから殊映画の質のみを追求するのであれば、「声優」を排して「俳優」を起用する必然性は無いと思うのだが、そこは偏に「話題性」を考えての起用なのだろう。何といっても「俳優」に比べて「声優」というのは圧倒的に「地味」だ。いわゆる「アニメオタク」の間では有名人かもしれないが、一般の映画ファンの間では、顔すら知られていないことが多い。だから例えば制作発表の記者会見とか、初日の舞台挨拶などのように露出の多い場面では、「華のある」俳優の人気に頼らざるを得ないんだろう。まあ確かに「俳優」だからといって吹き替えがまったくヘタクソだというわけでも無いし、「これはハマリ役だ」と唸らされるような、役との組み合わせも中にはある。しかしその俳優の存在感が強ければ強いほど、映画を観ていてもその俳優の顔が浮かんでしまって、その役自体がちょっと浮いた印象になってしまったりもする。それに「巧い」俳優はともかくとして、やはり最近アニメによく起用される「お笑いタレント」などの中にはまったくのミスキャストというのも少なくはなく、下手をすると作品全体の足を引っ張りかねないと思うこともある。いずれにしても、普段からあまり日の当たらない現場でこつこつと仕事をこなしているわりに、話題作になると「俳優」達にオイシイところだけをスルリと持っていかれてしまう「声優」という職業は、つくづく不憫だな、と思ってしまうのだ。
2006年07月17日
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ここ何日間かのあまりの暑さにすっかり参ってしまった。私も外に出て動いている方が多いような仕事なので、さすがにこの暑さはこたえる。「夏バテ」とまではいかないものの、その一歩手前ぐらいかもしれない。このブログが2日ほど飛んでいるのも半分はそのせいと、プラス半分は何かと忙しかったためだ。若い頃は暑いのにも強い方だったはずだが、年々夏の暑さに辛さを感じるようになってきた気がする。自分ではそういう風には認識していないのに、何せ身体は正直だ。今日は今日で休日にもかかわらず、朝早くからちょっとまとまった配達があり、いつもよりもずっと早く起きて、クルマに荷物を満載して出掛けたのだが、降ろす場所がたまたま車を横付けできないところだったので、結構長い距離を荷物を抱えて何十往復もする羽目になった。まあこういう仕事にありつけるだけでも有り難いことだが、おかげで朝から疲労困憊、帰ってからは昼まで思いっきり寝させてもらった。少しは疲労回復になったかな?
2006年07月16日
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もうすぐ夏の全国高校野球甲子園大会だ。わが県でも、この週末からいよいよ県予選が始まる。そこで主催者であるA新聞社でも、予選大会の組み合わせ表とともに、予選出場全チームのメンバー表などをもれなく掲載した、高校野球特集号を別刷りで昨日の朝刊に添付してきている。しかし実は半月ほど前に同新聞の県内ページにおいて、各チームのプロフィールは数日間にわたってすでに全チーム分が掲載されているので、言ってみれば昨日の別刷りのは「ダブって」掲載されているようなものだ(まあ、何としても大会人気を煽りたい同社としては、そんな感覚は毛頭無いのだろうが)。ただこの2回にわたって掲載された各チームのメンバー表をよく見てみると、各チームから提出された時期が微妙に違うのだろう、チームによっては若干メンバーが入れ替わっていたりする。おそらく最初の方の連載時は、締め切りの関係もあって「暫定的な」レギュラーメンバーで出さざるを得なかったのだろう。メンバーが入れ替わるのにはいろんな理由があるだろうが、外される者の気持ちを考えると、なんともいたたまれない気持ちになる。特に今の高校生だと、知り合いの息子さんもいれば、ウチの子供の友達のお兄さんだとか、小学校の野球団のOBとか、そういう関係で名前を知っている選手というのも少なくない。そういった見知った選手がメンバーを外れると、やはり私としても張り合いが無い。実際私の知っている子で、最初の掲載時にレギュラーポジションを掴んでいながら、後のほうを見ると控えに回されてる子がいたし、もう一人の子に至ってはベンチ入りメンバーから消えてしまっている。確かに実力主義の世界だから、こういったことが起こるのは仕方の無いことだろう。しかしただでさえ他のスポーツに比べて注目度がケタ外れに高い高校野球だからこそ、そういう選手動向などは常に多くの人の目に晒されるわけだし、それだけにレギュラーを外された子の屈辱感なども、そうっとしておいてやりたいと思ってもなかなかそうはいかないのだ。本当に些細なことかもしれないが、このようにメンバー表を時期を変えて新聞に2回掲載することが、一部の選手の心に負担を強いる可能性があるということを、主催者たる新聞社にはちょっと認識してもらった方がいいのではないだろうか?
2006年07月13日
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そのお客が最初にウチの店を訪れたのは、かれこれ1週間くらい前だっただろうか。特に何を買うという目的は持ってないようだったが、洋酒のコーナーをひとしきり見た後、レジにいた私に話しかけてきた。一見して「オタク」っぽい感じに見えなくもない風貌だったが、話し始めるとまさしく「オタク」だ。次から次へ彼の口から飛び出してくるのは、何れもウチの店では扱ったことの無い様な「レア物」ばかり。「どこそこの店で○○を買った」とか、「どこそこの店には△△がいくらいくらで売られている」とか、結構遠くの店まで行っている様子なのだが、さも自分の知ってる話をひけらかしに来たのかというような話し振りだ。正直こういうお客は苦手なのだが、かといって邪険にする訳にもいかず、とにかくひたすら「聞き役」に徹した。その中で、「○○は今でも流通しているのか?」とか、「△△は生産中止になってないか」というような専門的な質問も挟み込まれてきて、それらには知っている範囲内でお答えした。そしてこの日は何も買わずに店を後にした。「聞き役」がよほど良かったのか、あれから数日が経った今日、またその彼が現れた。今度はなにやらびっしり書かれたメモを持って来ている。メモにはいろいろな洋酒の銘柄が書かれていて、この中にウチで取り寄せ可能な物があれば、取り寄せて欲しいということだった。で、そのメモをよくよく見てみると、ウチでも取り寄せの可能な物が何点か有った。「じゃあこの中で取り寄せ可能なものは、早速その手配をさせてもらいましょうか」と訊くと、彼は「でもそれはスグ手に入るってことですよね」と言って、私の申し出を断った。簡単に手に入るのなら要らない、というのだ。どういうことかと言うと、彼が求めていたのは、「現地、もしくは輸入元で『終売』となっていて、尚且つ流通在庫が残っている物」なのだそうだ。つまり「レア中のレア物」とでもいえるようなものを欲しがっているわけだ。しかしながら彼の言うように、「現地、もしくは輸入元で『終売』となっていている」商品であれば、ウチで取り寄せることは物理的に不可能だ。よっぽどマニア的な品揃えを誇っている酒販店でなければ、見つけることは難しいだろう。その旨を彼に伝えたところ、「じゃあ、終売になってるかどうかだけでも調べられませんか?」と頼まれたので、まあサービスの一環かなという軽い気持ちで、「時間はかかるかもしれないけど」という注釈つきで一応受けた。しかし後でよくよく考えてみたら、終売になっていないのなら要らない、終売になっていればウチでは扱えない、どちらに転んでもこのお客はウチの顧客にはなり得ないわけだ。そう考えるととたんにバカバカしくなり、一気に体中の力が抜けていくのが分かった。しかし何ゆえ彼は「終売商品」にこだわるのだろう?確かに「レア物」には違いないのだが........。あれこれ考えているうちに、ふっとひらめいた。「もしかしたら彼はそういう商品を、ネット・オークションにかけて売るつもりなんじゃないだろうか?」なるほど、そう考えれば彼の言動や行動もすべて合点がいく。確証は無いものの、おそらく極めて高い確率でそうしようとするに違いない、と私は踏んだ。冗談じゃない、ウチで購入する見込みが0%のお客が、ネットオークションで“濡れ手に粟”の儲けを手にする片棒を担がされるなんてまっぴらだ。ましてやそのために私の貴重な時間を、1円にもならない終売情報の調査に費やすなど、もっての外だ。もし今度店に来たら、上手いこと言ってお断りしよう。
2006年07月12日
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会社や団体などのバス旅行の際、そのバスの出発時間に合わせて、冷えたビールなどの飲み物を配達するという仕事を、昔からよくご依頼いただいている。その内容はというと、おおむね人数分の缶ビールと缶飲料(ソフトドリンク)になる。ただ缶ビールはともかくとして、この缶飲料(ソフトドリンク)というのがちょっと厄介なのだ。ビ-ルはともかく、ソフトドリンクは“混ぜこぜ”でのオーダーとなることが多い。つまり、「いろんなものを混ぜて1ケース」ということだ。これが例えば、「オレンジジュース、ウーロン茶、コーラ、缶コーヒーそれぞれ1ケースずつ」というように、それぞれまとまった注文なら、別に何の問題もない。しかし先ほど言ったような“混ぜこぜ”オーダーだと、どうしてもハンパが出るから、残りは何とか処分しないといけない。コレが以前だと、こういった旅行用の需要というものが結構多かったので、ハンパが出ても結構うまく使い回していけたのである。ところが永年にわたる景気低迷などが影響して、こういったバス旅行なども縮小の一途だ。こうなるとハンパの使い回しなど出来なくなってくる。ハンパが出たら店頭で売れば良いという考え方も確かにある。実際以前はそうやって捌いていた。しかし現在、「缶」飲料というのがまったく売れないのだ。コンビニの店頭を見ても分かるように、ほとんどの清涼飲料が「ペット」化してしまっていて、缶で売られているのはわずかに缶コーヒーぐらいしか無いのである。とにかくソフトドリンクにおける「缶」から「ペット」への劇的なシフトは、あっという間に完了してしまった感がある。そんなこんなで、売れなくなった缶入り飲料が、どんどんデッドストックになっていってしまうのだ。逆の発想で旅行用にペットボトルを使ってもらおうかと思って、何度か注文の際に打診させていただいたこともあるが、やっぱり永年の習慣なのか、あるいはゴミ処理が厄介というイメージが強いのか、ことごとく却下されるのだった。だからたまに来るバス旅行のオーダーで、「缶飲料をいろいろ混ぜて......」というリクエストがあると、どうにも後のことが気になってしまうのだ。
2006年07月11日
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それにしてもこのところのジャイアンツのひどい試合内容は、いったい何なんだろう。私はもともと「アンチ巨人」なので、ジャイアンツが負けるとうれしいはずなのだが、さすがにここまでひどいと「おいおい、大丈夫かぁー?」などと、うれしさを通り越してかえって心配になってしまうほどだ。故障者が続出していることを低迷の要因に挙げる人もいるが、長いシーズン常に100%の戦力で戦えるはずも無く、どこの球団もそれを見越した上でチーム編成を行って、やりくりしながら戦っているのだから、いまさらそんなことは言い訳にはならない。さてこういう状況になると必ずと言っていいほど出てくるのが、「ジャイアンツが強くないと、セ・リーグが盛り上がらない」というマスコミの身勝手な論調だ。ある意味それは正論かもしれない。しかしそれはまた、「いまだにセ・リーグは巨人人気に負ぶさっているだけだ」ということをいみじくも証明していることに他ならない。調子が良かろうが悪かろうが、とりあえず巨人を中心に据えての報道を繰り返していると、こと今回のように低迷期間が長引いたりすると、マスコミ全体がトーンダウンしてしまう。ひいてはそれが野球人気の盛り上がり様を左右することになりかねない。ともすれば野球人気の低下の責任を、ジャイアンツの不振に転嫁しているようにも見える。「野球人気」というものが、ジャイアンツと心中するようではいけないのだ。遅きに失した感が無きにしも非ずだが、2年続けてジャイアンツが低迷している今こそ、意識改革が行われるいい機会ではないだろうか。例えば昨年・今年のセ・パ交流戦を通じて、パ・リーグにも魅力溢れる選手がたくさんいることがお茶の間にも知れ渡った。セ・リーグの各球団にも、露出さえ増やせば確実に人気が出るようないい選手というのは、結構埋もれているはずだ。彼らにもっとスポットを当てて、巨人戦以外のカードの注目度を高くするように持っていくのだ。特にWBCの日本代表として参戦した選手などはそれなりに知名度もアップしてるはずだし、この機会によりスポットライトを当てずして、いつ当てるというのか。もっともこういった施策については、パ・リーグの各球団に一日の長が有る。負ぶさるべき人気球団が無い中で、どこも生き残りをかけてさまざまな試みを行ってきているからだ。特にファンサービスなどについては、セ・リーグ各球団はもっと学ぶべきものがあるのではないか。そしてそういった試みを、マスコミがバックアップする。巨人の敗因ばかりを分析したり、現時点からの逆転優勝の可能性などという非現実的な話をするのはサッサと止めて、もっとポジティブな視点を以って取り組んで欲しいものだ。とにかくマスコミ自身に、もっと球界を盛り上げていこうという意識が希薄なような気がする。どこかまだ「客観視」している姿勢が見て取れる。でも何度も言うようだが、マスコミ自身がネガティブな論調になればなるほど、ファンは敏感に察知していくものだということを、肝に銘じて欲しいのだ。
2006年07月10日
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今日も冴えない天気だったので、映画を観に行った。何だか最近妙に映画づいている。もともと嫌いな方ではないのだが、今までは長男の野球の付き合いで日曜日が毎週つぶれていたので、その反動ということもあるかもしれない。ただ、よく映画に行くといっても根っからの「映画ファン」というわけでもない。結構何を観ても、よほどヒドイものでなければ単純に感動してしまう、というタイプだし、いちいち観た映画について他の方がよく書いておられるような的を得たレビューなども書けるものではない、そういうレベルだ。よくウチの店に来たお客に、「お酒のことはよく知らないのだけど、何か美味しいの有る?」と訊かれることがあるが、そういう方の気持ちがよく分かる。で、今日何を観るかということだが、最初は意外に(?)評判が良いと聞いていた『嫌われ松子の一生』を観たいと思っていたのだが、コレは残念ながら一昨日で終わってしまっていた。『M:i:3』も面白そうかなと思ったが、『1』も『2』も観てないのでちょっと遠慮した。そこで最終的にピックアップしたのが、『ポセイドン』と『海猿 Limit of Love』だ。奇しくも両方とも「沈没モノ」だが(別にそういうのが好みという訳ではない)、結果的には『海猿 Limit of Love』の方を観に行った。何が決め手になったかというと、今もし「あなたの最も好きなタイプを有名人でいうと誰?」と問われたとしたら迷わずにその名前を挙げるであろう、加藤あい嬢が出演していることかもしれない(そう、単なるミーハーでもあるのだ)。で、肝心の内容はどうだったかというと..........久し振りに泣いてしまったよ~(;_;)
2006年07月09日
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ウチが現在契約しているコンピューターシステムのソフト会社と、その前に契約していたソフト会社、いずれも一応「24時間サポート体制」ということを謳っている。別に偶然ではなく、ウチがそれを条件にソフト会社を選んだ結果だ。ウチの店は夜遅くまでやっているし、しかも過去パソコン(レジも含めて)にトラブルが起きるのは、決まって閉店時=つまり深夜だから、そんな時間に対応してもらえなければ話にならないからだ。ただ「24時間サポート体制」といえば聞こえはいいが、以前契約していたソフト会社は家族経営に毛の生えたような小さな会社だったので、専従スタッフが会社で待機しているとかそういうことではなく、要はそこの社長の携帯電話に掛かる、というだけのことなのだ。そこの社長は「いつでも遠慮なく電話してきて下さい」とおっしゃっていたが、深夜の時間帯はどちらにしてもプライベートタイムであり、仕事の電話を掛けるのはちょっと気が引ける。しかし結果的に何かとトラブルに見舞われることも多く、気が引けると言いながらも止むを得ず何度か電話させていただいた。そして昨年5月から新たに契約しているソフト会社、こちらは社員もそこそこ居る中堅どころだ。ただしウチが関係している、いわゆる「酒販店向けソフト部門」というのは社内的には立ち上がったばかりで歴史も浅いので、深夜のサポート要員にはこの分野のことについて明るい人が居ない。そこで結局、「何か有ったら私の携帯に掛けてください」という、ウチの担当者の言葉に頼らざるを得なくなってしまうのだ。しかしこの、ウチの担当者というのは実はまだ未婚の女性なのだ。いくらなんでも深夜遅くに、妙齢の嫁入り前の女性の携帯に電話をかけるというのは、たとえそれが仕事であっても何だかちょっと憚られる。そういえば以前昼間に掛けた時にも一度、「今、旅行で京都に来てるんですぅー」ということがあったしね(もちろんキチンと対応して頂いたが)。こういう方たちって、本当に仕事もプライベートもごっちゃになって、何だか気の毒だなー。
2006年07月08日
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一般的にはあまりないことだが、瓶ビールをケースごと贈り物にするということがたまにある。普通の一般家庭への贈り物なら、今だとほとんどが缶ビールになるが、例えば飲食店などへの開店祝いとか、そういう場合に「瓶ビール1ケース」という依頼が多く、ウチも時折受けることがある。ただこの時ひとつ気になることがある。ご存知の方も多いと思うが、瓶ビールを購入するときには、瓶代(1本5円)とプラスチックのケース代(1個200円)が「保証金」として掛かる。つまり大瓶・中瓶なら1ケース当り300円だ。これはあくまで「保証金」だから、空容器を販売店に返却すればその300円も手元に戻る。普段われわれが販売するときなどは、確実に空容器が戻ってくるところであれば、はじめから容器保証金を差っ引いて、いわゆる「中身価格」で販売することも多い(業務用はほとんどそうだ)。ただこういった「贈り物」として配達するケースでは、基本的に空容器がウチの店に返って来ることはない(配達先がたまたまウチの店の納入店であれば別だが)から、依頼主のお客からどうしても容器保証金を頂かざるを得ないし、そして空容器が返って来ないから、その保証金をお返しすることも出来ない。結果として依頼主のお客は、普段よりも「高い」ビールを贈ることになってしまうのだ。申し訳無いなーと思うけど、ウチとしてもどうしようもない。普段取引の無い、配達先の店に対して、「瓶が空いたらその分だけウチで回収させてください」などと言えないしなー。じゃあその空容器代は誰がトクをするのか?その配達先の飲食店に納入している別の酒販店が、普段「中身価格」で取引しているとすれば、その酒販店の丸儲けになるし、配達先の飲食店にちょっと知恵があれば、その分だけ空瓶を別の酒屋(ディスカウンターなど)に持ち込んで引き取ってもらえば、飲食店がトクすることが出来るわけだ。
2006年07月07日
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今日たまたま立ち寄った「ローソン」店内のワンコーナーで、「北海道フェア」なるものが催されていた。特に気にも留めなかったのだが、帰りがけにふっと目をやるとこんな物が目に留まって、思わず衝動買いしてしまった。開けてみると、色は普通のキャラメルよりもかなり「黄色い」。香りは特にしない。早速ひとつ口に入れてみる。「............???...........」正直どこが「ビール」の味なのか、よく分からない。わずかに後味にビールっぽさがあるかな、という程度だ。18粒入って158円(税込)だからさほど高いというわけでもないかもしれないが、また買おうという気にはあまりならない。コレはもちろんサッポロビールが造っているわけではなく、サッポロ社のラベル使用の許諾を受けて、地場の製菓メーカーが造っている物だ。参考までにアルコール分が0.1%入っている(ノンアルコールビール並みだ)から、極端にお酒に弱い人だと受け付けないかもしれないな。
2006年07月06日
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子供を英語にさりげなく触れさせる、それにはやっぱり音楽が一番だ。事実私がそうだったから、コレは自信を持って言える。ただ音楽なんてのはあくまでも「嗜好品」だから、親が強引に「コレを聴け!」「コレを好きになれ!」などと押し付けたりすると、かえって逆効果になりかねない。そこで考えたのは「ヘヴィー・ローテーション作戦」だ。さほどたいしたことない曲でも、CMなどに採り上げられて耳に馴染んでくると、何だかいい曲に聞こえてくる、というのと同じ理屈だ。子供たちと一緒に聴ける空間――――例えばクルマの中など良いな――――で、特定のCDを繰り返し繰り返しかけて、まるで洗脳さながらに子供たちの意識化に植えつけてしまおうということだ。そうすればそのアーティストを好きになる確立は高い。一度好きになってくれればしめたもの、あとはそれに比例して英語に対する親しみが沸いて来るという寸法だ。問題は何のCDを聴かせるかだ。私自身「ビートルズ」から出発したということもあるから、同じように「ビートルズ」も考えたが、ビートルズはちょっと英語を習いだしてからの「教材」としての方がふさわしいように思った。特にまだ英語にまったく接点のない小学生の2人の娘のことを考えると、今はとにもかくにも「耳障りの良さ」を最優先したい。そこであれこれ考えた結果、私が白羽の矢を立てたのは「カーペンターズ」だ。その理由としては、(1)メロディーがキャッチーで親しみやすい(2)カレンの歌声がキレイだ(3)アレンジがいまだに古さを感じさせないというようなことが挙げられるが、少し前にたまたまテレビから流れていたカーペンターズの『シング』に、真ん中のムスメの耳が微妙に反応するのを見逃さなかった、ということも大きい。そういうわけで今日、カーペンターズのベスト版CDを買って来た。いよいよ「ヘヴィー・ローテーション作戦」の始まりだ。さて、どういう展開になっていくだろう......非常に楽しみだ。カーペンターズ/青春の輝き~ヴェリー・ベスト・オブ・カーペンターズ
2006年07月05日
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中1の長男が英語の勉強で苦労している。同級生の中には小学校の時分から英会話を習ったりして、中学で本格的に習う前から英語に慣れ親しんでいる子もいるが、そういうことを何もしてないウチのムスコにとって、初めて見る異国の言葉にどうしても戸惑いが先に立っているようだ。私は英語が得意な方だったので、そういう姿を見るとどうしても歯がゆさを感じてしまう。あ、いや、「得意」といっても誤解の無いように付け加えると、他の教科に比べて“相対的に”良い方だった、というだけのことで、別に会話がペラペラに出来るとかそういう自慢の出来るレベルではないので念のため。私が英語を得意とするようになったキッカケ、今思えばそれは、ビートルズをはじめとするロック・ポップスを片っ端から聴き漁っていたことだと思う。何せ他人からレコードを借りると、それをテープに録音するだけではなく、歌詞を一から十まで書き写すのが趣味みたいなものだった。まるで般若信経の「写経」さながらだ。もちろん私の聴いていた音楽の歌詞がそのまま、文法的に授業で教わる内容に合致していたかというと、必ずしもそういうわけではない。どちらかというと音楽の歌詞みたいに「くだけた表現」は、学校で習うような「カタイ」表現にはそぐわないことが多いから、私の「写経もどき」が学校の成績に直結するとは限らない。しかし少なくともひとつの成果として言えることは、そのおかげで英語に対するコンプレックスとはまったく無縁でいられた、ということだ。とにかく中学でも高校でも、英語の時間は楽しかったし、受験勉強でも英語には苦痛を感じることはなかった。今の子供が「英語嫌い」になるとしたら、初っ端のつまづきが次第に英語に対するコンプレックスに変わっていってしまうからじゃないだろうか。もしそうなら親としては、子供が英語に対してコンプレックスを持つ前に、何らかの対処をしてやった方がいいんじゃないか。ただ、だからといって小学校時分から英語を「習わせる」ことについては、私はどちらかというと否定的な考え方だが、あくまで「さりげなく」触れさせる程度が理想だろう。そう思った私は、ある考えにたどりついた。(明日に続く・・・・・)
2006年07月04日
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先日ウチの店で箱入りの焼酎を購入されたお客から電話があり、箱を開けたら中に全然違うラベルの商品が入っていたというご指摘を受けた。まさかそんなことが.......とも思ったが、先方がそう言われる以上間違いはないだろう。とにかくそれは取り替えに行きます、とお答えはしたものの、そのとき私も出かけていてすぐに伺える状況ではなかったのだが、そうこうしているうちに先方からわざわざ、ウチの店に出向いて来て頂いたのである。隣の市の方で、こちら方面に来るついでがあったということだったが、遠いところを2回も来て頂いて、いたく恐縮してしまった。それでその方にはご迷惑をお掛けしましたということで、代金を返金した上で、代替品を無償で差し上げた。念のためにウチに有る、その商品と同じロットで仕入れたほかの在庫を全部調べてみたら、それらはまったく間違いは無く、どうやらお買い上げになったその1本だけが違っていたようだ。中に入っていた“間違い”商品の銘柄を調べたところ、同じメーカーのものではないが、いわゆる「姉妹会社」の関係にある所の商品なので、これは蔵元の方で何らかのミスがあった可能性が高そうだ。しかし蔵元や取次ぎ問屋に訊いてみたところが、いずれも「ウチで間違えた可能性はありえない」の一点張りだ。まあ蔵元に事情を細かく話したところ、ウチが無償で差し上げた代替品の分は補填して頂けることにはなったが。そんなこんなで結局原因は分からずじまいになったが、とりあえずそのお客に詫び状を書いて出した。そうしたらその数日後、またその方が来店され、同じ商品やその他の物もいろいろお買い上げ頂いたのだ。何でもその方の言われるには、自分のところのミスでもないのに丁寧な詫び状まで頂いて、かえって感激してしまった、ということだった。もちろん多少お世辞も入っているのだろうが、それでまた遠いところをわざわざご来店頂けるなんて、逆にこちらの方が申し訳なく思ってしまった。でも、キチンとした対応さえ心掛ければ、必ずお客に伝わるということが形として表れたようで、ちょっとうれしかった。
2006年07月03日
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映画『不撓不屈』を観に行った。だいたい原作を読んだ作品の映画化というものは、原作のイメージとのあまりに大きな乖離にガッカリしてしまうことが多いのだが、この作品は非常に原作に忠実に作られている印象がある。ただ原作自体が引用文が多かったり、文章も淡々として全体的に重々しい雰囲気だったのに対し、映画の方ではやや「人間ドラマ」的な部分をよりクローズアップさせて、バランスをとっていたようにも思えた。地味な映画だが、全編を貫く主人公・飯塚毅氏の会計人としての矜持、そして正義感が熱く描かれている。これらを貫き通した彼は見方によってはスーパーマンのようにも映るが、彼とて所詮普通の人間であり、彼を衝き動かしたその信念なり倫理観こそが、今の世の中に欠けていて尚且つ最も必要とされているものであるということを思い知らされる。そして以前の日記にも書いたように、主人公の飯塚毅氏と私の義父、つまり妻の父とは永年にわたる交友関係が有った。お互いの夫人同伴で何度となく一緒に旅行に行ったりしたことも有ったそうだし、私の妻が生まれたときには病院までお祝いに駆けつけて頂いたそうだ。そういう意味でも余計にこの映画は胸に迫ってくるものがある。今は飯塚氏も義父も他界してしまっているが、義父がこの映画を観たら何と言うだろう?今頃は天国でこんなこと言ったりしてるかもしれないな。「飯塚君よ、オマエさんちょっとカッコ良すぎるんじゃないか?」
2006年07月02日
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私の住んでいる市を、国道365号線というのが走っている。そしてその道の起点は私の家のスグ近所だ。この道は三重・岐阜県境を越えて、関ヶ原方面に抜けるときによく使われる道だが、そのためかこの365号線の終点は関ヶ原だと、ずっと思っていた。あるときインターネットの地図サイトを見ながら、この365号線に沿って何気なく画面をスクロールさせていた。関ヶ原まで来たとき、果たしてどこで終わるのかな、と思っていたら、なかなか終点が見当たらない。そのままずっと北に向かって伸びている。そのまま画面をスクロールし続けた。滋賀県に入って琵琶湖の東岸を北上し、JRの敦賀トンネルの東側の山の中に入り、そのまま福井県に突入。武生市まで来てから進路を西に取り、そのまま日本海に向かってまっすぐ進み、海岸線にぶつかったところがどうやら終点らしい。なんと今まで関ヶ原で終わりだと思っていた道が、越前海岸まで達していたとは。もっとも国道としてはこの365号線は短い部類に入るのだろうが、意外なところまで伸びていたことに感激してしまった。いや、普通の人にしてみれば、「それがどうかしたの?」という程度の話かもしれないが、地図好きの私にとっては興奮するに十分値することなのである。一度ヒマを見つけて、国道365号線を起点から終点までドライブしてみよう、そういう気持ちがムクムクと沸いてきた。
2006年07月01日
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