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♪ 新しき住民たちの代表の我は歴史の一樹なるべし まだ続いているブログのアクセス異常。昨日は2016年と2015年のものがメインになっていた。どんな記事にアクセスがあるのか「昨日読まれた記事」からピックアップして、過去の日記を拾い読みしたりすると、懐かしさとその頃の状況を思い出したりして、それはそれで面白い。 昨日、職員の駐車場のできる計画がどうなっているのかを聞くために、市役所の「朝倉駅推進室」なるところへ行ってきた。2階の土木課の中に出来た組織らしいが、新しく独立した組織となって3階に「新庁舎建設室」というのがあるのでそちらに行ってくださいと言われた。 行くと誰もおらず、隣の部屋に訊くと室長らしき人が首をかしげながら「ここでお待ちください」と廊下にある質素なテーブルを示された。連れてきたのがその「新庁舎建設室」の室長で、会議があってスタッフ全員が出払っていたのだという。総務部直属の位置づけ 若い感じの室長で、嫌な顔もせずゆったりとした対応で話を聞いてくれた。先ずは「緑地帯・ちびっこ広場・旧ゲートボール場」が撤去され、職員の駐車場が出来る計画がどうなっているか、状況を知りたいんです。」設計はこれからで、測量が始まったばかりという。ここに向かうときに、ちょうど測量を始めたところで、ちょっと立ち話をしてきたばかり。 経緯をまったく知らされていない事、状況は理解しているので今更反対する気はない、設計が出来る前にこちらの希望を言っておきたい、などかいつまんで話す。 そして、市の玄関である朝倉駅と市庁舎のあり方についてなど、言いたいことはたくさんあって、思いつくままぶっつけていく。駅前のロータリーがあまりにも無駄な空間が多く木も植えられていないし、夏の暑さ対策もされていないこと。樹木の存在の意味や市が緑園都市を標榜していること、パブリックコメントが反映されていない事。駅へ降り立ってちょっとした散策が出来るようなもの、知多市っていいなぁと思わせるものであってこその玄関でしょうと。 室長ともなるような人は聞き上手なのだろう、否定的な意見は言わずフムフムと聞いてくれる。こちらも一応の下調べはしてあって全体の流れは頭に入っている。 基本計画図などチラチラとみせながらの対応は、こちらの “意見を受け入れてますよ” という感じを与え、こちらをいい気分にさせて言いたいことを言わせている。ガス抜きさせるというテクニックか。 駐車場にするにあたって植栽するのでしょうが、今ある勤労文化会館の駐車場のカイズカイブキのような背の低いものではなく、防風を兼ねたもっと背の高いものにしてほしい。新舞子の踏切ちかくにある愛知製鋼の「聚楽亭」の生垣のようなものにしてほしい。聚楽亭 それと、今の市役所跡地に商業施設や図書館などが出来る「北街区」エリアには、緑地帯を是非設けるべきです。今の市庁舎の前の欅の木の存在がどれほど大きいかを想えば、理解できると思うんです。木をバラバラに植えるのではなく、憩いと散策が出来るようなまとまった樹木のある緑地。バラバラでは折角の木の存在意味が拡散されてしまいます。 山桃がどうのというので、「山桃は樹形も花も美しくないし、実が落ちて汚くなるの良くないですよ。」梅は市の木ですから植えてあるんですというので、「なぜ紅梅がないのですか。白ばかりでは華やかさがないですよね。」と。ああそうかと、メモをしていた。その程度の認識でしかないかのように。 プランナーが提出してくるものが最良のもだと思い込み、こちら側に意見がを持たないまま進行してゆきスンナリと通っていってしまうのだろう。勉強が足りない。そんな時間も余裕もないというのが彼らの言い分だろう・・。 木の選定にしても安易に流行りのものを植えるのではなく、もっともっと吟味して「さすがは知多市だ」と思わせるようなものを植えるべきだと思いますよ。「私個人が言っていることなんてインパクトがないでしょう。他に何か手があれば打ちたいですが、陳情書を提出したところで回し読みされて終わりでしょう?」「まあそうですね。」「市長に手紙を書いても同じことでしょうね。」「まあ同じようなものでしょうね。」「忙しいところ、有難うございました。」「よろしくお願いします。」 ここが事務室ですと扉を開けて中を見せて呉れた。事務机が4つ?6つ?ほどのこじんまりした部屋だ。2階の各課はズラーと並んでいて、まるで大きなホームセンターのようなものだが、3階のここは独立した部屋なので気兼ねなく訪問できそうだ。 名刺を差し出され、私もたまたま持っていた名刺を出した。「私も西平井に住んでます。汐街道です。」「ええっ、じゃあ、同じ地区の住民じゃないですか。」 最近の公共施設、自治体のスタッフには障碍者を何パーセントか雇用する決まりがあるようで、何人かの障害のある人を見た。この室長も杖を突いてやって来たので、あるいはそうなのかもしれない。 近くに住んでいるというのを聞いて、あんがい良い関係性を作れるかもしれないと思いながら帰って来た。
2024.06.07
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♪ 先生を持たない事の功罪を日向で伸びをする猫に訊く 昨日はカミさんが卓球の試合で居ないので昼は外食することになっていた。それで、バブルの時に店を拡大して破産した居酒屋の夫婦が、最近夫婦だけで始めた店に行くことに。30年も前になるが、夜にちょくちょく飲みに行っていたので懐かしさもあって、楽しみにしていた。それが何と!「臨時休業」ときた。ガッカリだ。 しょうがないので、これまた最近、住宅街の一画に出来た天婦羅と蕎麦の店に、どんな店か興味があったので行ってみるとここも、暖簾が出ておらず休みのようだった。悪いことつづくもので、それならばと、しばらく前にウォーキング中に出来たのを知っていて、一度行ってみようと思っていたこじんまりした料理屋へ。なんと「完全予約制になっております」と門前払いを食らって、敢えなく撃沈した。 散々な昼だ。水曜日というのはケーキ屋が定休日だし和菓子屋もそう、他にも水曜定休って結構ある。もう他へ行くのはあきらめた。出来合いの寿司を買って済ませることに。 この日は、短歌の例会の日でもあった。長い歴史はあるもののメンバーは高齢となり数も減ってしまっている。ちょっと侘しさの感じる会ではある。先日、リーダーの年齢が昭和12年生まれで私の一回り上と判明。加山雄三と同じ87歳になる。耳が遠いし言っていることの真意がよく分からないこともある。 この会は「家林の会」が母体となっており、その知多支部をになっている。「かりん」のリーダ馬場あきこ氏は1928年(昭和3年1月)生まれで御年96歳。言わずと知れた短歌会の大御所だ。それからするとまだ若いという見方も出来ないこともないが、一般的には80歳を超えると、いろいろな部分で心もとなくなってくる。 わがリーダーは医者の奥さんでもあり、裕福な生活のなかでその男勝りの性格を活かして、大いに活躍していたことが、その言動から窺われる。若い頃は馬場あきこ氏に可愛がられ、知多支部は他とは違う待遇を受けていたらしい。 馬場あきこ 「かりん」とはどういう意味かとたずねられることがあります。 由来は古く、院政期の歌人源俊頼の子俊恵法師が、「歌林苑」において月例歌会を催したのが、おそらく日本最初の歌人集団であったといえるでしょう。「日本最初の」というその新鮮さを、わたしたちの集りのいのちとしたいとねがって、その名を襲ったものです。 個々の個性の十全に発揮された、ユニークな作品を研いでゆく集りでありたいと希っています。「かりん」にはかの「前登志夫」も一時入会していたらしい。私にも「入りませんか」とリーダーに誘われているけれど、さてどうしたものか結論は出せないでいる。 こういう組織や団体に入ることを頑なに拒んで生きて来たが、そんな頑迷なたわ言から解放されてもいいのかも知れないと、いまでは思えるようになってきてはいる。☆ ★ ☆ 一つ上に目線を持って行って、ここらで一皮むいてみるのも良いかもしれない。そうなったらなったで、果たして「かりん」が一番自分に合っているのかどうか。他にもたくさん結社はあるし、傾向には少しずつ違う個性もあるだろう。緩いところ、厳しいところ、伝統を重んじるところ、新奇を求めるところなど、短歌シーンも時代とともに変化もしている。会派の違いによって求められるものは違ってくる。 こんなランキングがあったりする。短歌賞だけでなく過去に歌人や歌集の受賞履歴のある文化芸術賞も対象とし、集計期間は2020年から2016年までの過去5年間の受賞記録。短歌結社ランキング2020 *GP(Grand Prix:大賞)は主に中堅以上のベテランを対象とした賞を意味します。*NF(New Face:新人賞)は公募新人賞や第一歌集賞などの賞を意味します。*結社名は社名または歌誌名の広く通じる方を採用しています。 2019年に引き続き「心の花(竹柏会)」が1位という結果となりました。前年までのポイントをほぼ変えてないことから、変わらず人材を輩出していることがうかがえる。これに迫るように2位の塔、3位の未来、そして4位のかりんが昨年よりぐっとポイントを重ねてきた。上位4団体が今年の受章を取り合った格好。特に2位の塔は昨年4位(70ポイント)から26ポイントもの積み上げを成し、大きく躍進。主宰の吉川宏志さんが芸術選奨文科大臣賞と茂吉賞のW受賞を果たしたところに、結社としての勢いを見ることができるかも・・。(最適日常)各年度の受賞数一覧表Gは「Grand Prix(大賞級)」、Nは「New Face(新人賞級)」☆ ★ ☆ 今朝は、気圧配置が不安定で季節の変わり目の情緒不安定も重なって、うっとうしかった頭も良く寝たことでスッキリしている。ウォーキングもご無沙汰しているので、ここらで心身のデトックスとでもいきましょうか。 結社のことは今月いっぱいかかって考えることにする。 因に、今月のサイトに「かりん作品抄」というのが載っているので引用しておきます。 鈴木 加成太 選(語気のある歌を選びました。)2024年02月号お札とか期待している犯人に引き破られた「ママへ」の手紙 川口慈子「着てたのは白い服だった」ガザの母は血染めの骸を息子と認めず 山内活良黙るという選択は夕焼けに似る 何を語るんだろう、その色で 貝澤俊一腐つちやうほどあるといふ柿を母は受話器越しにたんとたんと渡し来 碧野みちる濛々と蒸篭の湯気より取り出して熱いですよ、中華街なり 池田広明教会のまへに寺あり(この創(きず)をどこで癒やすか)ゆらめく影よ 宮崎 浩こんなにも色づく秋は魔女となり幻の子をたくさん食べよう 島本千代子ええもんが来てるかと見るポストにはコロナ七回目の接種券あり 藤村郁代病院の待合室のテレビには「みんなの体操」しーんと見ている 山田圭子寒風の西萩ホームに手作りの弁当食むOL抱きしめたいよ 江國 梓 「かりんネット歌会」なんていのもやっていて普通に間られるので、興味がある人は覗いてみてください。
2024.03.07
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♪ 老いを知り花にひかれるこの弥生み吉野の樹に水のながれる 吉野の桜をもう一度観に行きたいと思う。一度バスで行ってその美しさにほれぼれしているが、観光バスでは自由時間の3時間があっという間に過ぎてしまう。 2008年4月13日だった。その日は最盛期の日曜日ということもあって、ものすごい人。人を見に行っているようなもので、ゆっくり桜を愛でるような雰囲気ではなかった。 ★ 今年の開花予想が「吉野町」のHPに出ている。 期間中はマイカー規制〔規制期間:月23日(土)〜 5月6日(祝)〕があり、シャトルバスが運行される。 シャトルバス運行日 3月30日(土)・31日(日)・4月6日(土)・7日(日)・13日(土)・14日(日) 3月23日(土)~ 4月14日(日)2,000円(駐車料金1,000円+協力金1,000円) 4月15日(月)~ 5月 6日(祝)1,500円(駐車料金1,000円+協力金500円) 周辺の駐車場が満車になると、吉野山に進入できないことも想定される。とにかく大渋滞になることは間違いない。早朝に着いて、昼過ぎには下山するくらいの予定で行けばいいかもしれないが・・。★ 近鉄吉野駅から七曲坂を歩いて上がるハイキングコースがあり、20分ほどで吉野山下千本付近まで上がることが出来る。下りは15分程度で、七曲坂の桜並木をハイキングするのがベターかも。 また、近鉄吉野駅から中千本公園まで、例年どおり奈良交通による臨時バスの運行がある。 【期間】令和6年3月23日(土) ~ 4月21日(日)実際とは南北が逆になっている。 こんな山歩きも良さそうだ。片道約5km 4時間半かかって桜の下を歩く。ウィークデイにゆっくり存分に楽しめる。MIND TRAIL YOSHINO 静かな山歩き 秋の吉野山タイム:04:34、距離:589m、のぼり:589m、くだり:10.7km 近鉄吉野駅まで行くのにかなり時間がかかるが、山歩きがしたいと思えばこれしか方法がない。前登志夫が何度も往復し、西行が生涯をかけた吉野の桜を、たった1日で味わうというのは無理な話ではある。宿なんか高くて泊まれやしないし、予約も取れないだろう。 観光地という人の手のかかったところへはあまり行きたいとは思わない私は、自然の美を心行くまで、それもこの全山に咲き誇る吉野の山桜を、死ぬまでにゆっくりと味わっておきたいと思う。★ 過去の開花状況も観られるので、7年前からのものを引用させていただきます。年々早まっていて、今年は去年よりも数日早い予想になっている。
2024.03.06
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♪ 断捨離に過去の便りを整理して最後の年賀を投函に行く 無風快晴の清々しい朝です。昨夜書き上げた年賀状を、起き抜けに投函してきた。集荷は11時過ぎなので早く出す意味はないが、あまりにも気持ちがいい朝だ。市役所前のポストまで2分ほどの距離。休みに入って静まり返っている道路に人影はない。風がないのでまったく寒さを感じなかった。 総務省は18日、はがきの郵便料金を現在の63円から85円に、25グラム以下の手紙では84円から110円に引き上げる案を公表。早ければ来年秋にも値上げとなる。来年の年賀状は1通85円になる。30枚程度でも2650円。このチャンスに乗っかって、虚礼廃止とばかりに止める人が多いでしょうね。【LIVE】河口湖からの「富士山ライブカメラ」スッキリ晴れて美しい。この王道の富士もいいが、遠くから眺める富士山もいい。 沖縄、北海道を除く日本全国が快晴のようだ。しかしこれは嵐の前の静けさで、西から低気圧や前線が近づいてくる。午後は次第に雨雲が広がり、夜は雨の降る所が多い。そして大晦日は大荒れの予想。朝9時の予想天気図 街に出かける用事もないので正月気分が出ない。20歳から10年間はスキー場で過ごすのが当たり前だった。毎年、同じ民宿に泊まり、家族同然の待遇を受けていたが、それも遠い昔のこと。 外で遊ぶ子どもの声は聞こえず、何の変化もない。本当に年が開けるのだろうかと疑りたくなる。輝かしい新年はやってくるのだろうか。 雑煮を食べて辛うじて正月らしさは出るものの、7~8mの北風が吹くようでは出かける気分にもなれない。図書館で本が3冊も借りてあるので、じっくり読めるのは有難い。 今年は低山の登山をするつもりだったが、天気と都合といろいろ合わなくて伊吹山に行っただけ。もっといろいろ登りたかったが、行きそびれてしまった。来年は1~2泊の旅行にも行きたいなぁ。若い頃に放浪した時のように、予約もせず行き当たりばったりで・・・。
2023.12.30
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♪ 幸せは与えられぬが三秒でオキシトシンを出してあげます お前はあと10年、何を全うしたいのか。 老成もできず、達観と諦観を標榜しながらまるで真逆の日々を送っているではないか。義母が90歳を目前にして入院。ほとんど食べることさえ出来ない中で、点滴で永らえている様子。必ずや「やって来る死」を思いながら、どういう死に方が理想なのか、考えているのか? 来年は後期高齢者となるのに、自分では老人という自覚があまり無い。ニュース報道や様々な場面で、同年齢の老けた人たちを見ては優越感を感じている。実際は自分もあんな風にみられているかもしれないのに、それを認められず、自分は違うと打ち消して自己満足している。 そして、相変わらず一線で活躍している人を見ては嫉妬に似た苛立ちを覚え、そして、その刺激を嬉しくもも思っている。 他人と比べない生き方を続けてきて、他人がどうあろうと関係ないと思う。なので、自分はどの位置にいてどういうレベルなのかは分からない。が、自分の価値基準で、晩年を好きなように生きたいと思っている。 自分のためだけに生きるのか、社会や人助けのために残りの命を投げ出すのか。 しかし、出来得ることは限られている。金もなければ力もない。社会のためと言っても、せいぜい小さな親切を積み重ねていくことぐらいしかできない。さまざまな問題の解決に尽力している人たちの力になればと「Change.org」に登録して、署名や協賛を呼び掛けに参加してきた。その不条理な諸問題はあまりにも多様で数限りなく、広がっていく一方だ。 全体の3%に入る協力者だと言いつつ、寄付を何度も何度も要求してくることに嫌気がさし、しばらくは受信停止しておくことに。 この「Change.org(チェンジ・ドット・オーグ)」は、四大陸に事務局があり、日本語版サービスも2012年に事業展開を開始している。日本では、一般的な営利企業に分類されている。実際の運営資金は、ユーザーからの寄付と資金調達でまかなっている。(寄付には、会員プログラムに申し込んだ会員からの月額の「会員費」と、ユーザーがChange.org上で自分の賛同する署名キャンペーンを他のユーザーに知らせる「キャンペーン広告」の二種類がある。ビル・ゲイツ(Microsoft共同創業者)、リチャード・ブランソン(ヴァージン・グループ創設者)、アリアナ・ハフィントン(ハフィントン・ポスト創業者)、リード・ホフマン(Linkedin創業者)アシュトン・カッチャー(俳優、投資家)などからの資金調達も行っている。) しかし、日本に於ての請願は、請願法に規定されており、請願者の住所・氏名さえ記載されていれば捺印も不要で、請願書として扱われるが、それは不正防止等からあくまで直筆実名が条件である。その為、Change.orgによって集まった請願や署名に公的法的効力は無く、あくまで意見の場として存在している。 不正な水増しや成りすましも可能で、寄付のありかたにも問題が浮上したりしている。 やはり、背伸びをせず、地に足を着け、他人にも自分にもオキシトシンを出して、ほんわか暖かい気分になれるような、小さな幸せの種を蒔いていくぐらいが性に合っている。「オキシトシンおじさん」とか呼ばれてみるのも悪くない。
2023.03.05
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♪ 哲学で腹は膨れず殺生に今日も加担の一日が過ぎ 本を返却しに、いつもの様に裏道を歩いて図書館へ。坂を駆け上がるのと夕陽を見るのと3つの目的があった。前回は少し遅れた夕陽に間に合わるために4時過ぎに出たのに、ほんの少し少し遅かった。 北西の風は弱まっていたものの西の空には厚い雲があって、その雲の中に沈んでいくところだった。地平の際に雲はなかったので辛うじて最後の瞬間には間に合った。 坂を下って図書館へ。なんか暗い。 入り口を入ったところにスタッフがいて「システム障害で臨時休館なんです」「えー! 何時からですか?」「3日前からです」「復旧の目途が立っていないんです。ホームページで確認してください」 そういえば出る前にカミさんがそんなようなこと言っていた。3日前のことなので、もうてっきり復旧しているものだと思っていたらしい。「しょうがない」同年齢くらいの男性がやって来た。防寒着に小さなリュック姿。「歩いて来たんですか?」「ええ、長浦ですから近いです」その割には万全の出で立ちなので、まだしばらく歩くつもりなのかもしれない。 15分後に元のところへ。夕陽の名残が雲を染めていた。 暗くなりかけた裏道へ入ると、遠くにカラスの鳴き声がする。塒があるらしい。カラスはときどき塒を変える。最近はこんなところに集まっているのか。 あちらこちらから申し合わせたようにやって来る。いったん木に止り、また飛び上がったりしている。徐々に落ち着いていくのだろう。 上弦の月が出ている。1週間後が満月(新月)で、月齢 7.2の月だ。 この少し高くなっている向こう側に山茶花の木がたくさん植えてある。見事に咲いているはずだが、薄暗くなってきたので行っても無駄だろう。 少し行くと小高い場所にひときわ大きな木があって、カラスが鳴きながら盛んに飛び回っている。どうやらその木が塒のようだ。 テレビで数百羽のカラスが集まって困っているのを、如何に追い払うかというのをやっていた。“カラスの鳴き声を利かせる” というもので、どうしてそれで追い払えるのか不思議だったが、説明を聞いて納得。 カラスの「警戒の声」を流すのだ。効果てきめん。危険を察知して、一斉に逃げ出していった。頭がいいカラスの事、直ぐに戻ってきてしまうらしい。何度もやるというが、オオカミ少年と同じで間もなく見透かされるのがオチだろう。☆ 図書館ぐらいは生活に支障はないが、銀行のATMとかいろんなところでこういう問題が起きている。機械はこういうトラブルを起こす。今まで出来ていたことが突然できなくなるというのは、ハイテクとは言えないんじゃないか。絶対に回避できないようなら、過度に依存するのは考え物だ。 ジェット機などはフェールセーフ(fail safe)というのがあって、故障した時、常に安全性を確保する方向で壊れるように制御する設計手法がとられている。そして、フェールソフトというものがあり、機能を縮小しながら処理を継続(飛行機のエンジンが壊れても継続して飛び続ける)させたりしているらしい。 これをもっと完璧なものにして、システムそのものの故障個所が瞬時に分かるようにしないと。 機械に頼って機械に振り回されるなんて、何とばかばかしいことか。便利なんだからそのぐらいは我慢しろというのかもしれないが、人間に出来ることには限度がある。自然界を模倣して何とかやっているのが実状で、もっと謙虚にならないと。そのうち飛んでもないことになる。 犬や猫、他の動物に対しても、人間と比べて「頭いい」とか「凄いねー」などと言いがちだが、それこそが自然界を舐めている証拠だ。人間に無い能力を自然界の生物は持っているのに、そうは思えない。すべてテクノロジーで解決できると思い込んでいる人間。 精子の数が激変しているという事実をご存知だろうか?「ナショナル ジオグラフィック」の記事を読んで驚かない人はいないと思います。クリックで「ヒトの精子の減少が加速、70年代から6割減」の記事へ
2022.12.02
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♪ 7年ですべてが変わる細胞のことばを生みて過去を苛む 珍しい本が出てきた。親父が亡くなった時に蔵書の中からもらって来て、本箱の隅に仕舞い込んであったもの。心理学やこの手のものに興味があって、とりあえず持ってきたのだろう。親父は1987年に80歳で亡くなっているので、35年前のことになる。 明治生まれの正義感あふれる若者だったのだろう。丁稚奉公しながら苦学して中大の法科に入り、弁護士を目指して司法試験を受験するも3度落ちて断念。1907年(明治40年)生まれで、青年時代を戦争という悲惨な中に過ごし、30歳前だろうか、満州開拓義勇軍(1938年:昭和13年~1945年:昭和20年)に志願して満州にも行っている苦労人だ。 大学を出たけれど仕事に就くのも大変な時代。晩婚となって、戦中戦後の「産めよ増やせよ」の国策に則り、「子どもは5人育てるのが国民の義務」と信じていた。きちんと1年おきに5人を儲け、戦後の食糧難の中で育ててくれた。私が中1の時には、結核で2度目の入院療養生活を余儀なくされている。 真面目で真っ正直な人だけに、理不尽な思いも多々あったようだ。どれだけ辛い思いをしたか、戦争体験を聞いてもあまり話したがらなかった。神経衰弱(今でいうノイローゼ)になったことがあるらしく、繊細で几帳面な人だけに耐えることの多い人生だったのかもしれない。 唯一、大学時代は楽しかったらしく、機嫌のいい時はテニスや鉄棒、ビリヤードなどの話を聞かせてくれたこともあった。 そんな親父がこういう本に興味を抱いたのはとてもよく分かる。初版が昭和37年(1962年)で、45年の第6刷まで出ているが、下巻には自己催眠の項目もあるし、現代病(心の病気)へのアプローチもあり、ノーローゼに関する記述もある。 しかし55歳で定年になり、入っていた社宅を出ることになって、実父母のいる知多市にUターンしたのが1962年。年譜からすると定年退職してから買った本という事になる。私は、中2の新学期を新しい土地で迎えることになった時期でもある。 私自身も親父とよく似た気質で、この年になってくると親父の気持ちがよくわかる。子どものころは妙に優しい父親で、あまり怒られた記憶もない。上姉二人、その下3兄弟の真ん中の私は、ひねくれもので気難しい子供だった。後で知った「サンドイッチ現象」をずっと引きずっていた。 自己表現がうまくできずいじめられもしたし、対人恐怖症的なところもあって、いつも暗い顔をしていたような気がする。繊細で傷つきやすく、人を信用しない意固地な性格、疎外感がいつも心にあってぽっかりと大きな洞を抱えて生きていた。 サンドイッチの抑圧生活から、もっとも精神が不安定な時期に転校するという、悪路で轍に嵌って身動き取れない荷馬車のような状態になった。 そんな私を何とかしてやりたいと思ってこの本を買ったのかも知れない。私に助言とか言葉かけなど一切してくれなかった親父の、後悔と懺悔の気持ちの表れだったのか。そう思うとこの本を読んでやらないといけない気がしてきた。 下巻の方から読んでみよう。もっと早くに読むべきだったと思うが仕方がない。この年になってどこまで理解しどういう意味をもたらすのか、秋の夜長を催眠術の世界に入り込んでみるのもいいでしょう。☆「日本の古本屋」に1冊出品されている。昭和50年(1975年)発刊だから第7刷になるのか。1刷が3,500円から6,800円の定価になっているので、15年を経てずいぶん値が上がったものだ。高度経済成長のせいだろう。 * ウクライナ応援の思いを込めて、背景を国旗の色にしています。
2022.10.21
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♪ 大海に小石を投げて悦に入る生きてるだけのものにやあらず 最近何をやるにも時間がかかり、持久力もなくなって直ぐに疲れてしまう。そりゃあ73歳にもなれば、何にしても衰えるのは当然だろう。しかし、現役でバリバリやっている人は沢山いる。政治家なんかこれからという歳かも知れない。 バックナンバーから2018年のブログを読み返してみると、このころは毎日充実した内容の文章を書いている。自分で書いていて “良いこと書いてあるなぁ” なんて感心するぐらいだ。 そんな中に、三人称で書いてあるのがいくつかあった。こんな歌を詠んでいるところを見ると、一度自分を離れて客観的に世の中を見てみようと思っていたらしい。♪ 三人称に替えて離れて吾(あ)を語る別人なれば責任もなし ちょっと発想を変えてのマンネリ打破。イメチェンを図ろうとしたらしいが、やっぱり付け焼刃は続かないようでいつの間にか消えている。 自分の文体を変えるというのはなかなか難しい。せいぜい七五調で書いてみるのが精いっぱいだ。小説なら町田康のように “ぶっ飛んじまう” のもいいだろが、日記となるとそうもいかない。そうもいかないと、思い込んでるところがそもそもダメか。 “架空の主人公を登場させてエッセイを書く” なんていうのは邪道だろう。でも面白そうではある。わがブログなんてしょせん哀しき自慰行為。リアクション無しのただの自己満足。何をどう描こうが誰にも迷惑は掛からないし、文句を言われる筋合いもない。 一応は日記の要素も入れ込みながら、勝手なことを虚実織り交ぜて書くというのもありかも知れない。しかし、それにはかなりの時間がかかる。原稿料がもらえるならまだしも、一日かかって書くというのはいくら暇人でもさすがに無理だ。 そして一番問題なのは短歌だ。本来は短歌を乗せるために、2006年5月8日に始めたブログだ。最初のころは短歌だけの日も多かったが、徐々に文章に力が入っていった。そして最近は、短歌がおろそかになっている。根気と情熱の炎が消えそうでどっちつかずの、中途半端な状態になっている。 その日のブログへのアクセスよりも過去のものへのアクセスがメインになっている。所詮こんな感じで推移している。今まで書いてきたブログはアーカイブとして、放っておいてもアクセスは稼げる。アクセスを気にすることも無い以上、好き勝手なことを書けばいい。 今までいろんなことに挑戦してきた。同じところに留まっているのが苦手な自分が、未だに短歌だけは手放さずにいる。文章を取るか短歌をとるかと悩んだこともあるが、やはりどちらも手放せない。結論はまた先送りに・・・ * ウクライナ応援の思いを込めて、背景を国旗の色にしています。
2022.08.21
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♪ 鷹揚に孤独の虫を飼い慣らし時はこっそり手なづけてある 5日は東海地方では27度を超えたところが幾つかあった。5日はちょうど「立夏」に入る日でもあり、6日もたっぷりの日差しと暖かな空気が流れ込み、北海道や東北を中心に気温が上昇。 正午までの最高気温は岩手県岩泉町で31.2℃、青森県三戸町で30.9℃、北海道女満別空港では30.0℃まで上がり、真夏日になったようです。青森県弘前市で29.9℃、岩手県宮古市川井で29.5℃、北海道遠軽町で29.4℃まで上がるなど、所々で真夏日に迫る暑さに。札幌市では25℃以上まで気温が上がり、今年初めて夏日になった。 4日には沖縄地方で平年より6日早く梅雨入りし、早くも本格的な雨の季節に入っている。子供はどんどん早熟になり、季節は前へ前へと繰り上がっていく。地球は密かに、公転速度を上げてるんじゃないかと疑いたくなる。 「時間が回っている感じ」というのはなかなかいいセンスで、とても豊かな感じがする。満ち足りた心がなければこうは思えない。同じことの繰り返しこそ「生きている実感であり、掛け替えのない喜びでもある」という感覚でしょうか。 「時間が直線に進むと感じるのは、未来しか見ていないから」という指摘もうなずける。時間という目に見えない概念を、心では有機的に変幻するものとして捉えている。時には伸びて感じるし、時には縮んで感じもする。 直線は最短距離を意味していて、紆余し曲折しているイメージはそこにはない。過去に目を向ければ決して直線的に流れてきたものではないことに思い当たる。時には止まっていた思える瞬間さえある。無限階段(エッシャー) 現代人は「時の重心を未来に移行させて、未来に引っ張られながら」生活しているのかもしれない。寝に帰るだけの家に住み、庭に植物のためのスペースが全くない環境に何の違和感も持たない。私には、生き急いでいるように思えてならない。社会の高速歯車に巻き込まれて、先へ先へと引っ張られていく。 センテナリアンが増えているが、その極意は「自分が自分のボスであること」だと、先日のNHK BS「ヒューマニエンス」で言っていた。時間に支配されない生き方こそ、そのもっとも重要なものだということ。 時間は伸び縮みするため、GPS衛星の時計は2つの相対性理論を用いて時間の進み具合を調整しているという。 地球から遠く離れて重力が小さくなると “時間が進み”、高速で運動すると “時間が遅れる” ので、相対性理論に基づいて時間の補正をしないと、1日で何秒かの誤差が生じてしまうということらしい。こだわりアカデミーより 電車の床に置いた光源の光が天井に設置した鏡に反射する様子を見ると、観測者が電車内の光源の横にいれば、光はまっすぐ上に進み、反射してすぐ床に戻ってくるように見える。しかし、電車外の静止している観測者から見ると、電車が動いているため光は斜め上に進み、斜め下に反射する(光が進む距離が長くなり、光速度はどの観測者にとっても一定だから、光の往復時間が長くなる)。 つまり、静止している人が動いているものを見ると、時間のペースが遅れると観察される。 時間は確かなものという前提そもそもが間違いなのかも知れず、時間ほど不確かなものはないのかも知れない。 時間は過去から未来に流れるのか、それとも、未来から過去に流れるのか。高いところから低い方へ流れるのがモノの道理だとして、過去と未来のどちらが高い位置にあると感じるでしょうか。意見は分かれるところでしょうが、イメージ的に「未知の未来」の方が低いとは思いにくい。とすれば、時間は未来から過去に向かって流れていくということになる。メビウスの輪(木工 工房サバイより) あるいは、エッシャーの無限階段の繋がって流れる水のように、循環しているとしたらどうなんだろう。はたまた、メビウスの輪(宇宙規模の)のように繋がっていて、グニャグニャとメタモルフォーゼするように姿形を変えながら流れているとか。 絶対の上に相対としての時間がレイヤーを成して流れている。ああ何とも愛おしいことよ。持て余そうと、無駄遣いしようとも、その本質は変わることなくいつも傍らにある。 * ウクライナ応援の思いを込めて、背景を国旗の色にしています。
2022.05.07
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♪ ひるがえって夏日とならん早朝に電動カートが通り過ぎゆく モデルハウスが完成し見学者を受け入れているようなので、見学させてもらった。きのうは生憎の雨で営業の女性社員が現地案内所に詰めているものの誰も訪れないようなので、カミさんと二人で声を掛けた。この正面が北になる。 果たして4180万円の家とはどんなものなのか、興味津々でいざ中へ。1階 床面積46.38m2(14.03坪) 1回はDKとリビングを兼ねたワンフロアで、白い壁に囲まれている。第一印象は、8畳弱なのになんだか狭い感じがする。いま自分が住んでいる家が基準になるので、どうしてもそう感じてしまう。狭い分天井が高くしてあって、基準が2.4mのところを10㎝高くなっているらしい。そして、通りに面しには1間の掃き出し窓があり、高さが2.1mの透明なガラスになっている。一応バルコニーが設けてあはあるものの、道路との距離が近いので開け放しておくことはできないだろうし、部屋全体が丸見えになるので落ち着かない。床暖房になっているのは良いが、ゴロンと横になっているわけにもいかない感じ。カーテンを閉めっぱなしになるんじゃないだろうか。 東南に掃き出し窓があるものの目の前に家が建ってしまうと、土地が一段下がっているのでほとんど隣家の陰になってしまう。2階 床面積53.83m2(16.28坪) 2階は夫婦の寝室と子供部屋が三つの想定になっている。外観から想像はついていたが、どの部屋も窓が小さいのが気になった。窓の位置は、明かりが取り入れやすいのと安全性からか、高い位置にあるので外の景色が見えにくい。子どもは、クロス張りの白い壁に囲まれて、息が詰まりそうな生活を強いられる。 気密性が重視され、窓はペアガラスなので電車の音も苦にならない。部屋全体が発泡性の樹脂で充填してあってすき間は全くなく、保温性は抜群に良い。洗濯物は部屋干しが前提になってその為のバーも設けてあるし、別の部屋にはバーを掛ける「受け」が壁から引き出せるようになっている。2階はすべてフローリングで、全くの洋館作り。田舎の純和風の家でない限り、「炬燵で蜜柑」という冬の風物はもうどこにもない。 スマホで写真を撮るつもりだったが変哲のない写真にしかならないと思い、一切撮る気にならなかった。 我が家はもともと1階は田の字の畳の部屋だったのを、大幅に改造して洋風にしたものだが、フローリングにじゅうたんを敷き、冬は炬燵を置いて和風の生活をしている。「良いとこ取り」の和洋折衷で、この方が光熱費の節約になるのは実証されていること。 落ち着かなければ、テレビやキャットピラーの後ろ半間を仕切ることもできる。押し入れ、床の間をつぶして部屋を広げてあるので10畳のスペースがある。その上、「京間」という最も広い作りになっているので、普通の部屋より20㎝ほど広い。入居当初は卓球などやったりしていた。来る人が「落ち着くな~」と口をそろえて言っていた。 踏み天井で低いのが難点だが、慣れて苦にならなくなった。広さがカバーしてくれているようだ。 そんな築90年の家に住んでいて、むき出し梁や壁に釘など自由に打ち込めることの使いやすさは、住んでみるとよくわかる。 最近の家は使い勝手が非常に悪く、一見、無駄でも人間に必要な「遊びの要素」というものが全く無い。石膏ボードの壁では釘やフックを打てず、棚さえ自由に取り付けられない。 耐震と防火、保温と気密、防犯と安全などが最優先になっていて、“情緒やゆとり” というものが蔑ろにされているように思う。 最低(睡眠のみ)でも一生の3分の1を過ごす空間だ。“一生を有意義なものにするための住まい” として、豊かに過ごせる家という観念がどこかに行ってしまっているんじゃないか。 営業妨害するつもりはないので、あまり悪いことばかり書いてはいけないと思いつつ、昭和生まれの爺の評価は厳しいものになってしまった。4千万円以上の、一生に一度の超高価な買い物。ローンを組んで長期にわたって返していくことになるのは、他人事ながら心が痛む。一戸建てにこだわり、中古物件を嫌うことから考え方を変えないと、やたらと金のかかる仕組みの現代社会では、よほどの金持ちでない限り豊かな人生など送れない。畳の大きさsize.comより * ウクライナ応援の思いを込めて、背景を国旗の色にしています。
2022.04.25
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♪ 夜がふけて死点のさきに明日をまつあさひ、くも、かぜ そして流体 家の周りから自然がどんどん消えてゆく。消えてゆくのは自然現象ではなく、人間が自然を遠ざけるような生活を良しとして、あえてそうしていからに他ならない。一戸建ての家の庭に、土のかけらも無い家の何と多い事か。 鳥の声も、花の香りも、人間に向けられたものではないが、大気という共有された流体に放たれ、その音の波や香りの粒子が人の鼓膜を揺さぶり、鼻腔の粘膜を刺激してくる。自分のために発せられたのではない声が、自分の生きることを支えてくれている。そういうものに心が向かわない生活は、決して豊かなものとは言えない気がしている。 秒速30㎞で動いているという地球はどこへも向かわず、四季という変化を自然にもたらせるために同じ軌道をたどり続けている。数えきれないほどの種類の細菌から多様昆虫、大小様々な動物たちとともに共有している。それらの存在さえも忘れてしまうような日常は、自然の中に生きているというイメージさえも失われている。拡大します 空がある、風が吹いている。雲が流れ、緑の葉が揺れる。鳥が鳴く、蝶が舞っている。気づかぬままに生物化学の連鎖の中で、その一部として人は生きている。人が生きるためには様々な生きものの命をいただき、死んで元の原子に戻って再び地球の一部となって存在し続ける。 自然のダイナミズムを実体験として知ってしまえば、もう都会なんかにはいられなくなるでしょう。男女の能力差は、生殖にかかわること以外はほとんどない事が分かってきている。この「稲垣亜希乃」さんを “女だてら” という時代ではなくなった。逆に、感性という部分での特性が活かされて今までにない形に変化し、新しい方向性が見えてくるようになるのでしょう。国立大学法人 東京農工大学
2022.01.15
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♪ 深奥に刺さりしままの棘色の鳩羽鼠の夜がふけてゆく どこかに収まるとか何かに所属するとかが苦手で、ずっとそういうものから離れて生きてきた。その理由の一つにこの「誰かに評価されるというのは、裏を返せばその人の想像力の範囲内に体よく収められること」というのが確かにあった。 それをうまく利用し、人心をつかんで世の中を渡り歩いてゆくことが、本当は大事なことなのだと分っていてもそれができない。損得を考えれば損に決まっている。馬鹿だと言われればそうだろう。 なんでこうも融通が利かない頑迷な人間になったのかと思うし、自分は異星人かと思うような時さえある。「人の想像力を超えていく」それは異端でもあり、均質を良しとする日本では異質な存在でもある。才能と言えるような何か(自覚がないにしても)がなければ到底認められることはないし、よほどの覚悟と努力がいる。もしそういうものがないと思うなら素直に我をを抑えて、周りに溶け込む努力をするのが普通なのかもしれない。 しかし、自分という一個の唯一無二の存在を意識すればするほど、単純に誰かと比べられるのが苦痛になる。その反面、自分の存在を認めてもらいたいという意識は消すことはできないので、心には齟齬が生まれる。その葛藤と打ち勝って、ようやく心のバランスがとれる。しかし、それはとても不安定で時にバランスを崩し、鬱屈のゾーンへ落ち込むことになる。 でもしかし、他者とのかかわりの中で自分の存在を自覚するという条理からは逃れられず、何らかの関りを持ちたくもなってくる。平静の何気ない関りの積み重ねの中で培われるものをすっ飛ばして、脈略もなく突然に自己存在をアピールするような不自然な行動をとっては不審がられるばかり。「自分がだれか別の人の無視できない対象」になれなければ、生きていることの意味さえも失いかねない。鏡としての他人を通してようやく自分というものが見える。自己の存在を知る唯一の方法だという。他者との関りが持てなくなると心がゆがんだ、うまくコミュニケーションが取れない人になってしまう。心と感情は、他者あって初めて成立するものらしい。 無人島でたった一人で生きてゆくことがどれだけ大変なことかが、想像できるというもの。 無人島に一つだけ持って行っていいと言われたとき、何を持っていきますか?「司馬遼太郎」が『歎異抄』だと言ったのは有名な話ですが、私なら「百科事典」なんて思っていたことがありました。短期間ならまだしも、ずっと一人で生きてゆくなんて人間にはできないでしょう。脳が許してくれない気がします。心が崩壊してしまうんじゃないだろうか。 時々、世間を騒がせる犯罪の何割かは、不在の自分を取り戻そうとして起こされる事件だろうと思われます。自己否定されることが存在をも否定されることにつながっていて、耐え切れずに心が爆発した状態とでも言いましょうか。 私も、下手をするとそういう方向にゆく可能性がないとも言い切れない。幸いにも話をするのが好きだし、嫌われれもいいと思う反面、嫌われたくないという別の顔も持っている。二面性を持つことを自覚しながら、それを否定しなことが重要でしょう。 人は一人では生きてゆけない。二面性を持っていないと生きてゆけない。
2021.11.13
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♪ ビニールの白き太っちょベイマックス ケアが形となりたるロボット‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ちょっと古い記事ですが、「人の心のかたちも楕円形ではないでしょうか」と語りかける「がん哲学外来」というものの存在を知り、こころが少しふんわりと膨らんだ気がした。拡大します ビニール製のケアロボット、ベイマックスのように何事も受け入れて守ってくれるような、安心感をもたらしてくれる。がんを受け入れるのは辛い事かも知れません。でも、もう一つのいびつなものを受け入れてより豊かな心を育むような感覚になれたら、それは素敵なことに違いない。 ベイマックスはとてもよく出来たアニメですね。孫と一緒に2回も見てしまいました。奇想天外な展開と、ベイマックスのひょうきんで癒されるキャラクターとのギャップがたまらない。 さすがディズニーの動画だけあって、登場するものたちの表情と動きががとても良い。何事にも動じない、ちょっと鈍臭くって人を決して傷つけないケアロボットの一挙手一投足がたまらなくカワイイ。
2021.08.12
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♪ 逆向きにした腕時計 最後尾に電車の景色眺めて過ごす‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 5月最後の月曜日、いつもの様に孫ちゃんがやって来た。けれどなんだか元気がないみたい。少し鼻水が出ているし、3連発のクシャミをしたりしている。手が熱っぽいので測ってみると、熱はないみたいだったけど・・。 国語の二つの宿題を持ってきていて、母さんに「すぐやってしまうように」と言われていたのに、ちっともやる気が起こらない。一つはひらがなを2つ練習するだけなので、その気になればすぐ終わる。爺さまは、そんな日もあるだろうと、好きにさせていた。それで、いろいろ話をしてるうちやる気になったみたい。「やったよ~」って、気付いたら終わってた。 もう一つは音読。保護者に聞いてもらって、ハンコを貰うというもの。もう何度も読んでいるらしく、抑揚をつけて上手に読めたみたい。「上手い上手い!」と拍手までしてやった爺さま、評価が◎〇△の三段階で◎を付けるところ、「こりゃあ二重丸では足りないなぁ」「いいだろう?」って確認して、三重丸を付けてやってた。 なんにも書かれてないところがある。「ここは何を書くところ?」「『家庭の通信欄』だから父さん母さんに感想を書いてもらうところだね」 何か書いてあげようと思った爺さまは、こんなことを書いた。「とてもよく読めていて感心しました。それで丸は二つでは足りないと思い三重丸にしてあげました」祖父です。 これを見て、お母さんはどう思うかなぁ。先生はどう感じるのかなぁ? すんなり受け入れてくれると思うけど、何か言ってくる様だとちょっと・・・。 ステレオタイプが嫌いな爺さま。いつも枠から外れないようにしている「常識的」なのは面白くない。「ちょっと目先を変えてみるのもいいじゃない?」 周りに合せて生きることが正しいと、ことさら波風を起こさないようにする日本人へのアンチテーゼだなんて、敢えてみんなに逆らって違うことをしようとする。偏屈な、へその曲がった爺さんなんだよね。ぼくもそういう爺さまは嫌いじゃないな。 御岳神社の世話役で、会計という立場を利用して前例を覆すようなことを色々やったらしい。それに対するリアクションは何もないけれど、小さな波紋を立てたことは確か。誰にも言わないで、自分だけが悪者になってる。いつの日か、それに共感、賛同する人が現れて、旧弊を改革していってくれることを「密かに」期待している。 な~んてことは「後付け」で書いているらしいよ。“そうした方が皆が喜ぶだろう” と思ってやっているだけなんだって、弁解らしいことを言ってるなぁ・・追記 先生はとても物わかりの良い方で、良かったです。赤いアンダーラインまで引いてあって、クスクス笑いしながら見てくれたんでしょうね。 「このブログは2020年8月22日より、飼い猫ピピの目線で書いています。タイトルの頭に ◇ が付いてますが一部例外があります。日によって文体が違ったりしますが、未熟さを面白がりつつやり過ごして頂けるとありがたいです。」
2021.06.01
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♪ 梅雨晴れの五月つごもり朝九時の重機の音が未来を告げる‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ブログ日記の毎日のアクセスレポートには、アクセス数の順にページ名が表示されるので、そこに表示された過去のページに飛んで、読み返してみることがある。おお、10年前はこんな事を考えていたのかとか、こんな事が有ったのかとか、貴重な記述も結構あって、忘れてしまっている自分の過去に驚いたり感心したりする。 また、そこに載っている短歌を読むと、その時の情景や心情がありありと浮かんでくる。 書いて置いてよかったと思うと同時に、鮮度を失いつつある自分が今しなければならないことを再認識するきっかけにもなる。「歌を詠むというのは過去へ流れ去って行く時間に錘を付け、無意識のうちに自分の外側を過ぎてゆく時間に楔を打ち込むことだ」永田和宏 文章だけではこうはいかないだろう。何をテーマにしてどう詠むか。その日の材料をテーブルに並べ、そのどれを使ってどんな料理を作るか。それを決める過程において思いめぐらす様々なことがらが、心と言葉のやり取りの中で磨かれ、シェイプアップされながら薄紙を重ねるように記憶されていく。「過去をより遠くまで振り返る事ができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せる」チャーチル 歴史を知ることは未来を知る事でもあるけれど、自分という歴史を振り返ることも時には必要だと思わせられる。死んだ子の歳を数えるようなことではなく、その時々の地層や年輪に刻まれている貴重な体験の意味を客観的に眺めてみる。瑕疵と悔恨、無念と未練とかの負の層をしっかりと包み込んでいる、薄くも意味あるたくさんの層が見える。 生き越しのすべてが愛おしいと思えてくると同時に、メビウスの輪のように自分の近未来を見通すことに繋がっていく。「いっそ『記録』は過去ではなく未来に属していると考えたらどうだろう」畠山直哉(写真家) シャッターを押すことは何かに導かれていて、必然性を感じるという。現在を撮ってその瞬間に過去になっていく写真は、はからずも未来が関わっているのではないかと写真家は考える。「現在」にはすでに未来が内包されていて、それが写真に写し込まれるというのです。 小説の世界でも後になって、その時に起こっていることにあまりにも似通っている内容に、未来を予見していたのではないかと言われることがある。「前だけを見て生きて行こう」なんてことを思う今日この頃ですが、過去があってこその思いであって、過去を捨て去ることは出来ないしそんなことは出来はしない。 こんな事を書き出したら短歌なんか詠めそうになくなってきたけれど、永田和宏の言葉に従って、流れ去っていく時間に楔を打ち込んでみよう。それは決して無意味な行為ではないはずです。この5月最後というの日に・・ 目の前の更地の境界に造成工事用の杭が打たれ、道路となる位置がはっきりして来た。 今朝は下水の配管の位置を調べるために重機が入り、いよいよ工事が本格化する前触れの音が響いている。
2021.05.31
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♪ 神さまを信じることも知るもなくせめて自分を信じてやらん‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 今の社会には哲学がない。すべての分野において言えることで、そこには信じるという最も重要なものが生まれ得ない。信じられないから何も信用できない。宗教にさえ哲学がない。そのため、無為で空疎なことばが呪文のように繰り返されるだけ。医学にしても、根本に哲学が無ければ恐ろしいことになる。政治の世界も言うに及ばない。「信じるということは仮定形の上では成り立たない」。今まさにこのことが、政治と政治家に付きつけられている。信じるに値しないという諦念が国民の心に蔓延っていて、心と心がつながらずにカオスのような状態のまま時間だけがいたずらに過ぎてゆく。 哲学のない政治ほど国民にとって不幸なことは無く、また恐ろしいものはない。新型コロナがリトマス試験紙のように現実社会を色分けして、その実態があぶりだされている。何が一番重要かが追いやられ目先の事だけに囚われて、小手先だけで誤魔化そうとするのを、嫌がおうにも見せつけられている。 今この日本で、神の存在を信じている人が何人いるだろうか。信仰としての伝統行事は形がい化し、心を満たすためのものにはなり得ずこころの拠り所でさえなくなっている。 神は願いなんか聞いてはくれない。脳内のオキシトシンみたいな存在で、自分の内面を磨いて醸成させていく他はない。それは、言ってみれば哲学を持つということに他ならないのではないか。 心をピュアにしていないと「神」は現れない。必要とする人には見えず、必要と思っていない状況の中に突如現れて、「神」は本当はいるのですよと語りかけて来る。
2021.05.15
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♪ 風信子(ヒヤシンス)更地に雨の光る朝 友への手紙えんぴつで書く‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 私は毎日、短歌を詠んでブログにアップし始めたのが、2006年の5月8日だった。ちょっとだけ書かなかった日がある様な気がするがほぼ毎日続けて来た。仕事で書き始めたわけでもなく、自分の日記とカタルシスのために書いているので、辛いと思った事はない。書くものが無くて困るという経験もあまりなかったように思う。 自分の「日記は日々の生活の記録」だと限定してしまわず、興味・感心のあるものを書く。心が関わっているのだから全部自分の中の出来事だと思っているので、書くことは幾らでもある。生きている以上直接、間接を問わず、自分の周りには何かしら起こる。それに関心があれば書くし、興味がなければ書かないだけのこと。 15年に渡って、短歌と日記風の文章を書き続けてきて、これからも書き続けていくとする。そうして残されたものの全体を通して見れば、私という人間そのものが年輪となって現れて来る。自分の価値観や思考、こだわりや好き嫌いなど思ったことをそのまま書くので、一個人の貴重な記録になるんじゃないだろうか。しかし、必ずしも書きたい事のすべてが書き切れているわけではない。内容的には中途半端な部分もあるが、それはそれで良しとします。 こうして文章にすることで分かって来ることも多い。不明な点は調べるし、新しい発見や出会いもある。それらの積み重ねが年齢と合わさって、見えなかった稜線がくっきりと姿を現すようになる。それが楽しくて書き続けていられるのかも知れない。創作とは違うので、書くことで悩むことはないし、評価を気にする必要もない。 作家に自殺する人が多いのは何故なのかと思うことがある。 主なところでは、有島武郎、芥川龍之介、金子みすゞ、生田春月、牧野信一、太宰治、田中英光、火野葦平、岸上大作、三島由紀夫、川端康成、森村桂 などですがその理由はまちまちで、一概に特別多いということも出来ないようです。他の業種や職業も同じように自死する人は多いですから。 また、同じ表現者でも画家や彫刻家に自殺する人はまれで、カタルシスがそういう負のスパイラルに向かわせることを防いでいる気がします。 小説は、嘘をいかに本当らしく書くかをそう思わせずに読ませる文学。修辞テクニックによって昇華させ、事実以上に価値のあるものとして成り立っている。作家は、脳内で虚と実、他と自がない交ぜになって齟齬を招くことということがあるのかも知れない。自己を反映させながら虚を構築し、思想までを反映させようとするといずれ行き詰ってしまうでしょう。 あらすじと心の機微を絡ませ、時間軸をバラバラにして複雑そうに見せるタイプの小説を書いている分には、それほど大きな問題は生まれません。 書くことの意味は、「事実と真実は違う」「感じると分かるは違う」というところにあるのかも知れない。それが核になっていて、書くことそのものが楽しければそれでいい。言葉は、自分の中に溜まっている澱のようなものを排出する道具として、エッセイや短歌にしたりして心身をニュートラルを保つのに役に立つ。「書こうとして何も浮かばずとも、机の前に座ることが大切」と吉本隆明が言ったように、私も自分の内面と向き合う時間を持つことはとても重要なことだと思います。 コロナ禍によってその機会が増え、「単純に孤独とよんで忌み嫌ってきた “独りの時間” を、悪いことなどではないので、 “もっと独りを楽しみましょう” 」と言われるようになりました。本当にそうだと思います。 皆さん時間を作って、「エッセイなんか 書いてみません!?」
2021.04.29
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♪ あすは雨みなみの浜辺ぬれるらんじょゆうと言う名の白いかいがら‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 久し振りに私の興味を引く女優が現われた。昨年、NHKの「ドラマ10」でやっていた「タリオ 復讐代行の2人」を観て、何か知らないが惹かれるものがあって、何回か分を見た。2020年10月9日から11月20日まで(毎週金曜日の22時00分 - 22時45分)に放送されたんだね。 その人の名は「浜辺 美波(はまべ みなみ)」2000年8月29日生まれで今年21歳になる。 2011年に、「沢口靖子や長澤まさみ、上白石萌音・萌歌姉妹などを輩出した東宝シンデレラオーディション第7回『東宝シンデレラオーディション』に応募して、ニュージェネレーション賞を受賞して芸能界入りしたらしい。 11歳は小5か、確かにカワイイ。光るものがあったんだろうね。 東宝芸能のシンデレラルーム所属となって、同年公開の映画『アリと恋文(11分のショートムービー)』に主演して女優デビューしている。 NHK連続テレビ小説「まれ」に15歳で出ていたらしいけど、子ども時代のことは全く知らない。2017年公開作「君の膵臓をたべたい」では日本アカデミー賞新人賞している。「タリオ 復讐代行の2人」 元弁護士の女性と男性詐欺師が手を組み、悪事を働きつつも罰せられず平然と生きる卑劣な悪人たちに被害者に代わって執行する復讐劇で、白沢真実役に岡田将生と出ていたわけだけれど、この時すでにキャリア10年ってことになる。 小柄(156㎝)で華奢な感じの娘らしいけど、わが道を行くタイプの性格は確かに女優に向いている。いい味出してる女優はそういうタイプが多いというか、そうでないと務まらないだろう。 若手女優の人気ランキング第1位に選ばれているらしい。誰から見ても文句なしってことか。爺の出る幕じゃないけど、妙に気になる女優ってそうは居ないからねえ。この年になってさすがにあまり幼い子にはいくら可愛くても興味はないし、かと言ってベテランは新鮮味がない。 日本映画はほとんど観ないので演技力がどうという事までは分からない。しかし、「理屈じゃなくて、何かわかんないけど惹かれる人」に出会えることって、そう多くはないからね。たまにこういう娘に出会うと嬉しくなる。 3歳上の「杉咲花」の演技力は凄いと思う。『おちょやん』の人気は彼女の演技力が寄与しているのは間違いないでしょう。 10代20代の人気ベスト20はこちら(2021年版) 1位 浜辺美波 11位 土屋太鳳 2位 橋本環奈 12位 川口春奈 3位 有村架純 13位 今田美桜 4位 広瀬すず 14位 新木優子 5位 杉咲花 15位 中条あやみ 6位 永野芽郁 16位 山本舞香 7位 森七菜 17位 吉岡里帆 8位 上白石萌音 18位 清野菜名 9位 小松菜奈 19位 松岡茉優 10位 高畑充希 20位 清原果耶
2021.03.27
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♪ 味覚さえ他人の意見に左右され自己を殺して生きてるロボット‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 十人十色、百人百様、千差万別、日本にはこういう言葉があるのにどうしてこうも均質を重要視するのだろう? 個人の事よりも集団や組織を重んじるためだろうことは想像できるけれども、何ゆえに日本では個よりも集団の方が大事だと思うのでしょうか? 同調圧力というものが、いかに個人の尊厳を蔑ろにしているかを考える事さえスルーされている。それに逆らうことが出来ないままいるうちに知らず知らずに、それがさも当然のように思って生きている。組織を第一に考えるというのはサラリーマンの不文律となっていて、会社をかばうのが当然という暗黙の共同意識が当たり前になっている。「横並び精神」「横並び志向」。「自粛警察」って戦時中と同じ空気を感じて嫌な思いをしている人は多いでしょう。自分で考えて判断するのが自粛なのに、それをなかば強制的にやらせようとするのはいかにも変だ。それをやらせようとする人の根底にあるものは「村意識」。排他的で異なる行動をするものを取り除こうとする、弱い動物の危機管理的なものと言えるのかも知れない。 日本人は空気を読み、雰囲気で物事を判断しがちだ。役人も政治家も、個人が明白な意思に基づいて判断し行動することがほとんどなく、タブーにさえなっている。個人的な考えは横へ追いやって世論の反応を見ながら判断を下すのだから、後手後手になるのは当然のこと。 それで、ずるずると引っ張りながら、今までこれだけの犠牲を払ったんだから、ここで止めたらすべてが無駄になってしまうという論理から泥沼化していく。「出る杭は打たれる」という日本社会にあって、松下幸之助は「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない」と、そんな事には囚われることなくどんどん自分の意見を言い、やりたいことをやれと言っている。 しかし、コロナを契機にして世の中が変わりつつあるのは確かな様で、隠されていた恥部がどんどん白日の下に晒されるようになっている。この傾向は行きつくところまで行かないと収まらないでしょう。様々な分野に及んで、理不尽や人権蹂躙的なものに対する抵抗や、不正や既得権益などに対する目も厳しくなっていくのかも知れない。 社会の仕組みそのものが行き詰まりの今、これを切っ掛けに大転換していく時なのかも知れない。また、そうならないと意味がない。世界で260万人近くが犠牲になっているのは、それらを警鐘するためのものと捉えて、人間の人間としての矜持を歴史に刻むチャンスと思いたい。
2021.03.05
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♪ 目の前に展(のべ)開かれることにのみ心は惹かれゆくばかりなり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ コロナ禍で大変な上に、為すすべもない自然の猛威である大雪が追い打ちをかけてくる。そんなきのうの夕空。 その雪禍からは免れた人々と共に被災者を慰めるように、雲の切れ間に美しい三日月がかがやいていました。耐える先には、必ず明るい世界が待っていることを暗示しているかのように・・・ そして今朝は前日とは打って変わって、無風に近い青空に真っ白い水蒸気が立ち昇っています。 良い時もあれば悪い時もある。今という時を噛みしめながら、慈しむように日々を過ごしていきたいと思う。 庭に来る小鳥が、今まで以上に愛おしくなっている自分を感じる。日々に変化して地球の大気の営みをみせてくれる千変万化の雲を面白がって眺めている。過去や未来よりも、今の自分と身のまわりのその時々に見せる変化に心が動く。 観るTVは「セブンルール」「プロフェッショナル」「激レアさんを連れて来た」など、今を自分らしく精いっぱいに生きている人を紹介する番組が多い。それはきっと、太公望のような心持ちで登場人物を眺めているのかも知れない。未来を含んだ今を・・ あっ、ウグイス。すぐ横のトウネズミモチの木の枝を忙し気に動き回っている。メジロと同じくらいの大きさで、色は少しくすんでいて眉紋がある、間違いない。このどこかにいるのですが、保護色で見分けがつかない と、まあこんな風に「今」を楽しんでいる。この野鳥の楽しみが来年4月以降は無くなってしまう。雲は見えなくなる事はないものの、一生懸命に命を全うしようとしている生きもののの姿を見られなくなるのは、短歌を詠むなと言われるのと同じくらい悲しい。
2020.12.18
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♪ 今はまだすずめ静かに餌を食むやがて催促するようになる‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 爺さまはこの日の折々のことばを読んで、「生きるってこういう事なんだろうなあ」って思ってる。一見したところ平和で豊かな暮らしをしているようだけれども、その背後にはいつも危険が待ち構えていて、いつ何時、ヒドイ目に遭うかも知れない。 理不尽な目に遭ったり不慮の死を遂げたりするのはどんな人にも起こり得ることだし、たまたま日本には戦争がない期間が長いだけで将来の事は分からない。民主主義は崩壊するかも知れないし、中国が世界制覇するかも知れない。 世界一の大国にトランプみたいな大統領が誕生し、半数の国民が支持しているという事実。そんなことが起こるなんて誰が想像したでしょうか。 絶対なんてものはこの世界には無く、大気とともに揺れ動く地球という生命体に生息しながらそれと同じように揺れ動いているのが、猫も人も野生の動物もすべての生きものの本当の姿なんじゃないのかなぁなんて思ったりもする。 造物主の名のもとに精霊あまねく存在する中にあって、邪悪の種は尽きることなくエントロピ-から逃れる術もない。これは何を意味するのか? 宇宙は誕生・消滅を繰り返すことで存在しつづけている。そのことそのままを縮小していった世界もフラクタルな構造となって繋がっている、ただそれだけということでしょうか。 どうしようもない宿命の中で生きていくには、負の量と同じだけのプラスを自ら生み出してバランスをとることが出来なければ、生き残ることは出来ないのでしょう。快楽と欲望を知ってしまった以上、人類はそれと同じだけの苦脳を味わう必要があるということなのかも知れないなぁ、なあーんて他人事のように考えているご主人さま。 今朝も兎糞便を恨んで、ブツブツ言いながらトイレから出て来た。 スズメバチの巣があった辺りを思い浮かべながら、“中国は蟻や蜂の生態のような仕組みが理想なんだろうなぁ” なんて考えが頭を過ぎって、ぶるぶるっと身を震わせた。 このブログは8月22日より、飼い猫ピピの目線で書いています。タイトルの頭に ◇ が付いてますが一部例外があります。 日によって文体が違ったりしますが、そのうち一つの形に収斂していくと思いますのでそれまでは、未熟さを面白がりつつやり過ごして頂けるとありがたいです。
2020.11.26
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♪ リベラルにニュートラルにと心してふーわふーわと漂っている‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 「期待し過ぎなければ裏切られもしない」この感覚すごくよーく分かる、と爺さまは言う。 爺さまは、「他人と比べない、見返りを期待しない、自分を曝け出す」この三つを心に決めてからストレスというものが無くなったと、よく言ってる。 人って案外つまらないことで腹を立てたり、落胆したりするねぇ。自分の小さな価値観に縛られて判断しちゃって、プライドが傷ついたりしている。他人のせいにして自尊心を保とうとする、逆恨みっていうのもあるねぇ。自分だけが損をしていると思い込んだり、思うようにいかないと社会のせいにしゃったり。 自分の基準だけでは物事はうまく収まってくれやしない。逆の反応が返って来てビックリしちゃうことも多い。そんなことを色々経験してくると、世の中そんなに単純じゃないという事が分かって来る。 そうして掴んだのが、「期待し過ぎなければ裏切られもしない」という、この人生哲学なんだね。 アランは、生まれながらにしてこの哲学を身に着けているのかも知れない。あまり要求したりしないし、したとしてもすごく控えめ。ピピみたいに「餌をくれー」とか「背中をさすれー」とか、大きな声で呼んだりしない。外から帰ってきても、網戸やガラス戸を前脚で掻いているだけで、決して声を出さない。 「期待し過ぎなければ裏切られもしない」ってことを知ってるんじゃないのかなぁ、と思うわけ。 このブログは8月22日より、飼い猫ピピの目線で書いています。タイトルの頭に ◇ が付いてますが一部例外があります。 日によって文体が違ったりしますが、そのうち一つの形に収斂していくと思いますので、それまでは未熟さを面白がりつつやり過ごして頂けるとありがたいです。お帰りの際にポチっと クリックお願いします
2020.10.12
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♪ 昆虫がアートしている風の中在りて移ろう心し愛し‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 抽斗を整理していたらこんな絵が出てきた。不透明水彩で描いてあるが、何時ごろ描いた絵だろうか。 描いた時は額に入れて飾っていたが、額を他の何かを入れるために外してしまったのだろう。150㎝×200㎝ こういう絵は誰でも書ける。こんなクソ真面目な絵しか描けないことが嫌になっていた若いころの絵だろう。自画像なんかも描いていたがそれも捨ててしまった。その後、油絵も描いたりしていたがもっと洒脱な勢いのある絵が描きたいと思っていて、その才能の無さに嫌気がさしていた。 グラフィックデザインに興味を持ちそちらに進むことになって、絵画への想いがどこかに行ってしまってそれっきり。 作曲をしてNHKに二度採用されたりしても、自分に才能があるとは思えず、グラフィックデザインも、そこそこ評価されることもあったが自分に才能があるとは思えなかった。カメラも無いのにビデオクラブに入って、ナレーションを書き編集もした。染色家になって最初の個展がきっかけでTV出演もした。工芸展や染織コンペに入選しても賞には届かず、あっさりと自分を見切ってしまう。 何をやっても自信が持てず、中途半端なまま挫折する前に逃げ出してしまう。執念とか執着心がなく、自分を肯定できずに否定ばかりして生きてきた。そのくせ傲慢で図々しく、自己中心的で協調性がない。なのにストイックで自制するクセが抜けず、自分を抑え込んでしまう。そんな雲子のような自分を正当化しようと虚勢を張る。 まったく箸にも棒にもかからない、鮮度の落ちた卵白のような日々を送って来た。 毎日、飽きもせずにブログを書いていることが何を意味しているのか。自分探しなどしていないし、何かを求めているわけでもない。強いて言えば自分を解放するために書いている。身軽になりたいがために、鬱屈した心の底に溜まった澱をなんとか外へ吐き出すための行為。どうせ大した人間でもなく、隠したってしょうがないと・・。 今は、書くことが生き甲斐とまでは言えないが、書かずにおれないのは確か。2005年3月23日に、訳が分からんままにスタートしたこのブログ。2006年5月8日に、突然始めた短歌をアップし始めてほぼ毎日、最低一首の歌をアップし続けている。もう14年が過ぎたことになる。★ 飽きっぽくて移り気で、色んな事へ手を出しながらずっと独りで生きてきた。そんな自分を愛おしく思う事はなかったが、昨日の「折々のことば」にはとても共感できた。 「私たちがすることは、それがどんなに些細なことであっても、すべてがある意味では発明なのです。」 人間には「孤独」が必要なんだと。その孤独の中で必要に迫られて生まれた発見やアイデアは、その人固有のものであって「発明」と同じ価値のものだと。 実際、生きる上ではその時々の問題に対処するために知恵を働かせ、解決策を見つけなくてはならない。それは、その時のその人にしかない創造そのもの。受け売りや真似でもアレンジは要る。 アートは決して芸術家だけのものではなく、個々の力で生み出されたものすべてが創作でありアートだ。そうしてみれば、人生そのものもアートだ。 完全唯一の絶対芸術。移り気だろうと挫折の連続だろうと、未知の朝(あした)を生きていることは創造そのものだと思えば、気が楽だ。
2020.05.17
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♪ すくすくとたけのこ伸びるはつなつを畏まりおる孤狼いっぴき‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 共感できることに出会えるのは嬉しいことです。今回の折々のことばは、私にとっても生き方そのもの。 「嫌なことを我慢する事はない」「嫌なことなんて続けることはできない」そう、我慢していると自分が自分でなくなっていくし、そのことに耐えられない。そうして、アウトサイダー的スタンスで生きて来たが、誰に文句を言わる筋合いもない。 どイッコクで一匹狼とも呼ばれ、意固地で固陋で意地っ張りな性格は、自分を殺して同調したりその振りをしても、結局はそういう自分が嫌になってくる。自分が自分で居られるためには妥協しなければならないのは、山の中に独りで済んでいるわけではないので、勿論のこと。 完全中立自主防衛を密かに標榜している(矛盾した言い方だが)ので自分の事は自分で解決するが、なるべく問題を起こさないようにストイックを心掛けている。 しかし、「人間の悪意を想定した法律書なんかより『美しい文章』を読もう」という部分に引っ掛かった。果たして自分はどうなんだと。ついつい他人の悪いところに目がいって揶揄したり、政府の不甲斐なさを断罪する気になったりする。それは裏を返せば、自己を正当化するための方便にしかすぎない。 自己防衛なんかしてないで、この「美しい文章」に当たるものを心底に据え、良いと思われることだけに目を向けて心に刻み込んでいく。それさえできれば、確かに、楽に生きられる。
2020.05.11
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♪ 公正にいつものように時はゆく空に皐月の風が冷たい‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 刻々とその様相を変えているコロナ禍社会。条件付きで緩和する国も出てきた様だが、その結果がどう出るかは全くの未知数で予断できない。あと2-3年はかかると予測する医療関係者もいる。いずれにせよ世界全体が終息するまでは気を抜くことは出来ない。 歴史的には、AC(After Corona)、BC(Befor Corona)という表現で語られるぐらい劇的に変わるだろうが、今はWC(With Corona)という意識で行く必要があるとも言われている。 日本は欧米の先進国と比べて産業や技術のすそ野が広く、柔軟性も兼ね備えている。横の連携が密になるよう改革していけば、そのポテンシャルが世界に先駆けての復興に役立つだろう。 「経済の複雑性・世界ランキング」をハーバード大学グロースラボが作成していて、世界各国の経済状況をビジュアル化して見せてくれる。世界各国の輸出データをまとめ、産業ごとの複雑性を評価し、総合複雑性を順位付けしたもので、複雑性が高いほど高付加価値産業を有し、産業の多様化が進んでいることを示している。 最新のものは2017年の輸出データで、ランキング 1位はなんと日本だという。1990年代半ばから発表されていて、日本はずっと1位にランクインしているらしい。ビジュアル化されてツリーマップグラフの形で表される。(拡大します) 日本の強みは複雑性が高い産業を多数有していること。グラフは、産業分野ごとの複雑性を色で分けたもの。濃い緑になるほど複雑性が高いことを示しているが、ほとんどが緑色となっている。 さまざまな分野で高付加価値の製品・サービスを輸出できていることを示していて、これは同時に貿易戦争関連のリスクを下げたり、特定市場の低迷による影響を他の分野でカバーできる能力の高さを示す指標としても見ることができるという。輸出の多様性(拡大します)-日本語でも可-What does Japan export? (2017)What does China export? (2017)What does America export? (2017) 世界各国のデータを観て比較することが出来ます。積み上げ図(1995-2017)日本中国アメリカ 日本はアメリカや中国と比べて、年を経ても比較的変化が少ないことが分かる。 2008年のリーマンショックに引き続き、2009年は新型インフルエンザ(A/H1N1)の大流行があった。世界の214カ国・地域で感染を確認、1万8449人が死亡とWHOの報告があるが、米疾病対策センター(CDC)などの国際チームは、死者数は世界で約28万人との推計結果を発表している。そのため貿易も大きく落ちこんでいる。 今回のCOVID-19はまだ比較は出来ないが、5月8日現在ですでに世界感染者数3百84万5千人を超え、死者は26万9千人に上る。アメリカの感染者は125万7千人、死者は7万5千人を超えている。 アメリカの就業者は2050万人減り、4月の失業率は14.7%と戦後最悪を記録している。実質国内総生産(GDP)が年率で39.6%減となるだろうと予測されている。世界中が経済をストップしている中で、牽引役だったアメリカが自国中心主義を取りつつある上に、世界恐慌を上回る落ち込みとなっては今までの経済バランスも大きく変貌するだろう。 そんな中で、日本型産業構造がこの難局を好機として、どう対応しどう変化にとんだ変革と改革を見せていくのか。勤勉で真面目さ、協調性と同調性、意外に早い変わり身と新しい物好きな国民性も手伝って、戦後の極端な価値観の変化を乗り越えてきた実績がある。動き始めると一気につき進んでいくところもある。How does complexity compare to GDP? (2017)一人当たりのGDPにおける経済複雑性指標(クリックでOCEサイトへ)最も右端にある赤い国が日本。高い相関性だけでなく、過去のデータと照らし合わせてみると、ひとり当たりGDPの長期的な変化もこの図で説明できるという。 頼りない政府などの世話にならず、民活で成し遂げて来たこの国の底力は(寄せ集めの多民族国家と違って)一枚岩の強みがある。非正規雇用を増やし大企業優先で来たことの弊害が、様々な問題を引き起こしてきたが、そのことの反省と人材の重要性を再確認するきっかけになるかもしれない。 一つの大きな企業よりも、複数の企業からなる流動的で多様な集合体のほうが適しているし、個人としても、これからは多種多様なスキルを持つ人たちとつながっている方に価値があり、全てのスキルを社内で調達しようとは考えない方がいい。 ホームワーキングなどネットワークの利用が格段に進んで、一極集中も緩和され人材も得やすくなるでしょう。余分な経費がかからなくなるうえ、情報のスピードアップと垣根のないつながりが急速に広がっていく。 世界でもかなり遅れている日本のITだが、日本人の資質からその気になればすぐに追いつけるでしょう。後追いでなく先端を行ける人材をいかに輩出するか。そのために何をすべきかを、今こそ考えるチャンスでしょう。 現場は大混乱して二進も三進もいかない状況の中で、対処療法ではない根本的な改革を進めていく覚悟がなけれ日本の未来はない。 今回の事で、日本政府がいかに無能であるかを露呈している。国民を馬鹿に、世間を甘く見てぬるま湯に浸かっていたことが・・。 お上のやることに従わされているばかりで、ロクなことがない。政治に無関心の国民も目が覚めたのじゃないか。
2020.05.10
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♪ 田園に出合う人らの顔顔に張り付く白布無粋でならぬ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 強制しなくとも同調して均質を保とうとする日本人。優れた資質と思う人が多いからこそそれを疑わずに実行していけるのでしょう。お上が自粛と言えば従うのが当たり前で、従わないものに対して個人的な正義感から圧力をかけても構わないと思う。 個々が集まって自警団まで出来て、排除する機運がどんどん高まっていく。これをファシズムだと警告する意見があるが黙殺されてしまうばかり。 これは異常なことだと思うのは少数の異端的意見だが、それを思う事すら自制させる暗黙の強い力が働いている。「正義=同調」「批判=悪」であり、民主主義は少数(マイノリティ)を無視しても構わないと勘違いしている人も多い。自覚していなところが最も怖い。 私はその異端の側に属するいわば変人かも知れない。「みんなと同じ」というのが大嫌いで、烏合の衆を嫌うし何かに属するというのがとても苦手だ。 ここにある「個が強烈に個でいられる。マノリティに約束された境地です」という意味がとても良く分かる。 「差別されない側に回ろうという焦りが、知らぬ間に自分の首を絞めていた」マイノリティこそ自由だということは、異邦人でなくとも、日本の中に住んでいてさえ感じることです。 ナチュラルでニュートラルというのが私の理想なのですが・・。 欧米のように異文化・異人種がない交ぜになっている国々では、多種多様な価値観と意見があり、それを個人として主張することが当然の権利として生活に根付いている。 排他的自国主義が台頭してきていることがナチスの台頭と重なってくるが、異質を排除して均質を良しとする日本は、元々がそういう気質を持った民族だということを自覚する必要がある。 田園風景の中を歩いているのに、全員がマスクをしている。自分の感情や意見を隠し、周りを気遣って同調している振りをする。出る釘になって叩かれたくないという意識は、まるでヒットラーを恐れるユダヤ人そのものだ。
2020.05.03
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♪ コンビニの帰りに春を連れてくるふふふと笑う夜の玄関‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ いよいよ明日から新年度。何もかもの予定が狂いに狂って、一体どうなる事やら。4月1日はわが結婚記念日でもあり、絶体に忘れることは無いこの日をスタートに、いったいどんな年になるのか。 災害だけはご免こうむりたい。避難所に人が集まればコロナの蔓延に繋がりかねず、それまでに収束していることを祈るばかり。桜折るバカ、梅折らぬバカ春とは人を狂わせて、花盗人がバカをする真夜に笑いてしゅるしゅると、何かが何かを脱ぎ捨てる終わりが始まる午前2時、月が涙をこぼしますバカ殿あいーん逝く夜は、猫もウソ寝のかたつむり最近、細菌 最接近引きこもりさえ諾わる、自粛自制の檻の中自縛持続に時限なく、どこまで続くぬかるみぞ卍固めの解けぬまま、卯月の背中疼かせて時間ばかりが目減りしてゆく 東京オリ・パラは、一年後(1日ズレるだけ)の「開会 2021年7月23日金曜日、閉会 8月8日日曜日」に、パラリンピックは、「2021年8月24日開会、9月5日閉会」決まった。。 東京五輪は「史上最多の33競技339種目で、出場選手は1万人以上。大会関係者や観戦者を含めると、約1千万人が東京を訪れると見込まれる。100を超える競技・練習会場、大会関係者のホテル4万室以上、バス2千台の借り上げ」という規模。 チケット関係や暑さ対策、競技日程など準備されていたのを無駄にしなくて済む。しかし、延期に伴う追加経費は数千億円規模で、“IOCは払わないだろう” と組織委幹部は腹をくくっているとか。新型コロナウイルスが、一年後にどうなっているのか誰にも分からない。もし、開催出来なければ中止になると思われる。
2020.03.31
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♪ 利己にして嘘と詭弁とナルシズムお山のすずめが烏を気取る‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 四人で週2回(水・木)掲載される新聞のこのコーナー。木曜日の「福岡伸一の動的平衡」が好きなのでついつい切り抜くことになる。大きなテーマを焦点を絞って簡略にまとめてあり、その文章力に感心する。 文字数を制限されたなかで何をどのように書くか、決めるまでが大変だろうと思う。決めてからも何度も推敲されるのだろう。短歌を詠む身にはとても良く分かる。 最後の締めくくりに「地球が健全な循環を取り戻すためには、この利己的な種に退場していただく他はない。」と、この生物学者は、行く末を完全に見切っている。 それは私も同じ。今後どれだけの間、絶滅危惧種として永らえられるか、一抹の希望を持ちながら、罪深い種の一員としての無力な日々を送っている。 無責任で他人事のように言っていると感じるでしょうか。生命の循環、ひいては星として、また生命体としての地球の宿命を思う時、必然的な姿が浮かび上がってくるでしょう。 地球にとって、最も不自然な存在の人類。延命のためにとるべき道は誰もが分かっているはず。分かっていてそれが出来ない以上、手に負えない存在のまま、断末魔を迎えるしかないじゃないですか。
2020.02.25
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♪ 足早に雲流れゆき裸木に一羽の鳥のシルエットみゆ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 2月4日のワールドキャンサーデー(世界対がんデー)にちなんでなのか、朝日新聞ではがんと闘いながら前向きな人生を送っている人々や様々な活動を紹介しています。Web版の記事を読むには登録(無料または有料)が必要です。 こんな壮絶なことをやり遂げながらの人生に、ただただ感服するばかり。今や癌は高齢者の二人に一人が罹る超身近な病になっていますが、対処療法の進歩には目を見張るばかり。早期発見すれば治るものが殆どで、それに対する技術も日に日に進歩している。唾液でかなりの種類のガンが見つけられるようにもなった。 知人に、胃がんで胃を全摘したにもかかわらず元気に日常生活をしている人が二人いて、その医学の進歩には驚くばかりです。癌は不治の病ではなくなったと言っていいでしょう。★ 必ず訪れる死から逃げたいと思う訳ですが、若くしてがんで死ぬのは幾ら何でも避けたいと思う。しかし老人の寿命が延びて、逆ピラミッドになるのはどう考えても都合が悪い。家族制度が崩壊し結婚という形態そのものも大きく変わりゆく中で、出生率が増える要因となるものが将来出現するのかどうか。 通常の場合の理想的引き時の年齢は、85歳ぐらいじゃないかと私は思っている。その時が来たら自分でスーッと消えて行けるような、合法的仕組みを作ってはどうかと思う。♪ 惜しまれて逝く時を決め消えてゆく八十五歳の矜持を持ちて 自殺とか自死とかいうことばではなく、尊厳死というのもおこがましいしもっと違う表現がいい。一般公募したらいいんじゃないか。でもすでに、政府は密かに策を練っているかも知れない。世論の同意が少しずつ得られていくように、巧妙な手を使って・・・♪ セットする八十五歳のある日時 心臓停止の体内チップ
2020.02.12
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♪ 耳たぶに筋あることに気付きたり気になることの重なる最中‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ この暖かさでキムチの発酵が急速に進んで、かなり酸味が出ている。まさに今が食べごろ。数人にお裾分けしたが、もうこれ以上は誰にも上げない。全~部、自分一人で食べるつもり。そうは言ってももうこれだけしかない。 作りたてで酸味がほとんどでていないキムチの1グラム中の乳酸菌数は、約100万~1000万個だが、熟してやや酸味がでてきてからのキムチの1グラム中の乳酸菌数は10億個、しかも乳酸菌数が10億個になると、その他の菌はほとんどと言っていいくらい生息しなくなる。 ニンニク、唐辛子などの効能とあわせて、この乳酸菌数の多さが、キムチが身体にいい食品であるという証明なんだとか。 シカゴ大学のウィリアム・J・エリオット博士が「耳たぶと心臓病」との関連性を54~72歳までの108人に対し8年間にわたり調査した結果、耳たぶにしわのある人が心臓発作などの、心臓疾患で死亡した件数は「しわのない人」の3倍だったと報告。 紹介されている耳 私のもの もともと、動脈の数が少ない耳たぶの血流が悪くなると、耳たぶ内の脂肪はいち早く栄養不足によって萎縮してくる。そのためシワが出来るのだという。特に、遠目から見てもわかるほど深くシワが入っている場合は、脳梗塞や脳出血のリスクが高いらしい。 私のこの程度なら問題なのかも知れないが、最近、オヤ?と思う事があって、そのタイミングで耳のシワに気付いたので余計に気になったわけ。 1、左の手の指先(親指、人差し指、中指)の腹がこわばったような感じになった。 2、週一回、左手で箸を使うがいつもよりつかみ難い感じがあって、おや?と思った。 3、左腕の力が入らず、腕立て伏せが出来なくなった。 これらは間違いなく脳梗塞のごく初期の症状に違いない。痺れたり顔面麻痺やろれつが回らないというようなハッキリしたものではないが、少々気になる。 まあしかし、歳をとると誰でも小さな脳梗塞は起こしていて、調べれば必ずその痕跡が見つかるらしいので、この程度ならそんなに気にすることもないのかも知れない。 その傾向が強いと自覚して、「ハッキリした症状が出たらすぐに医者に掛かること」を肝に銘じておくことが大事と心得る。 そこで朗報。好きな赤ワインの中の紫色の色素(レスベラトロール)には抗動脈硬化作用があり、心筋梗塞の発症率を抑えることが出来るらしい。 そして嬉しいのは、焼酎も血栓を溶かす酵素ウロキナーゼを活性化するという話。日本酒換算にして2合(ビール大びん2本、ワイングラス2~3杯、焼酎水または湯割り3~4杯)までが適酒で、抗動脈硬化作用を発揮するという。 石原結實(医学博士、イシハラクリニック院長) まさしくこの適量の焼酎を飲んでいる(ときどきこの量を超える)。運動もしているし、キムチも食べている。この調子でいけばいいんじゃないか。市内に良い脳外科の病院もあるし、おっとり構えて行く事にする。
2020.01.22
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♪ 耐えに耐えゴールに至り吹き出せる汗に洗われ白紙とならん‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ マラソンや駅伝がなぜこうまで日本人の心を惹き付けるのか。 直近では、箱根駅伝の劇的な青山学院の優勝に喝采お送り、全国都道府県対抗女子駅伝では「京都」の大逆転など長距離を走る事への熱いまなざしは、世界でも類を見ない程の熱い関心に支えられている。マラソン中継の視聴率はおおむね高く、ただ走るだけの映像にドラマを感じて二時間余り間を見続けている熱心さ。 沿道にも声援を送る人が溢れ、寒さなど問題にせぬかのようにその場を離れない老若男女。 箱根駅伝の青山学院は4区で首位に立ち、最後まで首位を譲らなかった。それにしても、ダメ4年生を奮い立たせて、完全優勝へ導いた青学の原 晋監督の手腕は大したもの。ただただ称賛を送るばかり。潜在能力を見抜き、選手の心の中を見透かし、自発性を引き出すその透徹した人心掌握力は魔術師のごとくして、誰も真似ができない。 チーム「京都」もすごかった。4区を終えて16位だったが、5区が区間タイ記録の走りで8人抜きし、6区も4人抜きの快走をみせ、7区も区間タイ記録で2位に浮上。8区が残り1キロでトップになり、最終9区が堂々の1位でテープを切った。5、6、7区は同じ立命館宇治の高校生、8区は中学生という若手の活躍は過去16回優勝の「京都」の底力をまざまざと見せつけ、他を圧倒。 アンカーの一山麻緒は表情も走りも美しかった。腿がよく上がり全く癖のないフォームは最後まで全く乱れなかった。岡田・旭の両中学校が統合 新校舎ができた中学校 私は中学校時代、足は早かったが長距離は苦手だった。3年生の校内マラソン大会(2キロだったか3キロだったか忘れた)の時、校外コースから校庭に戻って来て、ゴール前で誰かとデッドヒートを演じた。かなりへたばっていたが、ゴール前で並走する奴に負けたくなかったのだろう。 3年の生走る様子を1年生たちが観ていたらしい。「あんな風に最後まで頑張るんだぞ」というような事を担任が言っていたと、1年生だった弟から聞いた。団塊の世代なので人数が多い。A~H組まであって、1クラス50人は下らなかったので400人以上はいた。それで順位はその上から3分の1ぐらいだったかと思う。 途中で運動神経抜群の野球部のキャプテンだった級長を追い抜いた。「ついて行けばよかった」と、私の健闘を羨ましがっていたのを覚えている。 マラソンの記憶はそれぐらいしかない。 昨日も書いたように、シニアでマラソンをする人が大勢いて、10年前から140万人近くも増えている現実。何故にマラソンにこころを寄せるのだろう。走る人ばかりではなく、見るだけの人にも共通する何かがあるのだろう。毎日、皇居の外周を走るランニング愛好者は4000〜5000人を超えていて、東京マラソン大会を見たり、応援したりする人々は116万人以上にも達しているとか。 「あきらめずに目標に向けて走り続ける精神」、「耐えて、耐えて、耐えて、がんばって、がんばってさらにがんばる」、これが長距離走競技の特徴であり、まさに日本人の特徴でもあるという。成田空港第3ターミナル陸上のトラックをイメージし動線は出発客用に青、到着客用に赤で色分け。「搭乗ロビーではやることがなく、たいくつしている人が大勢いる。この陸上トラック式レーンがあれば、走ることが好きな人がここで身体を動かすこともできる」「遅刻してしまった旅客が搭乗口まで走るのに便利」とは、空港職員の弁とか。 確かに島国で平地が少なく資源がない。地震、台風、津波、水害、旱魃、冷害、雪害、雷、など自然災害が多い日本は、夏は暑く冬は寒い。自然には逆らえず、ただただ忍耐を要求されつづけて生きてきた。 少しずつ災害も抑制されて生活が安定し豊かになっていく。そんな中で、人々がその潜在的な忍耐力を発揮するものとして走ることを思いついたのではないか。村上春樹がエッセイ集「走ることについて語るときに僕の語ること」で何を書いているのか私は知らない。 私は、粘り強く耐えることと勤勉であることは、この風土がもたらしたものと言って間違いないと考える。 DNAに組み込まれているとまでは言えないかも知れないが、ここまで走ることが快感に思える人が多いのは、民族にとっても動物的生理学の見地からも良い事に違いない。寿命が延びることの是非は置いておくとして、心身共に健康になれるのであれば否定する理由は見つからない。
2020.01.15
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♪ 半世紀前に迎えし成人の吾は万博を斜(はす)に見ていき‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 高度経済成長時代の幕開けが1955〜57年の神武景気、そして1958〜61年の岩戸景気と続き、1963〜64年はオリンピック景気。この1964年の東京オリンピックのあと、1966〜70年のいざなぎ景気と好景気が長期間続いた。 開高健は、1964年に朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ赴いている。ネズミを引き合いに出す部分は、1957年に『新日本文学』誌に発表された「パニック」を思い起こさせる。 56年前のオリンピック直後に書かれたものが、IT、AIの今の時代にも根本的な部分では決してかけ離れたものではない事に愕然とする。貧富の差は開くばかりだし、人々は情報の海に漂う塵芥のごとく未来に不安を抱えながらフワフワしているように、私には見える。 「おごらず、他人と比べず、面白がって、平気に生きればいい」という樹木希林の言葉を本当に理解できる人は、一体どのぐらいいるのでしょう。「情報に流されず、自分を客観視し、無駄なものを排除して、平然と生きる」ことが理想と分かっていても、プレーリードッグ(ネズミの一種)のように、周りをうかがい乍ら身を屈めているばかり。 今年はあの高度経済成長を夢見て、再びオリンピックが開かれるわけですが、二極分化が進むばかりで幸福感に浸ることが出来るのは一部の世界だけのような気がしてならない。 5年後には45年振りの大阪万博を控え、「IoT(物のインターネット)、AI(人工知能)、ロボティクス、ビッグデータ、バイオテクノロジー(Society 5.0)」といった技術によって、様々な地球規模の課題が解決された、SDGs(持続可能な開発目標)達成された社会を目指すとされている。 デジタル化が進んで、関係の無いものがどんどんそぎ落とされていき「データ」だけの世になっていく。医療現場ではすでにそうなりつつある。患者の意見は重要視されず、検査データだけが診断の基準になる。 人間とは別の場所に知能を置くようになり、AIが判断してAIが意思決定をする。資金は高い所にばかり集まって下流へは流れて来ない。 富の再分配の仕組みをどうするか、今から議論を進めていかないと格差は拡大し、固定化してしまうとう懸念。 直近の高齢化社会ばかりが取り沙汰されているが、若者が生き生きと面白がって生きられる社会を作り上げなければいけない。
2020.01.13
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♪ 正と負の打ち消し合って中庸に在るかのごとく夫婦春秋‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥7時15分の南西の空。雲があってこその朝焼けだ。 この時期の朝は、やっぱり晴れていてほしいね。曇っていると一日が重たく感じてしまう。この雲は日が昇るにしたがって消えていくだろうから、晴を約束してくれているようなもの。 この「どうも腑に落ちない」という感覚は、すべてがここから始まると言ってもいいくらいの重要な感覚だろう。新しい発見や研究のきっかけにもなるし、犯罪捜査の鍵にもなる。人物にしろ事象にしろどうも変だ納得いかないと感じることはたまにある。ボーっとして流れに身を任せている様な状況ではあり得ず、感覚を研ぎ澄ませていることが条件だろう。 偉大な発見・発明、あるいは画期的な業績を残す人達は、アンテナをいつも立てていてその違和感をキャッチする能力が長けているのかも知れない。 この「違和感」は小説を書く場合にも当てはまるらしい。素人が小説を書く場合の取っ掛かりとする一つの要素になるというのだ。「この凶悪犯は何故こんな事をする人間になったのか。報道されている事だけでは納得できない、何か奥深い謎が潜んでいるに違いない。」そう思った事が「書く」動機になるというわけだ。 松本清張なんか正しくそういうものを感じさせる作家だろう。 彼は、「文豪の奥さんはみんな悪妻だった」と、ある会見の場で語っている。内面的に鬱屈しているものを力として小説を書いているのだと。そういうものがなければ小説なんか書けないとも。 記者から「奥さんはどうですか?」と聞かれ、「良くも悪くもない中間なので、私は文豪になれない」と答えている。 モノを生み出す原動力は人それぞれだろうけれども、小説家にとって奥さん(女)の在り方がその意欲を左右するのは良く分かる。女以外のものはどうにかなるが、奥さん(女)はどうにもならない存在なのだ。その暗くて深い溝に足を取られ、泥沼に引きずり込まれて藻掻くうちに憎悪と怨念の捌け口を求める。その葛藤が小説を書くという行為に向かわせる。防衛本能が創作のエネルギーとなるのは自己免疫の見地からも説明がつく事かも知れない。 この話が腑に落ちない人はせいぜい文献を漁って、真実を追い求めてください。きっと何かをもたらせて呉れ、短編の一つも書けるかも知れない・・・
2019.12.20
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♪ 小鳥たちは今日も自由だただいつも腹は空いてるそれだけのこと‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 自由主義、資本主義経済は頭打ちとなってますます混沌として来ている今、ポピュラリズムが保護主義の衣を着て、自分の利害にしか興味を示さなくなっている。 そんな時代にあって、日本という国は膠原病的な旧態依然の体質のまま。対処療法しか採らず原因となるものには手を付けないで、症状をさらに悪化させても知らんぷり。永遠に放置しつづけるかのごとく。 来年度予算案の一般会計の総額は、101兆4571億円と過去最大となった今年度を上回り、102兆円を超えるべらぼうなものとなり、さらに膨らむ可能性があるという。税収は63兆円余りにしかならない予想なのにだ。平気で赤字国債を発行しまくる、会計・経理もくそもあったもんじゃない。 朝日新聞より 小国にあって資源もない日本がここまで興隆したのは、勤勉で慎ましい国民がお国のためにと頑張ってきたおかげだ。国家の力なんかではなく民間の力だ。それを忘れて、自画自賛してきた政治家と官僚が自分達のための政治をしてふんぞり返っている。エノキ これは日本国民そのものの姿じゃないか。一見豊かそうに見えてその実、手足をもがれながら必死で生きている。目の前にニンジンをぶら下げられて必死に働いて来て、老後にまで働かされる。長生きしてのびのびと生きるどころか、それが負い目になる様な視線に晒されて生きている。ポプラ これなんか就職氷河期で辛酸を舐めつづけている30代後半から40代初めの、本来なら社会を背負って立つべき世代と、若者たちの姿そのもの。重いものを背負わされる恐怖におびえながら、将来に夢も希望も持てずに鬱々とした日々を送っている。 内向的な故に真面目で謙虚なことが裏目に出て、日本人の美意識やら矜持までもを恨み憎みたくなるような世の中に、縮こまって生きている。 こんな国になったのは誰のせいかって? 政治のせいにするのは簡単だが、表面的な現象や状況には敏感な癖に、社会の変化に付いていけない日本人の体質そのものにも問題がある。 出る杭は打って、同調圧力をかけて、右へ左へ風の吹くまま流されながら、自分の意見を言わず、ただ楽をしたいだけ。それで政治のせいにするというのは虫が良すぎる。
2019.12.18
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♪ 雨にぬれ赤きまゆみの輝きぬ気が付けばもう七合目あたり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 「百歳まで生きる」と決めて、良いことだけをセレクトして生きていく。そんな素敵な古希の女性が身近にいて、着々とその方向へ向かって楽しい生活を続けています。先日の宴でも百歳と言うことばが何度も交わされていました。 自然なもの、無添加のもの、栄養価のあるものなどを選んで食べるのはもちろん、前向き志向で興味のあることにチャレンジし、進んで取り込んでいく。モノを作る喜びを心から愛し、興味と執着は広がることはあっても狭まっていくような事はない。 なのでいつでも忙しく、暇という言葉は彼女には存在しない様だ。確かに元気を維持しつつ、百歳まで楽々と到達してその後も矍鑠としてつづけるだろうと、傍で観ている我々も納得させられる。 この時期になると、欠礼を詫びる喪中はがきが幾つも届きますが、その亡くなった家族の年齢がどれも九十代で、中には百歳というのもあって驚く。今年100歳の人は、大正8年生まれということで大正、昭和、平成、令和と、日本の激動の時代を生き抜いてきた人達だ。 日清・日ロ戦争を体験し、太平洋戦争を敗戦で迎えたのが26歳。その零からの復興期を遮二無二働いて、戦後復興のシンボル・大阪万博を51歳で経験し、4年後には定年退職。恩給や年金生活に入ってからの人生が45年だ。 彼らの子供がわれわれ団塊世代であり、30年の開きがあるが後追いという形でなぞらえることが出来る。しかしそれも昭和までで、平成以降はすべてがドラスチックに変化してしまったために乖離するばかりとなった。 ただ戦後の貧しさを知っているし、とにかく人数が多かったことで我慢が日常に溢れてもいた。忍耐を知る世代として、ミトコンドリアは逞しさを持っているし免疫力も忍耐力もそこそこにある。真面目に物事を捉え、常識と良識も持っている。あと30年は、案外行けちゃうのかもしれない。 昨日、2週間以上間が空いてしまったウォーキングだったが、いつもの様に階段120段を駆け上がったし、折角だからと3分の間隔のインターバル速歩も入れたりして12,000歩ほど歩いたがほとんど疲れなかった。休養充分とはいえ、家を出る前はショートカットも止むを得ないなあと思っていたので、自分でも驚いている。 私は100歳まで生きたいとは思っていない。なので適当なところでパッといなくなりたいわけだが、そうもいかずに想定外の事になっていくのだろうか・・・
2019.12.02
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♪ しまりなき曇天小春小鳥らのやけに飛び交う九時五十分‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 緑色の痰と洟が未だに続いていて、咳も少し出る。ちょうど一週間経ったところで、「風邪、治った!」と宣言したいところなのに、まーだ引きずっている。まあ、あとは鈍行列車がチンタラ各駅停車しながら、気付いたら終点に着いていたっていうような塩梅で治っていくのだろう。 頭が働かず、本を読む気にもならない。ブログだけはなんとか書きたいと、PCの前に座る。 もう11年以上毎日文章を書いて短歌も詠んでいるのでその数はかなりのものだが、結社にも属さず師事する先生も持たないので、その歌のレベルは言うまでもない。しかし、一割ぐらいはいい歌があるだろうと鷹揚に構えている。続けることの意味に拘っているだけなのかも知れないが、それとて充分なモチベーションになり得るわけだし・・。 惰性や慣れは勿論ある。その合間合間に、やってきたことのエッセンスが形になる時があって、ふと、良いのが出来ることがある。それで十分。自分のために詠んでるんだし、他人の評価を気にしていては狭くなっていくばかりなのでねえ。ホーキング博士 “AIは必ず人間を越える” 世の中、物事を深く考えなくなっていく度合いがどんどん進んでいて、近い将来、AIにすべてを奪われることになるやも知れぬ。便利の影でどんどん奪われていく人間性。もの作りをし、活字に親しむ。文を書き、短歌を詠む。そういうAIの苦手なことを進んでする。せめて自分だけはAIのしもべにはならないと思っているわけで・・・。 制作作業に入った蛇腹ノートの表紙の試作。表の表紙に表題を入れる凹みを作ってみた。 あとは全紙を縦目方向に5等分して蛇腹状に折り目を付け、つなぎ合わせるだけ。しかし、手作業で40ページ分を折るのは、つなぎ目との兼ね合いもあるし、結構大変だ。
2019.11.24
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♪ 相撲をば格闘技なりと心得る怪我する前に敗ける手のあり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 大相撲は怪我人ばかり休場者多数で、興味を削がれるばかり。炎鵬の活躍が一番の見どころなんて洒落にならない。 でも確かに炎鵬の相撲は面白い。身長:168.0cm、体重:98.0kgの小兵が、大型力士が当たり前の中にあって、攻撃を巧みに掻い潜って見事に勝利を挙げるというのは見ていてスカッとする。得意技が、左四つ・下手投げとなっているがそんなまともな技で勝てるはずもなく、その他の決まり手が半分近いというのも頷ける。炎鵬の決まり手の傾向 小兵の炎鵬にとって前頭六枚目まで上がって来て、さすがに勝敗は五分。ここれ勝ち越しともなれば大したものだが、簡単なことではない。重量級の力士に体を預けられたりして下敷きになる様なことが無きにしも非ず。そんな事は百も承知で、それらに対処する稽古を積んできている。柔軟性を重要視し機敏に動ける身体を維持することを怠らない。 大型力士が炎鵬の様に稽古をしたならもっと面白くなるだろうに。体重を増やすことに力を注ぎ、体重に依存して相撲を取るという根性が間違ってる。炎鵬 ここ三場所の成績 昔、プロ野球で「ホーナーコーナー」というのがあって、ホームランを打ってくれるのを期待して彼の全打席を紹介するというもの。これを真似て「炎鵬コーナー」というのを設けたらどうだろうか。 何か知らないがこんな休場の多い、怪我人の多い相撲でも満員御礼がでる。巡業で全国を回ってファンサービスもしている効果なのかも知れないが、そのスケジュールの内容の過酷さが問題になっている。いくらファンが増えたとしても力士が怪我をしてしまっては本末転倒というもの。 日本に帰化した白鵬。なりふり構わず勝ちに行く。立ち合いで右から強烈なかちあげをかまし。遠藤の身体が起きないと見るや、右、左と矢継ぎ早にほおに張り手。いつから「かちあげ」が解禁になったのか知らないが、遠藤は流血して最後は上から潰す様なはたき込みに破れた。 「相撲は、格闘技と心得よ」ということか。
2019.11.22
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♪ テーブルにどんと広げて読む新聞 地球を眺める朝のルーチン‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 以前、朝日新聞にこんなことを書き送ったことがあります。 「市井の生活の中で生まれている、『良い話、感動する話、人間の素晴らしさを伝えるような記事』、これらを全国からピックアップして専用のコーナーを作って載せて欲しいと思っています。『声』欄に投書したことが有りますが採用はされませんでした。 ニュースは大概、事件・事故など悪い事ばかりが取り上げられるものと相場が決まっていますが、それは他の媒体に任せて、新聞は良い事ばかりを取り上げる媒体に特化して欲しいとさえ思っています。 しかし現実的にはいい話、役に立つ話、だけで成り立つものではないので、せめて1ページだけでもそういうものにしてほしい。そしてそのページはカラフルで楽しく目立つもので、ついつい保存したくなる様な紙面がいい。」 その意見がヒントになったのかどうかは分かりませんが、「ひととき」といコーナーが出来て一般から投稿された、「ちょっといい話」が掲載されるようになりました。ほっこりし、じんわりと心が温かくなる話ばかりです。 読んでいると些細なことなのに、なんだかほっこりしてきて涙が出そうになったりします。 どうです? ほっこりするいい話でしょう? 文章はまったくもって完璧に書かれていて、文字数も限れてているだろうし、簡潔にその状況と心情をを表現するのはかなり高度な技術がいる。多分、社の方で上手に加筆修正しているのでしょう。だからといって内容の価値が下がるものでもない。朝日新聞に感謝します。 しかし、新聞を読む人はどんどん減っていて、紙面の枚数もますます減っていく。最近の新聞の厚さと言ったら隆盛時の半分以下じゃなかろうか。Web版に力を入れていて、無料登録すれば読めたものが今は有料になっていたりする。紙面をそんなに減らすなら料金も下げてほしいと思うのは人情でしょう。まあ、Web版の方が安いのでそちらに鞍替えしてもらうのを狙ってのことでしょう。Web版のトップページ鍵マーク(灰:無料登録で読める。 黄:有料の記事→新聞購読料金+500円で読める) 活字と紙の媒体、特に新聞の役割は大きいと思っているので、まだまだ当分は購読するつもり。新聞紙って役に立つからね~
2019.11.07
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♪ いろいろと書きつづりしを色々な人訪れて一六(いろ)ならびおり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 昨日、ブログのアクセス数がきれいに1と6がズラリと並んだのを目撃した。毎回このような同じ数字が並ぶのを楽しみにしているようなところがあって、1が7つ並んだ時とか1と5が並んだ瞬間にも出会っている。 今回もあと150いくつかできれいに並ぶのに気付き、ウェールズについてのサイトの記述を調べながら、その時を待っていた。ページを開いたままでは更新されないので、3度目かにジャストのタイミングで目撃できたという訳。 アクセス数は複雑で、『昨日(日付)のアクセス数』は、各日記のアクセス数の合計の他に、そのブログのトップページや新着記事ページやカテゴリページ等のアクセス数をすべて合計した数字となっているらしく、そのため「記事ごとのアクセス数の合計」と「昨日(日付)のアクセス数」が必ずしも等しくなるわけではない。 何だか知らないが最近、毎日のアクセス数が1000を超えることが多い。毎日アップしているその日の記事へのアクセスは思ったほどでもないのに、毎日の延べアクセス数が1000を超えてることには正直、驚いてしまう。 それだけのアクセスがあって読まれているとあらば、いい加減な気持ちでは書けないし間違った内容も許されない。励みになると同時に責任感みたいなものも感じてしまうが、所詮は老いた男に日記に過ぎない。11年を超えて書き続けている意義はどうなのか知らないが、まあこれからも好きなことを好きなように書かせてもらうことにする。
2019.10.30
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♪ 磊磊の凍るくさり場超えてゆく田中陽希に憂さなかるべし‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日本三百名山をたった一人で一筆書き踏破するグレートトラバース3。雨で足止めを喰らう事はあっても連続縦走など平気でこなす、田中陽希のその体力にはただただ驚くばかり。 昨日9月26日(土)の放送では、「172座目:木曽駒ヶ岳/173座目:空木岳/174座目:南駒ヶ岳/175座目:越百山/176座目:安平路山」5泊6日の中央アルプス縦走の内の二日間。6月17日、雨で2日停滞した後の宝剣岳から再スタートのシーンから始まった。 雨の後に晴れたため岩場は凍り、くさり場の鎖にもびっしりと氷が張り付いている。出発を二時間遅らせるも日陰にはまだ氷が・・・ いつ見ても楽しい気分にさせてくれる。それは彼がマイナス要素の話をしない事が一番の要因だろう。辛いとか苦しいとかが必ずあるはずなのに、ほとんどそんな弱音や愚痴を聞かない。たくさんのサポーターやファンが注目しているということもあるっだろうが、弱みはついつい出てしまうものなのにそんなところが無いのもこの番組の良い所だ。製作者の意図もあるだろうが、本人のキャラクター、人柄の良さが多くの人に好かれるゆえんだろう。 虐めや、ネットで悪態や中傷をし、弱い者いじめをして憂さを晴らしているクズ野郎は、一度でも山登りや一人旅をしたことがあるだろうか。自分と向き合って、自然を相手に戦ったことがあるのだろうか。 いかに自分が小さな存在であるかを身をもって知るには、「山登りが一番良い」と私は思っている。 例え1500m級の山でも体力と根性の無いやつには頂上を極めることなんかできない。途中で厭になるに決まっている。自分の弱さと戦おうとせず、自分の不甲斐なさをあいまいにするために、目の前にある自分よりも弱いものを虐めようとする。現実逃避が癖になっている、心の軟弱なヤツなのだ。 自分がそんな人間であることを知るためにも、一度山登りを経験するべきだ。途中で止めたりせず、最後まで弱い心に鞭うって頂上に立つことが出来れば、きっと何かを感じ、何かを掴むことができると思う。
2019.10.27
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♪ 太陽が神と思えるねこ日和雨雲はるか岬をぬけゆく‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 各地、特に千葉県に大雨を降らせて河川の氾濫や土砂崩れが相次ぎ多大な被害をもたらせ、福島・宮城県でも被害が出た模様。ようやく雨雲は北海道の南に去って、今後は天気も回復するらしい。 一難去ってまた一難の、何とも酷な日のつづく日本列島だ。今朝6時の西の空昨日は17℃前後の11月の気温で、今日は23℃と夏日に近い気温予想。 ピピも雨の中を出入りしてウンザリだったろうが、今日はほんわか猫日和。一旦出ていったがまた思い直して隔離部屋(PCのある部屋)に戻って来た。 ピピに “あらん” という邪魔者が入り、“こんなはずじゃなかった” と臍をかんでいることだろう。膝に乗せてやったが8キロはさすがに重いし、狭くて居心地が悪い。しょうがないが椅子を明け渡してやった。 今までおらが春だったのに、猫の運命も定まらない。 こういう記事やニュースに接する度に「運命」という言葉が頭を過ぎる。私は決して運命論者ではないけれど、人生にはこのような運命としか思えない事柄がたくさんある。もちろんと言うか当然というか、それらはみんな美談として語られる質もの。 先が分からないから生きられるとも言える人生だが、思ってもいなかった事件や出来事に遭遇するのもまた人生。その時、どう感じたかどう思ったかでその先の行くべき道が変わって来る。その時の判断で凡人には出来ない道を選んだ人こそ、運命の人となる。艱難辛苦を乗り越えることが出来たところにようやく新たな道を見出し、きっぱりと決断し行動することが出来る人。 誰もができることではないので感動を呼ぶし応援もしたくなる。
2019.10.26
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♪ スポーツは一途な遊びストイックを真面目と解する人と観ている‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 普段からこの横尾氏のツイートに同じ様な思いをしている私としては、いたく共感しています。 「表現の不自由展」に関しては、賛否両論あってお互いが意見交換する場が設けられたりして、喧々諤々やれたことが最大の功績とだけ言っておきます。 アーティスト側の立場からすれば彼のいう意味は当然理解できる。岡本太郎のように「既存のものを破壊するのがアートである」という考え方に対して異論があるのは当然です。しかし、その絶対的な信念のもとに作品を制作・発表されてきたことでアートが生まれ続けて来られたのも事実です。何がアートかという問題はその既存のものをぶち壊すという意味が分からなければ成り立たない。 受け取る感覚はジャズに対するものと似たところがあって、最初から拒否反応を示してしまう人には絶対に理解できない。それは感覚的なもので、ジャズにもいろいろあるし一言で言い表すことは出来ない。食わず嫌いが頭ごなしに否定する傾向が強い。 知らないから簡単に否定できる。分かってくると無碍に否定できなくなる。そういうものは世の中にたくさんあって、それが後追いで科学や医学の発達で証明されたりする。アートにはそれを証明する手立てはないとしても、心理や精神的な部分に影響を与え、知らず知らずのうちに身近なものに変化を与えていることは否定できない。視覚、聴覚、味覚だけでなく触覚や嗅覚にだって関わって来ることです。 まあ、こんなことを書きだしたら話が尽きないので、最初に戻って「真面目すぎる」という点に絞ることにする。真面目過ぎる人というのは頑なで一所懸命なところがあって、傍にいると息が詰まってくる。そんなことどうでもいいじゃないのと思う事に妙にこだわって、その事がとても重要なことだと信じている。否定でもすれば向きになって反論してくる。もっと柔軟に対応すればいいものを、それが出来ない。 色んな価値観と色んな性格があり、色んなものが複雑に混ざり合っている。その多様性の中で諸々は常に変化しているのに、決まり切った固定観念で生きているなんて「石ころ」とおんなじだ。高度に脳を発達させてきた人間なのに、その事に気付かない状態を「真面目」と定義したい。欧米では「真面目」はマイナス要素であって美徳でも何でもない。日本人にとっては「不真面目」が最も苦手で「真面目」でいるほうが楽なのかも知れない。唯一、大阪には例外として、いい意味の不真面目が残っているように思う。だから大阪が好きだ。 「真面目」からは何も生まれない気がする。水の様に変幻自在しながら融通無碍に生きていくが理想でしょうか。 坂口安吾「堕落論」をもう一度読み返すのもいいかと・・・。「自由」に「不自由さ」を感じるのも「真面目」さゆえのことだと思えてならない今日この頃です。
2019.10.16
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♪ 給油所に閉店予告の表示あり駆け上りたる坂の頂‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ピーカン天気は昨日までで、週末から来週ずっとぐずついた天気がつづきそう。ただそれだけではなく次の台風予備軍がスタンバイしていて、今日中にも台風(18号)になりそうなのだ。週明けに沖縄や奄美、西日本に接近し、大荒れの天気となる恐れが。 17号と同じような進路になりそうで、それよりも発達しそうだというから九州~近畿は大雨の心配も出て来る。 晴れるのは5日以降になりそうだが、秋らしいスッキリと晴れた日が待ち遠しい。 5時42分の朝焼け 3時の衛星写真 「ちょっといい話」ってそうはない。だからこそ “ほっこり” するわけだ。私もなるべくそういうチャンスが有ればするように心掛けている。それは喜んでもらえること以上に、自分の気分がいいからだ。 一日一善なんて言葉遊びにすぎないと思う。そんなにチャンスがあるわけはないし、見つけようと努めて無理やりやるのもどうかと思う。滅多にないチャンスを逃さず、反射的にサッとやるのがいい。いったん躊躇するともう出来なくなるから。 昨日のウォーキング中のこと。横断歩道のある場所で道路を横切ろうとして、なかなか車が途切れないので仕方なく手を挙げて渡った。止まる前から運転手の顔を見ながら手を挙げて車道へ出ていくので、車は嫌でも止まってくれる。チンタラしてないで、しっかり意思表示してささっとやるのもマナーだと思っていてる。 渡り終えるところで、女子小学生が走って来るのが見えた。車が停まっているのを見てチャンスと思ったらしい。それで私は渡り切らずに手を挙げながら車を制止し、その子が渡り終えるのを待ってあげた。 知らんふりして行ってしまうのは “大人としてやるせない” とか、思いやりとかは勿論あるけれども、もっと違うところの感覚。人間にしか出来ない行為としての美意識みたいなものかも知れない。 運転手に対して「ありがとう」の手話サインは、まだ出来ていない。
2019.09.28
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♪ 山峡に咲くやまざくらひっそりとその身をさらす愛(は)しきなりけり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥南から北東へすごいスピードで雲が流れてゆく(6時)。 大型の台風第17号。6時には、松江市の北北西約110kmにあって、北東へ毎時50kmで進んでいる。東海は15m/s以上の強風域に入っている。 眼には見えない風に流されていく雲。しかしその正体は明確で分かりやすい。しかし、全く見えないところで操っているものが有る。その操られている事さえ気付かずに、あるいは、気付かぬ振りをしてやり過ごそうとする我等。 嘆く事さえ操られる人形たち(抜粋)朝日新聞「日曜に想う」編集委員 大野博人(2019・9・22) 我々は、ここに連記してあるものから疑問符抜きで、知らず知らずに操られている。政治権力、GAFAなどの情報操作、或いは新聞やTVに。また身の回りの同調圧力や慣習に。そして、目に見えない様々な風に・・・。 分かっていながらそうせざるを得ないと自分に思い込ませて、その不都合な事実から逃げている。長い物には巻かれろ。寄らば大樹の陰。生きる術、処世術とか言いながらフラストレーションを抱え込み、自分を抑え込んでいる内に、自分が自分でなくなっていく。 この記事はこの後、インドネシアのスハルト大統領の独裁支配に及び、如何に人心や対立する政党を操って来たかを述べる。そして下の文、日本の政治へと結ばれていく。この段を書くためにもってきた導入部かとおも思うが、私は前段の部分に強く惹かれたので引用させてもらうことにした。 融通の利かないド一刻、狷介で人を寄せ付けない偏屈ものの私ゆえの想いかも知れない。しかし、自分というものを絶対に失いたくはない。人に後ろ指を指されようとも自分を変えることは出来ない。完全中立自主防衛が理想とするところ。辛い淋しい、厳しいことだ。拡大します
2019.09.23
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♪ 「つめたいなあおまえってやつは」身の奥でつぶやく声を聞いてしまえり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 地球はもう完全に病んでいる。発熱と悪寒、自律神経失調といろいろな機能障害、悪性新生物も棲み付いていて、自然治癒力も衰えている。 もう誰にも治せない気がしています。 地球の来歴と寿命から言えばほんの短い期間、人間という最悪の生物が寄生して自然を破壊し、ついには自滅していった、という事になるのでしょうか。 無責任なことを言っていると思われるかもしれませんが、これも大きく見れば天然宇宙の摂理のようにしか私には思えません。子や孫の将来を心配したりもするわけですが、人類という動物の宿命的な生存競争、AIとの闘いと共にどのような方向に向かうのか、想像を絶する。もし、そんな環境に適合できなければ、弱いものとして淘汰されるだけのことだと思ってしまう。それは悲観論でも楽観論でもありません。 人類が滅んでも地球はちゃんと存在を維持していくでしょうし、例え核戦争が起こったとしても膨大な種のうちの選ばれしものの何かは、必ず生き残って新しい生命世界を作り上げていくでしょう。 極端なことを書きましたが、生物の宿命的な歴史の一部に人間もいるという事実を見据えるのは、楽観でも悲観でもない。地球の身、人間の身に何が有ろうと、どんと受け止めて受け入れて行くしかないと思っているわけです。 われら生物は、マントルの上の薄皮一枚の地表に棲み付いている。その地殻はチチカカ湖に浮かぶ蘆の島のごとく不安定で、何とも野蛮な生活基盤の上に成り立っている。70%が海であるこの基盤は、水という変幻自在な物質に囲まれその変容する酸素と水素の化合物に弄ばれながら、依存していくしかないか弱き生物たち。 神の視点で見てみれば「蟻ん子」と何ら変わらない小さな存在の人間。脳を肥大化させ、進化していくはずのものを逆方向へ捻じ曲げていく。 構築して来たヒエラルキーなどぶっ飛んで、進むAI支配が大半を「無用社階級(ユースレス クラス)」とするかもしれないという(ユヴァル・ノア・ハラリ)。「真の支配者(ルーラー)」はアルゴリズムそのものとなって全宇宙を支配しようとする。しかし、あまりにも高度に複雑化したAIを理解できないままだという、憎悪の未来社会。 金で支配し、される社会が独裁者を生み、地球温暖化、核戦争、破壊的なAI技術が、地球全体を覆い尽くす。さて、人類は賢いのか馬鹿なのか。
2019.09.20
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♪ 「本当にしたいことを・しているか」スティーブ・ジョブズが耳にささやく‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 金にもならないことばかりを好きなように、やりたいようにやってきた私。時どき「お前はバカか」という内なる囁きが聞こえることもあったが、誰に迷惑をかけることもなくこうして生きて来られのだから有り難いことだと思う。 スティーブ・ジョブズは「本当にしたいことをしているか?」と毎日鏡に向かって自問していたという。その「本当にしたいことをしているか?」という言葉に鼓舞されてやりたいことをしていれば、「お前はバカか」という内なる囁きとぶつかる。そうだ俺はバカなんだ。バカなんだからしょうがない。バカな奴は、他に能が無いのだからやりたいことをやるしかないじゃないか。伝説の卒業式スピーチ(日本語字幕) YouTubeへ バカが一生懸命やりたいことをやって生きてきた。バカなんだから一生懸命やるしかない。一生懸命やっていれば身につくことも増えてゆく。虚仮の一念で一つの事だけを徹底的に追及することも悪く無いが、バカだから好きなことも変わる。バカだからある程度できるようになると飽きてしまい次の興味へ移って、したいことが変わっていく。 興味が湧けばやってみたくなるバカが、また他のことに手を出したと周囲は飽きれているかも知れない。もっと突き詰めて行けば、到達するべき未知の山に出会うことが出来るかも知れないのにと。でもバカにはそれが分からない。未知の山を探す旅になんて興味がもてない。やりたい、行ってみたい道が次々にみつかる。どうせ先は見えない道ばかりなので、新しい道を進んだ方が新鮮だし楽しいに違いないと思っている。 バカはきっと長生きする。本人は望んでいなくとも、その生き方の中には長生きする要素がふんだんに含まれていて、嫌でも長生きしてしまう気がする。 これは由々しき問題だ。長生きしない「やりたいこと」を見つけなければ・・。
2019.09.12
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♪ 明け方にねこ帰りきてわらわらと雨降りはじむパソコンの前‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 高度経済成長は完全に終わり、減速して縮むばかりの21世紀。高度経済成長時代の夢と甘い汁が忘れられずに計画ありきでつき進めている整備新幹線や必要もないのに超高速のリニア新幹線を作ろうと莫大な予算を注ぎ込んでいる。問題を先送りして、目先の花火、目先の利益、企業優先の人気取りにばかり目がいっている。 2020年の東京オリンピックも2025年の大阪万博も、万馬券を取った過去の栄光を忘れられず、半信半疑のまま夢よもう一度とばかりにギャンブル的に金を注ぎ込む。大阪はカジノを含む統合型リゾート(IR)が目的のようで、最早、地道な経済活動を出来なくなり刹那的な快楽を求める下流社会の末路の様だ。横浜もIR誘致を決めた様だねぇ。 明治大正期の国家黎明の時代にあって先を急ぐばかりの世の中に対して、異議を唱える人が居た。新元号になった今こそ原点に立って、地に足を付けた人間本来の生き方を取り戻すべき時だと、私も思う。 しかし、高速ギヤが組み込まれてしまった社会を元に戻すことは至難の業。それを取り除くことが出来ないのなら、大きくゆっくり回る歯車を一枚組み込んでやるしかない。価値観という材質でできたフライホイール。 チャップリンの「モダンタイムス」は1936年(昭和11年)の映画。ここで描かれているものは今でも質を変えて現代社会の根本に居座っている。 便利と楽を求めて、失ったものがどれほどあるか。時間を金で買って、何か得した気分になっているだけで、逆に忙しい思いをして暮らしている現代人。「働かざる者、食うべからず」は搾取する側が押し付けている価値観であって、人は「働くために産まれてきたわけではない」。 手段が目的になってしまっている本末転倒の社会にあって、人と自分を比べながら同調圧力の壁に囲まれて生きている。 価値観はもっと多様であるべきだし、人と同じである必要なんかない。金子みすゞの「みんなちがってみんないい」の言葉は奥が深い。『私と小鳥と鈴と』 私が両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥は私のように、 地面を速く走れない。 私がからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴は私のように、 たくさんな唄は知らないよ。 鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがって、みんないい。 鈴という無機質なものも小鳥と同じように存在しているし、自分もそれ等と同じなのだという世界観。この詩は決して自分勝手でいいという意味ではないことが明白なのは、「鈴と小鳥と私」が横一線に並んでいる事でもわかる。 自分らしく生きるという事は、「他人と自分を比べない事」に掛かっている。
2019.08.23
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♪ 迷わずに山本太郎と記名せり三原じゅん子に言わせてはおけぬ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ いじめが原因で自殺するまで追い込まれてしまうという、おぞましくて目を覆いたくなるような事件が頻発している。それに加えて、学校や教育委員会の隠蔽と責任逃れに終始する、卑劣で卑怯な大人たち。子供たちを蔑ろにして平然としている教育現場って、いったい何なんだ?!朝日新聞(2019年7月12日) 「教育委員会」そのものが学校と教員を守るための隠蔽組織として機能しているという現実に唖然とするばかり。大企業が会社ぐるみで不正をやっているのと全く同じ構造だが、相手は国の未来を担うべき子供たちだ。少子化で国の存亡も掛かって来る、この国のいわば貴重でかけがえのない財産だ。 良い先生や問題意識を持った優れた教育者が、同調圧力の中で爪はじきにされ疲弊している状況は、とても文明の発達した国家の姿ではない。 「そんなこと知った事か」とばかりの人間的レベルの低いこの国の教育現場。文科省もステレオタイプの石頭が、机上の空論の果てに教育現場を混乱させ、世界でも例のない最悪の職場環境を作り上げて知らんぷり。 異常な長期デフレと低賃金、大企業優先の政策と外面と対面ばかりに心を砕く国の首長。ご主人様の顔色を見ながら、ご主人の真似をして平気で嘘を言いマスコミ批判までするポチ。非正規雇用が約40%、サラリーマン3人に1人が非正規、4人に1人がワーキングプア。年収200万円以下のワーキングプアと言われる人たちは日本で1,131万人いるという現実から目を逸らして、それには一言も触れない自民党総裁。 今回の選挙でも「他よりよさそう」という理由だけで自民党が選ばれるのだろう。野党が情けないからしょうがないにしても、せめて頑張っている人の応援はしなければと思う。 不在者投票に行って来た私は、比例区は「れいわ」の「山本太郎」一票を投じた。政界を引っ掻き回して暴れてほしい。スポーツを見るように快哉喝采を叫びたい。 「 私と小鳥と鈴と 」 金子みすゞ 私が両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが 飛べる小鳥は私のやうに、 地面を速くは走れない。 私がからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴は私のやうに たくさんな唄は知らないよ。 鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがって、みんないい。 日本という国が、この詩のように「みんなちがって、みんないい。」とみんなが思える社会になる日が来るのだろうか。来なければ「真の幸せ」なんて永遠に手に入らない。 回りばかり見て忖度して生きているのは「お前たちだ」。自分を磨いて、他を受け入れろ!
2019.07.15
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♪ 梅雨晴れの陽射しまぶしく机(き)を照らすみんな忘れてしまいたくなる‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 真夏日の予感。PC机の上に、強烈なコントラストで朝日が斜めの帯を描いています。急激な暑さは堪りませんが、太陽の有難味も感じる梅雨の晴れ間でもあります。 自然界にあるものが当たり前に思えるのは有難いことです。生物が生物らしく生きることが出来ることへの感謝をどれだけ感じられるか。それはとても重要なことに思えてなりません。 「般ニャ心経」(監修 薬師寺執事長・加藤朝胤)は、般若心経のワンフレーズづつを猫の表情を借りて分かりやすく説いています。その日の気分で適当に選んで紹介します。当たり前の事に、感謝しよう 波羅蜜多時 「波羅蜜」という言葉は、古代インドサンスクリット語やパーリー語で「到達」や「達成」を意味します。迷いや不安のない、のびやかな、すっきり晴れ晴れした心の状態であれば、悟りの道へ到ることができるのです。
2019.06.25
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♪ 先生に様まで付けていたころの山は静かにたたずんでいた‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 6月恒例の親子学級による「親子ふれあい講座」があり、今年もハンカチの「板締め絞りの二色染め」をやってきた。場所が理科室から調理室に変わり、設備や配置が全く違うのでかなり戸惑った。 人数が20人と少ない上に今年の6年生は何だが線が細い感じ。大人しくてあまり覇気がないというか、積極性があまり感じられない。低学年の時に経験した子も居ない様だったし、担当の先生も変わってしまい全く状況を理解していなかったこともあって、「勝手が違うなあ」の思いが最後まで尾を引いた。 そんな事が原因と言ってはいけないが、色が少し薄過ぎて全体に模様の出方が弱くなってしまった。最初に染めたのは濃く出ているが後の方は薄くなっている。ちょっと申し訳なかった。染色から遠ざかっているので感が狂っていたのも確か。 様々な要因が重なって私としては不本意な結果だったが、子供たちはそこそこ楽しんでいたので、まあ良しとする。 この参加した6年生の中にハッとするほどの美人の女の子がいた。話をしているとそうでもないが、すましているととても大人っぽく見える。ああ、こんな娘を持ったら父親はさぞ心配でしょうがないだろうなぁ、と要らん心配をしながらチラ見していた。 数多の男を泣かすのだろうか、或いはみんなが敬遠してしてしまって案外寂しい思いをするのか、なんて少しばかり心が騒いで・・。 この半田市の小学校は築何年になるか知らないが、水道の水の出が非常に悪い。前回までは2階の理科室だったので水が出にくいのかと思っていたが、今回の1階もまったく同じで、場合によってはもっと酷いかも知れない。同じ場所にあっても、良く出る蛇口の隣はまったく出ないという不思議な状況で、容器に水を溜めるのさえ手こずる始末。 先生の言うには、水道の配管図がないため手の施しようがないらしい。壊して建て替えるより仕方がないというから最悪だ。さぞかし毎日の水を使う作業はやりにくいことだろう。学校侵入事件について取り上げている・ 最近の学校は校舎に不審者が入るのを避けるためにか、校舎の各部屋の配置図が公表されていない。以前は学校のホームページにちゃんと載っていたのにその痕跡もない。今回、講座の行われる部屋が変わるという事で、用具を運ぶ必要があって位置を確かめたかったが出来なかった。 小学校の門戸を広く一般に開放し、地域のコミュニティに重要な役割を果たし、校庭は子供たちの遊び場にもなっていた。そこへ突然、あまりに理不尽な痛ましい事件が起こってしまった。大阪教育大付属池田小の乱入殺傷事件から18年を迎え、警察官(左)らに見守られながら登校する児童たち=大阪府池田市で2019年6月8日午前8時 2001年6月8日10時というから昨日は、偶然にも事件のあった同じ日に当たる。大阪教育大学附属池田小学校に凶器を持った宅間が侵入し、次々と同校の児童を襲撃。児童8名(1年生1名、2年生7名)が殺害され、児童13名・教諭2名が傷害を負った痛ましい事件。 ネグレクトの母親と暴力を振るう父親に育てられた犯人の宅間守。愛情の欠片もない家庭に育ち憎悪ををもって自分を支え維持するしかなかった。そんな動物以下の親がウジャウジャいて、様々な信じられないような事件が次々に起きている。 複雑怪奇な社会になって先生という職業の困難さは増すばかり。もっと先生を優遇し数を増やし、ゆとりを持った勤務にする必要を強く感じているが、国には目先の事ばかりで根本が全く改善されないのは残念でならない。
2019.06.09
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