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武士の誉れ「切腹」は江戸時代にほとんど行われていなかった?

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武士の世が終わり、現代では時代劇ぐらいでしか見ることがなくなった切腹だが、江戸時代の武士でも実際に見たことがあったのは、ほんの少数だった。伝聞や芝居から作り出されるイメージがほとんどで、切腹について観察記述した記録は少ない。それもそのはず、徳川幕府の約250年間、刑罰としての切腹はわずか20件ほどしか執行されていないからなのだ。
諸藩においても同様で、具体的な報告は加賀藩に残る『政隣記(せいりんき)』(津田政隣が天文7年(1538)から文化11年(1814)までの加賀藩の史実を編纂したもの)くらいしかなく、刀の斬れ味が悪く斬首に失敗したことなどが書かれている。

切腹について書かれた文献で最も古いとされているのは、平安時代の永保3年(1083)から寛治元年(1087)にわたる「後三年の役(ござんねんのえき)」について描かれた『後三年合戦絵巻』とされていて、切腹した男が右手に短刀を握り、一文字の切口から腸を引き出して倒れている姿がある。

ただし、この絵巻で描かれる以前から切腹という行為はあったようで、和銅6年(713)の『播磨国風土記』には「腹辟(はらさき)の沼」の由来について、この沼で切腹した者が亡くなったからだと書かれていることから、飛鳥時代末期には行われていたと思われる。

鎌倉時代に武士の間で刑罰として採用され、江戸時代初期に格式化された切腹は、武士の名誉ある刑死や自決として「式次第(しきしだい)」ができあがっていった。



切腹は夕方か夜間に行われ、衣服は白無垢、無官なら浅葱無垢、その上に無紋の麻上下を着用。切腹刀は、9寸5分(約28.5センチ)が決まりで、柄をはずし、切先5〜6寸(約15〜18センチ)を出して奉書紙で巻く。切腹人は検視役に目礼すると右肌を脱ぎ、次に左肌を脱ぐ。

切腹刀を取ると、目の高さにおしいただいてから、左手で臍のあたりを三度撫でる。それから一気に切先を左脇腹へ突き立て、そのまま右腹へ引き回すとされていた。また、切腹人が腹に刀を突き刺した際に、介錯人が首をはねてしまうので、絵巻のように腸を引っ張りだす必要はなくなった。





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