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<姉さん女房> ホテルに戻ってシャワーを浴びる。4時間40分近く走り続けて汗だらけになった体が、ようやくさっぱりし出す。ふう~っ、気持ちが良いなあ。着替えた後は早速国際通りへ。マラソンを走りその後博物館を観たが、さほど疲れは残っていない感じだ。さて、今夜は何を食べるか。まずはいつもの市場へ行ってみよう。 市場の八百屋さんは閉まっていた。果物屋さんにもタンカンは見当たらない。そうなると土産はお菓子か。前日に泡盛2本とスクガラス(小魚の塩辛)、チンスコウ、黒糖ピーナツは買ってある。実際に作っているお菓子屋さんで紅芋のゴマ饅頭を買う。2つの現場、我が家、向かいの家、それに自分用のまで入れるとお土産代も結構馬鹿にならない。 代金を支払うと小母さんが同じ饅頭を試食させてくれた。まだ暖かい作りたての饅頭は、独特の風味で美味しい。幸福感に浸りつつ、「花笠食堂」へ向かう。店の陳列ケースの前で夫婦のような男女が何やら品定めしていた。格好からするとやはり「NAHA」を走ったランナーのようだ。 女性が男性に何を食べたら良いか教えているようだ。そこで私が「ここは安くて美味しい沖縄の家庭料理が食べられるんだよ」と解説。私が仙台から来たと話すと、女性ランナーが驚いている。実は彼女もこの春、仙台から横浜へ嫁いだのだと言う。「うわ~、仙台に帰りたいなあ」と彼女。こうしてテーブルを共にしながら、彼ら夫婦と暫しの時間を過ごしたのだった。 彼らが知り合ったのは今年4月の「長野マラソン」の時。コース上で何度か一緒だったらしいのだが、レース後のパーティーで再び出会い、運命的なものを感じて結婚することになった由。マラソンの話、沖縄の食べ物の話、仙台の話、新婚生活の話。それらを夕食を食べながら楽しく語り合ったのだ。 因みに奥さんが頼んだのは「グルクン定食」。これは沖縄の県魚であるグルクンの唐揚げを中心としたもの。そしてご主人は無難な「沖縄定食」で、私はナーベラー(若いヘチマを炒めた料理)を頼んだ。それらには他に数品のおかずと汁物が付く。私は中身(豚の腸)のお吸い物にした。これは滋養があり、とても上品な味なのだ。 別れ際にご主人が言った。「彼女は姉さん女房なんです」。「知ってたよ」と私。「ええ~っ」。彼女が驚く。「だって、人生経験豊富だからね」。生まれて初めて故郷の仙台を離れたことや、まだ就職が決まらないことで彼女は胃が痛んでいるとのこと。そんな不安も優しそうなご主人が一緒ならきっと乗り越えられるだろう。それにこれからも共通の趣味であるマラソンを楽しむことが出来るしね。 二人は何度も握手をし、別れを惜しみつつ去って行った。さようなら、姉さん女房の若夫婦。これからも仲良くやるんだよ。マラソンがきっかけで結婚するなんて幸せ者だねえ、あんた達は。それにしても人生って実に不思議で愉快なものだ。その夜、ベッドの上でも足が攣ったが、それが最後の痙攣だった。 翌朝読んだ地元の新聞には、前日走った「NAHAマラソン」関係の記事がでかでかと出ていた。それによると当日の最高気温は23.4度C。エントリー数は約2万7千人で、このうち実際に走ったランナーは約2万4千人。完走率は確か62%くらいで、完走者の最高年齢は76歳。優勝したのは男子は地元沖縄の、女子は県外のランナーだった。トップでゴールしたワイナイナは優勝ではなく、参考記録だったみたい。私のゼッケンナンバーは3413番で順位が3391位だったから、まあ順当なところか。<続く>
2007.12.08
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<痙攣よ止まれ!> とうとう奥武山運動公園内に入る。昨年までは公園の外周を一回りしていたのだが、野球場の工事でコースが変更になったようだ。私がまだ沖縄に勤務していた頃、奥武山球場では当時強かった沖縄水産の試合を良く観たものだ。観衆から差し出される手にもタッチせず、競技場内に飛び込む。グラウンドの中には大勢のランナーが最後の力走を見せている。 第4コーナーを廻りついにゴール。時計のボタンを押す。胸のナンバーカードから発信機が取られ、完走証を受け取る。4時間39分07秒。ネットが4時間36分16秒だから、スタート時のロスは2分51秒か。琉球ガラス製の完走メダルと飲み物を受け取り、走友の待つコーナーへ。 グラウンド内では走り終えたランナー、リタイヤして戻ったランナーが仲間と一緒に車座になり、そこかしこで宴会がもう始まっている。これもNAHAマラソンならではの風景だ。元の職場のコーナーに戻ると、既にゴールしていたのはT原先生、N村さん、Y彦さんの3人だけ。一番速いS吉郎さんの姿が見えないが、彼の集合場所はほかにあるようだ。 シートに座った途端、足に痙攣が来た。筋肉が大きくうねり、やがて硬直する。その痛みに必死に耐える。一旦収まっても再び襲う痙攣の波。ううううう。その様子をN村さんのお嬢さんが驚いて見つめる。S吉郎さんが戻って来た。3時間は切れなかったとのこと。練習も昔のようにはこなせず、3時間15分がやっとの状態なのだとか。ほかの3人も3時間台でのゴールだった。 痙攣が少し落ち着いたのを見て、N村さんのお母さん手作りの「ぜんざい」をいただく。沖縄のぜんざいは小豆でなくウズラ豆を使う。それに暖かくなく、逆に氷が入った冷たいものだ。胃の調子が戻ってからはサラダ、おにぎり、缶ビール、ミカンなどを次々にご馳走になる。その間も時々襲う痙攣に苦しむ。 N村さんの息子が帰って来た。関西の大学を今年卒業して沖縄に就職し、今回が初マラソンだった由。さほど練習もせずに5時間を切ったのは見事と言うしかない。着ているトレーナーから判断すると運動部だったようだ。沖縄の走友ももう息子や娘が走る年齢になったのだ。T利さんもその後ゴール。 5時間を過ぎて帰って来たのがN銘さん。2月の「おきなわマラソン」では彼に遅れを取った。今回はコース上で「バニーガール」嬢と何やら話していたが、あの後何度か痙攣が起き、途中から歩いたそうだ。この暑さは沖縄のランナーにとっても楽ではなかったようだ。 6時間近くなってようやく戻って来たS田さんの顔が青ざめている。かなり消耗したみたいだ。今回連続23回連続完走がかかっていたHさんは、制限の20分ほど前でのゴールだった由。同じく連続完走のT場さんの姿が現れないのが気がかりだ。一息ついた頃、全員で乾杯する。職員走ろう会幹事のY彦さんが、最近は会員がなかなか集まらなくなったとぼやく。仲間で沖縄本島縦断駅伝を企画したあの頃の勢いとは大違い。難しい時代になったようだ。 3時15分、花火が上がり競技場への扉が閉められる。グラウンド内では大集団がゴール目指してうごめく。手を振りながら走る仮装ランナー。歓喜の完走までもう一息だ。そろそろ水を被って濡れたパンツも乾いて来た頃。私はようやくトレパンを穿いた。 走友と再会を誓って握手し、奥武山グラウンドに別れを告げる。痛む足を庇いつつホテルへ帰る途中、私はデパートへ寄った。その4階にある那覇市立博物館を観るためだ。ここは1年ほど前に出来たばかりとか。料金は400円。入り口近くの特別室に尚家寄贈の国宝が20点ほど展示されていた。尚家は琉球王朝時代の王で、明治期の琉球処分時に民衆の動乱を恐れた政府が沖縄から王家を東京へ「拉致」した経緯がある。 もし尚家があのまま沖縄にいたら、沖縄戦の戦火で貴重な資料は灰燼に帰したであろう。強制的に東京に移住させられた「お陰」で、琉球王朝時代の品々が今日まで伝えられたのは皮肉な話だが、大量の資料が世話になった台東区でなく沖縄に寄贈されたことも沖縄県民にとって良かったのではないか。それにしても1千点以上もの国宝を持つ尚家は凄い存在だったのだと、再認識させられた私だった。<続く>
2007.12.07
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<私設エードにて> 沖縄戦犠牲者の慰霊塔がある摩文仁平和祈念公園に別れて再び国道へ戻る。ここからしばらくの間は緩い下り坂。よ~し、後半は少しペースを上げてみるか。昂ぶる気持ちに反して足は全く伸びない。変だなあ。こんなはずではないのだが。でも辛抱辛抱。自分にそう言い聞かせて耐える。 25km地点にある「ひめゆりの塔」の手前には、長年の走友だったT事務長が私設エードを開いてくれているはず。でも一度もまだそのエードを見つけたことがないのだ。コースの左側に注意しながら慎重に走る。NAHAマラソンの良い所は色々あるが、距離表示が1km毎なのがランナーには何より嬉しい。 24kmを少し過ぎた所で、誰か女の人が私の名前を呼んだ。振り返るとFさんだった。彼女も走友の1人だがもう7、8年は会ってないはず。傍らにはT事務長と若い女性もいた。挨拶もそこそこに2人と固い握手を交わす。そしてFさんが手渡してくれた冷たいサプリメントを一気に飲み干す。若い女性はFさんのお嬢さんとのこと。その彼女が写真を撮ってくれた。 本当は落ち着いてペットボトルにアスリートソルトやヴァームの粉末を補充すべきだったのだろう。だが、気持ちが急いて早々にその場を離れた。多くのランナーは「お祭り」のNAHAを楽しむのだろうが、私の場合レースは戦いでもある。ましてこの暑いNAHAを走り切るためには、これまで9回走った経験から相当強い気持ちが必要だと分かっている。 2人に会えて良かった。それだけでもNAHAを走った甲斐があったと言うものだ。少し元気を取り戻した私を、「徳島大学」のユニフォーム姿の女性ランナー2人が追い抜いて行く。その背中を懸命に追いかける。話を聞くと職員ではなく、公開講座の受講生とのこと。講座の目的は理論と実践に基づき、ホノルルマラソンを完走することらしい。 筑波大学でそんな授業があるとは聞いたがそれは学生が対象。一般市民を対象とした公開講座でそんなことをしているのは初耳だった。私も20年ほど前に徳島の鳴門で仕事をしていたことを話したが、スピードのある彼女たちにとっては単なる「お邪魔虫」だったようだ。 「待てよ」。折角沖縄まで来ておきながら膝の故障で仲間の応援に廻った4年前。30km地点に立っていた時も鳴門時代の同僚だった徳島のMさんがあのユニフォーム姿で通り過ぎたっけ。当時はメタボリックシンドロームなんて言葉は無かったが、確か医者の勧めで走り出したと言っていた。今になって思えば、きっと彼も公開講座を受けていたのだろう。 28km地点の名城(なしろ)ビーチ入り口前から、左手前方一帯にエメラルドグリーンの海が見えた。これだけきれいに見えたのは初めてだと思う。30km地点は糸満市の中心部。大勢の人が沿道で声を張り上げている。31km地点の糸満ロータリーも懐かしい。まもなく右手に白銀堂の建物が見えた。春のハーレー(ドラゴンボートの競争)では、神女がこの山の上から旗を振ってスタートの合図をするとか聞いた。 ここから数キロは魔の直線コース。苦しさのあまり歩き出すランナーが増え出す。私もどれだけ頭から水を被り、塩を舐め、水を飲み、差し出されるミカンを食べたことか。もう沿道の観衆に手を振る余裕はない。そしてレースに集中するためサングラスを掛ける。33.4km地点の関門を通過。一生懸命手に持って暖かくなったバナナを子供から受け取り、エネルギー源にする。 35km地点翁長(おなが)バス停の先から左折。那覇空港方面に向かうこの広い道路が緩いけど長い最後の登り坂。疲労困憊したランナーにはもっともつらい場所だろう。だが人家が密集するようになった今は、どこででも水や食べ物が得られる。少し前までこの辺は家並みが淋しく、応援の人が少なかったところだった。 モノレールの赤嶺駅を過ぎると距離表示がゴールまでの残りの距離に変わり、やがて競技場までの緩く長い下りが始まる。ようやく奥武山公園の森陰が見えて来た。頑張れ~、後一息だ~っ!!<続く>
2007.12.06
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<こんな暑いのに仮装?> レース当日、4時過ぎには目が覚める。暇に任せて両膝はもちろんのこと、最近痛みが出ていた右足の親指や左足の底にも丹念にテーピングを施す。早目にフロントに行って新聞を読み、レストランへ。朝食は野菜やたんぱく質などを含めてしっかり食べた。競技場まで少し遠いので7時半にはホテルを出る。国際通りではアップのため走っているランナーもいる。この通りが1時間半後には大勢のランナーで埋め尽くされるのだ。 公園の入り口で宮城UMCのM黒さんを発見。誰か友達と話し合ってるみたい。お互いに挨拶をして別れる。競技場内のいつもの場所に行くと、1人2人昔の走友がいて声を掛けてくれた。誰にも連絡して来なかったが1年ぶりの再会だ。徐々に仲間が集まって来るが、往年は30人も居た仲間がたったの10人ほど。高齢化して健康に自信がなくなり、走るのを止めてしまった人が多いようだ。その代わり若い学生の数が増えていた。 連続22回完走で「青ゼッケン」のHさん、Tさんも遅ればせながら登場し握手を交わす。彼らも今回で連続が止まらないかプレッシャーがあるみたいだ。8時半。ナンバーが近いHさんと連れ立ってスタート地点へ移動を開始。橋を渡って壷川へ出、そこから国道58号線へ回る。いつもながらのランナーの波。もの凄い群集の一部になる。 カウントダウンが始まり9時ちょうどにスタートしても、ランナーが進まない。結局スタートラインまで3分30秒ほどかかった。原因はスターターを勤めた女優の比嘉愛未(まなみ)さんを携帯で写そうとして大勢の人が立ち止まったせいだった。「どんと晴れ」では清純な日本女性のイメージだったのが、目の前の本人は明るくて現代的なウチナンチュだった。 Hさんに合図して前に出る。国際通りの泊まっているホテルの前では従業員の人が手を振っていた。ひめゆり通りに抜けると、バニーガールの服装をした女性ランナーが颯爽と追い抜いて行った。歩道の人が一様に「可愛い」と叫んでいる。本当は並走したいところだが、とても付いて行けるスピードではない。 5km過ぎで「南洋の土人」を追い抜く。裸で「腰みの」をつけ、手には槍を持ったこの人はハワイのマウイ島から来た日系人とのこと。爬龍橋の上で宮城UMC仲間のT田さんと遭遇。今回も走りながらたくさんの写真を撮りたいみたい。バイパスの緩い登り道辺りで、早くも汗が噴出す。何分暑い。天候は晴れで最高気温は23度以上になるみたいだ。これでは東北だと初夏の陽気。おまけに風が全く吹かない。ふう~っ。 8km過ぎでエイサー(沖縄の勇壮な盆踊り)に見とれていると、金髪アフロのランナーが目の前を走って行った。慌てて後を追う。近づいて声を掛けると、はたしてネットの走友のぼくし~さんだった。本当は「森のプーさん」の衣装にするはずだったのだが、この暑さで急遽変更したみたい。それでも彼のTシャツは汗でグショグショに濡れている。お互いに健闘を称えて別れる。 10km手前の連続する2箇所の坂道には参った。もう10回もここを走っているが、何度走ってもきつい登りだ。苦しい中でも楽に呼吸が出来るようフォームに気をつける。東風平(こちんだ)三叉路を過ぎるとコースの両側には白い穂がなびくサトウキビ畑が見え出す。懐かしいこの風景は沖縄そのものだ。健康でまたここを走れるのがとても嬉しい。背広を着て走っている名物ランナーを抜いたのもこの辺りだった。 具志頭(ぐしちゃん)三叉路を右折した辺りでエーサーを撮るT田さん発見。そこへ強引に割り込んでピースサインでカメラに納まった。T田さんゴメ~ン!そこから緩い坂道が3kmほど続くのだが、その取っ付きで歩いているH城さん発見。かつての職場の仲間で私より1歳年上だが、往年のスピードは失ったようだ。「来月は宮古島ワイドーに出るよ」と声を掛けて先行。 坂道の途中で三度T田さんと遭遇。今度は屋敷の色鮮やかな花を撮っている。「それはブーゲンビレアだよ」と声を掛けて先行。彼の姿を見たのはそれが最後だったが、ゴールしたタイムは4分ほど私が遅かったようだ。あれだけ楽しんで写真を撮りながら走る彼に敵わないのだから恐れ入る。おまけに彼はこの暑いNAHAが初めてのはずなのに。 19km地点。坂道はほぼ終わり、そこから摩文仁(まぶに)公園へと左折する。去年はここで応援してくれたかつての仲間Sさんの姿が見えなかったのが残念。最後の坂を登り切ると、あとは下り。公園入り口の中間地点で時計を見ると2時間17分ちょっとだった。名物のシャワーを浴びながら走り抜ける。前半は相当数のランナーに抜かれたが、後半に期待してみよう。<続く>
2007.12.05
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<この香りは何?> 那覇空港ビルから外へ出ると、何かが匂って来た。植物の匂いなのは間違いないが何なのかは分からない。オーストラリアのキャンベラで早朝走った時も強い香りが漂って来たことがあった。あれは公園などにたくさん生えていたユーカリの匂いだと後で聞いて分かったが、あの匂いよりは薄い。 モノレールに乗って先ずは奥武山グラウンドへ向かう。買ったのは600円の1日乗車券。これだと用事がある時は何回も乗れてお得。仙台発那覇行きの飛行機の中で会った仙台明走会の10人ものメンバーは、預けた荷物を受け取っているのだろうか。私は機内に持ち込んだためそのまま空港を出られた。さすがに暑くて着ていたウインドブレーカーを脱ぐ。 壷川駅で降り、国場川に架かる橋を渡って奥武山体育館まで歩く。奥武山公園内に入ると、やはりあの匂いが漂って来た。これはムーチー(餅)を包むサンニン(月桃)の葉の香りに近い。でもいくら見回してもどこにも月桃は生えていない。体育館で受付をし、ゼッケンとTシャツをもらう。珍しく今回は知ってる走友の誰とも会わなかった。 壷川駅から再びモノレールに乗り県庁前で下車し、国際通りへ出てホテルへ直行する。ホテルではチェックイン後、翌朝の朝食時間を確認。何せ明日は厳しい暑さの中を42km以上を走るのだ。朝食を食べずに走れる訳は無い。部屋に行くと料金が料金だけに造りが安っぽい。それにやけに室内が暑く感じる。急いでエアコンのスイッチを入れる。 着替えをして早速外出。行き先は先月出来たばかりの県立美術館。ここは博物館も一緒みたい。土曜日は夜8時まで開館してることをHPで確認していた。3回目のモノレールは「おもろ町」で下車。ここはかつて天久(あめく)と呼ばれ、米軍の宿舎があった地区だった。それを返還してもらい新都心として再開発したのだ。モノレールから降りるとまたしてもあの香りが漂って来た。 迷いながら美術館・博物館を捜す。瀟洒な建物はショッピングモールの陰に隠れていた。受付で美術館と博物館の常設展示および特別展示をすべて観たいと言うと、「3時間はかかりますよ」と驚いたような声。料金は2200円以上も取られたが、これも覚悟の上。入り口に近い美術館へまず入館する。ところが案内のお嬢さんもどこか間が抜けているし、サイン計画が悪いのか順路が良く分からない。 2日後に訪ねた元の職場で聞いたら、サービス関係は民間団体に丸投げしているのだとか。道理でモタモタしていたはずだ。入り口近辺には戦後間もない頃の沖縄の写真が数百枚も展示してある。そのどれもが貴重なのだろうが、普通サイズの写真を1枚1枚観て行くには時間が掛かり過ぎる。近代絵画はまずまずの出来の印象だった。 圧巻は博物館の展示。元の県立博物館の倍以上の量と内容で、初めて観た琉球王朝時代の屏風絵は見事だった。また特別展の「人類の旅 ~港川人の来た道~」の内容もまあまあ。暇そうな学芸員と沖縄の考古学について意見を交換出来たのも収穫だった。 帰路、国際通りの居酒屋に入る。ソーメンチャンプルー、ゴーヤチャンプルー、テビチ(豚足)の煮物、ご飯、生ビール2杯で合計2千円以内。店内に居た時間が45分以内のため、生ビール1杯が100円で済んだのが安さの原因。だが土産に買おうとしたタンカン(沖縄の柑橘類)がどの店でも売ってなかったのはどうしてだろう。 書店で谷川健一著「甦る海上の道・日本と琉球」を購入してホテルへ戻る。その夜は暑さのせいか、旅の緊張のせいか、はたまたレース前日のためか5時間ほどしか眠れず、夜中も何度か目が覚めたのだった。こうして那覇の第一日目は終わった。<続く>
2007.12.04
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暑かった南の島から無事(?)帰宅しました。東北とは気候がぜんぜん違うし、旅先で興奮しているためになかなか眠れませんでしたが、きっと今夜からはグッスリ眠れるでしょう。(笑)完走記は明日から書きますね。お楽しみに~♪
2007.12.03
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NAHAマラソンは9時のスタートでした。スタートの合図の鐘をついてくれたのは沖縄出身の女優でNHKの連続ドラマ「どんと晴れ」のヒロインだった比嘉愛未(ひがまなみ)さんでした。 レースへの登録者は2万7千人で実際に走ったランナーは過去最高の2万4千人だったとか。また当日の最高気温は23.4度Cになったようです。冬の仙台から訪れるとNAHAはまるで夏のような暑さで、もう6km過ぎから水を被るほどでした。 暑さと登り坂に苦しみ30km辺りまではどんどん抜かれたものの、30km過ぎからはベテランの強みで抜き返し、何とか4時間39分07秒(ネット4時間36分16秒)でのゴールでした。順位は3391位。ゼッケンナンバーが3413番ですからほぼ申告どおりの成績と言えるでしょうか。ゴール後は連続して襲う痙攣に苦しみました。 これでNAHAは9回目の完走。また、今年は月1回フルマラソン以上のレースを完走するという目標を果たすことが出来ました。
2007.12.02
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10時50分仙台発の飛行機に乗ってこれから沖縄に向かいます。明日は青空の下NAHAマラソンを走ります。帰って来たら完走記を書きますね。お楽しみに~!
2007.12.01
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昨日、8月に走った「立山登山マラニック」の完走証とゴールの写真が、事務局からの丁寧な手紙と一緒に届いた。完走証には称名滝へ向かう途中の山道を歩く私の姿も写っている。そしてゴールの雄山山頂での写真は順番待ちで時間を調整して撮ったものだが、表情がやけに明るい。きっと苦労してたどり着いた雄山神社のゴールは、私にとっても凄く嬉しかったからだと思う。 さて、今日は11月30日。今日で11月は終わり、いよいよ明日から今年最後の月である12月に入る。月並みな表現だが月日の経つのは速い物だと思う。11月のランは「飯坂ふくしまマラソン」の42km以外はすべて距離8kmの帰宅ラン14回だった。その合計が154km。一方ウォークは194kmあり、これには自転車の走行距離の40%分も含まれている。 明日12月1日(土)はNAHAマラソンへ出発する日だ。昨日あたりから準備を始めたのだが、ホテルの宿泊券が見当たらない。慌てて古新聞を入れる紙袋の中を探したら、果たしてそこに入っていた。ツーリストから届いた資料の中には、沖縄で受けられる各種のサービス券が付いていた。走るだけで観光をしない私には不要だと思って捨てたのだが、その際宿泊券も一緒に捨ててしまったようだ。 券も「紙類」なのでリサイクルできると考え、古新聞と一緒にしたのだろう。9月の「佐渡島一周」の時も、雨で濡れてビショビショになった長距離バスのチケットを、「お土産の割引券」と一緒に何気なく捨ててしまったが、今回も同じ行動パターンを取ってしまったようだ。危ない、危ない。 さて、しばらく前から那覇の天気を注意して見ていた。レース当日の天気は晴れ時々曇りで、最高は23度、最低が18度ほどになるようだ。仙台と比べると最低で15度、最高で12、3度ほども違う。きっと体が慣れるまで時間がかかり、レースでも苦しむだろう。サングラスの着用はもとより、携帯用の塩やアスリートソルト、テーピング用のテープなども怠り無くバッグに入れた。服装はランパン、ランシャツで十分。それに帽子は不可欠。 今日はツーリストに電話して、ホテルの食事の有無と復路のチェックカウンターを確認した。食事は無しでの申し込みだと分かったが、レース当日の朝食時間を確認後でも頼むことは出来るだろう。帰りのチェックカウンターはツーリストの資料が間違っていた。那覇空港の場合今は同じ建物内だが、以前はJALとANAとでは出発する建物が違っていた時代があったのだ。 仙台空港まではバスと空港アクセス鉄道で行こうと思う。そして帰りの3日(月)の仙台着は18時30分なので、タクシーを予約した。空港から自宅まで1800円で乗せてくれるこの専用タクシーだと、重い荷物がある場合はとても助かって便利なのだ。 準備は整った。後は明日空港まで体を運ぶだけ。正直アンヨにも違和感のある部分があるのだが、制限時間は6時間ちょっとなので十分完走は出来るだろう。暖かい沖縄の風に体を早く順応させ、楽しく走って来たいものだ。まだ沖縄の走友には何も連絡してはいないが、奥武山グラウンドの一角に行けば、懐かしい顔ぶれがいつもの通り暖かく迎えてくれるはずだ。さあ、明日は1年ぶりに那覇の空気を胸いっぱい吸うぞ~っ!
2007.11.30
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昨日悪いやつが捕まったと言うニュースが流れた。まずこの数ヶ月、マスコミを賑わしていた守屋前防衛事務次官とその夫人。10年以上も前から特定の業者と癒着し、夫婦そろってゴルフなどの接待を受けていたと言う。その回数が300回とも言われているようで半端じゃない。普通の公務員なら1回付き合っただけでも直ちに処分を受けるだろう。 悪の道にはまったのは課長に昇進して個室をもらい、周囲の空気が読めなくなったことが始まりと言う。また母ちゃんも母ちゃんだ。土産をねだったり、部下の夫人を伴ってただで飲み食いし、代金は業者のツケにしたと言うから開いた口が塞がらない。私達庶民にはとても考えられないが、偉くなると善悪の区別がつかなくなるのだろうか。 彼ら夫婦が揃って宮城県出身だと言うからさらに嫌気が差す。本人は高校も大学も一流校の卒業で代議士の子息のようだし、夫人は老舗の造り酒屋のお嬢さんとのこと。耐震偽造で名を馳せた姉歯と共に宮城県の名を辱めてしまった。彼は詳細な日記をつけていたと言うから、今後ひょとしたら政界にまで影響が及ぶかも知れない。兎も角この際徹底的に膿を出し切って欲しい。 もう一つは香川で起きたお祖母さんと2人の孫が殺された事件。大方の予想を裏切って(?)、義理の弟が逮捕された。「噂の2チャンネル」でもそうした噂が飛び交っていたとか。某アイドルもまだ犯人の逮捕前なのに自分のブログにそんな感想を書き、所属事務所の判断で急遽文章を消去したとか。人間「顔」だけで即断してはいけない。こちらの事件も犯罪評論家が急増した感があった。 謹慎中の横綱朝青龍も確かモンゴルから帰国したようだ。明日は相撲ファンに対する謝罪会見があり、一方で横綱審議会に対しても謝罪がある模様。内舘牧子委員などは引退すべしと強く主張しているようだし、きっとこのニュースも日本中を賑わすのだろう。 そんな騒ぎを他所に、昨日私は博物館の「ハシゴ」をした。まず斉藤報恩博物館では「浮世絵名品展」を観た。これは現在平木浮世絵美術館所蔵だが、65年前までは斉藤報恩会で所蔵していたもので、松方コレクションなどと並ぶ素晴らしいコレクションなのだとか。 奥村某、勝川某、菊川某、北尾某、窪某、礒田某などと言うこれまで聞いたことも無いような絵師が描いた浮世絵は、確かに高いレベルのものだと感じた。それらの絵がヨーロッパにまで伝わり、印象派の画家などに影響して行ったのだから不思議なものだ。 2つ目は仙台市博物館で開催中の「東北大学の至宝」の再訪。前回観損じた河口慧海(かわぐち・えかい)と多田等観(ただ・とうかん)がチベットから持ち帰った経典、仏画、仏具などを観ることだった。インド、ネパール、チベットなど4千キロ以上も仏教関係施設を訪ね回った慧海。時の第13世ダライラマの寵愛を受け、別れに際し「チベット大蔵経」最善本のデルゲ版を餞に戴いた等観。見事な招来物は彼らの壮絶な苦労の旅を物語っていた。 私には業者からのゴルフ接待も現金の供与もお土産も来ない。だが千数百円の身銭を切って、自分の好きなものを自由に観る楽しさがある。これこそが平穏な日々だと、しみじみ有難さを感じるのである。
2007.11.29
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さてと、気合を入れて今日も続きを書きますか。(笑)<名古屋シティマラソン> 佐渡で一緒だった新潟のA子さん(銀のねこさん)。単身赴任中のご主人と名古屋で待ち合わせしてレースに参加されたとか。何せ雪の新潟から長野、岐阜経由ですから大変ですね。ご主人は10分前スタートの名古屋ハーフに出場。その姿を見送ってから今度は自分のスタート。1時間49分台で見事完走され、かつ無事に帰宅された由。メデタシメデタシ♪ 遠路遥々とお疲れ様でした~!!<屋久島エコ・ジャーニーラン> 「萩往還」250kmなど超長距離のウルトラに果敢に挑戦している大阪のむいむいさん。少し前の「ハセツネカップ」で足を傷めながらも初挑戦で完走されたのは見事でした。その傷が十分癒えないうちに、今度は距離80kmでアップダウンもある屋久島を8時間台で完走されたとか。まだ20代の女性が次々にウルトラレースを走破して行くのは壮観ですね。これからも頑張れ~。むいむいさ~ん。NAHAでは会えるかな?<小豆島タートルマラソン> 私の上司でもあった香川のウルトラランナーTANさん。昨年は残念ながらリタイヤされるレースが続きましたが、今年は出場したレースのほとんどを完走する好調ぶりです。「小豆島タートル」はアップダウンが厳しい往復コースですが、何とここで7年ぶりにサブ4を達成したとか。きっと日ごろからコツコツ練習を重ねている成果が出たのでしょうね。来年の宮古島でお会いできると良いのですが。<大山登山> この夏確か大腸がんの摘出手術を受けた神奈川のおばさんランナーさん。幸い症状は軽く、無事手術も成功されたようで幸いでした。目下積極的に歩かれているようです。HPを拝見したら、先だっては神奈川県内の大山(1252m)に登山されたとか。おばさんランナーさん、元気になって良かったですね。宮古島では私が1日後に走りますが、お会いできると良いですね。 この春箱根の山を走っている時に転倒して手を骨折された東京のちっちさん。おばさんランナーさんとは1日違いで大山に登られたようです。奥多摩の山を走ったり、関西方面に旧街道を歩きに行かれたりと日々元気で過ごされているようで何よりです。来年の3月はお台場の「24時間チャリティーラン」に行く予定ですが、そこでお会い出来るかな?<リハビリラン&ウォーク> 亡くなられたお母さんの介護日記を公開されている勇気ある神奈川の星峰さん。9月の「甲州夢街道」は痛む膝に注射してもらっての挑戦だったとか。その後も腰の調子が良くないようで治療中のようです。幸い効果があって、今はリハビリを兼ねたランやウォークをされているとのこと。その闘志には脱帽ですが、無理は禁物ですよ~。私も疲労骨折や膝の故障で5年ほど満足に走れないことがあったので、故障中の皆さんのご苦労は良く分かるつもりです。☆先日の宮城UMCの反省会の時に聞いた話ですが、ボランティアに応募すると翌年の「東京マラソン」に申し込んだ時に選考されるみたいですね。でも、仙台から旅費と宿泊費を出してまでボランティアをするのはどうもねえ・・。☆「ランナーズ」の1月号には結構ためになる記事が多かったように感じました。私にはもう技術的な解説は縁はありませんが、○土佐礼子とコーチをされているご主人の話、○オリンピック男女マラソンの20年間の話、○瀬古監督と増田明美さんの対談、○日本山岳耐久レース(ハセツネカップ)の話 などがそうです。 そんな様々な情報を刺激にして、また明日も走る積りです。ネットの走友の皆さん、本当にありがとうございま~す。寒さに負けず、お互いに頑張りましょうね~♪
2007.11.28
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もうすぐ11月も終わり、今年も残り少なくなりました。今日は私がほとんど毎日のように拝見しているHPなどを通じて、ネットの走友達の近況を書かせてもらおうと思います。若くて速い人も居れば、私と同じ歳や年上のランナーも居られますが、皆それぞれに頑張っているようですよ。そんな仲間達の日記や掲示板への書き込みを、自らの励みにしている私です。<走り込み月間> 長野の「走るナース」さんは現役の看護士さん。厳しい勤務だと思うのですが、とっても暖かで夢のある日記を書かれています。その彼女が10月は1000km以上走ったとか。私の最高はまだ40台だった頃の300kmちょっとですから、孫がいる女性としては大変な距離ですね。その後も「米担ぎマラソン」とか、地元のレースに出て居られる様子です。<東京国際女子マラソン> 今年の「サロマ」では10時間台で走った名古屋のおさるちゃん。ウルトラマラソンは退屈だと書いていましたが、東京国際女子マラソンでは3時間15分を少しだけオーバーして、大分落ち込んでいるようです。私から見れば立派な記録でも、きっと速い人には悔しかったんだろうね。でも野口みずきなど一流選手の走りを見られたことは良かったみたい。<雪道ラン> 佐渡で一緒だった秋田のF原(JUN)さん。膝など体のあちこちが不調のようですが、シバレル雪道を30kmとか44kmとか走っているようです。それも給水なしでのランだと言うので2度ビックリ。天気の悪い日はスポーツクラブで鍛えているようだけど、あまり無理しないでね~!!<大田原マラソン> レースではいつも写真を撮りながら走っている宮城UMC仲間のT田さん。制限が4時間の大田原Mでは珍しく写真を撮らずにマジで走ると宣言していたのですが、コース2周目の最終関門直前で旗を振られてアウトだったようです。う~む残念。そこさえ抜ければ、タイムは4時間過ぎてもゴールまで走れたんですけどねえ。でもこれが今年17回目のレースってのが凄いですね。今度の日曜日のNAHAでは会えると良いねえ!<つくばマラソン> 4時間を切りたいと書いていた千葉のぼくし~どん。残念ながら物凄いランナーの数と初めの頃の狭いコースで思い切り走れず、4時間をオーバーした模様です。でも来年4月末にある「ネーチャーラン」145kmの部に見事選考されたみたい。コースは岐阜県の白鳥から彼の実家がある金沢までのよう。「さくら道」が途中リタイヤだっただけに、何とか雪辱を果たしてね~!! 今年は30度Cを越えた「北海道マラソン」でリタイヤ。同じく30度Cを越えたシカゴマラソンでは自己ワースト記録ながら完走し、雪辱された千葉の亀仙人さん。直前に腰を傷めて出場が危ぶまれたのですが、25km辺りからスピードが落ちたものの4時間25分ほどで無事完走されたとか。私と同学年の亀仙人さんとは、今年の「佐倉M」や「長野M」で一緒だったみたいですが、まだ一度もお目にかかってないんです。何とか是非お会いしたいものですね。 韓国に2年以上赴任していた東京のPちゃん。週末には土日と連続40km走る強者なんですが、今回のレース直前2週間の外国出張で暴飲暴食したことが原因で通風の症状が出、残念ながらドタキャンされたようです。国際舞台で活躍する営業マンは辛いですねえ。
2007.11.27
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いや~、参りましたなあ。何がって、つい先日妙齢のご婦人から結婚して欲しいってお願いされましてね。それが実に優しそうな人で、私好みなんですよねえ。ところが残念なことにお願いされたのは私じゃなくて、うちの3男坊なんですよ。うちに男の子が3人もいたかですって?それがいるんです。 歳はまだ9歳ちょっとなんですが、もうアゴヒゲが白くなって来てるんです。おまけに毛むくじゃらで全身が真っ黒なんですよ。名前もマックスと言って、日本人離れしてるんですがね。えっ、もしかしたら犬じゃないかって?そうそう、ご名答。結婚してくれと言われたのは我が家の愛犬でしてね。 それでお相手はですって?同じラブラドルでもチョコレート色の毛とブルーの瞳を持った、まだ1歳数ヶ月のココちゃんなんですよ。ココにはトムと言う許婚がいたんですが、このトム君ご主人同様にちょっと太目(失礼!)でね。それに力が強過ぎて、ココちゃんが嫌がるようなんですよ。 じゃあ何故我が家のマックスにお鉢が回って来たかですって?う~ん。まあ相性がトムよりは良いってことかな。まだ春先のこと、ココが嫌がらずに自分の匂いを嗅がせたのはマックスだけだったみたいです。それが人間の歳だと22歳くらいの彼女はマックスよりも体も大きくなり、かつ強くなった感じなんですよねえ。だから彼女の姿を見ると逃げ腰になる情けない最近のマックス君なんです。 今朝も50mほど先にいるココの姿を見つけて、ビビッていたんです。角を曲がって姿が見えなくなって安心した様子だったのが、何とココが待っていたんです。ご主人の話では、やはりマックスのことを遠くから気づいたようで、家に帰らず道路で動かなくなったとのこと。う~ん、若い娘のココが、人間で言えば50歳を過ぎた我が家のマックス君に関心があるとは、どうしたもんでしょうねえ。 マックスがまだ幼犬のころ、私は仙台の自宅から山形へ通勤していたこともあって忙しく、彼はほとんど犬社会に慣れていないんですよ。やはり子犬の頃から仲間と接してやらないと、性格が人見知りならぬ犬見知りするようになるんでしょうかねえ。 さて、降って沸いた今回の結婚話ですが、来年春ココが発情する頃、果たして我が家の3男坊がプロポーズを受ける度胸があるかどうか。先方は子犬を産ませたいのでしょうが、親としてはどうも心配だなあ。って、本当のところは未だに独身の長男や次男の方が心配なんですけどね。さて、我が家の3人の息子共の運命は、一体どうなるんだろうか?う~む。
2007.11.26
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今日も朝から暖かく、とても冬とは思えない日だった。朝食を済ませた後、しばらく出来なかった庭仕事をする。まずは庭と畑の草取り。夏ほど雑草は生えてないが、それなりに冬の雑草がはびこっている。次に、このところの寒さで枯れた植木鉢の花を抜く。生き残った花を寄せ集めて一つの鉢にまとめてみたが、どうも色合いが変な具合だ。 次に自転車屋へ行く用意をする。荷物を積める自転車がパンクしてる感じなのだ。パンクの原因は秋口に敷石、芝生の束、砂利など重たいものばかり運んだせいだ。空気入れでタイヤに空気を入れれば、何とか自転車屋までは持つはず。ついでにマウンテンバイクにも空気を入れたら、タイヤの空気が一気に抜けてしまった。んんん?これはどうした訳だろう。 自転車屋の話ではゴム管が傷んでいたので交換したがパンクではないだろうとのこと。安心して本屋に寄って「ランナーズ」を購入。1月号には「ランニング日記」が付録として付いているが、これが目当てみたいなもの。次にスーパーに寄って新米10kgを購入。午前中だと5%引きだからと念を押されていた買い物だった。 ところが帰宅途中にタイヤから空気が漏れ出す。仕方なく坂道を押して帰る。厭になっちゃうねえ、忙しいのに。昼食を済ませてから再び自転車屋へ。今度は完全にパンクだと分かる。修理費は800円だったが、貯まっていたポイントが使えた。帰りに園芸店を覗くが、花の種類も少なく、値段も高いのでパス。 帰宅後空気の抜けたマウンテンバイクを押し、自転車屋へ3度目の修理に向かう。ギア付きのマウンテンバイクは通勤や買い物の際の足代わりだし、荷台付きの自転車は重たい荷物を運ぶのに不可欠。車のない我が家にとっては重要な交通手段なのだ。自転車を押して歩いていると本物の足の痛みも気にかかる。 弱点である右膝靭帯の痛み、つい最近痛み出した右足の親指の調子、全く問題が無かった左足が歩いているうちに痛み出したのは何故だろう。それに腰の調子も良くない。考えて見れば自分も歳だ。自転車同様どこかの部品が傷むのも当然かも知れない。この3連休で一度も走れなかったけど、まあ仕方がないか。 結局マウンテンバイクから空気が抜けたのはゴム管が抜けたからのようだった。料金は無料。ついでにギアも調節してもらった。往復6kmの距離のある自転車屋に3回も出かけたのはそこがマウンテンバイクを買った店だし、日曜日はそこしか開いてないからでもある。兎も角2台の自転車が乗れるようになって一安心。 帰宅後干した布団を取り込んだ後、荷台付きの自転車で別の園芸店に行く。買ったのはヴィオラと葉牡丹。午前中に植えたばかりの鉢の花を全て抜き、組み合わせを変える。やれやれ、これでようやく見栄えがするようになった。気になっていた最低のことしか出来なかったが、気分転換にはなったと思う。さて、NAHAマラソンまであと一週間。今年最後のレースを何とか楽しんで走りたいものだ。
2007.11.25
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昨日は勤労感謝の日。前夜宮城UMCの集まりがあって深酒をしたせいか、朝から体調が今一だった。それに最低気温が零下で道路には氷が張っているところもある。仙台は気温も上がらず最高は6度Cほどとか。いつもと違ってブルブル震えている愛犬を、毛布を敷いた玄関に入れたらようやく震えが止まった。寒さに強かった彼だが、少し歳を取って来たのだろうか。 妻はこんな休日も仕事がある。いつもは自転車で行くのだが、凍結した道路で転倒する可能性があるので無理せずバスで行ったようだ。私もパンクした自転車を修理したり、植木鉢の花を植え替えたりする仕事があるのだが一切無理しないことにした。ゆっくり新聞を読み10時のおやつをいただき、昼食の後にテレビで「国際千葉駅伝」を観戦。 2区の福士加代子は自ら志願しての出場だったようだが、中国の合宿から帰って間もないのに疲れも見せずに優勝候補のケニアとの差を3秒までに詰める快走。4区の絹川愛は仙台育英の高校生だが、このところ日本選手権などでも大活躍している。この日も2人を抜き、区間新記録で2位に上がった。最終6区の赤羽有紀子はホクレン所属のママさん選手。今年の世界選手権で優勝したヌデレバをあっさり抜いて優勝をもたらした。こんな強いママさん選手が日本にもいたんだねえ!?やはり日本は女子選手が強~い! 夜はテレビで「佐賀のガバいばあちゃん」を観る。原作ではもっと悲惨なのだろうが、テレビだとそれほど貧乏にも感じられない。だって佐賀に行くのに新しい革靴やシャツを着ているんだもの。私が子供だった戦後間もなくの頃はあんなもんじゃない。着る物は「継ぎはぎ」だらけで、袖は「あおっぱな」を拭くためにピカピカだったし、食べるものがないため栄養不足で皆ガリガリだった。冬でも足袋に下駄で手足はひび、あかぎれ、しもやけで真っ赤だったものねえ。 今日は一転しての好天気。妻と山越えで歩き仙台市博物館へ。特別展「東北大学の至宝」を観るためだが、招待券を送ってくれた後輩が受付に座っていた。3連休とも出勤で、「江戸東京博物館」での展示の際も出張していたとか。今年創立100年を迎えた東北大学の所蔵品はさすがに凄かった。 まず国宝が2点。まず中国の王朝史である「史記」は延久5年(1073年)の写本で文章博士大江家に伝わるもの。また我が国の六国史を再編集した「類じゅう(驟の馬がない字)国史」第25巻は平安末期の最古の写本の一つのものとのこと。宮城県石巻市にある沼津貝塚から出土した縄文時代の骨角製装身具は、見事な彫刻を施されたもので重要文化財指定品。これほど精緻なものは極めて稀だと思う。 ここまで書いて、明治期河口慧海がチベット僧に扮装して入国し、我が国にもたらしたチベット仏教(ラマ教)関係の展示を見て来なかったことに気づいた。仏像、大蔵経、仏画などどれも貴重な資料のはずだし、同じ明治期に行った大谷光しょう(糸偏に召)探検隊の収集物と遜色がないはずだ。何とかもう一度見に行きたいと思う。 私は11の大学と博物館に勤務したが、同じ国立でもその歴史、規模、予算、施設、研究成果と社会的評価など、あまりの違いに驚く。東北大学は「研究第一主義」を標榜するだけあって、その所蔵資料も世界に誇るものだった。 これで今年観た美術展などは「河北美術展」、「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」、「早大エジプト発掘40年展」、「日展100年」、「芹沢けい(金に圭)介が集めた仮面展」に続いて6回目になった。
2007.11.24
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時ならぬ大雪の中を宮城UMCの集まりに出かける。今年1年の反省と言うから、まあ少し早目の忘年会みたいなものか。本当は第一現場のビルに寄り、遅番の人に挨拶をしたかったのだが、雪とラッシュのせいでバスが遅れてしまった。会場のビルに行くと中はたくさんのお客で大入り状態だった。 このところ走友会の練習もご無沙汰していて、久しぶりに顔を合わせる人も多い。中には勤務先から直接来られた人もおり、いつもと違ったネクタイ姿がりりしく見えた。古川のS藤さん、T田さんの姿が見えない。翌日は大田原マラソンに出場予定のようなので欠席されたのだろう。集まった仲間は40名ほどだろうか。皆とても元気そうで嬉しい。 世話役のU海さんの司会で開会し、まずはM会長の挨拶。利尻岳での負傷以来腰の調子が戻らないようだが、それでも来年に向けての意欲が凄い。乾杯に続いて懇親会に移った。仙台明走会のT中さんは欠席だったが、「飯坂ふくしまマラソン」では女子の2位、年代別で1位だったとか。レース中は2位の選手がぴったり後ろにつけていたが、ゴール間近の下りで抜かれたのかも知れない。 明走会のメンバーのうち10名近くがNAHAマラソンに行くとのこと。そして来年1月の「宮古島ワイドー」にも7名ほど参加されるみたい。2つのレース共きっとコースのどこかで顔を合わせることが出来るだろう。これでまた楽しみが増えた。それにしても若い人が多い走友会は、行動範囲が広くて活発だ。 出席者中最年長のO原さんは全日本マスターズ選手権で1位になったとか。どんな種目があるか聞いたら、トラック競技だと60mから1500mまでだそうだ。彼は5種競技にも出てると話していた。今年70歳になるO原さんにそんな横顔があるとは知らなかった。これもまた自分にとっては新たな刺激になった。 O川さんY田さんと来年の予定レースについて話をする。2人とも8月の「立山登山マラニック」に出てみたいと言う。立山は素晴らしい眺めでお勧めだし、私自身も出たいと思っている。問題は9月。3年ぶり開催の「秋田」か、3年連続の「佐渡島一周」か悩むところだ。連続10回で「クリスタルカード」がかかっているO川さんは迷わず「秋田」の模様。きっと宮城UMCの仲間の大半は秋田に行くと思う。 今年ウルトラを初完走したI藤さんは相変わらずのニコニコ顔。陽気になったK村さんが向こうのテーブルから盛んに手を振り、私もそれに応える。美味しい料理に箸を伸ばし、お湯割の芋焼酎をグイグイ飲んでいるうちにかなり効いて来た。そのうち席を立っての移動が始まり、話が盛り上がると一層酔いが回る。飲んだ焼酎は6杯か7杯。最後の方は誰彼となく「ハグ」攻めにして迷惑をかけてしまった。ドウモスミマセ~ン!(笑) 帰りのバスは酔って眠りこけ、ようやく降りるバス停の1つ手前で目が覚め、事なきを得た。それから凍結した雪道を約1kmほど歩いての帰宅。足はフラフラで道路はツルツルだったが無事に家に辿り着く。やれやれ。それは良かったのだが、風呂に入る前に体重を量ったら何と2kgも増えているではないか。うひゃ~!それだけ飲み食いしたのかと思うと恐ろしくなった。最後に一言御礼をば。幹事さん、どうもご苦労様でした!!
2007.11.23
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沖縄勤務時の私の職務の一つが沖縄関係資料の収集に努めることだった。言語学者仲宗根政善氏が聞き取り調査した膨大な琉球語関係資料や、戦後占領軍GHQ関係資料のうち米国政府が解禁した沖縄関係マイクロ資料などを予算化したのもその一つだ。 だが、内地から購入した古書やハワイから寄贈された図書には、本を食べるザウテルシバン虫などの害虫が巣食い、羽化した虫が書庫の中で飛び回る事件も発生した。この時は大至急薫蒸して難を逃れた。職場には沖縄関係の資料室があり、職務を兼ねて歴史、文化、宗教、文学、民俗、地誌、自然環境など目ぼしいものを手当たり次第読んだ。きっと200冊は下らないと思う。 たった2年間だが博物館勤務を命じられたことがある。大阪時代のことだ。この博物館は特定分野の大学院が置かれているため、一般の学芸員ではなく教授から助手に至る研究者が配属されていた。私の職務は博物館活動や研究活動を支えるシステム関係で、慣れない業務で苦悩の日が続いたが、個人的には博物館そのものは大好きでとても勉強になった。 ごく近くには日本民芸館の分館や国際美術館もあり、京都国立博物館、奈良国立博物館なども同じ組織だったため、無料で観覧出来たのが嬉しかった。特に毎年奈良で開催される「正倉院展」の素晴らしい国宝を近くで観られたのは何よりのプレゼントになった。また自宅から近い京都へは良く出かけ、神社仏閣などを初めとする日本の古い文化に接することが出来た。 職場だった博物館へはアイヌで唯一の国会議員だった萱野茂氏が良く訪ねて来られた。博物館の中にあるチセと呼ばれるアイヌの小屋で年1回宗教儀式を演じるためだった。その縁で、後年北海道の同氏宅を訪ねたことがある。氏は自分の力で小さな博物館を建て、アイヌの人権普及や文化保存のために尽力されていた。 オーストラリアの博物館活動に関する視察結果を研究雑誌に発表するよう薦めてくれたのが、韓国テレビドラマ「チャングムの誓い」日本語版の監修者だったA教授だった。教授の専門は朝鮮半島の文化だ。日本古代史に関心が深かったせいで、かねてから日朝交流関係についても何冊か本は読んでいたが、それらのことが私の関心を世界の民族の文化へと広めてくれた。 また正確に数えたことはないが、私が訪れた内外の博物館や美術館は多分60館は超えていると思う。このような経験などもあって私の蔵書には日本古代史関係のみならず、沖縄関係、アイヌ関係、日朝文化交流史など多様な分野の図書が並ぶことになった。 さて、前職を辞してから関心のある分野の新刊を選ぶ機会はほとんどなくなった。辞職後仙台に戻りビル管理会社に勤務して小遣い稼ぎをしているのだが、本との面白い接点があった。それは廃棄処分された本との出会いである。不要として捨てられた本の中には、私の興味を引く本が時々混じっているのだ。 これまでに拾った本の中には伊達政宗関係、奥の細道関係、古事記関係などの貴重なものがあった。まさに「瓢箪から駒」の類である。今読んでる「従軍慰安婦」関係の本も、拾った本の一つだ。それらの本をバス通勤や勤務開始までのわずかな時間に読んでいる。時々新聞に掲載される歴史関係の記事やテレビでの報道も、私にとっては貴重な情報だ 原始時代から現代に至る歴史の滔々たる流れ。そのほんの一部しか知識を持たない私だが、これからも色んな資料を通じて自分なりに「人間がこれまでどう歩んで来たか」を眺め、考えて行きたい。この趣味はマラソンと違って、きっと足腰が立たなくなってからでも続けられるのではないかと密かに期待しているのだが。<完>
2007.11.22
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日本の古代史が好きだった私だが、徐々に色んな分野について関心が広まって行った。それと同時に古代だけでなく、色んな時代にも興味を持つようになった。その一番の原因は、毎年観ているテレビの大河ドラマの影響かも知れない。大河ドラマの主人公はほとんどが支配者階級だが、私の場合はその時代の民衆がどんな心情でどんな暮らしをしていたのかも知りたいと思っている。 戦国時代に関心はあるが、城についてさほど関心はない。だが、全国を旅するうちに結構見ていると思うので試しに挙げておこう。青森:弘前城 宮城:仙台(青葉)城跡 山形:山形(霞)城跡、鶴岡城跡 福島:会津若松(鶴ヶ城)城 茨城:土浦(亀)城 東京:江戸城=皇居 山梨:躑躅ヶ館(甲府城) 長野:松本城 石川:金沢城 愛知:名古屋城、犬山城(遠望) 三重:伊賀上野城 京都:二条城 大阪:大阪城、高槻城跡 兵庫:姫路(白鷺)城、篠山城 鳥取:鳥取城 島根:松江城 岡山:岡山城、広島:広島(鯉)城、山口:萩城跡 徳島:徳島城跡、撫養城 香川:高松城、丸亀城(遠望) 愛媛:松山(金亀)城、今治城、大洲城、宇和島城 高知:高知城 佐賀:佐賀城跡 熊本:熊本城 特に立派だと感じた城は姫路城、熊本城、松山城、松本城だろうか。いずれも日本の名城で、かつ保存状態が良いものばかりだ。大阪城や皇居の石垣の立派さにも驚く。 これらに対して沖縄の城(ぐすく)は、外見もそうだが役割が全く違っている。琉球大学法文学部の教授だった仲松弥秀氏の著書によれば、「ぐすく」には次のような役割があると言う。1)王城(首里城、浦添城、今帰仁城など) 2)豪族の城郭(勝連城、中城、座喜味城、大里城など) 3)砦(安慶名城など) 4)見張り台(三重城) 5)宝物殿(御物城) 6)墓(志喜屋城など) 志喜屋城などは城と名はついてるものの実態は風葬墓で、これが沖縄ではもっとも古い形のぐすくのようだ。先に上げたぐすくのすべてに「聖地」の役割や機能が備わっていて、沖縄の城が単なる攻撃や防備だけでなく、祈りの場所であったことを示している。外見も首里城のように豪華な城は特別で、サンゴ礁が変化した石灰岩を積んだ石垣、アーチ型の石門、掘り抜き井戸、御嶽などを持つ、とても神秘的な存在のものが多い。 私は沖縄に3年間勤務したが、新聞店がくれた沖縄県下の市町村ごとの地図帳には、「城」の名がつく場所が各地にあった。日曜日の度に長靴を履き、バイクにまたがってそれらを訪れるのがいつしか私の仕事になっていった。長靴はハブ対策のためだ。ぐすくがあるのは大抵人気のない山の上で、周囲は草ぼうぼうのためハブの住処になっているところが多い。杖で草むらを叩きながら進むのだが、たまには「墓荒らし」と間違われることもあった。 そんな苦労をしながら訪ねた「城」は40箇所以上になるだろうか。きっと沖縄の人でもそんなに「城」を訪ね歩いた人はいないと思う。<続く>
2007.11.21
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私が訪れた神社の中でもっとも国宝の数が多かったのが宗像大社だと思う。本来の祭主である宗像氏は古代の豪族で、日本海を通じて古代出雲と同盟関係にあったとも聞く。同大社は福岡県北部にあり、3つの社から成り立っている。まず玄界灘の沖合い沖ノ島にあるのが沖津宮、海岸にあるのが辺津宮、そして少し山手の本宮の3つである。 沖ノ島には縄文時代以来の遺跡が多く、山頂部や岩陰には土器などが散乱しているようだ。島全体が神域のため、漁船は台風などでの遭難時以外は上陸できないことになっていて、年に数回神主が乗った船が島に横付けされるとか。 奈良時代、今は無人のこの島に特別な任務が存在した。それは遣唐使や遣隋使が乗った船の航海の安全を祈ることだった。つまり使節が乗った船は博多の那の津などから出航して、沖ノ島周辺を通り、中国大陸へと向かったのだ。国家の威信をかけて安全を祈願する際に、神前に供えた品々が時代が下ってから国宝に指定されたと言う訳だ。銅鏡、金製の細工、宝石、古い太刀など、どれも素晴らしい芸術品だった。 同じ国宝でも瀬戸内海の島にある大山祇神社のものは一風変わっている。この周辺は古来から交通の要衝で、戦国時代は村上水軍の支配地だった。そのような地の利の関係で、この神社に奉納されたのは数多くの武具だった。平氏、源氏それぞれが戦勝を祈って、太刀、鎧(よろい)、兜(かぶと)、弓、薙刀などを供えている。どれも見事な作りのものばかりだった。 さて、これから訪れたい神社の第一は諏訪大社だろうか。日本の奇祭の一つである御柱祭もこの目で見たいが、境内に立つ柱だけでも十分その価値はあると思う。古事記には「国譲り」の際、反対派だった大国主命(大黒さん)の息子が、遠く諏訪湖の畔まで逃げたとの記述もあり、縁起に出雲との何らかの関係を示す痕跡が残ってないか確かめて見たいような気もしている。 訪れた神社の名から漏れていたのが香川の琴平宮(金比羅神社)である。この神社は山上にあり900段以上もの石段を登って参拝するのだが、航海の神であることが面白い。全国各地にこの神社を勧請した末社が置かれるのは、やはり航海の安全を祈ったのであろう。ついでながら森の石松が親分の代わりに代参したのがこの金比羅さんだった。 沖縄の代表的な神社として挙げた波の上宮、普天間宮、白銀堂だが、いずれも現在は立派な社が建立されている。だがそればかりではなく、本来の原始的な痕跡も残っている。つまり三社に共通するのは洞窟だ。波の上宮裏の海岸には幾つかの洞窟がある。ここは元々風葬墓だった所だ。普天間宮は洞窟の真上に後代神社の建物が建てられ、白銀堂の境内には今も洞窟が残っている。両社とも本来は聖なる洞窟が信仰の対象だったと思われる。 私は神道を信じる者ではないが、日本人の遥かな祖先達が大自然の脅威に慄き、あるいはその恵みに心から感謝し、尊崇の念を抱いて自ずから神と仰ぐようになった心情を容易に理解することが出来る。ただ、国家神道として国民を戦争に導いた愚だけは繰り返してはいけないと思う。日本はもう神国ではないのだから。<続く>
2007.11.20
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高い山の上に神が降臨すると言うのは北方系民族の神話の特徴とか。古事記の中にも高天原から高千穂の峰に神々が降臨する話がある。山の上は目立ちやすいからだろう。古代、日本人の祖先達は、三角形の山や二つの峰を持つ山を聖なる山と考えたようだ。富士山のように整った山が前者で、男体山と女体山のある筑波山などが後者の例だ。 また私達の遥かな祖先は、高い木やこれの代用である柱、山上の大きな岩などに神が憑依するとも考えたようだ。だから初期の礼拝は山頂で行われた。それが次第に楽をして中腹、そして麓へと降りて来る。また礼拝の対象も岩や木、あるいは滝や雷と言った自然物だったのが、やがては鏡や剣、亡くなった貴人なども祀られ、同時に建物を建て神社として整えられるようになる。 諏訪大社の祭りで山から切り出した大木を坂の上から落として神社まで運んだり、運んだ柱を境内に立てたりするのは、全て大木に神が憑依したことを表しているように思うのだがどうだろう。また北陸地方の神社では、わざわざ旗柱を収めるための施設を作るほど柱を大切にしている。白山神社は元来新羅からの渡来人が信仰したことなどを考えると、とても興味深い。 また沖縄では未だに山上の大岩(隆起さんご礁)やガジュマルなどの大木や泉を神として信仰の対象としている。いわゆる原始神道で、山上から海に向かって祈る老婆の姿を初めて目の当たりにした時には、大層驚いたものだ。沖縄の小高い丘の頂上部はほとんどと言って良いほど、拝所(うがんじゅ)とか御嶽(うたき)と呼ばれる聖地になっていて、今でも時々線香を上げる人達がいる。そこには香炉と小さな祠しかなく、まさに太古の日本の姿を髣髴とさせるものだ。 私が感銘を受けた神社の第一はやはり伊勢神宮だろうか。昔はここで身を清めたと言う清冽な五十鈴川の流れ、1000年も手をつけなかった深い森、20年毎に遷宮される神宮の跡地など。そこには身が引き締まる静寂と神々しさが存在した。 さて、宮大工の世界にはかつて「雲太、和二、京三」と言う言葉があったそうだ。これは木造建築物の大きさの順で、雲太は出雲大社が第一、大和東大寺の大仏殿が第二、京の宮中の紫宸殿が第三であることを表している。現在の出雲大社にはそんな巨大な建物はない。毎年11月には全国の神々が出雲に集って住まうと言われる大社の社がいやに静かに感じたものだ。 ところが数年前のこと、工事中の境内から巨大な柱の跡が出土した。直径2mの柱3本を幅広い銅の輪で束ねたものが幾つも地中から現れた。高さ60mもの柱の上に神殿が乗っかる形の図面が昔から残されていたが、それが本当に存在したことが証明されたのだ。 千年以上も昔から地上60m以上の建造物を建てる技術があったことには驚かされるが、台風などの被害を受けやすいため、やはり再々立て直すのは困難だったのだろう。荒神谷遺跡などからの大量の銅剣や銅鐸などの出土、四隅突出墓と呼ばれる出雲独特の古墳の存在などからも、出雲地方には大和政権に太刀打ちできるほど強大な王国がかつて存在したことが裏付けられる。 出雲大社の宮司は2つの家が勤めている(つい最近一本化されたとか)が、片方の家には大昔兄弟のうちの一人が天皇の使いの話を信じたばかりにだまし討ちにあい、朝廷に家宝と所領を全て奪われたと言う「秘密の伝え」が残されていたとか。まさに神話の「国譲り伝説」そのものので不思議な話としか言いようがない。<続く>
2007.11.19
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本を読むのも勉強になるが、現地に赴くのも考古学や歴史学では大切なことだ。縄文時代を代表する三内丸山遺跡(青森)や真脇遺跡(石川)、また弥生時代を代表する吉野ヶ里遺跡を自分の目で実際に確かめたことが実に大きな体験になった。本を読み、現地を確認し、再びその遺跡に関する資料を読めば理解は急速に深まって行くし、自分なりにその時代について考えることも出来るからだ。 三内丸山遺跡から発掘されたヒスイは新潟県の糸魚川産、接着剤代わりに使われるアスファルトは秋田産、そして石器の材料の黒曜石は北海道産であることが分かっている。いずれも丸木舟で日本海や津軽海峡を渡ってもたらされたものだ。既に紀元前5千年の昔から遠く離れた地方と交流があったわけだ。 そして物見櫓の材料である栗の丸太の直径は2mあり、それを支えるための基礎には「版築」(はんちく)と言う後世の古墳の基礎に使われた工法が使われていることや、強度を保つために6度ほど内側に傾けていたことなどが大林組の実験で判明している。 またクリだけでなく、数種類の植物を集落の周囲で栽培していることが、花粉のDNA分析で分かっている。ドングリやトチの実は粉にし水に曝してえぐみを抜いて食料にしたようだ。獲物を追いかけて移動すると思われていた縄文人が、最近の研究では一箇所に集落を構え、集団で暮していたことが分かった。三内丸山遺跡には一片の長さが50mもある大型の家屋跡も出土している。ここは1500年にも亘って、代々人が住み着いていたのだ。 石川の能登半島にある真脇遺跡からは大量のイルカの骨が出土している。遺跡の前方には小さな湾があり、縄文人はたくさんの丸木舟でイルカを湾内に追い込んで捕獲した。同地では明治以降もイルカ漁が行われていたと言うから縄文時代から延々5千年以上、漁が続いていたことになる。 ここからはイルカの脂を燃やすためのランプ型の土器や、彼らの主食だったイルカの霊を祀るトーテムポールのような柱、男性器をかたどった石棒、御物石器などが出土しており、縄文人の精神性を窺わせる。また金沢近郊のチカモリ遺跡から出土した栗の丸太を割って立てたものは日時計と思われ、縄文時代の文化がかなり高かったことが分かる。 佐賀の吉野ヶ里遺跡は工業団地の造営工事中に発見された巨大な弥生時代の遺跡だ。遺跡の周囲を取り囲む城柵と堀、高い物見櫓、高床式の住居、合わせた甕棺に葬られた貴人とその副葬品などの存在はまさしく小国家そのもので、富の集中による身分制度が出現していたことを表している。中には邪馬台国のモデルと考える研究者もいるようだ。 私が注目したのは2点。一つは小高い丘の上に小さな神社があったこと。これは後世の人が、丘に眠るその地方の祖先を祀ろうとしたのではないかと私は考えた。2つ目は付近から奈良時代の官道跡が発掘されていること。佐賀周辺には弥生時代から卓越した小国家が興り、その後の奈良時代へと繁栄が受け継がれたと私は考えて見たのだ。 さて、仁徳陵や垂仁陵のような巨大な天皇陵は立派だが、天皇家や宮内庁以外の人間は原則として立ち入ることは出来ない。また深い樹木に覆われて、本来の陵の表面を見ることは不可能だ。これに対して神戸市垂水区にある五色塚古墳は、造営された当時の模様が忠実に復元されていた。 この古墳は巨大な前方後円墳で、前方部の一部が山陽本線の線路で切られている。そして目の前には明石海峡が見える。ここに眠る大王は狭い海峡を利用して、当時の海上交通を牛耳っていたのだろう。陵の表面には夥しい数の川原石を敷き詰めた葺き石が施され、中段の周囲を巨大な埴輪がぐるりと取り囲んでいる。そして古墳の直ぐ側には、大王に殉死して葬られた者の2つの陪塚がある。ここは天皇クラスの要人の墓ではないかと思ったものだ。天皇陵の中には間違って指定されているものがあるとの指摘があるのだ。 「百聞は一見にしかず」とはこのことか。現地を訪れ、本物を見ることで得られる知見は、時として読書による知識以上のものだ。長男、次男と一緒に頂上に登った岡山の作山古墳、造山古墳は共に巨大な前方後円墳で、「古代吉備王国」の存在を髣髴とさせるものだった。<続く>
2007.11.18
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初めのうちは考古学や日本の古代史にしか関心が無かったのが、本を読んでいるうちに段々興味の対象が広がって行った。また考古学には聖書考古学とか水中考古学などと言う分野のあることや、人類学などとの関係が深いことなども分かって来た。歴史に関しても文化人類学(民族学)、民俗学、宗教学、神話学、言語学などの知識があればさらに理解が深まることを知った。 残念なことに私は正規の授業でそれらを系統的に学んだことはないし、例え学んだとしても理解は困難だったと思う。素人の私に出来ることと言えば、仕事上で図書館に必要な図書を選ぶ時に自分の読みたいものをチェックし、自費で買うことくらいなものだった。こうして色んな分野の本が徐々に揃って来た。 買った本の大半は専門書で、専門家が専門家のために書いた本は当然ながら難解だ。最初の頃はたった1ページを読むために3日間ほどもかかった。それでも分からない箇所は飛ばして読むしかない。そんな風にして少しずつ専門書に慣れて行くと、素人なりにも理解できる部分が段々広まって行く。また、一般向けに書かれた本は早く理解が深まって助かるし、子供向けに書かれた本は基本的なことが分かりやすく表現されているのでさらに理解が容易だった。 欠点は私が自分のために選書した本が、果たしてそれぞれの学問分野で正当に評価されている研究者が書いたのか分からないことだ。それに考古学や歴史学の分野でも時としてトンデモナイ事件が発生する。 考古学の分野では「東北考古学研究会」とか言った学術団体の副理事長だった藤村新一が起こした「偽石器」事件。これは日本考古学史上最大の汚点で、あれによって30年間は学問の進展がストップすることになるほどの出来事だった。彼の全く個人的な名誉欲が、自分で作った偽物の石器を埋めては発掘して新発見する繰り返しで、55万年以上も年代を遡らせてしまったのだ。日本の旧石器時代を代表するとされた馬場壇、座散乱木、新高森など宮城県内の遺跡が、全てインチキだったのだから開いた口が塞がらない。 歴史学の分野でも東北人が偽古文書事件を起こした。青森県に住む和田喜八郎が、自分の家の天井裏から出た古文書を基にして書いたと言う「東日流外三郡史」ほかの図書が、実は史実に基づかない全くのデタラメだったことが出版の十数年後になってようやく確かめられたのだ。 これまでに類書のない同書ほかの記述は、古代東北の姿を髣髴するとしてマスコミに取り上げられ、それに味を占めた和田は次々に新書を世に送り出す。いずれも天井裏から出た古文書が原典だと言う。和田が書いた本の内容はやがて東北各県の市町村史にも引用される。また岩手在住の小説家である高橋克彦の歴史小説「炎立つ」などにも和田のストーリーが取り入れられ、いかにも史実であるかのように広まって行った。 だが彼はその古文書を誰にも見せることはなく、彼の家を建てた大工からは天井裏にそんな資料があるはずが無いとの証言も飛び出した。和田の著書が偽書であることは、やがて聖和女子短大の千坂教授の著書である「だまされるな東北人」や「東北を語る~偽りのない社会をめざして」で徹底的に解明された。古文書のコピーの字体と和田の字体が大変良く似ていることもその手がかりになったようだ。こうして和田の著書を引用した何百、何千と言う図書が何の価値も無い紙屑と化したのだった。 考えて見れば「邪馬台国論」などもその一例かも知れない。自分に都合の良い点だけ抽出して邪馬台国があった場所がここだと言い張る。結局邪馬台国は沖縄から東北辺りまで、さまざま説があるようだ。私の「歴史研究」の危うさもそれに似ている。私が読んだのはほんの一部分だし、新しい事実が次々と現れ研究されていることを知らないからだ。<続く>
2007.11.17
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研修旅行で行ったのは、会津若松(鶴ヶ城、白虎隊の墓など)、多賀城廃寺(当時は高崎廃寺)、松島町手樽の貝塚、仙台市岩切にある東光寺などだったと思う。手樽や東光寺は発掘調査の現場で、特に東光寺では学生に交って発掘の真似事をさせてもらった。出て来たのは経文が書かれた小石で、元寇などで国内に不安が満ち満ちていた鎌倉時代、多くの民が平安を願って奉納したもののようだ。 当時の下宿先からは裏道を通って三神峰公園に行けた。その道を登って行くと、小高い丘の頂上付近に何か不思議なものが落ちていた。小さな石を削って作った鏃(やじり)が、昭和40年頃にはまだ幾つも表土に転がっていたのだ。三神峰が縄文時代の遺跡であることや、古墳時代の円墳があることなどを知ったのはずっと後のことだ。縄文時代、きっと丘の周辺ではたくさんの獣が捕れたのだろう。 学生と一緒に読書会にも参加した。歴史の研究書を読み合うのだが、私は数ヶ月で辞めた。十干十二支を組み合わせて表現する年代すら読むことが出来なかったためだ。授業で歴史学の基礎的な知識を得ている学生に対して、何らの予備知識もない一職員とでは、所詮初めから知識のレベルが違っていたのだ。こうして私は本来の業務に邁進することになった。 それから数年後私は東京の大学に転勤し、医学部の図書館に勤めた。扱う資料はほとんど外国の雑誌と専門図書で、国内の図書館で初めてコンピュータを使っての業務電算化が進んでいた。横文字とコンピュータに悩まされた何年間かであったが、千葉から通った時に加曾利貝塚に行ったことがある。ここは日本でも最大級の著名な貝塚で、縄文式土器の作成年代を特定する基準にもなった土器が発掘されている。 3年にも満たない東京勤務の後、私は茨城県の筑波研究学園都市を皮切りに、徳島県鳴門市、沖縄、愛媛県松山市、大阪、山形、石川県、茨城県水戸市へと転勤を重ねた。歴史に関する図書を本格的に購入し始めたのは筑波勤務時代だった。乏しい小遣いではあったが、将来仕事が落ち着いたらゆっくり読もうと思ったのだ。そしてそれと同時に出張や旅行の際は、著名な遺跡、神社、古墳など歴史や考古学に深く関係する箇所にも立ち寄ることを心がけるようにした。以下にその一例を挙げて見よう。<遺跡・貝塚>三内丸山(青森:縄文)、多賀城(宮城:奈良)、加曾利(千葉:縄文)、真脇(石川:縄文)、大宰府(福岡:奈良)、吉野ヶ里(佐賀:弥生)など<神社>塩竃神社、金華山神社(以上宮城)、日光東照宮(栃木)、筑波山神社、鹿島神宮(以上茨城)、香取神宮(千葉)、気多大社、白山比め(口へんに羊)神社(石川)、熱田神宮(愛知)、伊勢神宮(三重)、春日大社(奈良)、平安神宮、下賀茂神社(以上京都)、出雲大社(島根)、吉備津神社、吉備津彦神社(以上岡山)、厳島神社(広島)伊予津彦神社、大山祇神社、石鎚神社、椿神社(以上愛媛)、大麻比古神社(徳島)、はこ(竹の下に呂)崎宮、宗像大社、太宰府天満宮(以上福岡)、宇佐神宮(大分)、青島神社(宮崎)、波の上宮、白銀堂、普天間宮(以上沖縄)など<古墳・天皇陵>雷神山、遠見塚(以上宮城)、大塚山(福島)、白山古墳群(石川)、今城塚、継体陵、仁徳陵(以上大阪)、垂仁陵、上なべ、小なべ、石舞台、太安万侶の墓(以上奈良)五色塚、車塚(以上兵庫)、作山、造山(以上岡山)、伊予津彦神社裏(愛媛)、宇佐古墳群(大分) などだがこのほかにもあると思う。<続く>
2007.11.16
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つい最近、新聞の連載小説が終わった。何とも不思議な感覚の話で、特に最後の終わり方が謎めいていた。話は変わるが、沖縄勤務の頃は3時の休憩が待ち遠しく、職場の新聞コーナーに行って連載小説を読むのが楽しみだった。当時(17~19年前)の沖縄では、本土の新聞は午後の飛行機で着くのが通常だったのだ。 前職を辞めた後、図書館から借りた小説を読み耽った時期があった。特に藤沢周平の時代小説は全集を読破したものの、最後には何故か物足らなくなった。やはり小説は「作り物」の世界でしかなく、真実にはとても敵わないのだろう。「事実は小説より奇なり」と言ったところか。 2月から続いていた沖縄料理店通いがこのほど終わった。たまたま訪れた料理店に沖縄関係の本が何冊かあり、店の方にお願いして借りて来ては読んでいた。それを月1度の通院時に返し、改めて次のを借りると言う方法で、そこの店で昼食を取るのがお礼代わりだった。 借りたのは歴史関係が多かったものの、文化、社会風俗、言語、宗教関係、児童文学など内容は様々で、中には泡盛に関する本もあった。それらの本は沖縄にいる父上の蔵書で、店の主人が帰省した時に持って来たようだ。専門書は一般市民が読むような内容のものではなく、とても不思議に思っていたのだが、父君が開業医と聞いてようやく納得した私だった。 「今度は私の本を持って来ましょう」。そう言って退散したものの果たして沖縄関係の本が何冊あったか。書架を探すと11冊ほど見つかった。だが、そのほとんどは歴史や文化に関する専門書で、あの店に置いてもお客さんが手に取って読む内容のものではない。本当は主人の父上に読んでもらいたいのだが、わざわざ重たい本を沖縄に届けてもらうのは無理だと思う。このままあの店との縁は切れるのだろうか。 さて、私が考古学や古代史に魅かれるようになったきっかけは、小学生の時に初めて貝塚を見たことだろうか。父親が借金を作って夜逃げした先の松山では、小学校高学年の頃から古本屋に出入りして、大型の美術書などを眺めていた。世界の美術家の作品や、ミロのヴィーナス、古寺の仏像などを観て、異常な興奮を覚えていたように思う。 高校1年の時に父が四国で客死し、再び故郷の仙台に戻った。当時遠見塚の近くにあった叔父の家に厄介になったのはそんな事情からだったが、ある日そこで不思議な物を拾った。つるつるしたきれいな石に丸い穴が開いたものだ。当時はそれが何か全く分からなかった。 「紡錘車」と呼ばれる古墳時代の遺物と知ったのはずいぶん後のことだった。多分滑石と言う石で作ったものだと思う。案外柔らかくて加工し易い石のようで、糸を紡ぐ時糸がよらないように使うみたいだ。あんな整った紡錘車が東北で出るのは珍しいようだが、残念ながらそれに気づいた時には行方不明になっていた。昭和35年当時遠見塚周辺は一面の畑で、畑の上を良く見ると赤い色をした土器の破片が幾らでもその辺に転がっていた。紡錘車もたまたま何かの拍子に拾ったものだった。 私が歴史学を身近に感じたのは、自ら希望して大学図書館に転勤してからのことだった。新しく出来た大学の初代の図書館長が日本史専攻の教授で、私は館長に可愛がられ仕事の傍ら「使い走り」をしているうちに、学生と一緒に歴史の研修旅行にまで行くようになっていた。<続く>
2007.11.15
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先日、暖かい日を選んで愛犬のシャンプーをした。多分これが今年最後のシャンプーになるだろう。専門店でシャンプーをしてもらうと5千円ほどかかる。たかが犬のシャンプーに5千円もかけるのは勿体無い。我が家では夏は水だが、それ以外は風呂の残り湯で洗うことにしている。 さて、妻が愛犬用の布団を作った。彼は結構気に入ったようで、一日中それに寝そべっている。その間に彼専用の毛布も洗った。すべては来るべき冬に備えてのもの。でも一番の準備は彼自身が着々と行っているはずだ。つまり夏毛から冬毛への切り替えだ。ラブラドル・レトリバー種は短毛だが寒さには強い。だが日本の気候に慣れて、徐々に寒がりになったのでは、とも思う。 先日の雨の翌朝、巡回中のビルの屋上から雪を被った蔵王の山々が見えた。今シーズンの初雪だった。その朝は、出勤前にガレージを掃除した。強風で吹き寄せられた枯葉が、固まっていたからだ。向かいの家のアケビの葉に、我が家の梅の葉もかなり混じっていた。これからは庭木が徐々に葉を落とし、淋しい冬の風景に変って行く。 そのガレージに干し柿が吊るしてある。向かいのKさんからもらった渋柿を剥いたものだ。ところがKさんのところの干し柿は、気温が高いためにカビが生え出したとか。さて、剥いた柿の皮も別の場所に干してある。乾燥したものを漬物に入れると甘みが出て、美味しい漬物になる。 庭ではシュウメイギクが咲き終わり、山茶花と菊が咲き出した。様々な色の菊が庭のあちこちを賑やかにしてくれている。あまり豪華な種類ではないが、素朴な花弁も結構可愛いものだ。その菊が枯れ出したら、いよいよ本格的な冬の到来だろう。 畑では大根が土の中から持ち上がり出し始めた。春菊や京水菜は既に重宝している。仙台雪菜はかなり茂って来たため、週末には間引きをする必要があるだろう。そしてタマネギの苗は成長の真っ最中で、来春にはこれまでで一番立派なタマネギが収穫できることだろう。 今日の帰宅ランでは、動物園脇の歩道で落ち葉掃きをしている人を見た。掃いても掃いても落ちて来る枯葉。そしてその枯葉の絨毯を踏みしめて走る愉快さ。天気予報だと仙台地方も明後日には今シーズンで一番の冷え込みになるとか。帰宅後、庭に出していた植木鉢のうち寒さに弱いものをきれいに洗い、家の中に取り込んだ。帰宅ランもそろそろ長袖シャツとジャージに替える日が近づいたようだ。
2007.11.14
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オールスポーツのHPで、「飯坂ふくしまマラソン」の写真を観た。私が写っていたのは4枚。いずれもゴール寸前のものだった。「今日は苦しそうだったね」。レースの後で私にそう言ったのはK山御大だったか、Y田さんだったか。自分ではそれほどとも思わなかったのに、写真の私は確かに物凄い形相をしていた。それだけ必死で走っていたのだろう。 さて、中日ドラゴンズがアジアシリーズで優勝した。予選のリーグ戦で敗れた韓国のチームに、決勝で見事雪辱を果たしての優勝だった。中日は公式戦での順位は巨人に次いで2位だったが、CSで勝ち上がって日本シリーズに臨み、昨年優勝の日ハムを下した。CSに入った後9勝1敗、アジアシリーズまで含めるとポストシーズンは12勝2敗の成績だった。 人気が低い落合監督だが、日本シーリーズで見せた投手リレーには執念を感じた。8回まで完全試合ペースだった投手を退け、9回から抑えのエース岩瀬を投入して優勝を決めた采配には賛否両論があったが、一見非情にも見えるその手堅い作戦を私は当然と思う。勝負事は勝ってナンボだ。どんな状況になっても、ベンチにいる落合監督の表情に変化はなかった。自分への評価を全く気にせず、信念を貫いてチームを優勝に導く彼の強さは、一体どこから来るのだろう。 そして日本シリーズでMVPになった中村ノリも、今年は天国と地獄の両方を味わった。契約のもつれからオリックスを退団し、一時は野球浪人になった。ようやく最後に中日が育成選手の枠で彼を入団させ、最低の年俸からスタートした今季だった。それが落合監督の厳しい指導の下でようやく実力を発揮して一軍に入り、最後は日本一の立役者になるのだから運命とは分からないものだ。 海の向こうではレッドソックスが土壇場でロッキーズをひっくり返してワールドチャンピオンに輝いた。残念ながら新人賞は取れなかったものの、松坂、岡島と言う2人の日本人投手が大活躍したし、松井稼頭夫ももう少しでチャンピオンに手が届くところまで行ったのは立派だった。 日ハムが梨田、西武(来年から埼玉西武)が渡辺、ヤクルトが高田と、来季は3人の監督が交代する日本のプロ野球。高校生ドラフトの日、涙を流した仙台育英の佐藤もヤクルトとの仮契約を終えて、ようやく笑顔を取り戻した。そして我が東北楽天の抑えのエースだった福盛は、フリーエージェント宣言をして大リーグに挑戦することになったようだ。 今季のシーズンは終わったが、プロ野球は私の心をずいぶんと熱くしてくれた。来年は果たしてどんなドラマが待ち構えているか楽しみだ。今週末17日(土)には東北楽天のファン感謝デーの催しがある。折角ネットで申し込んでゲットしたチケットだが、目下少年野球チームに入って頑張ってる、姪の息子に上げることにした。野球少年の夢がますます広がることを心から願って。
2007.11.13
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あまり楽しくなかった奥会津の旅だったが、それでも幾つか収穫があった。まず「大内宿」と言う昔の宿場町を見たこと。本で読むのと実際に目で見るのとはやはり違いがある。2つ目は会津鉄道。この鉄道は栃木県に入ると東武日光線に繋がっている。あんな山の中を走る鉄道が、乗り継げば東京の浅草まで行けるなんて不思議。 3つ目はバスの中からちらっと見えた「下野(しもつけ)街道」。大内宿の手前から山に入る細道がそれで、昔の人はあんな細い道をテクテクと歩いていたのだ。山を越え、谷を越えて歩いて行くと、やがて江戸に着くのだから不思議。そして4つ目が「大塚山古墳」。東北では名取市の雷神山古墳の次に大きい前方後円墳を、バスの車中から偶然見ることが出来た。 私達が良く利用するバスツアーは大手のY社のもの。大抵は昼食が付き、見所も豊富。中には温泉への入浴付きなんてのも珍しくない。料金が手頃で楽しめるのが良く、「奥会津の旅」もY社のものだった。今年は既に6回利用している。 これに対して、地元のバス会社が企画しているツアーがある。名前はズバリ「温泉バス」。今年初めて乗ったのが「薬莱高原と薬師の湯」行き。これはガーデンへの入園と温泉への入浴が半額で、アイスクリームがサービスでついた。 今回行ったのは福島県のあだたら高原にある奥岳(おくだけ)温泉。サービスは何も無いが、休憩のために大広間が提供され、3時間半の滞在で何度でも温泉に入れる。食事は自前でも食堂で食べても良い。我が家は自家製の太巻き寿司を持って行った。見所たっぷりで弁当付きのY社のツアーに比べれば、見劣りがするのは止むを得ない。ただ温泉好きの人にとっては、ゆったりと時間が取れるこちらの方が楽しいかも知れない。 奥岳温泉は安達太良山の中腹、高度950mほどのところにある天然温泉だった。この下には安達太良への登山口になる岳温泉がある。安達太良連峰へは学生時代に何度か登った。野地温泉に泊まり、翌朝早く出立して、確か箕輪山、鬼面山、鉄山、安達太良山と言う経路ではなかったかと思う。鉄山の裏側にある火山特有の荒涼とした風景が忘れられない。安達太良の山頂からは、バスが待つ岳温泉に下山した。あの頃は小さな温泉だったが、今回バスの車窓から見たら大きな温泉街に変わり、美しく整備されていた。 さて私は今回、ロングタイツ、長袖のTシャツをリュックに入れた。天気が良ければ走ろうと思ったのだ。また妻は絵を描く準備をしていた。だがホテルに着いた時は大雨で霧も立ちこめており、残念ながらとても絵を描いたり、走るような天気ではなかった。 そんな訳で、妻の作った太巻き寿司などを食べ、乳白色の「懸け流し天然温泉」に2度入り、本や新聞を読み、横になって少しだけ眠り、それでも十分に満足して帰って来た。何も説明のない添乗員に代わって、今回は良くしゃべるガイドさんだった。来月はまた妻と一緒に温泉バスに乗って、山形の赤倉温泉に行く予定だ。もうその頃はすっかり寒くなって、温泉場を走るのは無理かも知れない。
2007.11.12
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この半月で4回福島へ行った。そのうち2回は飯坂での麻雀大会とマラソンで、これは日記にも書いた。あとの2回は妻と行ったバスツアーで、行き先は奥会津とあだたら高原だった。会津でも磐梯高原へはウルトラマラソンなどで何度か行っているが、奥会津は滅多に行かない。若い頃柳津へ行ったのと、10年ほど前尾瀬に行く際に通ったくらいだろうか。 今回は大内宿と言う所を訪ねた。名前は聞いたことがあるけど、場所は知らない。会津の何町に大内宿があるのか添乗員に聞いても答えが無かった。まあ良いや。行けば分かるだろう。その朝初めて会った時からどこか変な添乗員だとの思いは、大内宿が近づいた時に決定的になった。 大内宿へ向かう道の両脇は見事な紅葉で、この時期を選んで良かったと妻と話していたのだが道路は凄い混み様だった。ナンバーを見ると他県の車ばかり。私達は知らなかったが、結構有名な観光地のようだ。「あまり混んでいるので次の「塔のへつり」は飛ばして、会津鉄道の田島駅に向かいます。電車に乗り遅れたら洒落になりませんから」。突然の添乗員の宣託に車内は騒然。その日の見所は、大内宿、塔のへつり、会津鉄道の3箇所しかないのに、その一つを飛ばしたらどうなるのか。 仕方ないと諦め、バスから降りて大内宿へ向かうツアー客の群れ。大内宿の概要は、案内図と配っていたパンフレットを見て知った。会津藩はこの会津西街道を参勤交代時に通る道として整備し、大内宿には本陣と脇本陣などの宿が設けられていた由。新しい国道の開通で長い間寂れていたが、昔の宿の大部分が残っていたことが幸いして急に脚光を浴びるようになったようだ。 40軒もの宿や古民家が軒を連ねる光景には圧倒され、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分になった。どの店にも土地の土産品が並び、大勢の観光客が楽ししそうに選んでいる。確かに一見する価値はあるが、あまりにも観光地慣れして何度も来る所のようには感じられなかった。 田島駅までの道は空いていて1時間以上前に着き、結局乗車予定の列車を変更した。車内から見えると添乗員が言っていた「塔のへつり」も全く見えない。車中から眺めた奥会津の風景も確かに良かったが、50km近い距離を1時間以上列車に乗る必要が果たしてあったのか。他のツアー客は「塔のへつり」駅や、温泉のある駅で降りていた。会津若松駅に降りた時、客の大半が怒っており、私はアンケートに不満を書く積りでいた。 その気配を察した添乗員が言った。「もう一度戻って「塔のへつり」を見学することにします」。バスの車内には拍手が響いたが私は拍手をしなかった。結果的に十分な時間があったにも関わらず、運転手と相談して数少ない見所の一つを飛ばすと言う早まった決断を下し、しかも適切な説明をしなかった添乗員の態度は、とてもプロとは思えなかったからだ。 「塔のへつり」は、大昔海底だった地層を阿賀野川が何万年もかかって削り取って出来た奇岩が並ぶ景勝地で、紅葉が美しく川面に映えていた。奇岩の一つには僧侶が籠もって修行した岩窟が残り、やはり観られて良かったと言う声が多かった。しかし、あんなに勉強不足で強気の添乗員は初めてで、後味の悪い一日になってしまった。アンケートの葉書には、ビッシリと厳しい意見を書かせてもらいましたよ。<続く>
2007.11.11
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<ピリ辛ラーメンと塩ラーメン> 預けた荷物を受け取ろうとテントに近寄った時、猛烈な痙攣が足を襲った。たちまち変形する下肢の筋肉。その激痛に耐えていると、今度は反対側の下肢に痙攣が移る。テントの高校生がどうして良いのか困った表情でこちらを見ている。私はポシェットからアスリートソルトの入った袋を取り出し、残っていた7粒ほどを口の中に放り込んだ。そしてスポーツドリンクで流し込む。 コースでは冷たい風が吹き、つい油断していたが、やはり汗をかき大量のミネラルを失っていたのだろう。幸いにしてアスリートソルトの効果が直ぐに現れたのか、左右1回だけで何とか痙攣は治まった。慎重に着替えをし、座ったままトン汁を食べる。ずいぶんぬるくはなったが、量が多くしかも美味い。塩分を失った体にトン汁が滲みる。 駐車場に戻るとO川さんが戻っていた。コースでも何度かエールを交わしたが、いつも余裕の笑みを浮かべていた彼は、楽に4時間を切ったと言う。そのうちK山御大が戻り、初フルだったE名さんが4時間41分で、またY広さんがその1分前にゴールしたことを知った。Y田さんが遅いのは、2杯目のトン汁を食べてるからとか。 途中でペースが速いと何度か心配したが、E名さんがあのままの勢いで走り切ったのは立派だった。終始彼女をリードしたM井さんも無事大役を果たして、さぞかしほっとしていることだろう。さらに立派なのはY広さんだ。2人の後でじっと耐え、最後の坂で逆転したのだろうか。自己新記録が出たようだが、ラストスパートする彼女の姿が目に浮かぶ。 結果はあの強い風をものともせず、仲間の全員が無事完走を果たすことが出来た。私は男子60歳以上の部で124人中45位だった。2台の車は受付をした飯坂温泉のホールへ戻って参加賞を受け取った。中身はグレーの洒落たTシャツ、箱入りのリンゴ3個、リンゴジュース、地元の名水、そして特産品のイカニンジンと盛りだくさんだった。 温泉へも行けたが帰宅を急ぐ人がいて入浴券を返し、Y田車は飯坂ラーメンの店に寄ることにした。ラーメン好きのO川さんがわざわざネットで調べた店だった。O川さんはピリ辛ラーメンを、他の3人は塩ラーメンを頼んだ。それが出て来るまで私は冷たい水を4杯飲んだのだが、K山さんは5杯も飲んだとか。それだけ体内の水分が不足していたのだろう。 店の若主人は、名物の「イカニンジン」を無料でサービスしてくれた。この辺りでは昔から海の魚が手に入りにくかったため、スルメを料理に用いたのだそうだ。また酒飲みが多いこの温泉地では、料理やラーメンに酢を入れて食べるのが普通らしい。 そしてつい先ほど私達が走ったマラソンが、地元にとって期待の事業であることも話してくれた。そう言えば飯坂温泉へ来る観光客が昔に比べて激減してると聞いたことがあった。またレースの実現のために、「磐梯高原ウルトラ」主催者のE藤さんの助言がかなり大きかったとか。 最後は疲れてヨタヨタ走っていたE藤さん。決して人付き合いが得意には見えない彼だが、あの胸にはマラソンを通じて何とか郷土福島の振興を図ろうとする熱い思いがたぎっているのだろう。新しく出来たマラソンの持つ意義を、たまたま寄ったラーメン店で感じさせられた私だった。<完>
2007.11.10
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<ランナーの意地とプライド> 追い風を背に受けてH多夫人を追う。かなり前に行ったのか、なかなか姿が見つからない。やがて1人の女性ランナーが目に付いた。真っ直ぐな姿勢にしっかりした足取り。足の筋肉も相当鍛えられている。若々しい後姿なのに手足に刻まれた深い皺だけが妙にアンバランスだ。その超ベテランランナーの横を静かに走り抜ける。 ASを過ぎた辺りでH多夫人の姿を発見。道路にしゃがんでシューズの紐を直してるような感じだ。彼女の名前を呼び、「行くよ~っ!」と声を掛けた。暫くは来ないと思っていたのに彼女は直ぐに追い着いた。それどころかダムの堰堤でとうとう追い抜かれてしまった。彼女に抜かれたのはこれで6度目か。 昨年の「奥武蔵」、今年の「立山登山マラニック」と「佐渡島一周」で、彼女は途中リタイヤしている。それを聞いて淡白なレースをする人との印象が強かったのだが、今日の彼女はその印象とはまるで違っていた。この粘りはどこから来るのだろう。ひょっとしたらこれが彼女の本当の姿だったのかも知れないと思い直す。 堰堤の端まで来ると、残り2kmの距離表示があった。ここからゴールまでは激烈な下り坂になる。膝に弱点を抱える私の足が果たして最後まで持ってくれるかは分からないが、テーピングをしたことがせめてもの慰めか。勇気を奮ってスピードを出す。H多夫人に追い着いたのは坂の途中辺りだったろうか。 その時、さらなるスピードで私達を追い抜いて行ったランナーがいた。女性の超ベテランランナーだ。「頑張って~!」。急いで後を追う私にH多夫人の声が響いた。「よ~し、どこまで行けるか分からないが、行けるところまで行ってみよう」。坂の途中に残り1kmの表示。 ついに超ベテランランナーを捕らえた。一気に抜いて前に出、そのままのスピードで角を曲がった。ゴールはまだ見えないが残りは少ないはず。前に見えたランナーを全て抜きゴールへ飛び込んだ。タイムは4時間17分ちょうど。自分の体調、コースと風の厳しさを考えれば良く頑張った方だと思う。一安心してシューズのICタグを外す。 ゴールした超ベテランランナーが誰かと話している。切れ切れに「私は70代」とか聞こえた。「やっぱりそうだったか」。超ベテランランナーに敬意を表しようと「お疲れ様でした」と言ったが、返事はなかった。2度も私に抜かれたのが悔しかったのか、それとも単に声が聞こえなかっただけなのか。 ランナーにだって意地もプライドもある。最後まで全力を尽くすのが自分の信条なのでゴール直前で他のランナーを抜くのは良くあることだが、レースが終われば相手を讃えるだけの余裕は持っている積りだ。それにしても苦しいレースだった。あの強いS藤さんも最後は苦戦していたように見えたし、レースの後半までトップグループにいた筑波大の院生が最後は歩いていたくらいだから、ほとんどのランナーが苦しんだのだと思う。 サービスのトン汁を手に、荷物預かり所まで行く途中にT田さんと会った。話をすると、超ベテラン女性ランナーと話していたのは彼だと分かった。女性は北海道の方で、「サロマ」を連続20回完走したと話していたそうだ。道理で足の筋肉をはじめ全身が鍛えられていた訳だ。そしてその実績に相応しいプライドも持っているのだろうと改めて思った私だった。<続く>
2007.11.09
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<ポシェットの中の秘密兵器> やがてK村さんが独特のフォームでやって来た。彼女は宮城UMCの有名人3婆の一人だ。その後には71歳になるK山御大。2週間前に「いわて北上」でフルを走ったばかりで少し疲れているような感じ。福島のT木さんの姿もどこかで見た。彼女は6月の「エンジョグinみちのく」に2度来られている。「磐梯高原ウルトラ」の主催者であるE藤さんが走る姿も初めて見た。彼はこの朝も来年7月にあるレースのパンフレットを配っていた。一人一人にエールを送ってすれ違う。 ダムの堰堤まで戻ると大勢のスタッフや応援の人が選手を励ましている。ダムの上も風が強い。多分高校生と思われるスタッフの人に「ご苦労様!」と声をかけると、しきりに照れている。きっとレースに駆り出されたのも生まれて初めてで、慣れていないのだろう。 対岸に渡り、再び北上すると強風が出迎えてくれた。折り返して来る選手と再び遭遇。D口さんの表情は相変わらず硬い。それだけこのレースに懸けるものがあるのだろう。この頃になってようやく胃が落ち着いて来た。前日はバスツアーで夕食が遅かったのに、今朝は相当早目の朝食のせいで胃がムカムカしていた。スタート直後、ダムへの登り道では吐き気がしたほどだった。Yの字の左上に当たる折り返し点にようやく到達。 背中に風を受ける下りは楽だ。堰堤を渡りYの字右上の折り返し点へ2度目の北上。距離感がなかなか掴めないが、まだkm6分を僅かに切っている感じ。何だかこのコースはどこかに似てると頭の中で記憶を辿ってみる。そうだ。高知県馬路村の「おらが村心臓破りフルマラソン」だ。 あそこは徳島県境の山からスタートして一気に下り温泉にゴールするコースだったが、ダム湖の側を通ることや、急な坂道が多いこと、集落(こちらはダム湖だが)を2周することなどがそっくりだ。違うのはあちらは9月で暑いことと、こちらは風が強いことくらいか。 折り返し点を過ぎて間もなく、宮城UMC仲間のK藤さんを発見し声をかける。「とうとう見つかった」とおどける彼女。「速いねえ」の声を尻目に、少しだけスピードを上げる。行く手に男女の2人組。「このペースだとゴールは3時間45分くらいかな」。会話を楽しむ余裕があるペースの2人に何とか4、5kmほど食らいつくが、とうとう追い着けなくなった。 Yの字右上への3度目の北上を果たすべくダム堰堤を曲がった時、ASからY田さんが後を追って来た。コース上で彼を見たのはこの時が初めて。前半からかなり飛ばしていたようだ。「ASに寄らないの?」。彼の質問に「ペットボトルがあるからね」と答えて先を急ぐ。 暫く行くと向かい風がさらに強くなった。この辺りまで互いにデッドヒートを繰り返していたH多夫人が、強い風に逆らって先行した。たちまち遠ざかる彼女の姿。ここまで何も口にしなかったためかガス欠になった感じだ。全くスピードが出ないのは向かい風のせいだけではなさそうだ。次のASで慌ててバナナとパンを頬張る。 最後の折り返しを過ぎると、私はポシェットから「秘密兵器」を取り出した。念のため持ってた大福を食べるのは今しかない。喉につかえないよう気をつけながら噛んでは飲み下す。ボリュームたっぷりの餡子に粘る餅。よ~し、これを食べたらきっと元気が出るぞ~!<続く>
2007.11.08
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<力走する仲間達> コースは先ず飯坂方面に下る。Yの字の下半分に当たる部分だ。暫く行くとコース上唯一の集落に出た。大勢の人達が手を振って応援してくれる。地元で初めて開かれるマラソン大会を目の当たりにして嬉しいのだろうか。集落の名は茂庭(もにわ)。珍しいその名称にピンと来るものがあった。 伊達政宗の重臣に茂庭周防がいる。彼の本来の姓は鬼庭だった。さる戦いで武勲を挙げ、政宗から鬼庭に代えて茂庭の名を賜った。その時に与えられた知行地がきっとこの地域だったのだろう。だが天下統一を目指す秀吉の小田原攻めに政宗は遅参した。一旦は怒った秀吉だが、切腹を覚悟し白装束で現れた政宗を見て、領地替えすることで許した。 取り上げられた領地は福島の伊達郡。ここは伊達氏の本貫(ほんがん=出身地)で気候温暖の肥沃な土地だった。先祖伝来の領土を失った政宗の無念さはいかばかりだったろう。その代わりに与えられたのが岩手県の北上市以南の冷涼な土地。このことで茂庭氏の知行地も、仙台市近郊に代わった。周防はその土地生出(おいで)を新たに茂庭と名づけた。こうして福島と仙台に2つの「茂庭」集落が誕生したと私は考えたのだ。 集落で折り返すとコースはダムの頂上までの急な登りとなる。私の側にはずっとH多夫人がついていた。いつもウルトラばかり走っているのでフルのペースが分からないと彼女。確かにそんなことがあるかも知れない。だがそのうちにきっと遅れるに違いない。私は内心そう思っていた。 坂道の途中で誰かが笑いながら追い抜いて行った。何というスピードだ。思わず顔を見たら東京のK合さんだった。それを慌てて追いかける宮城UMC群馬支部のメンバー達。信じられないことに、彼らは前夜1時過ぎまで飲んでいたようだ。それなのに有り余る元気はどこから来るのだろう。坂がきついのに加えて、真正面から吹く風が強い。これは大変なレースになりそうだ。 ようやくダムの上まで来ると堰堤に人だかりが見えた。ダムの上も大会のコースになっていたことに初めて気づく。コースはYの字の右上へと向かう。トップ集団の選手が見え出す。いずれも若い人ばかり。3位の選手の胸に「筑波大大学院」の文字。思わず「筑波頑張れ~っ!」と声を上げる。昔私が10年間働いた懐かしいところだった。 コースからはダム湖の「茂庭っ湖」が見える。湖底に沈んだかつての集落を偲んでつけた名前なのだろうか。そして周囲の山々には色とりどりの紅葉。実に美しい景色だった。だがコースは厳しいアップダウンの連続だった。 早くも折り返して来た走友が道の向こう側に見え出す。最初が宮城UMCの仲間のM黒さん。彼は7位ほどの位置にいた。次に明走会のT中さんが来た。彼女は「四万十川100km」女子の部で優勝し、総合でも9位に入賞した由。そして10月は千km以上走破したとか。全く凄い人だ。仲間のS間さんが「リリー!」と呼んだのは彼女の愛称だろう。女子2位のランナーがピッタリ後についているのを見て、思わず「T中さん頑張れ~っ」と叫ぶ。 次に見えたのが大崎市のS藤さん。彼は相変わらずの真剣な表情で黙々と走っていた。その暫く後にD口さん、Y川さん、O川さん、K合さんが続いて見えた。大崎市のT田さんは手を振りながら余裕たっぷりの走りだ。 ようやく折り返し点に到達。スタッフに聞くと9km地点のよう。復路でM井さんが先導する姿を発見。側にはE名さんが付き、笑顔で走っている。初フルなのに何と言う余裕だろう。その直ぐ後にはY広さんも頑張っていた。こうして仲間達の走る姿を確認できるのは、折り返し点の多いレースの楽しみかも知れない。<続く>
2007.11.07
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<ダムに冷たい風が吹く> レース当日の朝、待ち合わせ場所のスーパー前に行く。まだ時間前で誰も来ていない。やがてE名さんがご主人の車でやって来た。彼女は今回が初フルのデビュー戦だ。不安な様子の彼女に私は言った。「練習で20km走れたらフルは走れるんだよ。そしてフルを楽しく走れたら100kmは走れるし、100kmを楽しく走れたら200kmも走れる」。「どうして?」不思議そうな彼女。これまでの経験から言って、レースでは普段隠れている力が自然に出て来る。レースにはそんな不思議さが潜んでいるのだ。 Y田さん運転の車が来た。同乗者はK山長老、O川さん、Y川さんだった。次の場所にはD口さん運転の車が待っていた。こちらの同乗者はM井さんとY広さん。E名さんはそちらへ移った。2台の車は東北道経由で福島へと向かう。 久しぶりに仲間と会えたのが嬉しい。Y田さんは当選した「東京マラソン」のエントリーを済ませたようだ。一頃は出ないなどと勿体無い話をして、仲間をヤキモキさせていたのだ。入院して検査を受けていたO川さんの奥様は、結局何事もなかったとのことで一安心。Y川さんはレースが終わったら夕方の6時には仙台に帰り、今晩は仕事で釜石に行くとのこと。これは大忙しだ。 長老のK山さんは本来ハーフを走る予定だったが、もし今回完走出来たら来年ゴールドコーストマラソンへ行きたいと奥様に申し出る由。そして初フルのE名さんの完走を助けるため、M井さんが伴走することも聞いた。このレースにかけるそれぞれの意気込みをひしと感じた私だった。 車は高速を降り、飯坂温泉に向かう。まず受付会場の「パルセいいざか」を目指す。そこでスタート地点へのバスに乗る積りだった。だが、一方通行が多くてその場所になかなか辿り着かない。結局温泉地の中をグルグル回る羽目になった。受付を済ませると、預ける荷物は小さくしてくれとか注文が多い。第1回だし、勝手が分からないのだろうが面倒なので、急遽スタート地点まで車で行くことになった。 初めての道は山へ入ると結構な勾配になった。所々道幅が狭い箇所もある。当初は温泉の近くからスタートする予定が警察の許可が下りずにコースを変更したと聞いたが、なるほどと頷ける。かなり走ってようやく摺上ダムが見える場所まで着いた。広々とした空間に幾つかのテント。そしてそこからかなり離れて駐車場があった。 車を降りてビックリ。受付会場の飯坂温泉では暖かかったのが、急に寒くなった感じ。太陽が雲に隠れたせいだけではなく、風がやけに強くしかも冷たい。スタート時間まではまだかなりある。これは作戦を変更するしかない。一度はランシャツに付けたゼッケンを、慌てて半袖Tシャツに付け替えた。寒さで震え上がる仲間達。手袋を持って来てないY広さんに薄手のを貸し、私は少し破れたのをポシェットに仕舞った。 300mほど離れたスタート地点まで様子を窺いに行く。地元の野菜や果物などの土産コーナーも荷物を預かるコーナーもあった。スタートの直前まで暖かくし、しかもゴール後直ぐに着替えるためには荷物を預けた方が良いと判断。車まで戻った後はアップを兼ね、ダム方向まで軽くランニング。 ロックフィル方式のダムをこんな身近で見たのは初めてのこと。近寄るとダムの巨大さが実感できた。大きな岩に手で触れて見る。緩やかな勾配なので登れそうだが、近くにダムに登るのを禁じる看板があった。9時40分。覚悟を決めて服を脱ぎ、荷物が入ったリュックを預ける。仲間はそれぞれのゴール予想タイムの集合場所に散った。10時ジャスト。寒空にピストルの音が鳴り響いた。さて、今日は一体どんなレースになるのだろう。<続く>
2007.11.06
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<新しく出来たフルマラソン> 摺上(すりかみ)川と言う名を初めて聞いたのは、昨年妻と二人で飯坂温泉にある片岡鶴太郎美術館を訪ねた時のことだったと思う。摺上川は湯の町飯坂温泉のすぐ側を流れる川だ。多分阿武隈川の支流の一つだろう。 その上流にある摺上ダムが地元の期待を集めて、約30年もかかってつい最近完成したことを教えてくれたのは、先週筑波時代の悪友達と麻雀大会をこの温泉で開催した時に乗った、タクシーの運転手さんだった。 そのダム周辺で福島県で初めてのフルマラソン大会の開催を企画中だと聞いたのは、準備のための練習会に参加したD口夫人からだと思う。まさか自分がそこを走ることになるとは、その時は全く思いもしなかった。それが現実のものとなるきっかけは、同じ走友会のM仙人の一言だった。 今年、私は毎月1回フル以上のレースに出、完走することを目標に掲げた。だが走力が劣る私にとって11月のレースだけが心配だった。12月の第1日曜日はNAHAと決めていた。昨年の11月は「筑波マラソン」に出たのだが、これはNAHAの1週間前にある。コースはフラットで走りやすかったが、1週間後に次のレースに臨むには少し無理があったようだ。 かと言って栃木の「大田原マラソン」では荷が重過ぎる。何分制限タイムが4時間。今の自分にとって、これをクリヤーするのは至難の業だ。そんな時に聞いた「Aさん、飯坂には行かないの?」と言うM仙人の何気ない言葉が、私をこのレースにぐっと引き寄せることになった。そうか、こんな身近な所でフルを走ることが出来るんだ。仲間もたくさん参加するようだし、きっと楽しいレースになるぞ~。 「ヒョウタンから駒」のように決まった参加だが、レースとコースの情報は乏しい。ダムの周辺を走ることは分かった。季節柄、眺めは良いだろうが、若干のアップダウンは覚悟しなくちゃいけないだろう。レースの1週間前には徹夜麻雀があり、その後も色々草臥れることが続いた。元々記録は期待していないけど、今回は完走出来れば良いだろう。そんな心境で臨んだ大会だった。 ダム周辺の道路が山形の高畠へ抜けると知ったのはレース会場に着いてからだった。またその道が宮城県七ヶ宿町の稲子へも通じていることを、この朝車に乗せてくれたY田さんの言葉で知った。天気予報だと当日の福島の天気は晴れで、最高気温が19度Cに達することを確かめていた。思わぬ風雨に苦しんだ先月の「いわて北上」の二の舞はせぬよう、長袖、半袖のTシャツ、ランシャツと全て準備はしていた。ただ下はランパンで十分。念のために手袋も2種類持った。 結果は強風と坂に散々苦しめられたレースになった。帰りに寄った飯坂ラーメン店の若い店主が「ダムの周辺は県境の峠に近く、この辺の平野部とは全く天気が違うんですよ。天気が変り易い上に風が強いんです」と話していた。なるほどねえ。しかし、そのことを予め知っていても展開は変らなかったろうけど。それにしても飯坂温泉の奥に、あんな道があったとは。そして昔から羽前(山形)や陸前(宮城)の人々が行き来していたとは。いつものことながら「道」の不思議さを感じてならない。<続く>
2007.11.05
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大勢の仲間と参加した「第1回湯のまち飯坂ふくしまマラソン」から無事帰宅しました。コースは飯坂温泉から山手に入った「摺上ダム」の周辺を何度か周回するもので、風は強く坂は厳しくてとても苦しみました。 エントリー料金は4000円だったと思うのですが、参加賞として地元特産のリンゴ(富士)、地元の料理である「イカニンジン」、リンゴジュース、地元の名水(ミネラルウォーター)、カラーのTシャツと盛りだくさんでした。温泉にも入れたのですが、名物の「飯坂ラーメン」を食べて帰宅を急ぎました。 タイムは4時間17分00秒で男子60歳以上の部の45位でした。エントリー数は814人だったようです。第1回の割には多いのではないでしょうか。一緒に行った仲間も全員完走。今日が初フルだった人も4時間台での見事な完走でした。完走記は明日書き始めたいと思っています。ああ疲れた~!これで今年は何とか11ヶ月連続完走を果たしています。
2007.11.04
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今日は妻と二人でバスツアーに行って来ました。行き先地は福島の奥会津にある大内宿。楽しい旅になるはずだったのですが、添乗員さんのお蔭で散々な旅になりました。明日は早朝から「飯坂ふくしまマラソン」へ出かけるので、その理由だけ書き旅の顛末は改めて書こうと思います。1)集合時間前に集まったのに何だかつっけんどん。2)十分時間があるのに3箇所しかない見所のうちの1箇所を飛ばした。3)言葉遣いがぞんざいで話にならない。言葉を知らない。4)説明が足らないし、説明したことがデタラメ。5)結局時間が余って乗客からブーイングの嵐に遭い、飛ばした見所まで40km戻った。6)揺れるバスなのに高いヒールの靴を履いていて危ない。 景色と天気は最高だったんですが、あんな添乗員さんは初めてでした。う~ん。
2007.11.03
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心配性の妻は子供達の将来についても心配しています。四国に嫁いだ長女については心配はないのですが、長男と次男が現在就いている仕事は安定的なものでないことから、彼らの経済状況や結婚など心配の種は尽きません。彼女が管理している我が家の資産を、イザと言う時は彼らへの援助資金としても考えているようです。男の私は思います。自分の人生は自分で切り開けと。ただ、私なりに彼らのことを心配はしています。私だって親ですもの。 妻は子供達の年金のことも心配しています。長男は仕事が変わっても何とか厚生年金が出る職場にいます。次男の方は自分で国民年金を支払っているようです。今話題の年金は問題だらけです。「請求主義」とやらに胡坐をかいて、社会保険庁の職員は不正をするし、監督官庁は大事な積立金を無駄な施設に投入するなどデタラメを重ねて来ました。 国民年金は満額支給で7万円ほどとか。これは生活保護を受給する場合の半分強のようです。長い間支払い続けて、月額7万円足らずの年金でどうやって暮せるのでしょう。これから年金制度がどう変るのか、果たして子供達が年金をもらう頃はどうなっているのか、想像するのは難しい感じですね。 私はどちらかと言えば「子孫に美田を残さず」と言う考え方です。つまり葬式を出した後は資産がゼロになるのが理想と思っています。もちろんある程度の遺産は生前に分与しておくのですが。人間ゼロから生まれてゼロに帰る。シンプルで良い考えのように思うのですがどうでしょうか。ただ、残された家や土地などはやがて子供達が売り払うことになるのでしょうね。そうでもしないと、多分相続税を支払えないでしょうから。 さて、いつも通る地下道に、最近ホームレスの姿が目に付きます。中には40代と思える人もいます。まだ服装や表情が荒んでないので、つい最近ホームレスの仲間に入ったばかりのようです。彼の人生に一体何があったのかは分かりません。「人生双六」のサイコロの目が何かの弾みで変わると、思いもしなかったホームレスに誰しもなる可能性があるのかも知れません。 イソップの寓話である「蟻とキリギリス」のお話。極端な「蟻」や「キリギリス」はあまりいないとしても、こんな世の中ですからもっと若いうちから人生設計を真剣に考えないといけないのでしょうね。「よ~く考えよ~ お金は大事だよ~♪」。 私の小遣いを巡って妻と大喧嘩したことが、マラソン好きのキリギリスにとって少しは反省につながるでしょうか。明日は今年7回目のバスツアーに妻と出かける予定です。<完>
2007.11.02
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妻の趣味は油絵を描くことです。静物画を中心に描くクラブへは月3回通い、風景画を中心に描くクラブへは月1回通っています。風景画の方は仲間と一緒にバスで目的地へ向かい、夏の間は1泊することもありました。絵の具やキャンバスなどの画材、先生へのお礼(月謝)、旅行代など含めても、毎月2万円まではかからないと思います。 妻が小遣いを持ってる様子はありません。きっと家計からそれらの経費を支出しているのでしょう。今年は私と2回、妻一人だけで1回展覧会を観に行っています。それらも私のマラソン費用に比べれば微々たるものでしょう。 私はもし妻がルーブル美術館やボストン美術館を観に行きたいと言えば賛成します。たとえ1ヶ月間世界を旅しようと、妻が稼いだお金を使うのなら何も文句はありません。でも妻の性格を考えれば、きっとそんな「勇気」はないでしょうね。 妻は私の乏しい給料で長い間良く遣り繰りしたと思います。バブル期には資金運用でかなりの額を蓄えたようです。そのお蔭で我が家もほとんど借金無しで建てることが出来ました。もっとも土地はかなり前に入手していたのですが。その自宅も今年は建築後10年を迎え、屋根と外壁の塗装工事をやりました。結構な金額でしたよ。 今年は20年間使った冷蔵庫にガタが来、買い替えました。10年間使ったガステーブルも故障続きで、とうとう買い替えることになりました。これからも風呂釜などの交換が予想されます。家を建てて維持するためには、膨大な経費がかかるのですねえ。 一方、収入はどうでしょう。昨年から満額出た私の年金だけでは生活を維持できないと妻は言います。私が見ても、我が家で無駄をしてるような箇所は見当たりません。それどころか、家計を担当している妻を見ていると、日々の買い物にも結構細かく神経を使ってる感じです。 これは例え話ですが、もし私が妻に代わって家計を担当するようになったらパソコンに家計簿のソフトを入れ、それで管理しようと思っています。それらのデータが何年分か蓄積されたら、来るべき老後へ向けて、どんな項目にどれくらい費用がかかるか推計することが可能かも知れないし、どの動産がいつ満期になるか一目瞭然になり、資産運用の手助けにもなるかなと思うのです。でも、妻が私に家計を預けることはないでしょうね。きっと私のことを浪費家のキリギリスだと思っているでしょうから。 本当は男が家事を分担したり、家計簿をつけることはとても良いことだと思います。何故なら老後に備えた夫自身の訓練にもなり、家庭全体の経済感覚を磨く良いチャンスだからです。きっと女とは違った視点でものごとが見えると思うのですが。 先日妻と「ガス展」を見に行った時のこと。妻はしきりに魚焼き網のフッ素加工だけを気にし、それがついたメーカーのものを買おうとしていました。私はそれを止めさせ、テーブルが傷つきにくく、掃除し易く、かつ煮こぼれしにくい型の方を選ぶよう説得しました。その方がガス器具の劣化が少なく、一流メーカーのためアフターサービスも良いと考えたからです。 妻の選んだのは、一度も名前を聞いたことのないメーカーでした。そして妻は私の推薦理由に納得したようです。もし妻一人だけでガス展に出かけたら、別の製品が家に届いたことでしょう。結果的に「安物買いの銭失い」にならないで済んだと、妻は喜んでいます。アンケートに答えて「味噌」も2個もらえましたしね。(笑)<続く>
2007.11.01
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今、私が最も情熱を傾けているものは、やはりウルトラマラソンでしょうね。50歳の時に初めて「第1回四万十川」で100kmを走って以来、すっかりその魅力に取り付かれています。ところがこのウルトラマラソンを走るためには幾つかの条件があります。まずは体力的な問題。そして経済的な余裕と時間の余裕。最後に家族の理解も必要です。 100kmもの距離を走り抜くためには、強靭な体力と気力が要ります。ウルトラはどこででも開かれているわけではなく宿泊が伴います。エントリー料も普通のレースの4倍ほどになるし、交通費もかかります。遠くへ行けば仕事を休まなければならず、職場にも影響を及ぼします。また留守にする期間、家族にも負担がかかります。これらの問題をクリヤーして初めてウルトラマラソンのスタート地点に立てるわけです。 昨年から自分が稼いだ分は自由に使えることになり、ずいぶん参加レースが増えました。多分最後のチャンスだと思って、今年は毎月フル以上のレースに出て完走することを目標に掲げました。でも来年もそれを目標にとは考えていませんでした。来年はウルトラのレースを中心にじっくり走る予定でした。その一番目のレースが「宮古島ワイドー」でした。 それを何かで知った妻が激怒したのです。12月にNAHAに行き、翌月が宮古島です。2ヶ月連続で沖縄に行くほど余裕があるのだと考えたようです。実は余裕はありません。10月と11月のレースが近場なので、なんとか遣り繰りすればどうかなと言ったところで、宮古島の分は、ツーリストへ支払いもしてない状態です。 マラソンのレース、特にウルトラ関係ではずいぶん前にエントリーしますから、よほど予算執行計画がしっかりしてないと財布が持ちません。来年はウルトラが多くなる分レースに出ない月を増やそうとしたのはそのためです。我ながら実に厄介な趣味を持ったものです。(笑) 参加レースの対象も一部見直しを始めていました。例えば来年の11月に参加する予定だった「屋久島エコジャーニーラン80km」は、新幹線と飛行機の乗り継ぎにした場合、総額で12万円以上になることが試算で分かり無理だと諦めたし、3月の「伊豆大島100km」も結構高くつくので他のレースにする積りでした。 それにこれまでは家計から出してもらっていたパソコンの更新費用も、何とか自分の小遣いで買うため資金を少しずつ貯める気持でいたし、遠くに住む孫達にも何か送って上げたいと考えていました。自分の趣味の実現が中心かも知れないけど、やはり自由に使えるある程度のお金は必要ですね。 大喧嘩の結果、小遣いがこれまでの半額ではなく、今月は5千円で、来月から毎月1万円の減額で決着したのは確かに痛いけど、どうにも遣り繰りがつかないと言う訳ではないのが救いです。それにしても今はまだ体が元気で、過酷な肉体労働にも耐えられるから良いのですが、果たして何時まで働けるのか。それより何より、何時まで会社が私を雇ってくれるのかが問題でしょうか。その時には、小遣い確保のための新たな闘争が始まるかも知れません。(笑)<続く>
2007.10.31
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夏の終わりに種を蒔いた春菊が大きくなり、何度も料理に使っています。秋蒔きの京水菜も食べられるようになりました。柔らかいうちなら生でサラダにしても大丈夫のようです。さて昨日はようやくタマネギの苗を買うことが出来ました。今年は夏が暑かったせいで、農家が種を蒔くのが遅れたようです。あまり早く蒔いて成長が進むと、茎が硬くなるみたいです。 その苗も園芸店2箇所に確認してから買いました。1箇所目は50本で500円だったのが売れ残り、400円でした。でも葉が黄ばんで来たようで?マークです。2箇所目は100本で600円でした。私はその店に買いに行くことにしました。確認したのは値段だけでなく、もし行ってもなかったら無駄足になるからです。 春は春野菜の種。夏は夏野菜の苗。そして秋から冬へかけての種と苗。肥料や石灰や庭の芝。それだけでなく庭の草花に関する経費もほとんど私の小遣いから出しています。植木鉢の花も季節毎に入れ替えるので結構馬鹿になりません。先日まで園芸に関する経費は年間2万円ほどと思っていたのですが、どうもその倍は掛かっているようです。もっとも正確な計算は一度もしたことがないので、単なる勘なのですが。 新鮮な野菜は我が家の健康を守ります。また美しい花々は私達の心を慰め、生活に潤いを与えてくれます。小遣いの少なかった時期は、それらの経費を家計から出してもらうために、一々領収書を見せて妻に請求していました。でも小遣いが増えた昨年以降は、自分で出すことにしました。私にはこの方が気持が良いのです。好きな野菜を育て、好きな花を植えられるのは実に嬉しく楽しいことです。 東北楽天の応援も楽しみの一つです。一昨年の1年目には2回しか球場に行けませんでした。昨年はファンクラブに入り7回球場に観戦に行きました。今年はほとんどレフトの自由席、つまり楽天の応戦席に23回行きました。もう単なる「観戦」じゃないのです。田中マー君のレプリカユニフォームも買いました。すっかり「はまった」んですよねえ。(笑) 来年は3500円のレギュラー会員から、1万500円のゴールドクラブに入ろうと考えていました。そうすると素敵なユニフォームなどをもらえるのです。そのユニフォームを妻に着せて、一緒に土曜日のデーゲームに行こうと思っていました。妻は常勤からパートに切り替わると土曜日がフリーになるからです。でも今回の減額でやはり今まで通りレギュラー会員のままで行くしかないでしょう。もう贅沢は出来ませんからねえ。 さて、肝心のウルトラマラソンですが、長くなったのでこれは明日書くことにします。
2007.10.30
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妻は働いており、自分名義の動産を持っています。私名義のものとほぼ同じ額だと彼女は言います。(我が家では全て彼女が財産を管理してるので)彼女名義のお金は、将来自分が特別養護老人ホームへ入る場合の資金にするのだそうです。そして間もなく常勤からパートに切り替えてもらう予定のようです。 彼女の仕事はホームヘルパーですが、常勤だと盆も正月もないくらい仕事が入ってクタクタになります。勿論私も出来るだけの手伝いはしています。ここに書き出したら多分ビックリするくらいです。ある時彼女に「他の家の仕事を手伝ってお金を稼ぐのは良いけど、疲れ過ぎて自分の家の仕事が出来ないようじゃ仕方ないんじゃないの」と言ったことがありました。 彼女は黙っていましたが、自分としても仕事を減らす時期だと考えたのでしょう。そしてつい最近、職場にその申し出をしたそうです。大喧嘩の原因になった私の小遣いを減らす件にはそんな伏線があったのです。私が潤沢な(?)小遣いを自分一人で楽しむために使うのじゃなく、夫婦二人で楽しむ資金の一部にしたいと言うのが彼女の主張です。 老後に備えて貯金をするのも、夫婦で共通の楽しみを持つのも悪いことではありません。むしろ賛成すべきことでしょう。でも、だからと言っていきなり夫の小遣いを半分に減らすと言う考えはどうでしょう。それも自分がそう考えたら、いとも簡単に実現するだろうと言う感覚が、私にはとても理解できないのです。 前職を退職してからは毎月の小遣いが2万円と言うルールで3年間我慢して来ました。年金が満額出るようになったら、私が稼いだお金は自由に使うと言うのが口論の末に決めた我が家の約束でした。それを突然半額にするとの「お触れ」ですから、私が納得が行かなかったのも無理はないと思うのですがどうでしょう。 人間は必ず老い、そして死を迎えます。妻は自分が歳を取って認知症になることを恐れています。特別養護老人ホーム資金としての預金等もその表れなのだと思います。一方、男である私は自分の将来にほとんど不安を感じていません。出来れば70歳近くまで働き、それを資金にしてウルトラマラソンに挑戦し続けたいと言う、極めて楽観的な考えを持っています。 と言うより、趣味の一つであるウルトラマラソンに挑戦し続けることは自分の健康を保ち、若々しく老後を過ごすことに繋がると考えています。つまりランニングは惚け防止になり、結果的に医療費を抑えることになると言う思いでいるのですが、その気持が妻には通じないようですね。
2007.10.29
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昨日から福島の飯坂温泉へ行ってました。筑波勤務時代の悪友達と、年に一度の麻雀大会があったのです。幹事は私。昨年の愛知県犬山市の大会で私が優勝したからです。長老であるK間氏の開催地の希望は福島の飯坂温泉か白河だったため、麻雀設備のある宿を探すのが大変でした。それも9人ほどの仲間の日程を下調べし、一番参加者が多い週末がどこかを確かめてからの宿探しだったので、連絡等に大わらわでした。 自宅から出かけた昨日は、朝から雨。おまけに最寄のJRの駅に着いたら1分前に福島行きの電車が行ったばかりで、1時間も待合室で待っていました。まあ本や雑誌を持って行ったため、読書が出来て良かったのですが。福島駅で慌しく福島交通飯坂線に乗り換え、終点の飯坂温泉駅で下車。天気が良ければ歩く積りでしたが、生憎の大雨でタクシーで宿泊施設へ。宿は案外近いところにありました。 既にF森氏が到着。彼は三重県津市の自宅を朝8時に出たとか。一番遠い人が一番早かった訳です。60近くになるまで独身だった彼がかつての部下でバツ1の女性と名古屋で偶然再会し、結婚したと聞いて驚いたのが昨年の大会。今回話を聞いたら、相手の連れ子の娘さんがつい最近お医者さんと結婚したとか。奥様のお母さんも同居している家は彼が購入したようです。私も彼に2回ほど見合いを勧めて断られたことがありましたが、人間には不思議な「縁」があるのでしょうね。 千葉、茨城組は雨の中を車で来たために遅くなり、電車で来た東京組みのうちの一人は福島競馬で大負けをしたみたいです。ともかく6時半過ぎに全員が揃い、温泉に入ったあと懇親会。幹事の私が冷や冷やするほどたくさんお酒を注文するんですよねえ。(笑)ずいぶん酔っ払った後は麻雀室に移動です。これが今回の一番の目的でした。 ゲームは4人制なので常に3人が余ります。昔ならイライラして待っていたのが、年を取った今ではのんびり風呂に入ったり、それぞれの部屋で寝ていたりと、大らかなものです。それに一番変ったのが、全員この数年で禁煙したことでした。今年70歳の古希を迎えたヘビースモーカーのK間氏も、喉の薬であるネオシ○ダーを吸って我慢していました。皆健康志向になったのでしょう。 金曜日の夜に女房と大喧嘩していた私は珍しく一晩中大酒を飲み、ゲームも大負けでした。喧嘩の原因は女房が私の小遣いを半分に減らすと言い出したことでした。私の生きがいであるウルトラマラソンにはお金がかかります。そのため過酷な肉体労働にも耐えて小遣いを稼いでいるのですが、女房の目から見たら、私一人が好き勝手してるとしか思えないのでしょう。 結局は今月5千円、来月からは毎月1万円を私の給料から家計に廻すということで決着したのですが、相当苦しいやりくりになることは避けられず、来年の遠征計画は一からやり直しになりました。そんなことが脳裏にあって悪酔いしたのでしょう。大会は筑波に住むF田氏が優勝したため、来年は久しぶりに筑波での大会になりました。 メンバーもそれなりに老化が進んでいますが、かつての悪友達に会える年に一度の大会を楽しみに待っているのです。10年間勤務し、命を懸けて仕事をした懐かしい筑波。来年はそこへ集合します。きっと厳しい財政状況にになりそうですが、レースを減らし筑波への交通費を蓄えておきましょう。勝負では負けましたが、筑波の地酒と奥久慈産のリンゴをお土産に帰宅した私でした。ああ眠~い。Zzz・・・。
2007.10.28
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今日は仕事を終えても真っ直ぐ家に帰らず用事を済ませることにした。まずは第2現場の休憩室で腹ごしらえ。食べたのは近所のコンビニで買った弁当。金398円也。値段の割にはまあまあの内容か。レンジでチンしてもらい、お茶と一緒に食す。テレビでは亀田興毅の謝罪会見の模様が写る。親父と次男大毅に代わっての謝罪は、時々言葉に詰まっていて彼の苦しい胸中が現れていたように思う。 食事を終え、仲間に挨拶してビルを出る。まず向かったのが銀行。そうそう今日はわが社の給料日なのだ。振込み額を確認して全額を下ろし、同時に通帳に記帳。残金はたったの300円あまりだった。(笑) 下ろしたお金で早速国民健康保険の保険料を振り込む。面倒なので妻には自動振込みをお願いしてるのだが、妻は妻で私の小遣いから保険料を支払わせようとして、申し出は却下されてばかりだ。そうなれば小遣いは半分に減って、私の生きがいの一つであるウルトラマラソンに行けなくなるので必死に抵抗している。(笑) 大体定年後にまで仕事をしてるのは、自由になる小遣いを稼ぐためだと妻も知ってはいるが、残業などで少し収入が増えると「損」したような気分になるのだろう。ケチの見本のようなものだ。(って、まさか女房はこれを読んでないだろうねえ?)わはは。 次に向かったのがとあるツーリスト。12月のNAHA行きの代金、残額4万円ほどを支払う。やれやれこれで大物は片付いた。来年1月の「宮古島ワイドー」分の残額は1月初めで良いので、それまでに節約してお金を溜め込む必要がある。次は書店で「ランナーズ」の12月号を購入。余裕があれば1年間とか3年間の一括払いをしたいところではあるが・・。 バスで帰宅途中、眠気が襲う。やはり週末は疲れが出る。今週も疲れる色んな「事件」があったっけ。途中で下車し最寄の生協へ。まず修理に出していたシューズの受け取り。これは左足の片方だけで630円だった。普段履きに下ろしても良いのだが、練習用だとまだ履けそうなので修理に出してみたのだ。修理店の値札を見たら傘の骨も1本150円で直せるみたい。しまった!あの大きな傘を捨てるんじゃなかった。 次に5千円のバスカードを女房名義の会員カードで購入。ポイントがつくのでそうしろと厳命を受けているのだ。(笑)これが終わると2階の床屋へ。ここだと60歳以上のシルバー年代は平日わずか千円で頭髪を刈ってくれ、おまけに専用のポイントカードにポイントが入る。 次にコンビニに寄って「つまみ」を買う。これは明日飯坂温泉で行う「麻雀大会」用で支払いはク○カードを使う。職場の無事故表彰の記念品だ。次が薬局で歯ブラシを購入。私の歯は「乱杭」状態なので直ぐに歯ブラシが駄目になる。女房が買うと安物が多いので、給料日くらいは質の良いものにしたいのだ。 最後に寄ったのがリカーショップ。カードが新しいのに切り替わった時に500円の割引券が送られて来たのでそれを使おうと思ったのだが、5千円以上のお買い上げじゃないと駄目と店員に断られた。う~む。我が家じゃ一度にアルコール類を5千円以上なんて買わないんだけどねえ。たまには美味しいお酒も飲みたいとは思っても、いつもは4リットルで2千円ちょっとの焼酎で我慢してるんだよね。 カードなんて無駄遣いの元だと思って滅多に使わない我が家。良く使うカードと言えば、結局は診察券とポイントカードくらいかなあ?今日は秋に相応しく懐の淋しい話でした。(笑)
2007.10.26
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<残り物に「福」あり> スタンドに上がるとO川さんが戻っていた。タイムは意外にも4時間7分ほどで、確かワースト記録とか。悪天候で冷え、体が動かなかったようだ。スピードランナーの彼と6分違いなら私にしては良く頑張った方だと納得。私にとっては気温が低い方が走りやすいのだ。 着替えをしているところへぬまっちさん登場。私達と会うためでなく、どうやらスタンドの壁に描かれている岩手県の郷土芸能「鬼剣舞」を撮影し、彼のHPに載せるためだろう。ついでに私達の写真も撮ってくれたぬまっちさんの次のレースは兵庫の「武庫川ユリカモメ」とか。 そう言えば「ユリカモメ」の主催者であるK浪さんをが走ってるのをレースの途中で見かけたっけ。そして今年も「別大」に出ることや、今から盛岡の友達と食事をする予定だと話して、ぬまっちさんは去って行った。これからも頑張れ~っ、ぬまっちさ~ん! 一旦車に戻って荷物を置き、財布を取って来た。まずスポーツショップに寄り、朝予約したロングタイツを買った。が、果たしてお買い得かどうかは穿いてみないと分からない。(笑)次に芋汁とお握りを引き換える。親切にもこの大会では昼食のサービス付きなのだ。会場で昼食を入手できないことも考え、念のため昨夜のうちにコンビニでお握りを買ってはいたが、これは助かる。 陸上競技場の屋根の下でO川さんと2人で遅い昼食を摂る。暖かい芋汁が冷えた体を芯から温めてくれた。ところが時々強い雨が風に乗って吹き込んで来る。その氷雨の中を力走する大勢のランナーが目の前を通過して行く。全く気の毒だが、これもまたレースのうち。私達ももう少し遅かったらずぶ濡れになっていたはずだ。 人心地ついてテントの方に向かうと、何やら良い匂いが漂っている。ひょっとして前沢牛の焼肉か?近づくと大勢のシェフの人が大きな骨から肉を削り取っていた。訊ねるとこれもランナーへのサービスだったとか。「どうしても食べたいんですけど」。思い切ってお願いすると、親切にも最後の肉を切り取って紙皿に分けてくれた。 ん、ん、ん? これは美味い。まるで高級和牛のような味だが、実は岩手県産豚を一頭丸焼きにしたものだと言う。「残り物に福あり」とはまさにこのことか。たまたま覗いたテントで思いがけないご馳走にありつけるとは。レース結果には不満だったO川さんも大いに満足したような顔でパクついていた。(笑) 最後にもう一軒、この日のために遠い石垣島から出店したテナントを覗いて見た。宮古上布か、それとも八重山紬か、多分沖縄特産の布で仕立てられたと思われる渋い和服を着た老婦人が所在なさそうな様子で立っていた。急いで泡盛の値段を見る。一升瓶の「請福」がなんと5千円!う~む。きっと5年もの以上の上等な古酒(クースー)だろうが、それにしても高過ぎて手が出ない。諦めて帰路に就く2人。 帰りの東北道でも所々で雨に遭った。強い風と雨に悩まされた今日のレースだったが、これで何とか10月のレースも完走、10ヶ月連続での完走達成となった。O川さんには自宅の直ぐ前まで送ってもらった。また佐渡での借金も無事返却できて一安心。O川さん、本当にお世話になりました~!! 帰宅後は早速愛犬と散歩し、裏磐梯へ絵を描きに行っている妻に代わって、いそいそと夕食の準備をした私だった。<完>
2007.10.25
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<雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ> 30km地点からは北上川を渡らずに直進。ペースは依然としてキロ6分を切っている。左手に展勝地公園の広い敷地が見え出す。手入れされた美しい松並。そして32km地点には「みちのく民俗村」の古めかしい門が見えた。この辺りからスピードの落ち出したランナーをドンドン抜く。これは前半抜かれた「お返し」だ。 34kmから右折し国見橋を渡って北上川と4回目の遭遇。川面を渡る風がきつい。おまけに36km地点からは徐々に登りとなる。太股を叩いて自らを叱咤激励。頑張れ~自分。これが本当の「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」だ。(笑) 辺りの景色が変わりスタート地点の運動公園が近づいたことが分かった。でもコースは無情にもそのまま運動公園には向かわず、周囲を大回りするようだ。それも坂道の連続。朝コースの経路図を予め見ていたので覚悟は出来ていた。マラソンも人生も辛抱が大事。そして最後までしっかり走れるための体力を温存しておくのがレースのコツだ。 途中まで食い下がって来た女性ランナーはとっくに引き離し、6km地点辺りで抜かれた静岡のS本さんもどこかで抜いた。だが運動公園近くで、「割烹鎌倉屋」の黒い上下を着た地元の女性ランナーに、執念で抜き返された。すらりとした下肢は普段からずいぶん練習を積んでる証拠だろう。 残りの距離表示の数字が減るのが嬉しい。だが運動公園の中に入ってからも遠回りしてゴールが遠い。ようやく後1kmの表示。近くにいたスタッフが、これからグラウンド内を2周すると教えてくれた。「ええっ、まだ2周も?!」グラウンドに入ってスタンドを見上げたが、O川さんの姿はない。寒さを避けるために車に乗ってるのかも。 1周前に黄色いユニフォームのK村さんがゴールするのが見えた。走り終えてにこやかな表情の彼女。最後の力を振り絞って、さらに数人のランナーを抜きにかかる。第4コーナーを曲がり、4時間13分33秒でついにゴール。206kmも走った「佐渡島一周」の後にしては上出来で満足。 チップを外し、飲み物と完走証を受け取りスタンドに向かう。総合375位は中ほどの成績か。そして60歳代男子の部では39位。これもマスターズ選手権を兼ね強い選手が集まった中ではこんなものかと思う。トイレに入ると、なにやら見覚えのある顔を発見。ネットの古い走友「ぬまっちさん」だった。 ファンランナーだった頃の彼は「カンガルー」の衣装をつけて走っていた。それが毎週のようにマラソンを走っているうちにサブスリーを達成し、「別大マラソン」に出場するほどの本格的なランナーに成長したのだ。彼とはこれまでNAHAマラソン、北海道M、青島太平洋M、長野マラソンで会ったことがあった。
2007.10.24
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<悠々と流れる北上川> 8km地点を過ぎると少し先に川が見えた。岩手と宮城の両県にまたがる北上川だ。橋の手前に古い船着場の名を発見。江戸時代の北上川は舟が運搬の手段として活躍していたのだ。そしてこの辺りは確か伊達藩の領土だったはず。「青々と柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けと如くに」珊瑚橋の上を走りながら啄木の短歌を口ずさんでみたが、果たしてこれで正しかったのか。(笑) 遥かに歴史を遡る古代の陸奥では蝦夷(えみし)が実効支配していたが、朝廷の命を受けて国府多賀城などから次々と討伐隊が送られ、征服後は最前線に城が築かれて行く。伊治(これはり:宮城県栗原市)城、胆沢(いさわ)城、紫波(しわ)城、徳丹(とくたん)城(いずれも岩手県)などがそうだ。その蝦夷征伐の際も本隊は北上川を舟で進んだようだ。そう言えばコースの6km地点手前、支流の和賀川に架かる橋が九年橋と言う名前だったが、きっと「前九年の役」から採ったのだろう。 10km地点から、コースは完全に北上川沿いの道になる。時々強い向かい風。そして畑には真っ赤なリンゴの実。道端で熱心に応援してくれる集落が多く、中でも12km地点の黒岩集落では、地元のウグイス嬢によるゼッケンと名前を読み上げながらの応援が嬉しかった。 12km地点から20mほどの登り坂になり、少しだけランナーを抜く。18km地点で再び北上川に架かる昭和橋を渡る。風が吹き抜ける川面に数十羽の鴨が泳いでいる。この辺りから歩き出すランナーがボチボチ目に付く。ずいぶん多くのランナーに抜かれた私だったが20km地点でもまだキロ6分を切るイーブンペースを維持している。練習不足の割には案外順調だ。 25km地点手前で3度目の北上川。橋の名前は中央橋。雨が降り出したのはこの辺りだったろうか。晩秋の岩手に降り注ぐ氷雨。天気予報と違って大荒れになったが、これもまたレースのうち。ASで初めてバナナを食べエネルギー補充に努める。そしてペットボトルにはアスリートソルトを6粒ほど混入。気温が低めでも用心するに越したことはない。 中央橋を渡り切ると再び往路に戻った。帰路の黒岩集落は26.5km地点。冷たい風に乗って流れて来る、ウグイス嬢の心のこもった応援が心と耳に暖かく響く。ランナーにとっては何ものにも替え難いサービスだった。
2007.10.23
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<突然の「初めまして!」> 目覚ましを4時ジャストにセットしていたのだがその2分前に目覚めた。夜半0時過ぎに愛犬が放つ声に目が覚めパジャマの犬小屋へ行くと、彼は散歩に行けるものだと勘違いして盛んに尻尾を振っていた。結局庭でオシッコをさせて再び床に就いたのだが、そんなことがあって多少寝不足になっていた。起床後着替えをして直ちに愛犬との散歩に向かう。 道はまだ真っ暗だが、少し体を動かした方が朝食が美味い。帰宅後朝食を済ませてバス停に向かう。5時30分に仲間のO川さんが迎えに来てくれることになっている。見慣れない車が接近し、O川さんの笑顔が見えた。何と彼の愛車は車体が低いスポーツカーだった。 東北道を北上市へまっしぐら。1時間半ほどで会場の「北上総合運動公園」に到着。ここは5月末にある「いわて銀河ウルトラ」のスタート地点なので馴染みがある。車から降りると風が強い。確かに天気予報では仙台より3度ほど低い気温ではあったが、風のせいで体感温度はさらに低く感じる。公園の中の桜の木が美しい紅葉と化していた。 受付を終え、着替えのために陸上競技場のスタンドに向かう。出来るだけ風を受け難い場所を探す。いつもならランシャツランパンが私のスタイルなのだが、この日は上は半袖Tシャツ、下はハーフタイツしか持って来なかった。そして手袋はポシェットに忍ばせていた。 競技場内で準備体操をした後、グラウンド内を軽く2周する。スタンドに戻ってバナナと大福を食べ、栄養剤を飲む。この後スポーツグッズの出店を覗き、ロングタイツを予約。仙台の業者で「いわて銀河」や「磐梯高原」などのレースでも買っているし、車の中に財布を置いて来たからだ。 場内のアナウンスで招待選手の紹介と、公式タイムを得るためにネパールの選手がフルマラソンに出場する旨の紹介があった。8時50分のスタート時間が迫りいよいよグラウンド内へ。陸連登録のO川さんは最前列へ向かった。他の仲間を探すとK山さんが鉄人製作研究会のS井さんと一緒におられた。塩竃FMCのK村さん、住吉台走友会のS木さんにも会って挨拶。 ユニフォームの名前で沖縄の石垣島の選手を発見。沖縄の人にとっては、今朝はさながら冬の気温だろう。「いわて北上M」と「石垣M」は姉妹レースのようだ。数年前の冷害の年に、岩手産「ひとめぼれ」の田植えを引き受けてくれたのが確か石垣島だったはず。きっとそれ以来友好関係が芽生え、お互いに優秀選手を派遣するようになったのだと思う。 秒読みが終わると同時のスタート。選手はまずグラウンド内を一周と4分の3ほど走って公園内へ、さらにそこから一般道へと向かう。参加選手数は800名足らずで、あっと言う間に先頭グループは見えなくなった。比較的前からスタートした私は後からドンドン抜かれる。 一般道へ出ると、コースは「いわて銀河」と反対の北上川方面に向かった。5km地点で27分台。自分としてはそんなに遅くないはずなのだが。6km地点辺りで後から「初めまして!」の挨拶にビックリ。静岡のS本さんで、雲峰さんのHPなどで私のことを知ってるとのこと。たまたまどこかの掲示板に書いたゼッケンから名前を調べたようで、4月の長野Mでも同じくらいのタイムだった由。 今回もたまたまプログラムで名前を見つけ、ナンバーを覚えていたみたい。世の中には色んな人がいるものだ。忽ち遠ざかる彼の背中。そして早くも8km地点で第1関門発見。ここの制限はスタート後50分。ちんたら走っていたら、捕まってしまうところだった。危ない危ない。(笑)
2007.10.22
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今日は「いわて北上マラソン」でフルを走って来ました。朝8時50分のスタートでしたが、朝から気温が低いのに加えてコースの途中では雨や風があったりして苦しみました。完走記は明日書こうと思っています。とりあえず結果だけ記すと4時間13分33秒で総合375位でした。(60歳代男子だと39位です。)これで今月もフルを完走したので、10月までフル以上のレースに毎月出て完走すると言う今年の目標は、引き続き達成されています。(笑)
2007.10.21
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夜来の雨も上がり、今朝はすっかり秋晴れになった。先日張り替えたばかりの芝生や植え替えた庭の植木も、そしてわずかばかりの畑の野菜にとっても、昨夜の雨は恵みの雨になってくれたようだ。愛犬との散歩を済ませ、畑に肥料を撒く。 今日は妻とハイキングに行く約束をしていた。私は大雨で道路状態がどうか心配したが、妻の方はすっかり行く積りでいたようだ。まず最寄のJR長町駅までバスで行き、そこから東北本線と仙山線に乗り換えて愛子(あやし)駅で下車する。新設の「東北福祉大前駅」を初めて見たが、まさに大学の真ん前だった。 愛子駅から秋保温泉までが今日予定したハイキングのコースだが、「サイカチ沼」経由だと妻も2度歩いているため今日は「錦ヶ丘」経由にしてみた。瀟洒な郊外の団地の裏手には「西風蕃山」(ならいばんざん)の山並みが迫っている。県道は団地の入口から秋保方面に抜け、間もなく建築中の仙台市天文台が見えた。構内道路を整備中のようで、来春辺りにはオープンになるのだろうか。 山道に入りコースの最高地点が近づくと、遥か彼方に奥羽山脈から泉ヶ岳にかけての雄大な景色が一望できる。足元には山栗の実がたくさん落ちていた。真っ赤なガマズミの実の下で少し早い昼食。メニューはお握りとリンゴとカステラ。汗をかいた分お茶が美味しい。「サイカチ沼」への分岐点にあった案内標識が壊れていたが、今はハイカーが少なく釣り人くらいしか通らないので不便はないのだろう。 秋保温泉到着は12時40分ほど。入浴の準備も一応はして来たがそのまま歩くことにする。近所のスーパーの名物はおはぎだが、餡、黄な粉、ゴマを各2個ずつ購入し、「秋保里センター」へ。ここでは運良く、盆栽展とジャズのライブをやっていた。東屋の椅子に掛け、ジャズを聴きながら食べる「おはぎ」の味は格別だった。(笑) 休憩後はライブの横をすり抜け自然路経由で覗き橋へ。さらに紅葉し始めた磊々峡(らいらいきょう:夏目漱石の弟子の小宮豊隆=東北帝大文学部卆が命名)を歩く。名取川上流の小規模な渓谷だが累々たる大岩が眼前に迫る絶景だ。その近くのバス停からバスに乗って帰宅。歩いた距離は10kmほど。それでも帰りは疲れて眠っていたようだ。(笑) 仙山線に乗らずに国道経由で一周するとちょうど42kmになり、私も何度か練習で走ったことがある。自然が好きなのに普段歩く機会が少ない妻は、こんなハイキングでも結構喜んでくれた。今年妻と行ったバスツアーは6回。そしてこれからの予定が3回。たまの女房孝行も、家庭円満のためには良いかなと思う最近の私だ。
2007.10.20
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水泳の木原光知子が死んだ。水泳の指導中、急に倒れたそうだ。死因はくも膜下出血で享年59歳。まだまだ死ぬ歳ではないと、ニュースを聞いてもなかなか信じがたい。16歳でオリンピックに出た時から美少女で人気があった。大人になっても持ち前の明るさと行動力で、グイグイ周囲を引っ張って来た人だという印象が強かった。 あれだけの美人なのに何故か結婚はしなかった。(余計なお世話か)あれだけのアスリートなのに60前に亡くなった。日本女性の平均寿命に比べたら20歳以上若い死だった。彼女の死因だった「くも膜下出血」は、ある日突然頭蓋骨内で出血し、死に至る重大な病のようで、日頃から頭部のCTスキャンなどできちんと調べておかないといけないようだ。 そんなことがあったからだけではないだろうが、最近女房が私の生命保険の内容をチェックし始めた。私が加入した保険はかなり前の古いタイプのもので、死亡時に500万円出るだけだ。それを死亡時の補償額を減らす代わりに、入院時も補償されるよう契約を変更するみたい。これまで大手生保は十分説明責任を果たさず監督官庁から指導を受けたばかりなので、案外親切に教えてくれるようだ。 今朝の通勤時に本を読む積りが、仙台駅に着くまでグッスリ眠っていた。週末はやはり疲れが出るのだろう。8月から続いている第2現場での残業も、ようやく今月末で終わりそうな気配。12時に仕事を終え、空腹のまま帰宅ラン。低血糖で走るのもトレーニングのうち。 定禅寺通りでは黄葉したケヤキの葉が風に舞っていた。西公園の角でランナーとすれ違う。同じ走友会のG藤さんだった。「今日は、暫く~っ!」一瞬のうちに挨拶を交わす。確か昼休みも8kmほど走っていると聞いていたが、日中この辺を走ってると言うことは最近転勤でもあったのか。西公園の中に入ると、ギンナンの実がたくさん落ちていた。やはり季節は確実に秋になったようだ。 動物公園の裏では、地下鉄東西線関連の工事が進んでいる。駅予定地周辺の土地を整備しているようだ。日赤病院付近から赤いジャージーを着たM山高校の生徒が目立って来た。どうやら学校行事のウォーキングで太白山にでも行ったのだろう。案の定途中2箇所にチェックポイントがあった。 これで今週は5日連続での帰宅ランになった。日曜日に「いわて北上」でフルを走るのだが、「佐渡島」以降ほとんど練習をしていなかったのだ。それでもゆっくりならフルを走れるだろうが、レースに出るからにはある程度スピード感を養っておかなくちゃいけないし、今ならどのシューズが足に合うかを試しておく必要もある。 今年の目標だった「毎月フル以上のレースに出て完走すること」を9月までは達成出来たので、12月までの残り3回を何とか完走したいと思っている。話は変わるが、送られて来た「佐渡島一周」関係資料の中に、ゴール時の写真が入っていることに昨夜になって気づいた。まるで亡霊のような顔をしてるのは、40時間以上も眠らずに走り、歩いた疲労のせいだろう。 こんな写真はとても人様に見せられない。(笑)健康のためのランニングが健康を害する原因にだけはならないよう注意したいと思う。間もなく職場の健康診断と市が行う胃の健診を受ける予定だが、その前後にフルマラソンと徹夜の麻雀大会が重なる。果たして検査結果にどう影響するか。 さて、かねがねおかしいと感じていた「メタボリックシンドローム」の基準(日本人男子の場合)だが、そのうちの一つ「腹囲が85cm以上」について専門家の中にも異論が出て来たようだ。健康には十分注意している私だって85cmに近いんだもの。背が高く、体格の良い人なら85cmを越えるのはザラじゃないの~?
2007.10.19
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