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2016年12月12日
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カテゴリ: 越し方
池田勝三郎恒興の母は勝三郎を出産した年、幼児吉法師(信長)の乳母として織田信秀に厚遇され2人は兄弟のように成長する。
 勝三郎は青年期、信長の小姓と喧嘩の末、彼を切り殺して姿をけした。この時、勝三郎をかくまったのが森寺藤左ヱ門秀勝であった。また、後に信長が同族との戦い中に許しを得て再度信長に仕える橋渡しをしたのも藤左ヱ門であった。

 桶狭間の戦いで功をたてた池田恒興は信長麾下の侍大将になると、信長は老職に藤左ヱ門勝英をつけた。
藤左ヱ門は池田家将来のため、知勇兼備の組頭を信長の許しを得て家臣に組み込んでいった。
その中に太田氏、和田氏、片桐氏、土倉氏、伊木氏の名がある。

 平成8年 「備前藩筆頭家老伊木氏と虫明」邑久町郷土史クラブ編の抜粋です。

 ここにある伊木氏は、倉吉の家老家で伊木長門守忠貞の祖父のことです。
織田氏と斉藤氏との戦で難攻を極めた斉藤氏属城伊木山を落とした時、
 「香川長兵衛 一身の働きを乗っ取り比類なき高名せしにより、信長公これを賞し向後、伊木を氏とし清兵衛忠次と号せよと宣へり。よって香川を改め伊木とし清兵衛忠次と名乗った。忠次この時弱冠19歳であった。」伊木の姓は織田信長より賜ったものです。


 信長本能寺変ののち、秀吉に味方し、織田信雄を擁立する徳川家康との戦いで、長久手において、池田恒興、長子之助が戦死。忠次は2男輝政を守護して生き延びました。

 両軍は和睦し、池田家は、輝政を家督相続に忠次が奔走して成就させました。
豊臣あと徳川の世になり、池田家の処世訓は殊の外きびしかったことでしょう。伊木忠次の功績は絶大なものがあります。





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最終更新日  2016年12月13日 01時05分00秒
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