2012年11月29日
#2
ぼくは女にここで待っていてくださいと告げ、川に近づいた。
川の水が透明であることは確かだったが、残念ながらその底を見ることはできなかった。
怖い、という精神的な理由ではなく、物理的に「不可視」なのだ。
ここまでのドス黒い色を放つ理由は結局どうしてもわからなかった。
水が流れる重そうな音がわずかに耳に届いた。
ぼくは思い切って川に飛び込もうとした。
すると、足音も立てずに女がぼくのすぐ背後まで近付いていたらしく、待って、とぼくに声をかけた。
——目を、つむってください
——目を? そうすると、溺れずに渡れるんですか?
自分で声に出した「溺れる」ということばが耳に届いて自分が「怖い」と思っていたことに初めて気づいた。
それまでは不思議なくらい恐怖を感じていなかったのだ。
でも、一度気づいてしまったら今度は、恐怖が見えない川の底から川面へ、そして地面を伝ってぼくの足元から喉元まで一気にせり上がってきた。
——今、ここで目をつむってください。早く!
ぼくは思わずきゅっと目をつむった。
女の気勢に屈する形になった。
すると、ぼくの顔の前に女の気配を濃く感じた瞬間、ぼくの唇にやわらかいものが触れるのを感じた。
——さあ、目を開けてください。もう大丈夫ですから。
女がぼくにしたことの意味がさっぱりわからなかったが、おかげでぼくはもうどうしても川を渡らなければならなくなってしまったような気がした。
——恐怖は、自然に生まれるものではありません。自分の心が作り上げるものです。もう少し遅かったら、あなたは恐怖に食い殺されてしまうところでした。でも、もう大丈夫・・・
そう言って、女は川のほうを指さした。
どこにでもいそうな、ぼくと同年代の大して見栄えのする女ではなかったのに、伸ばした腕のしなやかさは、ぼくにとってとても貴重なもののように感じられた。
大丈夫な気がした。
ぼくは、そっと川に身を躍らせた——
——気がつくと、ぼくはまた元の河原にいた。
確かに川に入ったはずなのに・・・
ほんのわずかに、甘いにおいがどこかからか漂ってきたような気がした——いや、違う、ここは元の河原ではない。
川霞の向こうに、ぼんやりと女の姿が見えた。
女がぼくを見ているのか、それともまた別の何かを見ているのか、こちら側からは確認できなかったが、少なくともぼくが川を泳ぎ切ったことは間違いなかった。
ぼくの背後に細長い灰色の山があったし、女が川の向こうに立っているからだ。
でも不思議なことに、泳いでいる間の記憶はまったくない。
足元に、紫色の植物があった。
そこここに、ポツン、ポツンと奇妙な植物が生えている。
植物は花をつけていた。紫色の花だ。
しかし葉も紫だし、茎も紫だった。
他には玉石以外に何もなかった。
もちろん、女が何を求めているのかも、ぼくにはまったくわからなかった。
もしかしたら、女はぼくをからかったのだろうか?
川霞が濃くなり、向こうの景色はほとんど見えなくなってしまった。
向こうどころか、この勢いだとこちら側だって怪しくなる。
噴煙と川霞の区別がもうつかなくなってしまっている。
雲の上にいるような気分だった。
しかし幸い、足元の植物だけははっきりと見えた。
ぼくはそれを1本乱暴に切り取った。
言いようもなく苛立っていた。
あの女が俺を騙した!
そう思った。
そう思うと、すべてをぶち壊してやりたくなった。
でも、壊そうとしても壊れるようなものなんてどこにもなかった。
無理をすれば壊れてしまうのはきっとぼくのほうだ。
不意にどこからか、とてもすてきな香りが漂ってきた。
苛立ちの波が急速に引いていくような、そんなにおいだった。
今まで一度も嗅いだことのないにおいだ。
甘く、懐かしいにおいだ。
昔大好きだった女性の香水のにおいに似ていた。
でも、やっぱり今までに嗅いだことのないにおいだ。
どこからそのにおいが漂ってくるのか探ろうとしたけれど、もうほんの一歩先まで川霞だか川霧だかが押し寄せていて、とてもではないけれどそれがどこからやってくるのかを突き止めることは無理だと思った。
川霞の向こう——おそらく川の向こう岸のほうだ——で、何かがかすかに動いた。
視線はそこに集中しているのに、視野の片隅でかろうじてとらえた何かの動きのように感じた。
その動きを見ていると、なぜか、ようやく気づいた。
その甘く懐かしいにおいは、ぼくが今手に持っている紫色の不思議な植物から、かすかに、しかし確実に漂ってきているのだ。
そして、ぼくはすべてに合点がいった気がした。
ぼくは川を目指した。
川霞だと思っていたこの白い煙のような気体は、まるで川面から少し上にある目に見えない境界面を圧しているように、川面と融合することをかたくなに拒んでいるみたいだった。
濃い紫色の水は相変わらず重々しく流れていた。
川岸の植物をあと2本摘んで、ぼくは流れに身を浸した。
川の水が透明であることは確かだったが、残念ながらその底を見ることはできなかった。
怖い、という精神的な理由ではなく、物理的に「不可視」なのだ。
ここまでのドス黒い色を放つ理由は結局どうしてもわからなかった。
水が流れる重そうな音がわずかに耳に届いた。
ぼくは思い切って川に飛び込もうとした。
すると、足音も立てずに女がぼくのすぐ背後まで近付いていたらしく、待って、とぼくに声をかけた。
——目を、つむってください
——目を? そうすると、溺れずに渡れるんですか?
自分で声に出した「溺れる」ということばが耳に届いて自分が「怖い」と思っていたことに初めて気づいた。
それまでは不思議なくらい恐怖を感じていなかったのだ。
でも、一度気づいてしまったら今度は、恐怖が見えない川の底から川面へ、そして地面を伝ってぼくの足元から喉元まで一気にせり上がってきた。
——今、ここで目をつむってください。早く!
ぼくは思わずきゅっと目をつむった。
女の気勢に屈する形になった。
すると、ぼくの顔の前に女の気配を濃く感じた瞬間、ぼくの唇にやわらかいものが触れるのを感じた。
——さあ、目を開けてください。もう大丈夫ですから。
女がぼくにしたことの意味がさっぱりわからなかったが、おかげでぼくはもうどうしても川を渡らなければならなくなってしまったような気がした。
——恐怖は、自然に生まれるものではありません。自分の心が作り上げるものです。もう少し遅かったら、あなたは恐怖に食い殺されてしまうところでした。でも、もう大丈夫・・・
そう言って、女は川のほうを指さした。
どこにでもいそうな、ぼくと同年代の大して見栄えのする女ではなかったのに、伸ばした腕のしなやかさは、ぼくにとってとても貴重なもののように感じられた。
大丈夫な気がした。
ぼくは、そっと川に身を躍らせた——
——気がつくと、ぼくはまた元の河原にいた。
確かに川に入ったはずなのに・・・
ほんのわずかに、甘いにおいがどこかからか漂ってきたような気がした——いや、違う、ここは元の河原ではない。
川霞の向こうに、ぼんやりと女の姿が見えた。
女がぼくを見ているのか、それともまた別の何かを見ているのか、こちら側からは確認できなかったが、少なくともぼくが川を泳ぎ切ったことは間違いなかった。
ぼくの背後に細長い灰色の山があったし、女が川の向こうに立っているからだ。
でも不思議なことに、泳いでいる間の記憶はまったくない。
足元に、紫色の植物があった。
そこここに、ポツン、ポツンと奇妙な植物が生えている。
植物は花をつけていた。紫色の花だ。
しかし葉も紫だし、茎も紫だった。
他には玉石以外に何もなかった。
もちろん、女が何を求めているのかも、ぼくにはまったくわからなかった。
もしかしたら、女はぼくをからかったのだろうか?
川霞が濃くなり、向こうの景色はほとんど見えなくなってしまった。
向こうどころか、この勢いだとこちら側だって怪しくなる。
噴煙と川霞の区別がもうつかなくなってしまっている。
雲の上にいるような気分だった。
しかし幸い、足元の植物だけははっきりと見えた。
ぼくはそれを1本乱暴に切り取った。
言いようもなく苛立っていた。
あの女が俺を騙した!
そう思った。
そう思うと、すべてをぶち壊してやりたくなった。
でも、壊そうとしても壊れるようなものなんてどこにもなかった。
無理をすれば壊れてしまうのはきっとぼくのほうだ。
不意にどこからか、とてもすてきな香りが漂ってきた。
苛立ちの波が急速に引いていくような、そんなにおいだった。
今まで一度も嗅いだことのないにおいだ。
甘く、懐かしいにおいだ。
昔大好きだった女性の香水のにおいに似ていた。
でも、やっぱり今までに嗅いだことのないにおいだ。
どこからそのにおいが漂ってくるのか探ろうとしたけれど、もうほんの一歩先まで川霞だか川霧だかが押し寄せていて、とてもではないけれどそれがどこからやってくるのかを突き止めることは無理だと思った。
川霞の向こう——おそらく川の向こう岸のほうだ——で、何かがかすかに動いた。
視線はそこに集中しているのに、視野の片隅でかろうじてとらえた何かの動きのように感じた。
その動きを見ていると、なぜか、ようやく気づいた。
その甘く懐かしいにおいは、ぼくが今手に持っている紫色の不思議な植物から、かすかに、しかし確実に漂ってきているのだ。
そして、ぼくはすべてに合点がいった気がした。
ぼくは川を目指した。
川霞だと思っていたこの白い煙のような気体は、まるで川面から少し上にある目に見えない境界面を圧しているように、川面と融合することをかたくなに拒んでいるみたいだった。
濃い紫色の水は相変わらず重々しく流れていた。
川岸の植物をあと2本摘んで、ぼくは流れに身を浸した。
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